天智天皇=扶余勇 Part3
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扶余勇(百済扶余隆の弟)は走って倭国に在った(旧唐書)。
大宰府から近江にかけて政権を作った扶余勇を書紀は天命開別天皇と諡号。
詳しくは「国際的視点からの古代史考」にある。(http://sites.google.com/view/jhistory/) 中学生の頃、古田武彦とか、小林恵子とかよく読んだなあ。トンデモ本と知りながらも、なかなか面白かった。 古代東北アジア史の復元 辰国残映 ―日本国の源流が見えてきた― : 安部 裕治 | BookWay書店
https://bookway.jp/modules/zox/index.php?main_page=product_info&products_id=679
太古の中国に発祥した辰国は、前一千年紀に亘って燕山山脈の南→燕山山脈の北→遼西→遼東→朝鮮半島という経路を辿って移動し、鏡と銅剣に代表される特徴的な青銅器文化を開花させました。
倭とは弥生中期初頭に時の辰王家であった 「安冕辰?(あめしう)氏」の分派が北部九州に建てた国です。
「韓」〔の語〕は本来、辰国の領地を意味する普通名詞であり、南部朝鮮半島(朝鮮半島南半部)を指す固有名詞ではありません。
かつて南部朝鮮半島に韓族という種族は存在しませんでした。
南部朝鮮半島は多くの日本人の祖先となった人々の故地であり、百済・新羅の東北アジア系騎馬民勢力の南下侵入を許す迄、?族や孔列文土器人〔の流れを汲む集団〕や「辰族」や倭人などのフィールド(活動領域)でした。
古代朝鮮半島の文化をなんでも今日の朝鮮民族の祖先の文化とするのは誤りです。
細形銅剣を代表とする朝鮮半島の東北アジア系青銅器文化は「安冕辰?氏」の辰国の文化であり、日本人の祖先となった人々の文化です。
また、古代の朝鮮半島から渡来して日本人の祖先となった人々を今日の朝鮮民族と同系とするのも誤りです。
朝鮮民族の形成要素が朝鮮半島に出揃うのは、百済や新羅の後を追って高句麗が南下する紀元4世紀を待たねばならず、その形成が本格化するのは統一新羅の成立(676)を受けての紀元8世紀以降となります。
「白村江の戦い」(663)を境に朝鮮半島の均質化(標準化)が進み、朝鮮半島は次第に朝鮮民族の国となっていきます。
中国正史に記述された紀元3世紀以前の古韓の歴史は辰国の歴史であり、日本人の祖先となった人々の歴史であるといえるのではないでしょうか。 >>6
契丹 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9
契丹の起源と黎明期
契丹の起源は拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔で、
庫莫奚もしくは室韋と同系になる考えられている。
『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫とする。
『魏書』、『北史』、『隋書』によると、宇文部であった奚(庫莫奚)ともつながりがあり、
ともに4世紀半ばに前燕の慕容皝に敗北し、松漠の間(今の赤峰地区)に逃れて居住し、
388年に北魏に敗れ、奚と分離し、その東方に暮らすようになったとされる。 そんなもん偽作するメリットないでしょ
偽書と決めつけるメリットなら無限大だが >>7
宇文部 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%96%87%E9%83%A8
起源
宇文部の出自は匈奴であり[2]、1世紀に北匈奴が後漢に敗れて西に逃れた際、
これに従わずに漠北に留まった部衆がその起源といわれる。
その後、彼らは東へ逃れて鮮卑族と雑居するようになり、やがて同化していった。
その中で葛烏菟という人物は雄武にして謀略を有していたので、鮮卑の諸部より慕われて推戴され、
檀石槐の時代には12の部落を統べて東部大人となった。
以後、彼の子孫は代々東部大人となった。
また、南匈奴の単于とも遠戚であったという[2]。
匈奴 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4
フン族 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%B3%E6%97%8F#%E3%83%95%E3%83%B3%EF%BC%9D%E5%8C%88%E5%A5%B4%E8%AA%AC wikiからコピーしてどうしたいのか
自分の考えはどうなっておるのか
スレタイと関係があるのか
敗北してるのか 契丹人らならモンゴルに追い払われてモンゴルと同族の女真族にその身柄を預けられて朝鮮半島に大勢住み着いたんじゃなかったのか? 契丹人らがどおなったのか?って話だろ
かなりの数の人間らが朝鮮半島に住み着いたみたいなこと書かれていたの知っとるで
その数300万人だったかな?
その子孫のほとんどは今の朝鮮人らなんじゃねえの? 今の半島のやつらが古代と繋がらない可能性があるのは違うやつらが流入してきてるからだよ >>17
×天智=扶余勇
○扶余勇≒天智天皇+筑紫薩夜麻 以前も言ってましたね 撃破しましたがまた病気が再発ですか
扶余勇のどの部分が筑紫薩夜麻ですか 病気を治してあげましょう >>18
劉仁軌伝に扶余勇の記録があるので彼は実在する。
天智天皇と筑紫薩夜麻は架空の存在。
扶余勇は百済の王族だけど、
たぶん戦に負けて唐軍の捕虜になって、
劉仁軌と面会したんだと思う。 扶余勇が半島で唐軍に会えば捕縛される
彼は唐軍を逃れ倭国に逃れたので劉仁軌には会っていない
その配下にあると思われる劉徳高と禰軍と郭ムソウに会っている 唐は総勢254人で来訪
禰軍墓誌の「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅」はこの時の扶余勇の立ち位置を表したものだ
その後唐は倭国を攻めていないゆえ扶余勇政権は唐に認められた
筑紫都督府の都督として倭国を支配することを認められた
扶余勇=天智政権は唐の属国である >>20
捕虜になって倭国に唐軍と帰国したという扶余勇の負の側面が、
投影したのが筑紫薩夜麻。
扶余勇の正の側面が投影したのが天智天皇。
帶方州刺史劉仁軌の命令で扶余勇は筑紫都督府で働かされた。 大友皇子をこのときに始めて中国の使者らが見たということだ
その姿はその国の人々に似ておらず感心して帰っていったそおな
その国の人々に似ず? 捕虜になれば禰軍墓誌「據扶桑以逋誅」(罪を逃れんとし)とはならない
劉仁軌の条「是時走在倭國」、走るは逃げる意味があり流刑には使わない
「餘豐在北,餘勇在南,百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦相影響,・・・」捕虜になったものが息を吹き返したとは唐も処分に手抜かりがある >>29
>その国の人々に似ず?
大友皇子は刺青無くって倭人にはみえなかったのかな? 倭人てのは海に暮らす人々のことを倭人て読んだの
だから呉越人なども倭人に含まれる
海を知らぬ内陸におる者らを中国人と呼んだ
海を知らぬ則天武后の話は知っとるか? 日本との文のやり取りで一生に一度でよいから海と言うものを見てみたい☹とか言ったそおな >>28
[電子版] NHKブックス 天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ | NHK出版
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000243012940000.html
商品紹介
古代日本に存在した、もう一つの「占領」
663年の「白村江の戦い」に敗れた日本は、唐の再攻撃に備えて防衛態勢を整備し、
その後は律令国家建設へ邁進したと言われている。
だが、それは本当なのか?
本書は、唐の羈縻政策を軸に展開した当時の東アジア情勢を踏まえつつ、
中国・朝鮮側の史料との比較から『日本書紀』を再検証し、これまでの通説に挑む力作。
唐の支配体制が、その後の律令国家体制とどのように結びついていったのかを鮮やかに描く。
目次
はじめに
第1章 白村江への道(風雲急を告げる東アジア
第2章 白村江の敗戦処理
第3章 朝鮮式山城の築造
第4章 近江遷都
第5章 律令国家への道
おわりに──史料解釈の問題提起として >>28
30は28を否定しているのだが素知らぬ顔して34を書くのかね
筑紫薩夜麻の件を決着してからにしなさいよ ヒント
今の朝鮮人らの祖先らが唐の分家みたいなもん
契丹族長、耶律阿保機 国が滅ぼされたあとその身柄引き受け人となったのが女真の王
以来、女真族の監視下に置かれる 何時の時代の話をしてる?
敗北感を紛らわすため狂ったか? 意味不明 敗北しているw
そもそも今の朝鮮民族の成り立ちなんぞはスレチwwww お前とも長い付き合いだが天智=扶余勇には手も足も出ないwwww 「国際的視点からの古代史考」のなかでも天智=扶余勇は日本史に風穴を開けたねw 入り組んだ謎々の答えを得てしまったらもう元には戻れないのが人間さ
天智=扶余勇はパズルの答えだからもう誰も元には戻れない
日本史をどうしましょう? バカか
扶余勇なんてどおせそいつらの記録にも残ってないし知りもしないんだろ どこが答え解いたん
おまえらの場合どおやって答え導くん? こいつの日本語は精神薄弱かなんかでなっとらんから適当に解釈する
>扶余勇なんてどおせそいつらの記録にも残ってないし知りもしないんだろ
日本の記録にも残っていないてか改竄した
>どこが答え解いたん
天智=扶余勇
>おまえらの場合どおやって答え導くん?
「国際的視点からの古代史考」を読めば解き方はわかるだろう 「国際的視点からの古代史考」は日本人の歴史観を変えた 天智=扶余勇ならばまた天武もギョウキの皇子ならば
日本の王朝は百済その物の可能性がある
途中新羅が入って奈良王朝ができたかもしれないが
桓武が天智を祖としているので平安京は百済その物で
平安京の衰退は百済の衰退と目して考究されるべきだ 「国際的視点からの古代史考」を読んでるけどなかなか面白いよ 百済は高句麗に追われ、西に東にそして南に、最後は島に逃げた
逃げる先は何時も準備してあったようだ
負われたうえ逃げた先と戦って負ければ絶滅するおそれからだろう ひ弱なのだ
彼らは好戦的というより血筋に入り込むとか篭絡的手法で長らえた
しかし、力がない分支配力もたいしたことはなかった
彼らは原住民に対し優越的であることに満足し驕り高ぶるだけの統治力である
現実を見ることを回避し現実を認めなかった
政治は現実である 現実を見ずに民を支配することは出来ない だから扶余勇は百済王善光になったって書かれとるだろおがよ😐
天武天皇のときの葬式にもやつは列席してんだぞ
どおやって日本の天皇になれんだよ
後ろには日本の軍事氏族らが控えてるってのによ
嫌疑かけられたらそいつらにしろ皆殺しだぞ 列侯と立ち並ぶことを許されたんだからそれなりの地位にはあったんやろ 52
原住民?
その程度の知識だから間違い平気で犯すわけやな >だから扶余勇は百済王善光になったって書かれとるだろおがよ
何処に書かれてますか? 扶余豊璋が降伏したあと熊津知事に任命されたんやろ
唐軍が帰国したあと新羅と戦争になり遺跡から住民らの皆殺しまで起こり新羅が統一したんやろ 高句麗領は唐領となり百済領は新羅領となった
そのあと何回も百済復興運動は起こっているから日本も900年ころまでは出兵しとるんやで その後、日本では西日本で瀬戸内の海賊を纏めた藤原純友と東日本で関東で挙兵した平将門が930年代に朝廷に反乱起こしとるわけよ
それ以降、日本は百済復興運動が起こっても半島に援軍送らなくなったの >>53
>だから扶余勇は百済王善光になったって書かれとるだろおがよ
扶余勇が善光になったと何に書かれているのですか?
善光は豊璋とともに倭国いました
豊璋は半島に戻りましたが善光については触れられておりません
善光には倭国からの渡航歴がなく白村江で戦っていない
扶余勇は半島から走って(白村江で負けて)倭国にいるわけで善光とは別人物です
別人を同一人物だとするには根拠が必要です
お答えください >>60
>扶余豊璋が降伏したあと熊津知事に任命されたんやろ
資治通鑑に「・・・扶餘豐流嶺南」とあり、流刑になった者が知事にはならない。
根拠のない事を唱え混乱を謀るのは妨害行為 これ以上、説明しても時間の無駄やな
あとは各自で調べりゃよいやろ >これ以上、説明しても時間の無駄やな
虚言だからね
>あとは各自で調べりゃよいやろ
捨て台詞
>ウンコの歴史は板違い!
自分が出ていけばいいだけ 一丁上がり ごくろう 台湾に古い王朝はなかっただろう
沖縄にあった王朝はそれほど古いものではない中国様式だ
日本の王朝はしたがって倭人独自から生まれたはずがない
日本の王朝の様式は半島の亜流とみて間違いない
半島は変遷したので古代の様式は解りにくいが日本を見れば凍り付いてあるのだろう
つまり、日本独自の文化や血筋を重んじる考え方それに神社などは半島由来だろうとみて間違いない 歴史学は何のためにあるのか、それは現代をより理解するためである
決して支配の正当性のために作られるべきではない >>70は黙ってられない性格なんだなw
台湾や沖縄の王朝が比較的新しく中国由来だ、
日本にだけ倭人の王朝というのは比較文明論から言ってもありえない
日本の王朝文化は扶余勇より古い
ギョウキ王(孝徳)の前期難波宮は百済武王の宮殿のコピーだろう
これが始まりとも決められないが、日本の王朝文化は半島由来であることは間違いないだろう
なにか? 文化の担い手は貴族である。
その貴族は天〇を支え、天〇は扶余勇を祖先としている
貴族の中心は百済から渡ってきた子飼いの者たちだ
彼らの文化や思想が日本の文化となる 日の丸は朝鮮由来だろう
朝鮮系の国の旗は中央に丸があるw いつ朝鮮の国旗作ったんだよw
日の丸を掲げた一番古い記録が残るのは鎌倉幕府の連中らが後鳥羽上皇を追討するときに掲げたのが始まりやぞ このときに日本国惣無事令権が天皇から将軍へと移った
天皇ですら弓を引き叛乱を狙う者にしか過ぎなくなったわけさ 経緯は解らんがなぜか
大韓民国、朝鮮人民民主主義共和国、高麗の旗、朝鮮の伝統文様「三太極」、太極八卦図、李氏朝鮮の旗
のデザインの範囲から日の丸は抜け出られないと思うだけ、どうでもよいがwwwww 惣無事令?
誰かが後から考えた歴史用語だろう、
そんなもの現実には存在しない
よく騙されるのうお主は 新しい言葉を出すとバカな国民は何かと思い記憶する これは統治の一手法
「線状降水帯」のようなものだな
命名したところでなにもかわらぬが、気象を研究している雰囲気づくりには役立つw 摂関政治→遼の日本国王府→平家(女真族)→鎌倉(契丹人)と移っていった 日の丸が半島あたりのデザインから抜け出られないのと同様
半島で負けたものが島で作った政権は半島あたりの政治枠から抜け出られないだろう
どうせ知能言葉文化からくる精神状態の制約で似たようなものになるのだろう
これをAIで証明することは出来ると思うよ 知能とは知能指数ではなく同じものを見たり聞いたりしたとき何を感じるかなんだ
おそらく遺伝子が近ければ同じように感じるんじゃないかね
言葉はその個体に概念を与える重要な要素
語彙の成り立ちが、情によるものか、物理によるものか等でも個体への影響は違う
あいまいな言葉はあいまいな社会を作る
文化も大きい、宗教や個人を尊ぶか集団を大事にするかなどは社会に大きく影響する バカは黙っとれ☹
てめえらバカにいちいち答えてやる義務はない
日本語が分からんようだからてめえは日本人ではないのだろお
早く消えろ チャングムみたいに一行文しかない人物を大物に変身させる創造力はチョーセン人の勝ちです 出来上がったように見えてもカードが一枚でも余っていればごまかしです
非科学的ごまかし曖昧性が百済人の特性です
我々の現代においても百済人の末裔が非論理的ごまかし政治をしているのです
かれらは論理ではなく意を通すのがいいことだと思っているのですwww 彼ら百済人の末裔たちは追いだされた半島を取り戻すことが主眼です
国民や領土を限度いっぱい使って、半島を狙っているのです 捲土重来です
国民のための政治ではありません 民主主義になっても国民を考えておりません
日本国民の皆さんは何故気づかないのですか 西側諸国にとって日本の半島に対する攻撃的姿勢を温存しておくことは対中戦略上有利なわけです
百済人政府は西洋諸国によって明治維新以来ずうっと操られているのです 百済史研究やるのはよいが政治持ち込んではダメだわな 日本来ない方がよいと思うよ
そこにいるやつらみんな黒人みたいなもんやからの 在みたいなんでもな四世代も経てば半島のやつらとは似ても似つかない形相になっとるぞ
そりゃ向こう行っても追い出されるんじゃねえのか? しかしこいつら往生際悪いな👎
気持ち悪いくらい同じことばかり繰り返しておるわ >百済史研究やるのはよいが政治持ち込んではダメだわな
歴史は国民をまとめるために統治者が都合の良いように作り変えている
したがって統治者は古墳の封鎖などして科学的な歴史解明に乗り気でない
真実が明らかになり統治ストーリを再構築する必要を恐れている
政治を持ち込んでいるのはむしろ統治者側なのだ >在みたいなんでもな四世代も経てば半島のやつらとは似ても似つかない形相になっとるぞ
民は混じりあうかもしれないが王族は違う
王族は血脈が命であり百済王であった事実を失えば存立基盤がない
王族を取り巻く貴族が百済意識を捨てればその王族は没落する
在が在であり続けるのは政治的だからだ チョーセン半島には記録に残るような偉い人いないから想像するしかない。百済王の息子達も史実のチャングムレベルのモブなんだわ。 >チョーセン半島には記録に残るような偉い人いないから想像するしかない。百済王の息子達も史実のチャングムレベルのモブなんだわ。
豊も勇も旧唐書に名前が出てることを忘れた?
中国史書に名が残るなんて偉いものだよ モブではない 西洋は中国を攻略するために極東における拠点が欲しかった
日本の役割は中国属国の朝鮮を揺さぶり半島から本土に手を延ばすことだ
幕府は朝鮮の下馬を食っていたので反旗を翻すわけがなく西洋は王制に目を付けた
詳しい歴史など調べなくとも半島を追い出されたに違いない彼らを使えば意欲は十分にある
日本は利用されているのだよ 扶余義慈の沢山いた息子は全員モブw
再度皇帝や王になって成功した子孫がいれば追尊ぐらいあるのだが残念! 走って倭国にいると書いてあるだろう
百済を名乗れば王として書かれただろうが名乗ると唐から攻撃される
半島の出先とネゴして唐に盾突かない前提で政権が許された
日本と改名したのも百済を名乗れない苦しさから出た?
勇が日本国の王として記載されるには唐の王都に朝貢しなければねぇ
半島に船出して遣唐使はないぜw 武則天が倭国から日本国への正統な承認者だよ。百済は中国の一部なんだから逆らってはいけない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています