>>861
>「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」
魏志には記禄がない。

「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」は、唐会要の(日本國伝ではなく)倭國伝の記録であり、
魏志倭人伝の記録も、「倭地」や「女王國≒倭國」としての記録である。

>逆である。日本舊小國は、邪馬壹國の事。

当然これも「逆の嘘」である。
「日本舊小國」は、
舊唐書や唐会要の(倭國伝ではなく)日本國伝の説明文であり、
九州倭國から別れた別種分家の旧小国の大和政権の事であり、
邪馬壹國は、
魏志倭人伝での倭國の親魏倭王の卑弥呼女王が所都した國名としての記載である。
倭國の正統王家は、本来は委奴の地の(阿毎氏系の)漢委奴國王の57年の男王や、
107年帥升らの倭國王や、
「大野」付近で邪馬壹國女王之所都した姫氏の卑弥呼や、
平原1号に埋葬された「玉と鏡の女王」であった壹與や、
那珂八幡や一貴山銚子塚などの王や、
317年頃から久留米付近に遷宮した「姫氏系の倭の五王や倭國王哲」らが正統。
そして、517年頃に阿毎氏系の磐井が政権を奪って「継体」し、
その阿毎氏からタリシホコやサチヤマが出て、白村江で唐に大敗して亡国の運命にさらされ、
阿毎氏の分家の旧小国の大和王権に併合吸収継承された。
それが、史料事実や史料実態であり、
大和説学者らは、史料事実や史料実態の曲解や否定や隠蔽だな