邪馬台国畿内説 Part416
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546950095/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>766
>「南→東」などの嘘つき騙しのような、嘘にウソを重ねる大和説が大嫌いだし軽蔑してる
ウソだウソだってzarakokuが言い張ってるだけで、なんの証拠も無いんだろ?
それに実際には嘘にウソを重ねてるのはzarakokuでしょ
いくら証拠を突き付けられても臨海郡が江蘇省とか平然とウソ言い張ってるし
まともな人はきっとそんなzarakokuが大嫌いだし軽蔑してる >>749
テンプレ読んだけど
>このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 <
学会の定説では無いし 畿内説内での通説としか言いようがない
また、今日か強化の過程は?
テンプレも所かまわずの貼り付けや引用だけじゃ支離滅裂となるよ キュウリの葉、葱の華・・・・?
河童の三平、げげげ・・・の作者も生まれていない頃の写真だと言っていたり、
それにしても、なぜ知っている人達がいるんだろう? >>786=>>1
24時間張り付いてるのもよいが
ネット情報だけでは乗り遅れる
だから、過去の畿内説の話しかできない
今は畿内説の学者さえ纒向から距離を置いてる現実を知らないの 畿内の3世紀ごろの互助組織の歴史はわかったよ 各地域歴史はあるから
>
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 『分福茶釜 天津』
河童の三平?同じようなコンセプトだしな・・・w
どういう事なんだろう 箸墓の被葬者は、わざわざ吉備で焼い特殊器台と特殊壺が大和まで運ばれ、後円部に並べられたことから、吉備の首長らしい。
https://mainichi.jp/articles/20180430/ddn/041/040/004000c
定型化した最古の大型前方後円墳で卑弥呼の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、3世紀中ごろ〜後半)の後円部から出土した葬送儀礼用の土器「特殊器台」と「特殊壺(つぼ)」が、
岡山・吉備地方から完成品として持ち込まれた可能性が高いことが、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)の研究者の分析で分かった。土器表面の土と岡山県総社市周辺の土の特徴が酷似するという。
葬送儀礼に特殊器台・壺を用いる吉備地方の大きな勢力が、箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことを示している。
ということは、もし卑弥呼の冢なら、卑弥呼は吉備の女王だったのか?
もし、台与の死後、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷・天皇家によって、卑弥呼の冢の真上に築かれた>>364なら、天皇家の出自は吉備王だったことになる。 >>91
>九州説は比定地が皆違う<
九州説は、個人の自由で史料事実からの帰納的推論をしているから、「大同小異」。
大和説は、「南→東」な度の嘘つき騙しの大和説学者に
支配され隷従しているだけだから、全員×。 後ね
畿内説はどちらを採用してるのかな?
「當在會稽東治之東」
倭人伝・・・「治」
後漢書・・・「冶」
他説攻撃のため使い分けていないですか?
九州説は倭人伝に基き「治」で統一されてます 天津神・国津神?
どういう事なんだろう、誰にもわからない? >>793
>天皇家の出自は吉備王だったことになる。
天皇家の出自は、践祚大嘗祭で最重要の麁布を調進する、倭国(阿波)なんだよ。 @阿波 >>94
>可耕地に乏しい九州は小国家が分立して当時から争いの絶えない修羅の国だったそうだから
奈良の大国である邪馬台国の傘下に入って調停してもらったのだろうな <
邪馬台国なんて存在しないし、
大和は、九州倭国の別種分家の旧小国であったんだから、×。 >>794
>吉備の土器は出雲の西谷にも運ばれたからな
そりゃ、「忌部はん」 同志なんだから。 @阿波 >>790
あんたが有名な嘘つきオクムラでしょ
それで、どのように最近「通説が強化された」の >>787
読んだんなら
どこが支離滅裂なんだか
具体的に言ってもらおうか >>801
〇オクヤマ
✖オクムラ
橿考の奥山誠義に気を使ってるようだが別人 >>796
後漢書のほう
現在見れる魏志倭人伝は12世紀の復刻で誤字が多い >>776
都市部だけで水田の17倍の面積があったんだよ
吉野ケ里遺跡の17分の1の水田で何人養えるんだw
自分のバガさに気付かないの? >>803
オクムラでなくオクヤマ=キナイコシ=>>1=スレ主
昔ね
スレ主氏が
#okuyamaのトリ解析されてしまい 冷や汗かいたのだよ
名無しでも特定可能なのにネ >>756
じゃあ吉野ヶ里の住民は何を食べていたんだよ。
バカだろ。
今も昔もまわりは田んぼだよ。 >>793
逆に考えると。天皇家が吉備の王じゃなかったら、
なぜ、飛鳥時代まで古墳時代300年間もの長きに渡り、箸墓を嚆矢とする前方後円墳で各地の王を従え、序列化していった理由が判らんだろ。
天皇家の出自は箸墓に葬られた吉備王でないと、他人の褌で相撲を取ってるようなもんで、論理的におかしい。
では各地の教育委員会がめぼしい場所は皆掘り尽しているのに未だに見つからない卑弥呼の冢がどこにあるのか?
現在立ち入れない場所、そして立ち入ったとしても、その存在を現在の構築物を破壊しない限り確認できない場所、つまり箸墓の真下にタイムカプセルのように埋まっているとしか考えられない。
まさに映画「ナショナルト・レジャー」の世界w 畿内説では曖昧ではないのかな
●女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る
皆、倭種といえども女王に属さず 117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ
短里があったことは確実だ >>795
>九州説は、個人の自由で史料事実からの帰納的推論をしているから、「大同小異」。
機能的に推論して、一意解が得られないなら、それは帰納的推論ではないww
個人の自由で比定地が決まらないならそれはデタラメってことだよ
九州説の実態はそんなもんだww >>783
>どこの歴史でも、外部勢力を倒したという征服譚は、誇るべきものであって
外部勢力ではなく、倭国内の政権交替であったから、裏切りと陰謀の経過をそのまま書くわけにはいかなかった。 サルタとか、天津・国津の話があるでしょ、
後の〜と言ってる人がいたり・・・、明治頃に〜とか >>806
吉野ヶ里では水田跡は発掘されていない
これが事実だよww >>793
>箸墓の被葬者は、わざわざ吉備で焼い特殊器台と特殊壺が大和まで運ばれ、後円部に並べられたことから、吉備の首長らしい。
吉備高島宮から大和に入った人物がいたような気がするんですけどねえ。 >>816
あのーー
東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ
さらに、一寸千里の法で測った帯方郡からの距離は17500里になり、12000里を遙かに超えて、意味をなさないことから、「会稽東冶」ではない
会稽東治を浙江省紹興市とすると、帯方郡はそこから12000里北になり、黄海北道周辺が正しいことを示しているソウルや広州はあてはまらない 謎の神話があるでしょ、
左目から生まれたという話になっていたり >>815
>短里があったことは確実だ
統計学のとの字も分からないやつが何を言ってもムダ
「117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ 」
これは認めるんだな?ww
95%信頼区間の中のどこに真の値があるか、という点に統計は何も示さない
当然、一里=435メートルもその信頼区間の中である以上、真の値である可能性は否定できない
ただまあ、-225メートルから459メートルという信頼区間から何かが言えると思う方がどうかしてる
というのが統計が分かっている人の通常の解釈だ >>823
>一寸千里の法で測った
地球表面の実際の鉛直方向は傾斜しているから
棒の影で測ったら正確な距離は出ない >>104
「南→東」などの嘘つき騙しを敢えてする大和説者らは、
万世一系皇国史観で人種差別的殺し合い戦争という妄想を連呼する宗教でもある。 >>817
後漢書にはなになに本とか複数の書写バージョンがあって
お互い書いてる事の比較が出来るから誤字などはわかりやすい
例えば後漢書で邪馬台国は邪摩惟国、ヤマユイ国の事であると
書かれた版が一番有名だけど
版によってはそれが邪摩推国や邪摩堆国となっているものがある
北史や隋書では邪馬台国を邪摩堆と呼んでいるので
後漢書にあるヤマユイ国は実は元々は邪摩堆国、
ヤマト国だったのではないかと考える事ができる 『羽衣伝説』?
ほとんど同じでしょ?
浦島、小手子・・・というのも >>793
>箸墓の被葬者は、わざわざ吉備で焼い特殊器台と特殊壺が大和まで運ばれ、後円部に並べられたことから、吉備の首長らしい。
筑紫から吉備高島宮を経て大和に入った人物がいたような気がするんですけどねえ。男性でしたけど。 >>819
>裏切りと陰謀の経過をそのまま書くわけにはいかなかった。
ヤマトタケルのイズモタケル征伐は、もう目も当てられないようなだまし討ちだけれど
誇らしげに書いてあるぞ
ヤマトタケルが兄のオオウスノミコトを殺した場面も凄惨だし、皇統の一族のやってることが
美化されている訳でもない
オオハツセワカタケルノミコも一族内の皇太子イチノベオシハノミコを
裏切りのだまし討ちで殺してるけどそれもそのまま書いてある
>>819はご都合主義の思いつきに過ぎないし、記紀の記述から具体的に否定されるww 佐賀平野東部では、吉野ヶ里遺跡(神埼市・吉野ヶ里町)などの拠点的集落があり、また海に近い低地には本分遺跡(みやき町)、高志神社遺跡(神埼市)など貝塚をもつ集落が分布する。
本行遺跡(鳥栖市)、姉遺跡(神埼市)などでは、青銅器生産が行われた。三津永田遺跡(吉野ヶ里町)、二塚山遺跡(吉野ヶ里町・上峰町)、目達原丘陵の遺跡群(吉野ヶ里町)などでは、青銅器などを副葬した墓地が確認されている。
佐賀平野中央部では、惣座遺跡(佐賀市)、土生遺跡(小城市)などの大きな集落が所在するが、その全体像はまだよくわかっていない。
佐賀平野西部では、椛島山遺跡(武雄市)や釈迦寺遺跡(武雄市)で見つかった甕棺墓・石棺墓などから、青銅器などの副葬品が見つかっている。 >>832
神武天皇の墓なら、そう書くよね。なんで7代孝霊の娘の墓ってことにしたの?>箸墓 >>823
>東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、
おいおい、東冶県は臨海郡に属してたんだぞww
適当なことを書いてはいけない
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map1.jpg >>111
>ある山の両側が一つの国っていう例はないだろ?
山は人の行き来をさえぎる自然国境になる
ご都合主義もここに極まれりだな <
奴國のように、2万戸もあれば、数万の人口であり、
低い丘陵のような峠の両側に広がっている場合は、幾らでも有り得る。 >>828
賛成
「當在會稽東治之東」は東の方でいいと思うよ
現在地図の畿内も九州も阿波も出雲も「當在會稽東治之東」 >>117
「南→東」などのような嘘つき騙しばかりして、
人種差別的ヘイトスピーチばかりして殺し合い戦争を鼓舞扇動するキョクウ人種は、
怒ってばかりして脳が狂ってしまうそうだから、
大和説の人は気を付けろよ。 >>816
あのーー
東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ
さらに、一寸千里の法で測った帯方郡からの距離は17500里になり、12000里を遙かに超えて、意味をなさないことから、「会稽東冶」ではない
会稽東治を浙江省紹興市とすると、帯方郡はそこから12000里北になり、黄海北道周辺が正しいことを示しているソウルや広州はあてはまらない >>819
>人種差別的ヘイトスピーチばかりして
その前に、ザラコクは辺り構わず名誉毀損の書き込みばかりしてるくせにww 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>823
>東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ
関係ない
ふつう卑弥呼のいた当時の地名を使うから >>841
いつものことだが
何も論じないね
都合が悪いと思われるよ 畿内説の諸君 陳寿はこうも記述しています
「問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」
さて
「當在會稽東治之東」は九州説の反論になるのでしょうか >>119
どっか脳に異常がないと大和説やるの無理でしょ >>120
>九州説は露骨なウソついてナンボだから<
「南→東」などの嘘つき騙しの脳の病人の大和説者は、
露骨なウソのヘイトスピーチしてナンボだから。
>曰く「会稽東治は江蘇省だぁー」<
言わない。
「会稽東治は揚州に属す」と言った。
>脳、死んでるよね<
「類スレ主」や大和説者の脳は、腐っているね。 >95%信頼区間の中のどこに真の値があるか、という点に統計は何も示さない <
あーこれダウトな >>121
万世一系皇国史観儒教の大和説者らは、
麻原や暴力団の親分のように、
国民の脳を壊して殺し合い侵略戦争に強制するらしい。 ●『參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』記事が案内するのは、倭国の大きさである。
それが『可五千餘里』であることの意義は大きい。それも『周旋』出来ると言うのであるから、独立した島であることは疑いない。
●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。
●当然、『周旋可五千餘里』の起点が問題となる。これについても、陳寿は明確にしている。狗邪韓國から對馬國、一大國、末盧國へと移動する際には、
全て『渡海』の文字が見える。しかし、末盧國以降、『渡海』の文字は一切無い。つまり、末盧國以降の倭国は、全て陸続きであることが判る。
結果、『周旋可五千餘里』の起点は誰が考えても末盧國となる。
●それなら、『參問倭地、周旋可五千餘里』の範囲は、どう考えても、九州島とするしかない。陳寿は九州島を、『參問倭地、周旋可五千餘里』と規定していることが判る。
●『周旋』の字義も、ここで明らかにしておきたい。糸に錘を付けて、クルクルと回す。あるいは、手に物を持って、クルクルと振る。
その状態が『周旋』の意味するところである。空中とか、草原とか、海中とか、障害物の無いところでしか出来ない。三世紀の倭国なら、それは海中しか考えられない。
『周旋可五千餘里』が規定するのは、どう考えても九州島以外ではあり得ないことが判る。
それも、実情に合った、ピッタリの表現であることに感心する。 魏志韓伝を読みなさいと忠告したでしょう
陳寿は韓にも行っていません
ここがキー
●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。 >>842
>東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ
>>836でも書いたが、東冶県は会稽郡から分郡された「臨海郡」!
http://zae06141.client.jp/fukusyuu.html
現在の福建省の省都、福州市に東冶県の治所、東冶都城があったとされている >>857
>それも『周旋』出来ると言うのであるから、独立した島であることは疑いない。
前提がすでにおかしい
周旋は、一周したり、元の場所に戻ったりしない
周旋はいろいろ寄りながら進むこと
単に、朝鮮半島の循海岸水行の七千里を萬二千里から引いて五千里というだけ それにしても何の話なんだろう
九州の話はしていないと言ってる人がいるけど、
サルタというスレ、読んでみた? 九州の話はしていない
と言ってる人がいるでしょ?
ホンモノの家の話をしているのかな?
現在・・・どこそこに住んでいるみたいな話 邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、 >>860
>周旋は、一周したり、
「一周」!
旋も回ること。
「周って旋って」と書いてあるのに回らないとは、これ如何にしたことか? 本当に家の話ばかりしているでしょ、
ちなみに家は川崎区の南部のほう 河童の三平、げげげ?
家に、あの写真などもあると言っているのに、
あと、むかーし住んでいたというところの紙のようなものとか
現在、小手子の像?というのものが建てられているんだけど、
あの周辺に住んでいたとか 老婆の言う広瀬座というものも保存されているでしょ、
ほとんど本当の話なのかな?
家は『松傾』
このような名前の家、上の名前の読み方が何やら〜とも言っていたり、
何なんだろう >>125
>魏志倭人伝の記載と実際の比定地から、統計学的に言える一里の長さ
海上距離は測定できないので、利用できる試料は九州上陸後の陸行部分のみ<
この時点で、インチキ。
半島や海峡部での、大距離で誤差の小さい部分を外して、国民を騙そう、としている。
>不彌国の比定地はいまだに定説がないので、<
これも、大和説の長里説では「定説がない」だけであり、九州説の場所「伊都国の東の百里位の位置に外縁部がある」という史料実態を無視している。
>結局使えるのは
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里<
唐津と言っても唐津港から松浦側付近まで広いし、
伊都国も、「皆臨津搜露」出来る場所、という条件を考慮した形跡がない。
>伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=50m/1里 のみ<
これは酷い。計算間違いをしているし、
福岡市中心部では、始めから伊都国から東南百里に全く合わない。
要するに「類スレ主」は、計算する前に、出発点や到着点を、史料事実や史料実態には合わない比定をするインチキをやっている。 >>852
>>曰く「会稽東治は江蘇省だぁー」
>言わない。
>「会稽東治は揚州に属す」と言った。
先生、ザラコクくんがまたウソついてます >>126
「南→東」の嘘つき騙しにどっぷりと浸かった浸かった大和説は、
訂正なんかできやせんよ。
学問じゃなくて、万世一系皇国史観のカルト宗教の信者しかいないからね。 >>132
まあ、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者で、
インチキ専門ではない人を見たことはないんだが。 >>865
「周って旋って」と書いてあるのに回らないとは、これ如何にしたことか?
魏の大将軍曹真のお父さんの話
「初平中太祖興義兵、邵募徒衆、従太祖周旋。」
曹操は何の周りをぐ〜るぐ〜る回ってたの?
ww >>852
>>曰く「会稽東治は江蘇省だぁー」
>言わない。
>「会稽東治は揚州に属す」と言った。
嘘つき
>134日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:42
>会稽東治は、
>257年に会稽郡から分郡された臨海郡を指すから、揚子江周辺から江蘇省の海岸付近であり、
>その「之東」は九州島付近を指す。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/134
ザラ・・・モロ言ってます >>156
「南→東」などの嘘つき荒らしで狂っているのはいるのは大和説。
分かりやすいね。 >>157
今日も、大和説者の「類スレ主」の、
行程の里記載区間の選択や比定のインチキを示せたし、
「一里の長さの推定値(信頼区間)の計算のインチキデタラメも明確になったな。
またひとつ、物事がはっきりした。 >>160
短里がなくなるだけで、九州説は根拠がなくなるからなww >>878の訂正(また途中で投稿ボタンを押した事になっていた)
>>160
短里がなくなるだけで、九州説は根拠がなくなるからなww<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
魏志の記載での「長里」が無くなるだけでも、根拠がなくなるからな。 >>857
>その状態が『周旋』の意味するところである。空中とか、草原とか、海中とか、障害物の無いところでしか出来ない。三世紀の倭国なら、それは海中しか考えられない。
若き日の崔琰先生、黄巾の乱で出先の青州北海から帰れなくなる
「西道不通。于是周旋青・徐・予之郊、東下寿春、南望江・湖。自去家四年乃帰」
空中でも海中でもない
ぐるぐる回ってない >>880
>畿内説は短里でも長里でも成立しないのですが
どうして?
理由は何もないの?
じゃあ君の主張は論として成り立たないね >>161
>沖縄あたりに邪馬台国があるというのは、古代中国人の強固な固定観念。<
いや、後代の後漢書の范曄の「自己解釈に拠る魏志の書き換え」が犯人。
>実際の邪馬台国の位置を割り出すのにこ“理想郷=邪馬台国”へ行く行程はほとんど意味がない。<
邪馬台国なんて存在もしない「結論先にありき」のインチキ造語。
>ただ、唯一重要なのは、唐津→伊都→奴→不彌の国名。
これは、実際にの邪馬台国への道筋であるが、<
いや、奴國は伊都国からの側副傍線國の説明であり、道筋から外れる。
>方角は地図をみれば分かるように、唐津から北東方向へ行くもの。
南東へ行く倭人伝の行程ではない。 <
「東南」は「 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」の東南であり、
行程記載は、その方向への「折れ線的道のり移動」のルートであるだけ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています