日本書紀の倭迹迹日百襲姫命の事績
>崇神天皇7年、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら)に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げた
>崇神天皇10年、少女の歌から謀反の前兆を知り、謀反は鎮圧された
あとは、三輪山伝説と箸墓伝説

巫女的な事績である
だが、これだけでは、大坂山から箸墓まで人々が列を作り手手渡しで石を運び墓を造成したという人々の敬愛の理由と墓の規模が結びつかない
これが卑弥呼の墓のエピソードであれば相応しいと納得できる