邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>641
呼子付近に上陸し東南へ500里(40km)で伊都GC付近
伊都GC付近までが末盧国で先が伊都国
更に100里(8km)で日向峠や糸島峠
日向峠や糸島峠までが伊都国で先が奴国。 >>643
それは考古学的にも文献的にもあり得ない
12 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:27:27.31
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/qQUIcdb.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない >>644続き
570 :日本@名無史さん :2020/11/28(土) 01:54:13.64
>>550
そう考えたい気持ちも分からないではないけど、それだと魏志倭人伝を無視しすぎになってしまうと思う
伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう
では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
http://inoues.net/iron_nakoku.gif
博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区〜南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう
春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる
奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう >>643
東松浦半島から糸島市二丈付近が「末盧国」
糸島市南東部が「伊都国」
福岡市周辺が「奴国」
那珂川市付近が「不弥国」
伊都国が女王の王都で魏使の目的地。
>>644や>>645とも矛盾しない。 >>646
末廬国から伊都国まで500里だから合わないよ
奴国が福岡市もあり得ない、奴国の都は春日市の春日丘陵一帯だからね
その春日丘陵と福岡市西部は>>644のとおり文化が違う別の国 >>647
考えが根本的に誤っているよ
魏志倭人伝の記述の方法だと末廬国への上陸地点は東松浦半島の北端、呼子付近と考えられる
1里80mとして呼子付近からだと500里(40km)で伊都GC付近が末盧国と伊都国の国境となる
更に東へ100里(8km)で日向峠や糸島峠があり伊都GC付近と日向峠や糸島峠間が伊都国となる 旧松浦郡だとやはり唐津が中心地
ここから緩やかな標高100メートルほどの
厳木を通過して、多久、小城が距離も
方向も妥当なところ。
特に小城は西九州の要衝で
北は唐津、南は長崎
西は佐世保、東は佐賀になる地点。
一大率が周囲ににらみを効かせるのに
都合が良い場所。
糸島は福岡方向以外は海か山で
あまり地域と繋がりがない。 糸島は福岡方向以外は海か山で
天然の要害と言えよう
王都を建設するのにふさわしい場所だ 魏使が上陸し場所は末盧国の何処か?
魏志倭人伝を読むと魏使は帯方郡の郡治からではなくいきなり帯方郡の南端の海岸から出発している
狗邪韓国では上陸する事もなく対馬国へ海を渡り、更に対馬国を半周して一大国へ海を渡る
一大国をまた半周してから末盧国へ海を渡る
郡や国の中心ではなく国の端から端へと進んでいる
この書き方から次の末盧国へも国北端に上陸したものと考えられるので
末盧国の北端、東松浦半島の北に在る呼子付近が上陸地点である
末盧国の「濱山海居」「山と海の間の浜に住んでいる」との風景描写に呼子付近の景色は極めてよく一致する。 「濱山海居」「山と海の間の浜に住んでいる」呼子付近の風景
「草木茂盛行不見前人」「草木が盛んに茂り、行く時に前の人が見えない。」東松浦半島内を南へ進んでいる時の風景
「好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之」「魚やアワビを捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。」二丈の海岸付近の風景
末盧国で見た風景を順番に書いている。 呼子付近〜東松浦半島〜二丈の海岸〜伊都国GC付近の500里(40km)が末盧国の範囲 国の範囲って境界とかないのに。中心部の集落が国なだけ。
付随する大小の集落やら山や川がどこに属してるか
ってのもあるだろうけど。 >>648
根本的に間違ってるのは君の方
東夷伝の各国間の距離は基本的に「国境線から首都までの距離」が書いてある
末廬国〜伊都国だけは道に迷わないよう上陸地点から書いてあるようだがね
例えば高句麗伝
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/gisi_kokuri.htm
「高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮濊貃東與沃沮北與夫餘接 都於丸都之下 方可二千里」
高句麗の位置が遼東の東1000里と記されているが、この距離は遼東と高句麗の国境から高句麗首都の丸都までの距離が短里で記されている
遼東の都襄平から丸都までだと230kmほどなので短里でも長里でも一致しないし、方可二千里は短里でなければ遼東をも飲み込んでしまうのでそもそも長里ではあり得ない
襄平起点だと東に短里1000里の地点は丸都から短里2000里近く離れているので高句麗領方可二千里が成立しなくなるから「首都から国境までの距離」というのも違う
高句麗伝の記載と一致するのは「遼東と高句麗の国境線から高句麗首都・丸都までの距離」一択
上記を当てはめると奴国への東行百里は「伊都国と奴国の国境から奴国首都の春日丘陵までの距離」ということになる
>>641の通りってことだ 方可二千里が短里でなければあり得ない理由はこちら
505 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:11:52.51 ID:V7dsXfha0
>>102
夫余や高句麗の方可二千里、東沃沮の可千里は短里じゃないとその場所に収まらないよ
長里だと夫余や高句麗は約900km四方になって朝鮮半島の数倍、黒龍江省と吉林省がまるごと入るくらいの巨大国家になってしまう
朝鮮半島の付け根にそんな巨大国家を設定すると遼東まで飲み込まれて公孫淵は一体どこを支配していたのかということになる
https://i.imgur.com/BuYaHJT.jpg
522 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:39:48.29 ID:V7dsXfha0
>>505のついでに言うと900kmって魏の都・洛陽から蜀の都・成都までの距離に等しい
魏の都・洛陽から呉の都・建業(今の南京)までは650kmに過ぎない
夫余や高句麗の方可二千里が長里ではあり得ないことが理解できるだろう >>654
国が生まれれば自ずと国境は生まれる
中心部の集落が国なだけなんて事はない
周辺部の農地、その周りの山
隣の国の勢力との境までが国の範囲。
>>656
魏志倭人伝の場合は順路を書いてある
帯方郡の南端の海岸から出発して狗邪韓国の海岸へ7000里
狗邪韓国の海岸から対馬国の北岸へ1000里
対馬国の北岸から対馬国の南岸へ800里
対馬国の南岸から一大国の北岸へ1000里
一大国の北岸から一大国の南岸へ600里
一大国の南岸から末盧国の北岸へ1000里
末盧国の北岸から末盧国と伊都国の境へ500里
末盧国と伊都国の境から伊都国と奴国の境へ100里
国の中心ではなく国の端を基準として書かれている
海上移動が主で島国が多く国境線が明確だったのでこんな書き方が出来たんだ。 >>658
海上移動はともかく、上陸後の記載が東夷伝の他の記述と異なるということはあり得ない
>>656の通り >>656
おおむね合ってるけど、おかしい部分もある。
遼東の東国境線を鴨緑江と考えるなら、
そこから短里1000里で80km前後で高句麗の西国境線として、
高句麗が方可2000里=160km四方で十分に成り立つ。
遼東と高句麗の間の1000里は紛争地域ね。 >>659
途中から記述方法を変える事はしないよ
書き始めたら最後まで同じ法則で説明を続けるよ。 至と到と明確に記述方法を変えてあるのは、無視かな? 到は投馬国の中心地である狗邪韓国と邪馬台国の首都である伊都国にだけ使われているね。 投馬国は邪馬台国よりずっと南。
狗邪韓国は邪馬台国より北。
伊都が首都なのはそのとおりだが。 投馬国は狗邪韓国を含む朝鮮半島南部地域
邪馬台国は伊都国を首都とした北部九州地域
投馬国は邪馬台国の北側に在った。
到は投馬国の中心地が狗邪韓国で
邪馬台国の首都が伊都国である事を示している。 帯方郡から狗邪韓国までは七千里、つまり水行7日しかない。
投馬国は水行20日なので、全く別の国だ。 >>660
>遼東の東国境線を鴨緑江と考えるなら、
丸都は鴨緑江の北岸だからその解釈は不可能
丸都城は城址が見つかっているからそういう位置のごまかしはできないよ
現在の吉林省集安市なのは明白
ユネスコにも登録されてる
http://whc.unesco.org/ja/list/1135
> 中国東北部から朝鮮半島北半部にかけて、紀元前1世紀後半から紀元後668年まで栄えた高句麗王国時代の遺跡群。3都市に40の古墳群があり、
> 五女山城・国内城・丸都山城のほか、14の王陵と26の貴族墓からなる。
> 近代都市・集安に位置する国内城は、高句麗の首都が平壌に移った後も、重要な都市としてあり続けた。
> また、高句麗王国の首都の一つだった丸都山城の内外には、広大な宮殿や37の墳墓などさまざまな遺跡が残る。 >>661
そのとおり
ゆえに東夷伝の他の例と同じ書き方だ
>>656の通りだな >>655
太古の国は領域国家じゃなく都市国家だぞ
どの年、どの集落がどこに所属するというのは重要だが、国境線は明瞭ではない
むしろ、飛び地的に遠方の国に所属する国とか集落とかあって、国境線を想定しにくいのが普通
境界があるのはたしかだけど、それは境界線ではない 翰苑
『邪届伊都傍連斯馬』
『廣志曰 倭(誤字)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
>邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる
邪が邪馬台国の略なのか、
前に文字があって「〇〇邪」という固有名詞だったのが途切れているのか、
がわからない。
地理説明と思われるので、邪は邪馬台国の略と考えると、
邪馬台国の勢力範囲は
(北部九州倭国中枢の)伊都に届き(伊都国を含み)、
伊都の傍らの斯馬國にも連なるものである、
と読める。 広志逸文については、誤字疑いが7か所はあるので、
解釈には慎重を要する。
『倭國東南陸行五百里到伊都國』
これを素直に読めば、
「倭国から、東南に陸行五百里で、伊都国に到達する。」
となる。
我々は、魏志倭人伝あるいは魏略によって、前後の情報を保管することが出来るから、
この部分は、里程のごく一部を抜粋していることが明らかだと分かり、
「倭国においては、(末蘆国に上陸後に)東南に陸行五百里で、伊都国に到達する。」
と正しい理解ができる。
『又南至邪馬嘉國』
これも同じで、この文章だけだと、
「伊都国から南に行くと「邪馬嘉國」に至る。」
という意味になる。
(伊都国の南でなぜ大宰府になるのか?吉野ヶ里など佐賀では?)
我々は、魏志倭人伝を知っているから、「邪馬嘉國」は邪馬台(一)国の間違いでは?と思うし、
もし「邪馬嘉國」が邪馬台国のことを意味しているのだとしたら、
上の伊都国の里程抜粋表記と連なっているのだから、
今度は日程における無責任な抜粋であることが明らかであり、
投馬国から南に至ると、の部分が欠けていることになる。
魏志倭人伝の記載を覆すものではない。 >>672
>「伊都国から南に行くと「邪馬嘉國」に至る。」
そこは陸行だとは書いてないだろ
つまりこの配置で魏志倭人伝の記述も廣志逸文の記述も成立する
5 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:55.57
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg >>674
廣志逸文で本当に注目するべきは
西南海行一日有伊邪分國、の部分
魏志も魏略も邪馬台国へのルート記述は帯方郡からひたすら東南方向で西という方位は一度も出てこない
つまり廣志は魏志や魏略の単なる引き写しではなく、別の情報源を持っていたということ
そしてそれによれば邪馬台国の西南方向には海があり、一日で渡れる程度の距離に伊邪分國がある
これは邪馬台国の位置を特定するのに大きなヒントになる
>>673の配置であれば、邪馬台国の西南には有明海が広がり、南西に一日程度で諫早に着く
ここが伊邪分國だろう 司馬懿(司馬仲達)179-251
曹操の代から魏に仕えた将軍で、
魏の次の晋(西晋265-316)を建国した人物ですね。
魏の軍事面におけるエースであり、
蜀の諸葛孔明や、呉の孫権と、幾度も戦い抜きます。
青龍二年(234)に諸葛孔明が陣中で死去した時の、
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」
の仲達さんですね。 諸葛孔明が亡くなったものの、
魏にとっては厳しい局面が続きます。
南方に呉と蜀。
背後に当たる東方の遼東にて、
公孫氏の公孫淵が、呉と魏を天秤にかける独自路線を進み始めます。
景初元年(237)に、魏は現地の毌丘倹に命じて、反抗的な公孫淵を討たせようとしますが、
遼隧で阻まれ、毌丘倹は撤収を余儀なくされます。
勝利した公孫氏は燕王を称して独立しますね。
一地方の反乱をも抑えられず、魏の面目は丸つぶれで、
公孫氏と呉は連携する構えも見せますから、
このままだと魏内部での反乱が多発する危険や、
蜀呉公孫氏から集中攻撃を受ける危険などがあったわけですね。
魏にとっては、存亡の危機にあり、
この難局を打開するために、エースの司馬懿に四万の大軍を与えて
公孫氏の討伐に向かわせます。 明帝(曹叡 226-239年1月22日)の詔勅にて、
司馬懿の出陣は、景初二年(238)正月。
先の毌丘倹なども配下にした四万の大軍を率いての長距離遠征です。
明帝に軍事日程を聞かれた司馬懿は、
「往きに百日、戦闘に百日、復路に百日、休息に六十日。
こうすれば、1年で充分です。」
と答えています。
遠征に、1年分の兵糧を持っていったわけですね。
しかし魏軍は長雨で足止めを喰らいます。
『及宣王至遼東、霖雨不得時攻、羣臣或以爲淵未可卒破、宜詔宣王還
帝曰「司馬懿臨危制變、擒淵可計日待也」卒皆如所策』
群臣の中には、またもや時間切れで公孫氏を撃破できないのではと考え、
司馬懿を呼び戻すべきでは、と進言する者もいた。
しかし、聡明な明帝は、「司馬懿は臨機応変に対応できる人物なので、待っていれば公孫淵を捕らえてくれる。」
と答え、
明帝の言った通り、司馬懿は最終的には公孫淵を捕らえて、8月23日に処刑します。 襄平に籠城する公孫淵を包囲した司馬懿ですが、さらに三十日ほど長雨を喰らいます。
ここで晋書の記述にて、妙な発言をしています。
『孟達衆少而食支一年,吾將士四倍于達而糧不淹月,以一月圖一年,安可不速?以四擊一,正令半解,猶當為之。
是以不計死傷,與糧競也。
今賊衆我寡,賊飢我飽,水雨乃爾,功力不設,雖當促之,亦何所為。
自發京師,不憂賊攻,但恐賊走。今賊糧垂盡,而圍落未合,掠其牛馬,抄其樵采,此故驅之走也。
夫兵者詭道,善因事變。賊憑衆恃雨,故雖飢困,未肯束手,當示無能以安之。取小利以驚之。非計也。』
むかし孟達と戦った時は、孟達は兵数が少ない割に兵糧が多く、
司馬懿は兵数は四倍だったが兵糧が少なかったので、速戦した。
今回の公孫淵は兵は多いが兵糧は少なく、司馬懿の側は兵は少ないが兵糧は多い。
だから急いで戦う必要はなく、むしろ公孫淵が逃げてしまわないかが心配だ
ということですね。
『賊飢我飽』
明帝たちが兵糧の心配をしていたのに、
包囲籠城戦をしながら、兵糧が満ち足りているというのは妙ですよね。 司馬懿による公孫氏攻略で妙な点はもう一つあります。
邪馬台国女王卑弥呼への金印授与、ですね。
金印授与は、単に魏と邪馬台国との二国間外交だけの問題ではなく、
東アジア全体での国家間のバランスも関わってきますね。
魏は自国の存亡をかけて公孫氏を攻撃している。
景初年間とは、魏による東夷制圧の時代でもあります。
『景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服』
景初年間に、大軍を派遣して、公孫淵を誅殺した。
同時に秘かに水軍を渡海させて、楽浪郡帯方郡を接収した。
これらの作戦の後に、海のかなたの騒ぎは収まり、東夷世界は魏に服従した。
ちなみに、公孫淵を誅殺してから、楽浪郡帯方郡を接収する、だと、
秘かに軍を動かす必要がありませんし(堂々と進軍すればよい)、
陸上を進軍してきた軍はそのまま陸上を進軍すればよい(水軍はいらない)、
ですから、
公孫淵の攻略と、
楽浪郡帯方郡の接収とは、
同時進行の作戦だった、ことが明らかですね。 三国志東夷伝の高句麗の条に、こうあります。
『景初二年太尉司馬王率衆討公孫淵。
宮遣主簿大加將數千人、助軍。』
景初二年に、大尉=魏の最高位の将軍である、司馬(宣)王が、大軍を率いて公孫淵を討伐した際に、
高句麗王である宮は、主簿や大加など数千人の援軍を送ってこれを助けた。
司馬懿四万vs公孫淵一万余の戦いにおいて、数千の援軍というのはかなり大きいですよね。
鮮卑なども毌丘倹に援軍したりしています。
対する邪馬台国の卑弥呼が贈ったのは、
『男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈』
生口十人・・・。
どう見ても、卑弥呼に金印を送るのは、多国間の外交バランス上おかしいですよね。 長くなりましたが、要約するとこうなります。
・司馬懿による公孫氏討伐は、魏の命運がかかっていた。
・司馬懿の軍は長雨にたたられて、兵糧不足に陥っていた。
・魏本国の明帝は「司馬懿の現地判断」に任せた。つまり撤収も兵糧部隊増援もなし。
・結果的に成功し、明帝の的確な判断を褒める記録が残されている。
・景初二年六月に難升米らが帯方郡に到着した。
・景初二年八月に襄平を包囲する司馬懿が、兵糧は満ち足りていると安心している。
・数千の援軍を派遣した高句麗を差し置いて、生口十人の邪馬台国が金印銀印を受領した。
明らかですね。
邪馬台国の難升米らは、兵糧を贈り届けたわけです。 長雨で予定が狂って、兵糧切れで時間切れ撤退の危機にあった
司馬懿の大軍を、
邪馬台国から派遣された難升米らのもたらした兵糧が救ったわけですね。
公孫淵が襄平に逃げ込んだのも、司馬懿の兵糧切れを計算に入れてのことだったのでしょうが、
目論見は崩れて、公孫氏は滅亡したわけです。
魏は、呉・蜀・公孫氏、などからの包囲集中攻撃で滅亡していたかもしれない運命から、
邪馬台国からの兵糧によって、
一転して、公孫氏を滅ぼして東方の安全を確保することができわたけです。
これならば、金印に値する援護ですね。 高句麗は、方可二千里で三万戸。
『多大山深谷、無原澤。隨山谷以爲居、食澗水。無良田。雖力佃作、不足以實口腹。』
大きい山や深い谷が多く、平原湿原は無い。
良田は無く、畑作を頑張ってはいるが、口腹を満たすには足りない。
兵は強いものの、食料生産量は乏しかったわけですね。
一方の邪馬台国は、
『收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。』
年貢があって、邸閣=食料倉庫、がある。
大倭が取り仕切る、稲荷の流通ですね。
温暖な北部九州倭国(卑弥呼邪馬台国)の、米が、アジア史に一役買ったわけです。 >>671
>>672
広志逸文に記録された、
『次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
伊邪國、伊邪分國、伊耶國。
西南海行一日ですから、長崎県諫早市(旧伊佐国)ですね。
難升米の故郷、ということになります。 大量の兵糧を補給してくれた難升米らを、
司馬懿は大喜びで迎え入れた。
魏の四万の大軍。
難升米はその将軍の壮麗な陣に招かれ、上機嫌の司馬懿と語り合ったわけですね。
司馬懿が日誌に残したから、難升米の出身地が記録に残った。 >>413
全てが繋がっていきます。
>息子の一人に金印を持たせて、西の長崎の多島海へ潜伏させた。
タケミナカタの息子の一人、おそらく長男が、金印を持って長崎に潜伏します。
吉野ヶ里遺跡は長崎タケミナカタ捕獲用の城で、
土壁を登って乗り越えてきたタケミナカタ兵を、戈で手前の溝に引き落として、
捕獲する。
倭国軍本軍(当初は祭祀型銅戈軍=ニギハヤヒ軍)は、
諏訪に逃げ込んだタケミナカタ本人一行の攻略に注力して、追いかけていきます。
貝輪が関東まで逃走し、
銅戈→現地製作の石戈土戈がそれを追っていますね。
そのまま経過すれば、いずれ銅戈軍が巳百支國(伊万里から銅戈出土)に集結して
長崎県制圧に乗り出したでしょうが、
倭国内でも政変が続き、広形銅矛による土佐田村遺跡攻略を経て、倭国乱へ突入していきます。 倭国乱の間に、
当時の筑後大物主(おそらく奴族オオクニヌシ系)と、
長崎タケミナカタの首領とが通じて、
漢委奴國王金印(小さな蛇)を根拠に、
狗奴国を立ち上げて、久留米〜吉野ヶ里を急襲制圧したのでしょう。
狗奴国軍は陸路で小城市→末蘆國(唐津)へ進軍。
考古学の通り、桜馬場遺跡までで末蘆王家は滅亡。
長崎タケミナカタ水軍が海路迂回してきて、
狗奴国軍と末蘆國で合流して、対馬海峡を制圧。
金印で封泥された外交文書を、後漢の実力者、曹操へ送り、
例の鉄鏡を入手した。
その時の使者が狗古智卑狗(免田式土器)。 狗奴国が一時は北部九州を制圧する勢いとなったが、
狗奴国王と、長崎タケミナカタとは、何らかの仲違いをした。
長崎タケミナカタは伊都に擁立された女王卑弥呼の側へ寝返った。
仲間になる条件が、金印の献上。
同じく諏訪のタケミナカタ勢も卑弥呼側となり、
だから平原女王墓には諏訪式の御柱が立っている。 『無布帛以革爲衣』
同じ北部九州にありながら、
長崎タケミナカタとして吉野ヶ里などと戦っていた。
倭国水軍が巳百支國経由で攻め込んで来たら、島から島へと逃げ回らないといけない。
だから絹などの布が手に入らず、革の衣服をまとっていたわけですね。
難升米について考えると、
タケミナカタの子孫。
諫早で生まれ育つ。
青少年期に倭国乱が勃発し、
父が筑後の大物主と通じて、金印(小さな蛇)を用いて狗奴国勃興に助力。
父もしくは家督相続後の難升米が、狗奴国王と喧嘩して、
金印を手土産に卑弥呼の配下となる。
長崎タケミナカタ水軍を率いる難升米は、
大率に着任。 景初二年(238)春、大率の諜報網から、
魏の大軍が公孫氏攻略に取りかかっており、
帯方郡と楽浪郡には既に魏から派遣された太守が着任していることを知る。
取り急ぎ大率長官である難升米本人が帯方郡へ向かい、
景初二年六月に到着。太守劉夏と国家間外交交渉。
遼東は長雨で、魏の大軍が足止めを喰らっている。
邪馬台国から兵糧を送ってもらえないか、との打診を受け快諾。
粘り強く交渉し、漢委奴國王金印の存在も持ち出し、
兵糧を送る代わりに、卑弥呼に金印を授与する、という外交交渉を成立させる。 大率の輸送船部隊に、邪馬台国から大量の兵糧を送るよう命じ、
難升米本人は、司馬懿に招かれ襄平包囲軍の本陣へ。
見たことも無い大規模な攻城戦。
四万の大軍を見て仰天する。
邪馬台国から兵糧が続々と到着し、司馬懿らは大喜びして難升米に感謝感激しまくる日々。
包囲中はヒマなので、
上機嫌の司馬懿に毎夜接待され、プライベートなことまで語り合う。
『次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
景初二年8月23日、襄平を脱出しようとした公孫淵が捕らえられ処刑。
これにて約定が守られたことから、金印授与が確定し、
魏軍に護衛されて、難升米は洛陽へ出発。
大軍で100日の距離なので、少人数の難升米らはもう少し速く、
景初二年十月末頃には洛陽到着して、
明帝に謁見。
金印授与の「話」が確約する 景初二年十二月、金印授与の詔書が発効される。
景初二年12月8日明帝が病に倒れる。
景初三年1月1日
明帝が危篤となり、河内から早馬で駆け付けて最後に面会する。
明帝崩御。
その日のうちに、まだ8歳の曹芳が第三代魏皇帝となる。
皇帝が代替わりし、明帝の詔書が無効になる危険性もあったが、
司馬懿が続けて重鎮に収まったのと、
難升米が魏群臣との謁見会場で熱弁をふるい、
予定通りの金印その他の報酬を得ることに成功する。 『魏酬倭国止于銅鏡鉗文』
魏は倭国への報酬として、倉庫で銅鏡をはさんでいる除湿用の紙を取り外して、
出荷した。
伊都説であれば、
その大部分は方格規矩鏡で、一部は青龍三年銘。
貴重な青銅原料として、倭国で大部分は溶かされて、
超大型内行花文鏡になったわけですね。 当然のことながら、
金印外交を成功させた、大率長官の難升米は、率善中郎将・銀印まで拝領して大出世。
卑弥呼に重用され、
邪馬台国軍の将軍となったわけですね。
「吾輩は魏の大将軍・司馬懿殿と親交を温めたのだ。
いざとなれば魏の四万の大軍が来てくれるのだ。
ワハハハハ。」
といった感じでしょうか。
しかし現実は厳しく、高齢の卑弥呼が体調を崩し、
邪馬台国政権の動揺につけこんだ狗奴国軍が、
正始八年(247)に軍事行動を活発化。
難升米は帯方郡経由で司馬懿に援軍を要請しますが、
魏にはるか倭国まで軍を送る余裕などありませんね。
陸軍国ですし。
張政ら数人の魏将校と、黄幢とだけが来倭して、
難升米はガッカリします。 同年に卑弥呼が死去。
張政らは平原遺跡での葬儀に参列します。
難升米の一族が御柱を立てたわけですね。
ここぞとばかりに攻めてくる狗奴国軍に対して、
難升米が出陣します。
この頃は狗奴国は熊本に押し込められていますから、戦場は福岡と熊本の県境ですね。
そもそも難升米の自軍は長崎タケミナカタや大率など水軍が主体。
頼みの魏援軍も来ず。
狗奴国軍との決戦で、難升米は討ち死にしたわけですね。
しかし、難升米が亡くなったからこそ、
残されたタケミナカタ勢は、元々長崎や諏訪の地方勢力ですから、
卑弥呼後の勢力争いとは全く無縁で、
勝った方=つまり伊都国王男王、に淡々と従い、
ある意味勝ち馬に乗れたわけですね。 △は、難升米が連れてきた鏡職人によるものですね。
遼東に大勢いた戦争避難民の一部でしょう。
司馬懿が技能者を選んで難升米に贈ってくれたわけですね。
タケミナカタ旧領から発祥しています。
年次は難升米の出世年でしょう。 >>76
拘奴國は鉄器、ガラス製品、青龍三年方格規矩鏡などを共有する、
卑弥呼の親族ですね。
伊都国王男王は、後漢書に記録された拘奴國を滅ぼしますね。
三国志では記載されません。
拘奴國との内戦だけでも邪馬台国は相当動揺したので、
難升米を失ってただただ恭順するだけの地方タケミナカタ勢は、
そのまま伊都国王男王の配下に収まったわけですね。
そして卑弥呼の親族であり、
また伊都国王男王の娘である、壹與=與止日女が女王になります。
さすがに魏を敵に回すのは得策ではないので、
張政さん達は丁重に送り返されました。
おかげで、北部九州邪馬台国の貴重かつ詳細な見聞録が伝えられました。
ここまでが正始八年(247)の出来事ですね。 >>689
>例の鉄鏡を入手した。
曹操の側の状況を考えると、曹操が後漢の献帝を保護して、
建安十三年(208)六月に、曹操が丞相になって以降であることは確実でしょうね。
ただ、同年の赤壁の戦いを始めとして、この頃はすさまじい負け戦続きですね。
建安二十一年(216)五月に、曹操は魏王になります。
この年に、烏丸族の単于や、匈奴の単于が朝貢してきて曹操が応対していますから、
この時期ならば、外国からの朝貢に対応する余裕があったことは確実ですね。
翌建安二十二年(217)は正月から出陣して、あともずっと戦陣にあり、
建安二十五年(210)1月に洛陽に帰還してすぐ、1月23日崩御ですから、
まあ人生ずっと戦い続けた武人だったわけですね曹操は。
ですから、狗奴国王が例の鉄鏡を入手したのは、208〜220年の間であって、
高確率で『216年5〜12月』ですね。
漢委奴國王金印が根拠となっての授与ですから、
同じく金印を貰っている匈奴単于も確実に鉄鏡を貰っていることになり、どこぞの王墓にまだ眠っている可能性はあります。
となると、狗奴国が対馬海峡を制圧したのは210年代前半。
桜馬場遺跡は、107〜210年の、後ろ半分の時期だから、2世紀後半くらいということになります。
それと同期する井原鑓溝遺跡もその近辺の年代ですね。 難升米が自らの故郷に、絹布が無い、と言っていることから、
長崎タケミナカタが卑弥呼に帰順したのは、
238年からさほど遡らない時期ということになりますね。
卑弥呼側に早い時期に帰順していれば、
それだけ流通が早期回復して、絹などは流通もしくは自領で生産しているはずですから。
銀印を貰っていますし、大率について北方担当と詳述されていますし、
難升米が大率長官であったことは確実ですね。
金印を献上したからといって、
邪馬台国の中枢に絡む大率をよそ者に任せるわけはありませんから、
状況としては、
邪馬台国が伊都を最前線に以東に押し込められていて、
狗奴国が筑後肥後〜佐賀平野〜末蘆國〜対馬海峡、を占拠している状態において、
狗奴国王と、長崎タケミナカタが、仲違いをして、
長崎タケミナカタが長崎〜対馬海峡を自領として、卑弥呼側に寝返った、
ということになります。
現在の長崎県そのままですね。 長崎タケミナカタが狗奴国王と袂を分かったのは、
216年以降で、238年からさほど離れていない時期ということになります。
伊都から出土した免田式土器は、長崎タケミナカタが狗奴国側にいた期間なので、
210年代前半〜238年に収まることになります。
卑弥呼が共立された年代は判明していません。
狗奴国の脅威に対して、卑弥呼が共立されたのであれば、
卑弥呼邪馬台国が先に成立していて、
後から対馬海峡と金印を手土産に長崎タケミナカタが合流したことになりますし、
長崎タケミナカタが伊都国(倭国=三国志時代邪馬台国)側に寝返る条件の一つが卑弥呼擁立ならば、
長崎タケミナカタや拘奴國が参加するために、
卑弥呼を共立して、伊都国王、拘奴國女王、難升米、らが手を組んだ、ということになります。 >>675
女王国とは伊都国、奴国のことで倭国の首都圏のこと
邪馬台国とは北部九州地域全体のことで倭国と同じ意味。 >>361
70年頃に奴国王が失脚して、
タケミナカタが諏訪に逃げ込んだわけです。
北部九州の地名が、そのまま奈良盆地に移植されたのと同じことで、
70年タケミナカタが、諏訪地方に地名を持ち込んだわけですね。
周防(山口県)→諏訪(長野県)
古代出雲國(香椎〜宗像)→安曇野
筑紫→筑摩
伊耶國(長崎県諫早市>>676)→伊那
三輪(福岡県旧三輪町)→箕輪
周防(諏訪)から見ると、
北西に安曇野や筑摩
西南に伊那や箕輪(>>671)
が配置されていますね。
タケミナカタの故郷と相同性があります。 古代周防の比定地については、現在の場所かもしれませんが、
古代出雲が考古学的には、
山鹿貝塚、遠賀式土器、平形銅剣、鐘崎式土器、宗像三女神、などなどから、
宗像地域に比定される場合、
現代出雲は出雲ではなかったことになりますから、
そうなると、現代出雲が古代周防であった可能性が浮上します。
考古学的にも、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡、その他重要弥生遺跡が集中しつつ、
中広形銅矛も現代出雲に密接に絡んでいますからね。
もともと加茂、あるいは岩倉、という地名でカモの拠点だったのが、
銅矛銅剣戦争で八千矛神が勝利して、進駐してきて、
荒神谷で勝利式典を行って、タケミナカタの所領にされて、周防という地名に一時期上書きされた、
のではないでしょうか。
古代出雲で敗北したタケミナカタは、妻子を伴って落ちのびますから、
主要領地の一つは日本海側にあるほうが説明がつきやすい、という面もあります。 タケミナカタの奥さんは八坂刀売神で安曇の女性と伝わっていますね。
安曇ですから、女系は古代出雲國の八雷神系有力部族のワニ族ですね。
須勢理ヒメ、神屋楯ヒメ、事代主、などの家族になります。
男系は、八坂ですから、スサノオ。
素直に考えれば、大国主の義父のスサノオの娘あるいは近しい親族で、天神族の娘。
しかし、大国主がスサノオ就任後であれば、スサノオ大国主と神屋楯ヒメの娘。
安曇族の男系がどちらであるのかとも直結してきます。
解の一つは城野遺跡にありますが。
安曇野、の地名がついているということは、
ワニ族の地盤である、香椎〜宗像(古代出雲國)の全体もしくは一部が、
70年当時既にその名前で呼ばれていた、ということを意味しています。 タケミナカタの長男は、建御名方彦神別命、と伝わっています。
ヒコ(魏志倭人伝だと卑狗)がついているので、70年以前に既に成人していて、
北部九州倭国にて官職を得ていたわけですね。
母がワニ族で、
父が建御名方。
建は、将軍として出陣した、の意味ですから、
父と同じ部隊を率いて、出陣したことのある、北部九州に所領を持っていた、人物、
ということになります。
母の出自を考えると、一部で言われている、タケミナカタ=建+ムナカタ
なのかもしれません。
東方(大阪湾)か、北方(半島)かはわかりませんが、
少なくとも初陣を飾って、人生これから、というところで、70年を迎えてしまったのでしょう。 タケミナカタの次男は、出早雄命(いずはやお)、と伝わっています。
別名は、伊豆早雄命、あるいは、イスハイ。(諫早と似ていますね)
また兄妹の出早ヒメは、伊都速比売命とも書くそうです。
タケミナカタの母親、沼河ヒメは貝輪一族で、
その重要拠点が、貝輪が多数出土して、木棺墓女性指導者を擁する、
沼河=土井ヶ浜遺跡や、長崎県、ですね。
出、伊豆、伊耶、伊那、と考えれば、
出早雄命は本来は長崎県を領有していくはずだった若者。
70年にタケミナカタと共に諏訪に逃れた。
銅戈ニギハヤヒ軍に侵攻されて、追われて追われて伊豆で降伏した。
出、伊豆、伊都、を重視するなら、
出早雄命は対馬海峡航路を取り仕切っていく予定だった若者。
あとは同上。 以上の二人のどちらかが、金印を秘匿して長崎に残って、
その嫡流が難升米ということになりますね。
本来なら、日本統一につれて滅ぼされる運命だったのですが、数奇な流れで踏みとどまります。
・諏訪タケミナカタが降伏した頃に、北部九州でカモが失脚した。>>99
・倭国乱が発生した
・倭国乱に乗じて、狗奴国勃興した。>>689
・狗奴国王が、曹操から例の鉄鏡を貰った
・後漢が滅亡した(220)ので、漢委奴國王金印が失効し、鉄鏡を持つ狗奴国王が難升米父&金印を軽視し始めた
・難升米は狗奴国王と袂を分かち、卑弥呼側に寝返った。>>702
・難升米が活躍して、親魏倭王金印や銀印を得た
・卑弥呼死去→狗奴国が攻めてきて難升米討ち死に
・次の男王は親卑弥呼の拘奴國を攻め滅ぼしたが国内動揺
・地方勢力のタケミナカタ勢はそのまますんなりと邪馬台国版図に収まった
ちなみに、例の鉄鏡も、曹操魏が265年に滅亡したら失効するので、
景行の九州制圧や、ヤマトタケルの東方捜索旅も、理論的には、265年までの出来事になります。 なんで諏訪にタケミナカタの母なる沼河の名前が無いかというと、
タケミナカタと、その兄の建沼河男命が、超仲悪かったからですね。
おそらくタケミナカタは、敗走途中に建沼河男命も一緒に逃げるか、
せめてどこか山中に身を隠すよう説得したでしょうが、
頑固な建沼河男命は
「やかましい!金印なんぞ知らん!
私にやましい事なんぞないのん、なんで逃げないといかんのだ!」
と逆に烈火の如く怒鳴って追い出したことでしょう。
奴国王と、沼河ヒメの子で、田舎お坊ちゃん育ちの建沼河男命はおそらく、
現代の我々と似たような感覚の持ち主で、
>>358
半島出兵の際も、
「人様の土地に来て、人を殺すなんでとんでもない!」とのことで何もせず、
軍議の際はわけのわからない平和理想主義を唱えて、
大国主が鼻白んだのでしょうし、
当時は東で捕獲した毛人などは生口として奴隷扱いが当然の世界(これは世界基準でそうですね)
だったわけですが、
何かで送られてきた生口も、
「人間に上下などない!」と断言して、平等に扱い、
生口が亡くなった際は、
おそらく自分の息子か兄弟あたりの親族と一緒の墓に葬ったのではないでしょうか。
土井ヶ浜遺跡の出土状況からすると、そのように思われますね。 大己貴命(大奴貴命)が、
八千矛神=中広形銅矛将軍=アマテラス配下の東征将軍スサノオ、として、
カモ族八上ヒメの整備した木俣=瀬戸内高地性集落群、を制圧した時代が、
荒魂ですね。
天神族ではないので、最高位の大王アマテラスにはなれず、
足利義満よろしく、後漢皇帝から金印を貰って、領土を安堵してもらったのが、
和魂ということになります。
海のかなたから、光り輝く金印がやってきて、
それを根拠にして、対馬海峡〜北部九州〜瀬戸内四国〜五斗長垣内遺跡、を治める。
そのための交易管理省庁が、大倭ですね。
長官が、大物主。
元々はアマテラスが日本海沿岸を支配していたわけで、
大倭・大物主の瀬戸内四国は新興開発地域に過ぎなかったわけですが、
次の銅戈ニギハヤヒ軍が畿内征服して、一大交易圏に化けて、
後の日本列島の産業中枢になっていきますから、
大倭支配権の争奪戦=倭国乱が勃発していくわけですね。 初代大物主は、当然奴族として、
そもそも瀬戸内開発した八上ヒメの残した、木俣神(カモ
同じくカモ族の筆頭である、アジスキタカヒコネ
水軍大将で、海上を巡視して回っていたタケミナカタ
奴国王の最大のバックであったワニのコトシロヌシ
、と、どなたでもありえますね。 以上が、70年タケミナカタが諏訪に持ち込んだであろう地名から考察できることですが、
また、ピンポイントでは、諏訪には大和や高木もあります。
後世にわざわざ別の読みだと断っていますが。
これらは地名ではなく、重要な役所名ですね。
大倭(おおやまと):交易専門の役所:後のS字甕の交易圏
高木(たかぎ):金印授与式の思い出の吉武高木宮殿
この辺りは、タケミナカタが、北部九州の制度を持ち込んだのでしょうね。
諏訪の大和あたりを本気で発掘したら、筑前町と同じく硯などが見つかるかもしれませんし、
高木あたりを発掘したら、大型建物があるかもしれませんね。 諏訪神氏には大祝という制度がありますね。
嫡子家督相続ではなく、
ダライ・ラマのように、神事にて後継者を決める方式。
女系で言うならば、山鹿貝塚・イザナミ神事の、骨取り神事による共立女王選択。
また、八坂刀売神の出身であるワニ族の城野遺跡には、
北部九州最大の方形周溝墓に男児が埋葬されており、
大祝との関連が示唆されます。
後の皇族にても、例の神託事件がありましたね。 十月は神無月で、出雲だけ神有月ですね。
全国の神様が出雲に集まって、政策や縁組を話し合います。
弥生時代であれば、神様、つまり各地の豪族など支配層の集まりですね。
旧暦だと現在の11月の時期になりますから、
秋の収穫が終わって、米俵を作って、各地から持ち寄ってきた、ということになります。
古代出雲であれば、香椎〜宗像のエリアに集まったわけですね。 現代まで神無月神有月が残っているということは、
暦に風習として残るだけの、長期間に渡ってその制度が続いていたわけですね。
ということは、70年までの数十年に過ぎなかった奴国王時代だけではなく、
その後の時代にも、数百年くらいは、古代出雲=宗像が有力だった時代があった、
ということになりますね。
古代豊国=古代出雲+古代伯耆は、カモ系女王が東へ追い出されて、
豊玉姫以降はずっとワニ系女王の国、となりますから、
要するにワニ系の安曇族が仕切っていた、ということになります。
沖ノ島の出土品が豪華な時代、というのがその時代に相当するのではないでしょうか。 タケミナカタは集まることを免除されていますね。
これも、奴国王時代であれば、タケミナカタは古代出雲の現地にいたわけですが、
70年以降は、諏訪にいて、
当時の交通網では、あまりにも遠すぎて、往復だけで1年くらいかかったわけですね。
諏訪タケミナカタは銅戈軍に一度降伏していますし、
卑弥呼の次の男王以降は一地方豪族として倭国支配に組み込まれますから、
タケミナカタが、諏訪より奥の東国の支配を傀儡政権としてある程度任されて、
年貢をまとめ、万行遺跡に運び込む、
その代わり、北部九州までわざわざ来なくてもいい、
という時代があったのでしょう。 >>718
古代出雲、豊国の安曇が支配していて、
諏訪タケミナカタがその配下に収まって東国経営していたのなら、
安曇野の地名に関しては、安曇の支配下に収まる時の命名かもしれませんね。
卑弥呼の次の男王が東国派兵した時でしょうか。 過去スレで検討したとおり、銅鐸はごく最後の巨大なものを除いて、祭祀用ではなく、
環濠集落+銅鐸(Jアラート)の実用品ですね。
主にカモ族が東進するにあたって、
先住の人々と衝突するフロンティアに配備したわけです。
銅矛銅剣戦争で八上ヒメが降伏した時点(荒神谷遺跡)では、
大阪府と兵庫県を取り囲むように銅鐸が分布しており、
これらが被征服側の毛人に残された領域だったことになります。
中広形銅矛も淡路島五斗長垣内遺跡まで。
次の銅戈時代に畿内毛人は征服されますね。 ちなみに、八上ヒメ時代のカモ銅鐸は、東は岐阜にも出土しています。
紀元前に琵琶湖沿岸の下之郷遺跡で戦って琵琶湖沿岸を制圧したカモ族が、
八上ヒメの時代(前1世紀〜0年前後)には、琵琶湖を足がかりに東は岐阜まで進出していた、
ということですね。
国譲りの際に、天若日子が亡くなった際。
天若日子の父の天津国玉と、天若日子の妻子は登場しますが、
天若日子の母は登場しませんね。
葬儀にやって来たアジスキタカヒコネは、天若日子の遺族から、天若日子本人に間違われます。
アジスキタカヒコネは怒って喪屋を斬り飛ばし、喪屋はまさに美濃国=岐阜へ飛んでいきますね。
アジスキタカヒコネは、カモであり、母の多紀理ヒメがカモ系の豊国女王。
天若日子の母もまた、多紀理ヒメだったのではないでしょうかね。 伊都説だと、柏崎遺跡が笠沙の岬に比定されますから、
次代のコノハナサクヤヒメは末蘆王家の王女ですね。
オルドス式短剣が柏崎遺跡と琵琶湖の高島市から出土しています。
サルマタイ系のお抱え渡来工人がいて、
その頭領が高島市の熊野本遺跡に鉄工房を与えられていたわけですね。
要するに、天津国玉は末蘆王家の天神族であり、
カモ女王の多紀理ヒメを娶って、天若日子が産まれていた。
その多紀理ヒメを大国主が無理矢理奪い取った。
ニニギがコノハナサクヤにあのような嫌疑をかけたのは、
そのような時代背景があったから、ではないでしょうか。 八上ヒメ時代の銅鐸分布から考えると、
銅矛銅剣戦争終結時に、カモの東方領土は、
琵琶湖を中心とする大山咋領域と、
瀬戸内四国の大山祇領域と、の二大領域があったわけですね。
中広形銅矛将軍は、カモの瀬戸内高地性集落群=木俣、を制圧して、
淡路島に五斗長垣内遺跡を建設した。
天神族系の末蘆王家は、カモと婚姻して琵琶湖方面の領地を保有していた、
その東端が美濃国だったし、
銅鐸が既に京都市にも入りこんでいた、ということになりますね。 三遠式銅鐸は、諏訪に逃げ込んだタケミナカタ勢が配備した銅鐸ですね。
諏訪タケミナカタにとっては、愛知県と越後とを防備すれば、東国は守れます。
越後から攻め込まれる分には、侵攻できる山道が限られますので、
山城でしっかり防備して、いくつかの抜け道にだけ銅鐸を配備しておいた、ということでしょう。
越後からはあまり攻め込まれず、最後に銅戈軍の精鋭部隊が攻め込んできて制圧され、
長野に配備されていた三遠式銅鐸はまとめて柳沢遺跡に埋納されますね。
一方の愛知県では、三遠式銅鐸は、銅戈勢力側の近畿式銅鐸と対峙しています。
ちなみに、銅戈軍はニギハヤヒ(+カモ族)ですね。
金属製武器フル装備で、朱塗り盾に巴型銅器。
近畿式銅鐸はカモ銅鐸の最終進化形ということになります。
銅戈東征の当初は、まだ畿内に勇猛な毛人がいてがんばってくれてましたから、
銅戈軍はそちらに手一杯で、
愛知ではお互いに銅鐸を配備して一進一退でしたが、
毛人が次々に制圧されて、朝日遺跡に銅戈軍が進駐してくるころになると、
旗色が悪くなって、三遠式銅鐸側はだんだん捕縛されていきますね。 三遠式銅鐸が東国にとっての防衛境界に綺麗に出現している。
ということは、
東国は既にある程度統一されていたことになります。
タケミナカタより先に、諏訪を支配していたと言われる、守矢氏などが、
東国をある程度まとめていた可能性が高くなります。
ただし、前方後方墳の建設などはもっと後の話ですし、
王権を示唆する遺物遺跡はありませんから、
王というよりは、各地の首長をまとめる長くらいの立場だったのでしょう。
琵琶湖からカモ族が領土拡張してきたことで、
畿内毛人と東国蝦夷は分断され、
いずれ滅亡する危険を感じて、社会的緊張が生まれ、
その緊張をもとに、本来はバラバラだった毛人や蝦夷が、それぞれまとまって集団防衛するようになったのでしょう。 >>413
70年にタケミナカタが諏訪に逃げ込むわけですが、
その時のタケミナカタ軍は五斗長垣内遺跡を擁して、金属製武器フル装備ですから、
70年の時に守矢氏に勝利すること自体は可能でしょう。
しかし、すぐに追ってきたタケミカヅチ軍と対峙する必要があります。
追ってきたタケミカヅチに、逃げ込んだばかりのタケミナカタがすぐに負けた場合、
捕縛処刑されて、諏訪にタケミナカタの痕跡は残りませんね。
また、後に銅戈が攻め込んでいるということからも、
タケミナカタが降参したのは70年当時ではなく、ニギハヤヒ軍が整備されて、銅戈を使い始めてから、
ということになります。
よって、70年に逃げ込んだタケミナカタは一旦はタケミカヅチ軍を押し返したことになります。
諏訪での支配体制をある程度確立してから、後に銅戈軍に降伏した、ことになりますね。
と、いうことは、
タケミナカタ軍は、70年より前に、既に諏訪攻略に取りかかっていた、可能性が高いですね。
異伝では、大国主が諏訪を攻略するよう命じていた、とも言われています。 >>362
59年頃から疫病があったけれども、なんとか持ち直した。
タケミナカタ軍が諏訪攻略に取りかかった。
諏訪攻略中に、70年奴国大洪水が起きた。
タケミナカタ不在の好機を逃さず、天神族が軍を出して奴国王が捕縛された。
大慌てで引き返してきたタケミナカタ水軍だったが、決戦に敗れた。
諏訪はある程度攻略済みだったので、諏訪に逃げ込んで防備を固めた。
これなら無理が無くなりますね。 西からやって来た異人であるにも関わらず、
なぜにタケミナカタが東国蝦夷に支配者として支持され続けたかというと、
銅戈軍に征服された畿内毛人の運命が原因でしょうね。
銅戈軍に征服されると、畿内毛人のように生口にされる。
だからこそ、軍事経験豊かで、北部九州の進んだ制度をもたらしてくれる(>>714)、
タケミナカタを中心にして防衛したのでしょうね。 70年代に銅戈軍が発足したとして、
107年には160人もの生口を送っています。
庄内式土器は銅戈勢力の考案した海上輸送用の土器ですね。
積載重量を軽減するため薄手で、
揺れる舟にて、木組みに嵌めて固定するために尖り底になっています。
対照的に、諏訪箕輪(諏訪大倭三輪)は陸上輸送ですから、S字甕は平底ですね。
輸送途中で休みたい時に地面に置けますからね。 銅戈軍が諏訪を占領したのは、短期決戦ですね。
なぜかというと、柳沢遺跡で銅戈で勝利式典を行っているのに、
関東には石製祭祀型銅戈で貝輪を追いかけているからです。
長野での勝負があっさり決まったが、
タケミナカタ勢の大将(伊豆早雄命?)が関東へ逃げた。
銅戈軍の隊長は、
北部九州から追加の銅戈が到着するのを待ったり、
あるいは現地で青銅器を溶かして銅戈を作ったりする、
その時間も惜しんで、
すぐ長野から出陣して、関東で追いついて捕縛した。
事後に現地で石製祭祀型銅戈を作って勝利式典としたわけです。 経験豊富な軍神タケミナカタ本人が存命の間は、
銅戈軍が越後から攻め込もうとしても散々に打ち破られた。
だから銅戈軍は、まずは大阪湾上陸作戦に集中したわけですね。
しかし、
タケミナカタもいずれ亡くなり、
山育ちの息子たちだけになりますね。
さらに、青銅器鉄器の供給が断たれていますから、
金属製武器が枯渇していきます。
S字甕の分布と一致して出土する、多孔銅鏃というのは、
要するに、青銅器の原料が枯渇してきて、少しでも銅を節約するために、
孔あきの銅鏃を開発した、ということですね。
タケミナカタが亡くなった後に、
畿内毛人と戦って百戦錬磨となった銅戈部隊が、
金属製武器フル装備で諏訪に攻め込んできたら、
一たまりもなく占領されてしまった、ということでしょう。 時系列としては、
・70年にタケミナカタが諏訪に逃げ込む
・しばらくはタケミナカタ軍は強いので、銅戈軍は大阪湾上陸に専念する
・銅戈軍が畿内を制圧していく
・タケミナカタ死去、諏訪東国の金属器枯渇
・銅戈軍精鋭部隊が諏訪占領、諏訪大将を関東まで追いかけて捕縛
・東国は諏訪傀儡政権の下、銅戈軍の支配下に入る
・反乱予防、忠誠心の証、として、諏訪東国各地で前方後方墳を建設
・生口として北部九州へ大量連行され人口の減った畿内へ、東国から人員補充(庄内式土器の流れ)
蛇鈕金印だから蛇神と自称。
だから苦労して攻め込んだのに、
金印が諏訪に無い、と知った時の銅戈軍隊長の落胆は想像するに余りありますね。 長すぎるのと、想像で繋いでいる部分が多すぎて事実と区別されていない。
当たっている部分もあるかもしれないが、読む気が起きない。
もっと短くわかりやすい表現を心がけて欲しい。 中広形銅矛が大国主=奴国王で、57年金印を貰いました
奴国王は70年に失脚しましたが、金印はタケミナカタが持って逃げました
タケミナカタは諏訪に逃げ込んで、三遠式銅鐸を前線配備して徹底抗戦しました
銅戈ニギハヤヒ軍は、まず畿内を占領してから、次いで諏訪を占領しました
諏訪に金印は無く、実はタケミナカタの息子が持たされて長崎に隠れていました
難升米は長崎金印タケミナカタの子孫で、その父が狗奴国立ち上げに協力したのですが、
難升米は卑弥呼側へ寝返りました 魏志倭人伝に書かれた里程は、57年金印の時に測定されたものでした
だから当時の伊都で到着するのは吉武高木遺跡の宮殿でした
魏志倭人伝に書かれた日程は、238年金印の時のものです
当時の伊都で女王之所都は平原女王墓周辺に遷都していました なんで金印が志賀島から出土したかというと、
>>707
一族の女系の祖は八坂刀売神でもあるからでしょうね。
そもそも金印などを持っていたから、八岐大蛇系のタケミナカタ一族は
200年も東西の辺境で耐え忍ぶこととなった。
一方のカモ系アジスキタカヒコネやワニ系コトシロヌシは一度は降伏しましたが、
それぞれ早期に中央政界に返り咲いています。
栄枯盛衰を悟った難升米あるいはその一族の方から進んで、
母方の縁がある豊国有力者アズミ族へ金印を献上して、身分保障してもらったのでしょう。
>>698
紀年銘鏡からすると、難升米としては、
238年朝貢、獲得した銅鏡職人が来倭
239年洛陽にて金印銀印授与が決定
240年魏使が来倭して授与式
(243年銀印・率善中郎将を伊聲耆掖邪拘へ譲渡=難升米の邪馬台国将軍就任が内定)
244年邪馬台国軍の将軍に着任
(245年難升米の将軍昇格を祝って黄幢授与)
(247年出陣>>696-697) 1世紀初頭
・中広形銅矛将軍=奴国王と平形銅剣女王が夫婦喧嘩で全面戦争
・銅矛銅剣戦争の末期に奴国王が土井ヶ浜遺跡女首長を口説き落とす >>323>>341
・荒神谷遺跡で降伏調印式 >>398
・その頃に出生
1世紀前半
・半島出兵で活躍 >>358-359
・水軍大将に任ぜられ、対馬海峡〜雀居遺跡〜下関〜五斗長垣内遺跡を巡視して回る
55-56年:楽浪郡使を侏儒国(五斗長垣内遺跡・若杉山遺跡)へ案内
57年:倭の奴国王の使者として水軍を率いて奉貢朝賀(後漢書『使人自稱大夫』)
59年:疫病が大流行する
70年:奴国大洪水にて奴国王失脚、旧狩尾神社にて捕縛
70年:諏訪へ逃げ込む >>413
1世紀後半:三遠式銅鐸を前線配備して東国防衛
100年頃:死去
100年代:諏訪降伏 >>731 奴国王の息子には他の有力部族の縁者も多い中で、水軍大将に抜擢されるには、
半島出兵で相当の戦果をあげた、ということですね。
そうなると、当然そこに相応の領地を得ていたことでしょう。
筑摩はもともと「ちくま」ではなく、「つかま(豆加萬)」であった、とのことですし、
諏訪(周防)から見て、北西にある、
ということから、
半島南部の、つ(か)ま國=投馬國であった、可能性がありますね。
投馬國は、それぞれの時代にそこを所有していた一族にとっては、当然重要な領地であり、
諏訪に移動した一族は、投馬國→筑摩つかま、という地名をつけたし、
宮崎に移動した一族は、投馬國→都萬、という地名をつけたし、
ということでしょうね。 また、役所を設置しただけでなく、>>714
わざわざ箕輪という地名まで残していること。
銅矛銅剣戦争で言うならば、銅剣勢力は当時敗者であったこと、
下関に名を残していること、
などから、
勝者として瀬戸内を巡視していた、のでしょうから、
そうなると、瀬戸内経済圏を担当する大倭、の海運を管理していたことにもなり、
また金印を保持していた=管理していた、ことからも、
彼が、初代の大倭長官=大物主であった、可能性が高いですね。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに木骨泥墻が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出して
土壁の住居の時代に入っていた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では7000年前に高床式住居も登場するが、先行した木骨泥墻に
吸収されて5000年前までに消滅し、4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>693
倭国の現地人である難升米が、司馬懿との対話において、
「伊邪國ではなくて、伊耶國ですよ。」と語ったわけですね。
ということは、
倭地の倭人たちは、や=邪ではなく、や=耶、と表記していたことを示しており、
魏志倭人伝に一か所しか記載されていない邪馬壹國の壹は臺の転写間違いとしたら、
倭人自身は、表音訓読では「耶馬臺國」と表記していたことになります。
それと、廣志に記された、>>671の部分は、
景初二年八月の時点で、難升米と司馬懿の共通知識だったことになり、
つまりは、「魏人が来倭する以前から存在する文字情報」だった。
>>735
>魏志倭人伝に書かれた里程は、57年金印の時に測定されたものでした
>だから当時の伊都で到着するのは吉武高木遺跡の宮殿でした
だった可能性が高い、
ということになります。
また明帝の詔書には、倭王と書かれて、邪馬壹國が出てきませんから、
倭国 わ 音読み
耶馬臺國 やまと 訓読み
ですね。 >>673
やはり北部九州で決まりだな
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