>>618
>卑彌呼の前任地が、女王國=奴國不彌國(+α)であって、その県庁所在地が不彌國なのであれば、
>卑彌呼の弟もそれに連動するので、
>卑彌呼の弟の前任地は奴國であり、前職は兕馬觚の可能性が高い。

『有男弟 佐治國』をそのまま訳すと、
(卑彌呼には)弟がいて、(卑彌呼を)補佐して国を治めていた。

ということは、卑彌呼が倭國王(邪馬壹國王)となった後は、
女王國=奴國不彌國(+α)を弟が治めて、卑彌呼を後援していた。

卑彌呼の次の男王時代の内乱が、
>>618の乱と仮定した場合であるが、
弟は武埴安彦命(建波邇夜須毘古命)ということになる。

武埴安彦命は、第8代孝元の皇子であり、
母の埴安媛の父、つまり祖父は、河内青玉繋。
この人物はおそらく、大量の鉄剣とコバルトブルーのガラス釧が出土した、
大風呂南1号墳の被葬者ではなかろうか。

武埴安彦命の姉であるが、同腹の姉は記録にない。
味間見命の五世孫である欝色謎命が孝元の皇后となって、
大彦命、開化、そして倭迹迹姫命を産んでおり、
倭迹迹姫命は武埴安彦命とは別腹の姉となりうる。

女王國=奴國不彌國(+α)〜兕馬觚・多模(トモ)
〜卑彌呼と弟〜日本海沿岸の拘奴國
といった、繋がりが浮かんでくるが、どうだろうか。