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漢委奴国王印 いわゆる金印part3
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0001東京
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2019/05/06(月) 17:37:27.05
有意義なスレですのでpart3をたてました。
0004日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 17:47:00.16
2012/06/03(日)17:01 AAS
天明年間、筑前国那珂郡志賀島志賀島に於いて甚兵衛なる百姓が田圃仕事中に偶然発見したとされる。

・「漢委奴國王」を何と読むのか?
 →かんのわのなのこくおう
 →かんのいとのこくおう
 文化庁編「新増補改訂版 国宝事典」(便利堂、1976年)
 「その訓みについてはなお定説をみない」

・後漢書の印綬と同一か?
 後漢書「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」より
 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」

・そもそも真物か?
 出土地も確定できない問題がある
0005日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 17:55:28.56
Part 1から>899日本@名無史さん2018/05/08(火) 14:42:33.01
金印が何故そこにあったのか推察すると、おそらく奇跡の呂皇后と同じだろう。
西安の陝西歴史博物館にある呂皇后の玉印は、今中国にある歴史的印章で一番の
お値打ち品だ。
これは小学生が学校から帰り道で、道端の空き地で見つけた。省博物館に持って
行くとみんなびっくり仰天、拾った場所は劉邦と呂皇后の長陵から1kmの所、
呂皇后の玉印が出た。 なぜそこにあったか推察すると、これは呂皇后の墓内
でなく周囲の建物に調度品と共に安置してあった。それが前漢末の反乱で
焼き討ち略奪の時、誰かが守って持ち出し、落としたか埋めて隠した。
それから2000年、今は家や道の並木があったりするが、埋まった所は奇跡的に
何の変化も無く、表土が雨で徐々に流れて、2000年後に現れた。動かなかったから
傷一つなく綺麗な原形のまゝだった。正に奇跡の呂皇后だ。
 で 金印は、魏書に倭国大乱とあるように、その頃は喧嘩ばかりやっておった。
喧嘩の時、金印はどっかに隠す、奴国が負ける隠した奴が死ぬとどこに隠したか
分からなくなる。
 中国の何千個もの古銅印はほとんどが何故そこに落ちとったか推察しようもない。
そこに昔は持ち主の家や役所の建物があったとしても、千数百年過ぎると全く
跡形無くなってしまう。小さい銅印なんて丈夫な物だからそれだけが残る。

949日本@名無史さん2018/07/15(日) 09:45:01.71
1958年発掘 蛇鈕金印”晋蛮夷帰義侯”
外部リンク[aspx]:www.whmuseum.com.cn
この蛇鈕、造りは雑だが、形式は漢委の金印と同じ。  滇王は前漢だから蛇そのものだが、
後漢からの蛇鈕はこういう形式になった。
江戸時代ではこういう印形のデータが無いんだから、あの漢委の蛇鈕を贋作はできない

950日本@名無史さん2018/07/16(月) 08:55:10.33
蛇鈕はこれが江戸時代の贋作ではないことの決定的証拠だな。
中国に現存する蛇鈕金印は、現代で発掘された三個しかない。
中国でも明から作られた贋作印に蛇鈕は無い、どんなものか分からなかった
からだ。 日本で江戸時代に作れるわけが無い。
0006日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 19:36:21.82
年表

西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
107年 第6代・孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢した。
177年 第10代・崇神天皇が即位した。
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫か大田田根子が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行27年、景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。

※約100年間の天皇不在の空白期間
※卑弥呼と台与を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇を創作し空白期間を埋めた。

390年 第15代・応神天皇が即位した。
0007日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 19:42:28.30
日本で編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄は「新羅王の祖」であると書かれている。

『三国史記』によると西暦57年に
倭人の脱解尼師今が「新羅王の祖」になっている。
西暦57年と言えば奴国の王が、金印・漢委奴国王を授かった年である。

※金印を授かった奴国の王が神武天皇で間違いなさそうである。
0008日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 19:45:45.41
新羅王の始祖は3人いる 。

昔氏始祖は、脱解尼師今  ←奴国王が金印を授かった西暦57年に即位
金氏始祖は、金閼智
朴氏始祖は、赫居世居西干
0010日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 22:51:32.02
三国史記の年代を疑ってくれよ。
魏志東夷伝と合わないから、60年なり120年なり繰り下げないといけないのだろう。
0011日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 02:02:07.69
>>8
三氏族とも倭種
漢族の百済人は滅亡、現生朝鮮人はウラル系の高句麗人がルーツ
0012日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 02:02:30.06
不思議なことに日本人の遺伝子(O-47Z)は高句麗で爆発的に増えてるんだよな。
朝鮮人が日本で爆発的に増えた形跡はない。

O-47Zは関東地方に多いが
九州が新羅を支配、関西が百済を支配、関東が高句麗を支配し、分割統治した形跡が遺伝子解析的にはある
0013日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 02:03:00.11
朝鮮人の遺伝子

O2B(約30%) ←倭人系
O3(約45%) ←漢民族の系
C3(約12%) ←オホーツク系
0014日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 02:03:18.84
日本人の遺伝子

D1B1/D1B2(40〜45% ) ←縄文人の遺伝子
O2B1(約20〜30%) ←日本列島で発生した遺伝子
O3(約10〜16%) ←漢民族の遺伝子

中国系が10〜16%
朝鮮系はほぼ0%
日本列島独自の遺伝子が60〜75%

これが科学的な遺伝子解析の結果です。朝鮮半島からの移民が日本列島で増えた形跡はなし
0015日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 02:04:55.09
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國(朝鮮半島南岸)から倭奴国(九州北岸)まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
0016日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 02:05:14.48
隋に使いを送ったのは、阿蘇山のある倭国の王である天の多利思比孤。

隋書
隋使の裴世清らの道程は「經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」とあり、
大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國他10余国をへて海岸についたという。
竹斯國から東はすべて俀であるという。
0017日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 02:05:40.02
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
0018日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 02:06:37.10
倭には大乱の前にも王がいた。
そこで大乱があり、卑弥呼が共立された。
奈良盆地では当てはまらない。
0019日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 02:07:03.32
畿内説はどうやっても東遷説に頼らざるを得ない。
なぜなら弥生時代における筑紫の優越性は絶対的なものだから。
それでも「畿内がー」と叫ばなければいけないのは哀れですらある。
0020日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 06:25:47.44
属国の証しを後生大事にしてるようでは、シナからの独立はねーなw
0021日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 06:27:48.68
金印の話題に戻ったら起こして
(つ∀-)オヤスミー
0023日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 10:39:08.05
>>7
>>8
漢委奴国王が神武天皇で間違いなさそうだね。
初めて金印をもらった倭王が初代天皇なのは妥当なところだし。
0024日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 11:08:14.82
>>23
記紀にはその前にもたくさんの王がいたことが書かれているよ。
イザナギやアマテラス、日向三代の王たちなど。
0026日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 11:32:50.09
なぜ神武が初代天皇扱いされたのか?
理由があるはずだが
初めて金印をもらった倭王だから初代天皇扱いされたというのは納得がいく
0027日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 11:36:02.63
>>25
天皇と定義されたのは、奈良時代になってから。
0028日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 11:37:34.53
>>26
九州からやって来た神武が畿内王朝の始祖だからだよ。
九州での倭王は天皇にカウントしなかっただけ。
0029日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 11:40:07.38
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
0030日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 11:45:08.61
>>27
だから何?てきとーに初代天皇を決めたと言いたいの?
0031日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 11:47:54.84
>>28
金印をもらったから金印の威光によって
神武は畿内を支配できたんだろうね。
0032日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 11:55:31.03
九州の代々の大王が伊都国にいたことは平原遺跡などからも間違いない。
ではいつ頃、伊都国の大王の権威が衰退したのか。

※漢鏡5期流入段階(1世紀中ごろ)には、糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核である
※漢鏡6期流入段階(2世紀前半)では、既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止している

ちょうど奴国王(筑紫の王)が金印を授かった時期に伊都国が衰退してることが判明している。
つまり金印によって奴国王(筑紫の王)が伊都国王よりも偉くなった。
0033日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:00:41.32
逆だろ。
奴国の王墓の方が古いぞ。
吉武高木遺跡とかね。
平原遺跡は3世紀頃だから、むしろ金印よりも新しい方だ。
0034日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:01:27.43
糸島平野の最盛期はむしろ4世紀とかだな。
0035日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:03:40.27
そもそも奴国も伊都国も筑紫にあるのだから、どちらも筑紫の倭王だよ。
金印をもらったのがどちらなのかは議論の余地があるけどね。
どちらにしても後漢代において中国から見たら区別はされていない(遷都の記録はない)。
0036日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:04:45.38
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0037日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:09:50.74
>>33
3世紀というと、ちょうど邪馬台国の一大率が伊都国を支配したころだね。
1世紀に権力が伊都から筑紫・大和に移ったころに伊都国の漢鏡流通の核としての存在終了
3世紀中ごろの邪馬台国の一大率が伊都国を支配した時期に平原遺跡終了
0038日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:11:13.97
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。

「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
0039日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:14:14.54
>>34
そりゃそうだ
4世紀には伊都国は、超大国の大和(邪馬台国)が支配してるので
伊都国王の権力はまったくなくなったが、伊都国王の時代よりも経済的には発展しただろうね
0041日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:36:48.72
九州王の年表

(紀元前2世紀) 福岡平野に吉武高木遺跡 ←最初の王都
(紀元前2〜1世紀) 奴国と考えられている須玖岡本遺跡
(紀元前1世紀の王・王妃墓)糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡 ←伊都国に遷都
(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国。井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓) ←九州王が権力を失い漢鏡流通の核としての機能を停止
(紀元2〜3世紀の女王墓)伊都国。平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓) ← 邪馬台国の一大率に支配されて平原遺跡が衰退

※『日本書紀』によると九州王は仲哀天皇の時代(4世紀頃の人物)に完全に家来になった。 ←九州王滅亡
0043日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:40:44.24
まだ伊都クズ生きとったんかいな(笑)
0044日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:41:03.52
>>41
弥生時代末から古墳時代に渡来系弥生人が北部九州から日本列島全体に広がってる考古学的な事実と合わないな
0045日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:47:09.51
>>44
九州王に権力があったら渡来系弥生人は九州から流出させないだろから
九州王に権力が無かった証拠だなとしか言いようがない
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