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邪馬台国畿内説 Part612
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0001◆n7jxAxKCBhb6
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2020/06/30(火) 03:02:50.50
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1593007502/
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0103◆njMmQkzjDGRJ
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2020/06/30(火) 03:45:02.46
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0104◆njMmQkzjDGRJ
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2020/06/30(火) 03:45:38.51
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0105◆njMmQkzjDGRJ
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2020/06/30(火) 03:46:10.91
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0106◆njMmQkzjDGRJ
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2020/06/30(火) 03:46:42.85
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0107◆njMmQkzjDGRJ
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2020/06/30(火) 03:47:22.06
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0108◆njMmQkzjDGRJ
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2020/06/30(火) 03:47:56.38
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0109◆njMmQkzjDGRJ
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2020/06/30(火) 03:48:29.40
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0110◆njMmQkzjDGRJ
垢版 |
2020/06/30(火) 03:49:06.93
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0162日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 06:42:23.70
>>968
>>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
倭國の支配層はは「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って、
在地であった南方系縄文人部族を支配して行った。

>空想ばかりのクーソ説の典型ですな
他の人が誰も認めてくれない独自解釈だけが根拠でしょ

マスコミさん、
この大和説男の投稿も、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
空想ばかりのクーソ大和説の典型ですよね。
国民や世界の学者らにも殆ど認められていない独自解釈だけが根拠でしょうね。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 08:50:05.46
こんな真夜中に新スレ立てたらスレ立て邪魔できないだろ
みんなが起きている昼間にスレ立てやれよ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 08:57:15.44
>>969
>>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、

>だから、そんなものが実態だという立証が何もできてないでしょ
「言い張るだけ」は説じゃない 子供のダダ

「南」も「正北抵新羅」も史料事実そのものであり、
それの史料批判を経て得られた「帰納的高確率的な推論」は、実証であり、実態だな。
この男(おそらく類スレ主)も、「言い張るだけ」は説じゃないよ。
宗教に狂ったアホ大和説者や、子供のダダに過ぎない。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 09:16:12.10
>>163
スレ主は万年引きこもりだから
起きた時が朝なんだよw
0166日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 09:29:33.83
>>970
>>唐会要は、同時代にも存在していた国として倭國伝と日本國伝とを書き分け、

>ウソだな

これまたこの男(おそらく類スレ主)のウソだな。
www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/toukaiyo.html
に書かれた史料事実そのものだ。

>同時に朝貢した記録はひとつも無い

これまたこの男(おそらく類スレ主)のウソだな。
唐会要倭國伝の「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の記録は、
先に書かれた旧唐書の日本國伝の最後にも「開成四年、又遺使朝貢」と書かれており、
倭國と日本國とが、同時に「開成四年に遺使朝貢」した事を示す記録であり、
という事は、開成四年に、九州倭國と大和日本國とが、
ほぼ同時に遣使した事を示す記録だ。

この記録に関しては、Yahooの議論で、
東大と京大とを渡り歩いた天誅という(漢籍の書棚の作者である)大和説学者と、
何度も議論した事であり、
私の指摘に拠って、天誅が何度も旧唐書の記載を書き換えて、書き直した、
という曰くつきの論点だ。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 09:34:01.21
>>975
>「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの、

これを曲解だ、嘘だとわめいてるだけで
大和説者が、まったくのように反論しないのは、なぜ?

大和説は論争に負けてるって認めてるの?
0168日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 10:05:02.70
>>976
>>国民や世界の学者らにも殆ど認められていない独自解釈だけが根拠でしょ

>国民や世界の学者らにも殆ど認められていない独自解釈だけが根拠でしょ
旧唐書や唐会要にある倭国と日本は同じ国だってのは
日中の学者の昔からの定説だけど?

旧唐書や唐会要にある倭国と日本國とは違う國だ、ってのは
史料事実や史料実態そのものであり、
(日本の大和説学や政府以外の)国民や中国学者や世界での、
昔からの定説だけど?
0169日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 10:31:59.72
>>977
>>唐会要は、同時代にも存在していた国として倭國伝と日本國伝とを書き分け、
全く違う場所の違う国だったとしても書き分けているんだよ。

>こういう、自分独自の考えの結論部分を言うだけで理由はまったく言わないでしょ?

唐会要という出典を明示し、理由も明示してある。
この男(おそらく類スレ主)議論た自説の立証をする気がまるで無い
これが大和説が死んだ致命傷だ
0170日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 10:34:10.46
キナイコシが畿内説を九州説と書き間違えて自己紹介するスレ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 10:35:48.66
>>169
>唐会要という出典を明示し、理由も明示してある。

なんで今ここで理由が言えないの?


九州説さん、またウソついてる?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 10:40:44.87
ところで、奥山って何の研究やってんだっけ?
0173日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 10:43:06.57
>>982
日本の研究者には、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をする、
まともな学者が、殆どいなくなり、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの、
自分独自の考えの結論部分を言うだけで、
理由はまったく言わない、学問では相手にされていない、
不要な天誅殺戮主義的な皇国史観学者が荒らすようになった
0174日本@名無史さん
垢版 |
2020/06/30(火) 10:59:50.63
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)


馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0175日本@名無史さん
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2020/06/30(火) 11:06:22.02
>>173

朝鮮の人種的病 『恨』
0176日本@名無史さん
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2020/06/30(火) 11:37:01.13
>>991
>残念でした
倭國と日本國とが同時に朝貢したと書いた史料は無い

残念でした。
旧唐書日本國伝では、「開成四年、又遺使朝貢」であり、
(倭國伝と日本國伝とを記載場所を完全に話して別の離れた場所に書き分けた)
日本國伝での日本國の遣使の記録がなく、
倭國伝での「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の記録だけであり、
はっきり倭國遣使があった事を記録している。

>開成の遺使は
旧唐書では日本伝にのみ有り、倭国伝には無い
唐会要では日本伝には無くて、倭国伝には有る
つまり日本=倭国の証拠で薜原朝常嗣は藤原北家の貴族「藤原朝臣常嗣」

ダメだ。
唐会要倭国伝は、倭國伝と日本國を完全に離れた別の場所に書き分けているんだから、
「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の「薜原朝常嗣」は、
確実に「倭國の遣使である」と申告上奏した、という事になるのであり、
旧唐書日本國伝の「開成四年、又遺使朝貢」では、「薜原朝常嗣」とは書かれておらず、
「薜原朝常嗣」であったのか?が不明であり、
「藤原朝臣常嗣」であったとしても、彼は「薜原朝常嗣」を名乗った事も不明になるのであり、
だから、「藤原朝臣常嗣が日本國使であった」という主張が根拠にならず、
だから、判る事は、薜原朝常嗣という人物が倭國使節を名乗って申告した、という事までだ。
0177日本@名無史さん
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2020/06/30(火) 11:51:49.21
>>992
>zarakokuは自分の記憶違いを明治大学がこっそり書き直したと言い張った前歴がある男

Yahooでの議論の途中で、私の指摘のためだったのか?は不明だが、
明治大の紀要の佐々木の論考が、一旦消えてしまった事があって、
しばらくしたらまた掲載再開され、その時に、
「筑紫における祭器土器の庄内に関する記述に、小変更があった」、
という事があったから。
0178日本@名無史さん
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2020/06/30(火) 11:55:02.29
>>1000
>また九州説が惨敗

大和説の反論や主張の論点には、全部否定や反論をしてあるから、
また大和説者の惨敗。
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