江戸時代の譜代大名について語ろう
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※前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1397117009/ >>750
御側用人、奏者番、寺社奉行、若年寄、大坂城代、老中とか 豊前国小倉新田藩4代藩主の小笠原貞温が大番頭や奏者番を歴任している
よっしゃこい 新田藩って定府だし家臣めちゃくちゃ少ないし知行も蔵米で安定的だから意外と出世の機会があったのかもね >>756
本藩本家と言っても幕閣に列したら政治には口を出せないみたいだね 譜代じゃないが
佐賀の場合は内分で本家の分は10万にも満たず長州は支藩にも参勤(荻出府)していたし津藩は名張と険悪、前田家は参勤時の都合のいい支藩(休憩地)と
水戸は都合よく幕府から本家の監視役をまかされたりと あーすまん。つい本家分家の有り様を書いてみましたっただけでした 東京の街を歩いていると大名旗本に因む地名を見かける
近所のがお屋敷から、なんとか様の坂とか呼んでいたのが定着したという事だそうな
大体3種類あって、三宅坂のような家名、仙台坂のような領地名、播磨坂のような官位と、当時の町民は少ない名字の殿様は名字で、移封のない外様は領地名で、松平だらけで識別不可だと官職名とそんな感じだろうか
紀尾井町はこれがちゃんぽんで紀伊様、尾張様、井伊様という事だが、町民が井伊を彦根様と呼んでいたら紀尾彦町となり、代々の官職だと紀尾掃部町となっていたのだろうか 東京の地名は武家由来が多くて面白いよね
坂だと文京区に壱岐坂ってあるけどこれも官職名由来かな?
神田神保町、芝田村町、日本橋久松町、日本橋水天宮前、清澄白河、越中島なんかも大名旗本の屋敷由来なのだろうな 永井信濃の信濃町とか。あと内藤新宿は井上大和守強姦事件からみでも名高い 古地図 with MapFanでも見とけよ、加賀藩下屋敷まで載ってるから 渋谷にある代官山の代官は何を指しているのか今以て不明という謎 >>766
勘定所代官支配の山、つまりかなり郊外だったということだろう 水戸藩の学者は譜代・旗本が適材適所の障害と考えていた
でも国持大名クラスは存在を認めていた
幕末に水戸藩と譜代の軋轢が生まれるのは必然だった 思うんだが、長州征伐のとき
彦根、高田じゃなくて庄内にやらせときゃ勝てたろ >>773
正一位を貰えなかった唯一の将軍
でも親父が明治に貰えたから満足なんじゃ無いか >>772
井伊(彦根藩)と榊原(越後高田藩)の藩祖が家康時代の先鋒の常連だからな >>777
古式に則ったわけだな
まあ、そもそもその為の大封だしな
十万石以上の譜代大名は前線司令官ってことか >>774
負け犬でないと言うなら現実がそうなるはずだ
>>775
そこで満足するなら天皇は守れぬ >>772
庄内藩はミニェー銃やアームストロング砲、ガトリング砲を揃えた近代歩兵戦力を保有してたの? 天下をまとめるのが将軍の仕事だぞ
今バラバラでおかしいじゃないか
なんだ日本軍って 大名がいないから庶民が天皇陛下に嘆願してる
昔なら死刑かもしれないような行為
良い時代になったが秩序としてはおかしいよ 分厚い中間所得層を作るには消費税減税と長期的な賃金ベースアップが欠かせない! 柳沢、喜多見、大岡(岩槻)、田沼あたりが好きだなぁ 徳川の19代様がベトナムの人と結婚したというが
主たちはそこで江戸幕府作らないのか?
その敷居を得る準備を将軍はしてるというのに嬉しくないのか?
文化的にも見合うところが合うということだぞ >>792
江戸時代の崩し文字読めないだろ
そこがわからないと日本語もクソもない同レベル
同レベル同士が煽り合う 伊達メガネ海にぶん投げる 灯篭流しとか儀式すると良いと思う
地震のたびに >>791
私的にゃそういう人らって先祖の写真とか残っているから比較しやすいけれど各家様々というか
家達系が残っていれば(男系)スマートな紳士が当主になってたかもw
松平系はなぜかふくよかしている(明治期以降)、が現当主(会津)はそれほどでもないし血統って面白い 医療大麻解禁する
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84987?imp=0
厚生労働省は2021年1月から6月にかけて「大麻等の薬物対策のあり方検討会」(以下、検討会)を計8回に渡って開催した。検討会での意見はすでに報告書として取りまとめられ、関係審議会での議論を経て、早ければ来春に*法改正される見込みとなっている。
*ネットでも大麻オイルが*2売り始められた
*大麻は*2徳川家康征夷大将軍御用達だった
*2妄想だが*3伊勢神宮の歴史もたぶん*4江戸幕府が作り上げてきたものだろう。
*3天照大御神や*3神宮大麻を奉じてる
*4戦国時代は*3伊勢神宮はたしかその時代のため一度破壊されたというので*5
*5明治になって初めて天皇家に*3大政奉還された*6
*6敵味方関係なく信奉されてたのが大麻だったわけで、良くも悪くもこれが*4江戸幕府創設にも、*3天皇家創設にも関わってることになる*7
*7だから水戸から尊攘活動が生まれたし、犬公様の時代はとても*3天皇家と信仰が深かった。だからその後8代で江戸の華の時代が生まれ桜文化が咲いたわけだ 幕末をみていると譜代大名は
彦根や庄内以外は小大名すぎて幕府を支える柱として役に立たないと思うことしばしば
熊本藩加藤50万石を改易した時に小倉の細川を移すのではなくて
小田原藩の大久保に35万石を分け与えてもよかったと思う 家康が亡くなって、秀忠が本多正純を改易した時点で大久保を小田原に戻してもよさげだったが、綱吉の代までずれたな >>795
家達の写真を見たことあるのかこの低能は >>797
政権に関わる者に力を与えないと言う
方針が戦乱の時代にはマイナスだったな。 京都所司代
大坂城代 駿府城代 (甲府城代)
長崎奉行、伊勢山田奉行 他 >>797
家康公の孫である小笠原忠真とその一族に豊前豊後を与えた方が肥後熊本を得るよりも得策と幕府は判断したのでは?
しかも細川とは親戚の小笠原なら移封もスムーズだったろうから その小倉も後に殿様の幕閣入りたい願望で白黒騒動なんてのを起こすのだがな 豊前豊後は九州の中で鎌倉以来東国の影響が最も大きいから譜代としては敵地なんだろ 肥後八代城が一国一城令の適用除外として残されたのは薩摩藩と土地が隣接している八代に城があった方が幕府にとっていいから
でも幕末に薩摩藩が討幕に舵を切ったが八代城は幕府にとって何の役にも立たず
細川忠利が少年時代から人質として江戸にいて、幕府によく奉公したから家光が信頼して肥後を与えたんだろうけど、見通しが甘かったな 暗愚な家光にまともな判断力があるかよ
譜代の話でもないし 家光だって200年も先のことに責任もてないだろうが 細川なんて足利→織田→豊臣→徳川と主をコロコロ変えて勝ち馬に乗り換えてきた家だ
そんな細川に薩摩への抑えを任せるとか家光の目が曇ったな
譜代大名にこそ熊本か八代に封じて薩摩への抑えにすべきだった >>811
押さえるなら肥後より豊前、関門海峡〜別府湾だろ
肥後の細川だって畿内や江戸への道は豊後の鶴崎港からだしな 勝ち馬に乗り換えて生き延びながらえたが故にTOPの動向には敏感であろう?という希望的観測とか 幕末の老中の起用理由について、堀田正睦と小笠原長行は洋学の心得があったからと理由はあるけど、他はどういう理由だったかについて気になる。
稲葉正邦、松平康直、井上正直は慶喜の個人的信任とかあったのかどうかとか 江戸時代は食うもんがなかったから米4合食ってたんだってな
生類哀れみの例でおかずがそんなになかった だから米文化ってのは実は江戸文化ではないかという見方がある >>817
古代奈良朝や大和朝廷は米作文化の担い手で、まつろわぬ民とは米作文化圏外の民族である
って学説が有力なくらい日本における米作文化の影響力は古い
江戸時代からってことは流石にない >>797
譜代に大封をうけるにふさわしい戦功がなければ外様大名が離反する
関ケ原や大坂の役では外様の活躍が目覚ましかったのだから
戦功に応じて外様にも大封を与える
ただし幕政に参加できるのは先祖代々松平家のために命をささげてきた譜代のみ
信長は外様の明智光秀に、秀頼も外様の徳川家康にやられてる
外様を政治に参加させれば滅亡するというのが家康の理念 関ケ原の後、福島正則が本多忠勝の戦いぶりをほめたんだろ
桑名10万石は厳し過ぎる 松の廊下事件は本当は乱心と認めれば許された事件だった
しかし浅野内匠頭はそれを認めなかったから死罪となった
というようにドラマでは描かれてた 水野越前は天保の改革の失敗の責任を取らされて老中を免職にされたが、後任の土井その他らでは国防問題の対応にならないとして、半年後に老中に再任された
前回在任中は倹約を盛んに主張していたから、役人たちは一斉に地味な服装に戻して水野を迎えたが、役人らを嘲笑うがごとく、水野はひときわ伊達な衣裳で表れたんだと 乱心ということにすればその酌量余地は認められていた
しかし、内匠頭は乱心ではない、しらふだ、自分はまともだ、という風に否定した
これにはそれを問いただした官人がもさぞ悲しかろう
これを聞いて涙を流したのはその官人であると言うように描かれてた気がする >>824
官人という言葉をどんな意味で使ってるつもりなんだこの低学歴は >>812
日田天領、延岡の内藤、中津の奥平、小倉の小笠原、島原の深溝と小物ばかりだな。 小倉の小笠原は大坂夏の陣で戦死するまで踏みとどまった名将 九州の外様に対抗して譜代を配置したら相当な石高を与えなければならない
結果的にうまくいったわけだし 小倉の小笠原も中津の奥平も家康の血を引く家だしな
中津城では今でも長篠城籠城の故事に由来するタニシ祭りをやってる 老中首座、将軍家御輔佐の松平定信は彦根藩主井伊直中と庄内藩主酒井忠寄に老中になるように強力に要請したが、2名は拒んだという 転封で雪国に行くって嫌だったろうね
藩主は1年おきだが藩士の多くは毎年雪との戦い 転封なんて、旧領復帰以外はたとえ加増であろうと家来にとってはほとんどの場合嫌だったろうな
ましてや北越なんてマジ勘弁だわ 姫路藩榊原政嶺は遊興を咎められ、はるか北の高田に国替え命じられた。幕末まで異動はなかったが家来たちは主家を怨んだろうな 昔の家柄を語っても今一般庶民がほとんどだろ
名のしれてる将軍家(徳川家や松平家など以外)。
戦争で土地を取られた、そういう家は多い >>838
実家旗本次男坊であれよあれよと本家の当主やからね、舞い上がるのも無理はないかと思うが >>836
・福島正則を安芸広島藩50万石から陸奥津軽藩5万石へ国替え
(実現せず。福島は信濃川中島藩へ国替え)
・本多正純を下野宇都宮藩15万石から出羽由利藩5万石へ国替え
(正純の固辞で実現せず改易)
あえて減転封先を雪国にしたのは偶然じゃないだろうな
嫌がられるのをわかっている 付随して津軽信政を川中島13万石に転封する計画もあった 諏訪とかすげーよな
鎌倉では得宗の御内人で徳川将軍家では譜代大名 中先代を担いでその後は南朝に付いてるからな
よく生き残れたもんだ 保元平治の頃からの武士団で、一時関東移封もあったが維新まで累代の地で譜代大名なんて諏訪氏くらいではないか?
荻生徂徠によれば、諏訪の家臣はそれぞれ家来(陪臣)を大勢抱えていたというが、これも古族ならではのことかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています