■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供4■
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豊臣秀吉は、300数十人の女性と性的関係を持ったと
されている。
それなのに子供ができなかった。
これは医学上、秀吉は若いときの性感染症で生殖能力を失ったと思われる。
淀殿だけに2人も子供が生まれるなど医学的にありえない。
それに淀殿にとって、秀吉に大きな恨みがある。
秀吉に兄の万福丸を処刑され、母親の市の方を攻め殺した敵でもある。
淀殿は、浅井の血を天下人にする気はあっても仇の秀吉の子などを生み
天下を取らせる気はなかったのではないか?
徳川家康が淀殿を攻め立てても、北政所や秀吉子飼いに
支持を失わなかったのも、当時から秀頼の出自が疑われてたから
ではないか? 息子が産まれたときは、秀吉はすでにボケ老人だったからね
自理弁識能力も衰えていたから騙せたんだろう 関ヶ原は、事実上
ねね派と茶々派の争い
仮に関白秀次が秀吉の後継になっていれば
豊臣の血は絶えず徳川の天下もなかった 石田三成が豊臣家に対して忠義者なんて大嘘だよね
茶々と結託して豊臣の血筋をひく正当な後継者、関白秀次を謀殺した 石田三成美化は近年の大河ドラマの影響
もともとは陰険な告げ口魔の茶坊主の評価だし 当時から多くの人に疑われていたけどね。
特に、秀頼を激しく憎む秀次残党の田中吉政、池田輝政などは
秀頼は秀吉の息子ではなく不義の子だと言いふらしていた。 秀頼の息子って、大阪の陣の後も生きてたよね
墓に骨が残っているのでは 家康は、子供から青年のとき大変苦労したので
家柄も怪しいくせにボンボンしている秀頼が勘にさわったのではないだろうか 毛利輝元みたいなボンボンを容赦なく、28万石に減封にしたのも、その証左である。 家康は、もともと豊臣の主君だった織田信長の同盟者だったからな
茶々や三成が、単なる5大老の1人くらいに甘く見てたからやられたんだよ 茶々は、秀吉が死んでも出家しなかったしな
豊臣のためではなく、織田と浅井の復権のため秀吉を利用したんだろ 豊後日出藩木下家から分藩した立石木下家の初代延次は実は秀頼の遺児国松だという伝承が一子相伝で日出藩木下家当主に伝わっている。
立石藩の代々当主の骨と豊国神社の秀吉の歯をDNA鑑定すればわかる。 秀吉をA、日出藩木下家をB、立石藩木下家をC
とした場合
BとCのハプロタイプが同じでAだけ違えば、立石藩木下家が秀頼の遺児国松の伝承が嘘だとわかる
AとCがおなじでBだけ違えば、秀頼は秀吉のタネだとわかり、日出藩に伝わる国松伝説も本当だとわかる。
AもBもCもそれぞれ違えば、秀頼が秀吉のタネじゃなく、国松伝説が正しいことがわかる。
3つのDNA鑑定するだけで、2つの伝説の検証ができる DNA鑑定ってすごいな
昔の骨でもそんなことまで分ってしまうだね これって母親が、淀殿だから許されたんでしょ?
身分の低い側室が、豊臣家を乗っ取りを謀ったら打ち首ものだよ >>23
大野氏を名乗る直系の子孫は存在しないと思う
妾の子とかは知らないが、存在しても江戸時代は名乗り出ることが難しかったのではないだろうか 言われている秀頼の体格から考えると浅井の血が濃そうだよね 仮に秀吉と、ねねの間に徳川家が幕府を開けたかは微妙だね
家康は無理に天下取りはせず、豊臣政権下でNo.2の地位を固めるのに奔走したかも知れない 仮に秀吉とねねの間に実子がいたなら、徳川家が幕府を開けたかは微妙だね
家康は無理に天下取りはせず、豊臣政権下でNo.2の地位を固めるのに奔走したかも知れない >>29
朝廷における藤原氏
鎌倉幕府における北条のように
お飾りトップと実権を握る家となってたかも知らんな
どっちにせよ徳川の天下になった
名実ともにか実質的にかのちがいだけ 戦国時代は、力がなければ将軍だろうが殺されたり追放されたりが常
豊富が滅んだのは茶々の判断力の甘さがあったのでは 茶々の間違いは、徳川家康を単なる五大老の家臣の一人の出と見謝ったこと
徳川家康は、秀吉が横領した主人織田信長の同盟者なんだぞ
百姓上がりで死人の秀吉の権威を利用しても、いつまでもそれで通用する相手ではないだろ
だいたい義父の柴田勝家や母親も秀吉を信用してなかったのをわかっていたはずなんだがな 豊臣が血筋が名門なら生き残れたかも知れないが
秀吉自信が百姓で、下克上でのしあがった人物だからな
生き残る策をこうじなかったらやられるのは当たり前 秀吉がどこかの戦いで死んでいたほうが天下泰平だったね 北政所、福島、浅野、蜂須賀、池田、前田、片桐らが見切りをつける中、大野治長、大野治房、大野道犬が最期まで秀頼と運命をともにしたのは、やはり、 中国でも
長い戦乱を制した秦と晋と隋はすぐにほろんだ。あるいは元の群雄に逆戻りした
長く続いたのは宋ぐらいで
戦国時代をおさめた豊臣もすぐにほろぶのは当然だった 泣き叫ぶ子供を母親から引き離し、容赦なく屠り去った…晩年の豊臣秀吉の狂気を示す「三条河原の惨劇」
https://president.jp/articles/-/75492
落書きに激怒し、113人を処刑
長年、実子に恵まれなかっただけに、わが子に対する秀吉の愛情は深かった。というより、異常だった。
たとえば、淀殿が秀吉の最初の子を妊娠した天正十七年(1589)、京都の聚楽第(秀吉の邸宅)の門に貼りつけた落書きが
見つかった。落書きの文言は記録に残っていないが、どうやら「淀殿の子の父親は秀吉ではない。多くの側室がいながら、
これまで子供に恵まれなかったのに、急に子ができるのは怪しい」といった類いの内容だったようだ。
すると秀吉は、門番をしていた十七人の武士の落ち度を責め、彼らの鼻と耳をそぎ落としたうえで磔はりつけに処したのである。
尋常な怒りではない。 >>34
茶々にしたら秀吉と5歳しか年が変わらない
爺の家康はすぐ死ぬ予定だった
跡取り秀忠の正室は茶々の妹江で
江の尻に敷かれている
秀吉もそのつもりで江を家康ではなく
江よりも年下の秀忠に嫁がせたのだし
江が家康の正室として牛耳っていたらどうなっていただろう >>34
家康は信長の同盟者ではあったけど
直臣より危険な先陣ばかりやらされて信長に頭が上がらず
直臣より割り食らってたし
茶々は母親が織田の姫で物心ついてからは織田で育ってるから
そういうの見てきてるしね 本能寺が失敗してれば、信長はアジア統一しただろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています