邪馬台国畿内説 Part738
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1636684218/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 テンノウとか、〜みたいなカミタマとか、まさか・・・家の話?
「そうだ」という謎のレス(返事みたいな意味)をしてきた人もいるし。 >>168
>九州王朝は滅亡たわけじゃなかったんだね!安心したw
滅亡したのは九州王朝説だった >>168
天智の九州王朝(漢委奴国王・帥升・卑弥呼・台与・讃珍興斎武)は中国皇帝に冊封され、阿毎多利思比孤は煬帝に気安く「日出処天子」を名乗ってしまったからね
いわば、目の上のたん瘤ならぬ、菅前総理の目の下のシミ(汚点)のようなもので、天武にしてみれば、ぜひとも消したい過去だったわけw
継体の大王宮(樟葉・筒城・弟国)すら何にも出てこない古墳時代の畿内は、九州王朝の奥津城(王家の谷)だったということ 『七夕 王母』
庭があって〜とか、ほとんど同じ話(老婆談)をしていた、
なんで知っているんだろう。 >>173
つまり記紀が消したのは、九州王朝(漢委奴国王・帥升・卑弥呼・台与・讃珍興斎武・阿毎多利思比孤の10王)だったんだよ >>177
記紀の編集目的は、九州王朝(漢委奴国王〜卑弥呼〜倭の五王〜阿毎多利思比孤)の存在を消すこと
>>178
神武天皇がBC660に三種の神器を以って即位というトンデモw >>120
そんな説明でおまえの言ってる事を読みとるなんて出来るわけねえじゃん
別の言葉使ってるケースもあるし又の無い投馬国は何故不弥国からなのか ほとんど合致。
『天王』(天皇)と同じ。
天王宮 〜院、そういう家もあったり、
出家したりした家? >>142
ほら、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に関する反論が出来ずに、
ただ罵しるだけの嘘つき詐欺師の大和説者。 >>116
そんな説明でおまえの言ってる事を読みとるなんて出来るわけねえじゃん
別の言葉使ってるケースもあるし又の無い投馬国は何故不弥国からなのか
ごめん>>181はレス番間違えた 当時の嫁(嫁の家?)も、
浄土〜みたいなのをやっていたとか。
母親が言うには、そういう話を聞いたことがあるとか。
養蚕、機織りをしていたり。 山王(〜山王院)?、
嫁(嫁の家)が浄土〜みたいな家だった・・・。
山の上のほうに住んでいたという話もしていたし、
山王? >>179
記紀の編集目的は「九州王朝(単に倭王権が北部九州にあったというだけ)」が中国皇帝の親書に平伏投擲し、臣下の礼を取っていたことを消すことだから誤解を招く(倭王武の上表文)。
「九州(にあった倭)王朝」は天智の代で大和に東遷(亡命)するのだが、世情不穏な大陸半島の影響を減らすために、大和には継体の三男欽明が分家して、新副都として再開発していた(推古の難波大道、四天王寺、法隆寺、飛鳥板蓋宮、孝明の狂心の渠)。
そして「九州(にあった倭)王朝」は大和分家に系譜を統合することで、中国皇帝への土下座外交を消したということ。
これに惑わされていると、畿内説のような記紀に便乗オレオレ詐欺が跳梁跋扈しだしたわけ。 >>188
神武天皇がBC660年に三種の神器(鉄剣w勾玉・鏡)で橿原神宮で即位は?w >>187
そんなややこしい事想像するより最初から近畿にあったと考えれば良い訳で >>189
まさに記紀の思惑通り、国民洗脳・畿内説!w >>143
要するに大和説者らは、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説みたいなもんが、
いつまでも続いていたと、
文献考古の歴史学全体を否定したいわけか? >>187
古代史マニアには、九州王朝=古田武彦 だから拒絶反応があるんだろうけど、ただ単に「白村江まで倭王権は北部九州卯にありました。古墳時代の畿内は王家の谷(霊園)でした」ってだけの話だから誤解を招く。。。 >>189が馬鹿すぎる
自分の脳内にしか居ない妄想の畿内説と戦ってるキウス並みの馬鹿か、或いは本人 >>190
つまり史実は当時の激動の東アジア政治情勢のせいで凄くヤヤコシイ(面倒くさい)から、そう考えた方が簡単で良い(スマート)っていうんで、記紀の思う壺にハマるようになってる訳 >>200
>おまえが読んでいないのだ。
で、キウスが何と何が矛盾してるのか
まだ言えないってことは
テンプレには矛盾なんて無いってことだね >>206
キウスのパターンなんだよ
矛盾してるーっと何度も叫ぶことは出来るが、何と何が矛盾するかは決して言えない
異なる単位が使われているから間違いだーっと何度も叫ぶことは出来るが、
テンプレのどこに異なる単位が使われているかは決して言えない
それは実在しないからだよ
妄想だから出せないのさ テンノウとか、〜とか、後付け。
そういう家、人物が来たんだろう? 日神(日霊)を降ろし〜、
このとき、はじめて・・・みたいな説明w
「」この家、同じ家『天財若子』なんとか日子。 >>160
つまり「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをして、
中高の教科書に載っているような「虚偽の日本史」を絶対に守ろうとするトンデモ説
それが今の大和説学者らの平均的な立ち位置です >>167
それ、デマ
同時代の魏の役人らによる、
実地での見聞計測の記録を元にした魏志倭人伝に書いてあることと違う
「大和説の大半」はデマで出来てます
残り僅かは無知による誤解 >>203
中国皇帝への土下座外交を消したとしても九州にあっても近畿にあってもどっちでもいい訳で
わざわざ根拠のない想像を膨らませて九州にする必要もない みんな難しく考えすぎなんだよ
バカでかい墓がある→大阪で良いんだよ >>222
それならそれで良い訳よw
北部九州に都があったって、河内に都があったって、倭の五王が河内に葬られたことは間違いないんだからw >>225
問題は、そんな都が見つからない事と
そんな遠くに墓を作ったとか有り得ないことね >>222
>中国皇帝への土下座外交を消したとしても
「中国皇帝への土下座外交」という事そのものがない。
>九州にあっても近畿にあってもどっちでもいい訳で
いや、倭國の中心は九州であった。
わざわざ根拠のない想像を膨らませて近畿にする必要もない >>224
みんな難しく考えすぎなんだよ
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って→九州で良いんだよ >>225
それならそれで良い訳よ
北部九州に倭の五王の都があって、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓が河内にあって葬られたってことには、
間違いないんだから >>226
問題は、河内にも大和にも、そんな倭の五王の存在が見つからない事と
そんな遠くに墓を作ったとか有り得ないことね 何度も教えてやったのにもう忘れたのか?
邪馬台国関連情報をしっかり読めば、畿内の「キ」の字も出てこないんだよ。
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D南には敵対する狗奴国がある
E東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
魏志倭人伝の水行行程の部分は、朝貢に来た倭人の説明を書き写したものであり、出発点は帯方郡。
地図:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
帯方郡から邪馬台国までの距離が12000里である。
参考)
・半島まで倭人が鉄をとりに来ていた(魏志韓伝)
・倭人は里を知らず日を使って距離をしめした(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文) >>234
>・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
これ使ったらダメって教えてもらってないのか? 中国側が嘘を書く理由がないから、日本古代史には以下の2つの定点がある
−3世紀筑紫邪馬台国卑弥呼
根拠:「其南有狗奴国・狗古智卑狗(菊地彦)」「女王国渡海千里複有国(本州)又有侏儒国(四国)其南。去女王(之所都)四千里」
−7世紀倭王阿毎多利思比孤
根拠:阿蘇山麓で愛妾600人(畿内は推古と摂政厩皇子)
よって5世紀「倭の五王」も筑紫にいただろうことが判明!
ここで興味深いのが応神の宇佐八幡宮。おそらくここが倭の五王の生前の王宮だったと思われる。瀬戸内海経由で畿内を行ったり来たりしていたのだろう(即位式や寿陵視察)。 >>236
>根拠:阿蘇山麓で愛妾600人(畿内は推古と摂政厩皇子)
それが空想だから根拠ナシ >>236
中国側が嘘を書く理由はないけど陳寿がいい加減な事を書いた可能性はあるんだよ
侏儒国など無い >>236
「有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」
阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、王は祈祷祭する
「王妻號雞彌、後宮有女六七百人、名太子爲利歌彌多弗利」
王の妻は雞彌、後宮に600-700人の女性がおり、太子の名は利歌彌多弗利という 裸国・黒歯国もあったとしても水行1年なんて日本じゃないけど
そんな事にも気付かずに陳寿はそのまま書き写したんだよ >>239
>「有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」
>阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、王は祈祷祭する
それ、都の近くとか全く書いてないし、王との面会記事でもない
「王は祈祷する」は捏造 >>239
>王の妻は雞彌、後宮に600-700人の女性がおり、太子の名は利歌彌多弗利という
愛妾とか、どこにも書いてないし
推古天皇は後宮に住んでる >>239
「阿蘇の神よ、鎮まりまり給え!」なんて祈祷するのは、普通、民を束ねている王だろうねw >>239
600〜700人の女性は付き人を含めた愛妾だらろうね
多利思比孤には、妻がいて皇太子がいるわけだからw、推古と甥(厩皇子)じゃないってことだろう、常識で考えればw >>127
日本海航路の>>1のテンプレの記述
テンプレ
◆5寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、
潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
FAQ31瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
VS
FAQ51 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられる
@@@@@日本海ルートは機能低下してたのか?してなかったかのが?_同じテンプレで相反する主張が存在し一貫性が無いと言う事 >>245
阿蘇が噴火しても近畿は困ってないんだが >>235
>・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
これ使ったらダメって教えてもらってないのか?
いや、後代史書の記述は、
「後代での自己解釈に拠る書き変え部分が存在する」から、
半分偽書である、と言っているのであり、
当然、全部を否定抹殺するのではなく、
正しい記載もある、という事だよ。
これは、8世紀の記紀の記載の中には、
卑弥呼や倭國の存在の、大量の隠蔽盗用造作があったとしても、
一部には、九州倭國の歴史の事実や、大和政権の実態の記載も含まれている、
という事と同じ。 >>248
畿内からリモートで阿蘇山祈祷かw
ヤマト王権の誰にも比定できない多利思比孤・妻・皇太子、オレオレ詐欺の本領発揮!w >>250
おまえバカだろ
困ってないんだから祈祷なんかしないよ >>1
早く、日本海航路が機能してたのかどうかテンプレの一貫性をもった方が良い。
それとも海水準低下は日本海のある地点から、無くなったとでも。
簡単な事言ってるのだけなのに逃げまくるのは良くない。 >>245
>「阿蘇の神よ、鎮まりまり給え!」なんて祈祷するのは、普通、民を束ねている王だろうねw
史料にひとことも書いてないことをそんな想像で勝手に書き加えたら捏造に当たるなあ >>246
>多利思比孤には、妻がいて皇太子がいるわけだからw、
そんなこと隋書には、ひとことも書いてないし >>253
おそらく祈祷してたと思うよ
阿蘇の周辺に住んでる土人たちが >>248
>阿蘇が噴火しても近畿は困ってないんだが
困った地元民がお祭りするのは自由だが? >>252
>早く、日本海航路が機能してたのかどうかテンプレの一貫性をもった方が良い。
一貫性あるから問題なし >>247
>@@@@@日本海ルートは機能低下してたのか?してなかったかのが?_同じテンプレで相反する主張が存在し一貫性が無いと言う事
矛盾を全く指摘できないキウスまた負け また畿内説のオレオレ詐欺がキレてしまったようだwww
詐欺師失格だぞw >>260
そうやって罵しるだけの投稿するから九州説が論破されたことが一目瞭然だ >>252
>簡単な事言ってるのだけなのに逃げまくるのは良くない。
これがキウスの特徴
矛盾してるーっと何度も叫ぶことは出来るが、何と何が矛盾するかは決して言えない
異なる単位が使われているから間違いだーっと何度も叫ぶことは出来るが、
テンプレのどこに異なる単位が使われているかは決して言えない
具体的な中身ナシ >>238
>中国側が嘘を書く理由はないけど陳寿がいい加減な事を書いた可能性はあるんだよ
侏儒国など無い
いや、魏志倭人伝は、
陳寿は倭地までは来ておらず、だから情報がなければ倭地の事を書ける筈もなく、
同時代の魏の役人らの実地での見聞計測の記録を元にして書かれており、
侏儒國も当然、魏の役人らの実地での見聞記録でしか有り得ず、
だから、「陳寿がいい加減な事を書いた」という事は99%以上有り得ないのですよ。 >>263
侏儒国も裸国も黒歯国も別の資料を書き写してるんだろうし魏の時代かわからんな >>263
>同時代の魏の役人らの実地での見聞計測の記録を元にして書かれており、
そもそも、それが根拠なし >>262
というか、何と何が矛盾するのかと問われて答えられないキウスが逃げまくりの人でしょ >>244
>>王の妻は雞彌、後宮に600-700人の女性がおり、太子の名は利歌彌多弗利という
>愛妾とか、どこにも書いてないし
勿論愛妾などとは、どこにも書いていないが。
>推古天皇は後宮に住んでる
どこの後宮なのか?は知らんが、
(松野氏)姫氏系図では、推古の宮の呼称を使った「小治田朝」の存在の記載があり、
推古が筑紫にいた、という事になる。 >>247
>テンプレ
◆5寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、
潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
FAQ31瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
VS
FAQ51 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられる
@@@@@日本海ルートは機能低下してたのか?してなかったかのが?_同じテンプレで相反する主張が存在し、
一貫性が無いと言う事
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