邪馬台国畿内説 Part542
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1575478910/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>892
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は魏書曰く、などの
魏志倭人伝を直接引用した事を示す文言がある
それらには卑弥呼の遣使は景初三年
景初二年になっているのは11世紀以降の復刻本と
誤記が多い通典
11世紀以前の魏書曰くとある史書のほとんどが卑弥呼の魏の遣使は景初三年と記しているので
可能性とすれば卑弥呼の遣使は景初三年と11世紀以前の魏志倭人伝には書いてあった事になる >>891
会稽東治の東は福建省福州市の東
位置で言えば沖縄か台湾辺りという事ははっきり判明している
九州というのは結論先にありきの循環論法
そして魏志倭人伝の行程記述でも
邪馬台国へ行くには不彌国から南に水行計30日陸行1月と
明らかに九州北部より南を想定して陳寿は記述している
陳寿自体が邪馬台国を九州北部には想定していなかったということ 九州説はなぜとっくに破綻している嘘を何度もくり返しては論破されるのだろうか。。。 >>853
>類一寸千里の法とな何かな<
自分で、淮南子を読んでみろ。
>ホケノ山は天井が後世に崩落しているのだよ
天井が無事だったら小枝も添え物というのに説得力もあったろうけど
天井が崩落しちゃっているから混入物という意見を否定できなくなり
炭素年代測定では4世紀中ごろと出たからその頃にホケノ山は天井の崩落があったと
天井崩落の年代特定物として利用される <
天井が崩落した、と言っても、
地表面に陥没大穴が出来ていた、という話は聞かないし、
地表にあった小枝が槨内に入るような陥没であったのか?も聞かないし、
説明画像では、槨の天井の割れ目から土砂が崩れ落ちて中にあった小枝を覆っただけ、
というような画であり、
地表部にあった小枝が槨内にまで落ちた、というような状況ではなかった。 >>867
>何らかの計測などの実態があった…
漢書西域伝では、長安から大月氏国までが萬千六百里だからな。
邪馬台国までの萬二千余里は、その大月氏萬一千六百里に四百余里をプラスしたものだろう。
大月氏よりもやや遠いという意味だよ。
だから、帯方郡から邪馬台国までが実測萬二千余里あるというものではないな。
また、波頭万里という慣用句があるように遠いところの意の万里よりもさらに遠いところという慣用句が魏の頃にはできていたのだろう。
漢書の編纂と同じころに造られた淮南子でも萬二千里が地の尽きるところという用い方がされていることをみると、萬二千余里はとても遠いところの意として用いられたと考えるのが妥当。 副葬された花小枝の発見者・同定関係者には、
本来は、考古学会賞とか大勲章とかの数々の栄誉が授与され、その名も永遠の歴史に留められたであろう。
しかし、得られたはずのまたとない栄誉や、名誉や、名誉職も、些細なメンツにこだわって自ら潰してしまったわけだ。
奥山、愚かなり・・・。 >>856
>じゃ邪馬台国が九州だったという根拠は?
邪馬台国は九州だから1万2千里は短里だったというのは循環論法だからな<
何度も書いたよ。
根拠は、唐会要の倭国伝の「正北抵新羅」だよ。
それから、邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言だ。 >>905
類一寸千里の法を説明できないの
もしかしてそんな物存在してないからか
ホケノ山古墳には天井の崩落跡がはっきりある以上
小枝も土砂に混じっていた異物という説明を否定する事は原理的に不可能
そして小枝の年代測定は4世紀だから天井の崩落が4世紀という説明の否定も
九州説はする事が不可能 >>908
たったのそれだけで根拠になると思うのか
そもそも魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東
現在でいう福建省福州市の東の沖縄や台湾辺りと書いているのだが 5ちゃんねるの日本史部門は、全体的にレベルが低いので、邪馬台国畿内説のように、破綻するのではないのかな。 >>857
>魏志倭人伝に邪馬台国の位置は会稽東治の東
現在の地図で見て沖縄や台湾の辺りになるから九州説は崩壊<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
会稽東治の東は、ほぼ九州島付近であるから、「沖縄や台湾の辺り」が×。
>畿内説は卑弥呼の時代3世紀から存在する前方後円墳や<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の前方後円墳は、3世紀末の石塚などからであるから、卑弥呼の時代にならず、×。
>景初三年、239年と卑弥呼が魏に使いを送った年とされる年号の記銘された
三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡などの考古物証があり生き残る<
卑弥呼の遣使は景初二年であるから、×であるし、
景初三年の紀年鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師の「陳氏」の作であるから、×。 その土砂に交じっていた「異物」なるブツをC14 検査に回したという判断行為自体、
当初は異物と判断していなかったことの証明である。
依って、分析結果が出てから、混入遺物ダー、と叫んだこと自体が、語るに落ちた秋の夕暮れ、、。 ホケノ山3世紀説も、小枝や宇宙線観測で破綻し、会稽福州説も、良渚城発見で破綻し、邪馬台国畿内説というくだらない仮説もついでに破綻したのだったね。 >>869
「南→東」などの嘘つき騙しばかりして来た大和説の老人学者らは、
人離れが激しくて、残された者も高齢化が進み
認知症の症状が表れ始めているのではないだろうか >>912
会稽東治の東は福建省福州市の東
地図で見ると沖縄や台湾の辺り
畿内のホケノ山古墳は炭素年代測定法と
棺内の副葬品の年代観から3世紀中葉のもの
魏書曰くと魏史を直接引用して書かれたとある
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
卑弥呼の魏への遣使は景初三年と書かれている モグラじゃあるまいし、
結構な大きさ長さの小枝が、土の中をスルリ通り抜けたという見解が誤りであることは否定できない。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、このスレッドは、一般化された2次関数の研究のための計算用のスペースに使用すれば、良いよ。 反論できないからオウム返し
九州説オウム人間ザラコク 九州説はよくもまあこんなに嘘ばっかついてられるもんだ
人間かどうかも怪しくなってきた ホケノ山3世紀説も、小枝や宇宙線観測で破綻し、会稽福州説も、良渚城発見で破綻し、邪馬台国畿内説というくだらない仮説もついでに破綻したのだが、
奥山氏は、まだ、嘘つき騙しのために闘っているな、 C14の分析結果が出てしまってから、
これは混入遺物ダー、と叫んだこと自体が手遅れで、語るに落ちた秋の夕暮れ、、。 >>878の訂正
また畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の前方後円墳は石塚の3世紀末以後であり、
卑弥呼の冢は3世紀前半末頃であり、
大和を邪馬壹國女王之所都とするのは非合理的 奥山氏は、「ホケノ山3世紀説も、小枝や宇宙線観測で破綻し、会稽福州説も、良渚城発見で破綻し、邪馬台国畿内説というくだらない仮説もついでに破綻したのだが、
奥山氏は、まだ、嘘つき騙しのために闘っている」という真実から目を背けるしかないのだな。 結構な大きさ長さの小枝が、土の中をスルリ通り抜けたという見解が誤りであることは否定できない。 >>924
それなら当時九州という呼び名も存在していなかったぞ
九州説は嘘つき騙し 天井の上からこぼれた土砂が、小枝の上に降り積もっていたとする図による説明自体に疑問がある。
はたして、その状況を示す証拠写真があるのであろうか、 天井石野崩落といっていたのに、
実は天井石野隙間から、パラパラと土がこぼれ落ちた程度だったのか、、。 ムムム。 九州説はなぜ学説でもとっくに畿内で結論が出てる邪馬台国に
無意味な嘘をつきまくるのか
儒教あるいは共産などの思想絡みである事は間違いなし
もしくは宗教的な信念に基づいた呪詛を行っているセンも濃厚 思想史みたいなのを調べた事あるけど
共産主義者は神などいないと無神論を広めながら
裏ではちゃっかり呪術的なものには力があると考えて悪魔崇拝とかやってるらしいな
九州説はもしかして畿内説に呪いの黒魔術ごっこでもやっているのか 九州説は呪いとか黒魔術とか信じてるの?
中二病も大概にしときなよ? >>928
奥山氏は、2次関数を理解していないのだったね。 奥山氏は、真夜中に、スレッドを作成するのだろうか、、、 >>874
>頭の悪すぎる卑劣な奥山氏が、支離滅裂になってしまい・・・<
奥山氏をまともな人間になるように教育するスレなんだよ >>938
不等式の方が、面白いのではないのかな。 >>919
捨てセリフは飽きた
なんか、語れよな 奥山さんよーーー 九州説はもしかしていい歳こいて黒い服着てサタンよーとかやってんの?
ああはずかし 一般化にとっては、不等号は、不合理の始まりなのだね。 スレが1000近くなり次スレが立つまで
奥山も、つぶやきは来ない
何故だかわかるかな「??? >>901
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は魏書曰く、などの
魏志倭人伝を直接引用した事を示す文言がある
それらには卑弥呼の遣使は景初三年<
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は、特に、「自己解釈に拠る書き換え」のために、
陳寿の魏志写本版本との差異が多い事で有名な後代史書。
>景初二年になっているのは11世紀以降の復刻本と<
宋明清代の校勘学者は、誰も「景初二年」の校勘をしていない、という事は、
版本も写本も全て「景初二年」であった、という事。
>誤記が多い通典<
通典は、逆に「魏明帝景初二年」とはっきり、「明帝」の名前まで出して、
景初二年が正しい、と主張している。
>11世紀以前の魏書曰くとある史書のほとんどが卑弥呼の魏の遣使は景初三年と記しているので
可能性とすれば卑弥呼の遣使は景初三年と11世紀以前の魏志倭人伝には書いてあった事になる<
「自己解釈に拠る書き換え」の多い後代史書の記載は、半分偽書であり、根拠に使えない。 九州説派サタンか何か信じてるかわからないが
それは何の力もないようだな
学説は畿内説で決着してるし教科書にも畿内説有利と載るありさま >>944
では、
奥山氏(z)=z×z<│ai│
は、どうなのだろうか、、 >>932九州説はなぜ学説でもとっくに畿内で結論が出てる邪馬台国に
無意味な嘘をつきまくるのか <
学説???何処の???誰の???
学会?????畿内説互助会???? やはり、奥山氏は、頭の悪すぎるプロ固定化された無職なのだな。
948日本@名無史さん2019/12/12(木) 22:49:44.83
九州説派サタンか何か信じてるかわからないが
それは何の力もないようだな
学説は畿内説で決着してるし教科書にも畿内説有利と載るありさま >>947
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は魏書曰くと魏志倭人伝の直接引用を記銘しているから
それらの著者が見た倭人伝には景初三年と記されてあったということ >>950
普通に史学会だけど
現在では史学は邪馬台国畿内説を前提にして論文が書かれたり研究がされているということ 邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、新しいスレッドを5ちゃんねる以外に作成し、作成する新しいスレッドの宣伝を活発化させれば、良いのではないのかな。 九州説はいい年こいて裏でサタンの力で歴史を書き換えてやるうーとかやってないで現実を見ようね 文学よりも科学的な優れた分野のあらゆる学部の者達が、毎年、大量に採用される、日本国の公式な組織では、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く存在しないという真実を国民に教育中なのだったね。 無職の奥山氏は、真夜中にも、スレッドを作成するのだったな、、、 >>902
>会稽東治の東は福建省福州市の東
位置で言えば沖縄か台湾辺りという事ははっきり判明している<
間違い。会稽東治之東は、「沖縄か台湾辺り」ではなく、ほぼ九州島付近。
>九州というのは結論先にありきの循環論法<
大和というのは、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しであり、
皇国史観という結論先にありきの循環論法。
>そして魏志倭人伝の行程記述でも
邪馬台国へ行くには不彌国から南に水行計30日陸行1月と
明らかに九州北部より南を想定して陳寿は記述している<
間違い。
投馬國は側副傍線国説明であり、主行程は不彌國で萬二千余里が終わっているから、
不彌國の直ぐ南に邪馬壹國女王之所都がある事になり、
「水行十日陸行一月」はその直前の「女王之所都」の説明文になり、
「郡から女王之所都」の所要日数。
>陳寿自体が邪馬台国を九州北部には想定していなかったということ <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この男は・・・・アホ詐欺師であり、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南にある事になるから、
陳寿は、九州北部の筑紫に邪馬壹國がある、と主張している事になる。 >>903
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
壊滅のようですなあ >>904
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘吐き騙しの大和説は、
なぜとっくに破綻している嘘を、
何度もくり返しては論破されるのだろうか ホケノに天井石はない
木製の天井は徐々に腐っていく >>959
会稽東治の東に当たるのは福建省福州市の東
地図で見たら沖縄や台湾の辺りで九州よりはるか南
魏志倭人伝の記述もそれに合わせて邪馬台国は不彌国からすぐ南ではなく
南に計30日水行陸行1月
二つの情報が両方とも九州北部ではなくそこから相当南部を指しているから
陳寿が邪馬台国を相当南に想定していたのは明らか
畿内説は魏の年号景初三年銘の三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡
前方後円墳と魏志倭人伝ほか史料との記述の一致から機能的に導き出される結論
一方九州説は邪馬台国が魏志倭人伝に不彌国から南に30日水行1月陸行の
会稽東治の東で地図で見れば福建省福州市の東の沖縄や台湾の辺りと書かれていて崩壊 >>961
>>962
オウム返しをするばかり
オウム人間ザラコク >>906
>漢書西域伝では、長安から大月氏国までが萬千六百里だからな。
邪馬台国までの萬二千余里は、その大月氏萬一千六百里に四百余里をプラスしたものだろう。
大月氏よりもやや遠いという意味だよ。<
魏の役人らが「四百余里をプラス」する必要も理由もないから、単なる妄想であり、×。
>だから、帯方郡から邪馬台国までが実測萬二千余里あるというものではないな。<
魏の役人らは、ズルしてバレれば首が危ないので、ズルしないものであるから、×。
>また、波頭万里という慣用句があるように遠いところの意の万里よりもさらに遠いところという慣用句が魏の頃にはできていたのだろう。
漢書の編纂と同じころに造られた淮南子でも萬二千里が地の尽きるところという用い方がされていることをみると、萬二千余里はとても遠いところの意として用いられたと考えるのが妥当。<
これも同じ。魏の役人たちは、ズボラして慣用句を使った事がバレれば、
首が危ないから、しないもの。 >>966
>魏の役人らが…
魏使が倭国に来たときには、大月氏国の向こうを張って倭国を金印授与国にすることに決まっていたので、邪馬台国までの距離を大月氏国より遠い萬二千余国とすることも同じく決まっていたのだろう。
だから、役人たちにはなんのお咎めもなかった。
それに、萬二千余里が大月氏国のように遠いところという慣用句となっていたことは漢書編纂より相当時間がたっているので当然だな。
万里自体が遠いところの慣用句なのだから、それよりも遠い萬二千余里がさらに遠いところの慣用句でないはずがない。 >>909
>類一寸千里の法を説明できないの もしかしてそんな物存在してないからか <
淮南子は、(8尺棒ではなく)10尺棒を使ったの。
>ホケノ山古墳には天井の崩落跡がはっきりある以上
小枝も土砂に混じっていた異物という説明を否定する事は原理的に不可能<
天井に崩落跡があっても、その地表部分に、槨内にまで達する陥没穴が出来なくっちゃ、
地表の小枝が槨の底にまで、落ちれないよ。
>そして小枝の年代測定は4世紀だから天井の崩落が4世紀という説明の否定も
九州説はする事が不可能 <
小枝が古墳表面になくっちゃ、「天井の崩落も4世紀」だなんて、ならないよ。 九州説は共産もしくは儒教思想に基づく中二呪詛まじない集団とバレた
共産主義はサタン思想を本気で信じてやってるんだな
周りに言いふらしたろ >>910
>たったのそれだけで根拠になると思うのか
そもそも魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東
現在でいう福建省福州市の東の沖縄や台湾辺りと書いているのだが <
会稽東治之東が、「福建省福州市の東の沖縄や台湾辺り」だなんて、
書いてないし、ならないよ。 >>916
>会稽東治の東は福建省福州市の東 地図で見ると沖縄や台湾の辺り
畿内のホケノ山古墳は炭素年代測定法と 棺内の副葬品の年代観から3世紀中葉のもの
魏書曰くと魏史を直接引用して書かれたとある 梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
卑弥呼の魏への遣使は景初三年と書かれている <
これ、みな否定済みであり、否定済みのものの3回目以上の「・・・・の貼り付け」ね。 >>920
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
よくもまあこんなに嘘ばっかついてられるもんだ
人間かどうかも怪しくなってきた >>970
会稽東治は現在の福建省福州市に相当する場所だよ
様々な文献によって明らか
その東の海上が沖縄や台湾
魏志倭人伝でもそれに則するように邪馬台国は九州より南に水行30日陸行1月と
かなり南の海上に想定されている >>972
九州説はオウム返しばかりのオウム真理教
オウム人間ザラコク >>929
>それなら当時九州という呼び名も存在していなかったぞ
九州説は嘘つき騙し <
燕の南から来た倭人も、呉王夫差の遺民の姫氏も、
自分らが「中国の九州」の出目であった事を知っており、
阿倍仲麻呂も自分らの出身地が(中国の)九州であった事を、
王維らにも話していたの。 >>932
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説は、
なぜ、存在もしなかった畿内や邪馬台国を使った、無意味な嘘をつきまくるのか
儒教あるいは人種差別的な皇国史観などの思想絡みである事は間違いなし
もしくは宗教的な信念に基づいた呪詛を行っているセンも濃厚 >>934
思想史みたいなのを見た事あるけど
皇国史観主義者は、神などいないと無神論を広めながら
裏ではちゃっかり呪術的なものには力があると考えて悪魔崇拝とかやってるらしいな
大和説はもしかして九州説に呪いの黒魔術ごっこでもやっているのか >>943
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
もしかしていい歳こいて黒い服着てサタンよーとかやってんの?
ああはずかし >>975
当時の九州人が自分とこを九州と認識していたら
邪馬台国は九州ではないな
卑弥呼の貰った印は親魏「倭」王印だから
親魏九州王じゃあないから邪馬台国は九州じゃなかった事に >>977
>>978
なに急に黒魔術とか言い出して
九州説って頭おかしいんじゃ >>948
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
サタンか何か信じてるかわからないが
それは何の力もないようだな
学説は九州説で決着してるし、
国民の投票でも、九州説有利と載るありさま >>952
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は、特に、「自己解釈に拠る書き換え」のために、
陳寿の魏志写本版本との差異が多い事で有名な後代史書。
宋明清代の校勘学者は、誰も「景初二年」の校勘をしていない、という事は、
版本も写本も全て「景初二年」であった、という事。
通典は、逆に「魏明帝景初二年」とはっきり、「明帝」の名前まで出して、
景初二年が正しい、と主張している。 >>983
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は
魏書曰くと魏志倭人伝の文を直接引用したと書いてあるから
自己解釈による書き換えはなかったと言えるよ
そしてそれらの著者が見た魏志倭人伝には卑弥呼の遣使は景初三年と書いてあった >>953
「史料事実殻の帰納的確率的な推論の九州説」は、普通に史学会だけど
現在の史学では、「邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘吐き騙し文言」であり、
九州説を史料事実や史料実態を前提にして論文が書かれたり研究がされているということ ほらほら九州説は何の思想に基づくまじないごっこか知らないけれど
嘘ばっかついてても何にもならないからな
何か呪いの力とか本当にあったら学説は畿内説にならないだろうし
畿内説を主張する人間も存在しないだろうしスレも立たない >>955
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
いい年こいて裏でサタンの力で歴史を書き換えてやるうー
とかやってないで現実を見ようね >>987
現実を見た方がいいのは九州説じゃないかな >>960
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らには、
真理そして学説などの嘘は通用せんから >>989
畿内説は何か言い訳なんてする必要があると思うか >>964
会稽東治の東に当たるのは福建省福州市の東
地図で見たら沖縄や台湾の辺りで九州よりはるか南
魏志倭人伝の記述もそれに合わせて邪馬台国は不彌国からすぐ南ではなく
南に計30日水行陸行1月
二つの情報が両方とも九州北部ではなくそこから相当南部を指しているから
陳寿が邪馬台国を相当南に想定していたのは明らか
畿内説は魏の年号景初三年銘の三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡
前方後円墳と魏志倭人伝ほか史料との記述の一致から機能的に導き出される結論
一方九州説は邪馬台国が魏志倭人伝に不彌国から南に30日水行1月陸行の
会稽東治の東で地図で見れば福建省福州市の東の沖縄や台湾の辺りと書かれていて崩壊 <
この投稿も「貼り付け」であり、何度も反論済みであり、
南→東などの嘘吐き騙し投稿は、放置すべき。 >>967
>邪馬台国までの距離を大月氏国より遠い萬二千余国とすることも同じく決まっていたのだろう。<
決まっていたんなら、魏の役人たちは、いちいち里数や方向を書く必要がなかったのであり、
いちいち里数や方向を記録し、
「余」や「有効数字1桁近似値」を書いたりする必要もなかったのに、
いちいち書いた、という事は、魏の役人たちの仕事であった。 >>969
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
「人種差別皇国史観」もしくは儒教思想に基づく呪詛まじない集団とバレた
人種差別殺し合い戦争はサタン思想を本気で信じてやってるんだな
周りに言いふらしたろ >>973
>会稽東治は現在の福建省福州市に相当する場所だよ 様々な文献によって明らか<
揚子江河口の南北両側だよ。
>その東の海上が沖縄や台湾<
ほぼ九州島付近。
>魏志倭人伝でもそれに則するように邪馬台国は九州より南に水行30日陸行1月と
かなり南の海上に想定されている <
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
九州よりかなり南の海上に想定されては、いない。 >>978
>当時の九州人が自分とこを九州と認識していたら
邪馬台国は九州ではないな
卑弥呼の貰った印は親魏「倭」王印だから
親魏九州王じゃあないから邪馬台国は九州じゃなかった事に<
関係がないな。
倭人は、自分らの出目は、
中国の九州の中にいた倭という部族である、と認識している事になるんだから。 >>984
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は
魏書曰くと魏志倭人伝の文を直接引用したと書いてあるから
自己解釈による書き換えはなかったと言えるよ
そしてそれらの著者が見た魏志倭人伝には卑弥呼の遣使は景初三年と書いてあった<
そりゃダメだ。
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧の「倭」に関する記載部分と、
版本の魏志倭人伝の記載を並べて書き出して、比較して見れば、
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧が、魏志倭人伝の文章をどれだけ沢山、
「自己解釈に拠る書き換え」をやっていたのか?が、すぐ判る。
この事は、以前は、
「イリヒコ」という人物のサイトの「倭人伝・倭伝 対照表」というのを提示すれば、
一目瞭然であったのであり、イリヒコは、
東大から京大を渡り歩いて、上野の博物館の展示物の変更を直ぐに命令出来る地位にいた「天誅」という男が「畏友」と呼んだ人物であり、
しかし、そのイリヒコの「倭人伝・倭伝 対照表」というサイトが、
私がYahooから2chに移ったすぐ後に、
https://info-geocities.yahoo.co.jp/
のように、削除消失されてしまった。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。