父・藤原種継は第50代桓武天皇の片腕として活躍していた人物で長岡京遷都の責任者任されるほどの人物でした。
しかし、長岡京遷都に反対派のものによって殺害されてしまいます。
父亡きあと、薬子は同じく藤原氏であった中納言藤原縄主と結婚し、三男二女の子どもを授かります。

798年頃、薬子の子どものうちの、まだ幼い長女が桓武天皇の皇太子安殿親王(後の平城天皇)の妃となりました。
この時、皇太子安殿親王は10代であったと推定されています。
薬子の娘が安殿親王(後の平城天皇)の妃となったため、母である薬子は女官として宮中へ招かれます。

しかし、宮中に行くと、薬子は娘を差し置いて皇太子安殿親王と男女関係となってしまいます。
この時、薬子は40代と推定され、30歳ほど離れた皇太子安殿親王と関係を持ってしまいました。
30歳も年下の男性から気に入られた薬子でしたので、その容姿は年齢の割に美人で現代でいう美魔女であったのでしょう。

薬子と皇太子安殿親王が深い関係となったことを知った皇太子安殿親王の父・桓武天皇は当然激怒し、薬子を宮中から追い出します。

2人関係は終りかと思いきや、延暦25年(806年)桓武天皇が崩御し、皇太子安殿親王が即位となりました。
即位し、平城天皇となると、真っ先に薬子を宮中へと呼び戻しました。

こうして薬子は再び宮中へと戻り天皇のお世話係である尚侍となり、平城天皇との関係性は復活となりました。
薬子の夫は、太宰府に流されました。
常に平城天皇のそばにいた薬子は、政治への介入も行います。
兄の藤原仲成も政治に口出しするようになりました。