0001日本@名無史さん
2021/03/19(金) 09:04:12.29遼史大安7年の朝貢を密貿易事件として処罰した事件は白河と朝廷の二重権力構造をしめした。白河が上だった。後世、院政と名付けられた。
白河は京の外で活動拠点を持った。岡崎の法勝寺、鳥羽離宮である。院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至るまで,鳥羽殿周辺に宅地が与えられ,「あたかも都遷の如し」といわれた。
北面の武士は、日本国王府の軍事の上部組織。源氏・平家になった。日本が急に武家社会に移行していった原因である。
日本列島の北部は豆満江を通じて支配する方がたやすい。日本国王府のほかに、豆満江の女真大王府の下部組織として、奥州藤原があったと思われる。
日本を遼の異なる府が分割して支配していたことになろう。奥州藤原が独自に北方貿易(北宋)をしていたことも、平泉が平安京に次ぐ人口を抱えていたことも二つの王府で説明できる。
遼が亡び(1125)、取り残された日本国王府の武士団が、保元平治の乱、源平合戦を起こした。勝った源氏はすでに金王朝に属していた奥州藤原を滅ぼしたことになる。奥州藤原が逃げた先は十三湊で金王朝に頼ろうとした可能性がある。
日本制圧の仕方は女真族を参考にできる。Wikipediaによれば遼王朝の女真族虐めとは売春接待。遼王朝の使節は貴族の婦人にも求めた。鳳凰堂と遼墓の絵の共通性が発見され、遼人が日本にやってきたことが証明された。この要人が日本の貴族に売春を求め、落胤が日本国王府の長、白河だろう。
詳しくは「国際的視点からの古代史考」の「付録」を参照。
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