漢委奴国王印 いわゆる金印part3
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当時のアジアは中華王朝を中心に存在しとったんやから、必要以上に卑下せんでもええんやで 実際に細石神社の遺跡は弥生時代では平原遺跡と双璧となる王墓だからな。
後漢との繋がり、後世の王権につながる三種の神器など。 >>208
三雲南小路遺跡と細石神社に因果関係があるのは間違いないが、そこに金印をつなげようとするのは糸クズの願望でしかないって話だろ >三雲南小路遺跡と細石神社に因果関係がある
いや、これすら妄想 >>210
三雲南小路の年代は金印を貰った年代にほぼ一致する。
その被葬者が金印の持ち主であった可能性はある。 妄想の上に妄想を積み重ねても妄想であることは変わらない >>212
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない。 >>216
後漢鏡が出土してるのは井原鑓溝遺跡だろ無能 三雲南小路遺跡と出土品の年代測定は実施されたことはない。
それが客観的事実。 結論から言うと
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない >>224
結論から言うと
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない 古文書を読んでたら、「長崎古今集覧付録名勝図絵」という文政年間発行の文書の中に金印の図絵が載っているらしい。
長崎の神崎神社に金印が宝物とされていたらしいが、天明年間に行方不明になったそうだ(なんと神社の地区一体は黒田藩
の警備地区だったとか)
つまり、黒田藩謀略説成立かも 伝説としては、訳の分からんものが残っているようだ
長崎県の神崎神社に神功皇后が三韓討伐で手に入れた金印を長崎に持ち帰った」伝説があり、
その長崎の金印が江戸時代に突如紛失した後に志賀島で発見されたので江戸時代に長崎から福岡に移された
http://blog.livedoor.jp/jingu2675/archives/1047527493.html 「神崎社珍宝形状図説明書」 「長崎古今集覧付録名勝図絵」中のものか不明
「黄金蛇紐漢ノ倭奴國王ノ印一顆
此金印神功皇后三韓時に持帰らせ給う所當社の珍宝として世々傅へ来りしに何のころにまがひ失せけん・・・
按ずるに此印の文字・・・滋賀島土中瓦石の下より出せしといふ金印と少しも異なることなし・・・・・・」 まあ一緒に神功皇后の「懐懐石一塊」も珍宝となっているところがあれなんだが。。。 うわあ、由来は激しく怪しいなあ。
しかし逆にそれ以前の何かを隠そうとした意図も伺える。
場所は長崎の入り口の要所と見た。
ただ、倭国の中ではあるけれども、非常に中心から離れているのが気になる。 江戸時代の文献がある時点で細石神社の100万倍はまし 細石神社は伝世の事実を隠そうとしたとされているからね。
文献など見つからなくて当然。
しかし伊都は倭国の王と出会ったのであれば、そこに金印があっても不思議ではない。
神崎神社であれば、そこが倭国にとってどのような場所であったのかを考察する必要がある。 糸クズスレ見て来いよ
細石神社は古田の希望的観測であり、糸クズの願望でしかない"ネタ"だって即座に分かるから 見つけた
上部左ページにあるのが、長崎名勝図絵にある黄金印の図絵だ
https://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/66427625.html
「由緒は古い神社であるが、永年荒廃していたのを、正保4年(1647)長崎の内田治郎助宗貞という者が、
旧記を調べ旧址を尋ねて、船魂猿田彦大神、住吉大明神を祀る小祠をここに建てた。・・・」 まあ、歴史学に対して真面目に興味持っていたら
こういう縁起・伝承の後付け・改変なんて
珍しくないことくらい知っているだろう
だから、神社の縁起では〜とか土地の伝承が〜とか
主張すると鼻で笑われることになる
細石神社は記載史料がない時点で
歴史学以前の噴飯ものだけどね 金印が見つかってから、実はうちに前からあって。。。とかいうパターンぽいね 細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。 江戸時代は出版業界盛んで、各地名所旧跡観光案内は人気ジャンルだった。
中身は洒落本と同じネタ本で、歴史考古学の文献てもんじゃない。
長崎はもちろん学者文化人に人気の場所で、その頃金印の発見は学者文化人には
ビッグニュースだった。 で 長崎と志賀島はちょと離れとるけど、金印は古代九州のこと
なんでネタ書き出版した。 うそ書いても誰も問題にしないネタ本だから 結局、志賀島を拠点に持っていた安曇が倭王だったってことだろ >>244
それだとアメ姓を自称した倭王と矛盾してしまう。
やはり通説通り安曇は初期段階の海人王で次第に主権を住吉に取って替わられ、全国に散り散りになった悲劇の海人族と見るべき。 どうせ全員海人族。
その中で最も優勢だった者が倭王。
倭人はそれぞれに皆が王を自称していたんだっけ? 志賀島にいたのだから、倭王とは綿津見、大山祇兄弟のことであろう。これは兄弟相続の典型でもある。
天孫降臨に際してニニギは大山祇の娘を娶るが、先代の王家からの女系相続とも取れる。 志賀島にあること自体が不思議なんよね
わざと持ち込まれたのか持ち出す途中に落としたのか 通説では支石墓のようなものの下に箱に入っていたんだ。 >>248
どこが強引に感じるのでしょうか?
筑紫において天孫は外から来た婿であり、一貫して筑紫にいるのは志賀島の一族の方なんですよ。
しかもその後も同じ一族から婚姻しています。
記紀は男系社会になってから書かれているのですが、実は志賀島の綿津見王家(豊国王家)は日向三代と並行して女系相続をしているのです。 >>252
根拠のない妄想だから強引なんだろ
目を覚ませ >>254
根拠のない妄想だから強引なんだろ
目を覚ませ 贋作にここまで熱狂するとは・・世界じゅうの笑いものw >>255
具体的にどこがおかしいか指摘してください。 >>257
馬鹿か?根拠が一切ない妄想だろマヌケ
さては・・・
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お前チョンだろ? | ( |
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くメ) _ノ | | | | |
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ヽ__/ | | | 志賀島からは金印だけしか出てないのがおかしいんやろ 志賀島の古墳から三種の神器のセットが出てきたりしないのかな、ということだろ。 博物館があった時代じゃないからね。
それ以外のどこに置く? それでは使うときに使えない。
大事に保管するなら、弥生時代だと高床式の建物に安置して、目印に鳥居を立てたりするだろうね。
今日では神社と呼ぶのだろうけど。 普通に考えれば王都か大規模集落内に置くほうが実用的だと思うけど
この時代の印は祭祀儀礼用というより外交用途のためで印を祀るようなことをするんかね >>269
大事に保管することを祀ると呼んだのではないかな。
実質的に同じことだから。 志賀島にあったのであれば、そこが王都であった時期があった、志賀島の海人族が倭王であった証拠。
伊都にあったなら、細石神社が祀る三雲の甕棺墓(三種の神器入り)の主が倭王だったということ。
長崎にあったなら、長崎の海人族が倭王だったということ。 志賀島は110年〜倭国大乱時に追い込まれた、倭王の墓が有った。
ではないのかな?
107年以降238年迄は、日中外交が無い。
双方大乱である。
卑弥呼就任の190年、奇しくも公孫氏遼東王就任が189年だが、
公孫氏以降は中華ではなく公孫氏対卑弥呼の中原朝貢遮断での四郡外交である。
トンデモの 卑弥呼=公孫氏説は、検討価値はある。 倭国乱の前、7,80年は男王がいたのだから、それだと志賀島に卑弥呼がいなくてはならなくなる。
卑弥呼を公孫氏にしたいのなら、順番として、公孫氏が実権を握る<その影響で九州でも公孫氏系の権力者を立てる、の順番になるはずであり、同時期という時点で逆に消える話。しかも公孫氏がそこまで影響力を持っているなら間の馬韓も公孫氏で塗りつぶされないとおかしい。 公孫氏と強い関係があり、それが魏志倭人伝には記載されなかっただけという可能性は高い。
ただイコールはないな。
それなら魏は邪馬台国も冷遇したはずたからだ。
卑弥呼はあくまでもうまく立ち回っただけ。 公孫氏はあきらめろw
一瞬の打ち上げ花火で前後になーんの利権もないぞwww 国王印は引き継ぐものだから墓には入れない 戦争の時はどこかに隠す
奴国が負ける 隠した奴が死ぬとどこに隠したか分からなくなる 奴国が負けたなどと言う歴史はない。
ただ、天孫降臨が後漢の頃の話なら、志賀島の王家の娘と高天原の王家の若者の婚姻があったのだろう。 奴国王が墓に入る前に戦争が起きて隠したんだろ
金は腐食しないから
石の上にも三年、石の下には千七百年あたためられて良かったじゃないか >>271
細石神社の金印ネタは古田の願望であって現実ではない まず本物という前提で考えると
倭国大乱の時期に奴国の王都から金印と共に逃げたけど志賀島でやられた
その際に”神社”に隠したか地面に埋めたかってのが無難そう 倭国大乱でも奴国は戦場にはなっていなかったようだ。
主戦場は筑後平野だろう。 神社に置いたら隠したことにならんだろ その頃は卑弥呼など王の住居が神の祭壇で
お告げ聞いたんだ 独立した神社建築は無かった 大前提として伊都国は世々王がいる諸国の一つであって女王国ではないということを忘れてるだろお前ら 漢委奴国王印は女王の共立より前の話だからね。
邪馬台国について話しているわけではない。 >>284
というか、祭られる側に王がいたんだろ。
神社の本殿が住居で、拝殿が執務室みたいなもの。 いわゆる神社ってのは
古代祭祀の場で沖ノ島のあんな場所や、三輪山のあんな風景やろ 祭祀場とは別に、宮には宮様が住んでいたんだよ。
神社の起源は一通りではないのさ。 >>288
建物の意味での社は無くとも神のいる場所の意味での社はあった 各地で信仰の形態は異なってたろうね
それが時間とともに神社とよばれる全国統一形式になってったろうし
巨石とか山そのものとかは古代信仰の典型でとても面白い 九州北部の祭祀を見ていると、巨石でも岩上祭祀などのように、首長がその上にいた形跡がある。
山とかもそうで、そこを流れる川の川上から首長が見下ろしていたようだ。
岩そのもの山そのものを信仰の対象とするのは、少し経って首長層が入れ替わった後に祭祀だけ形骸化したためではないのか。 記紀の高天原の描写を読むと、磐座の上に宮がそびえていて、そこにアマテラスがいたように読める。
沖ノ島の岩上祭祀はその名残なのではないか。
原始信仰というのは、支配の形態を今に伝えている可能性がある。 社という字は見たまんま示編に土なんだから「神のいる土地」
そこに建物を建てるようになったからその建物も社と呼ぶようになったわけだ 偽造の黒幕は本居だろうな。
本居の熊襲の女酋長が卑弥呼を名乗ったという説とも一致する。
おそらく亀井と書簡をやり取りしていたと推測する。
偽造の理由は「中国に朝貢してたのは九州の小国であり大和朝廷ではない」というもの /)
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/,.=゛''"/ チョンコの言うことなんて
/ i f ,.r='"-‐'つ____ テキトーに論破しときゃ良いんだよ
/ / _,.-‐'~/⌒ ⌒\
/ ,i ,二ニ⊃( ●). (●)\
/ ノ il゛フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
,イ「ト、 ,!,!| |r┬-| |
/ iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ / 金印はたぶん本物だろうけど発見場所=王都王宮とは結びつかないとは思う 王宮ではないけれど、王都だろ。
倭奴国は博多湾沿岸の奴国、那の津に比定するのが一般的。 >>303
根拠のない願望の垂れ流しじゃ糸クズと同類になるぞ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています