遼は南面官と北面官という政治組織を持っている。日本国王府は北面官に属している。日本に、北面の武士という軍事組織名がある。この驚くべき名前の一致は、白河が日本国王府の長であったことを示している。

白河は京の外で活動拠点を持った。岡崎の法勝寺、鳥羽離宮である。

北面の武士は、日本国王府の軍事組織。各地に配置され、源氏・平家になった。日本が急に武家社会に移行していった真の原因である。

遼の日本国王府設置は日本列島を西から制圧。日本列島の北部は豆満江の女真大王府の下部組織として、奥州藤原があった。奥州藤原は遼の女真族の王府の北面官。日本を遼の異なる府が分割して支配していたことになる。

奥州藤原が独自に北方貿易(北宋)をしていたことも、平泉が平安京に次ぐ人口を抱えていたことも二つの王府で説明できる。

遼が亡び(1125)、取り残された日本国王府の武士団が、保元平治の乱、源平合戦を起こした。勝った源氏は金王朝に属していた奥州藤原を滅ぼした。奥州藤原が逃げた先は十三湊で金王朝に頼ろうとした。

その前に滅ぼした平家は日本国王府の女真族一派。

こうして、日本国王府は契丹人組織となって鎌倉に遷都したのである。


詳しくは「国際的視点からの古代史考」の「付録」を参照。
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