信長の正室濃姫・まむしの娘の謎 2
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>>583
信房も生母不明
武田から帰ってきたときの信長の厚遇振りはすごい
ただそれからすぐに本能寺が起きてるせいで信雄・信孝同様に他家を継がせるつもりでいたかどうかもわからん
信忠にくっつけてあったのは確かだが >>584
奥方は?秀吉の養子になった4男もまだ結婚していなかったよね? >>585
正室はいないよ
側室は586氏のとおり
平山は正室と主張しているが当の池田家が正室になったとは
伝わっていないと否定しているから側室だったとオモ >>587
ここでも池田家が出てくるんだよなあ
まあ信房に正室がいたらその女性の家柄やなんやから息子達の中の序列もわかったかもしれんが
池田家だって信房正室って主張してもおかしくないのにわざわざ否定するあたりやっぱりなんか伝わってるんだろうか 何か含みがあるとは私は思わないな
正室とは伝わっていないから正室じゃないと言っているだけかも 含みというか、側室なのに正室だったと主張する家もあるのになって話じゃない? スレチでごめんだけど池田家といえば利隆の正妻(氏直の娘)の
肖像画が鳥取で見つかって実名が判明したんだってね
万と書いてよろずと読むんだって 肖像画発見は6年前の記事だね
万姫は徳川家康の次女・督姫が先夫の北条氏直との間に儲けた娘で
督姫が池田輝政と再婚した時に連れ子にして一緒に池田家に来た
輝政が先室・糸姫(輝政が家康息女・督姫との結婚を命じられたため離縁)
との間に儲けていた利隆と婚約したが結婚はしていなかったともいわれる >>588
信房の息子の勝良の母は池田恒興女ではないから
信房には他にも妻(正室か側室か不明)がいたことは確かだね 子供がいることから秀勝と兄弟順が入れ替わってるんじゃないかともいわれてるね
武田時代に結婚した可能性もあるけど
ところでwikiの養観院の記述が全部同じ書籍からの引用になってるけど前からだっけ?
養観院と養勝院は同一人物だろうで済まされてるのに濃姫は確定できないって言われちゃうのはなぜなのか >>592
姫路の寺で糸姫の位牌が見つかって裏書から督が嫁いでくる前に
離縁していたことや姫路で姫路城落成前に病没だったことが判明してる
なぜ離縁したかは諸説あるけど自ら離縁していたっぽく(同裏書)池田家も
姫路にいることを容認、督姫も輝政の病気平癒祈願文の中で父や兄、実子より先に
利隆が健康であることを書き記していることや利隆が池田家を継げるようにという
祈願文も伊勢神宮別当に納めていること、利隆や輝政も度々会っていたことから
督姫も納得していたっぽい(督姫の様々な誤解解けるといいんだけどなあ)
あと池田家の過去帳とかだと正室になっているみたいで連れ子同士とはいえ
義理の兄妹なのに婚約という形をとっている不自然さから恋愛関係に
なっていたんじゃないかとか(利隆は彼女死後再婚まで期間があって
輝政も無理に進めた話はない)督姫が利隆との婚約を強く望んでいて
北条家の娘にこだわっていた感から家康の政略道具にされないよう守るためとか
手元に置いておきたかったからという推測話もあるっぽいよ
なんだかんだで胸の中では氏直のことを想っていたのかもね 正室は高飛車で嫌な女、側室は健気で控えめみたいなのがテンプレになってるけど、実際は当主と正室は家の共同経営者として気遣いあってうまくやってたのかなあ
もちろん相性とかもあるし仲悪いって記録されてる夫婦もいるけどさ >>595
糸姫の墓は実家・中川家の菩提寺である岡山の西光寺じゃないの?
離縁されて実家の中川家に戻りそこで没した
輝政や利隆の墓がある姫路の和意谷池田家墓所にはない
ただし糸姫は関ケ原前後までは中川家の大坂屋敷に実母と一緒に住んでいたとみられ
(当時は秀頼のお膝元である大坂に諸大名が集住)
池田家の大坂屋敷にいる利隆に会うこともできたし利隆の当主就任を願ってもいた
千姫は後夫の本多忠刻と死別して実家の徳川家に帰るとき娘の勝姫を連れて行ってるし
勝姫(千姫の妹)も松平忠直と離縁したとき2人の娘を一緒に連れて出た
娘が母親に同行することはよくある(浅井三姉妹も母市が再婚するとき同行)
万姫が利隆の許婚だったというのは「因府年表」にしかみえないこと、婚礼の記述はどこにもないこと
万姫は当時の結婚適齢期(15歳前後?)を超えた17歳で未婚のまま没していることなどから
不思議に思った後世編集者が利隆の許婚だったから誰にも嫁がなかったのだと解釈したとも いと姫のお墓のある西光寺って岡山じゃなくて大分だよ
位牌の裏書が正しいなら多分姫路で没して遺体は中川家が引き取って
大分県に埋葬して姫路は位牌所だったんじゃないの?
利隆は姫路城主になってるからその時に位牌所にしたのかも
大分と姫路じゃ今でも遠距離だしね
婚約云々は前にツイッターで詳しい人同士のやりとり読んだことあるけど
高野山や岡山鳥取の史料とかに許婚や室と記載されているみたいだから諸事情で
内々で婚儀していたんじゃないのかなあ
先が長くないとわかってとか…これは小説的な解釈だけどw >>595
輝政も督姫も信忠と松姫の悲恋を間近で見聞きしているだろうから
想いあっているならくっつけてあげようと思っていたとしても
不思議じゃないよね
督姫って母性愛が強い人だったのかも…
忠継を秀忠の養子に話の時にも家康が子供を亡くして嘆く
側室のために振姫をという話の時にも断固拒否したみたいだし 濃姫の戒名として一番可能性が高いのはやっぱり養華院? >>599
自分の側室が気の毒だからって娘に対して側室のために
孫をくれなんてよく言えるよね…
やはり幼少期から家庭に恵まれなかった弊害かな
スレチですみませんなので一つ濃姫ネタ
前岡山である先生が講演会をやった時質疑応答で
妙心寺と池田家について聞かれてその中で話ついでに養徳院が
建立した塔頭にある恒興の供養墓と伝わるものは寺伝などを含めると
実は尼僧の墓の可能性が高くてそれはそれはとても大切にされていたんだって
その先生は天球院に伝わる話などいろいろ踏まえるとこれが濃姫の墓なんじゃ
ないかと疑っていると言ってたよ なんでこのスレって油断すると池田家の話題になんの? 濃姫の情報を探す場合、信雄系が幅を利かせてる織田家からは期待できない
実家の斎藤家関連でって考えたら、新五郎の子孫が仕えた池田家が
一番情報持ってるんじゃないかって思える
それで池田家関連の話が多くなりがちなんだろうけど
池田家内部の話はどうでもいいよなw >>604
なるほどそういう経緯かw
前からすごい謎だった
さんくす まあ寵愛はーとか生駒よりはーとかゴシップ雀モードな空気で
ループするよりマシかなー、池田話でも
>>602
その伝恒興供養墓が濃姫の墓じゃないかという話は昔は
しばしば疑われていたが養華院が出てきてから消えてしもうたな
いかんせんガードが固くて調査が進まずだが塔頭内では養徳院や恒興より
上位に位置付けられているのは確からしい
記憶違いじゃなければ天城斎藤家も懇意にしていたんじゃなかったかな
因みだが天球院同様にここも織田家の家紋が使われていた時期があると
戦前のガイドブックに書かれてあったが詳細は不明 戦前のガイドブックとか侮れんよな
くそ怪しいのからガチまで玉石混合 正誤は別として戦前に書かれたものの方が情報が多いことあるよね
戦災で途絶えてしまう前だから貴重な話もあったりする
つくづく戦災での文化遺跡の損失は甚大だと思わされる まあ濃姫の戒名が複数ある可能性だってあるし、研究の余地はあるんだろうけど
池田家は岡山も鳥取も当代で絶家が決まってるみたいだから家伝資料とかどうなるのかな 鳥取は断絶宣言してるけど宗家は断絶とも継続ともコメントしてないよ
庶子(噂範疇)や男系でついできたお子様もいるそうだから
断絶させるかなあー?と思う
厚子さんの手前今は言えないだろうけど 岡山の人は池田が多いんだってよ
ふつーは庶民が殿様の名字は名乗らないもんだけど岡山だけはゆるくって勝手に池田さんが多いらしい
そんで岡山人全員が自分は池田公の落し胤だと固く信じてる
どういうわけか岡山人は濃姫スレに粘着してる、せめて血のつながりがあれば、まだわかるんだが、
リアルでも岡山人は閉鎖性が強くよそものとは付きあえないと言われてるから・・ 石川の前田、宮城の伊達、山梨の武田と山本、神奈川の北条などなど
岡山に限った話ではないなw
>>609
磯田スレを参考だけど利治流の斎藤家の人が東大史学、支藩だが藩主教育係を
勤めた磯田家の人が有名なあの磯田、石谷文書所有の林原の館長は門閥末裔と
家伝史料の引き取り先には困らなそうな感じ
(ぶっちゃけ引き取ってもらった方が史料解読などの研究が進むだろうから
やっていただきたいんだが…)
ただ濃姫に関しては何も伝わっていないという斎藤家だからあっても
発表するかどうかは何とも言えぬのがなあ… 磯田前スレに林原や池田文庫は収蔵品が多すぎるからまだ手つかずの
ものがあるという噂…みたいな書き込みを見つけた
本当にそうなら戦災を免れた斎藤分家の蔵と合わせて濃姫に関する新発見が
この中に埋もれていると期待したいな
あと磯田はおいしいポジにいるのだから濃姫の研究をまじでして欲しい 磯田は美濃攻略に数年かかったことやその間の義龍と信長の関係も興味深い考察してた
濃姫が離縁されたとは考えにくいみたいな言い方だったけど
某先生のような人が武功を持ちあげる限り濃姫は謎のままなのかも >>598
糸姫が姫路で没したって何の史料にあるの?
離縁していないのならば姫路の池田家墓所に葬られるだろうし
わざわざ遠方の実家の墓まで運ぶ必要ないじゃない
個々の人たちなんか変 >>612
どこも人が足りていないし放置とか普通だからな
自然災害が増加していて古文書整理や保管を専門とする
先生方はそっちに取られてしまっているからある意味末期
日本も外国みたいに専門家養成すりゃいいのに アーキビストのことか…
国内では認知が低い上に専攻課程ができたのだって
まだ10年たらずだからかなり遅れているよね
学芸員と同じと思っているアホもいる 渡辺大門じゃないが食っていけるようにしなきゃ
人は増えるどころか減る一方
史学専攻でもアーカイブ系は地味なせいか人気がない
教えられる先生も少ない
文書アーカイブで一番とっつきやすくまた必要とする郷土史や
民俗学をおざなりにしている現在の史学界なんで史料管理を充実させる
べくの土台を作りたくても作れない
くだらん学閥、
問題山積みすぎで衰退する一方、それが日本史学界 政権べったりする必要もないけど
なにか事あるたびに政権批判やってて金落ちてくると思うほうが頭おかしい
本当に金得たいなら自ら食う努力をするか
あるいは金が落ちてくる仕組みづくりをするか
どこもかしこも素人(在野研究家)をバカにするようなこと散々やっといて
税金だけくださいとかそりゃ虫が良すぎる まあ未だに武功が幅きかせてるのも専門外の教授らがお墨付き与えて出版されたからだし
誤訳を指摘されても直さないんだから呆れる
織豊や戦国女性史専門の先生らはハナから相手にしてないような資料だったのにな
権威とされる教授の説を否定できないのはどこの学会でも同じだが
姫や奥方の研究は元々在野の人が多くて下の扱いをされてるように思う 井沢元彦 学校では教えてくれない戦国の授業 生駒は正婦人だって。武功使っておるわ。これだものダメよね。 正室は貴族や大名から貰う
側室は人それぞれだが諏訪姫側室にした信玄とかお姫様ばかり固めた秀吉とかあるからな
家康も信長も大名には娘とか押し付けても自分は貰ってないな 家康は今川とか豊臣とか自分より超格上の超名家から正室貰いろくなことになっていない
秀吉は正室は下級武士で側室は超名家からお姫様がずらり、正室が一番身分低い
信長は娘だ妹だ養女だ婚姻政策は凄いのに自分は違う、何かやりたい好きで選んでいる
謙信はガチホモで身内の甥と北条家から養子を取り後継者を指名せずに殺しあい
信玄は貴族の正室や滅ぼした超名家の側室に子供を作らせて嫡男を死なす
最近は否定説もあるがホモでもある
元就は正室の息子三人をしっかり適材適所に配置しながら側室にも子供作る こまいことをいうようだがホモは男以外とはできない人だから
女と子供を作って仲も良好なのであればそれはホモといわずバイだ つかホモは差別用語だから使わんほうがいい
今は同性愛者をゲイと呼ぶのが主流
嫁もいて仲もよくその嫁と数人子供までいる武将に対して
ホモというのはおかしいという意見は激しく同意
LGBTにうるさくなってきているのだしいい加減きちんと区別せーよと 戦国時代にLGBTなんて区別はないだろう?
ありもしない事情に身勝手な分類なんてするもんじゃない
当時は衆道という言葉が使われてたんだから素直に衆道を使えばいい
ちなみに衆道には信義などの精神的な結びつきを重んじていて男女関係より「上」であるとされていた事情も含まれている
その辺の真意をホモだのゲイだのは内包してないんだから適切な言葉ではない バカは現代の概念やルールを余裕で歴史に持ち込むからな
側室カワイソウ…政略結婚カワイソウ…
じゃあ自由恋愛があったのかって話だよ コミケからまだ日も浅いし薄い本に感化されたんじゃねーの(棒)
そんなだからまーんとかガチの同性愛者に馬鹿にされる あと大河とか見ててうんざりするのが「平和のために」云々ってやつ
武力征服での平和賛美とかどんだけ頭腐ってんだよ
俺様に歯向かうやつがいない=平和ってだけだろ >631
同性愛の武将の多くも寵愛したのは女と見まがうばかりに麗しい美少年
信義などの精神的な結びつきが重要なら爺同士でも衆道があってしかるべきだがそれはないし
衆道が男女関係より上ということもない
化粧して女ものの衣装を被り女を一切近づけず小姓ばかりを寵愛していた
ガチの同性愛者だった頃の若年期の徳川家光は立派な殿様だと褒められるどころか
弟を将軍にしたほうがいいのではないかと言われるバカ殿扱いだった >>635
戦国時代が続いていた方が江戸幕府が出来るより良かったという事? 武装解除された農民から見ればそうなるな
無事大名・武士階級に居座れた層から見れば江戸の方が断然良い >>638
話し合いなどで収束するような情勢ではなく好き嫌いは別として
武力で征服するしか収束できなかったような時代なのに武力で平和賛美を〜
とゆとり全開ないし平和認知症の奴は放置するがよろし
とはいえまあ確かに連呼されるのはうざく見える時もあるな 戦国の平定、応仁の乱以降100年も無政府状態だったんだからだれかがやらなくては。
信長は天下布武はわかるがその後どのような形で国を治めるつもりだったのかな?
御代を朝廷へ本気でお返しして自分は何になる気だったのか。晩年右大臣になっているん
ですよね? 戦国板の勝長スレに中公から出た織田信忠という
新書の内容についてレスがいくつか入ってるけどなんか
信忠の生母は生駒になっていて他の人を母とする説もあるけど
取るに足らないとか書いてあるんだと…
武功の方がよほど怪しいのになwww >>641
右大将受けている以上、将軍でしょ。後付けで平氏名乗ってたから朝廷は太政大臣を追贈したけど。信長将軍、信忠家督の二元体制、駿府の親父と同じだな 書いた人の説だから生駒が母でも良いけどね。信雄と生駒は関係性がたどれるけど不思議なことに信忠はたどれないのよね。 >朝廷は太政大臣を追贈
そうなんですか!征夷大将軍にならなかったのは平氏だったからでしょうが
太政大臣は知りませんでした。でも源平藤橘+豊臣みたいなことは申し出ていないんですよね?
秀吉は結構公家たちに金で交渉したと聞きますが。 >>646
そりゃ藤原名乗ったり平氏名乗ったり、ふらふらしてるけど間違いなくそこそこの武士だし。もとをたどれば越前の神職。
いまは否定的な学説が多いと思うけど、信長は朝廷を上回る権威を手にいれようとしてたのでは >>646
追贈は亡くなった人に対して(敬意を表すなどから)官位を
贈ることだから平氏だのなんだのは関係ないよ
将軍にならなかったのは信忠にそういう官位を与えて欲しいと
何回か言っていることからもなる気がなかったように思える >>644
信長は義昭を追っ払ったものの将軍職を奪っておらず
信長生前はずっと義昭が将軍のまま
信長は将軍を欲しがっていなかった NHKの番組だったかで信長暗殺の裏に義昭がいたと思わせる手紙や文書を出して
将軍義昭説をとっていたけれど、一応京都から義昭を追っ払った時点で足利幕府
崩壊ってことになるんですか?朝廷説をとる人も結構いるのは驚いた。
小説家では秀吉犯人説も結構いますね。堺の商人説もある。 信長暗殺陰謀論こそ日本史の怪しさを醸し出す議論ないよね
確かな証拠もなく歴史学者があれこれ妄想してる 小説は作者が思う 小さな説だもの 何でもありよ。歴史学者たちは生き残るために様々な説を言うから。信長を狙うものたちはたくさんいたのだから。濃姫説を唱える学者もいたくらいよ。 >小説は作者が思う 小さな説だもの 何でもありよ
>歴史学者たちは生き残るために様々な説を言う
両者に違いはあるのかって話じゃない?
小説家だって趣味で書いてるわけじゃなくて生きる術にすぎない 織田信長は賢く隠忍自重して武田信玄にゴマすった、とされてるが
そもそも信長が生まれる前から織田は武田とながいあいだ同盟関係にあった。
武田信虎は松平清康と一戦まじえてるし三河・美濃を背後から武力牽制してくれる
甲斐の存在は尾張の小大名にとってありがたい存在
そもそも武田家には信長という人物がけっこういたので織田信秀はそちらから
むすこのなまえ取ったに違いない。
たしか武田信虎のひいじいさんの弟が武田信長という。どういう意味かわかるね
そのままうまく縁戚としてつづければよかったが武田崩れでほろぼされるにいたった。
信長としてはとうぜんだがしかし3代の同盟で
内部に武田家のスパイが深く入り込んでおり全部ひっこぬくのは困難で
それらのアレルギーから内乱が起こりうる
それ以前にも信長のおばを殺したり織田内部でかなり恨みを買い、亀裂を起こしてるしね
武田勝頼を5万石で生かしておけば旧勢力とのバランスは取れて本能寺の変はおこらなかった
家康はそれを知っていたので高家などといって旧家を飼い殺しにした 明智光秀は武田と関係ないし結び付けるの無理があるんじゃ。恨んでいるものは
沢山いただろうけれど、本能寺で信長を殺した後どうするのか…とキチンと考えていた人間は
いないね。結局クルクルと素早く頭を巡らす秀吉が持って行った。 >>649
そりゃ別に信長は官位は欲しくないからね。散位でいいんだから。ただ右近衛権大将受けている以上、無理やりつけられる官位は将軍。死んだから平氏の太政大臣にしただけ もひとつ言っておくと、近年の義昭影響大きい説はありえんだろ。長曽我部影響説にも似る 武田勝頼が、敗れて自害して果て、その首が信長と家康公のところに相次いで送られてきた時のこと
信長はそれを見て、「その方の父の信玄は、われらに対し種々の道義に反したことや道ならぬことを行なったわ
その天罰は逃れ難く、その方も身を苦しめて国を失い、今このような姿に成り果てた
最後に至って思い知ったであろう。おのおの方ご覧になるがよい、良い気味ではないか」と笑い、勝頼の首をはずかしめた
これに対して家康公は、勝頼の首と聞いて、座っていた床几(しょうぎ)から下りて
その首に向かい合い、両手をつき心を込めて丁寧な調子で、慰められた。
この話で織田家の者は、信長のようなやり方では何かにつけて危ういと懸念した。
その予想が的中して、勝頼滅亡から八十日目にして、果たして信長は京都本能寺で家臣の明智光秀に討たれることとなった。
晩年の家康は信長を悪人とののしり、だからあのような最後になったと悪口を言って興奮し、「太閤も」と秀吉のことも言いそうになったが
さすがに旧主であることから言葉をのみこんだという 東照神君とか出てきた時点で全部眉唾
とくに自分語りと部下の持ち上げの入るやつ 信玄は武田家軍法をさだめ「人に規則を守らせるためには自分が手本にならねばならぬ」といい
「厳しい規則を作って強制しても、大将がわがままな振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとし」
「もし身分が低いものでもかまわないから信玄が法を破ったら投書せよ。自分も覚悟するであろう」
ルイ14製とさぞ気があったろう
フランスのルイ14製は官僚王といわれ毎日だれよりも正確に勤務にうちこみ、自分だけでなく
臣下には宮廷に常に出仕することを強い、出仕を怠った者に「余はそのような者は知らぬ」と冷たい言葉を投げた
なお武田勝頼も信玄の死後にオリジナル軍法をつくって披露したが
「足軽ドモは陣屋の前で糞をするな、武将ドモも勝手に退却するな」と勝手な言い分であったので人々は失望したという
大河ドラマで武田信玄といえばやりたい砲台にやる暗君というイメージだが、実はそうではなかった。
なお明智光秀も信玄を真似て明智家軍法をつくったが、その一年後には武田家滅亡して織田信長を急襲してる
よほど信玄を尊崇していたのだろう こいつは戦国板の有名な荒らしだから相手にするなよ
つーか板を跨いでこんな辺境のスレにまで現れたのか >>642
>取るにたらない
そこまで言い切れてしまう自信が欲しいw
武功夜話に信忠の母とする記載があるが生物学的に厳しい側面があるため
科学的根拠を元にするならばこの記載は取るに足らないという指摘が
近年増加傾向である
ぐらいの注記を中公も付けろや 信忠は生年不詳だし
信雄生母が信忠を出産するのは生物学的に無理だと濃姫ヲタがいうなら
せめて信忠と信雄の生年月日を確定しないと 武功夜話は偽書だから、あれを元にどうこう言われてもな
武功夜話をソースにしてる段階で論外 オタとか関係ないと思うけど。信忠は1555か1557と言われているね。
信雄は1558年3月。武功夜話を正しいとするならば1556年9月に夫が戦死して戻ってきて翌年信忠を出産。その後翌年3月に信雄を産むのは無理じゃないのと言ってるだけ。残された資料を見る限りは生駒と信忠の関係性がたどれないことも理由のひとつ。 織田信長は美形で性格も良かったらしいが明智光秀も180センチの大男で
秀吉も愛想よく人当たりが素晴らしいし、丹羽長秀も美形だった
さらに信長の傅役だった平手は都ではまれに見る器量人とうわさされていた
容姿や能力に優れた家来選り抜いてエリートに囲まれていた
せいかもしれないがそうでない者にはつめたく
信忠の顔が気持ち悪い、こいつは奇妙丸だとかいって笑い
信雄にいたっては、茶筅丸
オマエみたいなゴミは家から追い出すぞ、とずばり本音言ってる
そして生前に信雄と信孝にあたえたのは5万石、とあまりにも少ない
とても信雄の母親に愛があったとは思えない、尼になって隠居しても「無視」だからね 生駒家の吉乃ってのは、偽書である武功夜話の創作だからね
武功夜話を参考にしてる時点でおかしいのよ 信忠は元服の時期が遅いよね
濃姫の養子になったのが本当ならどのタイミングで養子になったんだろうか
雑用はさせなかったなんて説あるし幼少期からきちんと特別扱いして正室の手元においてたのかな ルイスフロイスに岐阜城で、お膳を自ら手渡しした信長子息に信忠は入ってるんかな 確か奇妙(信忠)と茶筅(信雄)だったよね。私が読んだのにはそう書いてあった。 奇妙はともかく茶筅ってどういう意味なの?
お茶々はわりと多い幼名だったらしいけど 子供の髪の毛を後ろで縛ったときの印象でしょ
ピッグテールにならずにバサバサと茶筅みたいな 家康の次男オギイ丸は魚という名前らしい
直接会えないので家臣に絵を描かせたら「ギイという魚に似てる」
母親が卑しいからどうでもよかったらしいが相続権なしを通告する意味もあったろう
長男に奇妙丸というのもひどい
当初は濃姫に嫡子できたらこまるので相続権なしを通告する意味でつけた
とすると、母親の身分はそうとう低い 茶筅はお茶の道具よ。
生まれたときに毛が茶筅髷が結えるほどふさふさしてたから茶筅と付けたらしい。
茶筅髷は茶筅を立てた状態が似てるから茶筅髷と言うの。
奇妙は生まれたとき顔が奇妙だったからとか帰蝶の帰は本当は奇で奇蝶だったから奇妙と付けたなど言われているね。
でも対して意味はないかと思うな。大洞、小洞 酌とかつける親父よ。でも幼名は魔除けの意味も合って変な名前にすると良いとか言われていたそうだから奇妙は割りと普通だったりする。 帰蝶って名前も、2級史料の地誌に出てくるだけだしな
通称っぽいというか、岐阜城の濃姫の住んでた館の呼び名とかじゃないの 奇妙丸で元服したら勘九郎・・・
長男で九郎はないだろう?
九郎ってのは九郎義経もそうだが部屋住みの下の息子を指す言葉だよ
ましてや勘九郎じゃ勘当・縁切りした9男にもみえる
自分の息子がほしいノー姫が嫌がらせで付けたようだね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています