邪馬台国畿内説 Part421
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論破されたのでテンプレートは撤去しました。。。
トリップは解読されたので変更しました、、、 破綻してしまった、邪馬台国畿内説の、公式ホームページが、順調にスタートしましたね、、、 脳が破綻してしまった連続句点の偽スレが、愚劣にスタートしましたね、、、 韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、論破されたので、オウム返しを実行したのではないのかな、、、
5 名前:日本@名無史さん 2019/01/28(月) 20:25:58.27
脳が破綻してしまった連続句点の偽スレが、愚劣にスタートしましたね、、、 キナイコシは日本人か?
こんな嫌がらせばかりして。 韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、論破されたので、この邪馬台国畿内説の公式ホームページのスレッドを荒らしているな。。。 また転写保存
>>226
>渡海して到る北部九州に女王國があると考えるからおかしな解釈になる
會稽東冶と同じ風習があるのは女王國で、
北部九州には名が書かれていない別の王が居て、女王國に従属している<
会稽東冶ではなく、会稽東治之東だから、×。
>北部九州の先(東)からが女王國 東の狗奴國も同じ倭種だから女王國と風習は同じ
黥面土器が多く出るのは瀬戸内から東海にかけて<
「南≠東」だから、×。 邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまった。。。 次有奴国、此女王境界所盡。
次無スレ、此畿内説命脈所盡。 >>227
>前提が違う 陳寿は、「東冶」(現・福州市)の東と推定していた<
陳寿は、「会稽東治之東」と推定していたのだから、この男は×。
>前段に会稽郡の話は一切ない以上、郡名を足すのは当然だ
だから「會稽東冶之東」でいいのさ<
陳寿の「会稽」は「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」の事を言っており、
「郡」名でも「東冶」でのないのだから、この男は×人間。
>>「東治」の地域は、会稽郡内ではない、といういう事だ<
>会稽郡内ではない、ならもっと南でも構わないってこと
長江河口にする限定する理由は何もない <
いや、ダメだ。「会稽東治」は、会稽の東方であって、南方ではない。
だから、この男は×人間だ。 >>229
>景初二年六月は、このような時間経過の中にある。
まず、尋常ではない。<
別に、戦中遣使であったとしても、
難升米らが「詣郡、求詣天子朝獻」し、太守劉夏が「遣吏將送詣京都」をした、
という事が史料事実であり、
公孫氏の妨害など問題なかった、という事
>他の史料では、景初三年六月とするものがあるそうなので、
やはり卑弥呼の使節が帯方郡に行ったのは、景初三年だろう。<
この大和説男も、未だに、後代史家や学者の、
「前史の同時代的な記載」に対して「自己解釈に拠る高慢な書き換え」をした、
という事になる案件は、史料事実にはならない、
という事が判らないらしいから、おそらく、
思想宗教にクルって「結論先にありき」になってしまった・・・・。 >>230
>その設定は、日本書紀の神功紀そのもの。
沖縄あたりにある邪馬台国から卑弥呼の使節が唐津を経て魏へ朝貢し、それを神功皇后が奈良で見ていた。
日本書紀神功皇后紀そのものだ。
それでいいのら。 大和は、邪馬台国とは別の国。 <
邪馬台国なんて存在しないし、沖縄なんても関係がないから、
「それでよくない」のであり、×。 神功皇后は新羅に人質として取られ、あちらで朝鮮人にやられて、朝鮮人の子を宿して帰ってきたのよ。
神功皇后の子が応神天皇になった。 武内宿禰自体がとても怪しい存在。
朝鮮半島から神功皇后に付いてやってきた。 元からいたし、系図もある。
神功皇后は鉄を求めて半島に侵攻した。
銅は既に香春岳を奪取して手に入れていた。 なんでも怪しいと黒歴史にしたら、後には何も残らない。 実際には無関係の仲哀と応神を無理やり血縁にするために作った
架空の存在なんじゃない? 記紀が十月十日について一生懸命に釈明しているから、奈良時代からすでに親子関係には疑惑があったのだろうが、一応年代的には連続するのだろう。
どこからか適当に系譜をつなげたわけではなさそう。 春秋年(二倍年暦)を考えれば、夫の死後足かけ三年で子供が生まれるのが生物学的には正しい
十月十日と俗に言うが、実際の人の妊娠期間は285日程度
春秋年の1年、183日よりも長いので、夫の死んだ年(1年目)、183日(2年目)、
3年目で誕生で、どこもおかしくない 記紀は応神だけは年月日まで紹介していて、倍年歴ではないし、十月十日ではない理由として、石を抱いて出世を遅らせたという故事まで紹介している。
福岡県にはその石が伝わっている。 >>42
>記紀は応神だけは年月日まで紹介していて、倍年歴ではないし、
倍年暦は日本の歴史を古く見せるために必要だから、
それを一生懸命に「ないこと」にしてるんだよ
石をくくりつけたくらいで出産時期を遅らせる訳がないだろう? その通り!
石を載せたから出産が遅れるなんてことはない。
だからさ、応神天皇は仲哀天皇の子ではなく、伝承の通りに住吉の神=武内宿禰の子なんだよ。
そうすると、仲哀天皇を暗殺したのは神功皇后と武内宿禰だろうと想像がつく(仲哀天皇の崩御の瞬間にその部屋にいたのは神功皇后と武内宿禰だけ)。
神功皇后が架空の人物?
架空に人物のスキャンダルをもみ消そうと記紀の編者らが躍起になるわけがない。 武内宿禰はむしろ、神功皇后の父親だろう
それなら神功皇后や応神天皇に尽くすのも理解できる
倍年暦ならヒトの妊娠期間285日で仲哀の死後3年目の出産でおかしくない この頃はもう倍年暦は使われていない。
記紀は年月日で示していたはず。
そして住吉神社の社伝では、両者の間に大人の関係があったと示唆している。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>46
倍年歴の根拠の一つに継体の年齢が挙げられてるんですが 本当に『松傾』の話ばかりじゃない?
真似というわけではないんだけど 『永遠の果てに』・・・〜・・・『サイバーパンクSPECIAL』
ロトちゃんというキャラが出てくる作品みたいだしな・・・ 怪しい城・・・・・・・・・・・
龍(竜)宮城へ行ってみれば〜の話? 畿内説は終わった
歴史をなめてた
データ詐欺をしすぎた 日本の漫画、アニメ・・・ゲーム?
ほとんど老婆の話と同じでしょ、どういう事なんだろう
よくわからない・・・・、
馬に乗っていて、何かの刀を持っていたと言う話とかw 『姥清水』
いまの福島県の・・・でしょ?
山の上のほうに城があってw 当時、住んでいたという家に
凄い刀(よくわからないけどw凄い刀だと言っていた)が飾ってあったんだけど
盗まれたのかな〜、畳の下や床下の土まで掘り起こされていて、
刀が無くなっていたんだよ
・・・老婆談『松傾』?
こういう名前の家の話 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこ降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな? 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった その通り、このところすっかり九州説が定着してきたようだ、、、 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
http://inoues.net/yamahonpen2.html 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています