邪馬台国畿内説 Part765
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1644243106/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 大和王権は、
糸島付近の委奴國(倭奴國)の(一大率の伊都国系の天孫族の)阿毎氏らの、
(九州倭國の)東征毛人五十五國の中の、
別種の旧小国の一つであったのである。
そして、北部九州では
呉王夫差の遺民の(火の国山門に渡来した)姫氏の分家が、
一旦委奴の地の(後の漢委奴國王の)倭奴國に合流し、
更に倭國亂の後、その分家から卑弥呼を輩出して筑紫付近の邪馬壹國に女王之所都し、
壹與は肥前(佐賀付近)に所都したらしく、
更に、317年頃に「こうやの宮〜久留米付近」に遷宮して、
更に倭の五王を輩出して「東海姫氏國」として栄えたが、
糸島の阿毎氏系の磐井が、517年頃に倭國王権を奪って、天皇を称して継体を建元したが、
しかし、535年頃に大和王権のヲホド継体が、磐井を倒して、
糟屋の屯倉や那の津を確保して、
その後、九州倭國の執政や将軍や太宰や秦王國などになり、
タリシホコの頃には兄弟執政の弟のような「俀國(倭國)内のNo.2のような地位」にもなり、
欽明が梁に遣使し、欽明や推古は筑紫に「宮」を持ち、
用明が隋文帝に小野妹子を派遣して日本國を申請したが拒否され、
唐の武徳中になって、唐に「日本國」号を承認されて半独立国的になり、
難波に太宰府の分都になるような「両京制の条坊都市」を建設し、
九州倭國の白村江の戦いにも参加参戦し、
大敗後、天智が「称制」で倭國と日本國の両方を掌握して列島の支配者的地位になったが、
天智の後、(九州倭國系のサチヤマ?の)天武が天智の子供の大友を倒して、
九州倭國の事を諦めて、大和日本国が倭國を併合吸収継承した形にして、
701年の大宝元年の建元で、大和日本國が西日本の支配者になった。 >台与が誰か答えられないんか?
(松野氏)姫氏系図に拠れば、壹與は、
卑弥呼の3代位後の熊襲系呼称を持った「市鹿文」という女性です。
ちなみに、「松野氏姫氏系図」は、列島では、
漢委奴國王や帥升や卑弥呼や壹與や倭の五王らや、
東海姫氏國の最後の王であった「倭國王哲」らのお名前が載っている唯一の系図です。 ×おじさん,お早うございます。姫氏って紀元前500くらいの話でしょ、で小国は日本で、ひょっとしたら任那の小国日本じゃあないの、 こんな荒らしばかりして議論する能力のない九州説信者
終わってるな 恥を知らないというか、
↓こういう状況だから
都道府県別精神病床数
https://todo-ran.com/t/kiji/14415 それは九州説支持者に人間としておかしい人が多いのと関係あるとは思えないんだが 以前から考古学の世界で邪馬台国問題にあまり触れるな、と言われてたのは事実なんだ。
説明会で全く関係がなくても何でも邪馬台国問題にする、特にアマチュア歴史論をぶつけてくる人が多いんだよ。 しかし廣志の文章は短いけど見れば見る程興味深いね。伊都の位置は出雲でも亀岡か篠山辺りと見るのが正しいのかな。
亀岡は元々出雲大神宮の所在地だし、保津川には女王の土地開墾逸話なんてのもある。
ここにあるヤマイチ国とは現在の生駒東エリアを見るのが正解かな。椿井大塚古墳が木津川沿いなのも、山城の名前も説明出来そうだ。 ウザイな九州説のオッサンか爺サンは早く亡くなればいいな こんな荒らしばかりして議論する能力のない九州説信者
説としても人間としても終わってるな 何処から送信されているかとか
IPアドレスは割り出せるのにな
無駄な容量ばかり使いやがって このへんなのは九州説なのかねぇ?皇国さんもありますよね、
まあ、何れにしろ物的証拠として箸墓は存在し、記紀は百襲とする。卑弥呼とトヨは実在し、倭人伝は鬼道で30ヶ国を代表した女王である。鬼道とは、道、道即ち五斗米道老子道徳経。百襲は老子道徳経を引用され、意地悪く処刑される。
箸墓は女王卑弥呼以外にいない。 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。
おおみわじんじゃ(大神神社)にお参りに行こう 倭迹迹日百襲姫命:
「倭」が付いてるから倭国の姫で、つまり親魏倭王の卑弥呼だったんだー、
と宣った某論者がいたなー。 鬼道が道ということもあり他説は終了しました。また、曹操が張魯等を取り込んだ事に依り何晏王弼らが玄学を生むにいたると考えます。卑弥呼は易経も身に付けていたでしょう。歴史上の人物から比定者と言える者は、張魯の娘張h瑛しか存在しません。 畿内説です。ただここから先が、邪馬台国に触れるなという所に入っていくわけです。 そうか、邪馬台国に触れるな・・、か!
畿内説も少しは大人になってきたのだなww そもそも「馬」のつく国は、帯方郡下の馬韓族の先鋒工作部隊、
そこんところを踏まえれば、答えは自ずから見えてくる。
H田や、F田や、Y本や、I野や、T澤らがマズったのさ。 だから記紀に関わってくるだけの話ですよ。他説はありません、終了しました。 張h瑛 †
>五斗米道の教祖・張魯の娘で名が明らかになっている人物。出典は彼女自身の墓。
>ぶっちゃけると「名前しかわからない」と言っていいくらい生前の事跡は不明。
>つまり誰に嫁いだとかいう記録はないのだ。
21-22歳で死んだとして墓は残っているそうだが、
それにしては墓が立派過ぎる。
実は幼少のころ渡来して、鬼道の女王(卑弥呼)に担ぎ上げられたというウワサもある。 その墓は、晋代に建てられたとも言われているのよ。年頃は、ぴったりだしね、鬼道易経を学ぶ環境、荒廃したなかで人々を纏めるやり方も父或は他の指導者から学べるのよ。だから他に居ないの。百襲姫では師が曖昧で占い師じゃあ、お遊び。それに、曹叡が我甚哀汝とは言わないし親魏にも値しない。 乱世を治めるべく、曹操は鬼道に傾倒していたわけだから、
曹操の時代に開かれた帯方郡もその術法を用いていたことは大いにあり得る。
それに後継の臺与も宗女13歳とあり、これは「同宗の一女」という意味なので、やはり五斗米道の巫女だったのではないか・・、 でも、しかしながら記紀は百襲姫を老子道徳経、玄牝の門を塞いで死なせています。記紀編纂者は卑弥呼が何者か解って書いてあります。それが逆に百襲が卑弥呼であり、老子道徳経の巫女であったと証明しているんです。 >臺与も宗女13歳
そうだったのですか、これで3世紀の歴史はわかった
4世紀の畿内の歴史に詳しい方
4世紀について知っておられる事を教えて下さい(_ _;) 邪馬台国の事じゃなくて良いです 九州説の先生が昔ね、「邪馬台国は畿内でなければどこでもいい!」なんて言ってるからな。
私はこの発言で九州説を止めたんだからな。
四世紀の様子なら記紀の崇神天皇以降の記述が基本になるだろう。
倭姫命の話が台与の後の話になるだろうね。
女王から男王に切り替わる話。 >>358 孝霊厨
>私はこの発言で九州説を止めたんだからな。
だからって畿内説か? お前はその程度。 わははははは @阿波 三世紀当時の中国で鬼道といえば曹操お気に入りの五斗米道(ないし太平道)のこと
つまり「卑弥呼は鬼道に仕えよく衆を惑わす・・」ば、五斗米道の巫女だったという意味になる。
孝霊皇女なら、ピタリではないが、まずまず年代が合う。わかっててわざとモモソを箸墓に当てたのは容易に想像できる。 その先生の発言なんて相当昔だからな。
まだ発掘作業をバイトで手伝いしてた頃で発見物も少ない頃。
まあ今は畿内説で確定済み、阿波説?
20年前ならともかく、所詮は推測が大半でもはや何の興味もわかないよ。 他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 @阿波 張魯の娘の名は張h瑛(ちょう きえい)、「建安元年(196年)出生、建安十七年(217年)に死去、享年22」とあるなら卑弥呼とは少し年代が合わないんだよね。
まあ鬼道は道教で間違いはない。黄幢もらう意味理解出来るくらいだし。 道教の宮と考えるなら時期的にも場所も巻向辺りが最適なのは間違いないからな。
河を東に向かって行き、神仙の住む山という思想にピッタリ。
水銀朱の山があったり桃の種も沢山出てくるのは出来すぎな位だ。 >>364 孝霊厨
>道教の宮と考えるなら時期的にも場所も巻向辺りが最適なのは間違いないからな。
碌に人が住んで居ない寒村の纏向のはずなかろうがよ。 @阿波 阿波くんはまず磯城県を阿波に探さないとね。でなきゃ百襲姫が誕生出来ないよ。 旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり。 @阿波 畿内の河内辺りから桜井辺りまでが磯城なのは、神武伝承でも登場するエシキ、オトシキの兄弟がこの地で戦う逸話からも、
かなり古い地名なのは証明されているからな推測以前の話。
百襲姫はこの磯城県主の娘であるハエイロネと孝霊天皇の皇女で磯城郡田原本町に出生場所も宮比定も確認済み。
何より聖徳太子が飛鳥と斑鳩を通う太子の斜め道でさえ、孝霊天皇の宮の前を通る位だ。
東西南北が整備された奈良盆地でも、ここだけは斜め。 阿波先生、藤原真作を追うと途中で切れるんですよ、どうなってんですかねぇ、ところで阿波守の前は誰ですか?誰か居たんですか? h瑛の年頃は、年代ぴったりよ。239年が44歳。この頃の中華の皇后の寿命がこの歳位、年長大、ぴったりなのよ。ただ、22で死んでるんだけどね、歴史上比定者として彼女しか相応しいのがいないの、張魯の家系は美人だし、僕は曹操が死に張魯の長男らは解放され五斗米を続けるために山に向かったし、晋のときには紹興だったかで反乱まで起こし信者が後追ってるよね、h瑛は女でもあり国を出たんだろうと。で曹叡は、朝貢を忠孝と言ったのよ。忠義と孝行。辺境の蛮夷に孝行はないでしょ。 >>308
>このへんなのは九州説なのかねぇ?皇国さんもありますよね、
まあ、何れにしろ物的証拠として箸墓は存在し、記紀は百襲とする。卑弥呼とトヨは実在し、倭人伝は鬼道で30ヶ国を代表した女王である。鬼道とは、道、道即ち五斗米道老子道徳経。百襲は老子道徳経を引用され、意地悪く処刑される。
箸墓は女王卑弥呼以外にいない。
この変へんなのは、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定や、
二中歴の年代歴に拠って「天孫族の委奴國の阿毎氏系の神武即位元年は紀元前91年頃」などの、
箸墓はプラズマ化の失敗に拠って実際は4世紀前半」などの、
史料事実や史料実態が判らず、曲解捏造の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺師の
大和説者なのかねぇ?。
まあ、何れにしろ文献考古の史料実態による限り、大和は、
「九州倭國の東征毛人五十五國の別種倭種の旧小国の附庸國」であったのであり、
九州倭國の東海姫氏國から王位を奪って天皇を称して年号を開始した「磐井」を、
大和のヲホド継体が、反乱して、九州倭國のNo.2的な「弟」の地位になり、
九州倭國の白村江の大敗で、(日本國が認められた)大和の天智が「称制」して、
天武(サチヤマ?)が、天智の子供を倒して都を大和に移して、
701年に大宝元年を建元して大和が九州倭國を併合吸収継承して、
西日本を統括的支配する「日本國」になった。 >>372の訂正
>>308ではなく、>>304に対する投稿でした。 ×おじさん粘り腰ですね
。×おじさんの卑弥呼に親魏を与える理由を教えて下さい。 女王共立の時に実在したとすれば、h瑛10歳くらいの時に渡来したことになる。
倭にいちゃって帰ってこない・・、では隣近所の手前もあるし、若くして死んだことにしたんだろうねえ。
臺与の共立も13だったし、ありえない想定ではない。、 >>337~>>339
箸墓は(冢≠前方後円墳やプラズマ化の失敗に拠って)4世紀だし、
孝霊は(二中歴に拠って)紀元100年頃の大和政権王であり、
卑弥呼や壹與の頃の大和王は垂仁になるし、
いずれにしても、「大和政権は、九州倭國の東征毛人五十五國の別種分家の扶養国」であり、
この男らはバツだな。 それは違いますね、倭大乱(乱)が起きたのは、180年頃でしょ、h瑛はまだ本国です。共立が乱の時期なんて書いてありませんよ。隋書か旧唐書には、倭国乱れ主無しとなってます。180年共立じゃあ、239年卑弥呼は幾つですか?勘違いですよ。 >>340
>倭迹迹日百襲姫命:
「倭」が付いてるから倭国の姫で、つまり親魏倭王の卑弥呼だったんだー、
と宣った某論者がいたなー。
いえ大和王権は、九州倭國の東征毛人五十五國で出来た別種分家の倭種の、
地方の市を監督する大倭職の旧小国であり、
卑弥呼の頃の大和王は崇神になりますから、
「倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼」説はバツです 五斗米道は7歳になると教育がなされます。宗女台与は、6年は教育を受けていると考えています。 >>371
まあね、卑弥呼に誰が鬼道をもたらしたかという問題は興味深いからね。ただあまりに資料が少ないから想像の域を出ないのが辛い所。
神獣鏡が三世紀畿内までは到達しているので、どういう経緯で畿内まで来たのかがこれからの課題。
最新(数年前になるが)では奈良盆地西部上牧町、真美ケ丘辺りからも三世紀初頭の画文帯神獣が出てるしな。 >>354
「宗女」は宗教とは関係ない
同じ一族の女性という意味
「宗」は同族集団の先祖を敬う概念 しかし久し振りに日本史板覗いたが荒らしは酷いね。
廣志を再注目出来たのは本当に良かった。廣志の伊都は本来出雲の事で、ヤマイチ国との位置関係は解決したし。
元々龍田の祭神がシナツヒコな時点で、対大陸の拠点が信貴山にある事は判っていたが、
隣接しているシマ国が近つ飛鳥と気付けたのは収穫だった。 宗女台与で、丸く治まったということであり、その後確実に巨大前方後円墳が造られ、倭五大王が生まれて行くでしょ。倭人の占い師では、魏の歴史書に2000字を使いません、韓伝と同じ扱いの筈です、陳寿は残す必要があるから2000字を割いたのです。 >>381
だから、五斗米道の巫女のh瑛を卑弥呼と見れば、
同じ張魯一族の巫女が、宗女臺与に最もふさわしいことになるというわけ。 >>341
>鬼道が道ということもあり他説は終了しました。
また、曹操が張魯等を取り込んだ事に依り何晏王弼らが玄学を生むにいたると考えます。
卑弥呼は易経も身に付けていたでしょう。
歴史上の人物から比定者と言える者は、張魯の娘張h瑛しか存在しません。
可能性は1%位あるかも知れないが、
卑弥呼は、(松野氏)姫氏系図に拠れば、呉王夫差の遺民の姫氏の娘とされているが、
帝紀の記載でも「俾」が使われて、「卑や俾」が「姓」であったように使われており、
「狗奴國男王卑彌弓呼」の「卑」と同じ姓であるように書かれており、
「卑」氏は、元は中国の北部方面にいた氏族の「姓」である、という記載を見た事があり、
倭人傳の直後に書かれた、
評曰:史漢著朝鮮兩越東京撰錄西羗。魏世匈奴遂衰、更有烏丸鮮卑,爰及東夷使譯時通、記述隨事、豈常也哉!
という文からも、
「卑」の文字は鮮卑の「卑」である事や、
鮮卑は南朝から「紅毛碧眼の白豚」と蔑まれた記録がある事から、
アーリア系(イラン系)のヨーロッパ系白人部族が、胡人と同じように、
中国の北方(バイカル湖からアムール川を下って来て満州西部山地の部族であった可能性が高い。
そして、列島の日本海岸付近にも、
秋田美人や越などの「紅毛碧眼」部族の(3分の1位の)混在地域があり、
洲胡の済州島も「胡人の鮮卑部族の渡来國」であった可能性もあり、
卑弥呼らや卑彌弓呼は、呉王夫差の遺民の姫氏への「混血的」部族の出であった可能性が高く、
卑弥呼はその美貌から人気があって倭王に共立された、という可能性が高い。
>また、興味深いのは欠史8代の系譜ですね。
神武後裔の欠史八代は、当然、
九州倭國の東征毛人五十五國で出来た別種分家の倭種の旧小国で、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の地位であった。 >>352
>(張h瑛)その墓は、晋代に建てられたとも言われているのよ。年頃は、ぴったりだしね、
鬼道易経を学ぶ環境、荒廃したなかで人々を纏めるやり方も父或は他の指導者から学べるのよ。
だから他に居ないの。百襲姫では師が曖昧で占い師じゃあ、お遊び。
それに、曹叡が我甚哀汝とは言わないし親魏にも値しない。
「張h瑛」では、(卑弥呼とは)苗字が違うし、列島へ来る理由もありませんからね。 >>355
>でも、しかしながら記紀は百襲姫を老子道徳経、玄牝の門を塞いで死なせています。
記紀編纂者は卑弥呼が何者か解って書いてあります。
それが逆に百襲が卑弥呼であり、老子道徳経の巫女であったと証明しているんです
記紀は九州倭國や卑弥呼らの存在を全く否定している「殆ど偽書」であり、
卑弥呼の証拠には全くなりません。 >>358孝霊厨
>九州説の先生が昔ね、「邪馬台国は畿内でなければどこでもいい!」なんて言ってるからな。
私はこの発言で九州説を止めたんだからな。
「邪馬台国」も「畿内」も存在もしなかった嘘つき騙し文言であったから。
>四世紀の様子なら記紀の崇神天皇以降の記述が基本になるだろう。
倭姫命の話が台与の後の話になるだろうね。 女王から男王に切り替わる話。
いえ大和王権は、九州倭國の東征毛人五十五國で出来た別種分家の倭種の、
地方の市を監督する大倭職の旧小国であり、
卑弥呼の頃の大和王は垂仁(数回前の投稿には「崇神」と書いてしまっていたから訂正)になりますから、
「倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼」説はバツです 姉が、「夜麻登々母々曾毘売命」
弟が、四道将軍の一人 「大吉備津彦命」
式内社 阿波國名方郡 「天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 「日子刺肩別尊」・「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」・「神皇産霊尊」・「高皇産霊尊」
日子刺肩別尊の母である意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、
日子刺肩別尊は、その第二子。 @阿波 >>360
>三世紀当時の中国で鬼道といえば曹操お気に入りの五斗米道(ないし太平道)のこと
つまり「卑弥呼は鬼道に仕えよく衆を惑わす・・」ば、五斗米道の巫女だったという意味になる。
孝霊皇女なら、ピタリではないが、まずまず年代が合う。
わかっててわざとモモソを箸墓に当てたのは容易に想像できる。
平安末の二中歴年代歴の「二倍年歴は一倍年歴での569年間」という説明に拠れば、
神武即位元年の「ー660年」は紀元前91年頃になり、
孝霊は紀元100年頃になり、
だからモモソはせいぜい紀元150年頃までであり、
卑弥呼の「3世紀前半末まで」とは全く合わないから、
この男もバツ。 卑弥呼は、その美貌から人気になって倭王に共立された可能性が高い。
凄い引出しですね。 >>364孝霊厨
>道教の宮と考えるなら時期的にも場所も巻向辺りが最適なのは間違いないからな。
河を東に向かって行き、神仙の住む山という思想にピッタリ。
水銀朱の山があったり桃の種も沢山出てくるのは出来すぎな位だ
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」や、
「大和は九州倭國の東征毛人五十五國の別種分家の倭種の扶養国」などの、
史料事実や史料実態に拠って否定されるから、
孝霊はおそらく・・・・詐欺師のバツ人間だな。 >>378の訂正
>倭迹迹日百襲姫命:
「倭」が付いてるから倭国の姫で、つまり親魏倭王の卑弥呼だったんだー、
と宣った某論者がいたなー。
いえ大和王権は、九州倭國の東征毛人五十五國で出来た別種分家の倭種の、
地方の市を監督する大倭職の旧小国であり、
卑弥呼の頃の大和王は垂仁になりますから、
「倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼」説はバツです まあ見ず知らずの人を詐欺師扱い出来るような人物は、まともな思考力なんてないのは確かだろう。
九州説はこの20年何の進展も無かったしな、他説の批判のみ、それも難癖しか出来ていない。
ヤマイチなら畿内の生駒山東側、山背、山城と呼ばれる場所なのは確定。
倭人伝における様々な矛盾は、資料が複数による混同があるで解決だね。 >>379孝霊厨
>まあね、卑弥呼に誰が鬼道をもたらしたかという問題は興味深いからね。ただあまりに資料が少ないから想像の域を出ないのが辛い所。
神獣鏡が三世紀畿内までは到達しているので、どういう経緯で畿内まで来たのかがこれからの課題。
最新(数年前になるが)では奈良盆地西部上牧町、真美ケ丘辺りからも三世紀初頭の画文帯神獣が出てるしな
初期の徳島やホケノの画文帯神獣鏡は、楽浪系鏡であり、
ホケノは3世紀最末〜4世紀の墓だとほぼ決まっているから、
「真美ケ丘辺りからも三世紀初頭の画文帯神獣」というのが、そもそも疑問。
列島の画文帯神獣鏡も、明帝の下賜の銅鏡百枚ではなく、
魏の楽浪帯方攻撃戦争から列島へ避難して来た「呉系の楽浪鏡師」らの関与鏡であったんだろう、
とほぼ確定している。 また失敗
>>379孝霊厨
>まあね、卑弥呼に誰が鬼道をもたらしたかという問題は興味深いからね。ただあまりに資料が少ないから想像の域を出ないのが辛い所。
神獣鏡が三世紀畿内までは到達しているので、どういう経緯で畿内まで来たのかがこれからの課題。
最新(数年前になるが)では奈良盆地西部上牧町、真美ケ丘辺りからも三世紀初頭の画文帯神獣が出てるしな
初期の徳島やホケノの画文帯神獣鏡は、楽浪系鏡であり、
ホケノは3世紀最末〜4世紀の墓だとほぼ決まっているから、
「真美ケ丘辺りからも三世紀初頭の画文帯神獣」というのが、そもそも疑問。
列島の画文帯神獣鏡も、明帝の下賜の銅鏡百枚ではなく、
魏の楽浪帯方攻撃戦争から列島へ避難して来た「呉系の楽浪鏡師」らの関与鏡であったんだろう、
とほぼ確定している。
の「>>379孝霊厨」は「>>380孝霊厨」の間違い 生駒山東側がヤマイチ国だとすると往馬坐伊古麻都比古神社辺りも注目してもいいかもね。
ちなみに現在の地名も壱分。 また生駒と奈良市の間にある丸山古墳も注目したいよね。年代は三世紀後半にあたるので卑弥呼とは無関係だが、最大の円墳なのは興味深い。 中国語の「鬼」は霊魂のこと
目に見えるものではないが存在しているとしたもの いいえ違います。魏志の鬼は当時の中華が蔑称につけていただけです。五斗米道の信徒も鬼卒と呼んでいます。信者に鬼をつける道なぞありません。尚、宮内庁も解ってるじゃあないですか、天皇陵がちゃんと百襲姫を最初に前方後円墳に成ってますよ。当然、老子道徳経も理解しとりますね。 >>400
「鬼卒」は単なる信者ではなく治頭、大祭酒など道者に次ぐ祭官の名称 >>400
もう少し、まともな文章が書けねえのかい。中学生邪あるまいに。 >>397孝霊厨
>生駒山東側がヤマイチ国だとすると往馬坐伊古麻都比古神社辺りも注目してもいいかもね。
ちなみに現在の地名も壱分。
「〜だとすると・・・してもいいかもね」なんて仮定を積み重ねる論法は、
確率が二重に低下して、確率が殆ど0の詐術的宗教的な説法方法であり、
仏教の説法師やオームの麻原や皇国史観の似非学者らのような、
結論先にありきの宗教家が多用して来た論法。
世間の皆様、騙されて、殺人戦争をさせられないように、気を付けましょうね。 >>400
>いいえ違います。魏志の鬼は当時の中華が蔑称につけていただけです。
いや、卑弥呼への「鬼道」形容は、
魏の役人らの使用した、「中国での鬼道」に模した形容的な文言であり、
事実とは断定できません。
>五斗米道の信徒も鬼卒と呼んでいます。信者に鬼をつける道なぞありません。
尚、宮内庁も解ってるじゃあないですか、天皇陵がちゃんと百襲姫を最初に前方後円墳に成ってますよ。
それじゃ、宮内庁も同罪ですね。
大和で最も古い前方後円墳は、石塚などの3世紀末であり、
当然、卑弥呼の「冢」ではありませんから。
当然、老子道徳経も理解しとりますね> >>394孝霊厨
>まあ見ず知らずの人を詐欺師扱い出来るような人物は、まともな思考力なんてないのは確かだろう。
まあ、孝霊厨の論は、以前に何度も否定されて、どこかへ逃亡していて、
その事を知らん振りして、またこのスレに突然顔を出して来た、一種のオレオレ詐欺師であり、
まともな思考力なんてなく、犯罪者的なのは確かだろう。
大和説も、この50年位の間、何の進展も無かったしな、
他説の批判のみ、それも難癖しか出来ていない。
邪馬壹國なら、魏志倭人伝の史料批判に拠って、
福岡平野中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地、
と呼ばれる場所なのはほぼ確定。 >>405の訂正
>>400
>いいえ違います。魏志の鬼は当時の中華が蔑称につけていただけです。
いや、卑弥呼への「鬼道」形容は、
魏の役人らの使用したという可能性がある、
「中国での鬼道」に模した形容的な文言であり、
事実とは断定できません。
>五斗米道の信徒も鬼卒と呼んでいます。信者に鬼をつける道なぞありません。
尚、宮内庁も解ってるじゃあないですか、天皇陵がちゃんと百襲姫を最初に前方後円墳に成ってますよ。
それじゃ、宮内庁も同罪ですね。
大和で最も古い前方後円墳は、石塚などの3世紀末であり、
当然、卑弥呼の「冢」ではありませんから。 あなた方も賢い訳で、当時の中華では太平五斗米は脅威であり民間では禁止されてる状況にあったことは解った上で、言ってるでしょ。また、ふとしたことで気付かされることも有るわけですよ。ここで色々書き込まれた人の知恵を無駄にしてるのはあなた達だけです。 >>406
日本史板があまりに荒らしが酷いので、特に見る気になれなかったのは事実ですね。
まあ2年間は考古学意外の調査仕事が多忙だった事もありますが。
北部九州は邪馬台国の可能性が日本では一番可能性がない場所なのは、以前から指摘されている、戸数の問題があるからです。
奴国の他に投馬国に邪馬台国を比定するのは倭人伝を否定する以外にありませんから。
最近書かれていた九州説の方のいろんなレスを見て見ましたが、賛同出来るものは何一つありませんね。
唯一廣志の事を例に上げてヤマイチ国を説明された方がいましたが、それは逆に伊都は出雲と解釈する事で、更に畿内説で確信できましたよ。傍国も理解できましたからね。
シマ国は河内国分、信貴山辺りから近つ飛鳥です。 生駒は生馬、生馬寺が生駒にあったからね
ただの表記の問題
生駒、生馬は魏志倭人伝の伊支馬だろう
出雲風土記にある生馬神やね
火の神さまでしょう >>409
>北部九州は邪馬台国の可能性が日本では一番可能性がない場所なのは、以前から指摘されている、戸数の問題があるからです。
行程の問題もでしょ
明らかにもう通り過ぎてる場所だから >>409孝霊厨
>・・・北部九州は邪馬台国の可能性が日本では一番可能性がない場所なのは、
孝霊が全く学問的ではなくオレオレ詐欺的なのは、
「邪馬台国」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言を使って、
大和説を匂わす詐欺をしているから。これだけで、信頼性はほぼ0%。
>以前から指摘されている、戸数の問題があるからです。
奴国の他に投馬国に邪馬台国を比定するのは倭人伝を否定する以外にありませんから。
これも。相変わらずの粗雑なアホ論。
魏志倭人伝が「戸と家とを書き分けている史料事実」の説明が出来ない限り、アロなだけ。
魏朝では、「戸は(魏朝への)納税や兵役の義務を持つ単位」という数え方であり、
「家」は「魏の支配下ではなく納税や兵役の義務を持たない家族単位」という数え方。
従って、「1戸は大体1〜3人余り」位の人口になり、
国内人口学者らのような「1戸≒5人」なんて、嘘八百もいい所。
従って、邪馬壹國の「可七万戸」の人口は7万〜21万余り位にしかならないもの。
最近書かれていた大和説学者の方のいろんな論を見て見ましたが、
賛同出来るものは何一つありませんね。
唯一廣志の事を例に上げてヤマイチ国を説明された方がいましたが、
それは逆に廣志自体が、
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録や倭人伝の記録の信頼性を無視して、
後代の史家の自己解釈に拠って「同時代記録を勝手に書き換えた半分偽書」、
という価値しかない事が確認できましたからね。 >>412
>最近書かれていた大和説学者の方のいろんな論を見て見ましたが、賛同出来るものは何一つありませんね
最初から詐欺師呼ばわりして敵視してる人には、そうでしょうとも >>411
>北部九州は邪馬台国の可能性が日本では一番可能性がない場所なのは、以前から指摘されている、戸数の問題があるからです。
行程の問題もでしょ 明らかにもう通り過ぎてる場所だから
この大和説男らも、また国民を騙す詐欺最釈を書いている。
もう、何度も書いて来た事だが、
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の「可五千餘里」の計算においては、
古田さんの行程里数の計算と全く同じように、
魏の役人らによる侏儒國までの「陸路」参問里数と解釈出来、
400余×2+300×2+500+100+(4000余−1000余)≒5=00余(里)
にほぼピッタリ合っている。
という事は、對海國と一大國のそれぞれの「二辺」の海岸沿いの陸路を通った、という事になり、
それによって、郡から邪馬壹國女王之所都の里数の方を計算すると、
7000余+1000余+400余×2+1000余+300×2+1000余+500+100≒12000余(里)
にぴったりになり、
奴國と投馬國は行って計算にもなるから、魏使らは通っておらず、
不彌國〜邪馬壹國女王之所都の間の里数は記載されていないから、
双方の出口と入り口間の里数はほぼ0里(記載最低里数の百里の半分の50里以下位)、
である事になり、「ほぼくっついている」事になり、
不彌國は博多湾岸であるから、
邪馬壹國は「福岡平野中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地付近」になり、
女王之所都は、「福岡平野の南半分付近の弥生銀座付近」だという事になり、
古田解釈で全く正しかった事になった。 >>412
このスレを悪質ないたずらで執拗に攻撃しているのは九州説の誰か
九州説を名乗る人であれば自説について発言する前にスレ主にこの悪行についてまず詫びるべき
いたずら以降、九州説で嬉々として書き込んでいるのはこの人物のみ 他にはいない
いたずらを知らんぷりして図々しく書き込みを続けているのはいたずらの張本人だから
そればかりか混乱を意図して新たな荒唐無稽な説も書き込んでいる模様
こんな人物の行為をきちんと処分できなければ掲示板が破壊される
スレ主や掲示板の主催者に対応を求めたいところ >>412
>従って、「1戸は大体1〜3人余り」位の人口になり、
>国内人口学者らのような「1戸≒5人」なんて、嘘八百もいい所。
>>415
現代ですら、確定人口はなかなかつかめない。
なのに三世紀の戸当り・家当り人数を適当に推定して総人口をはじき出し、
九州では収容できない・・、だから西日本全体の人口だー、などと確定的な口ぶりで結論するのは、
単なる推定・推測も基にしていかにももっともらしく振る舞う詐欺師の口上・手口である。畿内論者は猛省すべきだ。 >>413
>>最近書かれていた大和説学者の方のいろんな論を見て見ましたが、
賛同出来るものは何一つありませんね
>最初から詐欺師呼ばわりして敵視してる人には、そうでしょうとも
いや、「敵視」なんてしていない。
大和政権は、九州倭國の、
委奴の地の伊都国系の「阿毎氏」の「東征毛人五十五國」の別種分家の倭種の、
地方の市を監督する大倭職の旧小国の「倭國の部下の国」であったのであり、
卑弥呼や倭の五王らの「東海姫氏國」から権力を奪った「阿毎氏の磐井」を、
大和のヲホド継体が倒して、大和が九州倭國のNo.2の「天子の弟」的地位になってくれ、
大和は、扶桑國とも呼ばれていたが、唐の武徳中に「日本」」國号を認められ、
白村江で倭國が唐に大敗して、亡国の運命になった時、
に天智が「称制=倭國の臨時君主」して郭務ソウと折衝を終え、
天智亡き後、天武(サチヤマの事?)が天智の子供の大友を倒して、
九州倭國を諦めて、大和に都を移し、701年の大宝元年を建元して日本國を継承した。
つまり、大和日本國がなければ、九州倭國は完全に唐の支配下になって消滅して?いた。 >>416
竪穴住居跡に住める人は、上位の人たちに限られていたのではないのだろうか。 @阿波 >>416
中国では古代から戸数と人口は調査統計をしていた
それは納税の基礎とするため
一戸あたり5人程度はその資料でも裏図けられる
捻じ曲げようとしても無駄 北部九州説の人は戸数について相変わらず妙な解釈しているね。
魏志倭人伝の戸数での解釈が九州説で過大なのは、戸数辺りの人数だとかの問題じゃないでしょう。
また魏志倭人伝の情報はあくまで一部分にすぎず、三国志の中の記述としてみた場合、半島の国々の戸数と対比してみると、
14万戸は北部九州には極端に過大すぎるという理由です。
それに倭人の居住地を考えると海人という条件もありますので、基本的に内陸部や山岳地帯でも河川沿い意外はあまり考えられないですね。
畿内にあっては船や水運に関する出土品も多いのでこの点でも有利です。
海無しの奈良県であっても巻向遺跡からでさえ海魚の骨が出る位ですね。 学者風現代人による単なる推定推測をもとにした総戸数・総人口をもとに、
三世紀の倭人伝を否定し、ひいては中国古典の三国志を侮辱否定する行為であるから、
国際的には中国の歴史文化を侮辱否定する行為に他ならない。畿内論者は、自らの発言が現中国政府・人民にも及ぶことを自覚すべきだ。 >>419
>一戸あたり5人程度はその資料でも裏図けられる
倭国は中国ではないぞ。違う時代の違う史料をもとに、エイヤっと推測したに過ぎない。
学者の衣をまとった者の八卦占い程度の数字だ。 >>421
君が批判しているのは魏志倭人伝に記載されている戸数と
当時の中国の納税の基礎資料となる人口と戸数
どこにも推定推測などない >>421
つまり九州説は中国の工作員なのか、やっぱり。 >>422
確かに倭国の人口は記載されていないが
もしそれが中国の実態とかけ離れたものであれば陳寿はそれについて説明したはず >>423
何をトンマな返答をしているのか。理屈になっておらん。
そんなことより倭人伝には、末盧国からは東南へ進むべしと明記しておる。
単なる人口の推定値に依って、東南は間違いであり、北東が正しいとするのか。 まあ以前にも書きましたが私が孝霊天皇に拘るのは記紀ではスルーなのに、その名前が各地方の神社、それも重要な場所ばかりに名前があるからですね。
富士山が孝霊5年、琵琶湖の三上山が孝霊6年、阿蘇山が孝霊9年になります。
まあ年号は無くとも出雲や中国、瀬戸内海でも名前が頻繁に出ますからね。
筑紫もおそらく高良王の名前が該当するはずです。土地を借りに来た王ですからね。
名前が残る範囲からは倭人王という名前に一番相応しいでしょう。 >>424
キミは国際感覚に欠けるね。中国と日本の関係は数千年に及ぶ微妙な問題の連続だ。
畿内スレと言えど、中国政府はウオッチしていることを忘れてはイカン。 たとえば仮に投馬国が5万戸、邪馬壱国が7万戸合計12万戸がすべて一人世帯だとしても
この二国だけで人口は12万人
その他の国々、強国狗奴国も勘案すれば、到底このすべての国々が九州にあったという説は成り立たない
当時の九州の推定人口は10万5千程 >>426
その答えが廣志にあるのではないか思いますが。
廣志だとマツラもなく単に倭の東南500里に伊都国があり、その直ぐ南側にヤマイチ国があります。
これを出雲の話とみて、伊都を亀岡の出雲大神宮辺りにすると、大和は直ぐ南になりますからね。
こちらは戸数も距離の情報もありませんが、奴国等途中の国の記述もない。
つまり複数の資料があり倭人伝編纂時に記述の混乱があった可能性が高いでしょう。 >>426
人口だけじゃないよ
全ての点で東南は間違い
佐賀方面は鏡が貧困だしね >>430
>当時の九州の推定人口は10万5千程
それ見たことか。
単なる市井の一学者の単なる推定値・推測値をもとに、さも確定事項であるかのように論じているではないか。 >>426
何をトンマな返答をしているのか。理屈になっておらん。
魏志倭人伝に記録されたのは、人口数ではない。
「戸数」も「家数」も、魏の役人らによる「実地での建物数の計測」や、
「それからの見えた範囲以外の面積の推定」からの、合計「戸数や建物数」の推定数だ。
>そんなことより倭人伝には、末盧国からは東南へ進むべしと明記しておる。
単なる人口の推定値に依って、東南は間違いであり、北東が正しいとするのか。
末盧國からの「東南」も同じだ。
末盧國の出発時点で、伊都国が見えていなければ、伊都国方向を記録できるものではない。
中国大陸のような広大な地域での直接的な目的地の方向は、
「道のりの順次式説明」方法が最も適切な説明法である。
そして、案内人や道標などに従って移動し続ければよいもの。
勿論,山越えや渡河や渡水も、目的地方が判っていなければ、使えるものではない。 >>433
鏡の数は発掘事業の進展次第。未発掘の物は計上されていない。つまりこれも推定推測値だ。 >>435
これまた何をトンマな返答をしているのか。理屈になっておらん。
見えなければ、周辺の高い山々に登って方角を確認する。これは古代の常識で、簡単なことである。
九州の高山名峰の頂には、古代からの遺跡がのこっている。今でいえば、地上を見張る人工衛星の役目を果たしていたのであろう。
そんなことも知らん不勉強児童・・、 >>434
wikipeia 「近代以前の日本の人口統計」にある縄文・弥生時代の地域別推定人口は
小山修三氏による集計です日本の文化人類学者・考古学者で、専門は、民族学(オーストラリア・アボリジニ)、
考古学(縄文時代)。国立民族学博物館名誉教授。とのことです
あなたがこの説に異論を唱えることは自由ですがそれを広く発表するためにはていねいな根拠の説明が求めら
れると思います >>438
著者本人も、「縄文・弥生時代の地域別推定人口」と、推定値であることを断っておる。
それを、あたかも確定値であるとして、倭人伝に適用するのが不適当であるといっておるのだ。
推定値によって、東西南北をひっくり返すのは本末転倒であろう。 >>439
その推定値に異論があるのであればその説明責任はあなたにある
しかし、あなたにはどんな反論も準備できていない
「推定値」だから確定値ではないと言い張るのみ
学問はある推定値を基にしてさらに推論を組み立ててゆくもの
あなたの方法論では何も前進しない >>441
まあ「単なる市井の一学者の単なる推定値・推測値」とか言っちゃった時点で>>434の負けなんだけどね >>441
推定値で倭人伝の東西南北をひっくり返そうとするのが、むちゃくちゃな試みだといっているのだ。
一学者の推定で、北極が南極になり、お日様が西から登るようになったりは決してしない。
万事、物事には天地・大小・本末有り、宇宙の万有引力に逆らう試みは愚行であることを知るべし。 方角間違いなんていくらでもあるんだぞw
表記ミス、それも意図的に変える可能性もあるんだわ。 >>445
単なる通行本金科玉条主義でしょ
聞く価値もない >>445
私見に依り「倭人伝の方角は間違いである」としたのは、明治の寅次郎だ。
以来、京大学閥は方角ちがいを確定事項だと言い張って居るが、なんの根拠もないことだ。
また最近は人口の推計値を援用して、畿内は確定地となったと断言しておる。
推定を以て推定地とするならそれはそれでよかろう。しかし確定事項だといっては虚偽になる。
やはり倭人伝が語る通り、末盧国から東南500里伊都国へ、更に東南100里奴国へ向かうべきであろう。
そしてそこに陸地が無いのであれば、これを誤りとするのも一理あるであろう。
しかし最近の発掘結果では、立派な遺跡が証明されておる。さらに近傍にも出土が推定される。
まさに考古学的大発展・大進歩があるのだが、それを無視して推定論の畿内説を確定事項と唱え続けるのは虚偽を流布する行為である。 >>437
>これまた何をトンマな返答をしているのか。理屈になっておらん。
見えなければ、周辺の高い山々に登って方角を確認する。これは古代の常識で、簡単なことである。
九州の高山名峰の頂には、古代からの遺跡がのこっている。今でいえば、地上を見張る人工衛星の役目を果たしていたのであろう。
そんなことも知らん不勉強児童・・、
これまたトンマなイチャモン。
魏使らは、明帝の下賜の「詔書や金印や大量の下賜のお宝」を運ぶ事が第1であり、
危険な渡海は最小限であり、道なき道や峠越えや川沿いの獣道などの危険の多い道は、
出来るだけ選択しないもの。
山の頂上に登るようなアホな事など、する筈もない。
要するに、君は、古代の魏の役人らの「常識」が判らないお人。 >>447
>そしてそこに陸地が無いのであれば、これを誤りとするのも一理あるであろう。
一理なし! そこには、陸地があり、それに見合う遺跡がある。 @阿波 畿内説は鬼道についても重視した考察をしているのも否定してはいけない。
こちらも三国志において出てくる文言であり、三世紀の対中国との関係を考察する点では決して軽視は出来ないですね。
対して九州説においてはあまりに丹や鬼道についての解釈が貧弱なのは否定出来ないですね。
三世紀以降、神仙思想の影響下にあるのは畿内でしょう。 >>438
>wikipeia 「近代以前の日本の人口統計」にある縄文・弥生時代の地域別推定人口は
小山修三氏による集計です日本の文化人類学者・考古学者で、専門は、民族学(オーストラリア・アボリジニ)、
考古学(縄文時代)。国立民族学博物館名誉教授。とのことです
あなたがこの説に異論を唱えることは自由ですがそれを広く発表するためにはていねいな根拠の説明が求めら
れると思いま1su
小山が何様であろうと、そんな事には全く関心がない。
要は、小山らが、倭人伝の「戸」と「家」数から人口推定をした事が、
古田さんの「倭人伝を徹底して読む」という本で、否定されていた、
という事である。 >>450 孝霊厨
>三世紀以降、神仙思想の影響下にあるのは畿内でしょう。
碌に人が住んでいない寒村にそんなもんがあるわけなかろうが! わははははは @阿波 >>452
相変わらずまともなレスする気も無いんだね。
その態度続けるなら以降は相手にするの止めるよ。
君は単に荒らしたいだけのようだし。 >>453
なら、「阿波」のように集落遺跡を出してみろ!
碌に人が住んでいない寒村にそんなもんがあるわけなかろうが! わははははは @阿波 >>453
なら、「阿波」のように、「邪馬臺国」「女王国」に相応しい集落遺跡を出してみろ!
碌に人が住んでいない寒村にそんなもんがあるわけなかろうが! わははははは @阿波 >>444
>方角間違いなんていくらでもあるんだぞw
表記ミス、それも意図的に変える可能性もあるんだわ。
ないな。
魏の役人らは、当然周代の周髀算経や礼記の、
「8尺棒の先端の、日の出から日の入りの太陽の影端移動線上の状態から東西を求め、
それを結ぶ直線と直交する方向で南北を求める」方法を知っており、
倭人も、周代に「燕の南にいた倭」や「呉にいた姫氏の後裔」であるから、
東西南北の求め方を知っている筈。 >>447
倭人伝の方角だけは正しい筈だというのが根拠では他の人の説を批判する根拠にはならない
信仰のようなもの
私は出雲を投馬國、邪馬壱国は奈良と推定している
ポイントは不弥国から投馬国へは水行の区間があること
そこから水行と陸行で邪馬台国となる
問題はこの行程は帯方郡から近い順に順番に記述されているという点
邪馬壱国からはさらに遠い国々が列記されているが
その行程のどこにも水行の区間は現れない
もし水行の区間があるのなら、その区間の出発地と到着地が明記されるはずだ
ただ境界の尽きるところについては記載がある
これは、当時の倭国は関東周辺までが領域でそれ以北は倭国ではなかったことを示していると思う >>456
>東西南北の求め方を知っている筈。
筈と言い張るだけで何の証明もできてないし
知ってたから間違えないというのも暴論 >>457
>私は出雲を投馬國、邪馬壱国は奈良と推定している
根拠遺跡を伴わない、単なる妄想推定。 信仰のようなもの。 @阿波 現地における中国からの使いが正確に方角を測れても、海を越えてどのくらい離れてるかが不正確なら多少は誤差はあるからね。
それよりも編纂者側に複数資料があるなら方角に関しては正確とは言えないだろう。
日本の古代史には出雲の国譲りもあるからね、これは伊都の場所が複数あると見るべき逸話だろう。
廣志に伊都の南にヤマイチ国があるのはその為だろうね。 >>448
>魏使らは、、、山の頂上に登るようなアホな事など、する筈もない。
>要するに、君は、古代の魏の役人らの「常識」が判らないお人
時代観がトンマ、
楽浪郡の時代には楽浪郡使、帯方郡になってからは公孫氏の使い、公孫氏亡き後は魏朝の太守の使いが、
数百年かけて何度も何度も往来した倭への道だ。
そのたびごとに方角を間違ったなどと、FtもYsもAwも畿内説も、希代のトンマ電波ぞろいだったのだ。 >>462
方角の記載ミスが発生したのは写本でのこと
おそらく一度だったろう 廣志におけるシマ国に関してはヤマイチ国=山城地区、生駒東から矢田丘陵に比定出来るので、それに隣接している大和側亀の瀬周辺から二上山麓にあたる場所、近つ飛鳥が中心の国が該当する。
ここは聖徳太子の太子道でも斑鳩とつながり場所であり、その真ん中にはヒルメ山が位置する。
巳百支国こそ巻向辺りが該当する場所になるだろう。
弥生時代後期の遺跡が集中する場所なのはいうまでもない。
次点候補は馬見丘陵地になるだろう、上牧からは三世紀の画文帯神獣鏡も出土している。 確定事項です、、という云い方は、
論戦に破れて逃げ回ろう、逃げ切ろうとする「逃亡者」の姿そのもの。哀れなり・・ >>453 孝霊厨
なら、「阿波」のように、「邪馬臺国」「女王国」に相応しい集落遺跡を出してみろ!
碌に人が住んでいない寒村にそんなもんがあるわけなかろうが! わははははは @阿波 >>450孝霊厨
畿内説は鬼道についても重視した考察をしているのも否定してはいけない。
こちらも三国志において出てくる文言であり、三世紀の対中国との関係を考察する点では決して軽視は出来ないですね。
対して九州説においてはあまりに丹や鬼道についての解釈が貧弱なのは否定出来ないですね。
三世紀以降、神仙思想の影響下にあるのは畿内でしょう。
3世紀前半の九州の卑弥呼の頃の「丹や鬼道」の根拠はいくらでもあるが、
大和の「丹や鬼道」の痕跡は、3世紀最末〜4世紀のホケノから以後。 >>463
記載ミスと決めつけるのも学問的じゃないね >>463
記載ミスと決めつけるのも学問的じゃないね >>467
>大和の「丹や鬼道」の痕跡は、3世紀最末〜4世紀のホケノから以後。
いや、連呼するだけじゃ通説は揺るがないから >>457
>倭人伝の方角だけは正しい筈だというのが根拠では他の人の説を批判する根拠にはならない
信仰のようなもの
いや、魏の役人らの実地の見聞計測した範囲内の東西南北方向は、ほぼ間違えていないし、
だから「正北抵新羅の倭國は九州」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」も間違えていない。
>私は出雲を投馬國、邪馬壱国は奈良と推定している
ポイントは不弥国から投馬国へは水行の区間があること
そこから水行と陸行で邪馬台国となる・・・
当然「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男はバツであるし、
「出雲=投馬國、邪馬壱国=奈良」説も、「南≠東」に拠って、
この男も、始めから、バツ男。 >>463
自分たちに都合の悪いことは、間違った、記載ミスした、といって逃げ回るのは使い古しの手口。
学者であろうがなかろうが、学問であろうがなかろうが、いまどき通用せぬわ。 >>461
>現地における中国からの使いが正確に方角を測れても、海を越えてどのくらい離れてるかが不正確なら多少は誤差はあるからね。
狗邪韓国から對海國や、一大國から末盧國は、どちらも見えているから、方向はほぼ間違えないし、
對海國の海岸から一大國は見えないが、
對海國の海岸の後山に登れば、一大國の最高峰の先っちょが見えるし、
南へ出航すれば、対馬海流に乗って一大國に行けるから、
やはり、方向は殆ど間違えない。
>それよりも編纂者側に複数資料があるなら方角に関しては正確とは言えないだろう。
陳寿は殆ど、魏の役人らの記録しか見る事が出来ない。
>日本の古代史には出雲の国譲りもあるからね、これは伊都の場所が複数あると見るべき逸話だろう。
廣志に伊都の南にヤマイチ国があるのはその為だろうね。〜
伊都の地名は、「伊の都」であり、一大率がいて「皆臨津搜露」できる地であり、
天孫族の阿毎氏も、
(アマ、天、海)の(イ、伊、委、倭、一、壹、怡、五)などの合成呼称であり、
糸島半島の入り口の「前原から糸島水道付近」だけにピッタリである。 江戸時代の国学者の熊襲偽僭説というのも
肥後あたりの先住民がホラでもこいとったんだろうというのが九州説の始まり
日本ではホラこき先住民だと認識されていたということ >>463
>方角の記載ミスが発生したのは写本でのこと
おそらく一度だったろう
東西南北の写本間違いなど、ほぼ100%起こり得ないな。
おそらく、この投稿子のような、
「結論先にありきの思想宗教」に狂った「狂人」であった場合だけなんだろうなあ。 そうだな。
その肥後の熊襲のホラ貝がホンモノで、
北部九州や畿内は、落ちこぼれ難民で溢れかえっていることが明らかになりつつあるわけだ。 まあ単純に伊都を先入観で北部九州にあると思い込みしたのが間違いだったんだよ。
これは私も反省しなければいけない。
日本の古い都なら出雲を忘れてはいけない。その出雲は国譲りを経験したのだからね。
まあ廣志の記述では必然的に阿波説は消える、これは確定的だね。もう今後は阿波説は論外でいいよ。 廣志における巳百支国の次が伊邪国だが、これは隣接する伊賀、もしくは伊勢になるだろうね。
つまりヤマイチ国周辺は奈良盆地周辺で全て説明可能になる。
しかも弥生時代後期の遺跡も全て考慮できるからな。廣志を再認識させてくれた九州説の人に本当に感謝します。 >>464孝霊厨
廣志におけるシマ国に関してはヤマイチ国=山城地区、生駒東から矢田丘陵に比定出来るので、それに隣接している大和側亀の瀬周辺から二上山麓にあたる場所、近つ飛鳥が中心の国が該当する。
ここは聖徳太子の太子道でも斑鳩とつながり場所であり、その真ん中にはヒルメ山が位置する。
巳百支国こそ巻向辺りが該当する場所になるだろう。
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、孝霊の頭がバツ。
おそらく、皇国史観の狂気の思想に狂った人種。
>弥生時代後期の遺跡が集中する場所なのはいうまでもない。
須恵那珂から須玖岡本付近の弥生銀座の方が集中している。
>次点候補は馬見丘陵地になるだろう、上牧からは三世紀の画文帯神獣鏡も出土している。
楽浪系の画文帯は、3世紀後半の徳島やホケノ以後。 蛇足だが廣志文中にある百女国なんて漢字も百襲国を想像させて興味深いね。
巳百支なんて名前も蛇と百襲なら面白そうだが。 >>478 孝霊厨
>まあ廣志の記述では必然的に阿波説は消える、これは確定的だね。もう今後は阿波説は論外でいいよ。
なら、「阿波」のように、「邪馬臺国」「女王国」に相応しい集落遺跡を出してみろ!
碌に人が住んでいない寒村にそんなもんがあるわけなかろうが! わははははは @阿波 もはや阿波説は候補としては論外なのでスルーします。
邪馬台国位置問題の興味対象じゃないので頑張ってください。 >>471
写本での記載間違いだろうと指摘してある
他の人の文章も読みなさい >>472
私が何か特殊な主張をしているのではない
後世の写本での記載間違いという説は広く受け入れられているもの >>480
上牧町の教育委員会、文化財担当なら関川氏だったので年代比定に文句あるならどうぞ。
その関川氏は九州説だけどね。
私は九州説だと三世紀どの勢力がこの地に神仙思想をもたらしたか?という根本的な矛盾を感じるので断然畿内説をとりますが。 >>476
方角については100パーセント誤記はありえない
の根拠は? >>484
>写本での記載間違いだろうと指摘してある
>他の人の文章も読みなさい
写本での記載間違いをありえることを述べて
方位だけは対象外とするのはなぜなのか? ザラコクは詰問されないうちは知らんぷりをとおすような卑怯なやつなので
判りやすく言おう
私は君が悪質ないたずら行為の犯人であるとはっきり述べた
それについての何か感想があれば述べてみなさい >>485
原本の誤りがどうの、写本の誤写がこうのとか、よけな議論をする暇があったら、
夫々と現場の方位とを比較してみよ。現場の唐津や、糸島や、博多や、宇美や、佐賀川上や、吉野ヶ里は、
三世紀そのままの方角、里数、場所に残っている生き証人だからな。その結果で判断すればよい。これほど簡単確実なことはないであろう・・。 >>490
写本に間違いがあったら
現場の地理との照合など無駄な事
こんな簡単なことも判らないのか? ザラコクなる人物像には、かねてより疑いを持っておる。
あれは、畿内説のなりすましではないか。一番の候補は、コチコチの畿内説であるスレ主の奥山だ。
(要するに、敵味方を自作自演し荒れ状態を演出してレスを稼ぎ、小銭を懐にしているだけのこと) >>492
ザラコクは平気で他説の人に成りすましたりする
このタイミングで現れた君の発言も言葉通りには受け取れない
ただ、
>ザラコクなる人物像には、かねてより疑いを持っておる。
が本当ならそれはうれしいことだが・・・ >>495
は
>>493
へのレスでした 間違えました(-_-;) >>471
>いや、魏の役人らの実地の見聞計測した範囲内の東西南北方向は、ほぼ間違えていないし、
残念ながら、魏の役人らの実地の見聞計測してません
してたら末盧国から伊都国のある方角がどっちかわかります >>492は品性が卑しいね
何の証拠もない中傷が平気で言えるなんて >>499
おそらく>>492は嵐をなんだよやってる犯人だから や>>470
>>大和の「丹や鬼道」の痕跡は、3世紀最末〜4世紀のホケノから以後。
>いや、連呼するだけじゃ通説は揺るがないから
いや、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國」や、
「AMS法のプラズマ化の失敗」や「二中歴での大和王の年代」などの、
史料事実や史料実態根拠に拠って、
通説学者らの年代の詐術を尽く否定して来てある。
通説が揺るがないのは、殆どのマスコミも大学も教育委員会も文科省も、
嘘吐き騙しの「皇国史観宗教の信者」さんだから。 >>475
>江戸時代の国学者の熊襲偽僭説というたあ
肥後あたりの先住民がホラでもこいとったんだろうというのが九州説の始まり
日本ではホラこき先住民だと認識されていたということ
九州説は、直接的には、
同時代の魏の役人らによる実地の見聞計測の記録が元になった魏志倭人伝があったが、
6世紀の史料としては、梁書があり、
国内史料としては、
(松野氏)姫氏系図や、「東海姫氏國」資料群や、二中歴年代歴や、釈日本紀の記録などが、
正確な九州説を記録しているが、
記紀や風土記や社寺の伝承記録は、
701年の大宝元年からの大和日本國政権下での「禁書」令などで、
相当な量の文献が失われた。 >>477孝霊厨
>まあ単純に伊都を先入観で北部九州にあると思い込みしたのが間違いだったんだよ。
これは私も反省しなければいけない。
まあ、キミは、
「南→東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、史料事実や史料実態の曲解屋否定などの、
嘘吐き騙しをして来た事を反省しなければならない。
>日本の古い都なら出雲を忘れてはいけない。その出雲は国譲りを経験したのだからね
出雲が縄文の「国引き神話」以来の西日本の中心的な国であった事は。
旧知であり、
紀元前3世紀頃の「海峡の天孫族の阿毎氏の天照らの国譲り戦争」に破れて、
支配地は縮小したが、
梁書に拠れば、6世紀にまでも「文身國」として独立的であったらしい。 >>479孝霊厨
廣志における巳百支国の次が伊邪国だが、これは隣接する伊賀、もしくは伊勢になるだろうね。
つまりヤマイチ国周辺は奈良盆地周辺で全て説明可能になる。
しかも弥生時代後期の遺跡も全て考慮できるからな。
根本的に、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、史料事実や史料実態に拠って、
孝霊厨の解釈はバツであり、一種の分裂幻覚的な妄想患者でしかない。
>廣志を再認識させてくれた九州説の人に本当に感謝しならず
廣志自体も、
同時代の魏の役人たちの実地での見聞計測の記録を元にした魏志倭人伝の記載を、
「自己解釈に拠る書き変えをした事になる」半分バツの後代史書にしかならないから、
絶対的証拠にはならない、代物。 >>505
九州説は説じゃなくて
ただスローガンを連呼してるだけだな 九州説では、鬼道で一国に纏めあげた女王の本拠地となる痕跡がない。漢中の張魯でさえ一国まで、張陵、張衡、張脩と4代かかっているわけで、邪馬薹は師から卑弥呼、卑弥呼から台与に伝承されて行くわけであり、誰々の娘が一時的なシャーマニズムで九州を纏めたなんてのは笑い話の村一国。シャーマンなら韓伝と同様の説明がなされ、そんな蛮族に曹叡は我甚哀汝とは絶対に口にせず、親魏も与えず、陳寿は倭人伝に2000字を割くことはありません。九州説は終了です。 >>486 孝霊厨
>という根本的な矛盾を感じるので断然畿内説をとりますが。
碌に人が住んでいない寒村にそんなもんがあるわけなかろうが! わははははは @阿波 梁書に拠れば東北七千餘里。
倭国 邪馬臺國は、宮崎になる。
水行と合うのである。 >>507
>親魏も与えず、陳寿は倭人伝に2000字を割くことはありません。九州説は終了です。
なに寝ぼけたことを・・。
魏王朝は親魏を与え、陳寿は倭人伝に2000字を割いているのだから、九州説で確定だ。 >>508
碌に人が住んでいないから邪馬壹國
可七萬餘戶と見積もり 開拓地とわかる。 阿波は結局九州説の成り済ましなのがバレバレなんだよなw >>512
叩かれたら、九州説の成りすましか? 九州説も同じようなこと、言ってるぞ。 どっちもヘタレ。 わははははは @阿波 阿波は結局畿内説の成り済ましなのがバレバレなんだけど とにかく、どっちも根拠遺跡が無さ過ぎ! 有るのは儚い妄想だけ。 @阿波 >>504
下劣な妨害行為を指摘されて
なお平気でこのスレで発言する神経が判らない
君はこのスレに出入りすべきでない
君の発言など何の価値もない >>485
>私が何か特殊な主張をしているのではない
後世の写本での記載間違いという説は広く受け入れられているもの
宋明清代の写本版本全体の記載違いの校勘において、
三国志全体での差異文字発生数は、
総文字80万字位の中の4000字余り(0.5%)位の確率なのであり、
倭人伝の2000字余りでは10文字位になるが、実際には、
魏志倭人伝の中で校勘対象になったのは、「都支国」と「郡支国」や、
「黄憧」と「黄幢」や、紹興本に発生した「對海國→
對馬國」や、
「臣松之」注の「以為地應為綈,漢文帝著皁衣謂之弋綈是也。此字不體,非魏朝之失,則傳寫者誤也」
などだけ。
邪馬壹國や東治に対する校勘などは、全くない。
つまりこの男の「後世の写本での記載間違いという説」は、根拠が殆どなく、
・・・・アホ詐欺師であった事になる。 >>517
後世の写本の間違いがあったからこそ君のような説がはびこることになった
この関係性も理解できないとは・・ 写本間違い無しとして廣志をオリジナルな散文としてみると、必然的に伊都は出雲、丹波に。南側に隣接するヤマイチ国は畿内の山城から矢田丘陵辺りになります。
また傍ら国のシマ国は武内宿禰や蘇我の本拠地、近つ飛鳥です。
これ以上ハッキリとした位置関係はありませんよ。 >>486
>上牧町の教育委員会、文化財担当なら関川氏だったので年代比定に文句あるならどうぞ。
その関川氏は九州説だけどね。
関川氏も、その古代史論理に若干違和感があり、私の理解とは少し違いがあり、
全面的には賛同していない。
>私は九州説だと三世紀どの勢力がこの地に神仙思想をもたらしたか?という根本的な矛盾を感じるので断然畿内説をとりますが
神仙思想なら、
呉王夫差の遺民の姫氏や、燕の南にいた倭人の天孫族の阿毎氏や、
在地の猿田彦らの毛人や、渡来の白人系の胡人や鮮卑らとは、直接的関係がなく、
当然、魏の楽浪帯方剛撃戦争から列島へ避難渡来して来た、
「呉系の楽浪鏡師らの三角縁神獣鏡など」思想になり、景初二年頃以後の事だな。 三穂津姫なんてよくみれば孝霊天皇と百襲姫の関係や逸話の反映なんだろう。
三穂津姫は『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。
出雲の美保神社(島根県松江市)で大国主神の子の事代主神とともに祀られている。丹波の出雲大神宮(京都府亀岡市)では大国主神とともに主祭神となっており、大国主神の后とされている。三保の松原(静岡市清水区)の入り口にある御穂神社も同様に、大己貴命(ここでは別名を三穂津彦命(みほつひこのみこと)としている)とともに祀られており、「羽衣の松」と縁が深い(御穂津彦命、御穂津姫命という表記もあり)。村屋坐弥冨都比売神社(奈良県磯城郡田原本町)では大物主神とともに主祭神となってる。
まあ見事に孝霊、百襲姫と逸話の場所が被っているし、何より百襲姫が生まれた場所が田原本の保津、宮古遺跡辺りになっている。
ホツはホトだしね。
日本書紀の書き手は明らかに判ってて箸墓逸話を作ったのだろう。 >>487
>方角については100パーセント誤記はありえない の根拠は?
この男も詐欺師じゃなあ。
私が「100パーセント誤記はありえない」なんて書く筈がない。
当然「周髀算経や礼記の東西南北」の計測の方法自体が完全100%だ」というのではなく、
「ほぼ100%だ」と言って来てあるバズだ。
当たり前の事だ。 >>489
>ザラコクは詰問されないうちは知らんぷりをとおすような卑怯なやつなので
判りやすく言おう 私は君が悪質ないたずら行為の犯人であるとはっきり述べた
それについての何か感想があれば述べてみなさい
私は、「史料事実や史料実態からの高確率的な推論」を一般国民に説明しているのであり、
大和説者らのような「史料事実や史料実態」の曲解や否定の嘘吐き騙しの投稿は、
議論する価値がない、と思っており、
その事を一般国民に、騙されないように、知らしめる事が必要だ、と思っているだけだ。 魏志倭人伝に記載されている倭国の国々は
帯方郡から近い順に並べられて
九州までで対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国6ヵ国
本州に渡り投馬国、邪馬壱国、で2ヵ国
そこからさらに奥に斯馬国、巳百支国、伊邪国、次都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国、ここは女王の境界尽きる所とある、計21ヵ国
倭国合計は29ヵ国
それに狗奴国を足して合計30ヵ国が魏にとって使訳通ずる所としてリストされている
ここからは私の推論だが陸続きの国境があるとしておよそ関東北部までが倭国の領域だったと思われる
我が国の古代史を解明する上でこの認識が共有されることを望む >>525
廣志には奴国等はなく伊都の南にヤマイチ国があるという記述だからな。
倭人伝の説明は北部九州から渡航するルート、廣志は出雲からヤマイチへ向かうルートが示してある。
なので倭人伝の奴国は北部九州で問題がないよ。 >>523
では、
「ほぼ100%ありえない」
の根拠は 欠史8代は新羅や高句麗からの渡来人の証拠をけすため
以上 >>524
嘘つき騙しとは君のことだ
このスレで君よりひどい嘘つき騙しなどいない
一般国人とは恐れ入る
君自身は一般国民というより、もし日本人だとすれば
国民の恥だ
直ちにここから立ち去るべき >>507
>九州説では、鬼道で一国に纏めあげた女王の本拠地となる痕跡がない。・・・
変な男。
卑弥呼の邪馬壹國女王之所都の地としては、
当時列島最大の都市としての「比恵那珂や須玖岡本」の所謂「弥生銀座」や、
大野や安徳台に広がる首都圏がある。 東南500里は正しい
糸島市方面は間違い。博多湾方面には行かない。 >>531
>当時列島最大の都市としての「比恵那珂や須玖岡本」の所謂「弥生銀座」
とにかく、根拠遺跡が無さ過ぎ! 有るのは儚い妄想だけ。 @阿波 >>531
卑弥呼の都が比恵那珂にあったという主張に変わったのか
比恵那珂遺跡群は福岡市の広報にはこう記されている
「奴国の中心地」
福岡市の資料くらいは目を通してから語るべき >>523
>この男も詐欺師じゃなあ。
>私が「100パーセント誤記はありえない」なんて書く筈がない。
「100パーセント」書く筈がないですか? ザラコクが一般人などと自分を一段高く見ているような発言をしたので
この際はっきりと言おう
ザラコクの知的レベルは日本人平均値から下のグループ
最下位4分の1に含まれると指摘しておきたい >>535
いい歳こいた大人の理由なき反抗って虚しいよね >>532
>東南500里は正しい
>糸島市方面は間違い。博多湾方面には行かない。
まさにその通り。これで倭人伝は完璧に解読されました。 祝! >>519孝霊厨
写本間違い無しとして廣志をオリジナルな散文としてみると、必然的に伊都は出雲、丹波に。南側に隣接するヤマイチ国は畿内の山城から矢田丘陵辺りになります。
また傍ら国のシマ国は武内宿禰や蘇我の本拠地、近つ飛鳥です。
これ以上ハッキリとした位置関係はありませんよ。
翰苑引用の「広志」は、魏志倭人伝の記載の補正追加をしている形ですから、
明らかに陳寿の魏志を見て、それの補正をした事になり、
紀元300年頃(西晋末の惠帝への倭國遣使の頃)の新情報を、
知った上での記載である事になり、
だから魏志の伊都国の位置も魏志倭人伝の伊都国の位置を踏襲しており、
「伊都国≒糸島付近」である事は、動かせません。 >>525
>伊都の東側の2万戸の奴国はどこなの?
この質問は、私宛ではないが、私も答えて上げる。
日向峠西麓平野部〜早良平野およびその周辺丘陵地、だな。 >>526
魏志倭人伝に記載されている倭国の国々は帯方郡から近い順に並べられて
九州までで対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国6ヵ国
半島南岸は「倭」とされて、行程でも韓の諸国とは区別されていて、
狗邪韓国という小国が、郡からの最初の倭地到着國として「到」を使って書かれた形であり、
狗邪韓国は、倭國(女王國)の中に含まれていた可能性が高い。
>本州に渡り投馬国、邪馬壱国、で2ヵ国
投馬國と邪馬臺國女王之所都は(博多湾岸の)不彌國の「南の方」とはっきり書かれていて、
本州は東にあるから、「本州に渡って」おらず、この男はここでもインチキ詐欺。
>そこからさらに奥に斯馬国、巳百支国、伊邪国、次都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国、ここは女王の境界尽きる所とある、計21ヵ国
倭国合計は29ヵ国
それに狗奴国を足して合計30ヵ国が魏にとって使訳通ずる所としてリストされている
狗奴國は、卑弥呼共立に賛成したのか?は、不明であるし、疑わしい。
>ここからは私の推論だが陸続きの国境があるとしておよそ関東北部までが倭国の領域だったと思われる
我が国の古代史を解明する上でこの認識が共有されることを望む
倭人伝の記載では、九州島の女王國から東の方は、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」
としか書かれておらず、
「およそ関東北部までが倭国の領域」なんてどこからも出て来ず、バツである。 >>545
狗邪韓国の件は君の妄想
邪馬臺國が不彌國の「南の方」は魏志倭人伝にはない
狗奴国は当然倭国には含まれないが魏と交流のある倭地にあると示されている
女王国の東、海を渡ること千余里で、また国有りは、四国のこと
申し訳ないが君への返答はここまでとする
君は語る対象にはならない >>545
私が本州にあるとした23ヵ国は君の説ではどこにあることになるのか? >>527孝霊厨
>廣志には奴国等はなく伊都の南にヤマイチ国があるという記述だからな。
廣志の書かれた頃は、西晋最後の惠帝への遣使の頃であり、
その前の壹與は、與止姫とされて東佐賀方面にいたようであり、
伊都国の南で問題がなく、
また釈日本紀に拠れば、倭國が、旧唐書などが記録した
「或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本」に相当する上申を惠帝にした事にもなり、
しかし、東アジアでは、扶余の乱などをきっかけに西晋滅亡や楽浪滅亡が相次ぎ、
317年には江南に東晋建国があり、
倭國でも糸島の一貴山銚子塚の黄金鏡の王らが出た後、
(聖徳太子伝暦に拠れば)倭國王も、東アジアの戦乱を避けるために、
「こうやの宮〜久留米」方面に遷宮した。
>倭人伝の説明は北部九州から渡航するルート、廣志は出雲からヤマイチへ向かうルートが示してある。
なので倭人伝の奴国は北部九州で問題がないよ。
出雲など全く関係がなく、バツ。 >>528
>では、「ほぼ100%ありえない」の根拠は
魏の役人らは、周髀算経や礼記の、
「8尺棒に拠る東西南北の近似的計測法」を知っているから。 >>550
問題は写本の作者
魏の役人とは限らない >>534
>卑弥呼の都が比恵那珂にあったという主張に変わったのか
いや、前から「弥生銀座」説だ。
>比恵那珂遺跡群は福岡市の広報にはこう記されている「奴国の中心地」
福岡市の資料くらいは目を通してから語るべき
福岡市なんては、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
嘘つき騙しの大和説の教育委員会や文科省学者らの言いなりであり、
信頼性が全くなく、殆ど信用していない。 >>553
私の記憶では投馬国が鹿児島あたり
邪馬台国は熊本あたりというのが君の主張だったように思う
福岡市や教育委員会を信用しないのは勝手だが、そんな君の説は誰も支持しないと思うよ >>554
>私の記憶では投馬国が鹿児島あたり
邪馬台国は熊本あたりというのが君の主張だったように思う
別人だな。
>福岡市や教育委員会を信用しないのは勝手だが、
公的な通説大和説学者らは、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の否定の嘘吐き騙し人種であった事がほぼ確定しているから。
>そんな君の説は誰も支持しないと思うよ
国民の中の一人でも、支持してくれる人が増えれば、いいのです。 >>555
君自身が本当にそう思っているのか疑わしい
意固地になって言い張っているようにしか見えない >>555
「東南→北東」
「卑弥呼の冢→ 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」
」
嘘つき野郎だな。ペテン師 道教の祭祀、斎しょう科儀、夜中星空の下で酒、乾肉等供物を並べ、天皇太一や五星列宿を祭り文書を上奏する儀礼を斎。1月15日上元7月15日お中元10月15日下元、これを天官地官水官、神々に懺悔するのを三元斎。天が未だ明けぬ時に出でて政をとる。 無駄です。老子道徳経、卑弥呼が取り入れたんです。前方後円墳はその象徴です。 青城山、あんなとこ何もありませんよ、そういうところでいいんです。 >>549
出雲が無関係という君の思考が信じられない、というより弥生時代後期の考古学の動向を無視してはいけない。
廣志の記述では北部九州は登場しない。
倭国から東南500里で伊都だからな。
この伊都とは出雲しかあり得ない、それも内陸部の出雲大神宮のあった場所が本来の出雲。
北部九州にあるのは奴国だろう。伊都はあくまで出雲の出張所として北部九州にあるだけの話。
ヤマイチ国とはその南側に隣接してるのだから山城、山背地区の事だね。 しかも筑紫の高良王は他所から来てそのままとどまる存在であり、現に奈良の葛城出身である武内宿禰を比定する意見が有力となっている。
これは高良王=孝霊天皇とすれば理解しやすい話になるだろう。
神武神話がある以上は、孝霊天皇の名前を表に出す事は出来ないからな。
逆に出雲地方には孝霊天皇に関する逸話が沢山残っているが記紀には記載されなかった。
狗奴国系である神武天皇を持ち上げる為だったのだろう。 現実に移動の話をしても、日本海側から畿内に行くには鳥取や若狭湾辺りから、川沿いに本州を越えて行くのが一番短絡ルートだからね。
標高差が本州では一番ない場所。
地名の由来を見ても丹に関する名前が丹波にはついているし、丹に向かう行き先は勿論ヤマト。
現在の天理市なんて旧名は丹波であったり、東大寺のお水取りの名前の由来も若狭湾から水が送られる事からだ。 荒魂は本来の地と別の場所に祀るという風習がある。三輪山の大物主という名の八咫の鏡も伊勢に祀られている。
猿田彦は出雲地方の伝承によると出雲の姫神の幸神と東から来て文物をもたらしたクナトの神の子とある
伊勢で猿田彦を祀る阿射加神社、大阿坂、小阿坂。大阪湾岸に大阪オサカ、浅香アサカ、小阪コサカという地名が残っている。
猿田彦が見つかったのは天の八衢だが八衢は道が幾つにも分かれる所という意味である。 堺のアサカの近く仁徳天皇陵の辺りに方違神社があり方違幸大神が祀られている。堺はなにわ、和泉、河内、阿波の境。行き先が分かれる、方を違える場所。猿田彦はイスズ川の川上に消えたが堺を流れる川はイシズ川である。
伊勢と大阪湾の類似性、伊勢は大阪湾をコピーした鎮魂の場所かもしれない。
八雲を出た人々が出雲かもね。
杵築大社の八雲の天井図は7つの雲しか描かれていない。
上津国から下津国、黄泉の国に逃れたイザナミ道敷大神。
イザナミは出雲の姫神の幸神のことかもしれないね。
黄泉比良坂は堺を流れるイシズ川の中流辺りかもね。
黄泉比良坂の上が黄泉の国。
出雲の国は和泉の国かもねえ。 邪馬台国の南の狗奴国は大和盆地の南、大和川の南の河内と和泉でしょうね。
大阪側から奈良には行けないということ。
伊吹山にはヤマト政権に最後まで抗った荒ぶる神がいたと日本書紀にある。
気多大社の謂れは興味深い。
また孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある。
日本海側から奈良へのアプローチも難しそうだな 今までの考え方を少し変えてみると、意外とハマりそうだね。
奈良盆地はサンチュウ、クンナカでわりと最近まで全然文化が違う国だからね。
サンチュウとは生駒辺りから山之辺、宇陀辺りの人々で名前のとおり山中の人々。
対してクンナカは国中で平野部に住む人々の事。真ん中を流れる大和川を挟んで婚姻をしないなんて話も昔はあったと聞いた。
古い集落は婚礼の荷物入れる時も方角は色々向きが違ってたりね。 狗奴国が元々九州熊本辺りから四国に相当すると思っていたが、ヤマイチ国を山城山城、つまりサンチュウエリアとみれば、奈良盆地のクンナカは狗奴国系とみればいいのかな?
そうなると元々孝霊天皇は天孫系だが皇女である百襲姫をサンチュウ側の神に嫁がせた話という事になるもね。
ちょっと話がつながってきたかも知れない。 魏は解ってるから、青城山まで魏の役人は行かないわ。ただ後々張政に任されてるようだから張政は行ってるな >>557
「東南≠北東」
「卑弥呼の冢=大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」
嘘つき野郎だな。ペテン師 >>559
>無駄です。老子道徳経、卑弥呼が取り入れたんです。前方後円墳はその象徴です。
無駄です。
卑弥呼が老子道徳経を取り入れた、なんて証拠はありませんし、
魏の役人らには「鬼道」のように思えた、という程度です。
前方後円墳は冢ではありません。冢は「錐体や錐体台的な形状」です。 >>561
>出雲が無関係という君の思考が信じられない、
というより弥生時代後期の考古学の動向を無視してはいけない。
魏の役人らが通ったのは、狗邪韓國からの水陸行と、末盧國からの北部九州の陸行と、
豊予海峡を渡海して四国西海岸を南下して足摺付近まで行っただけです。
>廣志の記述では北部九州は登場しない。
廣志の記述でも出雲は登場しない。
>倭国から東南500里で伊都だからな。
末盧國からは、東南して、陸行五百里して、到伊都国した、です。
>この伊都とは出雲しかあり得ない、
この伊都国とは、前原〜糸島水道付近しか有り得ない
後は、全くの分裂幻覚の妄想にしかならない駄文だから、放置。 >>575
>魏の役人らが通ったのは、狗邪韓國からの水陸行と、末盧國からの北部九州の陸行と、
>豊予海峡を渡海して四国西海岸を南下して足摺付近まで行っただけです。
その通り! @阿波
>この伊都国とは、前原〜糸島水道付近しか有り得ない
違う。 伊都国は直方辺り。 @阿波 >>564孝霊厨
>しかも筑紫の高良王は他所から来てそのままとどまる存在であり、
現に奈良の葛城出身である武内宿禰を比定する意見が有力となっている。・・・
高良大社は、高句麗説とかいろんな説があったが、卑弥呼や壹與や一貴山の王らの後、
西晋〜半島での西晋滅亡、楽浪滅亡、で317年に東晋成立の影響を恐れて、
九州北岸から内陸の「こうやの宮〜久留米」への遷京があった事がきっかけで、
高良大社が出来た、という事でいいんだろう。 >>566
このお人の話は、随分昔から何度も読まされた事があるが、
「〜かも知れない」のような空想的な話ばかりで、実質的な論拠にはならない話ばかり。 =>>567
>邪馬台国の南の狗奴国は大和盆地の南、大和川の南の河内と和泉でしょうね。・・・
またこの男の書き込みの連鎖かい?。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
狗奴國は、南筑後〜肥後方面の国だから、バツね。 >>568
孝霊も、分裂幻覚の妄想ごっこに参入か?。
このスレも、まともな人が、殆どいなくなったみたいだな。 もう邪馬台国の所在地は大和(奈良県)で確定したのでしょ 九州説とかもう何も無いんだから、畿内説の悪口言うしかやることないんだよ。 >>579
方角は間違えないといいつつ
「東南≠北東」
「卑弥呼の冢=大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」
嘘つき野郎だな。 >>583
自演?? 被害妄想なのか? わははははは @阿波 >>575
資料をよく読まない証拠ですね。廣志にはマツラ国も登場しません。なので伊都国は東南500里の場所で糸島等では該当しませんよ。
また伊都の南側にヤマイチ国とあるなら
この伊都とは出雲、それも丹波地方の内陸部が一番該当します。
それにシマ国が傍にあるならそれは芝山(旧シマ山)がある河内国分や蘇我の本拠地、近つ飛鳥が該当するでしょう。
元伊勢であるヒルメ山もありますからね。 また出雲や中国、丹波地方は孝霊天皇の伝承が多いエリアでもあり、
籠神社には百襲姫は日女命とある伝承、系図も
ずっと隠匿された状態で伝わってきています。
弥生時代後期の鉄器の出土も多く、こちらが対半島とのメインだった証拠も沢山ありますからね。
伊都をずっと北九州のみで考えてきたのが間違いですね。出雲、丹波のルートが廣志で描いてあります。
必然的にこれで阿波説は終了です。 >>587 孝霊厨
>弥生時代後期の鉄器の出土も多く、こちらが対半島とのメインだった証拠も沢山ありますからね。
弥生時代中期末から鉄器王国の「阿波」からの下賜品だ。 @阿波 籠神社における邊津鏡と息津鏡の存在だね。昭和62年の調査で邊津鏡は中国の前漢時代、息津鏡は後漢時代のものであることが判明して大ニュースになった。
これは弥生時代後期に北部九州と丹波地方が大陸への拠点としての役割があったに他ならない。
また海部氏系図には百襲姫が日女命という記述もあったからな。 まあ普通は倭の都といえば出雲でしょ、これを抜きで考える九州説なんて本当に考えられない。
国譲り神話なんてのもある位だしな。
また半島のから土地を引き寄せたり、山比べをするのも出雲の話なんだからな。
その当事者として登場するのがスサノオと孝霊天皇。 もう一度廣志における記述を整理すると、倭国から東南500里で伊都国、その南にヤマイチ国、傍国がシマ国と続いている。マツラも奴国も登場しない関係だから。
これは籠神社のある丹後宮津から陸を東南に進み、出雲大神宮のある亀岡辺りに該当する話。
伊勢遺跡のある三上山付近も候補だが、270年頃の情報だとすると、琵琶湖の水行表記がないので違うはず。
山城、山背のある生駒山辺りがヤマイチ国該当となるね。 >>596
罵っても反論にならないよ
伝世鏡と後代文献が証拠ななるかどうか、誰かほかの人に聞いてごらん >>597
>伝世鏡と後代文献が証拠ななるかどうか
ならない。
証拠となるのは、後代文献に見合う集落遺跡。 @阿波 >>581
もう邪馬壹國女王之所都の所在地は、ほぼ筑紫の弥生銀座で確定したのでしょ
大和説とかは、もう何も無いんだから、九州説の悪口言うしかやることないんだよ。 >>597
その理屈は変だね、論を掲げる大半の人々が出土品や伝世鏡、文献を元にしているよ。
特に九州説なんて全部そうじゃないの?
それらの資料を元に考察して、弥生時代後期遺跡等を眺めると、丹波から畿内への流れは確実にあるだろう。亀岡辺りが出雲大神宮所在地だったのもハッキリとしている。
元伊勢である丹後半島から丹に関する伝承を持つ亀岡盆地、そこから保津川をへて山城、山背へ向かうルートが畿内へ向かう最短ルートだろう。
また奈良盆地田原本にあるのは保津遺跡なんだしな。 倭国に上陸したら、
東南500里の次は東南100里と、二重に東南へ行けと書かれている。
そしてちょこっと東へ寄った後も、南至、南至、とこれまた二重書きだ。
それにもかかわらず、無理やり北東へ、東へと行進するやつらは、年頃の反抗期のお子さま知能(笑笑 >>586
資料をよく読まない証拠ですね。
廣志にはマツラ国も登場しません。なので簡略化したか?であり、
伊都国は、魏使らの安全の原則に拠って「東南す、陸行500里す」の場所で、
ほぼ前原〜糸島水道付近であり、肥前等では該当しませんよ。
また伊都の南側にヤマイチ国とあるなら
この西晋惠帝の頃のヤマイチ国とは、それも筑後川流域の筑紫平野部が一番該当します。
それにシマ国が傍にあるなら、それは糸島半島部が該当するでしょう。
伊勢もあるし、可也山もありますからね。 >>587
また出雲は、梁代まで独立国的でしたが、
中国、丹波地方は九州倭國の東征軍が入ったところで、
当然東征軍の孝霊の伝承が多いエリアでもあり、
籠神社には百襲姫は日女命とある伝承、系図も九州倭國の東征軍の成果として、
ずっと隠匿された状態で伝わってきています。
弥生時代後期の鉄器の出土も、九州に比べればはるかに少ないが、
大和に比べればある程度多く、
こちらが縄文期以来の対新羅との関係がメインだった証拠も沢山ありますからね。
伊都をずっと出雲や大和のみで考えてきたのが間違いですね。
出雲は、国引き神話から梁代まで独立的であり、
丹波のルートや阿波は、九州倭國の東征軍の別動隊の支配であり、
必然的にこれで阿波説も終了です。 2000年前の北極星の位置は
今の位置から北斗七星寄りにあった
https://i.imgur.com/isBFfmg.jpg
これでどう変わるか? わかるよねー?w
東が東南寄り・西が北西寄りになって
夏は今より暑くなって、逆に冬は寒くなるってこと
陳寿の言い分は正しいと
答え出てますよw >>590
籠神社における邊津鏡と息津鏡の存在だね。
昭和62年の調査で邊津鏡は中国の前漢時代、息津鏡は後漢時代のものであることが判明して大ニュースになった。
これは、神武ら東征が紀元前100年頃の前漢代であり、
更に、東征軍の大和の大倭職の欠史八代の時代には後漢代も入りますから、
北部九州の鉄器が出雲や丹波に運ばれた事を示し、
九州倭國の拠点としての役割があったに他ならない。
また海部氏系図には百襲姫が日女命という記述もあったらしいからな。 >>592
まあ普通は倭の都といえば筑紫の「弥生銀座」でしょう。
これを抜きで考える出雲説や阿波説や大和説なんて本当に考えられない。
国譲り神話なんてのもある位だしな。
また半島のから土地を引き寄せたり、山比べをするのも、
縄文出雲の「国引き神話」の話なんだからな。
その当事者として登場するのは、縄文だから不明。 >>595
もう一度廣志における記述を整理すると、
倭国(倭人伝では末盧國)から東南に出発して、
平坦な道なりに500里で伊都国、
その南に(紀元300年頃の)ヤマイチ国、傍国としてシマ国が書かれている。
倭人伝のマツラも奴国も登場しない。
従って、出雲も丹後も全く関係がなく、
「籠神社のある丹後宮津から陸を東南に進み、出雲大神宮のある亀岡辺り」にも関係なく、
該当しない話。
伊勢遺跡のある三上山付近も候補ではなく、
300年頃の情報だとすると、琵琶湖の水行表記もないので違うはず。
山城、山背のある生駒山辺りもヤマイチ国に該当しないね。 >>300
その理屈は変だね、論を掲げる大半の人々が出土品や伝世鏡、文献を元にしているよ。
特に九州説なんて全部そうじゃないの?
それらの資料を元に考察して、弥生時代後期遺跡等を眺めると、
丹波から畿内への流れは確実にあるだろう。
亀岡辺りが出雲大神宮所在地だったのもハッキリとしている。
元伊勢である丹後半島から丹に関する伝承を持つ亀岡盆地、そこから保津川をへて山城、山背へ向かうルートが畿内へ向かう最短ルートだろう。
また奈良盆地田原本にあるのは保津遺跡なんだしな。
いずれも、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の軍の、
主力軍が瀬戸内から淀川を遡って、近江や東海や南関東などに達し、
別動隊の一つが、播磨から川沿いに北上し、奥丹後や亀岡にまで達し、
別の別動隊が、北四国から阿波や淡路や紀伊や大和に達し、
大和の崇神らが、主力軍に合流して「三道将軍」や「四道将軍」として、活躍した、
という事なんだろう。 まあ北部九州説はもう無理だね。北部九州にあるのは単なる畿内方面からの出張所に過ぎないことが、廣志の記述からも説明出来てしまう。
倭国とは元々出雲の事、北部九州にある国は奴国で北部九州の伊都は出張所だろう。 >>603
ザラコクなる人物を演出して牽制・騒動を画策している畿内説。
どのみち >>1 の奥山が化けてるんだろな。 倭国に上陸したら、
東南500里へ向かえ、その次は東南100里へ進めと、二重に東南へ行けと書かれている。
そしてちょこっと東へ寄った後も、南至、南至、とこれまた二重書き、合計4重に南が出てくる。
それにもかかわらず、無理やり北東へ、東へと行進するやつらは、人前でひっくり返ってダダこねる反抗期のお子さま知能レベル(笑笑 九州説も無駄な時間だったな、まあ畿内説で確定したからって辛いのはわかるけどねw >>603
魏使らの安全の原則に拠ったら前原〜糸島水道付近など
行かないな。唐津街道で佐賀方面。
方角は間違えない。
東南陸行五百里,到伊都國
一回のみの通過ではなないから糸島方面には行かないことがわかる。 >>617
>生駒山の東が邪馬台国だったか
「丹」もない、「橘」もない、「魏志倭人伝」に合わない畿内の訳が無い。 @阿波 畿内は丹も橘もある、常識だぞw
阿波は死の国、何もない >>619
畿内は丹も橘もない、常識だぞw @阿波 >>619
ないな。近畿ならある。
で可7万戸なので狭い範囲ではない。
なので陸1月。 伊都の南にヤマト、なるほど阿波は候補から退場だよなw >>616みたいな盲信をしてるから何百年経っても九州説では邪馬台国が見つからないんだよ 畿内は室生火山群の宇陀山地に水銀鉱床が有る
大和の 宇陀の真赤土(まはに)の さ丹つかば そこもか人の わをことなさむ >>624
どあほ! 「卑彌呼」の時代に採っていたのは「阿波」だけじゃ! アホ晒すな! @阿波 日本で最古の水銀朱の精製した痕跡は、吉野川上村にある丹生神社の境内から出土した土器辺にあります。
これは祭祀目的と見られますが縄文中期からの物ですからね。
また伊勢の松阪辺りから紀伊半島沿岸部にかけては弥生時代中期以降の精製跡が分布しており
、倭人伝における
日常的に朱丹を用いる海人の条件を、紀伊半島ではクリアしています。 >>611
まあ大和説はもう無理だね。大和にあるのは単なる、
「九州倭國からの東征毛人五十五國で出来た別種分家の倭種の大倭職の出張所」に過ぎないことが、
廣志を含めて、歴代中国史書群の記述からも説明出来てしまう。
倭国とは元々燕の南の倭人と、呉王夫差の遺民の姫氏と、猿田彦ら毛人の北部九州国の事、
奴国は「日向峠西麓平野部〜早良平野及びその周辺丘陵地」であり、
北部九州の一大率の伊都は「前原〜糸島水道」付近で、
邪馬壹國は「福岡平野中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地」であり、
女王之所都は「比恵那珂や須玖岡本から大野の安徳台」付近だろう。 多気の丹生鉱山に隣接する天白遺跡(縄文時代)では西日本最大の環状配石遺構が見つかっており、
若杉山遺跡に近い加茂宮ノ前遺跡でも環状配石遺構が1ケ見つかっているので
東日本から移住してきた人々 >>613
>670年代には日本と名乗っていた
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/1/2/12266e2b.jpg
梁代の事が書かれた梁書には、大和は「扶桑國」と書かれて九州倭國と区別され、
九州倭國内のN0.2(弟)的存在になっていたが、
唐の武徳中に「日本國」という国号を承認された。 >>615
大和説にとっても無駄な時間だったな、
まあ九州説で確定したからって、辛いのはわかるけどね >>626 孝霊厨
>日常的に朱丹を用いる海人の条件を、紀伊半島ではクリアしています。
「倭人(阿波勢力)」だな。 @阿波 >>617
生駒山の東も、邪馬壹國ではなかったのか、
なるほど >>628
>東日本から移住してきた人々
わざわざ東日本から移住してこんでも、地元にも居るがな。 わははははは @阿波 残念ながら丹生神社が紀伊半島に集中してる時点で丹生の神は紀伊半島にいる。
これは神武伝承でも紀伊半島を目指した時点でハッキリしている事。
阿波のは品質に問題があったのかもしれないね。 >>636 孝霊厨
>残念ながら丹生神社が紀伊半島に集中してる時点で丹生の神は紀伊半島にいる。
残念ながら、後にも先にも「倭人(阿波勢力)」しか居らんがな。 わははははは
碌に鉄器も作れん畿内土民ではしょせん無理なお話だ。 わははははは @阿波 コピペだが2013年の記事。
弥生時代の環濠集落として知られる亀井遺跡(大阪府八尾市)で約30年前に出土した弥生時代前期末(約2400年前)の石製品11点が、国内最古のてんびん用の分銅とみられることが7日、奈良文化財研究所の森本晋国際遺跡研究室長の分析で分かった。
これまでの原の辻遺跡(長崎県壱岐市)の中国製とみられる青銅製分銅の「権」(弥生時代後期)より500年以上さかのぼる。古代の度量衡制度を探る上で第一級の史料となりそう。
一緒に出土した石きねには、祭祀などに用いられた貴重な赤色顔料の朱が付いていたため、朱の配分で厳密に重さを量る際に必要だったとみている。
石製品11点は長さ3〜8センチ、直径1〜4.5センチの円柱形。石材は輝緑岩などで、全体が丁寧に磨かれていた。
製作途中とみられる1点を除く10点の重さは、6種に分類できた。最軽量は8.7グラムで、ほかは17.6グラム、34.5グラムなど、最軽量の2、4、8、16倍となる値に近い。最重量は約32倍の280グラムだった。重さの違う6個1セットで、本来は2セットあったとみている。
1981年、大阪府文化財センターなどの発掘で出土。発見当時は何かをつぶして粉にする「すり石」と判断されたが、森本室長が昨年、センターの協力で調査した。
森本室長は「目分量では量れない取引や調合に使っていた可能性がある。物を量る基準を必要とする高度な社会システムがあったことを裏付ける」としている。〔共同〕
まあ水銀朱を紀伊半島から調達して磯城県の港、八尾辺りで計測、分配していたのは確実だね。 >>638 孝霊厨
>古代の度量衡制度を探る上で第一級の史料となりそう。
残念ながら、後にも先にも「倭人(阿波勢力)」しか居らんがな。 わははははは
碌に鉄器も作れん畿内土民ではしょせん無理なお話だ。 わははははは @阿波 >>638 孝霊厨
>まあ水銀朱を紀伊半島から調達して磯城県の港、八尾辺りで計測、分配していたのは確実だね。
残念ながら、後にも先にも「倭人(阿波勢力)」しか居らんがな。 わははははは
碌に鉄器も作れん畿内土民ではしょせん無理なお話だ。 わははははは @阿波 まだ諦めないのか、太一、天の中心に位置する星官。万物の出づる所は太一に造まり陰陽に化す。老子道徳経の巫女以外に無いのだよ、箸墓は大市の墓、偽称だな、卑弥呼は商売の神じゃあない、大一、天皇太一だね、それを補佐し助けるものを台と呼ぶ。伊勢は斎宮、太一がはためく。百襲の以前に前方後円墳無し、箸墓は五斗米道巫女の墓。 >>627
方角は間違えないよ
歴代中国史書群の記述からも説明出来きないな。
伊都は「前原〜糸島水道」付近ではない。
佐賀方面だな。インチキ野郎 >>643
伊都国は直方辺りだ。
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) @阿波 日本海周りであろうが、瀬戸内であろうが、また九州が倭国であろうが、箸墓が卑弥呼の墓。邪馬薹が卑弥呼の道観、巻向にはもう既に紫禁城があったのだよ。 で、あるからして、
歴史上比定者にできる者は、張h瑛しか存在しない。 >>647
箸だけでなく、器(土器)も「阿波」だろうがよ。 わははははは @阿波 >>627
倭国に上陸したら、
東南500里へ進め、その次も東南100里へ向かえと、二重に東南へ行けと書かれている。
そして僅かに東へ寄った後も、南至る、南至る、とこれまた二重書きで、合計四重に南が出てくる。
にもかかわらず、無理やり北東の糸島へ、東の安徳台へ、と猪突猛進するやつは、デパートの陳列台の前でひっくり返ってダダこねる反抗期のお子さまレベル(笑笑笑笑 伊都国=三雲を認めない説が世間で受け入れられることはない
これは動かない >>644
>末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
「南≠東」に拠って、バツ。 >>645
>箸墓が卑弥呼の墓
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。 >>646
>で、あるからして、
歴史上比定者にできる者は、張h瑛しか存在しない。
日本国内史料で、「卑弥呼」の文字を記録出来たのは、
呉王夫差の遺民の姫氏松野氏系図しかない。 >>654
「東南≠北東」
徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
史料事実や史料実態に拠って、「前原〜糸島水道」付近はバツね。 まつらから500里行くと伊都国、必ず立ち寄る所。500×400m=200キロ、なんでこんなに歩くの?で、ここで揉める、これを考えるのは苦痛。場所が決まった所で次は卑弥呼の鬼道とは?皇帝曹叡の言葉、親魏の理由は?何故魏は卑弥呼に尽くす?等に移り、また日本に実在する前方後円墳、記紀との整合性も加味し、結局は卑弥呼とは何者か?どんな人間なのか?に行き着く訳で入り口で滞ると先に進まない。 と、いうわけで、卑弥呼は7歳から教育を受け217年以降列島に現れ、己れの思想を貫き列島の人々から慕われ30ヶ国を纏めた最初の大王であり、死後も伊勢に台等を残した水のように生きた巫女で今も箸墓に眠るんです。わかりましたか?で、赤福の最初の餅をついたのは阿波の技術者です。 斎しょうの天文、星占、風占、災異の讖いは巫術。隋書、601倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天が未だ明けでる時には出でて…。斎は、夜祭祀を行なう。九州説は終了です。 >>655
>日本国内史料で、「卑弥呼」の文字を記録出来たのは・・・、
あのな、「張h瑛」は母国である中国の史料に登場するんだぞ。 >>653
>「南≠東」に拠って、バツ。
方角記載など無い! 拠って、バツ。
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦) @阿波
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦) どこの池沼なのか知らないけど、
ウセロ、消えろと言っているのが、わからないのか?
掲示板とか何やらとか、
そういう話でもないし、関係ない。 >>653
>「南≠東」に拠って、バツ。
方角記載など無い! 拠って、バツ。
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦) @阿波 >>656
古代中国での「目的地の位置や行程説明の原則」は、
(おそらく列島でも人類でも同じだが)、
「部分行程説明で繋いでいく」事が原則であり、
それから、全体の大体の方向や距離を推定する事が原則であり、
部分行程も、逐次的順次式に説明する事が原則であり、
また、皇帝の詔書や金印や大量の下賜品を、
卑弥呼に届け南ければならない魏の役人らは、「安全」が絶対的な必要条件であり、
渡海や水行は出来るだけ最小限であり、山越えや獣道は出来るだけ避ける事が原則だろうね。
だから、伊都国の位置は、史料事実や史料実態に拠って、「前原〜糸島水道」付近だろうね。 >>65
>まつらから500里行くと伊都国、必ず立ち寄る所。500×400m=200キロ、なんでこんなに歩くの?で、ここで揉める、これを考えるのは苦痛。場所が決まった所で次は卑弥呼の鬼道とは?皇帝曹叡の言葉、親魏の理由は?何故魏は卑弥呼に尽くす?等に移り、また日本に実在する前方後円墳、記紀との整合性も加味し、結局は卑弥呼とは何者か?どんな人間なのか?に行き着く訳で入り口で滞ると先に進まない
そりゃ、キミら大和説学者らが、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な読解が出来ず、
「天地開闢以来大和朝廷が日本を支配するべく天孫降臨された」、という、
分裂幻覚の妄想的な「結論先にありき」思考になっていたから。 >>659
>と、いうわけで、卑弥呼は7歳から教育を受け217年以降列島に現れ、己れの思想を貫き列島の人々から慕われ30ヶ国を纏めた最初の大王であり、死後も伊勢に台等を残した水のように生きた巫女で今も箸墓に眠るんです。わかりましたか?で、赤福の最初の餅をついたのは阿波の技術者です。
という訳で、この大和説男も、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙し男であり、
国民や人類の敵なんでしょうね。 >>666
>古代中国での「目的地の位置や行程説明の原則」は、
>(おそらく列島でも人類でも同じだが)、
>「部分行程説明で繋いでいく」事が原則であり、
ということは
繋がってない古田説は間違い >>653
>「南≠東」に拠って、バツ。
方角記載など無い! 拠って、バツ。
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦) @阿波 >>661
>斎しょうの天文、星占、風占、災異の讖いは巫術。隋書、601倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天が未だ明けでる時には出でて…。
斎は、夜祭祀を行なう。九州説は終了です
関係がありません。
隋書は、九州俀國天子(兄)と、その弟(大和王ら)の兄弟執政としての説明です。 >>671
それは特殊な人だけの特殊読みだよ
世間の普通の人は誰もそう読まない もう「白村江で負けたのは日本」って金石文が出てるんだから、九州王朝説は終わりましたよ 正直現時点で畿内説以外の選択肢なんてないと思うけどな。
倭人は呉太白の末裔を自称してたとするなら、神獣鏡の件だって国産できるのは当然の事だろう。工人だって倭国に往来してるだろうし。
三世紀の鬼道の宮なら巻向遺跡辺りに候補地なんてないんだぞ。
鏡に水銀朱、桃まで揃ってるなんて誰が見ても鬼道、道教だ。 >>674 孝霊厨
>正直現時点で畿内説以外の選択肢なんてないと思うけどな。
碌に鉄器も作れない畿内に選択肢なんてある訳ないだろうがよ。 わははははは @阿波 煽り目的の阿波君に付き合うつもりはないのでレスは一切しません。
三世紀の画文帯神獣鏡が奈良盆地西の上牧、香芝辺りから出土したのは大きいね。
久度遺跡という名前も意味が判りやすい、近所では王寺町にも久度の地名がある。
やはり邪馬台国と狗奴国の関係は元々かなり近い関係なのは間違いないだろうね。 >>676 孝霊厨
煽り目的もなにも、真実を言ってるだけのこと。
碌に鉄器も作れない畿内に選択肢なんてある訳ないだろうがよ。 わははははは @阿波 >>670
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万ズッタ浦)は、やめてくれぬかのゃ
舌噛んで、この2-3日お口の中が腫れてのう >>677
そういう中身のない発言を「煽り」という >>679 孝霊厨
煽り目的もなにも、真実を言ってるだけのこと。 @阿波 孝霊厨は、畿内説の痛いところを突かれると、すぐ「煽り」という。 @阿波 そりゃ孝霊厨じゃなくても
阿波みたいな痛いヤツの相手なんて誰もしたくないだろw 二世紀以降なんて畿内には近江と淡路島に鉄工房もあるじゃん >>683
>二世紀以降なんて畿内には近江と淡路島に鉄工房もあるじゃん
近江と淡路島が何時畿内になったんだ? わははははは @阿波 >>683
もう、畿内説はない。 諦めろ。 @阿波 >>681
泡は畿内説の痛いとこなんか突いた事はない
わけの判らないことを言って独りで笑っているだけ
会話が成立してない 近江と淡路島で畿内をガードしてんだろ、そんなの常識w
アホの泡にはわからんのだな >>687
>近江と淡路島で畿内をガードしてんだろ
わははははは もう、畿内説はない。 諦めろ。 @阿波 >>687
畿内はこれといった遺跡が無さ過ぎ。 もう、畿内説はない。 諦めろ。 @阿波 >>690
孝霊厨などは、畿内説の痛いところを突かれると、すぐ「煽り」だ「荒らし」だという。 @阿波 >>690
孝霊厨などは、畿内説の痛いところを突かれると、
すぐ「煽り」だ「荒らし」だといって逃げる。 @阿波 >>690
畿内はこれといった遺跡が無さ過ぎ。 もう、畿内説はない。 諦めろ。 @阿波 高霊某よ、答えてやれよ
683: 02/16(水)04:33 AAS
おはようございます
奈良の平城京の敷地内、もともとは皇族の敷地内に鎮座する宇奈多理神社
この神社は、宇佐の奈多神社からきたのだろう
この2つの神社が、九州と奈良の関係を明らかに出来る予感がする
どなたか興味あるなら調べて下さいm(__)m
福岡説スレより 古代奈良の豪族と神は九州から移動したんだろうな
宇佐の奈多宮→奈良の宇奈多理神社 >>689
>畿内はこれといった遺跡が無さ過ぎ。
無知な人が知らないだけ >>690
孝霊厨などは、畿内説の痛いところを突かれると、
すぐ「無知」だ「煽り」だ「荒らし」だといって逃げる。 @阿波 >>696
孝霊厨などは、畿内説の痛いところを突かれると、
すぐ「無知」だ「煽り」だ「荒らし」だといって逃げる。 @阿波 >>696
孝霊厨などは、畿内説の痛いところを突かれると、
すぐ「無知」だ「煽り」だ「荒らし」だと拒否するが、
少しも反証を挙げられることが出来ない。 @阿波 >>694
平城京は整地する際に神功皇后の御陵他の集中する、古墳密集地域にかかってしまっているからだろう。
大規模な前方後円墳も消失しているからな。
その為に平城京に設けられたと個人的には推測しています。
宇佐の奈多神社と関連つけるなら、破壊された中に神功皇后絡みの古墳も含まれていた可能性がある。
勿論神功皇后自体が奈良の葛城出身だから宇佐の秘密等には関係しないだろう。 平城京整地に際して破壊され、半部残ってしまった市庭古墳には注目したい。
現在は平城天皇が被葬者として5世紀の前方後円墳という事になっているが、これはかなりおかしい。
多の周辺の古墳とは明らかに異なる特徴なのと、類似の物は河内、古市古墳群のもの。
既に半分破壊されていているがもう少し古いだろう。 阿波君には過去に何度も同じ質問を受け、返答もしていますので。
阿波は狗奴国、畿内ヤマト勢力の一部という認識で邪馬台国ではい、という結論です。
なのでそういう輩にはレスはいたしません。
また廣志の文によると阿波がヤマイチの位置に
あたる事はあり得ませんので、私の中での可能性はゼロになりました。
つまり邪馬台国の候補地としてはどうでもいい場所です。 >>703
孝霊厨などは、畿内説の痛いところを突かれると、
すぐ「無知」だ「煽り」だ「荒らし」だと拒否するが、
少しも反証を挙げられることが出来ない。 @阿波 >>673
>もう「白村江で負けたのは日本」って金石文が出てるんだから、九州王朝説は終わりましたよ
ダメです。「日本」國という呼称は、舊唐書や唐会要に書かれたように、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,並倭國之地」であり、
元々、九州倭國が自ら「日本」とも称していた、と記載されており、
その事は、釈日本紀に書かれたように、
西晋惠帝の時に、当時の倭國(大和の日本国はまだ成立していない)の遣使が、
「日本」と称した記録があり、
しかし、ヲホド継体の反乱で九州倭國のNo.2の「弟」的地位になっていた大和政権も、
釈日本紀引用の延喜講記の記載のように、用明の時に、
小野妹子が隋文帝に「日本國」を申請して「倭國本国の承認を得ていない」と拒否され、
唐の武徳中になって、唐に「日本國」号を承認されたが、、
白村江でも唐は、対戦相手を「倭國」や「倭衆」や「倭賊」とのみ記録して、
大和の日本國も、九州倭國に付いて一緒に戦った事を記録しない、という事が実態であり、
従って、白村江の10年位後の墓碑に書かれた「日本」は、
九州倭國の事か?大和日本國の事か?がはっきりせず、
どちらにも可能性がある事になる。 >>674
正直現時点で九州説以外の選択肢なんてないと思うけどな。
九州の倭人は、燕の南の天孫族の倭人の渡来と、呉太白の遺民の渡来の末裔に、
徐福らの熊襲や猿田彦ら毛人などがいたのであり、
神獣鏡の件だって、魏の楽浪帯方攻撃戦争から避難しなくてはならなくなった、
呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、500個以上出土したのは当然の事だろう。
工人だって倭国に渡来してるだろうし。
三世紀の鬼道の都なら「弥生銀座」遺跡辺りにしか候補地なんてないんだぞ。
出雲系のト骨に変わって三角縁人獣鏡や鬼道が起きたのは、九州以外にはないぞ。 >>676
正直現時点で九州説以外の選択肢なんてないと思うけどな。
倭人の中には、紀元前5世紀の呉王夫差の末裔を自称している姫氏がいるから、
当然神獣鏡などまだ知っておらず、
倭人が国産出来なくて当然で、当然渡来の楽浪鏡師らの関与、というの事だろう。
工人技術者も、九州に渡来してる可能性はあるだろうし。
三世紀の鬼道の宮なら巻向遺跡辺りに候補地なんてないんだぞ。
鏡に水銀朱、桃まで揃ってるなんて誰が見ても3世紀最末以後だ。 >>683
>二世紀以降なんて畿内には近江と淡路島に鉄工房もあるじゃん
近江と淡路なら、どないみても、九州倭國の「東征毛人五十五國」の軍の通り道だな。 まあ結局私には廣志の再認識が畿内説を更に確信するきっかけになった。
特に傍国が河内国分、柏原市周辺だと気づかせてくれたのは目から鱗だったよ。
その柏原は鏡や鉄とも非常に所縁のある土地だしね、また金山彦、金山姫神社の所在地でもある。
三世紀後半なら鉄の痕跡も充分確認されている場所。
倭人は呉の太白の子孫を自認してたんだよな、確定だよ畿内説で。 >>703 孝霊厨
>阿波君には過去に何度も同じ質問を受け、返答もしていますので。
孝霊厨などは、畿内説の痛いところを突かれると、
すぐ「無知」だ「煽り」だ「荒らし」だと拒否するが、
少しも反証を挙げられることが出来ない。 @阿波 平城京跡にある破壊された古墳、市庭古墳は本当に残念だね。
あれは個人的にはもしかすると伊与辺りの古墳になりうるのではないか?と以前は考えていた墓の一つ、元々は円墳だと考えられていた。
もう一つ完全に消失した古墳もかなり巨大だったのも判っている。
でも無い物を期待しても仕方ないが、山城、山背がヤマイチ国候補地だとすると、もしかしてはあり得る。
椿井大塚山古墳だってこの地からはそう遠くはないからな。 >>704
>孝霊厨などは、畿内説の痛いところを突かれると、
痛いところって、何?
そんなもの実在するの?
泡と消える妄想じゃ無いの? >>715
畿内はこれといった遺跡が無さ過ぎ。 もう、畿内説はない。 諦めろ。 @阿波 >>716
もう同じセリフの連呼しかできないって、論破された人は惨めだね >>709
>鏡に水銀朱、桃まで揃ってるなんて誰が見ても3世紀最末以後だ。
誰が見てもと言いながら
そう言ってるのが貴方だけなのは、なぜ? >>717
孝霊厨などは、畿内説の痛いところを突かれると、
すぐ「無知」だ「煽り」だ「荒らし」だと拒否するが、
少しも反証を挙げられることが出来ない。 @阿波 何を言っても無駄、阿波は邪馬台国の位置論争とは無関係だから。
勿論日本の古代史の中では重要な場所ではありますのでそこは間違いないない。
ただ阿波君のは単に地元ひいきの話なだけで、何の学術的な考察もない、なので話す価値もない。
もしくは単なる荒らしと認識してます。 >>721 孝霊厨
>勿論日本の古代史の中では重要な場所ではありますのでそこは間違いないない。
片や畿内は、日本の古代史の中では全く重要な場所ではありません。 @阿波 >>707
同じ九州でも
博多、糸島市はないぞ。
壱岐は廃れているが
卑弥呼の時代にト骨が突如出土
は佐賀と八女の二カ所
また丹山神社も多い、国内外の水銀の拠点
大分の宇佐周辺も多い第二拠点。
糸島市、博多は楽浪居住地域になっている。 >>721 孝霊厨
>勿論日本の古代史の中では重要な場所ではありますのでそこは間違いないない。
片や畿内は、碌に鉄器も作れない所。
よって、日本の古代史の中では全く重要な場所ではありません。 @阿波 >>711
まあ結局廣志の再認識が、孝霊の、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しがバレて、
大和説が更に破綻するきっかけになった。
特に北部九州も傍国が「河内国分、柏原市周辺だ」と妄想してくれたのは、
目から鱗だったよ。
その「柏原の鏡や鉄」ともほぼ4世紀だしね、
また「金山彦、金山姫神社」とかの「金山が実際に見つかっておらず単に地方の金市の存在を示す」だけの事や、
大和の鉄の大量の出土は三世紀最末〜4世紀」のホケノ以後である事など、
卑弥呼の都ではない事を十分に示している場所。
倭人の中の姫氏は呉王夫差の子孫を自認してたんだよな、確定だよ九州説で。 >>713
>平城京跡にある破壊された古墳、市庭古墳は本当に残念だね。
あれは個人的にはもしかすると伊与辺りの古墳になりうるのではないか?と以前は考えていた墓の一つ、元々は円墳だと考えられていた。
もう一つ完全に消失した古墳もかなり巨大だったのも判っている。
でも無い物を期待しても仕方ないが、山城、山背がヤマイチ国候補地だとすると、もしかしてはあり得る。
椿井大塚山古墳だってこの地からはそう遠くはないからな。
「南→東」は「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの「孝霊」は、
史料事実や史料実態には拠らず、
「なりうるのではないか?」とか「もしかしてはあり得る」とかの、
一種の分裂幻覚の妄想のような記載ばかりに執着しており、
一種の精神病疾患的な病人なんでしょうね。 >>728
「東南→北東」
大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人ではない
所を卑弥呼の冢だという
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しが書いてもな。 >>731
そうだな。近畿説もそう思うけど。
邪馬壹國は近畿一帯。
http://inoues.net/honpen01.gif
若狭湾、兵庫、大坂に弥生後期、
三世紀初めに奈良の開拓着手
共立され九州に行った
卑弥呼・壹與のおかげだな。 >>733
>そうだな。近畿説もそう思うけど。
そんなこと思う理由は? ただ自分の意見に反対する者を罵るんでは、何の進歩もできないぞ 日本史板に邪馬台国スレを立てて板を荒らしまくる考古学厨は考古学板に行けよ
お前ら日本史板にいなくていいから これだけ悪態つかれてレスする理由はありませんよね、時間の無駄。
そもそも弥生時代中期以降は畿内、河内湖に周辺に大陸からの交易の流れがある事は既に証明されてますよね。
卑弥呼のいた邪馬台国なんて三世紀の話ですから、当然畿内は遺跡や出土品の点でも都としての資格は充分過ぎる程あります。
また北部九州を越える戸数を見込める唯一の場所です。
私もヤマイチ国畿内説でこれからは固めようと思います。廣志での解釈はその裏付けになりますね。 743 孝霊厨 sage ▼ New! 2022/02/16(水) 18:14:26.21 [0回目]
これだけ悪態つかれてレスする理由はありませんよね、時間の無駄。
そもそも弥生時代中期以降は畿内、河内湖に周辺に大陸からの交易の流れがある事は既に証明されてますよね。 >>734
>九州の丹生神社は全部式外社
有難う。
九州倭國の別種分家の旧小国で、後に九州倭國のN0.2の「弟」になって、
白村江の大敗の後で九州倭國を併合吸収継承した大和日本國は、
九州倭國の存在を抹殺しなければならず、
焚書坑儒ならぬ「禁書」や、全部「式外社」にする事などの暴挙まで、
していたんだね。 >>700何だかわからないわ
奈良と九州の関係を聞いてるんじゃないのかなあ
歴史は何でも奈良だと思ってますか? >>743
これだけ悪態つかれてレスする理由はありませんよね、時間の無駄。
そもそも弥生時代中期以降は、河内や大和は、
九州倭國の東征毛人五十五國で出来た分家別種の倭種の、
「地方の市を監督する大倭職」の国であったのであり、
大和や河内湖に周辺に大陸からの交易の「筑紫を介しての流れ」がある事は、
既に明らかになってますよね。
卑弥呼のいた邪馬壹も三世紀の話ですから、当然筑紫の「弥生銀座」は、
遺跡や出土品の点でも都としての資格は充分過ぎる程あります。
また列島でも最大の戸数を見込める唯一の場所です。
私も女王之所都の弥生銀座説で、これからは固めようと思います。
廣志での解釈はその裏付けになりますね。 奈良説も思い込み創作ばかりだな
九州説、四国説>>>>>>>>>>奈良創作 >>744
これだけ悪態つかれてレスする理由はありませんよね、時間の無駄。
そもそも弥生時代中期以降は、
糸島から早良平野や福岡平野や筑紫平野や、その周辺に、
大陸からの交易の流れがある事は既に証明されてますよね。 >>746
ヤマト朝廷と太宰府の関係だと思いますが?
勿論対半島との関係もあり、反ヤマト朝廷的な勢力があったとは思います。
歴史は何でも奈良というより、弥生時代後期以降は畿内に権力を持った勢力が国を成立させた場所と認識しています。 >>739
>あんたが先に書いただな。
田吾作さん、何を? >>741
>これを見たからだな。
それが何なの? >>745
倭国 57年の金印 漢委奴国王
女王国 親魏倭王 近畿にある邪馬壹國(小国)なんだ。
元は小国、倭国を併合 >>754
倭奴国は倭国(=卑弥呼が共立された)の極南界 愚かな、まあどの説でも構わないが、邪馬薹は卑弥呼の国で卑弥呼を突き詰めていかないとまあダメで、また陳寿が記したのは魏志であり、最も重要なのは皇帝曹叡の言葉と判断なんですよ。後世暇な中華の賢人達が皇帝の人となりを批評しだすんですから。皇帝曹叡の判断に繋がる女王国でなければ其処は邪馬薹ではありません。天皇太一を補佐し助ける者を台と呼ぶ。宗女台与が後を継いだ時点で魏は十分理解しているんですよ。老子道徳経五斗米道巫女以外に箸墓大一の墓は、ありえません。 日本では孝霊、これは確かに重要な部分ですね、ただ崇神までとにかく皆長生きで話が信用しがたく、考古学、専門的な人間でないととても無理ですね。 表現力が低い人は何を言ってるのか分からないもんだな 陰謀論的に九州王朝等を語るのも別にいいけどね、実際記紀で歴史スルーされてるのは葛城に基盤を持つ欠史八代なんだしな。
現に葛城地方からどんどん出土品も出てきて今や弥生時代中期の時点で鏡や最大の水田跡まで確認されてる位だ。
実際会った歴史好きの人でも知らない人沢山いたからな。
まあ年齢的にあまりネットに触れない人も多いが、若い人でも結構いるのは驚きでした。
邪馬台国特集のムック本とかしか見ないんだろうね。 ただ晋書宣帝紀には240年春正月東倭が朝貢してきたとはある。が東だ。九州は終了です。 >>763
孝霊厨は、妄想の塊だからw 孝霊厨の自論根拠は、妄想と伝承のみ。 @阿波 >>755
魏志倭人伝に記載はないな。
57年までは狗奴国も範囲と推測
また、ト骨、丹、橘で範囲も広がる。
なので南至 水行二十日,水行十日,陸行一月
詳細な経路がないのは行っていないからだな。
まあ、行く必要もない開拓地域。
帰路時期の関係上、さらに日数掛かるから
行かない。 小笠原発見 海部の船乗り
350年前(江戸時代前期)、海部浅川港出航、難破し漂着
調査し幕府に報告、領有に貢献 @阿波 >>750
>九州には天照大神クラスの女性の神がいない
天照は、対馬に「天テル神社」があるし、壱岐に「天の原」があるし、
沖ノ島に「天の岩屋」もあるし、
卑弥呼も壹與も北部九州のいたし、
櫛田姫らの女王らもいた。 >>762
王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
もあるな。壹與ではないかもしれない
金印返却の記禄もない。 >>756
>・・・老子道徳経五斗米道巫女以外に箸墓大一の墓は、ありえません
「箸墓」説は、「南≠東」や「卑弥呼も冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國は九州」や「大和は九州倭國の東征毛人五十五國の旧小国」や、
「箸墓は4世紀」などによって、バツですね。 >>758
>日本では孝霊、これは確かに重要な部分ですね、ただ崇神までとにかく皆長生きで話が信用しがたく、考古学、専門的な人間でないととても無理ですね。
二中歴の年代歴に拠って、大和では西暦479年頃まで「二倍年歴」を使っていましたよ。 >>765
>魏志倭人伝に記載はないな。
>57年までは狗奴国も範囲と推測
奴国、○奴国、狗奴国などのナ系の国は、在来の弥生人・縄文人などの旧国家。
そこに2世紀後半、帯方郡下の漢族系馬韓族が大挙渡来し、末盧国唐津から佐賀平野に抜けて進攻(侵略)してきた。
馬韓族はさらに、筑後平野八女に邪馬国を、長崎島原に斯馬国を、肥後熊本に邪馬台国を、日向に投馬国を、と相次いで国を建てた。
つまりこれが、馬韓系「馬国連合」である。
倭人伝が書き残したのは、帯方郡によるこの倭国進出(侵略)の実記録なのである。 >>767
共立で近畿からやってきたのだから
当然いる。九州の安定化で鉄が増えだす
邪馬薹の一部が奈良なんだな。 >>762
>ただ晋書宣帝紀には240年春正月東倭が朝貢してきたとはある。が東だ。九州は終了です。
晋書なんて、はるか後代の唐代に書かれたんですから、
「同時代史書」では全くなく、参考文献程度にしかならないし、
「東倭」という文言がどこを指しているのか?も不明であり、
論拠になんか使えませんよ。 >>772
なので、岩戸伝説が
九州にも近畿にもあるのである。 >>771
倭人は呉太白の末裔じゃないとな、つまり畿内で正しい。 >>775
倭人は呉太白の末裔もいる。
要するに多種なんだな。 呉系の倭人で海人というと河内の現在の南河内や和泉地区が真っ先に思い浮かぶね。
古くから朱丹を使う点といい、少なくとも弥生時代中期以降に大陸から目指したのは畿内という事になるんだよ。
九州の方が近いのだからその痕跡が多いのは当然だが、それでも南ではなく東を目指した流れがあるのは当然の事だね。 「小笠原発見 海陽(旧海部郡)の船乗り」 令和4年2月17日 徳島新聞朝刊
350年前(江戸時代前期)、浅川港出航、難破し漂着
調査し幕府に報告、領有に貢献
東京都心から南1200`の太平洋に位置する小川原諸島は、約350年前の江戸前期、
海陽町浅川の船乗りが発見し、初めて上陸を果たしていたことは、あまり知られていない。
幕末に多くの外国船が来航した際も、この時の資料が、日本の小笠原領有に大きく貢献したといわれている。
世界遺産でもある小笠原諸島と徳島のゆかりを、あらためて紹介する。
国立公文書館が所蔵する公式資料「小笠原島紀事」(1874年)や「寛文無人島漂流記」(刊行年不明)に、
その経緯が詳しく記されている。
1669(寛文9)年10月、船頭の勘左衛門ら4人が帆船で浅川港を出港。
和歌山県有田に立ち寄ってミカンを積み、荷主ら和歌山の3人を乗せて計7人で江戸に向かった。
ところが、嵐に遭遇して静岡県沖の遠州灘で難破。70日余りの漂流の末に70年2月、小笠原諸島の母島に漂着した。
一行7人のうち勘左衛門は直後に死去してしまう。残った6人は周辺の島々を調査し、
小笠原固有の動植物の生態など貴重な島の様子を記録に残した。
その後、破損した船を新しく造り直して島を出発。八丈島を経て、5月初めに伊豆の下田に辿り着いた。
彼らは下田奉行所に、漂流の経緯や小笠原諸島の様子を詳細に報告した。
この報告書を基に、幕府は1675(延宝3)年に探検隊を組織して小笠原に派遣し、さらに詳しく調査している。
当時は無人島だった小笠原諸島には、幕末になると外国船が多く来航し、各国が領有権を主張した。
しかし、浅川の船乗りたちが発見して上陸調査し、詳しく報告した公式記録があったから、領有権争いにならず、
日本の領土として国際的に認められたという。 @阿波 >>777
糸島、博多湾の楽浪からの移民との
摩擦を避けて東だろうな。
なので、ト骨が壱岐以外から出てこない。
後期になって、佐賀、八女から出土
卑弥呼・壹與と被る。 ト骨は弥生時代中期以降に青谷から畿内方面にかけて出土例が多いからな。
それだけでも九州説ダメだろう。 >>778
倭国(阿波)「狗奴国」の末裔だ。 さすが、海人族。 @阿波 九州方面で気になる姫の存在は神夏磯媛だろう。降参して三種の神器をもってやって来る話があるからな。
これは個人的には場所的にもトヨ、イヨが女王の地位を失う逸話を示唆する可能性が考えられますね。
卑弥呼=百襲媛が讃岐や愛媛での逸話が中心なのに対して、イヨは九州寄りの活躍だったのだろう。宇佐の存在はその名残だというのが私の考察だね。
百襲媛が神大市媛と神の名前が付く点も同じ。 それにしても、池沼みたいな・・・がいるけど、何なんだろう、
もともと日本(日本人?)の話ではないんだけどな。
成り済まし、騙り、そういう何かばかりなんだろう?
天皇〜とか後付け、時代とかも・・・だしな。 かなり前の事になるんだけど、
とあるゲーム内に作成したキャラクターがいる。
キャラクター名。
とあるカブキ役者?下の名前だけ同じw 探偵eye〜?
主人公がいるでしょ「りん、りん」と言っていたり。 『セメント通り ふれあい館』
数代前に・・・説明図、地図「■」
ここに引っ越してきた家。 貼り付けている写真も・・・、
この書き込みをしている、家のなんだけどな。
『天財若子』(〜?)こういう家。 古事記「国生み」のオノコロ島
孀婦岩、伊豆諸島の最南端に位置する岩である
海洋民族の伝承
https://www.youtube.com/watch?v=psm0hmcWBQg 妹がいるんだけど・・・「りん」?妹の子供の名前と同じ、
それと謎の震災〜何やらとかw
何かしたヤシがいるんだろう?
という書き込みをしている人もいた。 三種の神器は、景行天皇の先祖が天の岩戸隠れの際に
太占で占い、賢木に八尺瓊勾玉、八尺鏡、布帛を奉げて祝詞を唱えた 『天財若子 天若』
なぜか、老婆談?ほとんど同じ・・・話をしていた。
『天若 作品』 コミック(作品)の話ではないんだけどw
某マイク・オー?5月□□日生れ、なぜか妹と同じだしな。
あの曲とか、最近・・・わかったのかな?
????〜海底〜人魚〜・・・鳳凰みたいな・・・とか。 まあ、北部九州や奈良盆地には、超先進文化技術国「邪馬臺国」や「狗奴国」が興る要素を見い出せない。 @阿波 どこのゴミの集まりなのか知らないけど、
消えろと言っているのが、わからないのか?
それが嫌なら(この書き込み)言ったことを守れ。 成り済まし、騙り・・・、
何なのか知らないけど、なぜ偉そうなことを語っているんだ?
まず必要ない人間から処分しろ、一般人ではなく、いるでしょ? 何なのか知らないけど、
・・・コミック(ジョジョ)の話と同じだと思っているのかな?
家は、オマエ(馬の骨?)の家の、
側近(警護?)〜、何やらでもないんだけどwwww ただ、なぜか・・・同じだと言っているだけ、
馬に乗っていて〜みたいな話も同じ。
老婆談によると『日本昔話 石楠花』とか、
先祖(確実に親戚、時代的にも、かなり最近)? 三世紀末の超最新文化技術は道教、神獣鏡だよ。錬丹術は後の錬金術にも繋がるんだしな。
まあ技術的には銅鐸が造れる時点で高度な物を得ている。
何より伊勢遺跡なんて通説より数百年早く煉瓦技術を使用しているぞ。 例『七夕 王母』
このような・・・も、家の話なんだけどな・・・。 「邪馬臺国」や「狗奴国」が興る要素を見い出せない。 @阿波 それにしても、何かのドラマ(日本)のスレッド、
どこのコジキなんだwwwwwwみたいな話、書き込みと同じ。
阿波、四国周辺を・・・テーマにした作品。
なぜだと思う?財何やらとか、
もともと・・・他の家(ほんとーの?)があるだろ? >>803 孝霊厨
三世紀末の超最新文化技術は鉄器鍛冶だよ。 倭国(阿波) @阿波。 明治時代とか?かなり最近の話なんだけど、
後に・・・財?みたいな家になった、人物?
その・・・話?どこのコジキwwwwwwみたいな。 実際は、それ以前、
もともとの・・・何かの家、人物(財とか)があるんだろう? >>803 孝霊厨
碌に鉄器も作れない畿内は、論外だ。 わははははは @阿波 まあ、北部九州や奈良盆地には、超先進文化技術国「邪馬臺国」や「狗奴国」が興る要素を見い出せない。 @阿波 そういう作品(映画、ドラマ〜?テレビw)とか、
観ていないから知らないんだけど、
とある・・・スレッド、そういう話、書き込みをしている人がいた。
どこの・・・なんだwwwwwwとか。
四国?そういうところが舞台になっている。 ほんとーは、近代の財(不明、家や人物)とか、
それ以前の・・・何かの家(人物)があるんだろう? ・・・、おかしな話ばかり、
老婆談wなぜか、それらしき話ばかりしていたしな。 しつこいようだが元々2ch時代、阿波スレは私の隔離スレとしても建てられくらい阿波を推していたんだから、
いくら阿波の優位性を私に説明しても無駄。そもそも四国を調査としても各所回っていたしな。
だが阿波の優位性は邪馬台国の位置問題とは直接関係ない。
畿内ヤマト朝廷を形成する一部の国という以上の認識はないからな。
まあ廣志の記述がダメ押しだね、阿波じゃヤマイチ国の説明が100%不可能。 家の話w
なんとかドラマとかあるでしょ、ほとんど観ていない、
(日本のwというか日本のなんだけど)大河〜とか、〜とか。 結論としては廣志の記述は倭国は出雲丹波の事 で伊都は亀岡辺り。
その南のヤマイチ国が山城、山背エリアでその傍国が柏原、河内国分、近つ飛鳥辺りになる。
巳百支国が奈良盆地西南部辺りだろう。
続く伊邪国は伊賀、もしくは伊勢になる。 >>815 孝霊厨
>畿内ヤマト朝廷を形成する
「魏志倭人伝」の時代に、畿内に「畿内ヤマト朝廷」なるものが存在した痕跡は微塵もない! @阿波 >>817 孝霊厨
>結論としては廣志の記述は倭国は出雲丹波の事 で伊都は亀岡辺り。
結論として、「魏志倭人伝」からの逃避に過ぎない。 @阿波 三世紀後半というと北部九州と出雲からは硯が確認され、墨書土器が三重県松阪辺りに多く出土しているからな。
これは大陸からの交易がそういうルートであったに他ならない。 >>820 孝霊厨
砥石だな。 わははははは @阿波 ほんとーの家の・・・なんだろう?
老婆談によると、何かの家・・・みたいな話もしていた。 奈良に何らかの国が成立していたことは誰もが認めるところだろうが、邪馬台国と無関係なのは確実
ろくな鉄器製作の技術もなく、鉄器が出土しない奈良にそんな国があったわけないし、
牛馬がいない以上、広い範囲を治めることは不可能で、「国」と言っても現代で言えば村のレベルでしかない 阿波では七万戸の国を想定出来る場所がないのも致命的だね。元々阿波推しをしたのも畿内説で七万戸なら畿内だけでなく阿波を含める可能性がある、と推定していただけの話だからな。
崇神天皇は高屋阿波良媛の存在から四国阿波、内陸部に基盤があるだろう。だが孝霊天皇には痕跡が全くない。
淡路島にハエイロネが宮を持つが、出身地は磯城県なので畿内勢力なのは確定済み。 例『Mike Oldfield - Let There Be Light (Full version HQ)』 ほんとーは、家の話なんだろう、
妹がいるんだけど、5月〜日生れ、同じ。
『』こういう家。 >>824 孝霊厨
阿波では七万戸の国を想定出来る場所が、大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群。
畿内を始め、他のどこにも、こんな遺跡群は存在しない。 @阿波 >>824 孝霊厨
>出身地は磯城県なので
孝霊厨お得意の、まったく根拠のない自分勝手思い込み。 わははははは @阿波 孝霊厨は遺跡根拠を示せない遺跡素人。 わははははは @阿波 出雲の硯で思い出したが、田和山遺跡なんて実は魏志倭人伝に出てくる宮そのものの痕跡もあるからな。
本当に伊都は出雲の事で、九州は単なる勘違いという考察があってもいいかもな。 塩田とか・・・、以前、そういう話もした、
どのスレッドだったかな、もれwの書き込み。
老婆(談)が言っていたんだけど、海まで水を汲みに行ってとか。 >>832 孝霊厨
さっそく、阿波では七万戸の国を想定出来る場所が、大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群。
からトンズラ。 わははははは @阿波 家は『』・・・こういう家、
でも、なぜか、
家は、そういう業者、職?(塩なら塩を作っているとか)でもない。 まあ阿波はせいぜい一万戸程度だな、まず葛城の水田跡を越えないと話にはならない。
四国では高知の方がはるかに多くが見込める。 『セメント通り ふれあい館』近所w
数代前に、ここに引っ越してきた家、埋立地のほうの話もしていた、
まだ、そんなに・・・現在みたいなにはwなっていなくて・・とか。 川崎区には、いつ頃から住んでいたんだろう、
ほんとーは、かなり昔から、住んでいたのかな?
その後に、いまの福島県のほうに引越したのかな?
福島県のほうに住んでいたことがあった。 出雲や丹波地方に孝霊天皇の伝承が多いから、出雲を重視するのは当然の話。
現在最大の弥生時代後期の遺跡なのは妻木晩田遺跡。ここの名前も孝霊天皇からつけられたものだからな。
出雲と大和は切っても切れない関係にあるのだから仕方ない。 『伊達郡 霊山町 霊山城』
この辺りの話もしていた、山の上のほうの・・・。 >>836 孝霊厨
無残に土砂に埋もれた葛城の水田跡をいくら持ち出しても、
大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群の相手ではない。 わははははは @阿波 >>839 孝霊厨
>出雲や丹波地方に孝霊天皇の伝承が多いから
孝霊厨は遺跡根拠を示せない遺跡素人。 わははははは @阿波 『霊山 (福島県)』
・・・『王母 七夕』このような家。 数代前まで、どこかの城に行ったりしていた、
なぜか・・・いまの福島県(伊達郡)のほうだと言っていたしな。 例『埋立地 川崎区』
神殺し〜・・・みたいな曲と同じ、
他の勢力がやっていた、やっているのかな? 他の勢力に・・・乗っ取られた?そういう話でもない?
とある人物(時代)から見ると・・・先住民のような気もする。
正確には・・・違う、
ほんとーの何かの専門家、詳しい人物によると、
むかーしの中国の・・・。 ただ、東北地方のほうに・・・住んでいたというだけ?
実際は・・・中国(という国)の・・・。 例『第二次世界大戦』
おかしな・・・話だと(気づいている)知っている人は知っている。
何があったんだろう。 近代の〜みたいな家、人物の話。
財?何やらも没収されたとか、何があったのか、知らないけど、
・・・・・・・おかしな話ばかり? だから言っているだろう。
家の、あの写真を貼り付けた後、
「墓w荒wらwwwしwがw」
何やら〜というスレッドが建っていたことがあった。
何かの家?むかーしの何か・・・とか。 いまの福島県のw
とある山の下のほうにあった、芝居小屋(〜座)とか、
現在・・・民家園に保存されている。
老婆談によると、そこの話もしていた。 例『財 没収』
日本の?ではない・・・みたいな話も出てくる。 当時、日本が盗んだりした(?)、
他の国(渡来人など?)の・・・財とか? 戦後(〜世界大戦)の話。
日本が、他国(〜渡来系、渡来人含む?)から盗んだりした財・・・とか。 何か知っている人がいるのかな?
例『天若 作品』〜『』・・・。 老婆談w少し違うんだけど、ほとんど同じ話。
日本での話、駆け落ちした(泥棒のようなモノに?)、してきた?
・・・むかーしの中国の?何かなのかな。 泥棒のようなモノに入られたりしたというのも、
戦前、・・・明治時代・・・、もっと前?
『』こういう家の・・・w やっぱり都合が悪い書き込みなんだな。また変な荒らしがやってきた。 ほんとーに以前から書いている事なんだけど。
現在?家は、そういう家ではない。
泥棒のようなモノに・・・?、・・・、・・・とか、
でも何かのw家なんだろう。 日本の作品(〜)、
なぜか、ほとんど・・・家の話?みたいな作品ばかり。
すべてとは言わないけど、なぜか? 実際は?正確に言うと・・・、
『』ここに住んでいる家の話なんだけどな・・・w
川崎区というところの南部のほう。 数年前の、とあるスレッド。
それで、どこの、
お嬢様なんだ?みたいな書き込みをしている人もいたような。
家ではない・・・w
・・・人物に関する、そういう書き込み(話)。 詐欺、詐欺師?
よくわからないけど、
そういう事ばかりしている池沼がいるんだろう? チンピラなのか、何なのか知らないけど、
ふざけた事ばかりしてんじゃねーぞ!!という書き込みをしている人がいた。 とある企業とかあるでしょ、
かなり有名な・・・日本のw、
成り済まし、本人(ほんとーの家の)の代わりにやっている?
そういう話をしている人もいた。 正確には、犯罪・・・組織、そういう企業。
正式なモノではない。 代理、・・・入れ替わった、入れ替わっている?
それとも、ただの成り済まし、騙り? 「さあ?」
創価か何かなんじゃないのか?みたいな話ばかり。 成り済まし、騙り・・・何なのか知らないけど、
刑務所に連れて行き、死刑にしたほうが良いぞ。 オマエ(?)に言っているんだけどなwww
かなり有名な企業?日本の・・・。 ほとんど・・・正式なものではない、実態(実体)もいない、
犯罪みたいな・・・? ちなみに家は『セメント通り ふれあい館』
「■」このようにw
なっているところに住んでいる。 ほとんど犯罪と同じ、
そいつ(?)のw所有している財なども、
すべて没収して良いから、
家に、返しておいて、ちなみに家は『』こういう家だから。 ・・・(一度も)挨拶にも来ないから、言っているだけ、
「???」? 成り済まし、騙り・・・何なのか知らないけど、
消えろと言っているのが、わからないのか? 何かしたヤツがいるんだろう?と言っている人がいたでしょ。
数年前の、とあるスレッド。 刑務所というところがあるから、
そこに連れて行け、どこの池沼なんだ。 何の権利も権限もない人間が・・・いるでしょ?
説明不要、池沼か何かなんだろ? どこの馬の骨なのか知らないけど、
オマエ(?)に言っているんだよ、わからないのか? いい加減に気づいただろう。
すごい、お金持ち・・・?みたいな・・・なんだろうという話(作品とか)と同じ。
すぐに、殺せとか、〜に沈めて・・・処分しろとか。 『ウラシマまりん』キャラクター名。
これはコミックなんだけどw
他の国の映画とかでは、ありそうな・・・。 何か飼っている、番犬みたいな?・・・を、
けしかけて・・・とかw
よくわからないけど、他の国の映画にありそうな。 でも、もれの記憶には・・・・、
そういうことは、一切、ないんだけどw
老婆談によると・・・、それらしき話ばかり、
むかーし、どこに住んでいたんだろう。 何かの・・・家みたいな話。
駆け落ちした、・・・してきた?
老婆談。 ・・・たしか、
そういう作品(例えば映画、小説でも良い)とか、あったような・・・と思っている人もいるはず。 例『サメ』
ウラシマまりんのネタ?。
サメのいる・・・に落として・・・みたいな? ・・・『』こういう家w
・・・・・・・・・・・・・。 偶然にしては・・・、おかしな話ばかり。
近代の(戦争?犯罪者とか、加担者)でもないしな、
華族とか、そういうのでもない・・・。
ただ「」こういう家だと。 例『天若 作品』
『王母 七夕』
・・・女の先祖(現在、女の親戚もいる)・・・という話も同じ。 それにしても・・・、
かなり有名な、日本の企業(〜屈指の企業に成長)とか、
実体(実態)がないw・・・・・そういう論もあったような。 それにしても、
ほんとーに、
悪く言うと成り済まし、騙りとか、必要ないから、
消えろと言っているだけ・・・、わかった?理解できた? ほんとーに、そんな・・・家の人(人物)いるの?
と思っている人もいるんだろうけど、
「」この家が、そう。
『』ここに住んでいる家。 あるでしょメディア、テレビ(ラジオ、本や書籍、雑誌)とか、
そういうモノに出てきたり〜という家(職)でもない。 あんたか、荒らしは、昔から居たよなぁ、よせよ、人の嫌がるような事をするのわ。他説か皇国か知らないが、この際だから言ってやろう。箸墓に眠る巫女は、五斗米道巫女で列島最初の大王であり、道教で云うところの初代天皇太一であり、以後大王は、天がついていくんだよ。 聖人(どの教え?宗、宗派なのかは)か何かなんじゃないのか?
という書き込みをしている人もいた。
聖人を殺したりでもしたのか?とか。 あの震災の後くらい?数年前の、とあるスレッド。
なぜか詳しいような?・・・人(書き込み)がいた。
どうした聖人でも殺したのか?とか。 ウラシマまりん(キャラクター名)の設定?
テレビとか・・・必要ないという話と同じ、
必要ないというか、・・・あまり見ない?見たいものがない。
書いてあるでしょ?
ウラシマまりん(なぜかキャラクター名)の・・・w 成り済まし、騙り・・・が何かをやっているんだろう? 誰が許可(認可)をだしたりしているんだ?
・・・・・・・していたでも良い。
わかりやすく言うと「良いよ」とか。 日本の話をしているだけでw
他の国の話をしているわけではない。
あと気づいている人は気づいている。
モランボン楽団 、〜組と同じような・・・、
ザ・モモタロウに出てくる・・・。 歌え〜踊れ(踊るんだ)〜とか・・・言っているでしょ?
『ザ・モモタロウ』という作品に出てくる某(説明不要) ほんとーの話なんだろう。
いまでいうと(むかーしの芸能関係)とか、好きだったという話も同じ。
おかしな話ばかり? 某自身、本人は?出演したりしたこともない、
それとも、たまーに自身も出演していたりしたのかな? なぜか?同じような・・・、・・・、なぜか?
どこかに史料(資料)があるのかな。 日本のテレビ?メディア関係、
お前達の言っている何やらとか・・・、
悪く言うと、成り済ましなんだけど? 悪く言うと、成り済まし・・・悪く言うと。
なぜか知っている人達がいる、なぜなんだろう。 後付け、お前達の言っている何やら()とか・・・必要ない。
どこの池沼なんだ。 <ご注文は無職ですか?OP>
【ガイジ ドリーム かふぇ】
♪落ちろ!しねしねゴミ😩アンチのふりして、😏
もうちょっと近づいちゃえ😘😘😘
簡単には教えないっ😚😚
すこればわかることは内緒なの😤
くこくこ?🐔ドゥジョドゥジョ?👳🏾♂罠ですよ。😱
はじめがかんじん!🙋♀
none:none:(のーねのーね)🙆♀
くこくこ🐔🐔ドゥジョドゥジョ👳🏾♂👳🏾♂
梅干し🔴
不細工笑顔🤓でちぇいちぇい👶
スレ🏡を開けたとたん、
怒涛の死ねガイジ😇
(そんな酷いよ😢)、ありえない🙅♀
それがありえるかも、無職だけの異次元😰
(アホの馴れ合い)、覗いたら😳
私が私にレスしてました😅
なんで?🤔なんで?🤔見えている?😳(うそ!😱)
いつものコテ🤔(きっと)おんなじレス🤭(だから)
誰だ😳(平日の昼でしょ!)。毎日いるよね?😅
(これはニャース😺、馬鹿穂香🙋♀
、センチメンタルなんJ民😤?)。 どこの馬の骨なのか知らないけど、
いい加減に必要ないから、消えろと言っているだけ。 だからwどこの馬の骨なんだ?
家は『』こういう家なんだけど。 とある思考(思想)の人間とか・・・いるでしょ、
ゴミみたいな人間ばかりだという話だしな。
ただのゴミ。 それと『311 原発』
人工的に起こしたみたいだしな・・・、
日本(自作自演みたいな話)で起こした、他も同じwwwwwww
知っている人は知っている。 だから・・・、いい加減に消えろと言っているのが、わからないのか? 何がしたいのか・・・?理解できない。
例えば、そういう企業(会社)があるでしょ、オマエ(?)の家の・・・ではない。
「?????」?
・・・(まさか、ほんとーの)国の何かなんじゃないのか?
という書き込みをしている人もいた。
ほんとーは日本()の話でもない。 (日本の)国の〜自体、もともと日本の・・・ではない。
という話。 理解できない、わからないのなら、
必要ないから、消えろと言っているだけ。 どこのゴミの集団なのか知らないけど、わからないのか???? そこの企業も潰して良いから、
すべて、家に返すように、準備をしろと言っているだけ。
オマエ(馬の骨)が、ゼロから作ったわけではないだろ? それにしても『天若 作品』
なんで知っているんだろう、
間接的に何かを知っている・・・何者かがいるのかな?
ロック、ロス何やら? 例『ロック ロス 陰謀』
なぜか・・・『マダラ カオス』カオスとユダヤ〜とかw
シュテンドルフとウラシマまりん、調べてみるとわかる。
むかーし、どこかで・・?みたいなキャラクター。 それにしても日本のw
乗っ取られたのかな?・・・冤罪事件(被害者)の話?
冤罪、事件・・・・・・自体なかったみたいだしな。 ほんとーに、なんでもいいから、
日本の話・・・、成り済まし、騙りとか必要ないw
それと、とある作品とか、
なぜ家の話なんだと思う?
「?」 日本の話。
乗っ取った(乗っ取られた)、入れ替わったとか、そういう話自体ない、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・家の話。 どのスレッドだったかな。
重要、家のw
写真を貼り付けた後「それ宮様の写真でしょ」という謎のレス(返事?)もあった。
このようなゴミみたいなスレッドの話ではない。
ちなみに『』
天若〜?とか、そういう家、なんで知っていたんだろう。 老婆談によると・・・、
軍人、警官(警察?)〜でもないと言っていたしな。
子供の頃の・・・、
何かの制服を着ている子供。 成り済まし、騙り・・・、
何なのか知らないけど、いい加減に消えろと言っているだけ。 ほんとーに、誰なのか知らないけど、
何々〜の写真じゃないの?
と知っていたというのも、おかしな話。
『』と詳しく、説明していなかったときの話、
でも馬に乗っていたり、何かの刀(剣)みたいな話はしていたw >>777
>呉系の倭人で海人というと河内の現在の南河内や和泉地区が真っ先に思い浮かぶね。
古くから朱丹を使う点といい、少なくとも弥生時代中期以降に大陸から目指したのは畿内という事になるんだよ。
九州の方が近いのだからその痕跡が多いのは当然だが、それでも南ではなく東を目指した流れがあるのは当然の事だね
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」や、
「瀬戸内以東は九州倭國の東征毛人五十五國の大倭職の旧小国」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツですね。 >>780
>ト骨は弥生時代中期以降に青谷から畿内方面にかけて出土例が多いからな。
一大國にも非常に多いが、九州では佐賀付近から出土しているな。
>それだけでも九州説ダメだろう。
卑弥呼は、「ト骨」的女王ではなく、「鬼道」的な女王なのであり、
ト骨風習が少ない地域の方が、相応しいな。 そのスレッドw
身長とか・・・あまり関係ない、でも多少はあるかも。
家の誰だったかな、
男なんだけど、身長160(150数センチ?)もないと言っていた、
父親は(でかい)大きかったとか、・・・ドラゴンボールの話? 詳しいことは、わからないんだけど、あまり関係ない?
男:150数センチ・・・、『』こういう家。
その父親は・・・・・・・・・・・だと老婆も言っていた。 >>782
>九州方面で気になる姫の存在は神夏磯媛だろう。降参して三種の神器をもってやって来る話があるからな。
そうだったな。神夏磯媛もいたな。
>これは個人的には場所的にもトヨ、イヨが女王の地位を失う逸話を示唆する可能性が考えられますね
そんな分裂幻覚の妄想のような事は、考えられないな。 何度も説明していることなんだけど、
『』
こういう家の話w偶然にしては・・・? >>789
>古事記「国生み」のオノコロ島
孀婦岩、伊豆諸島の最南端に位置する岩である・・・
ニニギらの「国生み」神話の出発の地の、天照らの「天の原」は壱岐にあるから、
「オノコロ島」は能古島だろうな。 >>792
>三種の神器は、景行天皇の先祖が天の岩戸隠れの際に
太占で占い、賢木に八尺瓊勾玉、八尺鏡、布帛を奉げて祝詞を唱えた
何か違うな。
天孫族の阿毎氏らの「三種の神器」は、鏡と玉と剣だったような気がするが。 >>803
>三世紀末の超最新文化技術は道教、神獣鏡だよ。錬丹術は後の錬金術にも繋がるんだしな。
まあ技術的には銅鐸が造れる時点で高度な物を得ている。
何より伊勢遺跡なんて通説より数百年早く煉瓦技術を使用しているぞ
孝霊も、なんだか「おばば」みたいな投稿になって来たな。 間違えた。
>三世紀末の超最新文化技術は道教、神獣鏡だよ。錬丹術は後の錬金術にも繋がるんだしな。
まあ技術的には銅鐸が造れる時点で高度な物を得ている。
何より伊勢遺跡なんて通説より数百年早く煉瓦技術を使用しているぞ
孝霊も、なんだか「老婆」みたいな投稿になって来たな。 >>817
>結論としては廣志の記述は倭国は出雲丹波の事 で伊都は亀岡辺り。
その南のヤマイチ国が山城、山背エリアでその傍国が柏原、河内国分、近つ飛鳥辺りになる。
巳百支国が奈良盆地西南部辺りだろう。
続く伊邪国は伊賀、もしくは伊勢になる
やっぱり、孝霊は「老婆」男みたいになって来たな。 それにしてもゴミみたいな・・・ばかりやっているんだけど、何なんだろう。
日本のテレビなどの話。 ちなみに、家は・・・『』こういう家、
何度も説明しているから、知っているはず。 だから、家()は、どこかの社員とか・・・ではないw チンピラしかいないのか?
・・・チンピラとも言えない・・・、何なんだろう。 wwwwwwwwww(大爆笑という意味らしい)、
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww。
なぜだと思う?
池沼「??????」? 例『やくざてんぐ』
家の談、なぜか同じような・・・気もする。
でも少し違う。 どこのチンピラなのか知らないけど、
いい加減に「消えろ」と言っているのが、わからないのか???????
池沼「?????」 『日本昔話 石楠花』
グーグルでも、なんでも良いから、画像w 南(東)至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南(東)、投馬国(倉敷辺り)に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、
副は弥弥那利と曰ふ。五万余戸ばかり。」
南(東)至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升
次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
「倉敷、岡山辺りより、南(東)、邪馬台国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。
「官有 伊支馬イクメ」11代 垂仁天皇
伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』
活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) - 『日本書紀』
「次日彌馬 升サ・ス」 なお彌馬(みま)とは、(皇孫みま)皇族に対する尊称
@少彦男心命(すくなひこをこころのみこと) 9代開化天皇、大彦命の3兄弟、
倭迹迹日百襲姫命の甥
または、A狭穂彦王(沙本毘古さほひこ)開化天皇の孫、
妹・狭穂姫命(さほひめのみこと) 11代垂仁天皇の皇后、兄弟で垂仁暗殺未遂の謀反人
「次日彌馬 獲支ワカ」9代 開化天皇
若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと) - 『古事記』
稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)-『日本書紀』
「次日奴佳鞮ヌカタ」生駒郡平群町、本拠地の額田部氏(ぬかたべ) >卑弥呼時代ほぼ久留米市あたりまで海岸線、稲作が無理だから牟田無田って言うんだよ。
>その後、筑後川の氾濫などや1000年かけ埋め立てられてられて今がある。
有明海の干拓の歴史
https://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/18/kantaku/img/kantakuzudai.jpg
弥生時代、はるかに温暖であったせいか海水面は今よりも5m程高かったと言われている。
この平野の海抜4〜5mの線を結ぶと図1のようになる。
そして、この線上に多くの貝塚が見つかっている。
吉野ヶ里の大集落は、まさにこの海岸線に位置していたわけである。
https://suido-ishizue.jp/nihon/11/img/01/ph02.gif >凡そ、比べるとこんな感じ、
>有明湾沿いはコンクリ堤防が無い時代、筑後川氾濫、台風塩害で水田は難しい
奴国、 二万戸
福岡平野 南北20km 東西20km
投馬国、五万戸
倉敷、岡山平野 南北20km 東西40km +20km福山盆地まで合わせると。
邪馬台国、七万戸
京都、奈良盆地 南北80km 東西20km 内陸だから台風、塩害、水害が少ない。 老婆談と同じ?母親も、そういう話を聞いたことがあるとw
家の誰だったかな、(成人男性)身長150数センチ?
でも、その父親は背も高いし、大きかったw・・・知らない人がいるんだろ?
知っている人もいる・・・? 黒いコート?〜何かを着ていたり・・・みたいな話。
その父親の話。 偶然にしては、おかしな話ばかり?
〜の山の上のほうに住んでいた家・・・、数代前に引っ越して来た家。
父親は背も高いし、大きかった・・・。
その子供?の身長(成人男性)は150ちょいくらいw 戦前?老婆談によると、〜年頃(戦後?)には、たしか、いなかったと言っていたしなw
黒いコート?そういう何かを着ていて・・・どこかに行って〜とか。 でも軍人、警官(警察)でもない・・・ような話もしていたw >>972
>弥生時代、はるかに温暖であったせいか海水面は今よりも5m程高かったと言われている。
>この平野の海抜4〜5mの線を結ぶと図1のようになる。
そりゃ4000-5000年前の縄文海進時代であって、彌生末の三世紀のことではない。
シャッフルしてごまかすな!! 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1645120906/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>980 続き
地球の地軸の首振り運動(歳差運動)により、26000年周期で氷河期ー海進期が繰り返しやってくる。
その直近の海進期は縄文時代であり、氷河が解けて、世界的に海水面が上昇した。
縄文海進は、有明海に限ったことではないのだ。 >>970
「南≠東」などの史料事実や史料実態に拠って、バツ。
史料事実や史料実態に拠らない投稿は、掲載する必要もない。 >>973
この投稿も、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しになるから、バツであり、
掲載しない。 >>982
>地球の地軸の首振り運動(歳差運動)により、26000年周期で氷河期ー海進期が繰り返しやってくる。
その直近の海進期は縄文時代であり、氷河が解けて、世界的に海水面が上昇した。
縄文海進は、有明海に限ったことではないのだ。
ふーん。 >>985
おお、知らんかったのか?
つまり13000年で氷河期と海進期が交代でやってくる。
化石燃料による一時的な地球温暖化は別として、今の地球は寒冷化に向かっている。
現在、すでに縄文海進期から5000年ほど経過しているので、あと8000年ほどで再び氷河期がやってくるのだ。 >>984
「東南→北東」
徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人
史学に不向きな古田ぺーテン 以前から書いていることなんだけど、
知っている人は知っている。
だから、誰と間違えているんだ?
という謎の書き込みをしている人とか。
家は『』こういう家。 『天財若子 天若』
こういう家で・・・、何度も説明した。
ほんとーは?というか・・・川崎区に住んでいる。
『セメンと通り ふれあい館』 老婆談というのも戦前?それ以前の談。
明治時代、もう少し前の時代とか、
家に嫁に来てから、〜話を聞いたりしたと言っていた。
いまの福島県のほうに住んでいた、何かの直系みたいだしな。 数年前の、とあるスレッド。
ふざけた事ばかりしてんじゃねーぞ!!!
という書き込みをしている人もいたでしょ、なぜだと思う?
例『チェーンソー ゲーム』 むかーしの中国の・・・だと言っている人もいる、
『』この家w 何なんだろう。
同じよな家でも・・・少し違うのかな?
伊達郡・・・いまの福島県の・・・に住んでいた、山の上のほう。 川崎区というところの・・・、
「」
ここに住んでいるんだけど、ほんとーはw 右翼不明、暴力団、ヤクザ何なのか知らないけど、・・・どこのチンピラなんだ?? 例『117 大震災』
こういうのも、・・・・だという話をしている人がいるwww 右翼、左翼、不明w
何なのか知らないけど、消えろと言っているんだよ、わからないのか。 成り済まし、騙り?何なのか知らないけど、
オマエ(お前達でも同じ)には何の権利も権限もない、
と言っているだけ。 このスレッドは1000を超えました。
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