食物と酒、嗜好品の歴史@日本史板 4皿目
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出汁巻き卵メモ
卵焼き器の形
関東は正方形
関西は長方形
巻く場所
大阪は手前で巻く
京都は先の方で巻く
その他
吉野葛(無ければ片栗粉)を混ぜるとふっくらと出来る 築地の卵焼き屋が怪しげな異人を雇い入れてお上の詮議を受けてたな >>4
水さへあれば面積あたりの収量も労力あたりの収量も稲が最大で、人口の8割の農民がせっせと作ってたのに、なして主食が米穀でないとかありえるんかな?
水の得にくい傾斜地ならともかく、人口の多い河川沿いの平地で米穀が常食できないとか無いでしょうに。 農家ではなかったが、昭和30年代の前半はまだ麦交じりの飯を食ってたな
30年代の半ばに急に家の飯が白米100%の真っ白なものに変わったのを覚えている
ようやく米が行き渡ったか
昭和45年からは米余りで減反政策が始まったが >>11
明治になって総人口が増えたが、農民は二極化し、大地主(寄生地主)が生まれる一方で、没落して農地を失い、都市の貧困労働者や工場労働者になったりしていた
そこで米が自給できずに、中国や韓国から米を輸入して補っていた 南京米という名前は有名だ
中国韓国の米は安価なので、日本では貧困層が購入していた
しかし第二次世界大戦で中国韓国からの輸米
入はほぼなくなる
戦争で農民の青年が出征して戦死したことや空爆被害も重なって、戦後の日本は米不足になったが、品種改良や農組合の整備、国の農業補助で米の国内自給率は100%になった 粟が主食の韓国からどうやって米をもってこれてたの? >明治になって総人口が増えたが、農民は二極化し、大地主(寄生地主)が生まれる一方で、没落して農地を失い、都市の貧困労働者や工場労働者になったりしていた
地租改正と大正時代の都市労働者の話がごっちゃになっててカオス
>そこで米が自給できずに、中国や韓国から米を輸入して補っていた 南京米という名前は有名だ中国韓国の米は安価なので、日本では貧困層が購入していた
南京米をイメージだけで言ってないか?
>しかし第二次世界大戦で中国韓国からの輸米入はほぼなくなる
日本に影響があったのは東南アジア産な
>戦争で農民の青年が出征して戦死したことや空爆被害も重なって、戦後の日本は米不足になったが
自己撞着 世界史板の方が一向に見当たらんのだが…
もう過疎って立てられてないのだろうか? 「フグを最初に食べた人は勇気がある」
とよく言われるが、おれは違うと思う。
「初めてフグを食べて死んだ人を見ていながら2番目に食べる人は勇気がある」
であるべき。 >>15-17
世界史板の食物スレはなんの恨みなのか荒らされまくってるな
>>24
昔から言われちょるがな 今の品種改良された米食べてるワシらが
昔の米食ったらやっぱりマズいと思うのかな
どんな味だったんだろうね NHKでやってたが、後醍醐天皇は蛙の肉を手羽先のように焼いて食べていたらしい 平安の頃、河川敷に住む芸人たちを河衆=かわず=蛙と呼んでたのも、
貴族が戯れに安倍晴明に庭のカエルと殺せと言われた時に一旦、断ったのも、
本の中では語られないけど、それが本当は人間だったと考えると重たい話だ >>30
グレコローマン時代、地中海沿岸から大西洋の北の果てくれやインドくんだりまでオリーブ油を輸出してただろ。 >>30
醤油はフランス人にすら原材料わからんかったらしい。
そりゃあれが豆から出来てるとは美食の国も思うまい 魚醤と思ってただけじゃね、あっちは穀醤が存在しないし >>36
フランス人によると醤油は
「数種類のキノコと香辛料から作るソース、もしくはジュース」だったらしい。 フランスでの醤油は
「肉料理、特にヤマウズラとハムにあう」
「ソースに混ぜることで香り高く美味しくなる」
「中国も醤油を作るが、日本の方が良い。つまり日本の肉料理の方が美味いといえる」
ルイ14世も醤油を使った料理を食べたらしいが… 醤油はオランダが独占していて、と、いうことは高価だったんじゃないか。
オランダ人は醤油が大豆から出来てることは知っていたらしい。
輸送に耐えるために、醤油は相当塩が効いていたらしく、そこが逆によかったのかもしれない。 英人、大豆をsoybean、醤油をsoy sauceとぞいふなる
九州人が醤油をソ(ウ)ユと言ふを聞いたるか
はたまだ鹿児島人のショイと言ふを聞いたるか
蘭土を経由して英土へと伝はる 中東からの輸入野菜
オマーン産のサヤインゲン 日本向けに生産(冬季に市場シェア30-40%) なぜ日本では果実酒が生まれなかったんですか?
ミカンや梨や琵琶は酒作れそうなんだが。 日本酒や焼酎で果物を氷砂糖と漬けるのはあったよ
氷砂糖が貴重品だったので一般化するのは明治以降だけど 柿はアルコール発酵したと思ったら、すぐに出来たアルコールを元に酢酸発酵してしまう。
だから柿酢は古来から有ったが柿酒は無い。 日本の一般飲食店
2004年
喫茶店 8.4万
一般食堂 7.5万
中華料理 6.1万
日本料理 4.2万
すし 3.5万
そばうどん 3.5万
3合計11.2万
西洋料理 2.9万
焼き肉(東洋料理) 2.1万
お好み焼き 2万
その他食堂・レストラン(韓国料理店など) 0.7万
その他 0.7万
ハンバーガー 0.5万
お好み焼きがこんなに多いとは 関西方面だろ
首都圏にはお好み焼き屋ってメチャ少ないぞ 広島へ行って
お好み焼き屋に入って店の人に
「広島風お好み焼きください」
って言ってみたいなぁ 江戸時代の人が俺の朝食を見たら、質素な食事だと思うんだろうな。
ライ麦パン、コーヒー、チーズ
五穀にも入らない雑穀の粉を焼いた物、南蛮の豆茶に牛の乳を入れた物、醍醐。 「おお噂に聞いた醍醐を食しておられる、都の殿上人?、ひょっとしたら天子様かも」 鰹節、特に本枯節が出来たのはこの時代らしいが、
カビてるやつを食ってみたら美味かったってのはそれなりにチャレンジングな話だよなぁ。
やっぱり何処の人間も、取り敢えず口に入れてみるらしい 誰かを騙して喰わせたんだろ、で美味かったと聞いて自分も もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす
そんなら食ってみてください >>37
おフランスさん、いい線いってんじゃん。
コウジカビ2種類に、耐塩性酵母と乳酸菌が各数種類。
少なくとも真菌3種類が醗酵に参与しているんだから、「数種類のキノコ」は割と当たってる。 >>45
ばあちゃん毎年梅酒作ってたけれど、あれは南蛮渡来の手法だったのか? >>51
東京都・食べログ掲載分だけで、1360店もあるんだけれど、少ないの?
ラーメン6430店、寿司5005店、そぱ4120店に較べるとそりゃ、少ないけれど
天ぷら1299店やピザ屋1369店と遜色ない店舗数のような。 >>51
>関西方面だろ
広島県が人口当たりトップ
>首都圏にはお好み焼き屋ってメチャ少ないぞ
「メチャ少ない」と言うよりも「多くはない」という感じ
都道府県別お好み焼・焼きそば・たこ焼店店舗数 - とどラン
https://todo-ran.com/t/kiji/13448
https://tdfk.odomon.net/tdfkimages/00/00/01/34/13448.gif 976 :おさかなくわえた名無しさん :2020/07/19(日) 05:31:03.24 ID:Sv641BLW
知り合いが金無さすぎて白米ばっかり食ってたら脚気になった。
病院行ったら、文献でしか見たことないと驚かれたそうな。 977 :おさかなくわえた名無しさん :2020/07/19(日) 05:52:35.01 ID:vRuXZIgY
>>976
かっけえ 白米を主食にできる中途半端だから脚気になるパスタ主食で米を買うのが夢くらいの貧乏なら >>66
貧乏人は麦を食え
ってことかな?
自律神経失調症で脚気と誤診されたことあるよ 新米の時期だけ銀シャリで
普段は麦3割位で炊いて食ってるけど
炊きあがりが太極図みたいになる 生めんで「そば」そば粉3割以上
乾めんで、そば粉の割合を決めると伝統的な「そば」の名称が文化的に切断されてしまうので
規定できない
JAS改定により
2割以下、1割以下の場合、「二割以下」、「一割以下」と付記する義務が生じたが
「そば」の名乗りを否定はされない
メープルシロップー>メープルタイプ
原料にメープルがないため NHKの土曜時代劇
浪人者が蕎麦屋台「引き」ながら、子どもを育てている
この時代、屋台は天秤のように「担ぐ」もので、引くものじゃないよ
屋台に車輪がついたのは、明治以降 >>56
鰹節出汁「おでん」は「関東煮」屋が関東大震災後に関東以外に
避難しその地で店を開いたから昭和以降に日本各地に広まったと
いうのは真説なのかな?
大正時代以前には蒲鉾・竹輪・薩摩揚げ等の練りもの類は
どんな料理法で食べていたんだろ?
大根の煮物も日本各地に以前からあったのでは? 揚げ物や大根自体を煮たものは昔からあっただろうが、いろんな揚げ物・練り物、大根、豆腐、蒟蒻などををいっぺんに煮込んだのこそが、がおでん、関東煮の発明てなもんだろう
屋台などで串刺しの単品を買ってその場で食べるスタイル
家庭料理となったのは高度成長期以降だという
明治に東京で生まれた煮込みおでんは大正時代に関西に伝わって関東煮と呼ばれるようになったが、大正十二年の関東大震災の折には被災者への炊き出しとして関西の料理人がお礼のように関東煮を振る舞ったとのこと 昭和の漫画家赤塚不二夫の描くキャラクター、チビ太はよくおでんをひと串持った姿で路上に登場した
屋台か街のおでん屋で買ったものを立ち食いする姿だ
こういう売り方、買い方、食べ方全体がおでんのアイデンディティーだろう >>79 >>80
「おでん」が関西に伝わったのは関東大震災以後でなく大正時代か?
でも現代のようにマスメディアもなく人の流動も少なかったろう
大正時代にどのように関西各地に広まったのだろ?戦前の大阪には
朝ドラ「まんぷく」に出てきたラーメン屋台同様に「おでん」屋台も
あったわけか?
なお関西人は「関東煮」でなく「関東炊き」と呼ぶらしい。
赤塚不二夫のチビ太の串刺し「おでん」は家からでなく街頭のコンビニ
買いだったのか? >>81
2020年前期朝ドラ「エール」にも戦前昭和期の東京で古関裕而の
幼馴染みが開く「おでん」屋台が登場していた。
チビ太の登場する赤塚不二夫「おそ松くん」舞台の昭和30年代には
未だ日本にコンビニ店はなかったろうから串刺し「おでん」は何処で
売っていたのだろう? 「串で刺してあるから田楽なんで串から外したら只の煮込みだ」ってめんどくさいヤツがいなかったんだろ 今でもコンビニにおでん売ってんじゃん。
昔駄菓子屋で売ってたのと大差ないだろ 東京は千住あたりにおでんを売る駄菓子屋が一軒残っているという記事があったが、静岡市には三軒残っていて、静岡の駄菓子屋おでんとして名物扱いになっているそうだ 黒はんぺん名物だからなのか
おでん街もあるんだよな静岡 邪道かどうかは個人の感想
美味しさに関してはデータが取れないので完全なる主観
グルメ気取りはバカ >>93
他地域に広まってないのが、さして美味くないことの証明になるだろ。
他地域で入手の難しいような特殊な材料を使うわけでなし、他の地域で真似されない理由が無いわなあ。 魚粉かける富士宮やきそばなら東京にも屋台で来る
魚粉がうまいってケンミンショーでも見たばかりだな…
オレの感性は全国民が見倣うべきみたいな傲慢さ何とかしたほうがいいぞ それから、静岡にはよく出張で行ってたが結構おでん街は込み合ってたぞ(観光客や出張客で あん餅を白味噌に入れるタイプのどっかの雑煮、あれも結構すごい組み合わせだが隠れファンが他県にいるしな >>94
黒はんぺん、おでん微妙だけど揚げたてのフライ最高よ >>51
探さなくてもあるよ
もんじゃメインだったりするけど >>45
日本にも古代には口噛み酒があったような話を何かの本で読んだ気がするが おれは、おでんも関東炊きの両方とも好きじゃない
特に高級店のものは馬鹿みたい。
あんな店で飲んで喰って1人3000円以上払うなんて理解できない。
それよか屋台寿司のほうが良い。 なんで結球白菜が20世紀に入るまで導入できなかったんだろう? 日清・日露の戦役で大陸に渡った日本兵が白菜に接して種子を持ち帰ったが素人ではうまく育種ができず、農学校や農園主により結球白菜を得たのは大正に入る頃だった 対馬藩は釜山に商館持ってて出入していたし
長崎には清国人が来ていてだろ
鹿児島藩は琉球を使って清国との交渉持ってたし
なんでそこまで入ってこないのか 満洲方面の寒いところのローカルな菜っ葉は広がってなんかなかったよ
朝鮮なんて日本から入って行ったんだから白菜のキムチなんて新しいもんだ >>108
白菜は他のアブラナ科と交雑しやすく周りにアブラナ科の溢れてる日本だと綺麗な種が取れなかった
どこぞの離れ小島で栽培して種が取れるようになったそうな >>111
野沢菜も聖護院蕪も飛騨赤蕪も天王寺小蕪も日野菜も搾油用の菜種も、ちゃんと系統分けて保持してたじゃん? それらハクサイじゃないし、そもそも結球しないし、
ググると沼倉吉兵衛って人が馬放島で行なったとか。 どれも植物の種類としてはBrassica rapa。
白菜の種を日本で採ろうとしたら交雑して結球しなくなるというなら、
蕪の種を採ると交雑して根が太らなくなるんではないんかい? 赤蕪は赤くなくなるんじゃないんかい?
蕪と菘と菜種と結構近接して植えてたよ? 三河島菜も交雑しやすいから三河島で隔離して栽培されてたというな 今の百姓は種子を購入して栽培してるのかな
それなら交雑恐るるに足らずだが じゃあ、蕪や菜種はどうやって採種してたのさ?
門外漢の商人が人稼ぎしてやるぜ、でコケたのが結球白菜の導入初期だったんではないんかい?
蕪や菜種をやってる農民がやりゃあ、最初から純系の種とれてたんではないの? 現地でおいしかった菜っ葉を帰郷してからも楽しみたいと、元々は百姓である兵隊が種を持ち帰って栽培したが交雑でうまくゆかなかった
離れ小島で隔離して栽培してようやく純系を得た
こういう経過が史実、歴史なんだから、なぜそうなったのか、農学的に解明してくれる人がここに居ないとわかるもんでないね 現代の種子屋でもアブラナ科野菜の交雑には難儀しているようで、山間の集落で契約栽培で他種との交雑を避けて栽培採種するなど手間をかけている由
雑種を除去しながらの隔離栽培を数年繰り返してようやく品種の固定ができる
それでもアブラナ科の野菜は自家受粉ばかり続けているとやがて受精しなくなるという厄介な性質もある
となると現代農業で主流となっているF1、不稔性の一代雑種をつくってその種子を農家へ売りつける手法の登場となる 除草剤耐性の遺伝子組み換えアブラナが出始めたころ、
畑の雑草からその遺伝子が検出された事があった。
今のところ大事にはいたってないようだ >>120
十字花類は大体度の種類も自家不和合性があるので、アブラナは自家受粉しませんよ。 お茶
■大陸
・神代「茶経」神農氏が100草を嘗めて70毒に当たり解毒に"荼"を用いる、"茶"は南方の嘉木、と記される(湖北省に住んでいた陸羽が唐代に著したもの)
・紀元前59年「僮約」荼を烹る、武陽で荼を買う(前漢の王褒が記したもの)
■日本
・815年「日本後紀」嵯峨天皇が近江の梵釈寺で僧永忠の煎じた茶を献上される
■半島
・828年「三国史記」大廉が茶の種子を唐から持って来て智異山に植えた
・1890年代「朝鮮紀行」朝鮮には茶はなく柑橘類を溶かしたものを飲む風習がある(イザベラバード)
■インド
・17世紀?インド人が茶を飲んでいたことは17世紀の文献に見える?とWikipediaに載っていたがソース確認できず
【貿易時代】
▼船ルート:福建省Te→マレーシアTe→ヨーロッパ(フランスThe/デンマークTe/イタリアTe/フィンランドTee/オランダThee/イギリスTea→セイロンThay
▼陸ルート:広東省Cha→茶葉古道→チベットJa/インドCha/イランCha→トルコChay/アラビアShai、ポルトガルCha、ロシアChay、日本Cha >>123
「福建省Te」と「広東省Cha」は、「茶」の発音の違いと言う事ですか? そう
航路(テー系)と陸路(チャー系)で発音の伝わり方が違ったということ 日本で発酵茶(烏龍や紅茶のような)が育たなかったのは、やっぱ軟水の国だから美味しく飲めなかったからなのかな?
朝鮮で茶文化が育たなかったのは生育環境が良くなかったから?それとも口に合わなかったのかね?お茶の代わりに何を飲んでたんだろ? 昔読んだラノベで「軟水を使った茶が不味い」と何度も書いてたやつを思い出した
硬水なんか色々あるのに、軟水は駄目、硬水でなければ茶は不味いをひたすら繰り返していたが
何を言っているのか、何でそう思いこんでいるのか、最後まで分からなかったなw 紅茶は硬水が美味しく入れられて
緑茶は軟水が美味しく入れられるんだよ ラノベとか読んでるバカな奴はそういうスレ行けよ
軟水か硬水かで珈琲紅茶の味が変わるのは一般常識レベル >>127
逆に改良の必要がなかったんだよ水が合ってたから
西欧は水のせいで土地に合う発酵茶が展開した 多分、話が噛み合ってない。
というか>>128で俺の書き方が悪かったんだろうけど、
例えば、温泉地の旅館で無茶苦茶臭い豆腐をだしてくるところがあるけど
硬水でありさえすれば、どんなミネラルが含まれていても常に紅茶は美味しく飲めるの?
俺の言っている作家は、軟水だからスープも茶も全てが不味い。
硬水であればすべての料理が美味くなるという謎の断定をしていたんだけど。 >>132
知らんがな
ラノベ批判したいならスレチにならない当該スレ行け 2019年茶産出額1位鹿児島、史上初静岡県陥落
静岡県「あちゃー」 白菜とか大根とかヨーロッパじゃ半分くらいの大きさが主流
日本はなんでかでかくしてしまうのかもしれない このスレの>>107以降に白菜が論議されているが、その白菜がヨーロッパにあるのか ドイツでみたよ
白菜 Chinakohl
チャイナが持ち込んだんだろ
ここ100年くらいの歴史だそう 原産が支那でも日本語で知られてるものって多いよな
白菜も英語圏ならHAKUSAIが一般呼称だもんな /二ニ>、 祖先は支那や倭国に輸入されてたニダ
//__ __Yヘ お母さんは日本軍人相手の売春婦ニダ
.{ { -'_i_-' } .| ウリはベトナム経由で北米進出ニダよ〜
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| |
| |
|_________|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 第5種補給品 |
| 韓国陸軍 |
|_________|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ∧_∧ ∧_∧
( APA) <l|l;`Д´>
三 ( つ つ 三(つ ,ノつ
三 人 ヽノ 三 / ゝ 〉
(__(__) (_(__)
∧_∧ ∧_∧
<`Д⊂彡 三 DHC )
⊂ ノ 三G( こつ
人 Y 三(_,\ \
し (_) 三___)
∧_∧
( 高須, )
∧_∧ (`つ⌒ ) ∧_∧
( フAPA)フ : ∧_∧ ⊂(DHC ,)
( )ノ ::< ∩∩>: \ )
/ / / ::(´ ノ ノ::シクシク… ( ( |
(_)_) ::( ̄__)__):: し(_) 【韓国のチキン屋】唐揚げバブル【のパクリ】
韓国の後追いを目指す
「唐揚げ専門店」にすかいらーくやワタミら大手が続々参入 いそじん「宣言解除して吉村式のマスク会食
テーブルや食器にバイ菌付けまくって
アベコロナがまた大拡散や
よっしゃ、よっしゃあ!」 -ーー- 、
./三 -ー- \
__/二 /-、 r- Y
{_|三/ ー- -‐ |
==(_ミ{_ 。。 |
| | -=ニ=- ! 朝鮮総督府によって
__∧ ヽ `ー' /_ ウリたちの伝統服を
/:::::::::::\\`ー─ '/7::::::ヽ 今のチマチョゴリに
/:::::::::::::::::::::\\ //::::::::::::::i 変えられたニダ!!!
|:::::::::::|:::::::::::::::\\//:::::::::/:::::|
|:::::::::::|:::::::::::::::::/ i | i:::::::::::|:::::::|
|:::::::::::| ̄ ̄ ̄ r | |/ ̄ ̄ヽ::::l
|:::::::::::|、 @ ノ__l || ◎.ノ::::|
l:::::::::::{>─- ─L!|.` ー┤:::::|
ヾ::::::::`ヽ_______,}:::::::l
./\::::::::::\ i | l! ./:::::::|ヽ
/ \:::::::::::> .| l /:::::::/ \
/ \/ \ / ̄ ̄l \
./ ヽ_!_!_j_} └|_!_!_!j \ >>123
茶の伝来した時分、日本とチャイナは地続きだったのか?
それとも、オロシャ経由で伝来したのか? >>132
炭酸カルシウム換算値100mg/lちょい超えるくらいのギリギリ軟水の北九州市の水より
30mg/lくらいのベタ軟水の大阪の水のが、紅茶美味いけれどなあ。
ムジカのだから大阪向けに調整してたのかもしれんが 時代背景から考えても、仏教伝来の隋〜唐あたりの時期に仏教と一緒に中国から持ち込まれたんだろ?
陸続きって何時代の話してんの? 便宜的に「陸ルート」とされてるだけなのを
言葉通りの受け止め方した文盲なんじゃないか? >>148
いや俺は、硬水だから○○だとか、軟水だからXXだという決めつけはどうなのよっていう話をしたかっただけなんだけど…
個人的な話だと、大阪市が高度浄水処理をはじめる前東京に住んでいたが、東京で頻繁に食べていたペヤングの焼きそばを
大阪にもってきて食べたのだが、あまりの不味さに一口食べて捨てたことがある。
即席めんを販売しているメーカーは関西と関東で味を変えていることがあるけど、多分大都市圏の水も勘案して調整しているんじゃないかなと俺は思ってる。 ペヤングとかスレチすぎる
硬水だと(カルシウム多いと)牛乳みたいな後味になるのが分からんのかな
料理にも珈琲紅茶にも影響が出るのは当たり前のことだわ あらゆる料理において、硬水の方が不味いイメージなのだが、違うのかな… 人の味覚による
ラノベ君は出ていってほしい
スレチにも程がある 欧州への茶の伝播はロシア(モンゴル)ルートもあるとは思うが
船じゃないと大量に運べないから有力販路にはなれなかったか ゚.ノヽ
、-' `;_' '
一生離れないニダ (,(~ヽ'~
∧∧ ...i`'}
<,,`∀´> スリスリ ,,ノ
/ _っっ-、/ i
〜と<,,.-==、 ,,-,/
{~''~>`v-''`ー゙`'~
レ_ノ
゚.ノヽ
、-' `;_''
(,(~ヽ'~
∧__∧ ─ = ≡,i`'}
<#;`∀´> ─ ≡ ≡ ' ,,ノ
ノ _っ っ ─ = ≡ 、_/ i
と_)_) ─ = ≡ <~_~_-~=、 ,,-,/'
── ≡ ≡ {~''~>`v-''`ー゙`'~
─ = ≡ レ_ノ 断固として離れる! 焼酎の度数、
東北・北海道で20度が多く、、関東以西の広い範囲で25度が多く、沖縄の泡盛で30度の者が多く、球磨焼酎の一部銘柄で35度、法令上の最高が36度
ってなってるけれど、度数が20度からの5度刻みなのはね何か意味とか歴史的経緯とかあるのか? 日本一売れている漬物はキムチ
キムチは日本起源
キムチは国民食 キムチ美味しいよね。
よく買うけど、怖いから国産品しか買わない。 海苔の価格は2019年時点で10年前に比べて約1.5倍に高騰
たすけて韓国様 平安時代の遺構で宴会につかわれた「かわらけ」が大量に出てくるのは
いまのコロナ対策とおなじように疫病がおこったあとの感染症対策が
数百年続いていた証拠だったのかもな 木は腐って溶けてしまうけど、土器・陶器は残るからでしょう。 意外だなあ。
ハンバーガー屋、サンドイッチ屋で、鬼のような数消費されているキュウリのピクルスが売れている漬物ではないんかい >>163
日本人はゲルマン系なのでプロージットしたんだよ なんでカボチャは南蛮渡来なのに洋野菜の区分ではないんだろう 唐果物を調べてたら渇餬というすくも虫を揚げたもの(もしくは似せたもの)があったのですが本当に虫食べていたんでしょうか?
レシピ輸入元の中国でそんな習慣あったんでしょうか? タイのチェンマイに観光客向けの製糸場があるんだが、鍋の糸を取った後の蚕を食ったら、女工さんも同じツアーの外人も全員ドン引きしてた。 >>170
蚕の蛹は臭いから、一度たべたらもういいや、と思いました。 昆虫食の人によると糸を取る過程(常温長期保存、ぬるま湯で加熱)で臭いが強くなるそうな
絹糸より蛹が高くなればあるいは ペットフードにされているミルワームは人間用にも売られている
ナッツのようでうまいという 「和食」が世界遺産となったのなら尚更もっと世界に
梅干し1粒 沢庵2切れ ひじき 納豆 なめ味噌 目刺しイワシ1尾
と1日5合の玄米って日本の従来の食文化も広まってほしいものだ
寿司に天麩羅に神戸ビーフとか出汁の文化とかそういうところばかり世界遺産となってないか? なんで徳川時代、相変わらず大坂で米穀の現物が持ち込まれて取引がおこなわれ、江戸が米穀流通の中心にならなかったの?
都市人口も、京大坂堺平野伏見合せたよりも江戸が多かった、言い換えれば江戸が最大の需要地。
政治的にも江戸が圧倒的に強い。
米穀の売手の主体は年貢米(大名の税収)
大名は江戸に定期的に参勤・集住している。
最大の買手は幕府。旗本に給付する録米の手当て。
なのに、なんで、各大名とも大坂に出先を置いて、大坂に運んで売買していたのか?
幕府は、江戸で米穀の売買を強制しなかったのか。 大名、旗本、社寺などが年貢米その他の産物を売却するための蔵屋敷は、大坂、江戸、大津、敦賀、長崎などに置かれていた
中でも商業、金融の中心地であった大坂が最も多かった
それでも大坂の蔵屋敷は西国大名がその多くを占め、関東、東北方面の大名は多く江戸に蔵屋敷を持っていた >>176
いやさ、だから、なんで大坂が金融の中心地なのか、訊いてるのよ。
徳川時代の本位通貨は米穀でしょう?
何故米穀の取引を江戸で強制せず大坂の方が多かったのか? → 大坂が金融の中心だったから
答えになってないよ? 米穀が本位通貨なんだから、米穀の取引すなわち金融取引だから。 大坂は銀本位、江戸は金本位
どちらかに強制することもなかった 何故多大な手間をかけて江戸に金融の中心を移さねばならんのか
大坂は徳川の直轄地だぞ >>180
じゃあなんで政庁を江戸に移したの?
それまでいた伏見から大坂まで1日距離、京までは半日。
江戸は伏見から17日じゃん。 江戸は最大の消費都市だったけれど、関東平野はもともとは農業が低調な土質であり江戸の町を支え切れるものではなかった
その消費を支えたのが土地生産能力の高かった西国の産物、北前船による北国の物資が集積される流通都市大坂だった
ただ、時代が下るに従って江戸の成長に反比例するように大坂の地位は下り気味
なんで江戸が大坂の風下に立たなければならないのかと悲憤するんだろうが、長い目で見てやってくれ
江戸後期から明治〜現在と時が経つにつれてNo.1の地位間違いなしなんだから >>182
一人あたり平均所得が 江戸〜東京 > 大坂〜大阪になるのは意外に遅くて、昭和40年頃だよ >>181
政庁を江戸に移したって元々江戸が徳川の本拠地じゃん、出張先から戻っただけだろ
それより大坂の商人を江戸へ蔵屋敷ごと強制移住させたり輸送・交通インフラ変えたり
膨大な手間をかけて金融の中心を移すメリットって何よ? >>178
美味しい所を全部江戸に持っていくと、
どこかの公家を担ぎ上げる形で反乱起きて戦国時代に逆戻りする可能性があるから
公家にちょっかい出されると困るところだけ江戸に持って行ったんじゃねえの? いや、大坂の繁栄は自然の勢いに任せ、幕府としては特に振興策を取らなかったから下り坂は否めなかった
初期には上方の産品が関東へ渡った「くだりもの」が重宝され、関東地場産品は「くだらないもの」ばかりだった
だが、徳川が上方から漁業や醸造業の人間を関東に移住させたりして段々と関東の産業も力をつけて行った
それでも、大坂の商業は為替や切手、青田のうちに米を買う先物取引など高度な発達を遂げていたので、蔵屋敷の数は幕末に向けても増えていた >>184
タイムラグがあるけれど?
徳川が関東一円を領有したのは小田原合戦以降、それまでは浜松が本拠地。
家康は大坂戦役が片付くまで殆ど伏見に居て、将軍として江戸にいたのは通算で一年未満。
江戸には秀忠を代官として遣わしているような状態が続き、家康は浜松と江戸とのほぼ中間の駿府で大御所政治。
家康の死去の後は、自身が京・伏見と江戸を往来。
秀忠が江戸に腰を落ち着け諸大名に集住を命じたのがそこから6年後で、一年経たずして家光に将軍職を譲るので
江戸が実質的な政庁になるのは家光の時代から、小田原合戦から30年も経ってらだよ。 >>184
んなもの、経済に干渉し商人を統制しやすくすることがメリットだろ。 >>186
定期的な往来をさせて大名の半分を江戸に留め置いて、さらに、大名の妻子を江戸に抑留。
加えて幕府直参が八万騎、殆どが江戸もしくはその近郊に集住。
軍事貴族といえども、戦争が無きゃあ、政治工作と奢侈・道楽に耽るもの。
徒士や足軽のような半武装民、使用人、出入の商工業者、少なく見て40万、日参圏の居住者・
一時的な滞在者を加えて多めに勘定すると、100万人くらいの巨大な消費都市があるのに、
なんで、こう、江戸の商工業が振るわなかったのか。
工業も商業も消費地に立地するのがセオリーなのに。 歴史がまちがっているのか
セオリーがまちがっているのか >>188
金山銀山を幕領にして、江戸で幕府が貨幣を発行し、
海外貿易を幕領の長崎で独占して、
天下の台所の大坂を豊臣家から取り上げて幕領にすれば十分と思ったのだろう
家康も秀忠も家光も江戸を商業都市にしようという発想はなかったと思う 江戸時代魚も豆腐も毎日食べられ無いほどのご馳走だったみたいだが
四つ足の獣と違って表向きですらタブー扱いされていなかった上に田んぼや都市部でも(今以上に)大量にいて魚以上に捕まえるのが簡単で店売りでも安かったスズメは案外食卓にあること多かったんだろうか? >>191
家光にはあったんじゃないかなあ?
上方からあらゆる種類の人を引き抜いて関東に移住させてるし。 貨幣そのものではないが、近いものではある
武士の給料は米で支払われた 知行所を持たない家臣は、春、夏、冬に分けて扶持米または金銭が支給されていた
江戸中期以降は知行取の侍も名目だけになり、ほとんどの者が扶持米取りになっていた
米で支給された場合は札差を通じて現金に換えて生活費とした
江戸の幕臣は蔵前で営業していた札差に米の受け取りと換金を併せて請け負ってもらっていた 鎌倉・室町時代は領地で家来に給料を払い、
戦国時代になると領地の他に銭で給料を払っていたのに、
江戸時代は米で給料を払うことになってしまった サムライがコメを支給してもらったところで、結局はゼニに換えて生活した
町人はもとよりゼニを稼いで生活する
コメや野菜を自作した百姓が一番、ゼニに関係ない生活をしたと言えるが、江戸時代となるとコメ以外の栽培で食っている百姓も少なからずあった
このとおり、世は貨幣経済になってきているのに、サムライの意識は古かった
旗本でも自らの知行地を経営する者がカッコいいとされた
その昔の領主の伝統を重んじたのだ
幕藩体制そのものが年貢米を基本にするもので、時代遅れになっていたから、大名の領地経営は苦しいものであり、万年赤字の借金体質
密貿易で稼いだ薩摩あたりが雄藩となって次代を築く立場となった
維新で大名はお払い箱となるが、赤字経営者の立場から脱するのだから却って喜んだくらい
年貢米だったのが税金を金納せよとなって百姓がびっくらこいたが 話ぶった切って申し訳ないが
愛知県では雑煮に小松菜によく似た「餅菜」というものをいれるのだが(というかここいらの雑煮はカツオのすまし汁に餅菜と餅のみが基本)
この餅菜ってのは愛知県独特の野菜なのか愛知県独特の呼び方で他でも食しているのかどうなんだろうか
また、雑煮以外には使わないと思うのだがこんなニッチな野菜いつからあるんだろうか
いや今日スーパーで買ってきたもんだからふと疑問に思って
知ってる人教えて下さい 餅菜、小松菜などは菜の花が咲くアブラナ科の葉菜
どれも遺伝的に近しいもので交雑しやすい
江戸時代、雑煮に冬菜のひとつである菜っ葉を入れるようになり、小松菜と名付けられた
餅菜もこういう冬菜のひとつで、明治より尾張地方で栽培されている伝統野菜 新潟市在住なのですが、雑煮について疑問が有ります。
雑煮って明治維新前から全国的な食べ物だったのでしょうか?
大根汁で「こうとう」というのが有るのですが、それに餅を乗っけて食べる地区が在ったそうで、「こうとう煮」とか呼んでたらしいんです。
村では雑煮よりも餡子を乗っけた餅を好む年寄りが多く、「もしかしたら、正月に餅を食べる習慣は有っても、雑煮を食べる習慣は新しいのでは」と思っています。
実際、歳夜の晩に鮭を食べるけど、正月は御馳走無しなんていうのが近年まで続いてましたし。
どなたか詳しい事を御存知ないでしょうか? 八代将軍吉宗公鷹狩の折、小松川の香取神社にて休憩
接待せし神主、餅を入れたるすまし汁に青菜の彩りを添えしところより小松菜と名付けらるとある
餅は稲作の始まりたる弥生の昔よりなじみあるもの
汁に入るるは自然の習ひ
早や、平安京の世に雑煮を食せし書き付けも残りたり 越後の一風習を以て天下諸国に敷衍するはあやまちたらん >>202
>>203
ありがとうございます。
雑煮という名称が一般的であったかどうかであって、餅を汁で食す習慣自体は古くからあったのですね。 新潟県でもうちのあたりだと雑煮のことをこうとうと年寄りは呼んでいたな >>196
お侍は金銀銅銭を扱わなかったよ。
全部札差に丸投げ。
今風の役割で言い換えると、蔵屋敷が公金出納銀行、札差が信販会社、腰に佩いてる刀がクレジットカード。
あらゆるサービス購買がツケで、そのツケは、札差に請求が行く。
旗本のナニナニ家を禄米を預かってるのはどの札差かというのはまあみんな知ってるからな。 >>202
「小松菜」の語源は、「菘」の誤読もしくは誤記載が元だろうよ。 201です。調べてみました。
新潟市西蒲区松野尾出身の女性美容師が「実家には雑煮が無くて、御正月には「こうと煮」っていうのを食べてました。」と言ったのが始まり。
で、松野尾から潟東村に婿に来た男性に聴くと「ああ、年寄りが「こうとう」とか言ってたなあ」と。
早速、村で聴いて廻ると、大根を短冊切りにして作る「こうとう汁」という料理が有り、それに煮た餅を乗せたのが雑煮の定番であった事が判明.新潟市のHPにも「餅雑煮」という名称で、この大根の短冊切りを使った雑煮が郷土料理として紹介されていた。
どうやら、大根の短冊切りを「こうとう」と呼んだらしい。
しかも、この大根の短冊切りは「雑煮」以外では食さない事が判明。
ふだんから大根の味噌汁は作るが、それは千切りか銀杏切りで、短冊切りは絶対にしないとのこと。
この事については遠く南魚沼出身の女性(戦前生まれ)からも聴いた。
なぜ大根の短冊切りは雑煮にしか使わないのか?
なぜ「こうとう」と呼ぶのか?
で、村のお婆ちゃんから昔の様子を聞いたのだが、29日に餅を搗き(普通は苦餅と言って、29日には餅を搗かないが、浄土真宗の根付いた地域では餅を搗く事が多かった、らしい)、糯米を蒸かした鍋に残った湯に、「こうとう突き」(木で出来た料理用スライサーみたいな道具)で突いた数本の大根を入れて煮る。それを大鍋や甕に入れて台所に置いておくと勝手に凍る。正月にはそれをガンガンと割って「こうとう汁」を作り、煮た餅を乗っけて雑煮の出来上がり。
ちなみに、今でこそ、「こうとう汁」に豚肉、鶏肉、鮭やイクラなどを入れるが、昔は本当に大根9割みたいな感じだったらしい。
あと、この村では年寄りは雑煮より焼き餅の方が好きみたい。それも、焼いた餅に餡子や黄粉をたっぷり付けて食べる。 追加
国文学を学んだ方から、「ハレの日には短冊切りにする」というような記述を読んだ事が有る、と教えてもらいました 小麦粉を水で捏ねて伸ばして切る、幅広の麺。
本当はそれが食べたいんだけれど、小麦粉は明治の後半になるまで高価だった。
で、外見出せ似せて大根を切っていた。
そのうち、元が小麦粉の麺ということも忘却。
日本の雑煮はもとはチャイナの餃子だからな。
餅(水で練った小麦粉)で餡(味付をした刻んだ肉)を包んで湯(スープ)で煮たもの。
中途半端に原型が残って餡だけ日本魔改造されたのが、蒸米を撞いた餅に甘い小豆餡の入った讃州の雑煮。
チャイナでは、麺も餅もどっちゃも小麦粉を水で練ったもので、区別は難しいよ。 >>199
福岡県ら辺にも雑煮専用の菜っ葉あるよ。
そっちの呼び名は「かつお菜」 ずっと鎖国してたらこれ
http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/mame.files/syokuji-01.jpg
江戸のOLのランチみたいなもん
https://pbs.twimg.com/media/DhMv35CU8AEUmHv.jpg
ところで、うちの婆ちゃんは盆も暮も赤と緑の寒天だらけ、子どもたちは誰も手を付けないのに毎回冷蔵庫に入ってんの
俺だけでも食べてやれば良かった
https://i.imgur.com/Y1pRaVe.jpg
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1644570754/44
>現在私たちが食べている多くの野菜は海外から日本にもたらされて根付いたものがほとんどです。
>日本原産の野菜は独活(うど)や、芹(せり)、三つ葉、蕗(ふき)、山葵、自然薯など数えるほどです。
>大根や茄子、蕪、茗荷や葱などは古くから食べられていますが、
>海外から伝わったものと考えられています。
>牛蒡も古くに中国大陸から伝わったとされていますが、食用としているのは主に日本で、
>他の国ではほとんど食用とはされていません。
>鍋や漬物に欠かせない白菜が日本で栽培されるようになったのは明治時代以降のことです。 江戸時代魚は肥料
373 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 2ec7-9pEf) sage 2022/03/18(金) 21:36:40.19 ID:cUXY24mt0
昔の日本人は1日に動物性たんぱく質はわずかしかとっていなかった
日本は海に囲まれた国だが日本は米至上主義だったので
化学肥料の生産量が増える前の時代は漁獲高の半分は魚肥として肥料になり
口に入るのは残りの半分なので
昔の日本人は現代人が思うほど魚は食べてはいなかった
https://imgur.com/a/RxD9K2h
https://imgur.com/a/NIsSq2p
https://imgur.com/a/NsT4HDU
【画像】昔の日本人の食事 すぐ飽きそう [511335184]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1647588741/ >>214
私娼じゃん。OLでなくて、エンコーとかパパカツの方じゃん。
女が通いで働ける数少ない職場の機屋や髪結は稼がる上に人集めが大変だったから、雇用主から昼食は出されてたよ。
女中は住み込みなので、当然、三食出る。 箱に茶碗・汁椀・箸・皿が一人分ずつセットで入れてあって、各自マイ食器セットを持っている
毎食、自分の専用の箸皿椀に食事を入れてもらって箱の上に載せて食べる
という形式から
家族分の茶碗や皿がごちゃ混ぜで水屋に保管、箱が無く部屋の隅に立てかけてたチャブ台を
引っ張り出してきて食事
というふうに変わったのはいつ時代? >>217
都市では早く、農村では遅かっただろう
都市部で明治期からちゃぶ台が広まってきていても、農村では戦後も高度成長期以前まで箱膳は残っていた
ちゃぶ台時代、テーブル時代になってもマイ茶碗、マイ箸の伝統は根強く残っているな
我が家にそんな伝統はないという書き込みを見て、へーぇと思ってしまった やはり、日本人は北方起源で遊牧民系統なんだな。
伝統的生活しているモンゴル人やチベット人の遊牧民は胡服の懐に湯呑・汁椀・小皿・箸・小刀・匙を重ねていつも持っている。
ついでに極圏のエスキモーみたいな人種も、小刀と匙(小さの目の椀)と皿兼懐紙兼小刀の鞘の一尺四方のなめし皮で包んで常時もっていた。
出かけた先で茶湯や食事を供されたときも、マイ皿椀によそってもらって食う。 今のように食事のあとには食器をまとめて洗剤で洗うのならば、誰のものということなしに取り扱える
箱膳の時代には食事の最後には食器に茶を入れて残しておいた沢庵かなにかで食器をぬぐうようにして、洗いもせず箱にしまって終わりだ
これだと自然、誰それの箱膳、誰それの食器、箸ということになる
今でもマイ茶碗、マイ箸となるのはこの伝統 >>4
江戸や京坂で白米食ってたのは、
燃料の不足と、都市型の時間に追われる生活の。調理時間の短縮、と、
量産効果。
水車で搗いた白米を買ってきて、少ない燃料で短時間炊く場合と
玄米を買ってきて、多量の燃料で長時間焚く場合との、経済メリットの差。 ところで、茶碗に米飯を盛って食べるのが当たり前になったのは、いつ時代ら辺? インド等みたいに皿ではなくて、日本は椀状なのが興味深いです。
品種による炊きあがりの状態の違いによって器が違うのでしかね? 森の石松が江戸っ子に勧めた雄氏はハコ寿司で場所は大坂 映画『エノケンの森の石松』(1939)では海苔の太巻
『次郎長富士』(1959)では江戸前の握りずし
広沢虎造の浪曲では、石松が大坂から京へ向かう三十石船に乗る前に大坂本町橋で名物の押しずしを買ったとなっているのである 押し寿司と、ハコ寿司は、同じものだよ。
木枠に詰めて押しをかけて作るから、押し寿司
作るときの木枠や供するときの折箱にみっちり詰まってる様子から、ハコ寿司。 え~と、
児童に供する給食と
幼児に供する給食の
区別がつかないオバカですという自慢? 部屋の広さを規制するとか。
畳の、公団サイズや田舎間サイズを禁止、京間に統一
ワンルームも、京間8畳相当が一塊の「部屋」として存在しない場合、貸出禁止
田舎間の畳で寝るから、五八よか丈が低くなるんよ >>199
福岡ら辺もに、ほぼ用途が雑煮に限定の「かつお菜」という菜っ葉がある。
小松菜とは見た目全然違う。白菜の外葉のような形で色を重いっり緑を濃くしたようなの。
独特の苦味があるので、下ゆでしてから使う。
福岡県全域佐賀県一部で使うけど、正月の雑煮の具がカツオ菜だけというのは
旧秋月領(筑紫野市、朝倉市等)のあたりの一部の地区にある。 期間と用途がほぼ限定されてる葉野菜の栽培が良く続いてるな
他の野菜の端境期かと思えばむしろかぶってるし >>11
実は国内で、白米(だけの主食)の大量摂取は歴史短い〔※配給制で普及〕
なお
「白米(だけ)の主食が一般に広まった時代」から、日本人は急速に体格向上
◆> お米が私たちの主食になったのは、
◆> 第2次世界大戦以降で、歴史としては短いのです。
> それ以前は、
★> 麦・ひえ・あわなどの雑穀(ざっこく)に、お米2~3割を混ぜたご飯を食べていました。
> 他には、
★> そば・いも・とうもろこし・大根・豆類などが、主な食糧となっていたのです。
> 参考/吉川弘文館「お米と食の近代史」
特に農民なんて、米を作っても、実際は「雑穀を多く食べ」てきたし
※地域によって、サトイモ・麦・サツマイモ…雑炊が主食だったり >>10-11
江戸時代の農民の食生活を『錦町史』では、以下のように記述している。
(引用元) www.ysn21.jp/~eipos/data/2006/WB18_001/kyoudoryouri/annkozusi/newpage1-4-2-2.html
『寛永十九年(1642年)の『郷村諸法度』には農民の食物は雑穀を用い、
米を多く食べないように申し渡す事とあるが、
年貢などの負担が大きくて、
こうした法度がなくても農民は米を食べることはほとんどできなかった。
(中略)
農家の食料は米と麦を二対八、又は三対七にして二度炊きにしたり、
粥や雑炊にして、雑穀を主食にしたものが多かった。
さらに、米麦の不足を補うために、大根飯、菜飯を食べ、
春先には令法(りょうぼ)の若葉を入れた令法飯や令法雑炊として食べ、
米を作る農民が米を食べられなかったのである。』 このスレ
世界史板に比べてあまり皿の枚数が進んでないな まとまったページ見つけた ≫ 貧乏人は麦を食え
> 昭和初期まで農家も米を食べられなかった
引用元:キヤノングローバル戦略研究所) cigs.canon/article/20220823_6945.html
> 当時は、米は高級財で、麦が劣等財だった。市場経済であれば、裕福な人は米を食べ、貧しい人は麦を食べる。
> 安い価格の米の配給制度を維持して、貧しい人にも米を食べさせる必要はない。
> 池田勇人の発言の趣旨は、
> 大蔵大臣としては金のかかる統制制度は廃止して自由な市場経済に移行すべきだというものだった。
~
> 戦前、米を食べられるのは裕福な家庭に限られていた。米は「銀シャリ」と呼ばれ、
> 一般人のあこがれだった。
> 日本人がすべて米を食べられるようになったのは戦後のことである。
> 明治から昭和の初期にかけて、かなりの農家は米を食べていなかった。
> 小農は、作った米を売って肥料代や生活費を捻出し、
> 自分たちは麦やアワ、ヒエといった雑穀に大根などの野菜を加えて増量した雑炊を食べて、
> 飢えをしのいでいたのである。
> 小農にとって、米はめったに食べられない高級品だった。
> 米を食べても、それは通常の商品としては流通しない屑(くず)米だった。
> 柳田國男は、明治時代の農民は、ハレの日以外、米を食べていなかったと書いている。 日本では昆虫食って流行っていたの?
戦争中とか飢饉を除いて 鹿児島が近年、お茶の生産量日本一になった
静岡平均2.6Ha
鹿児島平均6.5Ha
と比較的に大規模
とはいえ知名度的に九州ならトップは八女茶(佐賀県)だろう今後ブランド力を強化していくと思われる 「日本料理は過大評価されている」日本在住の外国人大学講師が英誌に寄稿
在日認定だ!!!! 中国人や朝鮮人は外国人にエセ日本料理なんかださずに
埃アル粗国の料理をだすべきだと思いま~す
外国でエセ日本料理をだす中国人と朝鮮人は粗国に埃をもたないイルボンの犬ニダー >>231-233
日本人が、ハワイの食事(高カロリー・高脂肪・大量の肉)だと
肥満は増えたのに、身長が…
日本人が太りにくいわけでない、ハワイの日系人を見よ
[元HP]gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/14/091100024/022400042/?P=3
○>日本人の平均体型が身長168cm、66.9kgであるのに対し、
▲>日系アメリカ人は身長167cmとほぼ変わらないが、体重は78.7kg。
▲>BMIでは英・米国人を凌いでいる(下図)。 >>240
んなこたない
庶民もコメは普通に食ってましたよ
穀物依存度が高いから白米に雑穀も混ぜて食べてただけや 下水処理水で生産量10倍に 近畿大がサツマイモ栽培
日本の伝統的な農業を守り抜く 文禄年間の大坂の町人の代表的な献立
一度に食うのでなく、食事ごとにそれぞれ1種を提供
・汁物
ザクザク(根菜類の汁)、ヨモギザクザク、干葉・ほしは(天日干しの大根や葉、茎などを汁の具にしたもの)、カブラ、イモノクキ、納豆、ツクシ、タケノコ、シメジ、ササゲ、ナメススキ(ナメタケやエノキダケの汁)
・菜
ナマス、柚子ナマス、細切り青スのナマス、鳥のナマス(鶉・ウズラ、小鳥)、マナガツオの刺身、鯉の洗い、酒ビテ(干した魚や肉を酒に浸したもの)、ナシモノ(塩辛)、ウメカツオ、アサツケ、香の物
・煮物
煮しめ(ハラハラ、芋、ゴボウ)、煮しめ(麩、青メ、豆腐)、串アワビ、蒸しカブラ、雲雀のノッペイ、葛豆腐、湯豆腐
・焼き物
鮭の焼き物、鯛の焼き物、小鮎の焼き物、鴈のヘギヤキ、カワラケ二雲雀、カワラケ二鶉(ウズラ)、田楽、ウナギ
・菓子
焼き栗、栗、水栗、炒りカヤ(カヤの実を炒ったもの)、センベイ、フノヤキ(小麦粉を水でといて薄く焼き、味噌をつけて巻いたもの)、コブアブリテ(昆布を炙ったもの)、ザクロ、梨、よもぎもち、焼き芋、黒豆、ヒヤシモノ(季節の瓜や野菜、果物を冷たい塩水に浮かべたもの 1939年8月6日 日本郵船筥崎丸の昼食
野菜の細切り入り澄ましスープ
種々の野菜入りビーフシチューアングレーズソース ブロッコリーのバターソース添え
トッセサラダ
グレープフルーツシャーベット
パン
コーヒーまたは紅茶
日本郵船筥崎丸
1945年3月19日上海沖で沈没 平安時代のピラフ
和名類聚抄より
油飯 楊氏漢語抄云膏味〈阿不良以比〉麻油炊飯也一云玄熟 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています