●『參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』記事が案内するのは、倭国の大きさである。
それが『可五千餘里』であることの意義は大きい。それも『周旋』出来ると言うのであるから、独立した島であることは疑いない。
●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。
●当然、『周旋可五千餘里』の起点が問題となる。これについても、陳寿は明確にしている。狗邪韓國から對馬國、一大國、末盧國へと移動する際には、
全て『渡海』の文字が見える。しかし、末盧國以降、『渡海』の文字は一切無い。つまり、末盧國以降の倭国は、全て陸続きであることが判る。
結果、『周旋可五千餘里』の起点は誰が考えても末盧國となる。
●それなら、『參問倭地、周旋可五千餘里』の範囲は、どう考えても、九州島とするしかない。陳寿は九州島を、『參問倭地、周旋可五千餘里』と規定していることが判る。
●『周旋』の字義も、ここで明らかにしておきたい。糸に錘を付けて、クルクルと回す。あるいは、手に物を持って、クルクルと振る。
その状態が『周旋』の意味するところである。空中とか、草原とか、海中とか、障害物の無いところでしか出来ない。三世紀の倭国なら、それは海中しか考えられない。
『周旋可五千餘里』が規定するのは、どう考えても九州島以外ではあり得ないことが判る。
それも、実情に合った、ピッタリの表現であることに感心する。