邪馬台国畿内説 Part718
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629372901/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 今の対論相手は九州説らしいが、議論が煮詰まると罵詈雑言に走る点も畿内説の某バトル愛好家に似ている トヨが九州のどこにいたか言えないという事は、王都を示せないという事で、
説として成り立たないじゃないか。
このスレのアホの>>1は纏向なんて言ってて、もちろん間違いだけども、
一応、アホなりに王都を示してるので説としては成り立つ。 >>1
オマエラさ何で二択でしか物を考えられないんだ?
@畿内説派
A九州説派
B畿内でも九州でもない派 ←コレがあってもいいだろ
だいたい、二択って脳を使わないですむ選択肢の中で一番簡単な方法。
そもそも二択でしか物事を考えられないってのは脳の機能が低いから。
ベースの情報処理能力が低いから、そうしているというよりもそうせざるえない。
(´・ω・`)つまり、馬鹿の証拠なんだぞ!
そもそも脳の機能が低い人って不安になりやすいしメンタルが病みやすい。
例えば「自分ダメだな…」と思ったとして
多択派だと、「それは自分のほんの一部。自分は大丈夫!」ってなるけど
二択派だと、「私って本当にだめなやつだ! 全部だめだ!!」となって
メンタルが病む。 この際だから二択はやめろ。マジで!多様性は生きる道なんだぞ! >この際だから二択はやめろ。マジで!多様性は生きる道なんだぞ!
おれは畿内説葛城派。
だから九州説はもちろん、ここのアホの>>1をはじめとする纏向説派も論破しないと。 二択派などと考えるのが異常
間違いに気づいたらいつでも修正すればいい
ただ、議論には誠実に対応すべきで一人の中に多様性があるのであれば、それは分裂症か議論を弄ぶ輩 >>761
雑多九州作り話は一人一作り話なので二択ではなくて、
学問畿内説の一択に
その他の雑多作り話が存在する
この雑多にはただの斜面作り話や竹島どろぼう反日種族の朝鮮起源作り話属する 確かに、絶対に畿内で間違いない、絶対に九州で間違いない、って書き込んでる奴らは文章から頭の悪さが滲み出てるな >ただの斜面作り話
俺の事だな。
日本で唯一の大量の奴婢埋葬痕跡がある場所だ。
そして日本で唯一、大量の奴婢を誅殺した人物にかかわる場所だ。
その人物とは神武だ。
纏向遺跡に奴婢埋葬痕跡なんてこれっっっっぽちもないので、
そろそろ諦めたらどうだ、あれはニギハヤヒ以降の物部遺跡だし。 >>762
>おれは畿内説葛城派。
いや、あんたは九州(クズ)説だ >>754
>日本全国で60万人しかいない
>畿内説をとっても、100万人はいなかったことになる
残念ながら小山修三は2000年段階で既に
弥生末期では100万人を超えていた、と上方修正している >>770
どんな脳みそしてるんだ?
だったら九州説でもOKだろ
畿内説はどうして、まるで考えないのか >>771
>だったら九州説でもOKだろ
説明してほしい >>771
なんの説明もなく「OKだろ」とゴネられてもな >>768
グーグルマップにも載っている。
神武東征紀の高尾張邑伝承地。
纏向でなくて残念だったな。 >>761
>B畿内でも九州でもない派 ←コレがあってもいいだろ
形式論理としてはありだが、実際検証に耐える説がないんだよ
というか、九州説ですら単に素人が言い張っているだけで説と呼ぶに値しない >>775
だから、相手にしなくていいんだってw
土地の言い伝えで、天皇が土蜘蛛を切ったので蜘蛛塚がある
というだけの話を、
この天皇というのは神武天皇だ
→飛躍その1
この切られた土蜘蛛が卑弥呼の殉葬100人に当たる
→飛躍その2
神武天皇の后が卑弥呼だ
→飛躍その3
という飛躍の3段飛びで、蜘蛛塚があるんだからここが卑弥呼の墓だというものすごい説がカツラギ爺の言い分
大体の御所市の伝説・言い伝えでは
「むかし、千本の足を持つ大きな土蜘蛛が住んでいた。
時の天皇は御悩みであったので、勅使が来て、字サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。
矢の落ちたところを矢の段という。
土蜘蛛を高天彦神社の傍らに埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛の居た窟は神社の前の並木の東にある。」
となっている
「時の天皇」という時点で、神武天皇ではない
「妖怪討伐の伝説」で土蜘蛛は1体、土蜘蛛100人ではない
退治したのは天皇の「勅使」、神武の軍勢ではない
もうね、デタラメもいいとこw 畿内説の他説批判は不毛だと思います。
足下が揺らいでます。
畿内説支持者も色々ですが、、、
畿内説支持者の投稿が少なく、奥山さんはじめ少数です。
阿波さんは、お遊びに転じた感もあります。阿波さんの気持ちわかります。
畿内説のスレとして、畿内説には頑張ってもらいたい。私も大事する気概も湧きます。 畿内説の他説批判は不毛だと思います。
足下が揺らいでます。
畿内説支持者も色々ですが、、、
畿内説支持者の投稿が少なく、奥山さんはじめ少数です。
阿波さんは、お遊びに転じた感もあります。阿波さんの気持ちわかります。
畿内説のスレとして、畿内説には頑張ってもらいたい。私も大事する気概も湧きます。 ダブ投稿、ごめんなさい。
さて、魏志韓伝の韓の四方4千里について
ご意見はありますか?
短里で良いと思いますが、、 >>775
よそからだけど、アンタ、
あのね、まともな議論できないの? テンプレでは、記紀神は参考程度と記述されてるが、
最近は畿内説の方が良く、都合良く記紀神話を持ち出すね。 >>776
先入観を捨て去って一から論理パズルを解けば、近江か東海ってことになるからやってみ >>785
>近江か東海ってことになるからやってみ
笑笑笑 >>785
東海じゃなくて、唐津から東南の方角だ
笑笑笑 >>783
都合良く記紀神話を持ち出すのではなく、
この日本で唯一、大量の奴婢埋葬伝承のある所が、
古代から「高天原」と呼ばれる場所だという事。
そして日本の歴史上唯一、奴婢を大量に誅殺した人物が神武である事。
高天原と卑弥呼墓と神武が結びつくのだ。
これは驚くべきことだ。 >>789
「天岩戸立岩神社」ご祭神「志那都比古神」「志那都比売神」(二神は風の神)「弥都波女神」(水の神)の三神や、
「天岩戸別神社」ご祭神「手力男神」が祀られていないところに、「高天原」があった訳がない。 控えおれ! @阿波 高天原と卑弥呼墓と神武が結びつく。
何故か。
卑弥呼の時代に皇族(こうぞく)なる呼称はない。
王族(おうぞく)という呼称もない。
あるのは大王(おおきみ)でわかるように「きみ=かみ」
卑弥呼や卑弥呼を生んだ一族は「神々」と呼ばれていた。
神々は高天原に住んだ。
だから墓も高天原にある。
それだけの事。 「天岩戸別神社」は徳島県名東郡佐那河内村上字牛木屋に鎮座し、ご祭神「手力男神」が祀られている。
この神(「手力男神」)は「古事記」に天岩戸を開けた神として書かれ、「佐那那縣(さなながた)に座す」と書かれている。
佐那河内村は、古く「佐那県(さなのあがた)」と称されたと村史に書かれ、古事記と一致する。
さらに、西に山を越えると「天岩戸立岩神社」があり、徳島市には式内社の「天石門別矢倉比賣神社」と
「天岩戸別豊玉比賣神社」が鎮座する。
これらの関連から、天孫降臨の地が、「阿波」であると言わざるを得ない。 @阿波 Wikipediaの「近代以前の日本の人口統計」のページに小山修三氏による卑弥呼の時代(弥生時代)の地域別推定人口が掲載されている
それは九州から東北までで594,900人
魏志倭人伝にも戸数の記載されている部分があり、そこから推計すると約100万の人口が想定される
今日知ったことだが、先の小山氏は新しい積算根拠で2000年頃に弥生時代の推計人口を100万人を超えるものと推計しなおしたそうだ
陳寿の記述がいかに正確なものであったのかを確認することができた
陳寿には積算根拠があって記述したものだと思う
文章には人柄が現れる 三国志の記述には陳寿の真面目で誠実な態度が反映されている
もはや破たんした九州説など語るべきではない
魏志倭人伝について語るべき問題は九州説を離れても夥しく存在する
この段階になって初めて目を向けるような事柄も登場するだろう
私たちは次の段階に進むべきだと思う 距離はテキトー、方角はデタラメと、魏志倭人伝を評していたのは畿内説だぞ >>790
徳島は四国から切り取ってひょっこりひょうたん島みたいに太平洋に流したい。
幸い、日本には西の島のように新しい領土が増えてきたので、
もはや徳島には何の用もない。 >>795
それはバトル愛好家だが、本当の畿内説化は疑わしい
九州説にも成りすまして、ただ単にスレ埋めに夢中になっているように見える 徳島は悪くない
泡キチガイが悪いだけ
しばらく専用スレに隔離してたのに、
誰もかまってやらんから暴れてる
迷惑な話だ >>797
畿内説が魏志倭人伝の信用性を落とそうと必死なのは事実だぞ
沖縄だのパプアニューギニアだの言って、信憑性を落とそうとする
すると畿内でもってなくなってしまうのだが、九州説を否定するのに必死で気づいてない >>674
>>表の一番右側「弥生時代」が卑弥呼の時代となります
>それ、違うんでは?
小山の弥生時代は紀元前後くらいだっと気がする
ふーん。 「西之島」?
どうなったんだろう、某が、やっているという説もあったしな。 >>799
それは本当の畿内説ではない
パドル愛好家の議論する態度は説得力に欠ける >>800
そのコメントにはレスしてある
>>674
小山氏は1978年の時点の1,800年前の数字を積算した
西暦178年は卑弥呼が即位した時期だと思う
>>677
即位はしていなくとも卑弥呼がすでに生まれ生きていた時代と訂正します >>676
>根拠は何度も書いているし、テンプレにも書いてある
日本には北部九州も含めて、黒雉はいない(台湾にはいる)し、
儋耳朱崖と同じ暮らしをしている地方はない
論衡の倭と、同じ倭と呼んでしまったことから来る錯誤なのは明確
倭人伝の記録は、魏の役人らの実地の見聞計測の記録を、陳寿が紹介し、
陳寿も、女王國の位置説明として「会稽東治之東」と推定した地であり、
台湾や儋耳朱崖とは全く地理的には完全に離れており、
だから、台湾や儋耳朱崖との風俗との近縁性を説明しただけ。 >>800
短文で一人言い切りのコメはバトル愛好家を想起させる >>695
>時代をごまかしたってシナの史書に書いてあるからごまかしようがない
現に、倭の五王がヤマト政権だってみんな知ってる
倭の五王の名前が載っている列島文献は、
今のところ、「姫氏松野氏系図」だけだ。 >>808
ヤマト政権が朝貢したことを隠したいという、よく分からんことが目的ならば、
倭の五王が誰かだけ隠しても意味がなく、ヤマト政権と無関係なことにしなくちゃならない >>805
つい批判してばかりいる相手の論を補強するようなことを書いている
滑稽なことだ
同じ人物が書いているから無理もない 【質問】
以下の選択肢から一つ選べ。
九州島の位置は、以下のいずれに当てはまるか?
A)會稽東治之北東
B)會稽東治之東
C)會稽東治之南東
【解答】
A)會稽東治之北東(朝鮮半島)☓
B)會稽東治之東 (九州)〇
C)會稽東治之南東(沖縄)☓
(會稽東治之南 (台湾)) >>697
>ごまかせてないだろ?
倭の五王がヤマト政権だと考えてない研究者がいるのか?
バレバレじゃない
「倭の五王」の名前がそのまま載っているのは、
呉王夫差の遺民の「姫氏の系図」だけ。 >>700
具体的に誰かをごまかしたところで、結局、
倭の五王の名前が「呉王夫差の遺民の姫氏の松野氏姫氏の系図」にだけ載っているだけだ、
ってことがバレバレなら意味ないだろ
ヤマト政権が朝貢したのではないことはバレてるんだから >>777
>土地の言い伝えで、天皇が土蜘蛛を切ったので蜘蛛塚がある
というだけの話を、
この天皇というのは神武天皇だ
>大体の御所市の伝説・言い伝えでは
神武東征紀の高尾張邑伝承地だ。
神武は大和入りしてから主に4ヶ所で土蜘蛛を討っているが、
その最後の場所だ。
御所市の伝説・言い伝えなどとごまかすな。
箸墓に奴婢埋葬の痕跡がこれっぽっちもなく残念だなw >>775
相手にされてるも何も、日本にある奴婢大量埋葬痕跡のある場所を、
誰一人言えないじゃないか。
おれはずっと言ってくれと言ってるわけだが、誰も言えない。
だって高天原(=御所市高天)以外にないからね。
つまり卑弥呼墓の場所は高天原にしかない。
それでいい?
反論があるならまず奴婢大量埋葬痕跡のある場所を具体的に言ってくれ。 >>785
>一から論理パズルを解けば
行程パズルで比定地を求めるのは九州説の亜流だしもうお腹いっぱいw
論理なら、一義的に決まるんじゃないの?
なのにどうして、近江か東海の2択になるの?
この時点でおかしくね? >>788
この遺跡分布を見れば、筑後平野に七万戸は無理だってすぐ分かるだろうに
https://i.imgur.com/okcvbpL.gif >>796
>徳島は四国から切り取ってひょっこりひょうたん島みたいに太平洋に流したい。
兎にも角にも、「阿波」は別格だから。 @阿波 >>819
近江→東海→大和と日本の都が変わって行ってたとしたら?
邪馬台国というのが近江か首都だった時代のことなのか東海が首都だった時代のことなのかが判断できないってだけ >>818
>相手にされてるも何も、日本にある奴婢大量埋葬痕跡のある場所を、
>誰一人言えないじゃないか。
天照大神は倭国(阿波)に御座した。
天照大神伝説の地は徳島市国府町の気延山「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。
「殉葬奴婢百余人」は気延山一帯が未掘古墳だらけであることから、気延山の卑弥呼円墳近くに、殉葬されたのだろう。 @阿波 箸墓古墳の葬送儀礼は桜井茶臼山、葛本弁天塚布と同時期、
布留1式古段階あたり、3世紀末だなw
つまり248年に死んだ卑弥呼の墓でも何でもないw
アホの>>1 wwwwwwwww >>821
>>777はわざと御所市伝承などを持ち出していて反論ではない。
こっちは神武東征紀の話をしている。 >>827
>箸墓古墳の葬送儀礼は桜井茶臼山、葛本弁天塚布と同時期、
>布留1式古段階あたり、3世紀末だなw
根拠ナシ >>817
神武紀に、蜘蛛塚も蜘蛛窟も出てこない
お前が根拠に持ち出す蜘蛛塚、蜘蛛窟は御所市の伝承がもとになっている
それを否定するのは、お前の論拠を自ら全否定するだけだ
高天に、奴婢埋葬痕跡など最初からないんだよ >>830
壺型土器は規格性が高く、箸墓古墳の壺型土器は桜井茶臼山、葛本弁天塚の壺型土器とほぼ同じ土器形式の中にある。従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。 >>832
>高天に、奴婢埋葬痕跡など最初からないんだよ
その通り! @阿波 >>832
>神武紀に、蜘蛛塚も蜘蛛窟も出てこない
神武紀の高尾張邑の伝承地だと言ってるのだが。 >>832
>高天に、奴婢埋葬痕跡など最初からないんだよ
もちろん、高天原に「卑彌呼」の陵墓もない。 陵墓が在るのは、豊葦原中国。 @阿波 >それを否定するのは、お前の論拠を自ら全否定するだけだ
そうすると箸墓には奴婢埋葬の伝承でさえ何もないのだから、
君の箸墓説はお前の論拠を自ら超全否定するだけだなwww >>838
徳島は鳴門の女子高生の胸が大きい。
それだけ。
それだけ。 >>833
>箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。
そりゃそうだ
布留0古相のすぐ次が布留0新相だからね まぁ、「前方後円墳」の源型(萩原墳丘墓)が、「卑彌呼」以後の築造なんだから、箸墓古墳は推して知るべし。 @阿波 >>840
>布留0古相のすぐ次が布留0新相だからね
布留1式古段階(坂靖「古墳時代の遺跡学(雄山閣)」 >>837
そうはならないよん
左側スロープ君の論拠は奴婢埋葬痕跡(蜘蛛塚のこと)だけだから、それが否定されれば全崩壊
畿内説の論拠には最初から奴婢埋葬痕跡など採用していないから何も問題ない
畿内説の論拠はピンポイントの狭い領域の話ではなく、列島の広い範囲での土器の斉一化などの
多種大量の考古学的発掘物から論証される事柄だからだ >>835
高尾張とされる領域は高天近辺のような狭い範囲ではないし
土蜘蛛との関連で言うなら一言主神社の蜘蛛塚の方がまだ筋がいい
お前が神武紀の伝承地だという論拠が「御所市の言い伝え」の蜘蛛塚なんだから
お前は何も反論できてないぞ
御所市の言い伝えで「時の天皇」って言ってるんだから神武天皇ではありえない >>843
>畿内説の論拠はピンポイントの狭い領域の話ではなく、列島の広い範囲での土器の斉一化などの
多種大量の考古学的発掘物から論証される事柄だからだ
弥生時代には北部九州から瀬戸内には銅剣、
近畿から中部には銅鐸という青銅器文明が展開してる。
北部九州の防人が畿内を守っている白村江の時代と全く同じ構図だ。
2世紀前半からはいる其国の男王と卑弥呼・トヨまでは銅鐸文明という事になる。
お前の言う土器云々はその防人の瀬戸内集団の物。
卑弥呼とは直接は関係ない。 >>844
>高尾張とされる領域は高天近辺のような狭い範囲ではないし
>土蜘蛛との関連で言うなら一言主神社の蜘蛛塚の方がまだ筋がいい
それは名柄の土蜘蛛・猪祝だ、馬鹿たれ
>お前が神武紀の伝承地だという論拠が「御所市の言い伝え」の蜘蛛塚なんだから
お前は何も反論できてないぞ
とんでもない、日本最古の式内名神大社・高天彦神社の伝承でもあり、その敷地内にある。
お前事気がどうこう言える代物ではない、引っ込め。 >>816
>>呉王夫差の遺民の姫氏の松野氏姫氏の系図
松野氏の伯つける偽書だよ。
フルタぺーテン >日本最古の式内名神大社・高天彦神社
718年に行基菩薩が霊地であることを感じて精舎を建てたくらいだから
それまで高天あたりは何もなかったんだよ
鑑真和上が住職に就くような大寺院の鎮守社としてのオマケの神社だな >>813
くだらん質問だな
緯度は九州も畿内も変わらないよ >>820
平地はら3世紀の畿内の3倍以上はあるなWw >>850
畿内は湿地帯も多いし、埋め立て地も多い、
筑紫平野とくらべ稲作可能な土地は五分の一 >>848
それ橋本院。
頓珍漢な話ばっかりしないでくれ。 >高天に、奴婢埋葬痕跡など最初からないんだよ
もちろん、高天原に「卑彌呼」の陵墓もない。 陵墓が在るのは、高千穂(豊葦原中国)。 @阿波 >>820
オメは大きな誤解をしてる。
末盧国(唐津)東南の佐賀平野にあったのは伊都国・奴国・不彌国の3国で2万5000戸ほどだ。
そしてその不彌国(吉野ヶ里一帯)の南方の熊本平野/阿蘇盆地に邪馬台国7万戸があり、女王の都したところは阿蘇高千穂だった。
つまり水行1万里で至る末盧国(唐津)から、さらに陸行2000里≒約150qほどのところだったという倭人伝の記述に一致する。 >>852
だから神仏習合時代の主が橋本院、従の鎮守社として建てたのが高天彦神社
早くても8世紀 >>851
暴れ川の筑後川流域で稲作なんかできないよw
筑前の裏の空き地 >>819
同時代の魏の役人らの実地での見聞計測の記録を転載した陳寿の倭人伝の行程記録を、
行程パズルだとかインチキだとして比定地を求めるのは、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定や隠蔽などの、
大和説学者らの亜流だし、もうお腹いっぱい
論理なら、ほぼ一義的に九州に決まるんじゃないの?
なのにどうして、大和とか阿波とか近江か東海になるの?
この時点でおかしくね? >>854
>女王の都したところは阿蘇高千穂だった。
高千穂は天降(あまくだ)った所。 少なくとも高い山地(阿蘇高千穂)ではなく、麓・平地にある。
そして、豊かに稲や稗などが稔るところを指す。
高天原=四国山地(神山・木屋平村)
高千穂=大吉野川の中・下流域(徳島平野) @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています