古代天皇はなぜ100歳を超えるのか ★ 4 ★
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出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、 弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。 文字があったのなら王統の伝達は可能なわけで、 7世紀の朝廷はそれまでの王のおおよその実年を把握しており、 後漢書東夷伝のAD107年の倭国王師升(Shuai sheng )がスサノオだと分っていたでしょう。 白村江の敗戦ショックが癒えない時代、 かつてヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢し、 後漢・安帝に謁見したいと土下座した事実は、 白村江敗戦という傷口に塩を塗られるように惨めであり、 自尊心がズタズタであったでしょう。 だから、7世紀の朝廷は記紀編纂に際し、古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、 時代を大きくずらす事でごまかしました。 また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。 だから記紀において神武東征をやたらクローズアップし、まるで男王国であったかのような脚色をして、 卑弥呼(Bei mei hu)、比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、 つまりヒメ(蹈鞴五十鈴)后の記述を最小限にとどめました。 そして神武天皇即位をBC660年という途方もなく遠い過去に葬り去りました。 神武以降の天皇もそれに合わせました。 これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相でしょう。 前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1619554762/l50 >>793 >見えねえからいままで発覚しなかったんだろ。 >見えればなにも高価なハイテク測定機器なんか必要ねえ。 なんという高価なハイテク機器なのかメーカーは?w あれは画像処理。 パソコンがまだまだ古かった時代のね。 熊本の装飾古墳に天照大御神の名前が見れた云々で普通の人間は「おかしい」と気づく。 どちらにしても早くオカルト板に行け、迷惑にも程がある。 >>797 >こちらだって研究し始めたときはそう思ったんだから、彼らだって >そう考えてやむをえない。 7世紀の記紀編纂時の優秀な文官と、金印に文字があるというアホのお前を一緒にするな。 >>761 >ニギハヤヒの奥津城・桜井には北部九州の要素はほとんどない。 記紀や先代旧事本紀に文句を言え。 >>782 >ナイナイ。水銀の産出量も少なく、分家が集まったところでそっちが首都になるなどあり得ない 平原遺跡を見る限り、輸入品の水銀朱の方が珍重されていたようだ。 玉なども、ほとんどが輸入品だしね。 >>782 >そもそもが八井耳の一族は神武から見れば分家だからね。 神武は末弟なので、神武の方が分家。 >>782 >そもそもが、青銅器に使われる鉛と鈴は国産が無かったから、近畿で、それも九州で殆ど出てこない銅鐸の国産の青銅器が作れた事自体が注目すべき点 平原遺跡の八咫の鏡は国産だから、問題ない。 神功皇后が卑弥呼であったとするのなら面白いことになるよなw 大陸で政変が起きて、朝鮮半島が属国化 帯方郡を通じた朝貢が可能になった直後が卑弥呼 その卑弥呼が三韓征伐したら話が台無しになるだろwww 汝も国内で大変な時に我に挨拶に来た汝は健気である。我に孝順を尽せ。戦闘にはバックアップを使用。黄色の我が国の8本の旗を汝らに託す。 必ずや勝利してみせよ そういう流れで東征が始まってるのに、三韓征伐やったら魏様は激オコプンプンだろw 恩を仇で返す様なものだ >>783 最初に筑紫から大和に入った物部氏の祖である饒速日は、大阪湾に上陸して交野に降臨した。 >>804 お前自分のスレに帰れよww ハイテクや、阿波と同じレベルの人間だろw 村雲が末子だなんて話は一切確認されていない 末子相続は、基本は出雲の文化 磯城家、海部家、尾張(神武)の代数で、九州に大王陵作るほど暇な奴は居ない 生目古墳群以外にナーンにもないのが九州 それと、人間の言葉を喋れ 合金に使われる錫は全量輸入 それに対する返答が「国産だから問題ない」ってバカなの?ww 国産出来てないとは一言も言ってない。 材料が絶対に手に入らないものがあったという説明をしただけ お前も目からビームが出せる様だな。何か文字でも浮かび上がって見えるのか?w >>806 ニギハヤヒはヤマト入りしていない 宗方家から市杵島姫、弁天様を貰って物部の祖になっただけ 山幸彦は九州発祥 そもそもが腹違いの兄弟のイソタケルと彦ホホデミだが、その時点で義理の兄に妹の姫を嫁にやってるだろww >>803 >>ニギハヤヒの奥津城・桜井には北部九州の要素はほとんどない。 >記紀や先代旧事本紀に文句を言え。 いや文句を言うのはお前だろ。 だいたい北部九州と神武は関係がない、関係があるのは宮崎。 >>802 太国ほどウザいコテはいない。 しつこい、馬鹿、偏屈、性格が糞、 4拍子揃ってる。 ある複数の旧家が揃って言うのが、徐福時代に相当する吉野ヶ里遺跡 あそこにニギハヤヒが居たと 昔は出自を隠す必要が無かった為、筑紫の国は、築秦国と呼んでいたと。 吉野ヶ里から大規模な墓が出るかもしれないと言ってる。 水銀の話は記紀には本当に多いから、その側面からの話ってあまりされていない。 息長垂姫(神功皇后)の三韓遠征の際に爾保都ニホツ姫が現れ、「私をよく祀れば赤土の威力で平定できるだろう」と言って赤土をお出しになり、武器や船などに塗ったところ無事帰還でき、皇后はニホツ姫を紀伊国管川藤代の峯に祀ったと記されている。 ところが実際に紀伊に祀られているのは丹生都ニウツ姫であることから、ニホツ姫とニウツ姫は同神であるということになった。 本来、ニホとニウは違うものなんだけどね。 また播磨国風土記はニホツ姫を「国を堅めし大神の子」と説明しており、これを後代にイザナギ・イザナミの子と解釈したため、天照大神の妹神である稚日女ワカヒルメノ尊と同神だと説明されることがある。しかし「尊」は天孫族を、「命」は国津神を示すことから同一神とすることは無理がある。 播磨国風土記の話のままに受け取れば、神功皇后の時代にはニホツ姫だったのが、紀伊に祀った際にニウツ姫に変わったことになる事は確か。なぜ神名を変える必要があったのか? 大陸から水銀の新しい製錬方が伝わったと言うことでニホからニウになったという説になっていくのが最近の研究家の流れ 神社のお水取りは、水銀鉱石を熱して気化して冷まし、水銀を集める様子が神事になったと言う説もあるのだ 水銀といえば丹生氏 丹生氏 丹生氏の出自についてある研究家は、丹生神社の家系図を信用しない立場をとっている。 一方蒲池明弘氏は、丹生都比売神社の元宮司である丹生廣良氏の著作「丹生神社と丹生氏の研究」に示されたルーツを取り上げてている。 それによると、丹生氏の祖先は伊都国の王族であり、その後主流は畿内へ東遷して紀伊の丹生氏となり、九州に残った一派が大分県の丹生郷(豊後国風土記の)に進出したという。 ただし根拠は不明で、一族の伝承でもあるのかどうかまでは私も調査不足。 伊都国といえば平原遺跡の王墓から国内最大の銅鏡が5枚も出土、また施朱もみられる。平原以外の墳墓でも施朱や朱の入った壺が出土。紀伊には伊都郡がある。この話に添うとすれば、丹生氏が紀伊にやって来たのは物部東征の時。2世紀後半か3世紀後半になる。 魏書には卑弥呼が鉛丹を献上したかの様な記述があるが、実は鉛丹はこの時代に全く出土していない。おそらくは大陸側の誤記とと思われる。 この頃、大陸には鉛丹があり、我が国にはなかった時代。 伊都に地方の王クラスが居たとされる話は丹生氏くらいで、それも渡来系 安曇がどうのなど、確たるものは何にもない そもそもが、倭人伝の際の伊都国長官は物部らしいニギ、それと海部系を思わせるビビ(耳)くらいしか出ていない 安曇はない あの狭い地域で日本の中心などあり得ない。狭過ぎw それと、倭国大乱期の初端を開いたのがヒボコ族。 物部氏と結んで葛城国を挟み撃ちにしようと言う話になったが、物部氏に騙され単独での戦闘になってしまった。 播磨に侵攻したヒボコは結局葛城国のフトニ(孝霊)と、尾張氏にボコボコにされ、一部は淡路島に、一部伊都に逃げ込んだとされる。 実は鉄器の製造に関してはきちんと考古学的な編年が分かってきており、何とヤマトが一番鉄器の普及が遅れていた事が分かっている 沼地の水田開発に鉄の刃先農具がなくとも開拓ができたからとも考えられ、実際に奈良湖のほとりであったとされる巻向遺跡からは木製農具しか出てこない 倭国大乱期の初めまではヒボコの丹後が最盛期を迎え、邪馬台国時代では九州を超える産出量が導き出されている。 いずれにせよ、ヒボコが伊都に逃げ込んだ2世紀以降に九州の鉄器が急激に増え、破鏡の出土と同じように生産量が東征している。 伝承を裏付けるかのように、淡路島のゴッサカイト遺跡には邪馬台国時代より古い2世紀の大規模な鉄遺跡が発見されている 丹生氏やヒボコの朝鮮半島産磁鉄鉱の輸入など、伊都には確かに歴史はあるが、どう考えてもその中心が安曇であるとは考えられないのである。 東征の際にも記紀には切れていない泡沫の一族という判断しか出来ない そもそもが、金印の事すら記紀はガン無視だからね その金印には「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれていた。 刻まれている字は「委」であり、「倭」ではないが、委は倭の人偏を省略することがあり、この場合は「委=倭」である。 このように偏や旁を省略することを減筆という。 しかし、伊都チョンのように、「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」と訓じて委奴を「伊都国」にあてる説を推す意見がないわけでもないが、安曇なら、家系図的に畿内より先になることはないと言う矛盾を抱え込むことになる 現在では魏書に書かれている内容は伊都国の出先機関で役人が派遣されるところと言う解釈が一般的である >>809 いえ、旧家の伝承では、ホアカリとニギハヤヒが同一人物であり、天カゴヤマの嫁さんが物部の彦ホホデミの妹を貰うので、バッチリ親戚で関係ありのスタンスであります イソタケル(カゴヤマ)と彦ホホデミは、異母兄弟 腹違いの妹であるホヤ姫とカゴヤマが村雲を産んだと言う話であります故 >>800 記紀に日本産の記紀の原書からの卑弥呼の名前が見れない云々で普通の人間は 「おかしい」と気づく。 どちらにしても紀無い説は早くオカルト板に行け、迷惑にも程がある。 >801 >記紀に外国産のしか卑弥呼の記事がなく日本産の原書からの記紀の卑弥呼の文がない。 7世紀の記紀編纂時の優秀な文官と、記紀にこの卑弥呼の文字がないとなるアホのお前 を一緒にするな。 >>805 なんで? 韓人なんて帯方郡太守の弓遵を反乱して殺すぐらいの敵勢力だぞ 幾ら征伐しても魏が怒るわけないじゃん >>818 >記紀に日本産の記紀の原書からの卑弥呼の名前が見れない云々で普通の人間は 「おかしい」と気づく。 記紀に卑弥呼なんて出てくるわけないだろボケ。 >迷惑にも程がある。 このスレは俺が立てたんだ、偉そうに。 お前が出て行け。 >>822 伝の外国産のしかねえんだよ。 純日本産の記事は記紀に無い。 これがどういう意味を持つか、オマエの豆脳が死ぬまで考えて当然だな。 外国産のから記紀に卑弥呼は公開されていて、隠匿は大うそだ。 イカ様説は神国日本に不要だ。 即刻オメエはちゃんころ国に消えろ。 卑弥呼という呼称に中国側は「卑」なんて夷字を使ってるが、実際には何と呼ばれたか。 ピンインで解いても意味がないと言われるかも知れないが、 さほど発音が変わってないのなら、何かヒントがあるはず。 ピンインでは卑弥呼は(Bei mei hu)。 この発音に近いのは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉。 つまり卑弥呼とはヒメ后であったのだろう。 ならば一人しかいない。 I崇神(310年頃 318年没) H開化 G孝元 F孝霊 トヨ津媛 E孝安 D孝昭 トヨ津媛 (250年頃) C懿徳 ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧 ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖 ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 女王は皇后でねえ。 おまけに夫帯でもなく年長大だ。 だから夫帯のわけがねえ。40歳の老嬢を欲する変態らしき野郎がここにいるらしい。 しかも年代が神武の代に卑弥呼がいるわけもねえのは、童訓と千葉考古班の 年代測定ではっきりしている。 しかもチュルドレン(中流土連)の中国のいる土俵に華を持たせるから中華 といって、カッコ内に中の字があるわけだ。まあ子供に白鵬が故意にたおれて 子供に華をもた演出なわけで、東天皇が西皇帝より上位だし、義経に中国は 全領土をとられて土下座同然だった。w それ故に神国日本は萬邦無比を誇るのだ。 >女王は皇后でねえ。 そりゃそうさ、生きていたころには皇后なんて役職はないので皇后ではないよ。 7世紀以降に皇后と呼ばれる。 >おまけに夫帯でもなく その通りだ、夫はいない。 >年長大だ。 その通りだ、年長大だ。 卑弥呼=ヒメ(踏鞴五十鈴)后への反論になってない、ワロタwww 一応、旧家の伝承によれば、三輪山の卑弥呼職は、磯城登美家か、磯城登美家から嫁入りした大王のお嫁さんはなれたらしいから、必ずしも独身とは限らんらしい 実際に3代目までの奥さんはクシヒカタの妹や姪になってたしね 未亡人だったこともあるだろうし、大陸から見て夫は居ないとされていても実情は分からない なってるぜ。畿内で女王は推古からだ。 いっとくが英女王はお后ではねえ。 オマエが40歳の老嬢好きなわけだ。ppppppp >>829 >いっとくが英女王はお后ではねえ 1800年前の日本にも女王がいた。 7世紀の朝廷はそれが誰なのかわかっていた。 しかし誰なのかを日本書紀に書くことができない。 その女王の100年前にいる土下座王・帥升が誰なのか分かってしまうからだ。 だから女王より先に亡くなった婿の英雄譚を強調、その婿を新称号「天皇」にして女王を皇后にした。 そしてその初代天皇の時代を紀元前7世紀に設定した。 だから後続の天皇も100歳を超える馬鹿な年齢になった。 これ以外に古代天皇が100歳を超える解釈は成り立たない。 2000年前だから、BC2世紀まであともう一息だね〜 >>830 成り立つからおもしれえ。 当時は2倍暦等を行使してたんだから、今の半年が1年に相当だから 不合理はない。つまり紀の記述は年齢長大にみえて一見ウソに見えるが、 実はウソでなかのたのさ。バカな年齢ではねえ。いまの半年が当時の1年とかさ。 世界で倍暦行使はけっこうやってたのさ。日本も例外ではねえ。 中国人工作員よ 土下座は土俵の子供のオマエ達のほうだぜ。 白鵬が子供たちに華をもたせたようにな。w チュルドレン(中流土連)で土下座の「土」の字がついてるわけだ。 東の天皇のほうが西皇帝より格上だ。 五惑星の国旗の中国を従えるのが旭日旗の太陽の旗だ。天文学でも太陽が5惑星 を従属させるのだ。その逆はない。 帥升は朝廷の人物でなく九州の将軍あたりだ。 それに須佐之男命ではない。読み方もにてねえし一致しない。外れさ。 オマエが老嬢好きの野郎か?ウハハハ・・・ 中国人はそういう好みか?ww >>808 >ニギハヤヒはヤマト入りしていない 大和で神武と会談しているけど? >>809 >だいたい北部九州と神武は関係がない、関係があるのは宮崎。 神武が出発した筑紫の日向は、イザナギがいた筑紫の日向だろ。 筑紫の日向の小戸は、現在の福岡市西区小戸。 弥生時代に最も栄えていた福岡が倭国の王都だよ。 宮崎県には福岡県に匹敵するほどの遺跡はない。 三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば 3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は 「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い 「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが 入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 九州の国生みでは四面全部に『別』の字をつけて半島大陸と別もの だとはっきり古事記に記述がある。 筑紫國 白日別 豐國 豐日別 肥國 建日向日豐久士比泥別 熊曾國 建日別 日本は大陸半島とは『別』ものの国なのだ。 神国日本は全世界の別格の国である。 黄金の国神国日本と半島の世界第参位の人参民族とは同等ではない。 半島は参位の銅メダル国家であって、黄金の国ジパングの金メダル国家 とは完全に別ものなのだ。それゆえ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。 半島は銅級国家だからあのブスの銅像を各地に設置して銅だと 自認してるのさ。w 金メダル国家がこの神州であるからして、天意は日本に邪馬1国の 世界第1位の国家を置いてるのである。 したがって太古の日本人が半島から来たのではない。こちらの神国日本が半島の ご本家だ。ご本家だから日本の国号に『本』の字がつくのだ。 半島人は銅、土台人というときは4位以下の上位3名を載せるその下の表彰台。 黄金は天皇で黄銅と黄金とは別の近族。ハーフは天皇にはなれない。 タトーは外国行きの人民。だから五輪でも醜怪なタトーは外国勢ばかり。 外国の『外』はタトーのタとト。 天皇は萬世一系である。そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。 https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U >>835 どの神武の事を言ってるのか不明だけど最初の磐余彦の東征は卑弥呼を伴っておらず、薩摩半島経由で隼人族を仲間に引き入れたあと、四国南ルートで紀伊半島 そこで名草に追い払われて和歌山から入ってる ルートは記紀の通り、地名を豪族名に変えて書いてある 最後のクジラは奈良の御所のクジラ地籍の事だよ 160年代の話 2回目の東征の話は景初 西都原に東征軍は集結した。その頃は都万国 系図上の神武は村雲王。彼は東征していない。やられちゃった方の神武 東征した神武は2人。五瀬の兄弟(四男らしい) と、崇神てことになってるけど実際は垂仁のイクメがヤマト入ている 835 福岡には神武の先妻アヒラツ媛の痕跡がない。 あるのは宮崎県日南市。 当地の油津港の語源はアヒラツ。 そしてタギシミミを祀る神社まである。 したがって神武の出立地は宮崎。 >>841 出雲伝承ですと、日向からの東征を計画したのは崇神こと、物部イニエ王と、豊国の宇佐豊玉姫。 イニエには先妻がおり、アタツ姫(記紀では木花咲耶姫) イクメはアタツ姫との子供で、トヨ姫、豊彦は、豊玉姫との間の子供だそうです 当時の西都原は方々から人が集まっており人口は数万になっていたそうです 葛城国が再び分裂し、開化天皇系の息子、フツオシマコトと、孫の武内宿禰が西軍側についたことにより、戦乱を収める大義名分を得た彼らは、魏から8本の黄色の属国旗を貰い、宇佐八幡に納めます。 ホムタ大王はその頃祀られていませんので、つまり八幡は8本の旗を示しています 黄色の旗に、鏡を吊り下げて進軍を開始したそう 張政は後からついてきたらしいので、安芸国で無くなった豊玉姫の仮埋葬の墓は出来上がった後に見ている様ですね >>841 アヒラツヒメは『日本書紀』によれば、日向国吾田邑の人であるとされるので、アタツ姫と同じではないですかね 記紀は圧縮した時代の人物総監もうまく重曹させていると思います 東奈良遺跡は実に興味深い 前2世紀からの拠点で銅鐸の鋳型も出ており、阿波の銅鐸もここから出ているそうである 出雲伝承通りの紀元前二世紀で近畿で足りないは古代製鉄遺跡のみとなっている あともう200年遡れれば 日本書紀のニニギからウガヤフキアエズ、五瀬までは物部の家系 その後ろの神武の家族関係が元から奈良に存在した村雲神武の家系 昔の物部の家系に耳は入らない 村雲と出雲母系尊重の名前だから 日向神話の家系図は面白いよ。 豊玉姫の夫にイニエを当てはめる 豊玉姫の方に市杵島姫を当てはめてみる それぞれの結末が、彦ナギサタケと、ウガヤフキアエズ アマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒはと同じで、確かウガヤフキアエズもナギサタケと合体した名前が出てるものありませんでしたっけ >>846 実際にはイニエと豊玉姫の子供は男子が豊彦 さて、彦ナギサタケとはいったい何者なのかw おそらくだけど、上家野の一族が宇佐系物部氏の本家筋、物部の男系を伝える家系と言うことになる 応神の本物の家系が男系物部の本家になると言うことになるのだろう。 継体天皇は、曽我氏に養子入りしていた事代主家出身の人物 現在の蘇我系皇室の男系は事代主に遡る 旧家の伝承では女系アタツ姫系の物部氏は、系譜で言えば成務天皇で終わり 側室の子が居れば本家は続いているかもしれないが、それなら神功皇后が上毛野の竹葉瀬を呼び寄せる訳がない ヒボコの家系の神床家と出雲の向家の共通の伝承だと、6歳の時に皇后の子供が亡くなり、同じ歳の上毛野を呼んだとされる 景行天皇の御子が他にいればまだ名前を変えた物部氏が存続しているのかもしれない >>815 >現在では魏書に書かれている内容は伊都国の出先機関で役人が派遣されるところと言う解釈が一般的である 「一般的である」 「でよい」 「とするのが妥当」 「とみることができよう」 「余地があろう」 「みなしてよい」 「不自然ではない」 などのキナイコシが頻用する主観的な表現は、彼が根拠のないことを言い張る時に使うものだ。 少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。 それらの仮説や個人的な主義主張を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。 畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。 >>851 自分のスレッドに帰れよ 何の役立つ情報もないくせに出張して来んなや @阿波と同程度では話にならない そういや伊都クズもテンプレで「見なして良い」とか抜かしてたな はい一般論 http://www.eonet.ne.jp/ ~temb/10/ito/ito.htm はいここでも出先機関 https://books.google.co.jp/books?id=jYqdlv_8RYMC& ;pg=PT90&lpg=PT90&dq=伊都+出先機関&source=bl&ots=pfVra6AXUi&sig=ACfU3U2kxdW2Y-73Fgl_ykd3uroo6Qa9gQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjyjNqx9O7zAhUUxpQKHbuMDYwQ6AF6BAgzEAI#v=onepage&q=伊都%20出先機関&f=false ほれほれ https://books.google.co.jp/books?id=bfult15NYREC& ;pg=PA127&lpg=PA127&dq=伊都+出先機関&source=bl&ots=4RQuh9bQ5A&sig=ACfU3U1qc0HI3c5kl71wr70Un2eEmeHWIg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjyjNqx9O7zAhUUxpQKHbuMDYwQ6AF6BAgQEAI#v=onepage&q&f=false あの@阿波ですら出先機関と言ってるのだからレベルが知れると言うものだ さらにヒボコ関連では 『筑前国風土記』逸文では筑紫に行幸した天皇を出迎えて奉ったため、勤し(伊蘇志[いそし])と讃えられた。それがなまって伊覩(いと)になったと伝える。また、五十跡手が「高麗の意呂山(おろのやま)に天より下った日拝(≠天日鉾命)の苗裔である」と天皇に奏上したとある。 さらにコトバンク https://kotobank.jp/word/ 伊都国-31720 そもそもが神功皇后や景初以前から伊都は存在する 貿易の中継点であり、窓口であり、本土防衛上の防波堤であった 他国の役人はそこで留め置かれ、大王クラスの親戚などが長官を務めた これは後の太宰府と同じやり方 邪馬台国時代より前から、少なくとも前一世紀の遺跡から二つ目の硯が出ているので、出雲、奈良村雲の海部、九州物部しか候補はない 村雲と九州物部は親戚だから伊都国長官にニギ、の様な物部の名前が出ても不思議ではない 太宰府は簡単に言えば日本の中の日本府 そこに首都がある様に見せかける構造 伊都も同じ用途 国の出先機関なんだから、九州の卑弥呼の国も恐れるわけだよな 国の出先機関を勝手に使うと金印の国の様に始末される 土に埋めると言う行為は銅鐸と同じでそう言うものだ 御三家が尾張紀伊常陸なのも、 ものすごい秘密があるぞ ただ要衝っていうだけじゃねえな 鹿島熱田熊野だからか? 対外国対策の気がしてならない 御三家が尾張紀伊常陸なのも、 ものすごい秘密があるぞ ただ要衝っていうだけじゃねえな 鹿島熱田熊野だからか? 対外国対策の気がしてならない 御三家が尾張紀伊常陸なのも、 ものすごい秘密があるぞ ただ要衝っていうだけじゃねえな 鹿島熱田熊野だからか? 対外国対策の気がしてならない 仙台に伊達 常陸に水戸 尾張水戸 加賀に前田 摂津は誰だっけな 安芸 など、 物凄い重計があるように思う 江戸織田信長 大阪前田利家 加賀徳川家康 説も挙げとくぞ 戦国から江戸にかけては、 諸悪の権源は外国だと気づいたんだな。 もっと前からか。 >>867 一般論でないというのが思い込みなんだよ >>833 帥升は、倭国王帥升の記述からクニオシヒトだって解釈が昔流行った時期があるんだよね 諡号の付け方の遊びだと思う 伊都チョンは目からレーザー光出して倭人伝読んでるから見えない字でも見れるんだろ 測らずも伊都の特性と、畿内の親戚の安曇の存在が畿内政権を説明する事になる。 朝鮮語が話せ、漢文が読めるヒボコ族だけの土地ならまだ分らなかったが。 >>842 >出雲伝承ですと、日向からの東征を計画したのは崇神こと、物部イニエ王と、豊国の宇佐豊玉姫。 その出雲伝承というのを教えてくれ。 >>843 >アヒラツヒメは『日本書紀』によれば、日向国吾田邑の人であるとされるので、アタツ姫と同じではないですかね 日南市吾田ではないだろうか。 アヒラツからアタツの変化は少し無理があるような気がする。 アヒラツからアビルあたりならあり得るかもね。 アヒラツヒメは大和に行った夫の神武を後を追い、 御所市柏原でわび住まいをしたようだ。 その痕跡は地元で「ほんぐらさん」と呼ばれて小さな祠が今も残る。 この御所市柏原こそが真の神武の宮。 それは「大和誌」や本居宣長の「菅笠日記」にも書かれている。 この柏原はいわゆる被差別部落である。 神武の真の宮が被差別部落である事、これは日本の古代史にとって避けては通れない問題なのである。 これは神武東征の複数の土蜘蛛征伐の最後、高尾張邑での網で捕まえた土蜘蛛と関連しているのであろう。 神武軍は同時に土蜘蛛の殺害もしてるわけだ。 日本で、奴婢、または奴婢になったであろう集団が大量に誅殺された事件はこれしかない。 つまり日本書紀の神武東征紀での土蜘蛛征伐と、 魏志倭人伝の卑弥呼墓の殉葬奴婢百余人の記事が一致するのである。 >>864 尾張紀伊常陸なら奈良にいた方の神武系、大彦系だね 藤原もそれだし、徳川も賀茂系 本来なら清和源氏ではないので征夷大将軍にはなれないのを井伊氏だか何かの細工で誤魔化したんだっけか >>865 伊達はイタチ、イタテから来ているから、大彦系の投影が強いね 弥彦神社の社家の高橋姓は新潟、山形が多い 福島との境の飯豊山は豊姫伝説もあるから、上毛野の一族も来てると思う >>873 承知致しました まず、出雲国譲りで渡来系にやられちゃったのは、当時の大国主である神門臣家の八千矛 当時の事代主である向家の八重波津身 今では千家に追い出されていますが、前者は大社お抱えの大工、後者は大社運営の上官家筆頭を務めていました 国譲りに登場する出雲の王族の家系は現在でも存続しています 向家の方は歴史伝承者が代替わりしていて、本を出版しています。 大元出版で伝承の内容は書籍化されていますので、誰でも読むことができます。 検索すれば事前に書いてある内容は大体分かるかもしれません >>874 アタツ姫ですが、名前が二つあるんですね 神吾田津姫 豊吾田津姫 豊の字が何気にドキドキさせますw https://genbu.net/saijin/konohanasakuya.htm >>873 出雲伝承に限りませんが、記紀に出ている家系は結構ありますよ 糸井国造家、元出石神社の神床家 先代の方に言わせると、ヒボコにお嫁さんをやった家系らしい。子孫にタジマノモリ、神功皇后。 西出雲王家の神門臣家。しかし、まだ歴史の公開は単独ではやっていない 東出雲王家の向家。富家ともいわれ、奈良の文化は登美家と呼ばれる 先代の伝承者が一部だけ歴史を公開して、徳間書店の書籍、謎の出雲帝国、が出されます。 それから30年以上経て、次の代の方が出版社を立ち上げて、お仲間の方と一緒に本を出しています。 海幸彦は奈良のイソタケルの子孫で、物部神武に倒された、尾張神武 そんな様なことが書いてあります 因みに伊都に関しては数行のみw 記紀と同じでほぼガン無視ですw 東征した物部神武は、宇佐八幡の宇佐氏の姫と連合を組みました 宇佐氏は、魏書の卑弥呼の家系なので邪馬台国の真実を知る一族です 卑弥呼の遺骨の一部を現在でも神社で守っています 籠神社の海部氏は、奈良神武の親族から別れた家で、家系図が国宝になっています 〉この柏原はいわゆる被差別部落である。 神武の真の宮が被差別部落である事、これは日本の古代史にとって避けては通れない問題なのである。 なんかそれ聞いたことあります 神武の関係者が、墓守の為にそう言う地位に落とし込まれたと 負けちゃった方の神武なのか、東征して奈良を支配した神武の、さらに負けちゃった姿なのかは判然としませんが、役目者が墓を守ると言う資料か何かと、墨絵の様な天皇陵の画像を見た事があります >>877 >まず、出雲国譲りで渡来系にやられちゃったのは、当時の大国主である神門臣家の八千矛 当時の事代主である向家の八重波津身 意味が分からないのだが、山陰出雲は弥生時代から四隅突出墳墓が続く。 ところが4世紀になるとその造営が終り、出雲には珍しい鏡が副葬され(神原神社古墳)、やがて前方後円墳もできる。 この間、山陰出雲に大きな変化がある。 日本書紀によれば、山陰出雲では崇神により出雲振根が殺され、祖先から伝わる出雲の神宝を奪われている。 そして次の垂仁の代に出雲大社を建てて出雲の大神の祟り、つまり振根の祟りを封じ込めている。 この記事が本当なら、出雲の神宝を、今も崇神の末裔である現皇室が受け継いでいるという事になる。 この神宝とは何であろうか。 出雲と言えば古来から勾玉づくりが盛んで、全国的に有名な玉造温泉などもある。 そして四隅突出墳墓の西谷3号から豪華なコバルトブルーの勾玉も出ている。 出雲の神宝とは勾玉ではないのか。 ならば現皇室がその勾玉を受け継いでいるか。 受け継いでいるではないか。 それこそが皇室に伝わる三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」ではないのか。 https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQM4IsYMlaEC0FlR3y6IE5kJ0WuymXWQypTXg& ;usqp=CAU 出雲国譲りとは、「振根のおっさんを叩き殺して宝を奪ってやったぜwww」とは言えないから、 古代中国の易姓革命の際の「禅譲」に倣い、官製神話として「国譲り」が創られたのであろう。 とりあえず渡来系は関係がない。 >>880 >神武の関係者が、墓守の為にそう言う地位に落とし込まれたと >負けちゃった方の神武なのか、東征して奈良を支配した神武の、さらに負けちゃった姿なのかは判然としませんが、 神武の墓守集団は柏原とは別の被差別地域になる。 彼らはずっと神武の墓がある畝傍山に住み続け、大正時代に山を降り、近くに被差別部落を形成したようだ。 彼らは神武天皇と共に九州からやってきて、神武天皇のお墓を守り続けてきたという伝承を持つ。 自分は、この集団は久米ではないかと思っている。 根拠は久米の居住地・橿原市久米に近いこと、 また久米は神武東征の大久米以降、なにやらメインストリームに出てこず、 没落したのではないかと考えられること。 おそらくタギシミミの反逆でタギシミミ側についたのではないかと推測している。 そして敗れ、一部は奴婢階級に落とされたのかもなどと考えている。 やがて律令時代の五色の賤「陵戸」になったのかもしれないと考えている。 俺もそうおもう。 歴代天皇を覚えながらお話読んでると そうおもう。 おれがすごく思うのは八紘一宇。 ほんとうに実現してる。しちゃった。 みんな知らないから当たり前に日本がある とおもってる。違う。日本を作るまでに たくさんの人が犠牲になってる。 それをいま我が物顔して生きて売国やってる。 古代史については批判がある。 専門家は専門しかやらないとか、 名前を売るためだけに人と違う論を立てて混乱させる とか。 でもいちばんどいつもこいつも足らないのは そこに生きた人を想う心だよ。 豊玉姫マグダラ様は、 ものすごい性的魅力あるんでしょうかね・・・ まあいいけど・・・ まさか救済のイエス・キリストやりすぎたんじゃねえだろうな・・・ 俺自身の前世かもしれないが それはないと思うけど。 まあ、奥さんいっぱい居ただろうしね。 マグダラ様の西洋絵画は大変素敵です。 小室圭の母の彼の子なんだね となると、その彼がだれか。 ヒントは白組 作者は、中森明菜さん? 絵心は無かったでしたっけ? しかし皇女は5000万皆さん美人でお可愛いですね。 きっと天母の影響だろう。 白組>赤組か 土星人か 一白水星 二黒土星 三碧木星 四緑木星 五黄土星 六白金星 七朱金星 八白土星 九紫火星 わかんねこんな難しい学問 みんな簡単に考えよう 神典だこれ 紫微神界があるのかな? >>881 出雲10神宝事件は紀元後の話なのでもっと後の話ですよ 千家そのものが、出雲風土記と記紀編纂の際に千家と忌部氏の作り出したスサノオの部下の家系 天ホヒの家系 千家の存在そのものが渡来系の証明なんですよ 因みに出雲大社はやられちゃった方の東西出雲王家が作った神社です 国譲りの事件はBC3世紀 出雲人の奈良への移住が始まり、丹後から素戔嗚の孫の村雲が奈良に入ったのがBC2世紀 三島と言ったら、 伊豆長岡ww鉄道 修善寺 伊豆長岡とは??? ちなみにわーるどめいと総本部は、伊豆大仁、田京にあります。 >>895 >出雲10神宝事件は紀元後の話なのでもっと後の話ですよ 国譲りは崇神の時代だと書けるわけないだろ。 出雲神話で乱暴者の兄神に火傷を負わされる優しい大国主が出てくるが、 神宝を崇神側にあっさり渡してしまった飯入根がモチーフで、 乱暴者の兄神とは振根たちに相当するのは言うまでもない。 山陰出雲では考古学的にも4世紀を境にした時代にしか大きな変化はない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる