魏志倭人伝を正しく読む
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◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. >>69
出雲から大和まで(もしも)陸行したら一月かかる >>74
畿内説は河内から上陸じゃなかったのかよ。
畿内説は相変わらずその場限りで適当なことを言うよな。 河内で土器を捨てるから河内の土器が大和に流入しないとか、大和川を遡るとか言っていたから、陸行一月は機内説に矛盾するね。 一月行という単位については、出例は極めて少ないが
旧唐書に 倭国の範囲を 東西五月行 南北三月行 とした記述がある。
あるいは帯方郡から済州島の水行が3月行という例もある。
唐書には奈良までのぼり、王タラシヒコに謁見している遣隋使時のデータが有る。
この時、日本領と確認できたのが、
南北は九州の南北程度、東西は九州から奈良の東の山までという事。
その東(北)は、相変わらず 其餘旁國遠絶 不可得詳 なのである。
九州南北3月行の、3分の1が 1月行で良い。熊本(狗奴国)の手前が女王宮。
これは、領土の大きさを示した単位であって
陸行水行でも同じ、徒歩、馬、船の性能、風向きも関係ない。
つまり、経過期間を示すのではなく、漢魏〜隋唐に残った、
官僚や軍人が知っていた東夷概念図の地図上の座標と考えるべきだろう。
倭人伝では、好例として 又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至 が有る。
九州南岸から東南船行一年は12月行とすると小笠原である。
信じがたいが距離は一致する が、洋上で一年という期間は有り得ない。 そりゃ、本州の沿岸伝い、伊豆七島伝いに、小笠原まで1年だろ。
ま、いい線だ。 >>80
日本海なら、縄文海神の航海知識ってこともあるけど
漢魏で日本の太平洋岸に、そんな航海知識が有ったら
大和朝廷成立しなかったと思うのよネ。
遣隋使帰国に便上の裴世清が初の瀬戸内海入り本州上陸でしょ?
唐には、不沈空母の日本と戦争できる海軍力なんて無かった。
まあミサイル将棋以前だと、後の、ロシアでもだけど・・・
白村江海戦は、日本が保護してたけど亡国につき不要になった百済人を
唐と結託して奴隷化の新羅人支配者から遠ざけて送還した船を
唐も服従しない倭人背景の有る、
百済人は要らないから攻撃したんだろ?
歴史は繰り返しそうだな? またかよ??
日本船が水行20日の
あんなとこまで行って、戦争するかナ?
戦争するなら釜山港だよ?
あ、話が飛んだwww
中国から神津島まで黒曜石取りに行って
銅鏡と交換してたのかナ? で、黒曜石要るか?
まあ、小笠原から三足青銅器出たら絶対徐福っぽいけど?
実は、始皇帝が縄文人ルートで指名手配の徐福を詐欺罪で捕獲してた。
とかネ。 不老長寿薬の島、無いって知ってんじゃんwww .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. 魏志倭人伝だけ目を凝らして隈なく読んでもダメだよね
隋書に「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」って書かれてるんだから
邪馬臺=ヤマトで確定なのに、世の人々は何を難しく考えてるんだろ? >>86
それは地名が似ていたから隋の使いが勝手にそう思い込んだだけで何の裏付けも無いぞ
実際はヤマトなんて地名は北部九州だけで数カ所もあるありふれた地名なんだが、隋の人間がそんなことを知る由も無い
そもそも魏志から数百年も経っているのに見ただけで分かる訳がない .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>86
邪馬臺=ヤマトで確定
そこだけ読んでもダメでw 舊唐書 がこれを訂正しています。
日本國者 倭國 之 別種也 以其國 在日邊 故以 日本 爲名
或曰 倭國 自惡 其名不雅 改 爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地
日本国の都於邪靡堆、は魏志で倭人伝の言う倭国=筑紫
を統合した後に成立した王朝の都です。
魏志の陳寿も、隋唐書の編者も魏帝が倭王とした
筑紫が小国だったことの恥を あからさまには書いてはいない。
陳寿に至っては、場所まで曖昧にする工作を施している。
中華の正史は皇帝の恥は伏せる。 国力から言えば、邪馬台国時代の九州北部は小国どころか列島の覇者であった。
それは記紀において出雲を下した天津神が筑紫を豊橋原中国の都と定めたことからもわかる。
魏志倭人伝において、奴国は単一の国邑としては東夷世界で最大の国邑として記録されている。 弥生時代の大和とは?
大和については史書に記述されている通り、市場の監視役でしたとさ
畿内説の考古学者は理系どころか文系も苦手な運動音痴なので、勝手な妄想で架空歴史を捏造しているだけなのです
それゆえに日本は歴史を知らないと特亜諸国から馬鹿にされているのです
■魏志倭人伝
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」
租税を収め、邸閣がある。国々に市があって有無を交易し、「大倭」にこれを監督させている。 倭というのは漢代以前から、中国で日本列島民を意味する漢字。
これに大を冠して市場の監督官を意味する語ができるわけが無い。
使は、主語である魏使。
ここでは伊都で一大卒の存在を知った張政。
使 大倭 監 之 自女王國 以北 特置 一大率
檢察 諸國 畏憚之 常治 伊都國 於國中有 如刺史
王 遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國
皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
247年、245〜6年の黄幢、檄を無視した女王国に
塞曹掾史張政を 査察官として送った。
これが女王が主権国家の王ではないとする、その報告であり、
魏と女王国の外交は247年で終った。
壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
に、皇帝の返書、返礼は無い。
これが、日本が参戦しなかった三国志の魏志倭人伝の結末である。 .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 日本の文字文化は紀元前から? 「すずり」から推測
弥生時代から古墳時代にかけての石製品のうち、これまで砥石(といし)などとされてきた150例以上は
筆記用具のすずりでは? 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最新論文でそう指摘している。
日本での本格的な文字文化の広がりは5世紀ごろともされるが、石製品がすずりなら、文字の使用が紀
元前にさかのぼる可能性を示唆する。
https://digital.asahi.com/articles/ASN5340WDN51POMB002.html?_requesturl=articles%2FASN5340WDN51POMB002.html&pn=4 砥石と硯なんて、削れ方とか表面の付着物で区別できないものなのかな? .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
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__) l!゙,l:::;'-、 ';::::! ,.-‐‐:、 l `ヽ、 \
ヽ. !:l:::l/-ヽ.゙;::', U /:::::::::::r=‐'''"´`''‐,.-゙'‐-、ヽ.
) ゙!::l l"''、l ヾ゙:、 u l:::::::::::::::`'''‐‐''''‐i'゙ ,,..、 `\
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◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. 魏志倭人伝の記述
至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜
又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴
つまり対馬←→壱岐の位置関係が南北である
https://i.imgur.com/Ixx2XXX.png
そして邪馬台国はさらに南
https://i.imgur.com/t1La2wr.png
またその南には敵対していた狗奴国 郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、
在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 >>11
この時代の遺跡って大和川近くにしかないですよね
小船に乗せかえて川を遡ったのでは 畿内全体で見れば大和は過疎地なんだよ。
奈良が京都や大阪に勝てるわけがない。
淀川と鴨川、琵琶湖を経由すると、瀬戸内海と日本海を結ぶ交易路ができる。
盆地の奥の大和や、大和川のような小川がなんだというのだ? いやあ淀川遡って河内の白肩津、今の枚方?に着いたら追っ払われたじゃん神武。
んで熊野から入った大和と大和川は未開の新天地だったんじゃないの? 淀川水系は人気のある土地で、大和は田舎だったので住む場所を見つけられた。
橿原なんてど田舎だぞ。 関西の地理を知っていれば、神武は勝ち組とは思えないはず。
京都や大阪を押さえていた三島溝杭耳や、そのボスである饒速日の方が勢力が強かったのは明白だ。
三島溝杭耳は上賀茂下鴨神社の主だぞ。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 関西の地理っつんなら地図で大和川辿ってみ?
三輪巻向までつながってるし欽明・聖徳太子の飛鳥、倭の五王の古墳やらぜんぶ大和川周辺よ
船は物流・交通で瀬戸内海通って朝鮮まで繋がる
さすが海の神が親戚の天孫族
交易と交通で後発から最大勢力にのしあがったんじゃねーの?
一応国譲りでアマテラスの子孫が正当な主だしな
女王国=女神国 国譲りでアマテラスが孫を王にしたのは筑紫
聖徳太子は田舎王子の一人に過ぎない
遣隋使を送ったのは筑紫の倭王多利思比孤
倭の五王も筑紫の倭王 日食や狗奴国との戦争を契機に卑弥呼が死に(死んだことになり)、一旦九州が荒れたものの、神武のころ婿入り分家してた三輪崇神朝モモソヒメ=台与が四道将軍派遣で再度国をまとめたってところじゃないの
アマテラスの血筋なら誰がまとめても良かったんだよ .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>119
そもそも九州と畿内では遠過ぎて、九州の卑弥呼の跡継ぎが壹與というのは無理がある。 >>121
とすると同時代に似たような特質のヒロインが九州と本州に二人出たことになるね
まあ日本人としては神武東征説を信じたいけどこの後の応神東征まで別々なのかもね モモソ姫はヒロインでもなんでもない。
畿内派が都合よく持ち上げただけ。 >>123
九州説なんだけど、神武東征はあってもいいかなと思う。
ただし、それが統一王朝というわけではないんだよ。
記紀は「天皇が即位した」とぶち上げているけれど、そもそも天皇制が確立したのは天武の時で、神武からしばらくは目と鼻の先の三輪山にさえ別勢力がいるような状況で、とても天下統一には程遠い。
だとすると、中国から見た倭とは九州北部であり、本州は倭種になる。
それは記紀の本質的なストーリーと矛盾するわけではない。
記紀も神武の前までは筑紫が王都だとしている。 >>125
雄略天皇の時期には九州から関東まではある程度制圧してるっぽいけどね。
ワカタケル銘が熊本と茨城で出てるし 前方後円墳の広がりから見ても、卑弥呼の少し後の4世紀くらいからは全国的なまとまった動きがあるようには思う。
しかし、本当にどちらもワカタケルと読むのか、ワカタケルが雄略のことでいいのか、ワカタケルはどこの王だったのか(九州かもしれない)など、まだ議論の余地は多い。 箸墓古墳を考えるとモモソヒメは時代を画するほどの女傑だけど滅びた女王国の記憶があるうちに九州に勢力を伸ばしたということか >>127
ワカタケルが実在の人物であることは鉄剣が出てるし動かしがたい。
雄略天皇の和名からワカタケル=雄略天皇だと推定されるが
確実に間違いないなんて誰にも証明できないし、逆に違う事も誰にも証明できない。
なので、現状一般論として雄略天皇=ワカタケルと考える以外に答えがない。 違うでしょ?
ヲワケが仕えたワカタケルは、倭王武だけど 雄略天皇の実在は証明できない。
で、稲荷山鉄剣の472年は、倭王武はまだ皇太子だった可能性が有る。
幼名ワカタケルで、継承したら名は無い。
雄略天皇は5代遡れば、兄弟継承2回含む倭王讃。
記紀天皇の系図は一致しない。
ヲワケの直系では、家督相続のタイミングが判らないが
16歳元服で頭領が60歳で隠居、30〜45歳で家督相続とか?
一代が2〜30年で直系3代程度じゃないかな?
ワカタケルは倭王武だけど、
記紀のデタラメのせいで雄略天皇の実在は証明しえない。 ワカタケルが大王になった経緯くらい調べよう。
あとワカタケル銘なんて最近になって見つかってるもの。
未発見の状態で記紀で雄略天皇とむずびつけて
捏造できたとする方が無理のある推測。 .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. でも倭武が雄略天皇というのは無理があるだろ。
倭武と書いて、日本語だとなんと読む? 日本書紀の大泊瀬幼武尊のほうで同一視したんでしょ
まあここまで時代がくだれば畿内勢力が強いね .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. ワカタケルが記紀にある雄略天皇の和名であろうことと
倭王武かどうかってあんまり関係ない気がするけどな。 >>139
ごまかすなよ。
倭武と書いてなんと読む? 鉄剣のワカタケル銘と雄略天皇の和名の一致は
鉄剣が発掘された現代において、妥当性が考えられるが
記紀編纂の奈良時代に大泊瀬幼武=雄略天皇が
鉄剣の持ち主であると捏造したとする方が難がある。
倭王武が雄略天皇だと推測されるという話とは全然別の話しだ。 そもそも倭の五王の名前と天皇の和風諡号には読み方での一致なんてない
倭王讃(さん)のケースを例に
応神天皇、仁徳天皇、履中天皇のいずれかとされる。
各天皇の和名
応神天皇
ほむたのすめらみこと
ほむたわけのみこと
はらのうちにましますすめらみこと
ほむだわけのみこと
おおともわけのみこと
仁徳天皇
おほさざきのすめらみこと
おほさざきのみこと
ひじりのみかど
おほさざきのみこと
履中天皇
いざほわけのすめらみこと
おおえのいざほわけのみこと
おおえのいざほわけのみこと
そもそも古代の日本の天皇の名前に「ん」は一切入らない。
適当に中国名っぽい名前を名乗ったんじゃね? 倭の五王が全部畿内勢力とは限らないってのは昔から言われてるだろ
魏志倭人伝を正しく読むため倭の五王の事績に九州邪馬台国の痕跡が残ってれば良いんだがね
誰か語ってくれ 倭の五王時代は400〜500年。筑紫勢力との統合は250年から。
250年から400年の間に在ったのは、古墳時代の始まり。
九州の円墳を日本海諸国の方墳と合わせ前方後円墳になった。
九州、日本海、吉備、阿波、近江、越、濃尾、関東
の勢力が、河内〜奈良に集い、後宮人事などによる権力を争ったのである。
400年にはすでに、この中心となる中央政府は形成さていたから
外交上で、中国名を名乗った王が居たってことでしょ?
王室内の殺し合いもこの頃に始まっている。 >>146
論理性のかけらも見られないコメントをありがとう。
ナンセンスだけど。 倭人伝論争の間違いは
魏帝に金印を貰ったから、卑弥呼は大倭王だ。
240年の大倭王は、九州に居たか? 畿内に居たか?
という 論点だが。
倭人伝を正しく読んでしまえば、247年までの筑紫は
本州勢力と統合していなかったことになる。
三国志終了と東夷侵攻の危機が、
各地の豪族の連携だけで良かった
日本を軍事統一国にした。
楽浪帯方との友好は、卑弥呼で終った。
九州起源の記紀はデタラメ。
考古学者や歴史学者は、記紀作者にしてやられた?
皇室忖度? 半島併合での半島史捏造? が、基礎?
370年には漢字教師は来日したし
万葉集の、雄略=ワカタケルは歌を残した。
倭の五王の歴史は、残したが、嘘で消しただろ?
源氏物語の後宮は誰の後宮?
記紀成立に焚書、歴史の改竄は有ったが、
文学背景は消しきれてない。
考古学は後から付いてくる。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>151
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です
松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています
しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. おれも瓦焼けないし柱のほぞの削り出しも出来ないし土壁も作れないし漆喰も作れない .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. クナ国の遺跡は豪雨で流れた可能性大
邪馬台国もその近くだから永遠に見つからないだろうね .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>160
畿内説はもはや攪乱するくらいしかできることがないから察してやれ ヒラヒラでは、とうてい吉野ヶ里に太刀打ちできんかったもんな・・、 考古学とは無関係に、倭人伝を正しく読めば
邪馬台国は、190年から247年まで女王を共立していた
筑紫地域の大夫による21国、7万戸で、
帯方郡から1万2千里で、周旋可5千里の国々のこと
なのじゃないのかね?
平原や吉野が里は、この時の21国に含まれるだろうが、
女王宮は八女以南だし、伊都は吉武高木辺りだろ?
卑弥呼の墓は、糸島の可能性は有るけど
数か月で作った、径150mの墳丘墓ってのは、残るかね? どこに150mの墳丘墓って書いてあるの?そこから間違ってるよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています