邪馬台国畿内説 Part718
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629372901/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>900
>硯が沢山出ているじゃないか
日本で硯が出土したのは、「観音寺・敷地遺跡」。 たぶん。 @阿波 >>900
>硯が沢山出ているじゃないか
日本で最初に硯が出土したのは、「観音寺・敷地遺跡」。 たぶん。 @阿波 北部九州を中心に硯なんて普通に出ているが。
最古は出雲の田和山遺跡かな。 >其死有棺無槨
これは倭地の風習について記述している部分
倭国や、卑弥呼とは無関係
「槨があるから卑弥呼の墓ではない」などと言うのは暴論
せめてこれくらいは当然の前提となってほしい >>896
>「箸墓古墳の壺型土器は桜井茶臼山、葛本弁天塚の壺型土器とほぼ同じ土器形式の中にある」
>のだから同時代。
明らかに間違いだなあ
「ほぼ同じ」は同一じゃないって事だよ
誰の発言? >>896
>3つの古墳のうち最古だとしても布留1式古段階。
そう言ってる学者は、いる?
誰も居ないでしょ?
つまり君の個人的妄想ってことだよ >>875
>50年繰り上げを無効とすれば
これが無理なんだよ
同じ技法で作られた土器、というだけなら技術が九州から畿内まで伝わるのに50年かかったというのも、可能性としてはあるけれど、布留式土器は形式の画一性がその特徴であり、50年後に技法が伝わった時に50年前と同じ形のものを作る理由がないので、「50年繰り上げ」とお前が言う見直しを無効にすることは無理だよ
実際には、意味もなく「50年繰り下げ」られていたのを、正しただけなんだけどなw >>876
>魏の薄葬の圧力が弱まるのと
そんな圧力はないww
ペーテンザラコク以外でそんなことを言うやつを初めて見たわw >>892
大寺院橋本院の従としての登山口の鎮守社である高天彦神社(旧握り飯売所)あたりは何も無い まあ、左側スロープ君が何を言っても無駄だろw
神武天皇の妻が卑弥呼だとか、いきなり最高強度のトンデモだし
蜘蛛塚、蜘蛛窟の伝承はググれば誰でもすぐに確認できる
「時の天皇の勅使が猿伐から土蜘蛛を射殺した」
現実に広く知られている伝承を使いながら(蜘蛛塚の存在が土蜘蛛を証明)、それを間違っている(時の天皇ではなく神武天皇だ、妖怪の土蜘蛛ではなく
まつろわぬ民の土蜘蛛だ)という論法が通用すると、どうやったら
考えられるのか不思議でしょうがない >>906
>「ほぼ同じ」は同一じゃないって事だよ
そりゃそうだ、誰もそんなことは言ってない、しかし同じ画期と見なすのは当然。
1や1.5違うなんてただの願望。 >>911
国宝中平銘鉄刀の和邇氏系図に卑弥呼もトヨもいる。
中平銘鉄刀がなぜ和邇氏の墳墓から出たのか、説明できる。
崇神が4世紀前半ならその数十年前にトヨがいることになるが、ちゃんといる。
その3世代前に、卑弥呼(Bei mei hu)=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、
つまりヒメ后がいる。
邪馬台国論争は葛城で決着だ。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) >>915
箸墓が布留1だっていうのが虚しい「ただの願望」では? >>915
>そりゃそうだ、誰もそんなことは言ってない、しかし同じ画期と見なすのは当然。
「同一の土器形式」じゃなくて「ほぼ同じ土器形式」なのに同時代と見なすのはなぜ?
「同時代」じゃなくて「近い時代」だと考えるのが当然でしょ? >>915
>そりゃそうだ、誰もそんなことは言ってない
情報出所を聞かれても頑として答えないのが九州説 >>910
しつこいやつだな。
橋本院の従でもないし、少し離れてるし、関係ない。
長柄神社も高鴨神社も古来から存在するのに高天彦神社だけ新しいのは不自然。
高天彦神社が最古であることは高鴨神社側も認めている。
箸墓が3世紀中ころにならないからと言って、負け犬のようにぶつぶついうのはやめろ。 >>917
桜井茶臼山と葛本弁天塚と同じ土器形式なので同一画期であることを認めようね。
いい加減みっともない。 箸墓古墳の葬送祭儀は、墳丘に樹立された二重口縁土器から、布留1式期古段階であったと考えられる。
坂靖「古墳時代の遺跡学(雄山閣)」 >>923
坂は森浩一の最後の弟子で今年定年になったラスト九州説
自分では編年研究をしていない >>924
なにがダメなん、偉そうに。
墳丘に樹立された二重口縁土器が布留1式期古段階というのは誰が見ても同じ。
学者によって見解が違うという事はない。 >>926
橿考研でボツになった編年ならダメで決まりでは? >>927
関川さんの編年の話ではない。
墳丘に樹立された二重口縁土器が布留1式期古段階かどうかの話。 >>926
>墳丘に樹立された二重口縁土器が布留1式期古段階というのは誰が見ても同じ。
>学者によって見解が違うという事はない。
という証拠は?
布留0式の存在を認めず全部布留1にぶちこんでる異端の人なら、ほかの学者と見解違うの当然では? >>928
>墳丘に樹立された二重口縁土器が布留1式期古段階かどうかの話。
誰の編年で? 箸墓古墳、桜井茶臼山、椿井大塚山は同系統の二重口縁壺。
file:///C:/Users/v-ist/Downloads/02_%E4%BA%8C%E9%87%8D%E5%8F%A3%E7%B8%81%E5%A3%BA%E5%B0%8F%E8%80%83%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89.pdf
ま、箸墓の葬儀は4世紀丁度あたりだなw
これが何で卑弥呼の墓なんだよwww >>930
編年じゃなくて布留1式期古段階かどうかの話。
布留1式期古をいつに編年してるかは学者さんによって違うだろう。
ただ、3世紀中ころにしてるドアホは一人もいないだろうねwww >>931
それがマトモな説だと思う理由は?
誰の編年使ってる? >>932
>編年じゃなくて布留1式期古段階かどうかの話。
知能ないの?
その名称の定義が編年だよ
布留0式なんて段階は存在せず、ぜんぶ布留1式期古段階であるって狂った編年してる人だったら、どうすんの? file:///C:/Users/v-ist/Downloads/02_%E4%BA%8C%E9%87%8D%E5%8F%A3%E7%B8%81%E5%A3%BA%E5%B0%8F%E8%80%83%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89.pdf
>>929
>布留0式の存在を認めず全部布留1にぶちこんでる異端の人なら、ほかの学者と見解違うの当然では?
何言ってるの。
箸墓建造開始が布留0式古相であって、それが240〜260であったとしても、
完成し、そのあとの葬儀の時期の話をしてるのだ。
こんなことは当たり前だが、完成まで10年、そこから20年以上は経過して葬儀が行われたからこそ、
桜井茶臼山や椿井大塚山、葛本弁天塚と「同型・同時代」の二重口縁壺がでたわけだ。
つまり、箸墓は、248年に死んだ卑弥呼の墓でも何でもない。 >>933
二重口縁壺の制作手法を丹念に研究した研究者さんの意見なので、
5ちゃんに一年365日朝昼晩居ついてる君ごときは反論できないはずだ。 >>935
>桜井茶臼山や椿井大塚山、葛本弁天塚と「同型・同時代」の二重口縁壺がでたわけだ。
「同型・同時代」だっていう根拠は?
それに墳頂の追祭祀だったら孫世代くらいまでやっててもおかしくないけど? >>936
>二重口縁壺の制作手法を丹念に研究した研究者さんの意見なので、
どこの誰? >>938
二重口縁壺小考(上). 利根川 章彦
でググると出てくるよ
箸墓のことにどこで言及してるのかはまだ見てない >>937
>「同型・同時代」だっていう根拠は?
関川さん、坂さん、利根川章さん(二重口縁壺 小考)
>それに墳頂の追祭祀だったら孫世代くらいまでやっててもおかしくないけど?
おかしくないでなくて、孫世代までやったという根拠がない。
あくまで君の願望だ。 >>940
>二重口縁壺小考(上). 利根川 章彦
>でググると出てくるよ
何が? >>941
>おかしくないでなくて、孫世代までやったという根拠がない。
>あくまで君の願望だ。
葬儀の時だって根拠もないな
あくまで君の願望だ >>920
大寺院橋本院と従としての登山口の鎮守社である高天彦神社(旧握り飯販売所)の距離は
高鴨神社や南郷遺跡群やその北の名柄遺跡よりも近い
昭和に観光目的で立てた土蜘蛛塚以外には何も無い >>944
箸墓古墳の二重口縁壺は、その制作手法が、
桜井茶臼山、椿井大塚山の二重口縁壺と同じに分類されるという、
利根川さんという研究者のありがたい研究報告だ。
まさか桜井茶臼山、椿井大塚山を卑弥呼の死亡時期3世紀中ころには持っていけないだろ。
だからあきらめろ、往生際が悪い男だ。 二重口縁壺小考(上). 利根川章彦 では
『「箸墓古墳出土の庄内式の二重口縁壺より古い段階に属する」とされているが、併行期になる可能性もある。』
としか書いてないと思うが?
箸墓の二重口縁壺が庄内式なら、布留式よりも古いんだから、二重口縁壺が
箸墓の編年を新しくする理由には全くならないぞ? >>945
何度も言う、神武の高尾張邑伝承地はここしかない。
他にあれば言え。
ここで神武軍は土蜘蛛を討っている。 あと俺の>>916に反論できないで能書き垂れないでくれ。
崇神の数十年前のトヨはトヨ津姫でいいな?
他にいればどんどん言ってくれ、待ってるから。 ああ、ここのことか
「a手法は奈良県桜井市箸中山(箸墓)古墳、桜井茶臼山古墳、京都府椿井大塚山古墳、b手法も桜井茶臼山古墳からそれぞれ出土した壺型土器にある(註3)。これらの古墳は常に古墳時代前期のもっとも古い段階の一群に位置付けられているから、a・b両手法とも古墳時代型の二重口縁壺の最古段階からあると考えてよいだろう。」
これ、壺の口の作り方の話で、同じ時期かどうかには力点はないな
「a・b両手法とも古墳時代型の二重口縁壺の最古段階からあると考えてよい」 >>873
>隋書 都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者
唐代の隋書の筆者の魏徴らは、信頼性の非常に高い魏志倭人伝の記載を、
5世紀の「自己解釈に拠る書き換えが非常に多い」半分×書の後漢書との、
記載をミックスした注書きをしていた事になり、
半分バツ記載であり、
そんなものは根拠にならない。 箸墓のような大きな古墳の、
建造開始時期と、被葬者の葬儀埋葬時期に、
かなりのタイムラグがあるのは当たり前のことであり、
建造開始時期の布留0式古相を歴博のように240〜260年などと言ってる以上、
被葬者の葬儀埋葬時期は最低でも10年は経過してることになろうから、
この時点で248年に死んだ卑弥呼の墓ではない。
屁理屈で240年に建造開始し8年で完成し、卑弥呼の葬儀は248年などと言っても、
上記の二重口縁壺が4世紀初頭の椿井大塚山や桜井茶臼山と同類ならば、
60年近く時代差があるという事になり、こんな不自然なことはないので、
やはり箸墓被葬者は3世紀末ごろ、もしくは4世紀初頭に亡くなったという事であろう。
まぁ箸墓古墳は磯城地域における崇神の前王、イカガノシコオの墓なのでその時代であろう。 >>875
>O大F永の50年繰り上げを無効とすれば、
箸墓の築造時期は、3世紀第4四半期〜4世紀第1四半期(西暦275〜325)
ふーん。阪大の福永も、そんなインチキ騙しの悪事に加担していたのか?。 >>948
小さいおじさんたちが住んでたなら高天原じゃないな >>876
>265年、魏が西晋に禅譲し、280年に西晋が呉を平定して天下を再統一する。
まさに魏の薄葬の圧力が弱まるのと箸墓の築造時期はピッタリ符合するな。
これちょっと違うな。
「薄葬の圧力が弱まった」事はあり得えて、
筑紫の(3世紀後半半ば過ぎの)那珂八幡の前方後円墳化がその嚆矢であった可能性はあるが。
箸墓は(3世紀最末〜4世紀の庄内3のホケノの後の)布留1だから、
始めから4世紀の墓であり、
嚆矢にはならないな。 >>941
>関川さん、坂さん、利根川章さん(二重口縁壺 小考)
ウソが簡単にバレてるな
さきたまの利根川先生が変なこと言う訳ないし
「註9の1987年文献では『箸墓古墳出土の庄内式の二重口縁壺より古い段階に属する』とされているが、併行期
になる可能性もある」
と引用もあるんで
一般的理解が箸墓の二重口縁壺=庄内式段階であることも明らか
九州説さん、デマはダメよ
畿内説に負けるだけだ >>955
>「薄葬の圧力が弱まった」事はあり得えて、
ホラ吹き九州説
薄葬は西晋も継続中だ >>946
>箸墓古墳の二重口縁壺は、その制作手法が、
>桜井茶臼山、椿井大塚山の二重口縁壺と同じに分類されるという、
>利根川さんという研究者のありがたい研究報告だ。
布留0の古相と新相で制作手法に大きな変化がなくても別におかしくない >>898
>稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文にある杖状人の祖先であるオオヒコが
崇神天皇時代の四道将軍の伝承と関連していると考えられる。
5C以降に活躍する安倍氏が祖先の古墳と考えていたと考察すると、武淳河別が父の大彦の墓として桜井茶臼山古墳を作り、
メスリ山古墳が武淳河別の墓と考えるのが自然と思われる。
塚口義信氏(堺女子短期大学名誉会長)
稲荷山古墳の「銘文鉄剣」の人物(ヲワケ?)は、
中心の幼い?粘土葬の王の「陪臣」の位置に「礫葬」されており、そうすると、
ヲワケの祖である「大彦?」も、武蔵の王の陪臣であった可能性が高い事にあり、
そうすると、堺女子短期大学名誉会長の塚口も、
何かトンチンカンな妄想をしているアホであったんだろう、
という事になるな。 >>958
>布留0の古相と新相で制作手法に大きな変化がなくても別におかしくない
椿井大塚山、桜井茶臼山、葛本弁天塚からさほど遠くない時間差なら、
布留1式古であると思われるが、かなり古く見ても布留0式新相までだろうから、
その時点で箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないね? >>954
小さいおじさんたちが住み着いたから神武が討ったんだよ >>959
>>薄葬は西晋も継続中だ
>だから何?
だから
魏が滅んで西晋代になったから薄葬の制約がなくなって倭国でも巨大古墳が作られるようになって
とか言うのは薄馬鹿特有の駄法螺 >>899
>そもそも当時の倭国には文字がなかった
いや、室見川銘盤があるし、硯が出土しているし、
「大夫」という漢字文言も使っているし、
漢委奴國王印あるし、
倭人伝にも「對海國や一大國」のような明らかな漢字国名もあるし、
ホウ製記銘鏡もあるし、渡来の呉系楽浪鏡師らの紀年記銘鏡もある。
>それなのに、戸数をきちんと把握していたわけないやろ
「戸数」は、魏王朝への「納税や兵役」の義務を有する事を示す文言であり、
魏の役人らは、当然「大体の戸数」は計測したり推定したりしている。
>そのくらい想像できんのか
距離も戸数も適当な数字であることは容易に推測できる
この大和説男も、相当の・・・・アホ詐欺師であるんだろう、とは、
容易に推測できる。 >>961
>椿井大塚山、桜井茶臼山、葛本弁天塚からさほど遠くない時間差なら、
>布留1式古であると思われるが、かなり古く見ても布留0式新相までだろうから、
>その時点で箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないね?
無知無知農さん、布留0(古相)と布留1式古段階は連続してるんだよ
布留0新相というのは布留1古段階のことだからね >>952
>まぁ箸墓古墳は磯城地域における崇神の前王、イカガノシコオの墓なので
朝廷から「大明神」の称号を送られている 延喜式式内社「伊加々志神社」がない畿内は論外! 控えおれ! @阿波 >>965
>無知無知農さん、布留0(古相)と布留1式古段階は連続してるんだよ
>布留0新相というのは布留1古段階のことだからね
布留0古相という呼称があるなら新相もあるだろ。
あろうがなかろうがどうでもいいが、
なら坂さんの言うように箸墓の口縁壺は布留1古段階でいいね。
椿井大塚山や桜井茶臼山とも時代が連なるね。
布留0古を248年としてどれだけ不自然な時間差があるのかな、無知無知能さん。 >>905
>>其死有棺無槨
これは倭地の風習について記述している部分
この大和説男が、また国民を騙そうとするインチキ引用をしている。
魏志倭人伝の該当箇所の記載文は「其死,有棺無槨,封土作冢」であり、
「有棺無槨」も「封土作冢」も、両方ある事が必要。
>倭国や、卑弥呼とは無関係
当然、卑弥呼の時代の倭國の「埋葬形態の必要条件」。
「槨があるから卑弥呼の墓ではない」などと言うのは、全くの暴論
卑弥呼の墓に関しては「大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」は必要条件。
せめてこれくらいは当然の前提となってほしい >>964
>いや、室見川銘盤があるし
それ、清朝のみやげもの >>917
>箸墓が布留1だっていうのが虚しい「ただの願望」では?
そもそも、庄内0とか、布留0とかの「0」期の設定自体が、
人類の順番呼称の設定は「1」からであり、
それに対する「常識外れの、非常識」な設定であり、
虚しい「ただの願望」に過ぎないのでは?。 >>927
橿考研などで採用になった編年であれば、ダメで決まりなんでは? >>967
>なら坂さんの言うように箸墓の口縁壺は布留1古段階でいいね。
まったく理由がないな
>布留0古を248年としてどれだけ不自然な時間差があるのかな
とくにないな
布留0古が248〜260年代くらいとして、布留0新=布留式古段階古相が260年代後半〜280年代までくらいで良いんじゃないか >>970
>人類の順番呼称の設定は「1」からであり
古代人ですか? >>936
>二重口縁壺の制作手法を丹念に研究した研究者さんの意見なので、
5ちゃんに一年365日朝昼晩居ついてる君ごときは反論できないはずだ
その「研究者」が、どこの組織に属していて、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説に賛成しているのか?、
という事が問題だ。
嘘つき騙しの大和説に所属したままでは、いくら研究結果を報告しても、
始めから嘘吐き騙しをしていちゃ、そりゃ全く信用出来ず、
・・・・アホにしか見えないものだ。 >布留0古が248〜260年代くらいとして、布留0新=布留式古段階古相が260年代後半〜280年代までくらいで良いんじゃないか
まず箸墓の二重口縁壺が布留0古ではないね。
桜井茶臼山や椿井大塚山と同系なんだから、それらと連なる年代だね。
ならば君の言う布留0新=布留式古段階古相の260年代後半〜280年代までとして、
どっちみち卑弥呼の死んだ248年ではないね。
君は自分で自分の説を否定しているのだよ。 >>596
>>関川さん、坂さん、利根川章さん(二重口縁壺 小考)
ウソが簡単にバレてるな さきたまの利根川先生が変なこと言う訳ないし
ウソが簡単にバレてるな。
関川も、「(倭國の)倭の五王→大和王ら」説の嘘吐き者であるから、
信頼性が半減しているし、
利根川も、大和説者組織に入っているんなら、信頼性は半分しかないな。
>「註9の1987年文献では『箸墓古墳出土の庄内式の二重口縁壺より古い段階に属する』とされているが、併行期
になる可能性もある」と引用もあるんで
一般的理解が箸墓の二重口縁壺=庄内式段階であることも明らか
「1987年文献」なんて古い文献の記載など、
その後、箸墓は(庄内ではなく)布留の最初期になったんだから、根拠にならないよ。
大和説者さん、デマはダメよ
九州説に負けるだけだから >>957
>「薄葬の圧力が弱まった」事はあり得えて、
>ホラ吹き九州説 薄葬は西晋も継続中だ
「玉と鏡の女王」の壹與の墓の平原1号は、半分薄葬で半分厚葬であり、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などの(巨大化)前方後円墳からは、その時点で厚葬だ。 >>976
古今和歌集でも高天原はここしかない。
お前しつこい。 >>977
>さきたまの利根川先生が変なこと言う訳ないし
変な事って、箸墓の二重口縁壺が、
桜井茶臼山や椿井大塚山の二重口縁壺と同系といっておられるだけ。
桜井茶臼山や椿井大塚山が4世紀初頭なら箸墓はそのほんの少し前程度。
まぁ3世紀末だろうね。
いやぁそんな箸墓を248年に死んだ卑弥呼の墓だと言ってるバカ、つまり>>1がいるもんでね。 >>975
>まず箸墓の二重口縁壺が布留0古ではないね。
>桜井茶臼山や椿井大塚山と同系なんだから、それらと連なる年代だね。
まったく意味不明
布留0古と布留0新は連なっているんだが?
知能がないの? >>979
>古今和歌集でも高天原はここしかない。
「天岩戸立岩神社」 ご祭神「志那都比古神」「志那都比売神」(二神は風の神)「弥都波女神」(水の神)の三神や、
「天岩戸別神社」 ご祭神「手力男神」が祀られていないところに、「高天原」があった訳がない。 控えおれ! @阿波 >>980
>桜井茶臼山や椿井大塚山の二重口縁壺と同系といっておられるだけ。
>桜井茶臼山や椿井大塚山が4世紀初頭なら箸墓はそのほんの少し前程度。
意味不明
箸墓が3世紀中頃で桜井茶臼山が三世紀後半だ
大した時間差はない
何の問題もない >>981
高尾張邑だ、何度も言わすな。
その高尾張邑の伝承地がここしかない。
お前俺の>>916に何も返せず、細かいことばかりグチグチいうな。 >>984
>箸墓が3世紀中頃で桜井茶臼山が三世紀後半だ
じゃ箸墓の建造開始は何年だ? 高天原は上町台地だよ
押し照るなにわ、芦が散るなにわ
天の安河原は滋賀の野洲川
天の八衢は堺
芦が散るなにわ あしびきの山
玉鉾の道 >>984
>箸墓が3世紀中頃で桜井茶臼山が三世紀後半だ
所在が分かる近世の天皇陵で、平地に盛り土した陵墓など一切存在しない。
よって、平地に盛り土した「前方後円墳」の箸墓古墳は、大王の陵墓では有り得ない。 @阿波 >>988
>高天原は上町台地だよ
「天岩戸立岩神社」 ご祭神「志那都比古神」「志那都比売神」(二神は風の神)「弥都波女神」(水の神)の三神や、
「天岩戸別神社」 ご祭神「手力男神」が祀られていないところに、「高天原」がある訳がない。 控えおれ! @阿波 >>990
>古今和歌集にも歌われた高天原です、残念。
「天岩戸立岩神社」 ご祭神「志那都比古神」「志那都比売神」(二神は風の神)「弥都波女神」(水の神)の三神や、
「天岩戸別神社」 ご祭神「手力男神」を祀りもしないところに、「高天原」がある訳がない。 控えおれ! @阿波 >>986
>じゃ箸墓の建造開始は何年だ?
だから3世紀中頃 >>991
>芦原中津国、狗奴国の話かもねえ
高千穂は天降(あまくだ)った所。 少なくとも高い山地(阿蘇高千穂)ではなく、麓・平地にある。
そして、豊かに稲や稗などが稔るところを指す。
高天原=四国山地(神山・木屋平村)
高千穂=大吉野川の中・下流域(徳島平野) @阿波 >>994
>だから3世紀中頃
抽象的すぎる、具体的に言ってくれ。
建造開始が卑弥呼の248年の死後すぐなのか、
それともその何年前か、
はっきりしてくれ。 箸墓建造開始が卑弥呼の248年の死後から始めたら、
完成まで10年間、女王の御遺体を殯に服してたというアホなことになる。
なら240年ごろから建造開始としても、卑弥呼が70歳くらいから墓の建造を始めたというアホな話になる。
じゃ200年ごろから始めたというなら、布留0式古相が200年というアホな年代になる。
どう転がっても卑弥呼墓=箸墓説はアホなことになるw 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/l50
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