邪馬台国畿内説 Part612
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1593007502/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>899
畿内説に都合の悪い真実を発見したのでアカハラを受け追放したんですね
知ってますよ 誤字訂正
>>899
畿内説に都合の悪い真実を発見したのでアカハラを受け追放されたんですね
知ってますよ >>891
>卑弥呼やな
無礼者! 大王の陵墓を沼地にとは、何たることかw @阿波 >>891
台与
卑弥呼は戦時中に亡くなり、戦時中に築陵されているので、そんな奢侈な陵になる訳がない (手直し)
その説は畿内説から見れば支離滅裂で不備だらけ
大和では誰からも相手にされなかった・・・ >>905
>台与
無礼者! 大王の陵墓を沼地にとは、何たることかw @阿波 >>896を見ればわかる
九州説の人は関川尚功が誰か知らない
関川尚功の説がどういう内容かも知らない
ただ、自分に都合の良い結論を言ってくれた人の名前を知ってるだけ
九州説はその程度だ 結局、畿内説は、奈良盆地でドツボにはまり、息の根を止められる宿命なんだよ。 そして、結果的に九州説もね。 @阿波 結局、畿内説は、奈良盆地でドツボにはまり、息の根を止められる宿命なんだよ。 そして、結果的に九州説・東遷説もね。 @阿波 古代後期小氷期
『日本では弥生時代にあたる1〜2世紀頃には寒冷期を迎えました。
西暦300年頃に温暖な状態に一旦落ち着きましたが,400年頃には冷涼化のトレンドに戻り,5世紀中はそれが続きました。
600〜750年には再び著しく気候が寒冷化しました。この時代を古代後期小氷期(Late Antique Little Ice Age)と呼びます。
この後,750〜900年の間には旱魃が増えるなど顕著な温暖化があり,暖かい状態は10世紀まで続きました。』
畿内住人の多くは小氷期後の異常気象による大飢饉を逃れるため瀬戸内ルートで各地へ移住した
※畿内式土器が畿内→瀬戸内→大分→福岡へと伝搬されている
対馬海峡とは別のルートで若狭湾周辺から入植した半島系渡来人の分布
乾燥耳垢:渡来人(半島系)
湿潤耳垢:縄文系弥生人(本来の日本人)
https://i.imgur.com/wPgk6Bx.png >>909
これ関川さんやろw
[纏向遺跡]
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる
土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。
「この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」 邪馬台国畿内説を唱える連中は基本的に日本書紀に書かれている事を
すべて正しいものにしたいと言う願望がある。
記紀が正しいとするなら紀元前660年に建国した神武が万世一系で
ずーっと日本列島を支配していた事にしないと都合が悪い。
紀元前から大和にあって日本列島を支配していたのなら、234年の
卑弥呼の遣使も畿内にあった邪馬台国からでないと都合が悪い。
だから、色々な証拠捏造をして邪馬台国が畿内にあった事にしたいと
いうのが邪馬台国畿内説だ。
邪馬台国畿内説には自民保守派と連携した文科省から様々な支援がある。
一方九州説の方は兵糧攻めにあっているから学者が離れていき、先細り
状態。畿内説の連中は文科省の意向で出鱈目をほざいているに過ぎない。 >>926
>邪馬台国畿内説を唱える連中は基本的に日本書紀に書かれている事を
>すべて正しいものにしたいと言う願望がある。
証拠は?
また脳内キナイ説を創作?
だから九州説はんダメなんよね 理数系で言う「予想」は99.9%事実として成り立ってきたが、文系で出てくる「推測」は99.9%ぐらいハズレだよな
文系学者は軽率な情報発信を慎むべきだと思うよ >>927
お前は現物によって明確にされた真実に目をそむけて現実逃避しているようにしか見えないぞ? >>814
>史書ではずっと臺輿と表記されていたのが
11世紀の太平御覧で壹與になる・・・
ならん。
魏志倭人伝では壹與と表記されていたのであり、
後代史書の臺與などは、後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」であり、
嘘つき騙しのインチキ記載だ。 >>929
そんな根拠も出せないことを言ってるのは
文系でも理系でもなく
無学だよ >>930
>お前は現物によって明確にされた真実に目をそむけて現実逃避しているようにしか見えないぞ?
それは錯覚だな
土器はモノの運搬に適さない
だから、あんな結論を出すのは交流と交易を混同したダメな推論だ >>932
証明たるや何なのかすら知らない奴が書いた>>1〜のテンプレも根拠の一つだw >>821
>隋書、北史、通史、太平御覧は魏志曰くなど魏志の文を引用して書かれている
それらは邪馬臺國と表記
ダメだ。
最初の記録である魏志倭人伝での史料事実は「邪馬壹國」であり、
後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國とは対象が違うものになっており、
梁書以後の「邪馬壹國→邪馬臺國」の書き換えは、
魏志の「邪馬壹國」を「自己解釈に拠る書き換えをした嘘つき騙し」文言である。「 >>934
>証明たるや何なのかすら知らない奴が書いた>>1〜のテンプレも根拠の一つだw
という証拠は? >>933
まず存在比率が異常に少ないこと
九州勢が持ち込んだと考えられる九州産の土器は1つも出土していない
誰が造ったのか拾ったのかも分からない九州式の土器が数個だけ >>925
>中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
実は、それらは伊勢忌部や東海忌部がもたらした物。 @阿波 >>891
>箸墓古墳が278mで当時としては国内最大で四段築成
後世の天皇稜の三段築成を超えてる王はだれか
卑弥呼やな
箸墓は4世紀であり、
卑弥呼の「冢」ではなく、前方後円墳であり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
大和は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って征服された地であるから、
卑弥呼の墓説は、×。 >>959
「忌部はん」 を舐めたらアカンぜよ! 日本の関東・北陸はおろか、朝鮮半島まで行ってるのに、何をかいわんや。 @阿波 >>955
>まず存在比率が異常に少ないこと
それ、関係ないでしょ?
運搬に使わないならさ >>961
>箸墓は4世紀であり、
>卑弥呼の「冢」ではなく、前方後円墳であり、
>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
このように、理由も言わずに決め付けるのが九州説
だから学問になれない >>897
箸墓は4世紀であり、
卑弥呼の「冢」ではなく、前方後円墳であり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
大和は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って征服された地である、
という事などへの反論もせず、
理由もなく言い張っても
大和説学者や大和説者や阿波説者らは馬鹿だって評価が固定するだけ >>965
反論されてるでしょ
理由言わなきゃ説にならないって >>899
橿原考古学研究所に大和説を唱える学者らがいます。
その説は、
箸墓は4世紀であり、
卑弥呼の「冢」ではなく、前方後円墳であり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
大和は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って征服された地である、
という事などへの反論もせず、
支離滅裂で不備だらけ
誰にも相手にされなかった >>906
大和説や纏向説は、
箸墓は4世紀であり、 卑弥呼の「冢」ではなく、前方後円墳であり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
大和は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って征服された地である、
という事などへの反論も出来ず、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
九州説から見れば支離滅裂で不備だらけ
国民の過半数や世界の学者らからは誰からも相手にされなかった・・・ >>909
この大和説男の投稿を見ればわかる
大和説の人は、関川尚功の説とはどういう内容の説であり、
関川尚功の説のどういう点がおかしいのか?、という事を言わないで、
反論投稿をしている。
ただ、自分に都合の悪い結論を言った人である、という程度の事しか言えない。
大和説者はその程度だ >>970
このように、反論はまったく見ないでナイナイ言い張るだけ
内容は一見してウソと分かるモノばかり
九州説が亡んで当たり前だ >>973
>九州説が亡んで当たり前だ
畿内説の相手は、九州説が分相応! わははははは @阿波 >>924
>畿内住人の多くは小氷期後の異常気象による大飢饉を逃れるため瀬戸内ルートで各地へ移住した
※畿内式土器が畿内→瀬戸内→大分→福岡へと伝搬されている
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
筑紫式の土器が、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」などに拠って、
筑紫→瀬戸内→近畿→東海などへ伝搬した。 >>928
>>邪馬台国畿内説を唱える連中は基本的に日本書紀に書かれている事を
すべて正しいものにしたいと言う願望がある。
>証拠は?
反論の根拠は?。
また何でも「証拠は?」の応酬合戦に持ち込んで、
世間の人々を、議論に勝ったかのようなを言い方をして騙す?。
だから大和説はんダメなんよね >>978
>反論の根拠は?。
あんたが断定したのに証拠を出さないことか
反論の根拠だよ
最強の根拠だ >>978
>また何でも「証拠は?」の応酬合戦に持ち込んで、
>世間の人々を、議論に勝ったかのようなを言い方をして騙す?。
「そんなこと断定するなら証拠出せ」と言われて
証拠が出せないんなら
断定した奴の負けだ
「証拠は?」と言った方が勝ち
「議論に勝ったかのようなを言い方」じゃない
実際議論に勝ったんだよ
そんなことも分からないから九州説は学問になれない 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 弥生人が定住していた痕跡が異常に希薄な奈良盆地w
行橋・長井遺跡 弥生期の箱式石棺31基出土 23日に現地説明会 /福岡
https://mainichi.jp/articles/20191121/ddl/k40/040/331000c >>941
魏書曰くと書かれている史書の倭人伝に邪馬臺國と書いてあるのだから
史書が参照した魏志には邪馬臺國と書いてあったという事
邪馬壹國が倭人伝に現れるのは12世紀になってから
邪馬壹國は邪馬臺國の写し間違い >>929
科学的調査の理数分野でも
前方後円墳ホケノ山は卑弥呼の時代から存在すると出たり
三角縁神獣鏡の素材銅は魏鏡と同じものと出たりして
邪馬台国は畿内にあった事を示してるよ >>991
>邪馬壹國は邪馬臺國の写し間違い
その通り。 @阿波 >>994
>邪馬台国は畿内にあった事を示してるよ
いや、示していない。 @阿波 隋書には大和はすなわち魏志に書いてる邪馬臺のことであるという風に記載されている レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。