邪馬台国畿内説 Part716
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1628973930/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 初心者ですが
はっきり言って畿内説には納得できる根拠がありません。年代が合うから纏向が邪馬台国だと言われても、にわかに納得できるものではないからです。
纏向の建物が卑弥呼の居館と言われても、発掘物からピンと来ません。
また、箸墓が卑弥呼の墓だといわれても、陵墓で調査もままならないのにどうしてそんなことが言えるのかというのが私の感想です。 >>189
その通り
橿考の若手に期待したいが、大学時代から洗脳されているから無理かな??
学生の時、アンチ畿内説なら橿考に就職できないし、、 >>188
>自分で調べたら、、
>結構、ゼロ式の批判多いよ
証拠が提出できないんじゃ、あんたの主張はボツだな >>148
同意する
同和地区の差別を生んだ地は奈良
ヤマト王権の悪行
今天皇には関係ないけど、、、 >>189
>石野も寺澤も橿考の出身だったね
それ、墓穴
関川も同じで『纒向』に掲載された関川の説が『纒向』で否定されて公式に没った >>196
>学生の時、アンチ畿内説なら橿考に就職できないし、、
根拠なく空想するのが九州説だな >>197
私の意見でも良いよ
内容に同意してるから、
ところで、
「古式土師器の年代学」の巻末の総括や
「古墳時代の考古学1」の「土師器の編年?近畿」調べてみたのですか? >>203
そう、測量してないから、南に言ってから東に進んだよなって記憶に頼れば、東南に進んだと認識する .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>205
畿内説と同じ
ザラコク爺曰く
魏使や魏の役人らは、当然、周髀算経の一寸千里の法や簡易三角測量を知っており、
記里車や歩測も知っており、ある程度の目測も出来るから、
魏志倭人伝に記載された「里数」は、実測の「大体の1桁概数」であり、
「架空のもの」ではない。
このように、大和説学者らは、全員、
魏の役人らに拠る実地の見聞計測の史料事実や史料実態を否定する嘘つき騙しの詐欺師である。
北部九州も大和説学者と同類 >>205
結果的に正確じゃなかっただけで、記録者の認識としては東南だった
南に2百里、東に3百里だ >>177
>>>90は、Part714の↓と同じやつだな
こいつ、渡土提知らずの捏造君だよ
私からyes, noで煽られてるやつw
自分を棚に挙げてイエスノーチョンとか言い出してるけど
効いてる効いてるってやつだ >>208
郡から九州上陸までに南に7千里分、東に3千里分進んでるので
あと4千里分東に進むとちょうど郡から東南(大海)の認識ラインになる >>180
>それに、呼子から東南方向に出発するのは事実だ
>途中から東に進んでも、トータルで東南と考えても不思議じゃない
だとするとヤマシロから陸路で大和入りする場合
南陸行で到着するのが事実なので、途中東に進んでも
トータルで南と考えられて問題なしですね!
畿内説に対する数少ない批判がまた一つ無効になっちゃったね!キャピ! おやおや>>90の発狂二択チョンが、また荒らしてるのか 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) >>193
>測量して地図を作ってればな
>>203
>つまり測量してない
お馬鹿さんww
何度も教えてるでしょ?
東松浦半島の真東に可也山が見えるんですよ?
方角を知るのに測量は必要ない
見通せればそれで事足りるww
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ?
なぜ答えないんだ?
答えたら、死ぬのか?w >>211
太陽見りゃ分かるだろ
合計30日船に乗ってるキチガイ設定なんだから >>208
測量していないのに
南に2百里、東に3百里だ?
頭、いかれているな。 >>196
閉鎖的な機関
大人しくしてれば、出世もするし退職後の天下り先も用意されてるんでねーの
畿内説に有利に働く説は重宝がられる体質
いまはどうか知らないが、、 >>214
また自爆か
真東に可成山があるなら、その南は東南だ
ご苦労だったな、二択チョン
真東に可成山、もうコロコロするなよ >>216
1日歩けば百里、おおよそ10km程度だな >>195
畿内説は、当時の人物で卑弥呼に比定できるのが
その陵墓の大きさからモモソ姫だと思ってるだけで
そう、大きさと年代測定だけで思ってるだけで
箸墓は本来オオモノヌシの陵墓で
奥さんのモモソ姫が一緒に埋葬されてると俺予想w >>217
あの頃は、吉野ヶ里ブームで橿考ま焦ってたと思うよ。 >>219
>1日歩けば百里、おおよそ10km程度だな
それ、誰が決めたの?
九州説さん、また俺様が一人で決めたの? >>219
やはり、いかれているな。
魏志には方向転換などの記はなし
なんら、畿内説と変わらない。
久留米〜八女だな。 >>212
そいつは根拠つきで思いのいうことを否定してるぞ
反論できないから、関係ないことを短文で書き込んで逃げてるんだろ? >>225
視察の旅だ
早くつけばいいというもんじゃない
それに、佐賀と福岡の県境は難関だ >>226
違うという根拠は?
また畿内説得意の根拠なしか >>228
そいつは可成山が真東だと自爆したぞ
真東の南にイト国があるなら、まさしく東南じゃないか >>218
>真東に可也山があるなら、その南は東南だ
本当に実際の資料とか地図とか確認しないんだなw
可也山は伊都国のランドマークって何度も教えてるだろ?
普通は可也山まで伊都国の領域に入れることはないが、伊都国は可也山のすぐ南だ
事実上、可也山の方角が伊都国の方角になる
伊都国を訪問した人には自明のこと
https://i.imgur.com/cieiYbz.jpg
ちなみにこの写真で三雲南小路遺跡と平原遺跡、可也山が一直線に並ぶことが分かると思うが、このラインが冬至の日の入りの方角
当時の人が冬至を意識している、暦の概念がはっきりあることを示している 郡から10日で呼子まで来て
呼子から5日もかけて前原って根本的におかしい >>229
倭国の官もいない土地なんぞ見て回っても何の役にも立たん トンデモ同士、延々とバカ議論できていい関係だな。 わははははは @阿波 >>230
>違うという根拠は?
>また畿内説得意の根拠なしか
九州説さん
今あなたがやらかしたのは
立証義務の前方転嫁という
典型的な詐欺行為です
あなたは一発で論破されました トンデモ同士、延々とバカ議論できていい関係だな。 わははははは @阿波 >>232
無理過ぎる
なんで?一枚のみ?又 その角度から?
真東超えると北東になる。
使者が何回か訪問している。
唐津あたりで方向転換の記がないよ。 >>238
丹山がなくて悔しいのか? 「阿波」にだけ有ってさぞ悔しかろう。 わははははは
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>236
>典型的な詐欺行為です
あのさあ、新スレのお知らせに
「本スレの終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。」と
明記してあっても、わざわざテンプレ投下の邪魔をするのを誇る連中なんだぞ?
そんなの聞くと思うか?
善意の第三者なんかじゃなくて、悪意しかないの
正義感が通用する相手じゃないのに早く気づけよ >>239
>無理過ぎる
>なんで?一枚のみ?又 その角度から?
はい論破ww
https://i.imgur.com/POHiSA8.jpg
可也山より南でも真東ですね?ww
こんな距離感なんだよ
三雲は可也山のすぐそば
釣れまくりw
釣り堀のバカな魚でも、こんなに釣りやすくないぞ?ww >>232
コロコロするなよ
可成山が真東なんだろ?
だったらその南のイト国は東南じゃないか
理の当然だ
そんなことも分からんのか?畿内説は >>243
論破になっていないよ。
なんで一カ所のみなんだよ?
陸行東南500里以外は書いていない。
可也山からさらに東南〜唐津近辺向かうと北東になる
使者、交易等もある。方向転換の記がないと
間違う。
。 >>244
羽金山の中腹の白糸の滝よりも南に行かないと呼子から東南にはならんよw あとさあ、百里は一日の陸行距離だから、五百里は5日分の距離とか言ってる捏造君がいるけどさ、自分達が短里=76メートルを主張してるの忘れてないかな?w
伊都国と奴国の間、奴国と不彌国の間が共に百里しかない
短里=76メートルなら7.6キロ、最近ごまかしで百里で10キロとか言い出してるけど、それでも近い
福岡平野のどこに奴国を置いても、10キロ隣の国は福岡平野の中
平野部で自然国境になるような障壁もなく、10キロの近距離で別の国って、どうやったら実現するんだ?w
本当に考えなしw >>244
>可也山が真東なんだろ?
お前、せっかく貼ってもらった地図(航空写真)、見もせずに脊髄反射してるだろ?w
16方位で見ても真東だよ
せめて見てから文句言えw
>>245
訂正ありがとう
素で書き間違えてたわ >>247
どこまでアホなんだ?
可成山が真東なら、たとえその東南にイト国があろうと、観測点からみても東南じゃないか >>249
おいおい、おれが言ったわけじゃない
畿内説が、可成山は真東だと言ってる
文句があるなら自爆した二択チョンに言えよ >>246
>論破になっていないよ
どこが?
末盧国を九州説のご都合だけで東松浦半島にすれば、伊都国は東南で間違ってない、という九州説の戯れ言が、全て否定されてるだろ?
最初に出発した方角が東南ならいい
→最初の時点で真東にゴールの可也山が見えてる
可也山より伊都国は南だから可也山が真東なら伊都国は東南
→伊都国は可也山のすぐそばで言うほど南でもない
というのがきっちりこの写真で示されてるぞw
これが分からないのはバカだけw >>252
知らないのはお前だろ
畿内説いわく「真東の可成山」が、北側に見えるんだ
誰だって東南に進んだんだなと思う >>253
>>最初に出発した方角が東南ならいい
阿保過ぎ。可也山と思われる記もない。
魏志には東南陸行五百里しかない >>250
たから、写真見てから言えってw
お前は写真を確認した全員から嘲笑されてるぞ?
写真を見れば一目瞭然だが、可也山は東松浦半島の先より少し北(16方位でも東の範囲内)
そこから冬至の日の出方向に少し南に行くと、本当にちょうど真東になる
もう一度いうが、見てから言えw
恥の上塗りw
渡土堤も含めていつものことだかな
お前って実は、九州説のバカをさらすための畿内説の応援に草なのか?
そんな疑惑すら湧きそうw 北部九州説も畿内も同じ
方向転換の記を書かないのか?
吉野ヶ里遺跡
久留米 八女だよ >>256の最後、修正
九州説のバカをさらすための畿内説の応援の草なのか?
草、市井に紛れ込む忍者 >>256
また空飛ぶ設定か?
歩いてる人間が「真東の可成山」をみた
やがてその山は北に見えるようになった
誰でも東南に進んだと思う
まだ地図も方位磁石もないんだからな >>255
>可也山と思われる記もない
お前も現地人が同道してるのは認めてたよな?
その現地人に行き先の方角も確認せずに、魏使は間違った方角を記録した、と
お前はそう主張するんだな?
ちょっと回りを見回せば目に入る目印のことを、魏使は全く意識しなかった、とw
本当に面白いな、お前ww >>260
その、東に見えてた目印は、やがて北に見えるようになった
結論が出たじゃないか 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>254
可也山 N33° 34.336"
三雲 N33°32'14.07"
呼子町呼子 N33°32'36.71"
呼子の真東 >>260
逆だよ。
現糸島市近辺は伊都国ではないてこと。 >>259
>やがてその山は北に見えるようになった
だから、写真を確認してから書き込めよ
伊都国三雲は、緯度で言えば可也山より南だが
方角としては東のだぞ?
最初の写真で夏至(冬至は間違い)の日の入りの方角って書いただろうが?
お前の地理観では、夕日は北に沈むのか?
伊都国から見た可也山は夕日の方角なんだから、西だろ?
東南と認識する余地はないよ >>231
>そいつは可成山が真東だと自爆したぞ
>真東の南にイト国があるなら、まさしく東南じゃないか
残念でした。東南陸行出来ません >>265
太陽の昇るほうだ
可成山をみて真東と認識しただろうな
畿内説と同じように >>267
古代人は空も飛べないし、航空写真を確認もしてない >>269
可成山をみて真東と認識したなら三雲も真東 >>272
真東に見えてた山が、今度は北に見えるのにか?
空とんだとか航空写真みたとか、畿内説のメルヘンはいらんよ >>271
>直線距離を測量してるほどヒマじゃない
心配スンナ。 「忌部一族(阿波勢力)」がとっくに測量済みだ。 なんせ、たびたび朝鮮半島まで行ってるんだから。 @阿波 >>269-271
捏造君、焦りの三連投ww
めっちゃ早口で言ってそうw
>太陽の昇るほうだ
>可成山をみて真東と認識しただろうな
そうだな、そして伊都国から見た可也山は夕日の方角だから西と認識されるw
東松浦半島から可也山が東
伊都国から可也山が西
だったら、「東松浦半島から伊都国は東」だなwww
空を飛ぶ必要はないし、測量も地図も必要ないw
可也山は現地から見えるんだからw
それから可也山(かややま)だぞ?
可成山ってどんな入力してんだ?w >>273
北の可也山までの距離が、呼子ー可也山よりはるかに短いから トンデモ同士、延々とバカ議論できていい関係だな。 わははははは @阿波 >>275
太陽は西に沈むだろうな
可成山は北西だから結論は変わらない
てか、通る過程で山の真南地点を通るしな
二択チョン、みごとな自爆だ
可成山目印説なら、みごとにイト国を東南と考えた理由が説明できる >>270
それで反論のつもりか?
>>267には、夕日の方角って書いてあるだろ?
空を飛ぶとか、航空写真とか、まったく関係ないぞ?
航空写真で示しているのは、理解の助けのためだけ
これを示した後じゃないと、夕日の方角ってところに「根拠出せ」ってけちつけるのが見えてるからなw トンデモ同士、延々とバカ議論できていい関係だな。 わははははは @阿波 >>276
真東に見えてた山の南側にいるんだ
迷う余地がない >>279
太陽は西に沈むな
そして、山は北西に見えてる
ますます東南に進んだと確信しただろうな >>278
>太陽は西に沈むだろうな
>可成山は北西だから結論は変わらない
可也山バカを北西じゃないんだよ
渡海が可能な夏の季節、
伊都国から見た夕日は本当にまっすぐ可也山に沈むんだよ
それを見て、北西だと思うやつはいない
可也山のすぐ南を通って、そこからだいぶ東に行った
ところが伊都国三雲だ
自爆してるのお前だぞ?w >>281
遠くの東に見えてた目標物のすぐ南に来て東南と認識したなら
一月繰り返すと、ずいぶん南に来たと誤認してしまう >>282
>太陽は西に沈むな
>そして、山は北西に見えてる
バカ相手だから何度も同じことを書くが、
伊都国から見て、その太陽が沈むところに可也山があるんだよ
渡海が可能なのは夏の季節だから、渡海してきた魏使が
伊都国から見る沈む夕日は可也山に沈む
これを見て北西だと思う人はいないw 南至は実際は南の方位ではなかったと九州作り話は主張している >>283
お前はアホか
シナ人だって季節に合わせて方位の微調整ぐらいするさ
山の方位は間違わんよ >>285
シナ人は、どんな季節も同じ方向から昇って沈むと思ってたのか?
アホすぎる トンデモ同士の馬鹿バトルは永遠に続くのであった。 わははははは @阿波 中国人は季節に合わせて方位の微調整はできたんだけれども
遠くの東の目標物のすぐ南に来た時に東南に来たと思ってしまった
そういう微調整はできなかったので
南に邪馬台国があると思ってしまったと九州作り話は主張している >>288
>シナ人は、どんな季節も同じ方向から昇って沈むと思ってたのか?
>アホすぎる
また逃げを打ち始めているが、季節調整をしたところで
「太陽が北西に沈む」ことはないぞww
多少北寄りと認識されたところで「日が沈む方角は西」だw
自分でも>>282で「太陽は西に沈むな」って書いてるじゃないかw
手のひらクルックルで、忙しいですねーw >>290
九州ひとくくり
でなく、現糸島を伊都国と想定する
北部九州説の主張だな。 トンデモ同士の馬鹿バトルは永遠に続くのであった。 わははははは @阿波 >>281
>真東に見えてた山の南側にいるんだ
つーか、可也山って正確には呼子どころか加部島より北だから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています