光秀なしで信長は天下を取れなった。
信長の天才的なアイディアやカリスマ性は、有職故実に詳しく足利将軍家や朝廷藤原摂関家近衛前久ともコネがある光秀の政権構想力や交渉術があってこそ実現できたのであって、濃姫を軸とする車の両輪となって上手くいっていた。
丹波攻めで八上城に人質として差し出した生母を磔刑にされた光秀を必死で慰めたのは濃姫だったことは間違いない。
甲斐の武田氏を滅ぼした祝賀の席で「我らも骨を折った甲斐wがござった」と洒落た光秀に、血相変えて「骨を折ったはこのワシじゃ!うぬらが何をした!」と怒鳴り、光秀の頭を掴んで欄干に打ち付けた信長。
この辺りから信長に対する殺意が湧いたのだろう。
続く四国征服に取り掛かる段階で、恭順の意を示してきた長曾我部氏への対応を巡って、その両輪が対立してしまった。
恭順してきた以上、領地を任せて次の標的である九州の諸大名に見本を見せるべきという光秀と、家臣団に人気のある三七・信孝にも領地を持たせてやりたい信長
本能寺の変が起こったのはまさに四国征伐の出陣の前夜6月2日。「時(土岐)は今、雨(天)が下し(知)る 五月かな」(下知=号令を掛ける)
濃姫は表にこそ出ないが、信長正室としてよく働いていたと思われる。