邪馬台国纏向説が破綻した理由part4
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>>42
土器の様式は共通のものも見られるが、土器の流通は大和と筑紫が完全に別であることから、統合していたとは考えられない。
九州北部は魏志倭人伝にあるような帯方郡との交流が多く、畿内には帯方郡との交流の痕跡が皆無だ。
帯方郡の郡使が訪れた邪馬台国がどこだったのかは明白だ。 >>42
まあその通り
だから畿内は倭人伝と合わないんだよ
畿内説だと卑弥呼が登場して万々歳、古墳と鏡で覇権を広げてったつーんでしょ
倭人伝の方はってぇと卑弥呼共立前は
>住七八十年倭國亂相攻伐歴年
こんな状態で卑弥呼の時代も
>倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状
卑弥呼の死後は
>更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人
っていう国情なわけ
連合国家というより反乱分子を抱えた国家連合ととらえた方が倭人伝の倭国を理解出来ると思う
統合が進んで中央集権に向かう2〜3,4世紀の畿内は倭人伝の倭国とは実状が離れてるんじゃないかな 巻向説が破綻した理由は2世紀前半の男王の墓を示せ其のないから。 弥生時代は土器に地域性があるから、独自性があってもいいと思う。
弥生後期が何を意味するのかわからないが、北九州と畿内を無理やり合わせる
必要はないのではないかな。
重要なのは、池上・曽根遺跡から出土した木材が年輪年代法によって紀元前52年
とされ、それによって、畿内第V様式が100年ほども遡ったこと。
これは重要で、それまでの考古学の常識からすると100年もの違いがある。
それにつられるかのように、庄内式を含め全体的に年代が遡ったこと。
前にも書いたが、年輪年代法による測定結果が妥当だとしても、伐採した
時期と使用された時期が異なるのは、当たり前のようになっている。
誤差が500年あるものもある。つまり、紀元前52年に伐採されたものが
いつ使われたかどうかはわからない。
年輪年代法が正しいとしても、確実に言えるのは紀元前52年より前ではない
ということだけである。つまり、従来の説も十分の可能性がある。
にもかかわらず、第V様式は100年も遡った。
年輪年代そのものにもブラックボックスとの批判もある。
また、C14については、誤差がかなり大きいというのは外国の例でも明らか
である。
年輪年代法の結果によって年代を遡らせたことについて疑問を持つのは
当然だと思う。 良く、考古学的には、畿内説という声を聞く。
しかし、考古学はもともと古代の「文化」を研究する学問。
歴史的なことに口を出すのは、畑違いなのである。
その証拠に、文献に記述のない時代、たとえば弥生前期や中期の歴史的ことは、
考古学では全くわからないといっていい。
どういう人物がいて、何をしたかなどを考古学で知ることは出来ない。
また、そういうのは考古学ではなく歴史学の分野である。
邪馬台国問題も同じで、魏志倭人伝などの文献がなければ、弥生前期などと
同様になる。考古学では、邪馬台国などの国の名前もわからないし、卑弥呼の
存在すらわからない。
卑弥呼が魏から鏡をもらったこともわからないし、径百歩あまりの墓を
作ったこともわからない。
だから、考古学者の多くは邪馬台国問題には首を突っ込まないと思う。
これをいうと、語弊があるかもしれないが、少なくとも良識のある考古学者
ならば歴史学的なことについて断言するようなことはないと思う。 木材の伐採年代からどれほど経過してその木材が使われたかは分からない。
しかし勝山古墳の木材は祭祀に使われたといわれている。
普通、祭祀に古材木は使われないであろう。
ならば勝山古墳の被葬の時期は3世紀前半である。 前方後円墳の分布状況も邪馬台国が畿内にあったとする根拠の一つなんだろうが、果たしてそれは根拠になり得る
のであろうか?
前方後円墳を築く勢力の影響が畿内から地方へ広がったとは言えるかも知れないが、その前方後円墳を築く勢力が
卑弥呼の時代の邪馬台国と言える証拠はない。箸墓は卑弥呼の墓だというのは”推測”だが、証拠がない。 そもそも魏の使いが九州北部までしかきた記録がないのに、卑弥呼の人となりを記録しているわけで。 流れとしては
1.前方後円墳は箸墓など大和が圧倒的にでかい。だからヤマト政権
2.前方後円墳は2世紀後半から築造で卑弥呼からそれほど隔たっていない
3.従って、邪馬台国が大和にないと、邪馬台国からヤマト政権にかわるには時間的余裕がなさすぎ
4.逆に、大和説なら邪馬台国が発展してヤマト政権とスムーズに説明できる
ということかと思う 並行して存在していたで説明できる。
弥生時代の交通量では統一政権を維持できなかったということだ。
魏志倭人伝では、海の東にも倭種がいると買いてあるし。 真実を究明するためのスレッドが、足りないのでは、ないのかな、、、 韓国大好きな連続句読点の立てたスレはすべて糞スレ。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 韓国大好きな連続句読点の立てたスレはすべて糞スレ。。。 995日本@名無史さん2019/05/16(木) 20:29:43.54
>>994
それ、査読で落ちるから >>71
僕達が査読したので、奥山氏の作製したテンプレートは、不採択になりました。。。 僕達が査読したので、奥山氏の作製したテンプレートは、不採択になりました。。。 僕達が討論会に不在の間に、発表されたこの一番長い意見は、どういう意味だろうか、、、
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
>>889
>数字で真っ向勝負できない畿内説w
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方
九州説では、残り千三百里だから九州としか言わないが、
ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
水行20日+10日、陸行1月をどう里数に換算するのかも、一切考察しないww
九州説はでたらめでいい加減 >>81
日本の天皇・・・皇族に聞いてもわからない話だよ、
なぜだと思う?中身は朝鮮人だから
本人のところに行き、
聞いてみればわかることだよ >>80
その意見は長いだけで、短くまとめると、
五行説との対応で、それぞれ萬二千里とされている東西南北+中央之極が、帯方郡から女王国までの距離に等しいと、中国人が考えた、、、
という、脳が破損した者だけが考え付く頭の悪い意見なのでは、無いのかな。。。
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
>>889
>数字で真っ向勝負できない畿内説w
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方
九州説では、残り千三百里だから九州としか言わないが、
ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
水行20日+10日、陸行1月をどう里数に換算するのかも、一切考察しないww
九州説はでたらめでいい加減 呟き荒らしが出現して、僕達に話しかけてきたのでは、ないのかな。。。
82日本@名無史さん2019/05/23(木) 13:44:09.74
>>81
日本の天皇・・・皇族に聞いてもわからない話だよ、
なぜだと思う?中身は朝鮮人だから
本人のところに行き、
聞いてみればわかることだよ 呟き荒らしが出現して、僕達に話しかけてきた内容は、天皇に対して礼儀が悪いな。。。
82日本@名無史さん2019/05/23(木) 13:44:09.74
>>81
日本の天皇・・・皇族に聞いてもわからない話だよ、
なぜだと思う?中身は朝鮮人だから
本人のところに行き、
聞いてみればわかることだよ 上皇陛下は九州説か畿内説かと聞かれて「僕にはわからないよ」と答えていたな。 これも僕達が、何度か、具体的論理的に説明した質問なのだが、
邪馬台国畿内説では、会稽東治をどのように、認定しているのだろうか。。。
940日本@名無史さん2019/05/23(木) 12:12:52.46
>>933
では「距離があてになる」と言うなら
「会稽東治之東」になる理屈を
史料に沿って具体的論理的に説明してもらおうか
出来ないなら、ここでも九州説の負けだ 上皇陛下は九州説か畿内説かと聞かれて「僕にはわからないよ」と答えていたのは、やはり、天皇家が邪馬台国とは、関係がなかったからだという可能性の方が、そうでない可能性より、高いな。。。 >>83
>ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
イミフ
言い訳を考えすぎて破綻した? 関係ない・・・、
天皇というのは中国の話でしょ
日本の天皇は倭人だよと言ってる人がいたり
倭人というのは、
むかーしから住んでいて先住民(不明)みたいだし 言い訳を考えすぎて脳が破損し、考えがまとまらないまま、発表したのではないのかな。。。
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
>>889
>数字で真っ向勝負できない畿内説w
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方
九州説では、残り千三百里だから九州としか言わないが、
ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
水行20日+10日、陸行1月をどう里数に換算するのかも、一切考察しないww
九州説はでたらめでいい加減 『日本国王 足利』
この時代でも倭人と同じ
あと秦人や漢人も日本に住んでいた、
むかーし来ていた人々(すでに日本人) 秦人・・・調べてみて
漢人というのは中国の人、漢民族? 五行説との対応で、それぞれ萬二千里とされている東西南北+中央之極ということと、帯方郡から女王国までの距離が萬二千里であるということは、全く関係がないのだが、
この、五行説との対応で、それぞれ萬二千里とされている東西南北+中央之極ということと、帯方郡から女王国までの距離が萬二千里であることに、関係があるという意見には、
五行説との対応で、それぞれ萬二千里とされている東西南北+中央之極ということと、帯方郡から女王国までの距離が萬二千里であることに、関係があるのだという理由が、全く書いてないな。。。
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方 長い文章なので、余計に笑いリラックスできる意見なので、貼り付けて笑えば良いな。。
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
>>889
>数字で真っ向勝負できない畿内説w
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方
九州説では、残り千三百里だから九州としか言わないが、
ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
水行20日+10日、陸行1月をどう里数に換算するのかも、一切考察しないww
九州説はでたらめでいい加減 これも僕達が、何度か、具体的論理的に説明した質問なのだが、
邪馬台国畿内説では、会稽東治をどのように、認定しているのだろうか。。。
940日本@名無史さん2019/05/23(木) 12:12:52.46
>>933
では「距離があてになる」と言うなら
「会稽東治之東」になる理屈を
史料に沿って具体的論理的に説明してもらおうか
出来ないなら、ここでも九州説の負けだ 距離に関してはクシャーナ朝よりちょっと遠目の距離にしただけやろ
漢の歴史書見ても朝貢国までの距離は結構いい加減
だから途中までは里で書いてあっても突然日数に変わる
正確なことを書くとクシャーナ朝よりずっと近くになってしまうし、
かと言って詳細に書けば後で突っ込まれるからボカしたとしか思えない 淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。 なぜ天皇や皇帝を自称しているんだ?
みたいな事を言われたんだろう・・・、
日本に住んでいる人々(もともと中国〜渡来系)から
ちゃんと中国まで行き・・・とか どのスレだったかな、
南朝ばなし(不明)だろう?と言ってる人がいたり
南北朝、中国の南朝? 『長州 チョン州』
こういう話も同じ、
戦争というのがあって、日本は負けたんでしょ?
中国は? カエル、儀式といえば諏訪大社だよな。
纏向から諏訪に移動したという話ならあり得るかもしれないが。 邪馬台国畿内説という仮説は、仮説のまま、完全に破綻しました、、、 邪馬台国畿内説という仮説が、仮説のまま、完全に破綻したのは、箸墓古墳で、猟師がもつれて転がり畿内馬具が目の前にあったからでは、ないのかな、、、 畿内説が破綻した理由を解明してください。
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<馬具研究史より>
樋口隆康「鐙の発生について」(1972)は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。 コミュニケーション能力のために使用できる脳が破損していても、していなくても、猟師のもつれでは、情報を共有できるだけで、自分の伝えたいことは、絶対伝達できないので邪馬台国畿内説は、破綻しました。 >>106
>2001年12月
>「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
投棄した、ってひどいなw
そんなもの古墳に捨てるかよ
結局都合のいいように解釈しまくるのが畿内説 畿内説は、纒向が王都らしいが
陸行1月も説明説明できない
魏の使者が4度も行っている、陸行のルート を示せない このスレで確認できたこと、
畿内説のことキナイコシが太刀打ちできないこと >>109
しかも投げ入れたのなら、木製の鐙は浮くはんずなんだよな。
しかし、実際にはきっちり埋めてあったわけ。 >>110
鯖街道を目安とした場合、
若狭湾から上陸して京都市内までが陸行1〜2日ぐらい。
奈良まで一か月もかかるとは思えないね。 <魏志倭人伝より>
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
(卑弥呼は死に墓は大きく作った。径100歩ほどあり、殉葬者は約100人。)
<畿内説の説明>
単独埋葬事例しかない前方後円墳の箸墓古墳は、卑弥呼の墓であるニダ。
大きさはピッタリであるニダ。
殉葬者は埴輪で代用したニダ。
Q:中を見たんですか?
A:いいえ。
Q:じゃあ分かりませんよね?
A:考古学会では確定してますから。 「西晋の時代に北では五胡十六国時代となり、西晋が滅ぼされたため、
南に移り晋の国を建国した。これが東晋(317〜420年)である。
この東晋の時代が画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が日本で大流行した。
東晋は中国の南にあり、この画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は南のデザイン
であり、南の銅が使われた。」
ということは、現在出土している銅鏡のほとんどが4世紀のものとなる。 なぜ畿内説は死んだのか?
それは味をしめて捏造癖を直さなかったからだよ ■魏志倭人伝の記述
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
女王国の東の海を渡り千餘里でまた国がある。皆倭種である。
この東の倭種の国は女王国とは別の国々を指しているのだが
↓
纏向遺跡で出土した土器を見ると
■纏向遺跡における土器の出身地別比率
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1% >1
1. 天皇の寿命はでたらめ
2. 生前から作ってちゃんと3世紀に完成したよ
改修や周濠をさらったりメンテナンスはするよ当然
3. だからそれもメンテナンスだって 先祖の墓大事にしない人?
4. 古いな 日本各地を調べて作った日本版C14に当てはめたら問題ないよ
5. 突貫宗教都市だったからね 理由は不明だが突然できた
三輪山のふもとに崇神が皇居を作っててそれに伴って
急遽引越しとなったか?
あと宗教都市で人々が貢物で米とか食べ物を持ってくるから
耕作地は必要ない
垂仁と景行は卑弥呼の宮殿跡のかなり近いところに皇居を作ってるが
その頃にはかなり拡大している
6. すべてが沼地ではないし唐古鍵遺跡は弥生時代前期から存在してる
7. どう嘘かちゃんと説明して たぶん反論できる
8. なに言ってるかわからない >>118
耕作地は必要ない、というのはデタラメだろう
馬がいないのにどうやって大量の米を運んでくるの?
纏向を邪馬台国の都にするために都合のいい理屈を並べ過ぎ 九州の土器が出ない理由は舟のスペースと重量を軽くしたいから
竹を編んだかごを使った かなり軽くできる
あと当時の人も土器の種類を見ればどこから来たか分かってて
地方から多く人が来るヤマト国で九州の土器があるとかっこつかない
王族発祥地九州としてはヤマトに貢いだことが分からないようにしたいから
船を使うことを口実に九州は土器は使わなかった なぜ誰も邪馬台国諏訪説とか出さない?
陸行一月なら奈良より可能性が高いと思うのだが? >>123
もともと南と書いてあるのに無視しすぎやろ 邪馬台国畿内説という仮説は、仮説のまま、完全に破綻しました、、、 畿内説は本州の中でもなぜか大和をピンポイントで邪馬台国としている。
先入観による妄想なんだよね。 畿内の歴史は斜め上に向かいました。
〜2世紀;唐古鍵遺跡
〜4世紀半ば:纏向遺跡
4世紀末〜:↓
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 畿内説は宣伝係が胡散臭いので支持者が激減してしまったんです。 邪馬台国畿内説は、2013年に完全に破綻しました。。。 邪馬台国纏向説が破綻した理由はたくさんあるが、一番の理由は、やはり、畿内馬具ではないのかな。。。 僕達の研究では、畿内馬具は、布留1式という式の発掘される層から発見されたのだったね。。。 >>136
そして、馬具は、5世紀の物体だったな。。。 炭素の計測は、地域によって誤差があるので、年代が確定しないのだが、
同じ地域の、違う地層の物体の年代の差は、それほどブレないのだったな。。。 >>138
だから、巻向の布留1式と庄内式の年代の差が、最大150年未満しかないという真実は信用できるのだったな。。。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。 まず馬具を4世紀はじめの物とする事自体がもうゴットハンド確率99%だよね。
混入物というのなら他にも相当数のサンプルが存在するはずだし。
周濠の水抜きを公開して調査し直すべきだよ。 >>141
世界最古の馬具だと発表されてたなw
もう日本考古学会の信頼復活なんて絶対不可能w 5ch専用畿内説である奥山説が「畿内説」と称しているので、
公式畿内説のスレと勘違いした一般人は立ち寄ってしまい、
妄想の扶桑であるテンプレを見て、吐き気がして眩暈がし、
去って行ったのだろうな。。。。。 邪馬台国纏向説が破綻した理由はたくさんあるが、一番の理由は、やはり、畿内馬具ではないのかな。。。 現実は厳しいですわw
邪馬台国はどこ?
1位:九州説 54.4%
2位:近畿説 35.7%
その他 9.9%
https://i.imgur.com/UNP7rJ5.jpg 纏向遺跡とは
1、突然現れ、纏向古墳群ともに終焉を迎える
2、わずかであるが、15%が搬入土器であり近隣の出稼ぎ労働者がいたと思われる
3、生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な水路(環濠では無く)が築かれ大 運搬用の水路と畿内説の学者も認知
4、集落跡が未だ未発見・・巫女千人??
5、斎場(死者を敬う祭場でも、神社でもいいだろう)と見られる掘立柱建物がある。・・強固でなく付け焼刃の建物(柱穴跡は細く、石や砂利で固めた 形跡無し)
6、鉄鏃無し・・兵は少ない???
7、近隣に古墳多し
8、番場であろう煮炊きした炭化物の土器出土
9、葬儀や祭事に欠かせなかっただろう桃の形跡在り
よって、古墳造営基地で確定しました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています