契丹遣使事件

『中右記』寛治六年九月一三日条に、契丹に渡った商人僧明範(遼史にみえる僧応範は明範の誤記)が、左衛府において検
非違使等の勘聞をうけたことがみえる。
 ここにおいて明範は、「件明範越立趣契丹国、経数月帰朝、所随身之宝貨多」・「僧明範多以兵具売却金銀」と記されている。
翌寛治七年(一O九三)年になると、二月一九日には、拷訊を受けていた明範が、前権帥藤原伊房の使として契丹に渡ったこ
とを自白し、五月二五日になってやっと、法家の勘状にしたがい、前権帥藤原伊房は正二位より一階を降して従二位とし、同
時に中納言職をとどむること、前対馬守藤原敦輔は従五位下の位記をとどむること等の処分が決定された。