聖徳太子=阿毎多利思比孤
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聖徳太子は虚像で実像は阿毎多利思比孤
阿毎多利思比孤は法隆寺釈迦三尊像光背に出る上宮法皇
阿毎多利思比孤は百済昆支王の子孫
阿毎多利思比孤の死の原因は倭国の百済からの独立表明で百済に暗殺された
「国際的視点からの古代史考」を参照のこと 読みなおすと変だな。
スマホの文字入力が予期せぬ文字を入力してしまうのだ。
「い」が「あ」に化けただけだ。
伊予に来たのは法王大王タリシヒコだったということ、だ。
厩戸王ではない。 >〜たけた
濁音の区別がない韓国語訛りですか?w
>>850
おまえが日本語わからないたけたろ?
w タリシヒコ大王は法興年号の時の人だということがわかった。
いま、日本では大化以前の年号は私年号とされている。
これと、タリシヒコ大王を歴史書に王として載せていないこととは関連するだろう。
タリシヒコ大王も法興年号も日本国は認めないと言ってるワケ。何故でしょう。 >>856は議論を邪魔する目的を持っているから気を付けましょう。 >>857
とんでもない言いがかりですw
おまえが単に諡号の知識がまったく無いだけの話w
やっぱおまえはチョーセン人だからなあwww
もちっと ちゃんと日本のこと勉強してからスレ作れw >>855
法王大王=阿毎多利思北孤=アメタリシヒコ大王は書紀に出て来ません。隋書に出ています。
>>858は書紀中に見つけ出させようと画策しています。 >>858
5chさんにいうべきだが、こいつのレスは議論を外に誘導するのが目的で、スレを変えても私を付け回している >>860
そうやって助けを求めてるつもりだろうけど、
スレを立ててる時点でこのくらいの議論くらい対応できると思うだろ、普通w
おまえは、単に自分が論理の点で追い詰められて苦しくなっただけ。
それも、おまえの単なる準備不足のせいw
こっちは何も脅迫してるわけでもないしなw
ほんとダメな奴だわ、おまえはwww
なさけない…w >>855
阿毎多利思北孤は大王です。(推古の)摂政として遣隋使を送ったのではありません。
推古は存在したとすれば阿毎多利思北孤大王の下です。
なぜ、書紀は天皇としなかったのでしょう。天皇にしたくなかったということでしょうね。
しかし、素晴らしい業績で、書かないわけにはいかず、厩戸皇子のものとして書かれたのです。
そこまでして書くべき業績を上げたものを何故偽って皇子に貶めたのでしょう。
法興は彼の時代の年号であることもわかりました。
遣隋使を出した大王の時代が法興なのです。私年号ではありえないのです。
これも理由が解りません。ただ、阿毎多利思北孤を歴史上消したかった意向が働いたとしか・・・。
上宮聖徳法王帝説(800年頃)も懸命に上宮法皇=厩戸といい、法興は年号でないと言っております。
昔から阿毎多利思北孤を歴史上消したかったのはどういうことでしょうか? 聖徳太子は廐戸皇子といわれ、廐戸皇子の事績はの事績ですから、結局、阿毎多利思比孤大王を後に聖徳太子と呼んだ。現代にいたっても信仰の対象とまで成っております。誰かが阿毎多利思比孤を偲び顕彰している構図です。つまり、日本国の歴史の流れに従えない勢力があるということではないでしょうか?
最近言われる聖徳太子は存在しなかった説は阿毎多利思比孤の存在を否定し厩戸皇子の実在を肯定するものならば空恐ろしい国です。
、 隋書によれば大王は「阿輩雞彌」(オオキミ)、王の妻を「雞彌」(ケミ)、太子を「利歌彌多弗利」(ワカミタホリ)と発音した。
書紀ではオオキミは尊称として使われ大王の意味はない。
妻も書紀ではヒ、キサキであり、ケミは使われない。
太子のワカミタホリは長屋王家木簡に「若翁」ワカンドホリがあり、若い者という意味に使われている。
大王系で使っていた地位の用語は使われなくなっている。
「大王」は5世紀の稲荷山鉄剣にもあるのに書紀では尊称にしか使われていない。
一般人を「社長」とか「大将」と呼ぶようなものだ。
これは何故か? 聖徳太子=日本武尊
景行天皇の后である高田媛の父は阿倍木事で
筑紫国造や阿輩(阿部)氏の始祖である大彦命の兄弟である
隋書には王が多利思比孤(景行天皇)で都が邪馬台国と出てくる
阿蘇山も出てくるので九州の話なのは確実 >>866
6世紀初頭継体紀に磐井成敗の記述。この畿内勢力とは別に北九州に阿毎多利思比孤がいたら、畿内は放置しまい。 聖徳太子は橘寺で生まれて母親が楠、石に守られて黒馬に乗っていたんだよ
松でも笹でも鳥でもアマでもない >>867
成敗?
筑紫は屯倉一つを差し出しただけで、筑紫の君の位は息子が継承したから、国体は守られているのだよ。
畿内による筑紫への干渉は失敗だった。 >>869
ほう、何時畿内に平定された?
君は百済系の地位名だが、オオキミとはいわないだろう。『釈日本紀』の秘訓では君は「キシ」、キシは半島で「王」の意味。 阿毎多利思比孤は天皇の一般名称ね
治天下天皇
あめのしたしろしめすすめらみこと アメもタラシもヒコも皇族諡号にはよく使われている一般的な単語。
特定の人物というか、
恐らく天皇の尊称を中国の役人が音そのままに記録したにすぎないのでしょう。
このスレ主が外来外来騒いでいるのがバカにしか見えないw >>872
中国では小野妹子が蘇因高(そいんこ)という表記になるんだよ
発音が聞き取れないとかそんな感じで >>875
中国風の名を持ってたんじゃないの?
小野が蘇にはならんと思うけど。
因高はまだわかるけど。 >>874
>アメもタラシもヒコも皇族諡号にはよく使われている一般的な単語。
そうなんだよね。
そこの認識が抜け落ちている人が多い。
だからこそ、厩戸王とはぜんぜん別人だという話にもなる。 考えてみたら、外国で外国語しかわからない人に対して、
公式な場で日本の固有名詞を言うはずがない。
厩戸伝説などは後に作られた伝説の可能性が高いわけで、
聖徳太子が生きていた時点では、
はたして自分が厩戸皇子などと言われていたかもわからないわけで。 >>876
小野妹子を小妹子として
これをソインコと読んだらしい >>878
あとになって馬小屋の前で産まれたと言う伝説を作る意味は
実際に馬小屋の前で産まれたんだろ 多分、いろいろな理由で現在には伝わっていないが、
聖徳太子も”〜タケル”とか”〜ワケ”とか”〜ヒコ”の類の名前を持っていたであろう。
いや、持っていなければおかしい。 それが本名なのだから。
今に伝わるのは尊称のような綽名・通称であろうから。 >>880
形を変えてキリストの伝説なども伝わって来てる可能性はある。
唐では景教が割と盛んだったからね。 >>882
景教の経典にはそんなに詳しくキリスト教について書かれてないよ
キリストがいて母はマリアでとかそんな感じ >>879
じゃあやはり漢字に由来してるのかもね。
二字姓の場合、上の字だけを公称するのは平安時代にも見られるからね。
清原 → 清
藤原 → 藤
とか。 >>883
だから形を変えてだって。
書物に残ってなくても、
神父が口頭で説教するときに出す話の中にそういう話もでるだろうし。
じゃなきゃ、宗教は拡がりません。 だからといって、即位しなかった聖徳太子が、大王の称号であるタリシヒコを名乗るはずもない。
聖徳太子とは別の人物が隋に国書を送ったのだよ。 聖徳太子の父は橘豊日
日が照っているのにアメが降るのは1つしか無かろう
狐の嫁入り
親魏倭王卑弥呼、遣隋使
中国に朝貢するのはお墨付きをもらう為、裏を返せば正統性がないということ 神の在座 (かみのます)
鳥居に伊礼ば (とりいにいれば)
此身より (このみより)
日月の宮と (ひつきのみやと)
安らげくす (やすらげくす) >>886
だから、
太子が摂政という扱いだが、実際は大王になっていた、
あるいは大王に近い権力を持っていたと考えればすんなりはまる。
その当時は蘇我系統の天下だったわけだし。
天智や天武は蘇我とは血筋が違うから、
彼らの系統が一大勢力だったことを記録に残したくない、
というところだろ。 わたつみの豊旗雲に入日さし今夜こよひの月夜つくよさやけかりこそ
天智天皇の歌だが、聖徳太子は古を推し古のありように戻そうとしていたのかもな
叶う前に亡くなったが 古代史やってて
未だに大王の血筋が一統だと本気で思っている奴はいまいw
あの家系図の複雑さが、かなり嘘を含んでいるということを如実に物語っているw >>878
「アメタリシヒコ」は固有名詞かどうかは問題でない。
男性で、「オオキミ」だから、大王が遣使を出した。かつ出家もし上宮法皇と呼ばれた。
問題はそんな倭国王が書紀の600年頃に見当たらないことだ。
書紀は皇子として捏造ったのだ。
厩戸の事績はまさしくアメタリシヒコの事績だろう。 >>894
誤魔化そうとしてるから、複雑になる。
どうしても皇統一系に仕立てたいから無理が出る。
本当は男系は何度か絶えてるだろうから。
真実は明らかになることは無いだろうが、
もしも仮に明らかになったら、
”なんだこりゃ!こんなんデタラメだ!!”
とウヨは叫びだすことになるんだろうなw >>895
だから、
本当は聖徳太子に当たる人は、
大王、あるいは大王に近い権力を持っていた人だったではまると思うけど。
なぜ、
聖徳太子が摂政扱いになるかというと、実際の血筋が問題だった可能性もあるよね。
男系の。
まあ、実際が明らかになることは無いだろうけど。
また、聖徳が出家した可能性はあるだろ。
あれだけ仏教に入れ込んでいたのだから。
まだ当時は正式な得度制度は日本には無かったのだろうけど。 母系で見ないとわからないが、記紀をいくら眺めても母→母→母→母→が何処に辿り着くかわからないからねえ 日本の ”皇統一系” に無理があるのは、
そもそも男系相続という考え方は中国風の外来思想だが、
それが完全定着していない古代にまでそれを当て嵌めようとしてるところでしょ。
卑弥呼に見られるように、古代の倭人には男系相続という発想は薄かったわけで。
だから古代にはまだその名残があるから、しばしば女帝が出てきたのだろう。 元々は神魂の黄泉に逃れたイザナミさんでしょうに
倭国大乱、芦原中津国の平定の件で料理の話に矮小化してカミムスビの新宮を燃やしただろ
黄泉はあの世で常世 スクナヒコナが去ったのも常世
橘は常世の木
倭国大乱前の系譜、黄泉の系譜と倭国大乱後のヤマト政権のありよう(ばらばら)
裏と表
裏が表に表が裏に、倭国大乱から600年紆余曲折を経て不完全な形だが倭国大乱前のありよう、平安を取り戻したんだよ >>900
アマ多利思比孤が排除されたのは血筋かね。
俺の見るところ書紀の血筋は作り物だからアマ多利思比孤の排除理由は血筋ではない。歴史書に曲げて書くのは政敵だからだろう。天武系に倒された政権なんだろう。 >>902
扶余勇の最初の都太宰府を指している
太宰府市も発掘結果から7世紀後半といってるね >>896
系図の捏造は全くの0から作るのでない限り困難だよ
例えば現代に系図を捏造して誤認させ皇族になり清まそうとするのはとても困難
これは昔でも同じこと >>904
今伝わる系譜は天武時代以降に作られたものだろう。
200年近く前くらいなら誤魔化せるだろう。
過去の情報量は現代よりもはるかに少なくて、
基にした書物は、新しいものが出来たと同時に打ち捨てられたとも考えられる。
まあ、プヨヨヨンの考えるように、天智が扶余勇だというのは考えられないけどね。
書物の成立年代と時代が近すぎて、関係者で存命な人間が多すぎるだろうから。 書紀なんざ、当時から誰も信じちゃいなかった。
だから、時間が経つと事実化するチャンスが到来というわけで、法王帝説を作り、
「上宮法皇=厩戸」という言説を流し、法興は年号ではないとまで言わせた。
この行為を現代の日本国は受け継いで、私年号と言ってるんだよ。
まったく、史実を無視し、書紀をバイブルの様に扱う宗教国家さw >>905
系図は一つきりしか存在しないという物でもないから全部捏造は難しいよ
天皇の外戚などの物部氏に伝わる系図や藤原氏に伝わる系図なんてのもある >>907
ではあっても、
公式に作られた書物が正となり、
他は偽書扱いされる。
そうするには、公式で作られた書物に近いものだけ焚書しとけば済むでしょ。
古い書物は、混乱を招くことを理由として、焚書された。
残るは非公式に周辺のどっかにあずけられた書物が断片的に、
という感じで、時代とともに風化していった。
こんな感じじゃない? まあ、記紀に記載されていない大王がいて、隋に使いを送っていたことは間違いない。 花札のアメは元々の図柄は柳に斧定九郎だった
斧定九郎は歌舞伎のキャラクターなんだが、軽の父を殺して大金を奪ったが、猪に間違われて殺された人物
軽王の父は茅渟王、時代的に第一回遣隋使の頃やね
猪に準えられた逸話が残るのは蘇我馬子
アマタラシヒコは蘇我馬子かもね
アマは夜に仕事をして昼は日が仕事をする
アマと日が分かれていたのか
第一回遣隋使は何処から出立したのか?
朝鮮半島利権の元締め蘇我氏
本当は茅渟王が皇位につくはずだったのか?
妄想が膨らむな 稲の中から斧定九郎の白い手が伸びてきて軽の父から大金を奪うんだな 日本はね、というかある政治体制では
書いたものを保存し、時間が経てば史実化できると考えている。だから、逆の証拠は隠滅してゆく。丈六仏光銘は書き換えられて保存され現物は無くなり、偽物が最も古いという理由で史料になってゆく。釈迦三尊像光背銘は現存しているが、無くなれば、法王帝説中のコピーが最も古くなり史料となる。こうして自分たちが考えた歴史が事実化するのを待つ政府もある。アメ多利思比孤が聖徳太子である結論は法隆寺の金石文が残っていたからできた。現政府はこれがなくなるのを待っているのではないだろうかとすら思う。電気座布団による金堂の火事もあったよな。 王制を維持するには、歴史以外にないから捏造でも何でもする。 >>908
家系図が捏造なら今に残ってる他の氏族のと比べると
矛盾がたくさん出てすぐにわかるはず 家系図があるなら年次鑑定が必要だな。其れで決まるだろう。
その家系図の中で最も新しい人より前には作られなかったんだから、
それ以前の家系図がなければ、捏造の疑いがあるわけ。
まあ、ブロックチェーンのようなものさw 石舞台で月夜の夜、狐が女に化けて舞を踊ったという伝承
豊日の子聖徳太子
夜に天が座禅をして昼は日が仕事をする
日が照っているのにアメが降るのは狐の嫁入り
アマタラシは石舞台の主、蘇我馬子やろね
残された謎は軽の父、茅渟王の生涯
妻の吉備姫王の墓に猿石の謎 >>918
プヨヨヨン、攻められてるのはおまえだぞwww
なんか勘違いしてるようだがwww
家系図の改変を否定されまくってるのだからwww
>>917
おまえはまだ ”アマ” が ”雨” だと言い張るの?www
狐の嫁入りとかwwww
日本語ちゃんと勉強しろよwww
外国人w プヨヨヨンと私の違い
プヨヨンは ”根拠なく” 孝徳・天智系・天武系は百済王家の分家だと言い張る。
私は、百済人と倭国の統治者の血縁を含め関係は深いとしながらも、
基本、大王家は倭人、もしくは半島から渡ってきて数百年経った渡来豪族と考える。 こんなに前スレが余ってるのに、
オレの曝露が堪えて耐えきれなくなり、
次スレを立てて逃げたプヨヨヨンww
ほんと逃げの一手だね、こうなるとww 朝鮮戦争はアメリカとソ連の代理戦争
代わりに朝鮮人同士相争わせ、殺し合いをさせた
ほんと欧米人はひどいもんだよね、大空襲と言い、原爆投下と言い…
ほとんど死に体の日本の国土に、無意味な大空襲と原爆投下で無辜の民を大虐殺
アメリカ人はこれらは戦況を変えるためと言い張るが、
ほとんど死に体の日本には戦況変えるとか、まったく意味がない話
これらの行為の意味は、日本人に敗北感を与えることと、原爆による人体実験
欧米人は未だに東洋人を自分らと同じ人種とは考えていないであろう
しかし、従うしかない、欧米中心のこの世の中では 「国際的視点からの古代史考」を否定したければ、その論理を挫けばいい。
自説を唱えても噛み合わないので無視されるだけ。そこのところが可哀そうにわかっていない。 >>925
別にキミの説をやみくもに否定してるのではないよ。
ただ、証明が足りてないとずっと言ってるだけなのだが。
おれは個人的には面白い説だと思ってるよ。 >>924
>しかし、従うしかない、欧米中心のこの世の中では
産業革命前は中国とインドで世界のGDPの大半を占めていたわけだし、またもとに戻っていくだろ >>927
二地域とも人口は多いけど、人権に対する考え方が未だ近代的ではない。
その点は欧米よりもたちが悪いよね。
結局は差別意識の権化だからね、中華思想とカースト制度 >>926
どのあたりの証明が足りないのでしょうか
証文はありませんから出せませんけれども状況証拠はそろっています
もし違うというのであればそれこそ証拠が必要でしょう
アリバイ捏造工作してますから書紀は証拠にはなりません >>929
・旧唐書でプヨヨンが倭に走った(逃げた)
・福岡の朝鮮山城は羅城
これだけじゃんw
あとはキミの希望的想像の産物ばかりw 禰軍の墓誌にも日本ヨショウが扶桑に渡って罪を逃れんとすとありますし
禰軍は天智称制の時に来ています
大宰府は太宰府市の調査で創立は7世紀後半です
日本ヨショウは扶余勇だとして間違いありません
扶余勇≠天智なら扶余勇を誰かに当てはめなければなりません
日本史では扶余勇=善光ですが、善光に倭国からの渡航歴がありません
ですから扶余勇≠善光です。だから扶余勇は日本では誰かの疑問が再燃します
扶余勇は百済残党の最高位で、善光が難波大領であることを考慮すれば誰かはおのずと結論できるでしょう 逆に質問してみましょうかね
天智が扶余勇でなく倭人であるなら、なぜ、唐に対してあれほどの朝鮮半島式の防衛施設を作り、
扶余勇をかくまい、善光を難波に当て、朝鮮人を守ってやる必要があったのですか
これだけの精力と資金があるのなら、白村江にもっとつぎ込んだほうが安上りだったんじゃないですか
扶余勇≠善光という条件のもとで、扶余勇が天智でないなら、誰なのか答えてください 旧唐書でプヨヨンが倭に走った、福岡の朝鮮山城は羅城からだけではなく
931,932の内容は既に書いてあるんだけれどね
意図的に天智=扶余勇を作り出したのではなく、天智=扶余勇とすれば、天智紀も旧唐書も禰軍墓誌もすべてうまく読める
ので希望的想像ではなく、帰結なんだ。だから、天智≠扶余勇というのなら扶余勇は誰なのか君から教えてほしいんだ。 天智天皇が扶余勇だと結論するには天智天皇の白村江以降の記述は事実だとして、
百済人の王族の行為として解釈してみなければならないのだが
これがまた実に腑に落ちるのである
そういう前提で天智紀を読んでみることをお勧めする 扶余勇が日本に来て日本の王になったってか?
甘いんじゃないのか?
それは日本を半島の属国としたい連中らの願望がかなり入ってるだろ おまえはそれを承認するわけ?
バカじゃないのかな?
しょせん下っ端で終わる人間ての自分で証明してることにしかならん >>935
天智記を扶余勇の行動として読んでみて何ら不都合はなく、防衛施設を作り、百済貴族に対する官位の処遇をし、人質の百済人善光を難波支配に取り立て、百済人を国家の要職につけたり、近江に入植させたり、鎌足がしぬときには「軍国の役に立てず」と百済崩壊を侘びたと取れる発言があり···、と枚挙にいとまがないが、これを読んでも君が百済人が日本の王になることが感情的に認められないと言うんだったら、それを説得する気持ちは私には起きないね。感情を持ち込んでも言い合いに終止するだけで客観的真実の議論には到底なりえないからね。いままで妙に食いついてきたのは民族的感情からだったのだな。私はここは学問カテであるから私の論考に対する質問の場に使っていたが、君の民族的感情を刺激することになったのは私の理論に付け入る隙が無い程完全だという自信にも繋がった。thank you wwww >>937
>百済人が日本の王になることが感情的に認められない
いや感情的も何も、
百済人が王だという痕跡が表立って残ってないじゃん。
もし百済人ならなんで隠す必要がある?
天武も百済人なんだろ? >>938
証文的証拠がないことは言った通り、状況証拠のみ。天武も百済人と判定している。
何故偽ったかについても既に書いてあるが、想像するに、百済が滅ぶ前は上国から下向してきた意識があったので百済を隠していなかったと思うが、滅んでしまうと、百済の残党などという落ちぶれ呼ばわりされるおそれがあり、それではそれまでのように民心をまとめるには不都合だというわけで、将来に禍根を残さないようにするためにも百済出身を消す方がよいと考えたのではないかと思うが···。それが日本書紀を著した動機だろうと思っている。 >>939
それはある“かもね”。
あくまで かもね だが。
しかし、百済語が伝わってないし、
善光などの亡命百済人皇族は別扱いされている。
なんで? 『周書』百済伝によれば、王は「於羅瑕」を号しており、これを民衆は「鞬吉支」と呼んでいた。『釈日本紀』の秘訓では君「キシ」、王「コキシ」、大王「コニキシ」という訓みが伝えられており、「鞬吉支」はこの「コニキシ」に対応すると考えられる。
ほかにも百済貴族は民衆とは違って高句麗語だったとされ、研究では高句麗語は朝鮮語を跳び越して日本語の方に近いことがわかっている。検索すれば資料がわかる。
善光は百済王族で私の説では勇に難波支配を任された。彼は義慈王の王子の中では扶余勇より年齢的に上で残った者の中では格から言えば扶余家の跡取りになるべき人物だった。しかし、勇も死に皇子の大友も倒され扶余家は傍系にあたる天武が握ってしまった。それで、扶余家の正統な血筋として特別扱いし百済王氏を嫁の持統の代に与えたと考えられる。 >>941
倭が百済王族が大王になったという事は
倭も百済と同じように
支配層が扶余人になった言うことよねえ。
なら、
なぜ百済と同じように二つの王の呼び方が残らないの?
最近は、実は扶余語はあまり日本語には似ず、
日本語に似てる地名などは半島倭語に由来するのでは?
という説があるけど。 二つの王の呼び方が残るべきかどうかわかりません
言葉が伝わっていないというので高句麗語を挙げた。高句麗語では3は「密」、5は「于次」、7は「難」、10は「コ」と書き表されたことがわかっており、中国語の一時代の一方言の表記では、「密」はmit、 「于次」はjo tshij イオツィイ、「難」はnan、「コ」はtok の対応があり、日本語の数詞と近い。発見された数詞すべてが日本語に近いことは驚きであり、それが飛び飛びであることはその他の数詞も一致する可能性が高いことを示している。これが百済人を通じてか、それ以前に伝わったものかはわからないので、言語をもって具体的な集団の到来の証明とすることは出来ないけれど、傍証としては役に立つ。そういう意味で、言語に痕跡があるはずだと質問を受けたと捉えている。 >>944
私の情報は古かったかもしれない
大陸倭語はポイントでしょう 百済語が伝わっていないとする意見に反応してしまったが、天智紀には多数の百済人が官位を受けている事が記されているので言語による傍証は不要だった。言語はすでに述べたように特定の集団の移動を証明するものではなく、もっと広く長く民族的観点から研究されるべきもので、高句麗語の数詞が日本語近いことをもって高句麗語を話す小集団が到来したと結論する事はできないうえ傍証にもならない。ごめん。 そんなこと主張するやつらは多分に願望が含まれとるからの
話にならん場合が多いわけさ >>947を書く人はあちこちで見かけるが、いつも何を指していっているのかはっきりしないね
はっきりさせると議論になるので恐れてる?過去の敗北経験からw レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。