聖徳太子=阿毎多利思比孤
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聖徳太子は虚像で実像は阿毎多利思比孤
阿毎多利思比孤は法隆寺釈迦三尊像光背に出る上宮法皇
阿毎多利思比孤は百済昆支王の子孫
阿毎多利思比孤の死の原因は倭国の百済からの独立表明で百済に暗殺された
「国際的視点からの古代史考」を参照のこと 叡福寺に聖徳太子の御廟があってだな七不思議があるんだよ
御廟には笹や松は生えない
御廟には鳥が巣を作らない
御廟の土は大雨にも流されない
聖徳太子の母の棺の轅を植えたら楠が生えた
御廟は無数の結界石で守られている
聖徳太子は松や笹や鳥やアマではない
聖徳太子は楠の母を持つ石である 阿毎多利思比孤は実在した倭国の王なのに日本の歴史書に出てこない 山川詳説日本史B
山川一問一答
Z会実力をつける100題
河合塾考える日本史論述
Z会テーマ・文化史/整理と入試実戦
眠れぬ夜の土屋の日本史/史料と解説
駿台京大入試詳解日本史
駿台実戦模試演習京都大学への地理歴史 阿毎多利思比孤は実在したのにそれを放置して聖徳太子は厩戸王とか変な方向に走り出しましたね
上宮聖徳法王帝説を下敷きにしてるんですね
まったく過去のものはすべて正しいとするのは他国からバカにされます 倭も帥升も卑弥呼も言語が違う中国側が勝手につけた名前なんで間違いだらけ。天皇の一族史と合わないのは当然。 >中国側が勝手につけた名前なんで間違いだらけ。天皇の一族史と合わないのは当然。
そうでもないよ、正確だとおもわれるよ。例を示そう。
書紀推古紀の冠位12階は、大徳、小コ,大仁,小仁,大禮,小禮,大信,小信,大義,小義,大智,小智である。
隋書には「內官有十二等:一曰大コ,次小コ,次大仁,次小仁,次大義,次小義,次大禮,次小禮,次大智,次小智,次大信,次小信」とある。
は殆ど一致している。
12階冠位の微妙な違いを考察してみる
隋書は「次」によって冠位の順序を倭国の使者の申告通り正確に記したとしているのだ。
推古紀の冠位が少し順序を違えているのは書紀を書いた者は12階冠位がうる覚えか、故意に違えたと考えられる。
だから、中国史書に名前が出る王に相当する王が日本の歴史書にでないのは捏造しているからだ 中国語由来のシステムは理解できるだろうが、風土が違う中国人が日本の実態を把握するのは無理。 >中国語由来のシステムは理解できるだろうが、風土が違う中国人が日本の実態を把握するのは無理。
国書の「日出處天子致書日沒處天子無恙」をみて、煬帝は面白く思わず、
外務卿に「蠻夷の書は無礼である、再び聞くことはない」といったが、
裴清を遣わした。
「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。又東至一支國,
又至竹斯國,又東至秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。又經十余國,
達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。」
は使者によって確認されている。
男女の区別は出来るだろう
外国の人物が王か王を自称しているだけかを見抜けなけりゃ中国王朝はもたないだろう
後宮の女の数のマグニチュードも間違えないだろう
で、なぜ、アマタリシヒコに相当する倭国王が日本の歴史書に存在しないのかね? だから間違えてるから。アマやヒコやヒミコやミコトとか諱じゃないから。 阿毎多利思比孤は法隆寺釈迦三尊像光背に出る上宮法皇
600年代初頭、遣隋使の派遣で隋からの使者を招請した天皇が有った。
この時、斑鳩宮と法隆寺の建造を間に合わせている。つまり、史実は実在している。
よって、推古天皇は存在しない。 記紀の正史での採用は有り得ない。
記紀以降、国記天皇記の焚書と共に蘇我馬子、聖徳太子の記録他は捏造されている。
隋史の記述では、この時の天皇は兄弟。
創作でしかない記紀から当てはめるなら、押坂彦人大兄皇子と聖徳太子。
聖徳は斑鳩の王、天の香具山方面の宮は押坂彦人大兄皇子。
推古天皇はこの即位を古代日本史上から消す工作。
後宮7〜800人の女帝だろう。
ここまでの王位は物部蘇我など有力豪族によって建てたが
古墳制度は王を輩出した豪族から富の独占を削がせるための徳。
これ以降大化の改新から記紀成立でファンタジー神話が日本の正史となる。
皇室の成立、万世一系はそれ以降、てか、明治からのお話。
倭の五王は物部系、仏教伝来から蘇我の王、で、藤原京。
領主制地方分権で織田信長が為しえなかった軍事独裁の歴史など、
日本の古代には存在しない。 日本の歴史家の目は、記紀で曇っている。
源平以降の武家政治の成立で、武家側も利用したが
後宮数百人で兄弟継承や女系天皇が有って、
天地創造の神話天皇家の万世一系は無い。 >だから間違えてるから。アマやヒコやヒミコやミコトとか諱じゃないから。
名前が一致しなければならないことはないが、日本の歴史書に相当する王は存在しなければ、その歴史書はタリシヒコを王として認めなかった
諱に適用されるルールが異なったとできませんか?
つまり、タリシヒコの系と日本書紀系が異なると考えられませんか?
中国が間違えたとするのは単純すぎるのではありませんか? 遣隋使遣唐使のはじまり。 天子、天皇呼称の採用
600年という同時代史の推古天皇にまで嘘書いてる記紀。
これをネタに日本史を語るのは、単純にファンタジーと言われて当たり前。 徳川は豊臣勢力をそぐために秀吉の人気を陰らせました
例えば秀吉の墓を屈葬にかえた
豊国神社は廃絶となり放置され、江戸時代を通じて再興は認められなかった
淀君の墓を大阪市外に移した
etc.
手強い政敵を葬るには復活の芽を摘まねばならなかったということでしょう
アマタリシヒコの名前はもちろんそれに相当する王すら歴史書に載せないのは
書紀政権の政敵であったとみてよいのです。
ただ、歴史としてはその間の事象を消し去ると矛盾が生じますから歴史書に何らかの形で残します
別人を作って(厩戸王)その人の業績にするのです
こういうことではないのですか? 絵の一部を隠されて見せられて隠された部分を再現することは頭の良い人でもできません
つまり、書紀からはアマタリシヒコは絶対にわからないのです
これを明らかにするには書紀以外のものが必要となります
書紀政権はアマタリシヒコを隠しましたから書紀以外のものでも改竄している可能性があります
ですから、アマタリシヒコ時代の原文のみ真実です、コピーは疑うべきです 歴史が好きなら、歴史を書いている人の心情にも心を馳せましょうねw 「俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌」「阿輩雞彌」はオオキミ、
王の妻は「雞彌」(キミ?)といい、
太子を「利歌彌多弗利」という。長屋王家木簡の「若翁(わかいもの)」(ワカンドホリ)から(ワカミタホリ)と読める。
一方、日本書紀は神代紀からミコト、ヒメ、ミコ系で書かれている。ミコト、ヒメ、キサキ、ミコが隋書に出てこないのは、アマタリシヒコ系ではそれらを使わなかったからである。
すなわち日本書紀の用語は600年当時の倭国王の治世下で使われていなかった。 大王(オオキミ)は書紀では尊称としてのみ使われている
社長でものないのに「社長」、大将でもないのに「大将」と呼ぶがごとくに
太子のワカミタホリは若いものという意味に貶められた
つまりアマタリシヒコ系の称号は書紀系で侮辱された
それほどまでに徹底的にアマタリシヒコ系を否定した
アマタリシヒコ系を絶滅させるほどの意図が書紀系政権にあったと思ってよい
無論アマタリシヒコは書紀系に倒されたに違いない >>13くん。
諱が違うところに気が付けばそこから推理ができなくっちゃ!
時代は書紀より少し古いんだから書紀を適用すべきではないよ >阿毎多利思比孤は法隆寺釈迦三尊像光背に出る上宮法皇
そうだ
>600年代初頭、遣隋使の派遣で隋からの使者を招請した天皇が有った。
この時、斑鳩宮と法隆寺の建造を間に合わせている。つまり、史実は実在している。
天皇称号はまだなくオオキミ
>よって、推古天皇は存在しない。 記紀の正史での採用は有り得ない。
記紀以降、国記天皇記の焚書と共に蘇我馬子、聖徳太子の記録他は捏造されている。
おそらくそうだろう 明史によると、豊臣秀吉は薩摩の出身だし、織田信長を殺した明智は阿奇支なる者の
配下で、その阿奇支は秀吉に滅ぼされたのだそうだ。
このようにChinaの歴史書も外国の記述については当てにならん事が多い。
要するに日本の歴史書よりもChinaの歴史書の方が何でも正しいという態度は、ただの
事大主義にすぎないということだ。
阿毎多利思比孤については時代を考えれば合理的な説明がつく。
聖徳太子はChinaと対等な外交関係を目指していた。
ところが当時Chinaにはまだ女帝が一人も現れていなかったので、隋からわざわざ
使節が来ると聞き、女性天皇を頂く我が国が軽く見られないように男性の身代わりを
立てたのだと考えればいいのさ。 >阿毎多利思比孤については時代を考えれば合理的な説明がつく。
聖徳太子はChinaと対等な外交関係を目指していた。
ところが当時Chinaにはまだ女帝が一人も現れていなかったので、隋からわざわざ
使節が来ると聞き、女性天皇を頂く我が国が軽く見られないように男性の身代わりを
立てたのだと考えればいいのさ。
いいのさなんて投げやりな態度ですね、それでは真実はつかめませんよ
女性天皇に自信がなかったのですか、それで男性を身代わりに建てた?
それはおかしいでしょう 卑弥呼は立派に魏志倭人伝で取り上げられていますよ 忘れました? 王が替え玉かどうかは見破られるでしょう
替え玉説を出してくるところなぞ○○説の法隆寺移動説と同じですね、どんどん破綻していきますよ
ところで、法皇は政権の最高位の人物が出家した称号。
アマタリシヒコ大王は倭国王で、出家したと思わせる記述が隋書にある。
アマタリシヒコは遣隋使(607)を通じて「海の西の菩薩天子が仏法を重んじ興すと聞き、
よって朝拜し兼ねて僧侶数十名をつかわし仏法を学ばせに来た」といった。
隋の文帝は仏教治国策をとり、煬帝は受戒していた。
アマタリシヒコ大王は百済仏教をすすめ、さらに仏教による統治を志向し、隋に仏法を求めた。
608年に来訪した裴清にアマタリシヒコ大王は言った
「我は聞く、海の西に大隋が有り,禮義の國ゆえ,遣いをやって朝貢した。
・・・請い願わくは大國の惟新の化を聞くことを」。
裴世清は「皇帝の徳と儀が四海に流れ世界を慕わせる。故に使をやらせ、これに諭を宣す」といった。
裴世清は使いをやって「朝命既達,請即戒塗」と伝えた。
「戒塗」は仏教用語で、戒をまもり香を塗り身を清める意味である。
「於是設宴享以遣清」は、裴世清にたいして宴享を設けたのであるから、
アマタリシヒコ大王が「戒塗」を受け入れたと読める。大王が仏門に入れば法皇となる。
上宮法皇はアマタリシヒコ大王が戒塗してそう呼ばれた。
法皇となれる人物はアマタリシヒコ大王以外にない。
上宮法皇には妻がいます。替え玉が法皇にはなりえませんねw 平安時代から神代の王に戻ったんだよ
ヤマト政権より前の国作りの時代の王
元の形 神代とかヤマト政権とか国造りとか何のことですか?
過去は将来のあるべき姿に向かって歴史を作り上げてきたような言い方ですね 奈良時代後半の万葉集
月やホトトギスの来訪を期待する歌ばかりだろう
中には神代に戻るのかみたいな歌もある
ちなみにホトトギスの別名は玉迎え鳥 論理的に破綻しても花鳥風月に逃避する
論理では勝負しない国民をおつくりですねw >>26でアマタリシヒコ大王=上宮法皇を示した
上宮法皇=聖徳太子であるからアマタリシヒコ大王=聖徳太子となる
上宮聖徳法王帝説は、法隆寺釈迦三尊像光背にでる上宮法皇を厩戸王に同定させようとし、知能程度の低さから論理破綻し、逆に厩戸王でないことが結論される。ここに聖徳太子となずけられる人物はアマタリシヒコ大王であり、太子ではなく法皇である。後世に聖徳太子として信仰の対象になった。 深見東州さんの曲に、
厩戸皇子のアリアと言うのがあります。
おわかりですよね?
聖徳太子の正体。
音楽アプリ、AWAで、聴けます。 万葉集の真の意味を、
全歌わかる人って、
現代では一人もいないんじゃねえ?
だから、学者が研究してるの。 多分、
日本の古典を真に理解できるのは、
日本人だけだろうな。
日本言語学、日本文学、日本史学、
東洋史学、世界史学もか?
あと、神学。
これらが出来るのは、
最低日本人だけ。 575は「さくやこのはな」(7世紀中盤)にまでしかさかのぼれない
百済からもたらされたのだろうよw 実はタリシヒコまたはタラシヒコの諡は日本書紀などにも登場する。
例えば、景行天皇はオオタラシヒコ淤斯呂和気ミコトという。
歴代天皇では7人ほどがタラシヒコの諡号を持つという。 八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を >八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を
記紀に575が出ていても記紀が書かれた時までしか遡れない
木簡などの証拠物からは7世紀中葉が最も早い >>25
纒向遺跡の調査結果から、卑弥呼は大和王権とは関わりがないと思っているからね。
それに対等外交を目指している時期と、実際に朝貢外交を行っている時期で
時の権力の考え方が異なるのは当たり前。
>>26
>>32
替え玉の正体は厩戸王しか候補者はいないと思う。
なら、上宮法皇=アマタリシヒコ大王=厩戸王=聖徳太子 なんじゃね? >替え玉の正体は厩戸王しか候補者はいないと思う。
なら、上宮法皇=アマタリシヒコ大王=厩戸王=聖徳太子 なんじゃね?
替え玉である証明が必要
厩戸王が実在した証明が必要
厩戸王=上宮聖徳法王の証明が必要
ただし、上宮聖徳法王帝説は厩戸王=上宮法皇をこじつけようとし瓦解し、逆に厩戸王≠上宮法皇であったことが示された 聖徳太子は楠の母を持つ石だよ
橘寺で生まれ黄泉の国とのチャンネルを持った人物 >>42
ま、言いたいことはわかるんだけどね。
ただ、この歌自体はやはり古いと思う。
古事記を書いた人は、八重垣と聞いて、纒向遺跡にあるような垣根をイメージして書いたと思う。
でも多重環濠集落の存在を知っている我々は、吉野ヶ里のようなものを思い浮かべることができる。
遠い九州なり山陰なりにあった環濠集落についての伝承が、言葉だけ伝わったように見えるんだよね。 >>47
著者が思い浮かべる情景の原風景が何であったか
歌として残っていたとしても575であったかどうか 卑弥呼を共立したら倭人らがおとなしくなったって書き出しでなかった?
そいから中国で言うとこの倭人てのは古代の入れ墨者たちだよ
つまり犯罪者 ときの中国の政権から犯罪者としてのレッテルを貼られた集団らのこと
倭人の風習を好んで取り入れたみたいな書き出しから始まる中国武将の話は伝わるがね
そいつらは中国南朝と手を組み北朝と戦争しとるだ 聖徳太子は法隆寺で庶民に極楽浄土として大麻を勧めてた バカが賢ぶって無知晒してるの見るの楽しいいいいいい 遣隋使における阿毎多利思比孤 登場の歴史的意義は、
記紀の捏造史と焚書によって初期天皇制の成立をうやむやにしているという事実。
推古天皇と聖徳太子時代の真実は日本史自体によって完璧に隠蔽されている。 おそらく阿毎多利思比孤に死をもたらしたものが記紀を書いたのだろう
記紀を歴史書とすることによって日本の歴史観、国際感覚が失われた悲劇 さらに言うなら三国志倭人伝によって、247年以前の日本には統一王朝は無かった。
中国統一期に入り238年楽浪帯方陥落、239年公孫氏滅亡、246年箕氏遺民韓の馬王朝滅亡。
これによって地方領主の連携が有った九州北部と日本海瀬戸内海勢力は対魏防衛で合流。
だが、313年漢四郡撤退。高句麗台頭に対し倭人の後押しで350年台百済新羅成立。
400〜500年倭の五王は楽浪候幽州刺史の対高句麗交戦権と半島利権のために南朝と交流。
これがのこらなかったのは朝廷天皇家ではなく、物部大伴の王家だったからだろう。
牛馬の移入や鉄の国内生産化から、文字や仏教伝来も有り
500年任那四県割譲のあと日本の半島撤退で中国が再統一、
蘇我家台頭が記紀の言う聖徳太子に繋がる。
記紀ごときの虚偽捏造で消える日本東亜の歴史の訳が無くないか?
いいかげん記紀は記紀。破棄?で、歴史認識改めた方が良いんじゃね? 日本が朝鮮に軍を送って1910 年に併合したとき、
日本の軍司令部はそれを「古来の正当な秩序の回復として祝したそうだ。
記紀を破棄するには、真実を明らかにして葬らねば、再び頭をもたげる。 誤爆した。 リロードがどうたら?
韓王を名乗った箕氏の遺民は魏が246年に滅ぼした。
高句麗による313年漢四郡の撤退以降に朝貢で百済王国を建国したが
これは高句麗馬の移入に利用した倭人の後押しによって成立している。
冊封国教化のために下寵した博士、阿直岐、王仁を
後援国の日本に即時で献上させ、文字文化の普及に貢献させられている。
これは空白の4世紀、七支刀の献上や百済王子の人質と同時期の話。
大海を越えた大国である日本に中国は中華文明を与えなかったので
日本は倭の五王の500年まで、必然的に百済を傀儡国としていった。
中国は戦乱期となり日本文化に傀儡の必要も薄れると百済は対新羅で弱体化する。
この発展期の後、隋唐の統一、遣隋使遣唐使の日中正式外交が始まった。
これが、聖徳太子までの謎の日本王権の仕事だが、
記紀神話の天子による朝廷ではないので、本当のことは言えなくなった。
これが記紀の成立と焚書の理由だろ?
日本王朝の成立は謎とされてしまう訳だが、
これが、源平から信長の天下布武、江戸期の武家政治の存続
どころか 明治政府、昭和敗戦にも続いたわけで・・・
日本が対中で古代韓の大韓帝国の建国を後援したのも歴史の必然かと思うね 炊き書ってのはな😐
だいたい寺院ごと焼かれちまって資料なんか残らねえこと言うんだよ
別にその資料を焼くのが目的ではない
殺したい相手を焼いちまったら結果資料も焼けちまったってことだ😐 そもそも蘇我族以外は字の読み書きなどまともにできなかった時代 57
日本が半島を支配下に置いた時代などない
それだと倭人と呼ばれたやつらを日本の正当な支配者として認めることとなる
それは否定される 自分らが倭人らの正当な後継と名乗る連中らが現れるだろ
そおなるとそいつらがまた日本を自分らの支配下においてもよい!と言う理屈となる
そのアドバンテージは朝鮮人らの方にある アホが勝手な理屈のべても誰もわからない
アホでももう少し他人にわかるように工夫せよ 漢から魏つまり三国志側の概念では、倭は半島南岸を含み九州と東の陸地に住む者。
中国にとっては、沿海州北部は未知であるが、その対岸も倭と考えていた。
倭国の南北は中原よりはるかに長い大国であって
倭人と言われたものには、小領主国が山や島で分裂していて軍事統一国家は無い。
同様に倭人国が半島南部の韓を支配しようにも、
倭人領主国も多々混ざっているわけで統一という発想が無い。
統一は中国の概念だが三国志は分断国家の話である。
隋書のヤマトには、天宮太子彦と上宮法皇が有り、兄弟で治めていた事が知られる。
推古天皇は無いw 文字については百済朝貢建国の370年辺りに阿直伎、王仁を招請し
400〜500年、倭の五王は文書を使い漢名を名乗った。
この南朝との外交文書も、北朝隋の統一で破棄されたという事。
半島を捨てて、九州が日本に含まれたのは、白村江の戦い以降
記紀神の天地創造以来の捏造史観によって歴史的な日本固有の領土となった。
歴史の保津全に理屈が無かったら神話だよw
日本の歴史教育は、歴史認識を改めるところからやった方が良い。 >半島を捨てて、九州が日本に含まれたのは、白村江の戦い以降
もう少し詳しく願います 弥生時代からあった九州の倭国と、本州西部にあった日本国は別の国だから。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書) >弥生時代からあった九州の倭国と、本州西部にあった日本国は別の国だから。
旧唐書も新唐書も巨大古墳が多くある近畿のことは何も書いていないのですか? >>69
「自言」は新唐書が確認したのでなく、日本が自称したのを間違いなく記した意味で、その内容が真実かどうかはわからないというスタンス 倭王武の上奏文が
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、であるから、600年には東の毛人も平定してる。
稲荷山古墳鉄剣は、ワカタケルに仕えた武人頭によって
この471年を示し埼玉古墳での出土であるから事実である。
600年、奈良の阿毎多利思比孤王が東国を治めていないなら
600年当時でも、蘇我氏の大王と、倭の五王の物部の大王は別系統である。
大和朝廷の天孫降臨〜一系の確立は記紀成立までなく、
馬子から聖徳太子編纂と言われる
SF神話ではない天皇記国記の焚書の理由も明白である。
記紀をベースに日本史を語るのはガキの使い以下である。
600年の蘇我系の王は、天宮太子彦と上宮法皇の兄弟である。
倭王讃以前の半島進出の黄金時代370年位から500年の
物部系の王は奈良ではなく、摂津大阪方面の古墳でしょ。
記紀はこれを修正している。 >600年の蘇我系の王は、天宮太子彦と上宮法皇の兄弟である。
天宮太子彦で知らないんですが
>物部系の王は奈良ではなく、摂津大阪方面の古墳でしょ。
記紀はこれを修正している。
物部系ってなんですか? 私は辰王系だと思っていますが・・・ ケカキキヤ=通称推古は蘇我族の女頭領だから
日本書紀の記述が決定的にデタラメというわけじゃない
日本書紀を執筆した中華帝国人が
女系血統相続主義の仕組みを理解できず漢族の男系主義の類推で
伝承をまとめてしまったためおかしな記述になってしまっている >>74
王は血統主義による太子が相続するのでおおむね揉めないで引き継がれる
ところがそうでないものが王位に就くのは簒奪であり、必ず戦なりがある >日本書紀を執筆した中華帝国人が
女系血統相続主義の仕組みを理解できず漢族の男系主義の類推で
伝承をまとめてしまったためおかしな記述になってしまっている
おかしな記述とはどの部分を指していますか? 推古天皇おらんわけないやろ
上宮王は天皇代理を務めた摂政家だアホ 女性天皇や未成年天皇が立ったときは代わりに政治代表を行う摂政殿下が皇族代表として立ち政治指導部の代表となる😑 正統性が無い時に中国の権威にすがるんじゃないか
親魏倭王卑弥呼しかり 簒奪は継体の時に起きて推古天皇の時代は正統な大王がいないんだよ >上宮王は天皇代理を務めた摂政家
上宮法皇を上宮王と読み替える必要性は?
法隆寺釈迦三尊像光背銘は現存する。
法隆寺釈迦三尊像光背銘は時を表すのに年号を用いている。
他の聖徳太子に関する銘文(コピーだが)はすべて天皇名で時を表している。
法隆寺釈迦三尊像光背銘が作られた時は天皇の治世ではない。 日がさしているのに、アメが降るのは狐が嫁に行った時
聖徳太子の父は橘豊日天皇なので聖徳太子は日やね 法皇じゃないか。なぜ上宮王と読み替えた?
法皇になるには国の最高権威者なければならないだろう。
誰なんだ? 元々1世紀中頃に国作り、建国が行われたんだよ
倭国大乱前に男王の治世が約80年
前漢の時代は日本列島は100余国に分かれていたから、1世紀中頃が国家としての始まりだろう
倭国大乱で邪馬台国卑弥呼派と狗奴国卑弥弓呼派に分かれた
この名残りが奈良時代まで影響するんだよ
邪馬台国卑弥呼はヤマト政権の始まり
狗奴国はそれより前にあった国作り神話の元になったクニ、芦原中津国
黄泉に逃れたイザナミと在地の人々が協力してできた国だな
橘は黄泉の木
聖徳太子の父は黄泉の国とのチャンネルを持った人物
聖徳太子も橘寺で生まれたから同じく黄泉の国、元の狗奴国とのチャンネルを持っていたかもねぇ
推古は文字通り古を押す
倭国大乱前のありように戻そうとしたのかもねぇ
当時も色々パワーゲームがあったんやろな 適当なことをいうなぁ すべて脳内事実だ
上宮法皇が天皇の摂政なら釈迦三尊像光背銘には天皇名が入らねばならない 九州では年号を使っていたけれど、畿内はまだ年号を使っていなかったんだろう。
上宮法皇は倭王だったのだろう。
まだ天皇という制度がなかった時代の話だし。
隋書では倭王は仏法に深く帰依していたとあるので、法皇が後の天皇の意味かと。 >>88
>前漢の時代は日本列島は100余国に分かれていたから、1世紀中頃が国家としての始まりだろう
この頃に伊都に三種の神器を持つ王権が誕生した。
高祖神社に残る王明は彦火火出見であり、出雲の国譲りを経て天孫降臨により成立した筑紫日向三代の王家。
魏志倭人伝に言う男王70〜80年に相当する。
記紀でもこれが皇祖とされている。
これは神武が卑弥呼と同世代という年代観にも一致する。 >九州では年号を使っていたけれど、畿内はまだ年号を使っていなかったんだろう。
九州のことは知らんが、畿内は法隆寺にあるように法興年号を使っている
>上宮法皇は倭王だったのだろう。
まだ天皇という制度がなかった時代の話だし。
そうだと思う
>隋書では倭王は仏法に深く帰依していたとあるので、法皇が後の天皇の意味かと。
天皇と上宮法皇を関係づける必要はない、天皇称号は上宮法皇時点にはなかったからだ >>93
>九州のことは知らんが、畿内は法隆寺にあるように法興年号を使っている
釈迦三尊像は九州から移設したという説がある。
畿内では大化が最初の年号だったはず。 上宮法皇の法興年号は統一国の年号として使ったはずだが
600年以前、当時の年号が記紀に記録されてるのかね?
存在しない推古〇〇年という神武以来の諡号は記紀での創作だろ?
600年の王は対外的に阿毎多利思比孤。 推古天皇は無い。
兄弟で治めていたという話で、上宮法皇は存在したんだろうね。
この中で、聖徳太子はでっち上げられている。
うまやどがでっち上げの票体で、正式名とか、バカの極致だろwww
死んで詫びろよ、日本の歴史学者。 記紀による700年以前の日本古代史は修正復元されなければならない。
その基準、出発点になるのが、600年代の聖徳太子時代。
時の王は対外的に遣隋使も送ってる阿毎多利思比孤。
聖徳太子は諡号だから、うまやどが史実の実在名って、
記紀ファンタジーの言いなりかよ?
戦前の学校で誰もが神武以来の歴代天皇そらんじて来たから
日本の学者には記紀が史実なのか?
2600年前って、神武が稲作普及の営業したのかよ?
史記や三国志程度は中国語訳じゃない普通の漢文で読める、
アタシ達中高生世代には受け入れがたいんだけど?
でたらめこいてる、学者が説明しろよ。 >釈迦三尊像は九州から移設したという説がある。
移築説を唱えるには証拠が必要だ。
特段の証拠がない限り建築物はその地に最初からあるとするのが当たり前。
>畿内では大化が最初の年号だったはず。
大化が最初の年号と唱えている学者がいるだけ。事実は大化より前から年号がある。
上宮法王帝説が法興は年号でないと言いたかった。
それは法興年号を定めた政権を認めたくなかったからだ。
大化が最初の年号と唱えている現代の学者も法興年号を定めた政権を認めたくないのだ。
つまり、現在の歴史学者は上宮法皇政権を認めてないだけの話。 記紀は罪の告白書みたいなもの
もう一回裏表になるとは当時は思わなかったんだろう 告白書ともいえるが、記紀を真実化するために史料をいじることまでするものかね。
時が経てば嘘でも史料となるという考えはいただけない。
このスタンスは今でも受け継がれているように思える。w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています