邪馬台国畿内説 Part763
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1643901265/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 当時の倭人伝を書く著者が正しく書く義務は無かったからだろ
天竺へ行く道筋を書いた当時の著書と同じような物だ。 これは重要
そうなると伊都の東南500里にヤマイ、ヤマカ国があり傍らにシマ国がある、という文。
これはまさに出雲と大和の位置関係まんまだからな。
孝霊天皇ならヤマトから出雲に関する逸話が非常に多い。つまり本来廣志の伊都とは出雲の事だという考察。
魏志倭人伝の事ではないからな。 >>845
考古学的にはどう考えても九州は無理だ
倭国大乱以後どう考えても九州出土中国鏡激減九州に畿内の土器流入前方後円墳誕生は九州説では説明できん 二世紀以降の考古学の流れでは全く説明出来ないのが九州説だからな。 三角縁神獣鏡は国産としても出土した三角縁神獣鏡以外の紀年銘鏡も九州からは一枚もでてないというのは九州説にはかなり厳しい 三角縁神獣鏡は国産の物が出れば出るほど畿内説には有力になる物なのにね。
大陸側の神仙思想を体現しているのが神獣鏡なのに。
未だに国産説だと畿内説不利、なんて発言している人見るのはちょっと信じられない。
黒塚古墳で大量に出た時点で、もう勝負はついと面白いますね。
私はずっと国産説の立場だったのでよく叩かれていましたが。 倭国大乱からドラスティックに勢力図が変わったんだろうな >>911
あれが国産だとしたら
中国から継続的に新意匠が畿内に伝わったことになるからね 卑弥呼が、畿内であるってのが一番厄介なんですよ。これから先を説明するのが、どうすんのかしら、まあここは、卑弥呼の居場所だから、箸墓がひみこです。で、一歩でしゃばると張h瑛です。 申し訳ない、僕説的には、卑弥呼は中国人なんですよ。色々問題を含んでいますからね。 廣志の伊都=出雲説で解釈を進めると、本当に面白いように畿内説でピッタリ嵌まるんですよね。
今までは散文しか無いのであまり気にとめなかったけど。
孝霊天皇が中国、出雲地方に出向いて戦うのはまさに倭国大乱そのものです。
傍ら国のシマ国が河内国分辺りの芝山集落を示す理由は、元伊勢であるヒルメ山(明神山)がこの場所にあるのも理由の一つです。
巳百支国が三輪山辺りではないか?というのも 遺跡の点でも疑問を挟む余地はないですね。
戸数が記述にないので国の規模が測れないのが残念ですが。
ちなみに巻向周辺も芝の地名のある場所ではあります。 また芝山の周辺には現在の鳥取の名前の由来である、古代に鳥取集落があった場所でもあります。
ここでも出雲との結びつきが感じられますね。
芝山の由来が元々川の中の島から来てるのは、先に述べたとおりになります。 うん、有り難うございます、中華のほうで勘違いが起きていた可能性が高いというですね。で、記紀比定者は百襲姫と、記紀の通りですね。ここからは、畿内説色々分かれる所ですね。 九州説では弥生時代後期の出雲、丹波の遺跡群の解釈が上手く出来ない点を疑問に思ってましたからね。
何の事はなく、廣志の伊都は出雲の事で解決です。そうなると丹波籠神社には半島に渡って王になった者の伝承や
百襲姫が日女命と記されていた系図が残っていたこと、鏡も伝わっていた事も説明はつきますね。
そもそも丹波の名前の由来も丹からです。 すると次は狗奴国ですね、ここは阿波先生に諦めていただいて四国の可能性があるのか?聴いてみます。阿波先生いますか! >>848
>今の常識で普通に考えるならね、九州説になるのも別におかしくはない。
でも古い伝承や資料を見てる者からすれば、今の九州説の理論は明らかに変です。矛盾が極めて多いんですよ。
よく中国人学者に読ませたら九州だった、なんて説もダメですよ。
彼等は日本の古い伝承や地名、由来を知りませんからね。全く無意味な話です。
ダメです。
3世紀の同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録が元になっている魏志倭人伝が、
最も確率が高いのであり、
8世紀になって初めて西日本の統一政権になった大和の記紀や、
風土記や社寺伝承などでは、3世紀の実態の根拠には全くなりません。 >>851
>いやいや、何れにしろ終着点は箸墓ですよ。
やがて河内にあんなデカイ物が出来たことは確実で、大仙で終るでしょ
いやいや、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態によっても大和説はバツであり、
大和説者らの箸墓の年代推定は、「AMS法のプラズマ化の失敗」に拠拠って、
「50〜100年位古い年代が計測されて」おり、
実際には4世紀前半頃の墓。 >>865
>そうなのか、それは悪かったな。
俺はエンジニアだから歴史とは真逆なんで許してほしいところだが、
じゃあ魏志倭人伝は「至」と「到」を使い分けてる説はどうなんだ?
「到」は「至り立つ」という文字形だから、「ようやく到着出来た」というような意味。
狗邪韓國は、「ようやく倭地の入り口の国に到着出来た」というような意味であり、
伊都国は、「一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國」や、
「皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯」の、
重要國にようやく到着出来た、という意味で「到」を使った。 >>905
>これは重要
そうなると伊都の東南500里にヤマイ、ヤマカ国があり傍らにシマ国がある、という文。
これはまさに出雲と大和の位置関係まんまだからな。
孝霊天皇ならヤマトから出雲に関する逸話が非常に多い。つまり本来廣志の伊都とは出雲の事だという考察。
魏志倭人伝の事ではないからな。
翰苑自体がはるか後代の7世紀頃の、
「書き変えが非常の多い半分バツ書」であるから、
根拠にはならない文書。 >>909
>二世紀以降の考古学の流れでは全く説明出来ないのが九州説だからな。
大和説学者らの「大和の年代」比定は、
「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「ベータ崩壊が、AMS法のプラズマ化の失敗により50〜100年位古い年次を計測していた」
などのインチキ騙しであったからな。 >>910
>三角縁神獣鏡は国産としても出土した三角縁神獣鏡以外の紀年銘鏡も九州からは一枚もでてないというのは九州説にはかなり厳しい
この男も、根本的に、史料事実や史料実態が全く理解出来ないアホ男。
列島の三角縁神獣鏡(△と略す)は、
魏の楽浪帯方攻撃戦争で、身の危険を感じた呉系楽浪鏡師らが、
馬韓の不彌國の縁故で列島に避難流浪して来て、
列島で倭人のために△を大量に造り、
更に各のの鏡造り神社で、在地の子弟の教えて、
500枚以上の大量のやや粗悪な△を含めて、造らせたもの。 >>926
>翰苑自体がはるか後代の7世紀頃の、
「書き変えが非常の多い半分バツ書」であるから、
根拠にはならない文書。
つまり廣志の記述は九州説でも参考に出来ないという事になりますよ?
北部九州、伊都の南側に邪馬台国を隣接させる説はダメという事になります。 >>929
神仙思想を体現している神獣鏡は九州発祥ではないですから。
まあ畿内と大陸側にパイプがあった事は、弥生時代中期の時点で鏡や貨泉の出土を見ても、考古学的にはもはや否定はどう解釈しても無理です。 また荒らしか、やっぱ九州説には相当都合が悪いみたいだねw >>918
>廣志の伊都=出雲説で解釈を進めると、本当に面白いように畿内説でピッタリ嵌まるんですよね。
今までは散文しか無いのであまり気にとめなかったけど。
孝霊天皇が中国、出雲地方に出向いて戦うのはまさに倭国大乱そのものです。
傍ら国のシマ国が河内国分辺りの芝山集落を示す理由は、元伊勢であるヒルメ山(明神山)がこの場所にあるのも理由の一つです。
巳百支国が三輪山辺りではないか?というのも 遺跡の点でも疑問を挟む余地はないですね。
戸数が記述にないので国の規模が測れないのが残念ですが。
ちなみに巻向周辺も芝の地名のある場所ではあります。
また芝山の周辺には現在の鳥取の名前の由来である、古代に鳥取集落があった場所でもあります。
ここでも出雲との結びつきが感じられますね。
芝山の由来が元々川の中の島から来てるのは、先に述べたとおりになります。
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツです。 >>919
>うん、有り難うございます、中華のほうで勘違いが起きていた可能性が高いというですね。で、記紀比定者は百襲姫と、記紀の通りですね。ここからは、畿内説色々分かれる所ですね
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツだし、
「畿内」なんてまだまだ存在もしなかった嘘つき騙し文言ですから、
それもオレオレ詐欺師です。 >>947
全く何の反論にもなってないのだが?
やっぱり君が色々荒らし回ってるとしか思えないので以後レスはしません。 >>920
>九州説では弥生時代後期の出雲、丹波の遺跡群の解釈が上手く出来ない点を疑問に思ってましたからね。
何の事はなく、廣志の伊都は出雲の事で解決です。そうなると丹波籠神社には半島に渡って王になった者の伝承や
百襲姫が日女命と記されていた系図が残っていたこと、鏡も伝わっていた事も説明はつきますね。
そもそも丹波の名前の由来も丹からです
九州倭國の東征毛人五十五國の別動隊の征服地、という事で説明が付きますから、
この人もオレオレ詐欺のバツ男です 邪馬台国は九州にあり、畿内にはヤマト王権があった。
邪馬台国とヤマト王権は無関係である。
質問があるなら答えるけど? >>930
>>翰苑自体がはるか後代の7世紀頃の、「書き変えが非常の多い半分バツ書」であるから、
根拠にはならない文書。
>つまり廣志の記述は九州説でも参考に出来ないという事になりますよ?
いえ、倭人伝と一致している「半分」の部分は参考にさせて貰います。
>北部九州、伊都の南側に邪馬台国を隣接させる説はダメという事になります
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言を使う「孝霊」は、オレオレ詐欺師であるし、
邪馬壹國女王之所都は、ほぼ九州北岸の不彌國の南の、
「福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地」付近であり、
孝霊男が嘘吐き騙しのオレオレ詐欺師であった、という事になります。 >>931
>神仙思想を体現している神獣鏡は九州発祥ではないですから。
神獣鏡自体が、呉付近で盛行していた鏡であり、
列島の△は、魏の楽浪帯方攻撃戦争で身の危険を感じた呉系の楽浪鏡師らが、
「吏人や母人」も引き連れて、列島へ避難逃避して来て、
500枚以上の△などの鏡造りや塗装に関与したもの。
まあ畿内と大陸側にパイプがあった事は、弥生時代中期の時点で鏡や貨泉の出土を見ても、考古学的にはもはや否定はどう解釈しても無理です。 手動でスレ荒らしながら書き込みしてるのか?
暇な奴もいるもんだね。
せめてまともな内容ならいいのだが。
伊都が出雲で東南部にヤマイ、ヤマトならまさに日本側の地理関係の認識にもピッタリだからな。
しかもこれは孝霊天皇の行動範囲ともピッタリ合致してるのが、倭国大乱の倭王が孝霊天皇の証拠だろうね。
孝霊天皇の諱は桓帝、霊帝から採られてるのも間違いないだろう。まさに倭国大乱の時代だからな。
その娘が百襲姫、つまり日女命こと卑弥呼で確定だね。 ×おじさん粘り腰ですね。冷静に受け入れる柔軟性が欲しいですね。前方後円墳の拡大化は確実に大仙迄あり目の前に残っているんですよ。誰かが、しかもいままでと違う考えを持った者が1人ではつくれません、集団が生まれたんですよ。陳寿は鬼道、道の蔑称、老子道徳経の連中が纏まらず混乱している倭の国々を纏め、その頂点にたったのが女王張h瑛です。わかりましたか? 倭人の都、北部九州の糸島はまさに伊都の島、出雲勢力のシマだったんだよ、結局ね。 >>949
以前の孝霊とも全く変わっておらず、
やっぱり「南→東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの君が、
未だにまだ、色々荒らし回ってるとしか思えず、
国民が騙されてはいけませんので、
これからも出来るだけ批判投稿をさせていただきます。 ちなみに廣志について出てくる各傍国の名前についてもほぼ見当がついた。
勿論弥生時代後期の遺跡と旧地名や人の流れも考慮してある。
九州説のような現在の地名でパズルするような情けない話ではない。 批判じゃなくてあの時代を説明していただければいいんですよ、大体こうであったんだろうなぁって。 専門家じゃないので、傍らはさっぱりわかりません、宜しくお願いいたします。 >>951
>邪馬台国は九州にあり、畿内にはヤマト王権があった。
邪馬台国とヤマト王権は無関係である。質問があるなら答えるけど?
いえ、邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
君らはオレオレ詐欺師であり、
大和政権は、九州倭國の東征毛人五十五國の中の別種の旧小国の扶養國の一つであったのであり、
九州の東海姫氏國から政権を奪って天皇を称した「阿毎氏の磐井」を倒して、
九州倭國の執政や太宰や将軍や秦王國になり、
唐の武徳中に投に独立国として認められ、
九州倭國の白村江での大敗の後、天智が「称制」をして倭地をまとめ、
天武(サチヤマ?)が、天智の息子の大友を倒して西日本をまとめ、
九州倭國を諦めて、大和日本国が九州倭國を併合吸収継承する事にした。 倭人伝との記述内容の混乱は、複数資料によるものとしか考えられないのは説を問わない共通項のはずですね。
伊都の場所が複数あったのは、硯が北部九州の他に出雲地方でも出てる点で拠点があったのは確実でしょう。 >>963
百襲姫と卑弥呼全然似てないだろ。
卑弥呼は女王で百襲姫はただの皇族にすぎないだろ、無理やりすぎだぞ
じゃあ台与は誰なのか答えろ
それから三角縁神獣鏡はなんで中国で出ないんだ?
なんで100枚貰ったはずなのに500枚以上出てくるのだ? 百襲姫には日女命、神大市姫という名前がある時点で只の皇女ではないのはいうまでもない。
箸墓の規模にしても普通の天皇の規模より大きいんだしな。
それに日本書紀なんて卑弥呼の存在を隠したいのは、欠史の扱いを見てもバレバレだろう。
それまでの帝記は焼かれたんだし。 三角縁神獣鏡なんて国産なんだからな、500じゃなく1000枚、5000枚出ても全然大丈夫だよ。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。