邪馬台国畿内説を斬る Part3
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AD670年に再建された法隆寺五重塔の木材が594年に伐採されたものであると言いながら、何故227年に伐採された木材が使われている小路遺跡がアプリオリに同年代の築造の前提になっているかがわからない
260年や280年や300年築造の可能性も理論上は排除されないだろうに
書いてないだけで根拠があるのかも知れないが、だったらそれを知りたい
酸素同位体比年輪年代法で年輪年代法も確たる物になったんだから、今まで100年ズレてたとされてた物が全て3世紀前半になるんだよ
庄内式期に並行した木材のサンプル数は数百はある
それら全てが、しかも再利用の可能性が低い矢板などが軒並み30年後や50年後に再利用されたとする可能性に賭けるのか
まあ0.00000数%はありそうだね
頑張って! あまりにうざいのでtona1.gifをNGにしたけど、こいつは何が言いたいわけ
まとめ頼む
効いてて草
「邪馬台国畿内説を斬る」なんて大層挑発的なスレタイだから大物が居ると思ってたんだけど、小突いただけで涙目逃亡か
期待外れだな 矢板は2世紀の物だと書き込んでいた畿内説がいたと思うが、矢板は3世紀だったのかい?
九州説って矢板は一つしかないと思ってるのかな
2世紀なのは纒向石塚の矢板でしょ
さっきのスレで散々小路遺跡の話をしてたってのに
ま、もう議論する価値ないな
じゃあね トナカイは酸素同位体でから騒ぎして恍惚状態だったようだが、2世紀の纏向が未開の地だった事に変わりは無いって事だな。 法隆寺消失は670年だが再建は少し後だな
100年前の木材が使われていたというのも本当かどうかはわからない話だ
594年とされる木材を酸素同位体比年輪年代測定やってみて欲しいな 2世紀後半まで畿内は後進地域。
故に伊都国の王統は畿内を新天地として開拓する事ができた。
畿内の後進性こそ畿内説の強い論拠となる。 >>18
たしかにw
長らく九州と出雲が航路を巡って対立していて
九州が出雲を制して畿内の豪族と手を結んでど田舎に豪華な本拠地を作った、って説のほうがヤマト政権っぽい だったら記紀をあんな文章にはならないのが解らない九州脳 伊都が東征してヤマト朝廷になるとかw
アタオカすぎる。何でイト朝廷ではないのか? 東征はあっただろうが、伊都国そのものが東遷したのではなく、九州に居場所をなくした者らの集団がフロンティアを求めて奈良盆地に移住したと考える。 記紀曰く、それ以前にそれを迎えた勢力があったと記しているんだがね。 なぜ纒向説は箸墓古墳の調査結果を報告しないのか?
◆岡山はちゃんと調査結果を報告している
未確認石室か 岡山・造山古墳後円部に「空洞」確認 岡山大など4研究チーム発表、後円部を素粒子で“透視”
https://news.yahoo.co.jp/articles/b2223de8aca72428bd3deadd9c4a190b3a201ab1
◆対して纒向説は3年経過してるのに何の結果報告も無し
卑弥呼の墓? 箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/ >>23
それは国レベルの東遷とかではなく、安曇族レベルの移住の話だろうね 奈良には狸も居たようで、
狸が化けると言われるようになったのはいつ頃からなんでしょう?
奈良の昔話https://www.pref.nara.jp/58329.htm#pagetop 日本書紀は会話が多いですが、記録してたのは誰なんでしょう ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論の類が大好きである
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む 大神神社の人から聞いたのだけど、ホケノ山古墳の被葬者が豊鍬入姫だというのは奈良県磯城郡史に記載されているそうだ
https://i.imgur.com/klqLng2.jpg こんなことが書いてあるそうな
■磯城嚴橿之本(しきいつかしのもと)
天照大神未た伊勢に鎮座し給はさる前、八箇年間鎮座ありし舊跡なり。址分明ならす、或は白川・出雲二村の間に在りと云ひ、又初瀬町の南の民家の内に礎石二箇を存す、これ嚴橿の本の鳥井蹟なりと云ふ、共に據なし。今尚ほ初瀬町には嚴橿の氏を冐せるもの多し 巻向の地方の豪族を、どこからか東征してきた天皇が打ち負かしてできたのが箸墓古墳なんですね。 崇神がせいぜい300年以降だからホケノ山は4世紀以降ということね
妥当だわ 畿内説の寺澤薫さんにしろ岡上さんにしろ東遷説に舵を切ったようですね >>38
伊都郡のルーツは伊都国だろうが丹生都比売神社は和歌山県が総本社。なんでも欲しがるなよw
まるで阿波。 >>40
>丹生都比売神社は和歌山県が総本社
「丹」とくれば「阿波」。 なんでも「阿波」を欲しがるなよw わははははは @阿波 >>40
>丹生都比売神社は和歌山県が総本社
「丹」とくれば「赤土」。 なんでも「阿波」はマヌケだよなw わははははは @阿波 >>40
宮司だった丹生廣良氏の『丹生神社と丹生氏の研究』に書かれている事だよ そもそも畿内説はなぜ邪馬台国を畿内にしようとしているのか?魏志倭人伝を読めば畿内であることはあり得ない。 女王が近くに居ないからこそ伊都に置かれたのが一大率 畿内だろうと九州だろうとかまわないけど
纏向だけはないないw 侵略者(天皇)が教える歴史は嘘がてんこ盛り
みんな歴史を勉強して分かったつもりでいても、色々と隠されている部分がある
例えば、1300年前に天皇が来てから無数の戦いが勃発する
なんたらの乱、なんたら合戦、なんたらの戦い・・・いつも日本のどこかで戦闘を行っている
それは全て、新羅人天皇(北朝)と百済人天皇(南朝)の戦いなのだ
半島から来た2系統の天皇が、日本列島上で私利私欲で争っているだけの無意味な歴史
隣の家の庭でネコが喧嘩していたのが喧嘩しながら自分ちの庭に移動してきたぞ、という情けない歴史なのだ
その外来種の喧嘩を小説やドラマで見てるバカはいっぺん死ねと思う
そういう戦闘にアイヌ系の原住民も巻き込まれているのだが、それは歴史上では語られない
超下らないな日本の歴史は 卑弥呼は魏に助けを求めたのだが、これは崇神朝の四道将軍の派遣の様とは大きく違うので崇神朝は邪馬台国では無い 邪馬台国の名称を使う事が異常だ
邪馬臺国にすべきだな >>64
邪馬壹=邪馬臺=邪馬台
ならば、そうなるだろ >>65
四道将軍を派遣する国力のある国が狗奴国に手こずり魏に助けを求めたとするのはあり得ないと思うが? >>66
邪馬台国は
邪馬壹=邪馬臺=邪馬台
だから、助けを求めるのはしょうがない >>66
>四道将軍を派遣する国力のある国が狗奴国に手こずり魏に助けを求めたとするのはあり得ないと思うが?
そりゃ、鉄器を自在に自作できる「狗奴国」なんだから
その倭国(阿波)を統一するのは、並大抵じゃないことに、ちっとは思いをはせろ! @阿波 超大国「狗奴国」とは、こういうものだ。 @阿波
「狗奴国」は「邪馬臺国」に勝るとも劣らない超強大国。
その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「狗奴国」や「邪馬臺国」など興る訳がない。
「阿波」の南方 「狗奴国」(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡
【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡 超小国「阿波国」とは、こういうものだ。 @阿波
丹=赤土 なお古墳時代は奈良で始まったわけではありません
実際のところ古墳時代は2世紀の東日本の前方後方墳で始まっています
奈良盆地の前方後円墳から始まったわけではありません
東日本では2世紀ごろから前方後方墳が造られ西へと広まっていきました
https://i.imgur.com/DeSj4Lv.png
前方後円墳より先に、遠く離れた北部九州にも前方後方墳が造られています
古墳時代の始まりは卑弥呼と関係ありません 箸墓=百襲姫
ホケノ山=豊鍬入姫
これはどう見てもホケノ山の方が新しいだろ 箸墓 布留0式で3世紀後半
ホケノ山 布留1式で4世紀
たしかにホケノ山の方が新しい 鉄がホケノ山から出ているから邪馬台国の時代に鉄があったとする畿内説は憤死しました。 >>77
どの学者も畿内に鉄器が入って来たのは卑弥呼の後の時代だという見解だよ >>77
ホケノ造営で一部破壊された堂ノ後古墳のことも忘れないであげて ホケノ山は大田田根子の子孫の伝承で、豊鍬入姫の墓は間違いないだろう つまりホケノ山古墳は卑弥呼の時代よりも後の時代と言う事になります。 そもそも畿内の年代が合ったとしても東の倭種の国でしかないからね
畿内説にとって東の倭種の国は伊豆あたりとかゴネてるけど、そこを境として東が毛人の国だとしたら、その後約200年間は関東まで進出できなかったということか? >>89
古事記では崇神の夢枕に立ったのが大物主で、モモソヒメは全く介在していないのな。 南が東なら、東の倭種は北の倭種となろう
渡るのは伊勢湾ではなく琵琶湖だろう ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/episode/te/32Q45RL24K/
邪馬台国はどこに~日本古代史最大のミステリーに迫る~
初回放送日: 2023年7月4日
日本古代史最大のミステリー、邪馬台国はどこにあったのか?
「近畿説」や「九州説」など論争が続く中、佐賀・吉野ヶ里遺跡で進められた発掘調査から、新たな“謎”が浮かび上がった。
先月、弥生時代後期の有力者のものとみられる石棺墓のフタが外された。
土に付着していた赤の顔料は何を意味する?
墓のフタにつけられた×や+の無数の線は誰が何のためにつけた?
約1800年の時を超え、研究者たちが挑む“歴史の空白”に迫る。 よ う こ そ 邪 馬 臺 国 へ
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。
中国の史書において、連続した行程の場合は
「又~至る」と記述される
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたり
■アクセス
伊都国の南 徒歩すぐ 廣志が正しいなら、邪馬嘉であって邪馬壹でも邪馬臺でもない。 >>98
魏志、廣志、魏略の元となった記録は一緒だから
邪馬臺=邪馬壹=邪馬嘉でOK
中国でもそう解釈し、北部九州を邪馬台と比定している 卑弥呼の墓は慶尚北道の大邱にある
このあたりから福岡にかけての国だと
思われる 魏志だけには張政等が長期滞在した時の詳しい報告が追加されている 末盧国を松浦郡に当てておいて
そこから東南陸行五百里にある伊都国を
糸島郡に当てちゃう奴はインチキだよね
方角が全然違うやん
原文無視だもん >>104
だから、
末盧国(四千戸)(福津市(万津浦)辺り)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
だと何度言えばw @阿波 >>104
仮に太陽が上る方向で東西南北を測っていたとしたら夏と冬ではかなり差がでてくる。実際、魏志倭人伝では韓国↔対馬↔壱支島を南と書いてるが、正確には南東だし。 >>106
>魏志倭人伝では韓国?対馬?壱支島を南と書いてるが
大うそ。どこにもそんなことは書かれていない。 @阿波 対馬↔壱支島間が南に来るようにすると伊都国は松浦から東南になるのでは。それだと(太陽の上る方角がもっとも北に近づくのは)夏至なので、夏に来たんじゃまいか。
https://i.imgur.com/uozBFhJ.jpg >>108
>伊都国は動かし難い。
直方辺りな。 @阿波 パヨク・鮮人思考
・日本人は朝鮮人と近縁
・ハングルを復活させたのは日本人だと知らない
・Y染色体をY遺伝子と言う低学歴w
・乳出しチョゴリをやめさせた大日本帝国は鬼畜ニダ
・邪馬台国は纏向と主張
・日本に「ミカド」がいるのが許せない
・日本人は縄文人の虐殺者
・なぜか無関係な百済、新羅、日本に関心がある
・嘘だらけの古代朝鮮ドラマを信奉
・百済をペクチェと普通に読んでしまう
・国学者の九州説をなぜか皇国史観と思い込む 末盧国の港の唐津港か呼子で下船すれば真東や北東は海なので伊都国に向けて歩き出す方向は東南一択 吉野ヶ里の石棺のバツ印って星空だったのか
途端にロマン出てきたな 吉野ヶ里が天体で農作業の時期含め祭り事=政を占っていたとする説は興味深い
この時代のリーダーはこういう科学と占いの狭間のような知見を持っていたのだろう 裏にあった星が何を指していたかで意味が出てくるかもね
金星かまたは北極星か まあ、中国の古代の数学書にも
季節ごとの太陽の方向の変化や
南中時の傾きの変化は書かれていたから
わからんはずはない。 十字は輝きだったんだね、線刻はお星様になったと言う意味かな 吉野ヶ里の石棺はテーブルだったのかもよ
生贄の儀式で使うテーブル 天の川が刻まれていると言う事は道鏡の七夕かもしれんね 吉野ヶ里の被葬者は、星の神を織物の中に封印したと言う倭文神的な存在だったと妄想した 記紀には星信仰が全くない。
もし星座というのが本当ならば、吉野ヶ里とヤマト王権は文化的に違う。
畿内には太陽の巫女はいても、星の巫女はいなかった。 ワークワークやガリバー旅行記の日本編ほどはワクワクしない
陳寿は三流軽小説家 >>135
>陳寿は三流軽小説家
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。 わははははは @阿波 本家「阿波」にしか、「観音寺・敷地遺跡」のような王都遺跡は有りません! @阿波 遺跡は名を語らず。言ったもん勝ち。
神武天皇の目指した青山四周の地。その東の神体山に鎮まる「大神神社」は唯一無二。 @阝可 シ皮 >>141
>神武天皇の目指した青山四周の地
そんな所を目指していない。
それは、行軍途中の四国山地での描写だ。 奥深い神山・穴吹の山中だ。 @阿波 >>142
神山町は昭和30年代の昭和の大合併で初めて生まれた町名やなぁ・・・。
穴吹みたいな昔からる地名と並列で使わんといて。 >>142
神山町は昭和30年代の昭和の大合併で初めて生まれた町名やなぁ・・・。
穴吹みたいな昔からある地名と並列で使わんといて。 >>144
昭和の大合併以前はなんという地名なんだ? @阿波 「古来、阿波の語源ともいわれる「粟生の里」と呼ばれ、人々の交流拠点として栄えた。」
らしいぞ、詐欺師。 お前、詐欺師として、その事実を隠してたんだろ? わははははは @阿波 町の沿革は、明治22年(1889年)市制町村制施行によって広野・阿川両村が合併した「阿野村」、下分上山・左右内両村が合併した「下分上山村」に、「神領村」「鬼籠野村」「上分上山村」を合わせた5村で存続していましたが、昭和30年(1955年)、5村が合併して「神山町」が誕生し、現在に至っています。 >>142
『日本書紀』
塩土老翁「東に美き地有り、青山四周れり、其の中に亦天磐船に乗りて飛び降る者有り」
神武天皇「厥の飛び降るといふ者は、是 饒速日と謂ふか」
東にある美き地=青山四周であって行軍途中などではない。 @阝可 シ皮 >>151
東にある美き地=ナガスネヒコが治める東の鳴門・板野。 @阿波 邪馬台国時代は1世紀から3世紀後半
卑弥呼時代は2世紀後半から3世紀前半
倭国大乱まで代々倭王が居た地域
ヤマトの歴史とは何の関連性も無いので記紀には記載されていない 邪馬台国東遷など成り立たない。
桓霊の頃に伊都国が東遷して邪馬台国(ヤマト王権)が産まれた。
西暦180年頃の出来事だろう。
畿内で銅鐸が壊されるのがこの頃だからな。
祭祀が変わったということは、宗教が変わったことを意味する。
これは支配階級の交代があったと言い切って良い。 倭国大乱の影響で青銅を鋳潰して武器に替えたんじゃない?銅鐸なんかつかってる場合じゃないしね。戦争中は豊穣神よりも軍神に信仰が替わることは不思議でも何でもない 公孫淵の末裔の氏族ってのが日本に渡来してんだな
ふむふむ常世氏? → 赤染氏 → 香春神社(古代より当社の祭祀を担ってきたのは赤染氏と伝える) ま、刀も五箇伝が好きだし、九州に何かあっても意味ないじゃん
どうせ観光にも全く活かせないし
朽ちて消えていいんじゃないかな、九州は
近畿は近畿で嫌いだけど、九州よりはマシ 新撰姓氏録によると公孫氏の末裔という主張する氏族は存在していたようだ。
これについては面白い話がある。
公孫氏の末裔は常世連(とこよ の むらじ)と名乗っている。
記紀では田道間守が常世の国に行ったという伝承を中国に行った事と解しているくだりがある。
恐らく奈良時代あたりになると、朝廷のインテリ階級は常世の国を中国大陸の何処かと考えるようになっていたのだろう。
公孫氏の末裔が自分たちは常世から来たと言っているのは興味深い。 公孫氏の末裔が渡来してきて香春神社を祀る→畿内に広がる→東征説話の誕生
こうか? 日本神話に登場する
火火とか繰り返し発音は
曹操ソウソウの影響受けてるだろうねw
あと司馬炎の「炎」も火火w
中華の影響もろ受けw ンツ・ツァウさんの影響をどう受けたらヒビみたいになるんですかね 卑弥呼は公孫氏が滅びるや否や魏に朝貢をしているが、奈良盆地に居ては公孫氏情報が伝わるには時間がかかると思われるので、卑弥呼は九州に居たと考えるのが自然。一方卑弥呼を頼りにしていた公孫氏残党は卑弥呼が魏の倭王になったことであてが外れ、奈良盆地に亡命する事にしたのであろう。 99 日本@名無史さん[sage] 2023/07/07(金) 20:45:53.86 ID:
邪馬台国「え?!魏があの公孫氏を滅ぼしたの?怖!
そうだ、うちのクニがめっちゃ広くて人口が多いことにしちゃおっと」
司馬懿「公孫氏を滅ぼしたぜ
ん?邪馬台国が朝貢したいって?そうだ、邪馬台国が呉の背後にあるクニってことにすればオレ出世できるやん」
※これで本当に出世
陳寿「皇室の祖である司馬懿をアゲアゲしておくか
朝貢するクニは遠いほど、人口が多くて豊かであるほど、皇帝の徳があるっていうもんね
司馬懿が朝貢させた邪馬台国はなんて遠くて人口が多いのでしょう!
礼儀正しくて素晴らしい!」
こうして
三者三様の思惑が一致したことで
邪馬台国は沖縄あたりにある巨大国家って設定になったのであった
めでたしめでたし 135 日本@名無史さん[sage] 2023/07/07(金) 22:07:10.72 ID:
魏志倭人伝まとめ
・倭人のクニやムラは100国あまり、魏国と交流があるのは30国程度
・邪馬台国の道のりは沖縄あたりを示してる
道中は対馬国、壹岐国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、そして邪馬台国
それぞれの国の官や戸数を紹介
ただし、女王国の北にある国は戸数や道のりを紹介できるが、それ以外の国はよく分からない
斯馬国など21国は女王の支配する国々である
その南にある狗奴国は女王国に属していない
・倭人の男は子どもから大人まで、顔や身体に入れ墨
入れ墨はサメ避けだろうか
倭人は水に潜って魚やハマグリを獲るのが得意だという
距離から察するに、邪馬台国は会稽郡東冶の東方(沖縄あたり)にあるのだろう
陳寿は沖縄あたりと思ってたのか
知っててわざとそう書いたのか
どうなんだろな 卑弥呼は公孫氏の残党が奈良盆地で国を作っていた事を知っていたが昔のよしみもあり魏使には内緒にしていたのではないのか。 >>172
まじでこれはありうると思う
国紹介があれだけ狭い範囲だから錯覚させてるんだよな
中国は都市間が広大だから簡単にそのイメージが作られる
家数を誇張してることでその錯覚を助長してるしね
つまり規模感に関しては信用するに値しない 詐欺師は他人の言うことも信用できない。
だから魏志倭人伝は信用できないと言い、かわりに自分の嘘を突き通そうとする。 名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也
卑弥呼は公孫氏だったのか? >>179
卑弥呼はむしろ公孫氏の敵の魏陣営だろ
だから列島に逃げて来た公孫氏の末裔が九州から畿内に逃げたというならまだわからないでもない 神功皇后記に彼女が神のお告げを受けてニシに宝の国があると仲哀に語る記事がある。仲哀は西に国などないといって南の熊襲討伐に向かって天罰で戦死してしまう。
上代のある時期にニシという言葉は西と北の両方を指し示す言葉であったのだろう。その証拠に琉球語ではニシは北を意味する。
邪馬台国の使者が自国から伊都国までニシ(西)に行って辿り着くと云う話を、通訳がニシ(北)に向かって辿り着くと誤訳したために、邪馬台国は伊都国の南に記載されてしまったのだろう。 卑弥呼は韓半島(高天原)から稲作を持って日向に降臨(北九州に渡来)した韓半島の松菊里文化人の末裔に相違ない。
卑弥呼や伊都国王家やヤマト大王家は日琉祖語の担い手の代表として韓半島から天孫降臨(日本渡来)した日本文化の起源的人物だったのだろう。 九州にある神社も東の大和王権に上書きされてんだよね
魏志倭人伝の倭人・倭国の痕跡がない 新撰姓氏録ておもしろいよね
太秦公宿禰…秦始皇帝後裔
牟佐呉公…呉国王子青清王後裔
三間名公…仲臣雷大臣後裔
倭画師…魏文帝後裔
若倭部…火明命後裔
倭文宿禰…神魂命後裔
若倭部連…神魂命後裔
火明命は天日矛だろね 倭という族名に価値がなければ
「やまと」という語にも東(やまと)・西(かわち)くらいの価値しかない >>187
西がかわちとか九州の存在なんかハナから無視してそうだな >>187
それって漢氏を東漢氏(やまとあやうじ)と西漢氏(かわちあやうじ)に分けただけだろ。当時の漢氏の居住エリアの西と東。 >>173
会稽(紹興)東冶(福州)からみて日本は東北だけど
四分法でいえば単に東でもほぼ合ってるよ 邪馬台はヤマトで3世紀なら大和(奈良)に決まっていると先入観のある江戸時代の人間でもこれ九州の事だよねってわかるのにw 大昔、列島の人間は自分達の集団の事を「ワ」に似た言葉で言っていた。半島人には「ワ」に聞こえた。
これが倭になった >>199
>大昔、列島の人間は
違う!「倭人(阿波勢力)」だ。 @阿波 >>199
>大昔、列島の人間は
違う!「倭人(阿波勢力)」だ。 @阿波 たとえ非道でも自分の思い道理にしたい。大和人の性格だろう。 巫部連 采女臣同祖、雄略天皇御躰不予、因茲召上筑紫豊国奇巫、令真椋率巫仕奉、仍賜姓巫女部連
韓国連 采女臣同祖、武烈天皇御世被遣韓国、復命之日賜姓韓国連
九州から招かれた奇巫の担い手
王朝が代わると韓国に追われる 豊国奇巫は豊国の常世信仰の赤染氏とする説がありますね 雷大臣命之後
三間名公
呉公
壹伎直
藤原・中臣・大中臣ほか
この一族たぶん中国の史書がいう倭人だよね
九州・茨城・朝鮮半島に分布する装飾古墳の被葬者
豊城入彦命之後(上下毛野朝臣・車持公ほかも同族)
止美連 …田道公被遣百済国、娶止美邑呉女、生男持君、三世孫熊次新羅等、欽明天皇御世参来…
崇神天皇の子孫で百済に遣わされて呉女を娶り新羅を名乗る曾孫が日本に帰国
これたぶん↑のに近い一族で天皇の系図に加えてもらった渡来人だよね >>172
そういうこという人が多いけど、いち辺境国が臣従したことが司馬懿の評価に影響するとは思えんな
それこそ、倭の過大評価
そんな小細工しなくても輝かしい実績があるわけで 畿内説は纏向の大型建物を卑弥呼の宮殿だと言うが、卑弥呼共立から大型建物の完成まで30年ほど要している、それまでの纒向は卑弥呼の都する所では無い事になる。その空白の30年間は卑弥呼はどこで暮らしていたのか?
人生の50年間をかけて卑弥呼の居場所を探した寺澤薫は、「卑弥呼がイト国の王統に連なる女性だった可能性も排除できない」『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』としている。そしてそれ以外の可能性には全く触れていない。答えが出ました。ありがとう寺澤さん。ただし卑弥呼が伊都国から纒向に行った証拠はありません。卑弥呼は死ぬまで伊都に居た事でしょう。 倭国大乱が西日本一帯の騒乱で、共立して卑弥呼を纏向にたてたという話なら、その一連の話を記紀に盛り込んでいいと思うが一切そういう話は無し
あるのは崇神が四道将軍派遣したり景行仲哀神功が熊襲征伐したという話のみ
倭国大乱は九州の話で卑弥呼も九州のシャーマン、そしてヤマトが熊襲征伐で邪馬台国を滅ぼしたと解釈するのが自然だがな
これならすべて記紀に書いてある >>92
烏丸鮮卑東夷伝倭人条に登場する邪馬壹国は北部九州以外に有り得ないと思っているが、それだけでネトウヨになるのか
ところで、魏普代の音韻学は不完全だけれど、君は邪馬壹国をどう読むの?? 日本は北魏。鮮卑と一緒で三国志東夷伝に母体組織が生まれ、渡来人の影響で大和と日本に変わるのだ。邪馬台国が大和国、日本国の母体という事だ。 鉄器が畿内からほとんどでてこない2世紀に畿内が九州に対して軍事的に優位だったとは思えん
やはり2世紀に倭国大乱で弱体化した九州を横目に見つつ畿内は勢力拡大し3世紀後半以降九州邪馬台国を滅ぼしたとしか思えない >>218
倭国大乱で卑弥呼が九州を含む多くのクニグニから共立されて、平和で牧歌的な纏向に環濠もない大都市を作り宮殿を築いた
これが邪馬台国、平和な女王国の誕生だよ
当時は東が「南」と誤解されていた
瀬戸内海を「南」に水行して辿りつく邪馬台国のさらに「南」には狗奴国があった
いまの東海だ
卑弥呼の墓である箸墓は東海(狗奴国)の人たちも一緒に作った
おそらく邪馬台国vs狗奴国でどちらが先に盛り土を仕上げるかで熾烈なバトルが繰り広げられたのだろう
だから鉄鏃のような鉄器の武器は要らなかったんだよ >>220
圧倒的に優勢な九州が畿内などと共立する必要がない >>226
宗像氏は縄文人由来のD1a2だよ、根拠はわし >>66
全然ありえる 邪馬臺はエリアは広いが海沿いに拠点拠点を押さえてるに過ぎない 当時の人口密集地である九州の勢力に押されても不思議じゃない 俺は邪馬臺勢力はもっと大きなエリアの勢力だったと思うぜ
日向豊国豊浦瀬戸内海四国畿内の一部まで海沿いに拠点拠点を構え安芸や吉備など周辺勢力と結んだ連合国家
よって畿内説九州説山口説四国説も全部正解❤ 卑弥呼がアマテラスなら弟はスサノオだし、神武以前に既に饒速日や事代主が畿内に居るから、その時代はもう出雲=邪馬台国なんじゃねぇの?
遠賀川以東は出雲っぽいし、交易権を巡って戦争になったけど、出雲から伊都国が姫を迎えて(平原1号墓は甕棺じゃなかった)北九州の「倭国の乱」を収束させたとかじゃね?
相手は高皇産霊尊あたり?
元が邪馬台国=出雲なら一大率を伊都に置いて監視もさせたとか?
その後スサノオも死んで大国主の頃にはスサノオのあとの代の出雲姫(壱与)が迎えられて戦乱もおちついて、みたいな
代も下るに連れ、出雲より鉄を扱えるようになると我こそ出雲(ヤマト)の後継者って感じて国譲り(継承戦争)して勝って、イワレビコを畿内に送り込んだ、みたいな感じ? 後の時代にも友好や同盟の為の婚姻はよくあること ホントの血縁ではなく婚姻による縁戚だと思うよ あくまで出雲とヤマトは別勢力 >>240
アマテラスは子供がいるが卑弥呼は子供がいないので1行目からやり直し >>242
いや夫はいないが子供がいないとは書いてないよ 臺与は娘かもサランヘヨ >>242
じゃあイザナミでも良いぞ
墓は出雲にあるしな
そうなら壱与共々出雲の姫だな
畿内出っぽい大市姫との子、宇迦之御魂でもいいぞ
北九州にもお稲荷さんいるだろ >>243
独身といえばアマテラスの娘のイチキシマヒメですね アマテラスは本当に子持ちなんだろうか
「誓約」で生まれた子は実は、アマテラスを神として擁立した王たちのことを表してんじゃないかと思ったわ 魏志倭人伝の倭人は黥面文身
イスケヨリヒメは黥面を見て驚いた(畿内に黥面文化が無いか珍しい)
黥面しているのはまつろわぬ民(土蜘蛛とか)くらいだったんだろう
話は変わって、ヤマトタケルが女装して熊襲健(川上梟師)を殺せたのはヤマトタケルが黥面文身してないオグナだったから(川上梟師はフクロウのような黥面だった?)
魏志倭人伝では男子は大小なく黥面文身してた
黥面文身は古代九州の文化で畿内には無い若しくは珍しいものだったんだから、魏志倭人伝に書かれている(張政が見た)倭は概ね九州の話だったんじゃなかろうか
卑弥呼に面会していても女だから黥面じゃないし九州人かそれ以外(畿内)から来ているかも判断出来ない
ただし、男子に畿内勢は居なかった >>253
中津の薦神社から遠くない松尾神社です、古代の墓域の一角にあります >>252
多分古墳なんだろうけど大したもんじゃないわ >>257
200メートルほど離れた所には宇佐神宮につながる勅使街道もありますね 3世紀から機内に倭国政権(邪馬台国)があって
5世紀に秦氏がやってきて京都府内から兵庫あたりまで占拠したのか 秦氏が王権乗っ取ったなら秦氏の事跡が残ってるのはおかしい 余計な情報は消されて残らない藤原氏のように 天孫降臨も胡散臭いわな
古事記では新羅王子のアメノヒボコが丹後にやってきて籠神社に伝世されてる息津鏡」「辺津鏡を持ってきたとなっているが、日本書紀ではニギハヤヒがこれらの鏡を授かり河内に降臨
籠神社は彦火明命を主祭神とし、彦火明命はニギハヤヒと同一ともいわれる
天孫は渡来系なのでは? 新撰姓氏録みてだろうなと思ったが天日矛と火明命は同一人物か
北朝鮮の舟が日本海沿岸に流れ着くのと一緒で出雲〜北陸あたりは新羅から来たんだろう 縄文人も弥生時代を生きているから広い意味で弥生人じゃ無いの? 中国古代天文学書「周髀算経」と云う書物中の太陽光の影の長さを計測する方法の記述があり、その方法を現代の知識で再計算してみると、1里は約76-77mとなる。らしい 日本海沿岸に土着→東海地方に進出
元伊勢籠神社(宮津市)
継体、天武、三種の神器 数年前福島県の同じ名字の人が特殊な血液型だったニュースあったな 朝鮮半島を南下して九州に土着・海外史書の倭人・装飾古墳 A豊城入彦・中臣・忌部のグループ
朝鮮半島から山陰・北陸に土着 B新羅にルーツ伝承を持つグループ
朝鮮半島を南下して九州に上陸・畿内に進出 C秦・鴨のグループ
Bが畿内にいるCを避けて中部・東海に進出
Aが阿波・紀伊を経由して関東に進出 【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
【New】2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 最後の『陸行一月』をどう解するかですね
古代人が1日にどれだけ進むのか分かりませんが、仮に1日10キロしか歩かないとしても300キロ
水行十日かつ陸行一月と読むと最寄の港から300キロ
水行十日または陸行一月と読むと不弥国から300キロ
水行十日または陸行一月と読み放射状読みをとると
起点となる伊都国や末盧国から300キロ 日数は到達までの経過日数だから、日数×1日の歩いた距離の計算で全距離が出るかどうか不明。 戦争をしゅっちゅうやってる中国なら
兵隊が歩いて何日で到着するかくらい
見積もれないと戦争にならん。 >>1
最新の核ゲノムで見た遺伝的距離の図では韓国「ソウル」は「(中華人民共和国)瀋陽」と遺伝的に同じで、「ソウル」は「中国人」もしくは「中国系」と分類されてる
https://i.imgur.com/g6sh7A5.jpg >>276
・37番目の新血液型「KANNO」が日本で発見される | スラド サイエンス
・[PDF] 第 117 回 日本輸血・細胞治療学会 東北支部例会
・[PDF] 第108回 日本輸血・細胞治療学会 東北支部例会
アドレス貼るとアク禁されるからググって 末盧国から500里、100里、100里と刻みながら不弥国に来ているのだから、次のヤマ●国まで不弥国から数百里程度じゃないかな?
仮に500里とすると、洛陽からヤマ●国まで16200里。これだと大月氏国までの16370里に及ばないので、旅程記事の最後が書けなかった。それだと完成とは言えないので別系統の資料から、(おそらく時代も目的地も違う)日数による旅程記事のを併記した。陸行一月は1日50里進むなら(末盧から)1500里なので、計16500里になって16370里を上回るので都合がいい。と言うわけで奴国を福岡平野、不弥国を太宰府とすると、ヒメミコがいたヤマ●国は筑紫平野になる。
菊池平野や熊本平野と対立しただろうから、素不和とあるのもおかしくない。のちの六波羅探題みたいに当時の京畿を監視したのが一大卒。ヒコミコや伊都国王の権威超えるためには親魏倭王の称号をもらってくる必要があった。のちの足利義満みたいに。こんなとこだろう。 ガチで沖縄だったんでは
顔に入れ墨
阿麻氏がいて15世紀にも阿麻和利なる人物が 琉球語は古墳時代に日本語と別れ、十世紀に沖縄に渡ったという
つまり卑弥呼の末裔が沖縄に渡ったのだよん 日数の行程は帯方郡からの行程を時間で再度説明したものだよ
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
既に里数による距離の説明は終了している。 ヤマトなのかヤマカなのかヤマダイなのかヤマカドなのかハッキリしない。玄界灘の諸国から見て山向こうの国などといった意味なのだろう。
朝倉市あたりに卑弥呼はいて、玄界灘諸国へのルートや日田から大分へ抜けるルートを押さえ、さらに筑後川の水運をやくする勢力だったに違いない。 いま畿内説唱えてる学者なんて居る?
マスゴミと町興しに必死な自治体くらいじゃないの?
あとは本出して金儲けしたいだけのやつ
発掘関係は邪馬台国諦めて4世紀の解明に向いてる気がする
纏向はまぁ桜井市が地道にやってれば良いと思うよ
邪馬台国に絡めなければ当時は最先端の集落の一つだったんだろうなって思うし 帥行30里
秦の始皇帝が全国を巡幸したときの
一日の目安距離。
いくつか種類があって、
軍が急行するときは45里。 旧日本軍の行軍の速度
行軍の速度は部隊の大小、種類および状態、道路の情況、天候、明暗の度、季節、戦術上の要求などによっておのずから異なるが、普通の情況においては、次の標準による。
すなわち、1分間で、(1)徒歩兵 (a)途歩 約86m、(b)駈歩 約145m、(2)乗馬兵 (a)常歩 100m、(b)速歩 200m、(c)駈歩 300m。
この速度は大部隊になるにつれて遅くなるほか、兵種連合の場合は速度の遅い部隊を基準とするから、通常1kmを行進するのに13分間を要し、休憩時間を合算し、1kmにつき約15分間を標準とする。 ただし自動車中隊およびこれに準じる部隊の速度は1時間約12kmが標準である。 行軍1日の行程は普通の情況の諸兵連合の大部隊では昼夜約24kmを標準とする。 騎兵部隊はその行程が約40–60kmに達し、小部隊の場合は80kmを突破し、自動車中隊は80–120kmを標準とする。 日本軍の行軍速度は普通は1日24km。ただし作戦上必要とあらば40km。
50分間に4km歩き10分休憩して平均時速4km/時。
これが最もよい行進速度で、これより急ぐと疲労がひどくなり、結果目的地に着く前に倒れる者が増える。これより遅く歩いても、たいして疲れないわけではなく、一番よいのがこの速度。だから1日に移動できる距離をかせぐには、急いで歩かせるのではなく行軍時間を多くする。
普通は6時間で24km。昼飯に1時間は休憩するし、行軍が終わって晩飯食ったりテント張ったり、歩哨の配置を決め穴を掘ったりすることも必要だから、これくらいが適当。
8時間で32kmは、昼飯の時間を入れると9時間。朝起きて、テントたたんで飯食って、行軍終わって飯食って設営すると、冬だと暗くなってからテントを張るようなことになる。
しかし。作戦上必要なら10時間で40km歩くこともあり、だから訓練でも40km行軍はある。
1日40km歩けるからといって2日で80kmは歩けない。3日で120kmくらいが限界だが、けっこう脱落者が出る、強行軍は3日くらいが限界である。 大陸から渡って日本で越冬するミヤマカラスの上陸地点が対馬・九州、出雲、能登半島
朝鮮半島〜対馬〜九州は対岸の陸地を視認できる
出雲・能登は海の向こうから視認できない
このルートで日本に渡るカラスを見送っていた人々は
毎年辛い冬を前に海の向こうへ消えていくカラスを見てその先に大地があるのを想像しただろう
出雲ルートで日本に渡るカラスに導かれて渡来したのが天孫神話を作った人々 大陸の史書として一番権威があるのは「史」。「記」や「紀」はその下位の位置づけ
つまり我が国ではこれが正史ですよというものは作らなかったことになる。
その中でも東夷伝という伝は、伝聞や過去の情報を集めただけの物
これから距離の話にこだわる事自体がおかしな話。
記紀によって意図的に卑弥呼の時代と倭国大乱期を消し飛ばされているのにまだ大陸の伝聞の距離から答えを導き出そうとする
そんなモノから答えが出るわけが無い ~ 中国史書に記された卑弥呼時代 ~
魏志韓伝によると、ちょうど鉄器時代ということもあり、
半島では中国に供給できるほどの鉄が取れ、倭人たちも
鉄を求めてやって来ていた様子が描かれている。
(弥生時代の鉄器出土量)
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
卑弥呼とは、倭国大乱で対立していた国々によって共立された女王である。
その女王に属する国々が女王国=邪馬台国連合である。
しかし女王国の南にはまだ反対派の狗奴国があり、戦争が勃発していた。
海を挟んで東には他にも倭人の国がたくさんあった。
少なくとも卑弥呼時代においては、全国統一には至っていない。
なお三国史記にも卑弥呼時代が記録されており、卑弥呼が女王となったのは2世紀後半と推測できる。
AD173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
AD193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
248年、卑弥呼が死に、次の王として男王が立ったが、国中が納得せず内乱となり、1000人以上の死者を出す始末。
そこで卑弥呼の親戚でまだ幼かった臺与を女王とすることで、ようやく平和が訪れた。
しかし臺与時代AD266年の朝貢を最後に、女王の記録は途絶える。 後漢書によれば邪馬臺は後漢時代すでに存在しており代々王を継ぐ30国からなる事が記されている
魏の時代で7万戸規模という事は後漢時代からそれなりに大規模な勢力であったと推測されます
しかし180年頃共立された女王卑弥呼の権力も240年頃には狗奴国と戦争に陥ってしまうほど衰退していたと思われます
こうした記録と全く整合しない畿内説の根拠は全てフィクションですね >建物Dの最東列の北から2番目の地点は、
>溝も何も無い場所
>なのに跡地の柱列ではその地点にも柱が立ててある。
??□□□
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???□□ 紀年銘鏡も存在しない年号だったり本来時計回りに銘文が書かれているのに反時計回りだったり作者の陳さんの字が左右反対になっていたり、どうみても手本を横において真似て作った鏡が多数
畿内で古墳から見つかる大量の鏡はほとんどこのように国内で作られたものがほとんどだろうな
滅ぼした九州邪馬台国が重宝していた鏡に何らかの価値を感じ大量にコピーしたんだろう 箸墓周濠にゴミとして捨てられた土器は作られて百年後に捨てられたものかもしれない、もしそうだとすれば箸墓の築造時期は四世紀になる。このように箸墓の年代決定はとても危うい方法だと言えるのである >>302
100年後に捨てられる理由はいろいろ想定出来るだろ、思考力があればね 100年あればその間のいろいろな時期の物が混ざることに気がつくけどね
まともな思考力があれば >>304
例えば特定の先祖の形見として保存していた物なら時代は限定されるだろ その100年が経過する間にほかのゴミは一切捨てられないのか?
自分の主張がいかにバカげているか理解できる? >>306
100年後に付近の田畑を開墾した際に出て来た土器をまとめて捨てたという事も排除は出来ない。思考力があれば色々なケースが想定できる。思考力があればな そのゴミの下には本来の時代から100年分の堆積があるんだよ
バカには理解できないんだろうが いやいや、堆積は関係ないと思うぞ
離れた複数の場所できっちり100年前のものだけを捨てた、という主張なんだから
馬鹿な考えだというのは同意 >>308
周濠が用水路だった頃なら溝さらえぐらいするのは一般常識。池が拡大され不要になった部分に土器が捨てられたとも考えられるhttps://i.imgur.com/FiXxMuY.jpeg そもそも箸墓の築造時期とゴミとして捨てられた土器の製造時期が同じとする考え方には無理がある 箸墓大池のような池作りを得意とするのは秦氏なんだけど、箸墓が馬具の時代に作られたのであれば時代が一致してしまうな 応神天皇が百済から貰った2頭の馬は箸墓の近くで飼育されていたようなので箸墓周濠から出た鐙はその馬の物だった可能性があるねhttps://i.imgur.com/fVKxzgB.jpeg 箸墓の鐙が応神天皇が百済から貰った馬の鐙とすれば年代は400年前後だろう、とすれば布留1式もその時期の物であろう。つまり箸墓の築造時期も400年頃の可能性を排除出来ないはずだ。 臺与時代AD266年
少なくともこの時点では畿内に居ただろ。
大陸から見た邪馬台国の位置は変わっておらず、朝貢し戦闘をした人間たちは東征している
我が国から見た邪馬台国は移動している。
それを記紀が意図的に消しただけの話 AD173年卑弥呼朝貢 その時すでに年長大(35歳以上)
248年卑弥呼死亡
豊と同じ13歳くらいで就任したとして、ミニマム88歳www
人類学上も九州の人間がそんな年まで生きたという話は無い。つまり大陸の話は「伝聞」に過ぎない。
平均寿命からいっても同一人物はあり得ない
荒唐無稽な九州説wwww >>317
訂正
AD173年卑弥呼朝貢→AD173年朝貢 >>0318
じゃ倭国大乱期に卑弥呼いなかったでOKね
そもそも突如として現れた纏向の一番古い土器は180年代
和国大乱期から含め、二度は政権交代レベルの話しが存在する
大陸の記述は基本、政権交代レベルの事件を記述するのではなかったか? 武内文書でも弓前文書でも東征?九州と奈良の戦が二度あった事には言及されている
距離の話など、確度のある話ではない >>322
倭国が乱れていて共立で女王を立てたのだから、人物は居ただろうが女王では無かった そもそもが陳寿の生きていたのは豊と同年代
それまでの記述は全て伝聞などのメモ書きから書き起こされている
リアルタイムに倭国に入り奈良まで随伴した張政の詳細報告以外の物は確度が低いと判断するべき内容
文脈から言って、景初の下りの前の卑弥呼や倭国の話は時系列ではなく伝聞レベルで解釈するべき
そもそも景初のあたりは冷夏であったことが分かっている。温暖化の進んだ現在ですら未だに九州ですら米は二回取れない(麦はとれたっけかね)
倭のコメ(中西遺跡)を狙って東征したとかそういう可能性の方がまだ信ぴょう性がある AD173年に倭の女王卑弥乎(コの字が魏志倭人伝と違う)が使者を送ってきたと書くのは新羅本紀
朝貢とは書いていない
ただ、千年後の12世紀に書かれたものなので信憑性は高くない 倭人伝は、何らかの政治的な問題で、奈良のヤマトの勢力が九州まで下がっており
戦いのお墨付き、もしくは大陸のバックアップが欲しくて九州に居た何らかの勢力が朝貢した
そして、無事畿内勢力を倒した、程度の大枠しか分からない内容として判断するべき
物理的には、勢力や政権が移動している。つまり邪馬台国の解釈は移動している
畿内説、九州説はそれらの出来事を全て自分らの地域の中で起きた事にしようとしているだけに過ぎない
そこから始めるくらいじゃないと結論など出ないのでは?
大陸の伝聞の話より、我が国側の伝承の方が余程当てになる分野だと思われる
それは記紀が意図的にその時期を消し飛ばして空白にしているから 記録文献に記載されている内容と
自分の勝手解釈による空想と
歴史学的信憑性があるのはどっちだと思って生きてるんだ? >>327
70~80年乱れてた、その期間なにもしなかったとは思えないので、いたかもしれないですね >>327
新羅本紀は、千年後の12世紀に書かれたものだが基になった資料は存在していた
古い時代の資料は干支で記され、60年毎に同じ干支を繰り返すからAD173年はAD233年の間違いの可能性が高い
卑弥呼が亡くなる14〜15年前の事だな。 >>0329
記録文献に記載されている内容と
それこそお前の思い込みだろ。史ではなく、その時点で伝。
記録文献ではなく、伝だよって前置きがある。お前は漢字が読めないのか?w
んなら、歴史の解釈も当然無理だろ。前提からして間違ってるもんなw
目の前に存在する物すら正しく位置づけが理解できてない。無駄な距離測の話をやってればよい 大市古墳に関しては、かつては円墳、もしくは帆立貝型古墳であったという説があり
古い絵図には前方後円墳は見られない。円墳になってる
江戸時代の古墳の普請で手が加えられた可能性が否定できない古墳
たしか、方突部の土の分析の結果が円墳部分と違うだか何だかの話があった記憶がある >>0331
>九州説は基本がなってない。
>全くダメな説だ。
確かに。畿内で八井耳系の一族により作られた記紀を拠り所としてるじてんで憐れみすら感じる
基本どころか地元の古くから存在する説すら把握してない。
丸木舟の実験により、同じ水行日数があれば沖縄まで行けるって事がもう分かっててもコレだもんな
東征らしき争いが一度ではなかったのでは?という話をする九州の学者さんだっているのにね
どう考えても記紀は大陸の史書に目を通してから誤魔化し方のプロットを考えてるよ >>339
前方部と後円部が一体型だと確認されたの知らないのか?
日本に住んで無いのか? 昨日から日本語が不自由な人が参加したようだね、ニュース速報プラスから流れて来たかのな? 中国史書には九州の「倭国(邪馬臺国、狗奴国など)」そして東日本の代名詞「日本」しか登場しませんね
ては、何故ヤマトは中国に対しはっきりヤマトと名乗らなかったのでしょうか?
①そもそもヤマトなんて呼び名が存在しなかった
②ヤマト自身はは中国人と会ったことがない
③罪日だとバレないよう、九州邪馬臺国の末裔に成りすましていた(オレオレ詐欺) >>341
旧双子塚に分類される大市墓に関しての研究においては、中村一郎氏と笠野毅氏が大市古墳の土器の出土状況について
『大市墓の出土品』という記事で報告している。
それによると、方突部と円墳部では出土品の種類に大きな違いがあり、方突部の方はもっぱら土師器の壺で占められていて
唯一の例外である特殊器台形の埴輪片も小さな破片にすぎず、しかも地表下10cmほどの表土層中からの出土で、二次的な移動による混入が疑われると報告している
それが覆されたというソースが新たに出ているという話は聞いたことがない
半可通は恥の元だぞ?w >>321
プークスクスww
それが何か?w今の言葉の意味をドヤ顔で出してるようだけどwwwww
『魏志倭人伝』の前半部の倭国の地理や習俗を記した部分に、こうある。「卑弥呼は鬼道(きどう)を行ない。年は長大で夫はいない」
この部分は、205年前後に邪馬台国を訪れた使者の見聞をもとに書かれたといわれている。
当時の中国では、30台半ばすぎの年齢を「長大」と表現していた。卑弥呼は35〜38歳くらいで後漢の使者を迎えたことになる。 参考までに書くとだな、魏志倭人伝の頃の海は、今でいう意味とは限らない
淡水の川岸でも海と書いた
長大→成長して大人になることwwwwwwwアホすぎるwwwww 更に『梁書の倭人伝』には、「漢の霊帝の光和年間(178〜183年)に、倭国は乱れ、戦いあって「年月を経た」
「そこで、」卑彌呼という一人の女性を共立して王と為した。
後の時代に後付けされた「霊帝の光和年間(178〜183年)」という情報が正しいのかどうかはとりあえず脇に置くとしても
もし仮に183年に15歳で女王になったとすると、魏に朝貢したのが70歳で、亡くなった248年は80歳。
もし共立されたときに既に年長大だったとすると、仮に183年に30歳だと、亡くなった248年は95歳。
なーんにも感じない方がおかしい。今の感覚で言ったら150歳クラスwww
正に天皇陛下www
複数の卑弥呼が存在する可能性を考えるべきレベル。確度があるのは死んだ卑弥呼と、陳寿と同年代の宗女(娘)豊のみ 因みに『大市墓の出土品』の報告書は宮内庁書陵部第27号でまとめてあるので公式な報告書だ
書籍にもなってるよ
大市古墳に関しては、1791年刊行の大和名所図会、1785年の書紀集解にも円墳として書かれている
安政4年時点では周濠が消失しており、文久の修陵の保全対象になった可能性が否定できないのが大市古墳
文久山陵図草稿には現在と同じ形として周濠に接している
安政から文久にかけて形が変わっているとしか思えないのがあの古墳
>前方部と後円部が一体型だと確認されたの知らないのか?
お、おおう・・・・円墳部分と方突部は土の種類が違ってて黒土が使われ、突き硬めの仕方も違うんだがな・・
円墳部分の処には吉備の影響の強い特殊器台(円筒埴輪の原型)が出ているので明らかに方突部と構成が違っている 山陵図の定義に関しては以下の通り
宇都宮藩の建議で幕府が1862年(文久2年)から行った事業が「文久の修陵」である。こうした事業を幕府が許可した背景には、幕末という当時の世情が大きく影響している。この際に、各陵の工事前と工事後の様子を絵師に描かせ、上下二卷にまとめて1867年(慶応3年)に朝廷と幕府に献上したものがいわゆる「文久山陵図」である。現在、朝廷献上本は宮内庁書陵部の、幕府献上本は国立公文書館の所蔵となっている。2005年(平成17年)に国立公文書館本を元版とする『文久山陵図』が出版された。
大市古墳に関しては草稿のみしか確認されておらず、後の図がない状態ではあるが、対象として挙げられていたのは事実という事になる
ホケノ山古墳との関係からも、太田遺跡の大市古墳は手が加えられて形が変えられた可能性が高い古墳 メンヘラトナカイのフェイク6連発
①隋書で方位を修正した
↓
航路が変わっただけでした
②大津くんがテレビで絹がなんちゃら言いました
↓
そんな事言ってませんでした
③黒塚古墳は黄幢です
↓
公孫氏の赤幢の絵を使ったフェイクでした
④九州説を許さないと言い放った後に、九州説に転向すると宣言
↓
大嘘でした
⑤ Metaの「Threads(スレッズ)」でコミュニティを作る
↓
作りませんでした
⑥岡上氏を持ち上げたけど
岡上氏が東遷論者と気がつくとさっさとハシゴを外してシカト中 >>345
ニュース速報プラスで癇癪を起こしていたのはやっぱりトナカイだったな >>347
平安時代の貴族の平均年齢とか官僚の定年とか見れば80歳程度は生きても何の不思議もないわけだが無知は嫌だな >>343
倭は優雅でないので日本に改めた。とあるから倭だったんじゃないの。
江戸時代に出来た邪馬台国が古代にあった事になってる様に、後から付けられた大和が昔からある事になってるのでしょう 現在残る在来馬は全部同じルーツらしいけどどこから来たんだろう
鯉は九州・中国・四国・近畿・中部・関東以北どういう系統図が作れるだろう
中国のどの地方の鯉と近縁なのか
中国から贈られたのか、持ち帰ったのか、渡来人が持ち込んだのか
食用として養殖されて人と一緒に日本国内を移動したのか、自然繁殖したのか >>356
それまで天皇が馬を所有していなかった証拠。元々日本に馬がいたならとっくに馬を所有していただろうと想像する、なんせ大王なのだから国内の物はなんでも手に入れる事が出来たはずだから >>358
厩坂と言う名前は厩戸が出来た後の命名なのではないかな >>357
勝手な妄想
4世紀後半以降の地層からしか馬の骨は出ない >>360
応神天皇の没年は何年説を採用している? 在来馬はモンゴル馬の系統らしい
中国でも骨が太く頑健なモンゴル馬を古代から軍馬にしていたようだね
大陸には2000年以上前から馬を飼育・繁殖させる技術があったと
日本人が知らない馬という生き物をくれたのか、名馬をくれたのか
イタリアにも1000年以上前から稲作している地域があり
田んぼでは害虫を食べる鯉を飼い
鯉の腹に米を詰めて焼く料理まであるらしい
稲作と鯉ってセットなのかな >>0352
>平安時代の貴族の平均年齢とか官僚の定年とか見れば80歳程度は生きても何の不思議もないわけだが無知は嫌だな
>平安時代の貴族の平均年齢とか官僚の定年とか見れば80歳程度は生きても何の不思議もないわけだが無知は嫌だな
>平安時代の貴族の平均年齢とか官僚の定年とか見れば80歳程度は生きても何の不思議もないわけだが無知は嫌だな
バカが一人いるwww
当時の平均寿命を知らないのはお前。だから長大という言葉も出来た。 >前方部と後円部が一体型だと確認されたの知らないのか?
これ書いた嘘つきは涙目で逃げ出したままソースすら開示しないww >>364
属性により平均寿命が違うなんて今でもあるしアホでも理解できそうなもんだがどうやらアホには理解できないようで 倭人伝から抜粋するね
見大人所敬 但搏手 以當跪拝「其人壽考或百年或八九十年」
人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。
つまり倭人はのんびりと暮らして長寿だったのだろう 暦がないから、歳を数える習慣は無いと思うが。生まれてから何回米を収穫したか思い出して数えた年齢じゃ無いのかね 大陸から渡ってきて田畑を耕し住居を建て衣服を織ったが
年齢を数える文化は大陸に置いてきた? 原住民が大陸からの文化を必要でないなら受け入れない。全てが伝わるわけではないだろう。
種撒いて収穫までが年とあるから。 江戸時代の平均寿命が30代だからって、みんな30代くらいで死ぬと思ってるやつが存在するってマジ?
徳川家康73歳、葛飾北斎90歳だがこれも捏造か? リアルではめったに遭遇しないクソバカがネットでは発言権与えられて普通に可視化されるからびっくりするよね
世間のバカさに 大陸から渡ってきて田畑を耕し住居を建て衣服を織る術を伝えたが
年齢を数える文化は受け入れられなかったので大陸に持ち帰った
渡来人は技術だけ伝えて日本に定着しませんでした >>377
訂正
倭人に必要とするものが
↓
倭人が必要とするものが 中世日本では中央に逆らう人たちが私年号や旧年号を使うわけだが 飛鳥時代の聖徳太子のちょいあとが
白鳳時代だが、この語源となった白鳳は、
正式な年号ではない私年号である。
当時は白鳳を制定した勢力のほうが
政権を取っていたという説がある。 元号なんか無くても生きていける
実際記紀だと誰それの何年って書き方だろ ヨーロッパなんかも無いだろ
言ってもキリスト生誕から何年、とか建国何年、かもしれんが 漢字使います
魏の年号使います
改元を知らずに鏡に彫っちゃいます
でも年齢・紀年は数えません
大和王権ややこしい生き方してんな スマホの本格普及が2012年くらいから
まさか個人が1台の高性能コンピュータを携帯して、
いつでもネットで発掘画面にアクセスできる時代が来るなんて
夢にも思わず
旧来のように専門情報は管理できる我は紙なりとかんちがいしたゴッドハンドが
やらかしたんだろうな
>2009年捏造問題 ニホンヤモリは3000年前に中国江南地方から五島列島・九州にやってきた
1000年余りの長いあいだ伝承を語り継いでいたのか文字史料があったのか
2000年前に中国の歴代王朝と通交していた倭人も呉の末裔を称していた
ヤモリの遺伝子と1500年前の史書が一致
ニホンヤモリは外来種だった!遺伝子と古文書で解明したヤモリと人の3千年史
www.tohoku.ac.jp/japanese/2022/12/press20221201-02-gecko.html 倭の五王に氏があったのなら姫かな
姫讃
姫珍
姫済
姫興
姫武 後漢書では倭国は100国あり、そのうち漢と交流があったのが30国
邪馬台国は倭国のうち漢と交流があった30国をまとめ上げたにすぎず、魏志倭人伝の記述が倭国全体の話ではないことは明らか
楊堅
@Youken1316
九州説論者は、倭国と邪馬台国を混同してるように見えます。邪馬台国は都なのであって、書かれている習俗などはあくまでも倭国全体の話です。卑弥呼も邪馬台国の王ではなく、倭国の王です。 姫みこ
姫とよ
周王室の氏名乗って生意気だな卑みこにしてやろう 馬がいない九州倭人圏と
馬を飼い海上輸送する船団を持つ中国四国倭人圏が争ったら
九州倭人はひとたまりもないな
倭人伝の旅程
中国の使者も徒歩のペースで移動してたんだね 諸葛孔明は山道も騎馬が通りやすいように整備したとか 始皇帝の時代に兵馬俑が作られてんだし
昔から馬はいたさ
3世紀の纏向にもいたに違いない! 古代中国では馬がいるのが当たり前
いないから「馬がいない」と報告したのだろう 馬がいないと広大な領域を支配なんてできないわけで、せいぜい川沿い海岸沿いに広げるしか無理なんですわ
3世紀に畿内が九州まで支配したなんてありえない どうみても、北九州の土器が搬入されてなく、大陸の遺物も無い纒向遺跡が、九州まで支配し、大陸とも交流のあった国の王都とは思えないんですがね
纒向遺跡から出土する土器は西は中国地方まで、大陸の遺物もない、馬は4世紀以降、履中天皇以前を1代12年で換算しても崇神天皇は西暦300年前後の人間、3世紀九州北部が畿内勢力の影響下にあったとは考えづらい
村山茂樹
@Clunio
23/10/05 18:23:57
返信先:
@Youken1316
さん,
@YOSHICIV
さん
どう考えても、
邪馬台国=ヤマト(大和)=纏向遺跡王都
の蓋然性の高さが際立つんですよね。
畿内説にメンタルに反発を覚える層の話を聞いてみると、要するに天皇家が日本の成立の根幹にかかわっていると考えるのはけしからんという、反骨とマルクス主義革命理論が不可分に絡みついている。 邪馬台国は畿内の大和王権と同時代に存在たしただの地方政権
それを畿内論者が邪馬台国=大和王権だと言いはるからおかしなことになる 見大人所敬 但搏手 以當跪拝
これは力士が土俵上に上がって相撲を取る前の仕切りの所作に継承されてる。 腕を胸の前で×に交差させて礼をするのなら
遼朝を描いたドラマで観た 陛下・皇后に拝謁しますって跪拝して
楽にしろっていわれてから立つ 寺澤にハシゴを外されて宙ぶらりんのかわいそうな畿内説
その@
寺澤薫「「径は百余歩」が実数だとして、後円部の直径ではなく、墓域(兆域)の広さを指していると考えたらどうであろうか。」
―『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※ 箸墓の径百歩は証拠にならないとハシゴを外された畿内説 そのA
寺澤薫の試算する奈良盆地の戸数は7000戸
「王都を擁する「磯城下」と「磯城上」の二つの大共同体をあわせてもせいぜい四〇〇〇人。ならばヤマト国(邪馬台国)全体でも最大に見積もって一万五〇〇〇人ほどだろう。奈良盆地全体なら三万五〇〇〇人、戸数にして七〇〇〇戸ほどだ。」
―『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※倭人伝の邪馬台国7万戸の1割が実数とハシゴを外された畿内説 そのB
「纒向遺跡が形成された初瀬川上流の「纒向川扇状地」小共同体(図 7の L)には、弥生時代の拠点的母集落はおろか、集落といえるほどの遺跡がない。自然林に覆われた空閑地に突如として纒向遺跡は出現したのである。 纒向遺跡の第一の特徴は、弥生時代にはほとんど人の手が入らなかった地域に、三世紀になって突然、人が集まりはじめて巨大な集落を形成し、一〇〇年もたたないうちに急速に衰退する点にある。」
―『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※卑弥呼共立の2世紀の纒向には邪馬台国の痕跡が無いとハシゴを外された畿内説 そのC
モモソヒメの実在を疑う寺澤薫
「実在性の不確かな崇神紀の倭迹迹日百襲姫像が、実在性の確かな『魏志』倭人伝の卑弥呼像と重ね合わされていった。」
―『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※モモソヒメ=卑弥呼説を唱える畿内説はハシゴを外されてしまった そのD
箸墓=卑弥呼の墓に疑問を呈する寺澤薫
「第一に築造年代の問題である。箸墓古墳の築造は布留 0式古相期にはじまり、同じ布留 0式古相期のなかで終わっている。布留 0式古相期の暦年代を三世紀後葉とする私の考えでは、卑弥呼の墓の第一候補からは外れることになる。それに卑弥呼の墓が寿陵であった可能性を考えると、墓の基礎部分の造成は、卑弥呼が共立された三世紀初めの庄内式の早い時期にはじまっていなければならない。可能性はますます薄らぐ。」
―『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※箸墓は卑弥呼の墓では無いとハシゴを外された畿内説 そのE
第二に墳形の問題である。箸墓古墳の後円部の径は約一六五メートル、高さは約二八メートルだ。これに対して前方部の長さは約一三五メートル、高さは約一八メートルに達する。側面からは双子山のようにみえる。はたして箸墓古墳を目撃した当時の魏の使者が、前方部(方丘)を無視して後円部(円丘)の大きさのみを記録するだろうか。日本独特の墳形である前方後円墳は、彼らの目にも異様に映ったはずなのである。 この疑問点を解消するために、後円部が先行して築造されたと主張する研究者もいる。本来は円墳であったが、のちに前方部が付加されたというのである。この手法は前方後円墳の築造手順としては存在する。しかし円墳であったものを、ある年月の経過後、あらためて前方後円墳に仕立てたというのであれば、その時間差を証明する考古学的根拠が必要だ。」
―『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※ 箸墓は中国人が見た卑弥呼の墓では無いとハシゴを外された畿内説 そのF
「私が本書で提案したのは、そろそろ「邪馬台国」という一部族的国家に拘泥した議論はやめにしようということである。中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。」
―『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※邪馬台国にこだわる畿内説は完全にハシゴを外されてしまった そのG
「邪馬台国連合」からヤマト王権へという二段階論者には、私の主張の根拠の一つ一つに対して納得のいく反論を期待してきたけれど、議論はかみ合わないかスルーされるのが実情である。それどころか近年では、暦年代をさらに前倒しする説まで提出されている。「邪馬台国連合」の原型を「ヤマト国」と称し、大和川水系に起源をもつこの国が、弥生時代後期中葉の一世紀後半には畿内圏に求心力をおよぼし、纒向遺跡が出現する後期末(庄内式期)の二世紀前葉以降には西日本各地に影響力を拡大していったというものである[岸本、二〇一四年/岸本、二〇二〇年]。 こうした見方に触発されてか昨今、「邪馬台国連合からヤマト王権へ」というフレーズは概説書や博物館の展示解説などであとを絶たない。それはこの半世紀の考古学の成果や研究の蓄積を反故にするような、三〇年前の過激なヤマト優越史観への回帰としか思えない。はてさて、読者の方々はどのように受け止められるだろうか。」
―『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著 >>412
書いてあるが
女王(卑弥呼)の所都が邪馬台国
その女王を共立した25カ国の総称が女王国
邪馬台国 女王卑弥呼 官伊支目、弥馬升、略
狗奴国 男王卑弥弓呼 官狗古智卑狗 倭国大乱が九州から畿内までの戦乱で、共立して卑弥呼をたてたとかありえないから
そんな広大な範囲での戦乱だの交渉だの、馬という移動手段が現れないとまずそんなことは起きない
邪馬台国には馬がないないんだから九州限定の戦乱であったことは濃厚 倭国大乱 → 桓霊の間(146-189)暦年主なし ※180~189年ごろか?
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 → もとより不和ということは卑弥呼共立の時からずっと不和だったことが推測される
說相攻撃状 → つまり倭国大乱から卑弥呼の統治時代を含めて、50-60年ほどの間ずーーーっと戦争状態だったことがわかる
其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦 → 女王国は深刻な男不足に陥っていたことが書かれている 応神朝に馬が来て
仁徳から鷹狩が歴代天皇のマストホビーになる
馬に乗って鷹狩する人々はどこから来て
子孫はどの氏族なのか >>260
邪馬はジャバと読めるからインドネシアのジャワ島だろ
縄文人の特徴のひとつにシミが出来やすいというのがある。
熱帯地方は紫外線が強いからシミの原因となるメラニンが多い。
資生堂はシミ遺伝子を特定した
ヒトを構成する約2万個の遺伝子のひとつであるMC1R遺伝子。MC1R遺伝子には同じ人種のなかでも様々なタイプが存在し、髪や肌の特徴との関係が知られている。
日本人にも複数のタイプがあるのかもしれない、それがシミのできやすさと関係しているのでは、という着想につながった。
つまりシミの出来やすい熱帯、亜熱帯出身の縄文人と出来にくい弥生人である。 >>370
>生まれてから何回米を収穫したか思い出して
アホか。生まれた時の記憶を持ってる奴なんか居らんウータンwww
親から教えてもらわないと自分の名前すら判らんというものだ。 纏向からカエルの骨が出てきて
うきは市の珍塚古墳壁画にカエルの絵が描いてあるから
交流があったというわけだ。 カエル九州にしかいなかった説
ないしは
カエル畿内にしかいなかった説 陳寿の錯誤説を唱えてみる。
陳寿が短里で書かれている元記事を長里と誤解し、別資料から奴国以下の旅程を書き加えた。
これで伊都国までの旅程記事と奴国以降の旅程記事の違いを説明できるし、全体行程1万2千里も説明できる。
つまり、倭国=女王国=山門郡 かつ 邪馬壹国=邪馬臺国=大和国 が両立する。
古事記の年紀を適用すれば、240年頃は大和国は3代安寧とか4代懿徳の時期であり正妃は磯城県主の娘。
纒向の隆盛も說明できる。 陳寿の錯誤説を唱えてみる。
陳寿が短里で書かれている元記事を長里と誤解し、別資料から奴国以下の旅程を書き加えた。
これで伊都国までの旅程記事と奴国以降の旅程記事の違いを説明できるし、全体行程1万2千里も説明できる。
つまり、倭国=女王国=山門郡 かつ 邪馬壹国=邪馬臺国=大和国 が両立する。
古事記の年紀を適用すれば、240年頃は大和国は3代安寧とか4代懿徳の時期であり正妃は磯城県主の娘。
纒向の隆盛も說明できる。 >>421
うきは市は狗奴国だったから、そいうこと >>420
中「あなたは何歳ですか?」
倭A「う~ん、数えられないほど収穫したので、百歳」
倭B「子供の頃、収穫の手伝いをAに教わった時、Aは10回手伝いをしたと言ってたので、90歳」
倭C「村一番の働き者の私は、他の人が怠けてる時も良く働いた。今年が70回目だ」
と、こんな年齢ではないかと >>420
中「あなたは何歳ですか?」
倭A「う~ん、数えられないほど収穫したので、百歳」
倭B「子供の頃、収穫の手伝いをAに教わった時、Aは10回手伝いをしたと言ってたので、90歳」
倭C「村一番の働き者の私は、他の人が怠けてる時も良く働いた。今年が70回目だ」
と、こんな年齢ではないかと >>426
そりゃそうだろ。
末蘆伊都奴不弥の大きさだとそんなもんだ。 >>421
洋の東西を問わずどこでも食べてるんじゃ 大陸伝来の文字・年号を用います
養蚕します
金属の精製・鋳造できます
巨大な王宮造れます
巨大な神殿造れます
世界最大規模の古墳造れます
優美な庭園造れます
朝鮮に兵を送る船団もあります
ただ年齢だけは数えられません 中国人は方角がわからない
日本人は年齢がわからない 弥生末期、北部九州の人口が4万程度
30国あるとすると1国あたり1300人
吉野ヶ里遺跡の環濠内部に1200人程度らしいから、吉野ケ里遺跡程度で1国のスケールなんだろう 環濠内部はいわば、県庁とかお城みたいなもんで
周囲地域には広く農民がいるもんだ。
だいたい、支配者層や兵が2.5%から5%で
残りは農民など。
だいたい支配者や兵の1300人の20倍から40倍は農民がいる。
全部で4~5万人くらいはいるんじゃないかな。
それくらいじゃないと、いわば非生産階層を
食わせるほどの税が取れない。 吉野ヶ里だと、旧神崎郡と三養基郡の一部くらいで
そこに500人から2000人程度の村々が点在して
トータルで2万人から5万人といったところだろう。
農民も農地に通勤しなくちゃいけないので
農地から遠くには住みにくい。
だから、小さな村が農地の近くに点在する構造になる。 吉野ヶ里は華奴蘇奴国(カンノサキ→神埼)か弥奴国(ミネ→三根)
あれがこの時代の一国のサイズ 戦国時代の兵の動員数として
織田信長のやった兵農分離による専門兵で人口の2.5%くらい。
他戦国大名のやったような農民の動員で人口の5%くらい。
専門兵だと訓練度を高めることができ、
多く消耗しても生産力が下がりにくいが
金がかかる。
動員兵は訓練がしにくく、消耗すると
農民が減るので、生産力が下がりやすい。
また、田植えや収穫の時期には動員できない。 当時女王国の男の人口は1/2から1/3くらいにまで減ってた
倭国大乱から卑弥呼統治時代を通してずっと続いた対狗奴国戦争は
邪馬台国に深刻な戦災ダメージをもたらしていた >>438
北部九州で4万と資産されてるのに吉野ヶ里遺跡周辺だけで4,5万とか無茶苦茶だわ >>443
それって昔の弥生時代の人口60万人の時代の話じゃないかな。
今では弥生終末期で300万人程度と推定されているよ。 3000年前ヤモリと一緒に九州に上陸した呉人
千年もの長いあいだ自分たちは太伯の子孫だと伝承する
天孫神話で先祖捨てるかなあ
それまで太伯の子孫だと伝えてた中国相手に
突然自分たちは神の子孫だって言い出すの? 縄文時代 30万人
弥生時代 60万人
古墳時代 500万人
奈良時代 700万人
弥生時代の最初と終わりでは
だいぶ違いそうだな。 >>448
移民だろうな
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
ちなみに邪馬台国時代の倭人は半島系ではなく、呉越の末裔だったと記されている 魏略逸文(翰苑、唐代)には太伯之後とあるが魏志にも後漢書にも皆自称大夫とあるから
魏略逸文(翰苑)だけが中華史書にありがちな勝手解釈で捻じ曲げてる可能性あるね 魏略逸文や広志逸文の編纂で使われた記録類は魏志倭人伝と同じもの
魏志倭人伝は陳寿の勝手解釈で書かれた
それだけの事 後漢書にも使人自稱大夫とあるように元の記録は大夫と自称したというものだった可能性が高そう >>455
魏志の後に編纂された後漢書は魏志の写し
中国史書は基本的に先代の史書をコピペするだけ
お前は印象操作を図る詐欺(学芸員)なんだろうけどw >>456
写しかどうか自分の目で確認してみりゃいいのに 本当は邪馬壹が正しいのかもしれない
後漢書倭伝が魏志倭人伝を参照して書かれているのは誰もが知ってる事
魏志倭人伝に記載されているのは「邪馬壹(ヤマイ)国」
後漢書では「邪馬臺は邪摩惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書かれています
https://i.imgur.com/Y4EHDju.png
邪馬台国の人が「ヤマイ」のことを九州弁で「ヤマイたい」と答えた可能性もある
そしてそれが邪馬臺として後世へと語り継がれていったと >>459
倭人はそれを平安時代まで文法辞書とした使ってきたんだが? >>463
百科事典を史書とか言うなよ
史料批判もして出直してこいよ >>447
>弥生時代 60万人
>古墳時代 500万人
現代日本人のDNAに古墳人の影響強いの納得 >>466
バーカ
畿内説ちゃうわ
悔しくなったらレッテル貼りして逃げるの止めろよ負け犬 弥生時代早期から稲作してんだからだいたい弥生時代に人口は増え終わって、終わり頃には500万人近くになってそうだな。 ところがギッチョン水稲稲作は洪水災害との戦いでもあるわけで、収穫前の洪水で稲がダメになれば、増えた人口を支えきれなくてみんなが飢えるという両刃の剣。
そんな簡単な話じゃ無かった模様。 古墳時代に渡来人が大量にやってきて急激に土木建築技術が向上
その結果人口増加しやすい環境ができたのであって稲作で人口バク上げとか・・・ 罪人の島流し?
九州大学や米モンタナ大学による国際研究チームは、弥生時代から古墳時代に鹿児島県種子島で暮らしていた古代人に、
頭蓋骨を意図的に変形する習慣があることを突き止めた。
同様の習慣は世界各地でみられる。研究成果は古代人の文化への理解につながる。
種子島の遺跡で採集した頭蓋骨を、3D(3次元)スキャンや最新の計測技術を用いて分析した。
ほかの古代人の頭蓋骨と比較すると、後頭部が平らで、頭蓋骨後頭部の縫合周辺と後頭骨の中心部あたりにくぼみもあった。
生活習慣ではなく、人為的に力を加えて変形させている可能性が高いことを明らかにした。
男女ともに頭蓋骨が変形していた。
研究チームは集団としてのアイデンティティーを保つため、頭を変形していたとみている。
今後、生活拠点の発見などで当時の暮らしが明らかになれば、頭蓋骨変形の社会的、文化的意義がわかる可能性がある。
九州大の瀬口典子准教授らによる研究成果で、17日に米科学誌「プロスワン」に論文が掲載された。
鹿児島県の種子島にある弥生時代末期―古墳時代前半ごろの集団墓地「広田遺跡」で発掘された人骨を分析した結果、頭蓋骨の後頭部が平たくなるように意図的に変形させていた痕跡が見つかったと、九州大のチームが12日までに発表した。これらの人々は、ルーツが不明で農耕をしていた痕跡がなく、生活や文化が当時の日本列島の他の地域と異なる「謎の集団」とされる。
以前から頭蓋骨を変形させていた可能性は指摘されていたが、確証は得られていなかった。頭蓋骨を意図的に変形させる風習は、中南米や欧州に存在していたことが知られている。日本の古代社会に同様の風習があったと確認したのは初めて。
チームは広田遺跡から発掘された人骨19体を解析。頭蓋骨を3Dスキャンしてコンピューター上に立体的な姿を再現し、九州の縄文人や山口県西部で見つかった弥生人の頭蓋骨と比べた。
その結果、広田遺跡の頭蓋骨は後頭部が平たく、何かを当てて押さえつけた結果できたようなくぼみがあった。中南米の意図的に変形させた頭蓋骨と似た特徴だという。 辰韓出身だろ
魏志の話題なんだから韓伝くらい読んどけよ >>469
米は保存できるから。魏志倭人伝にも邸閣(食糧倉庫)があるって書かれてる。 >>472
てことは、秦人かね。
始皇帝周りの出土頭蓋骨は変形していないし、白人に似た形質があるから、
広田とはだいぶ異なる。
秦人にもいろんな出自のものがいて、その一部がやってきたと考えるか、
辰韓にも地元民と秦避難民とがいたのか。 弥生時代に良い土地はだいたい稲作植え付け済み。
古墳時代には、作付け困難地域での
土木工事になる。
ついでに古墳工事のスキルができる。 戦国→秦漢建国時の動乱
三国動乱
動乱期にたくさん亡命してきて土木技術も伝えてくれたんじゃなかろうか。 >>474
単純に秦の被征服民だと思うよ
色んなとこから徴収して長城建設してたんでしょ、あれ むしろ軍事のほうがついで、だな。
土木技術を持ち、大人数を集めて
稲作困難地域を広域に開墾できる国は強い。
その一環として古墳が作られ
軍事力をついでに持った。
大阪の堺周辺は、広大な低湿地帯だった。
そこを開墾するついでに古墳を作った。
これが古墳時代である。
九州で稲作が広がったのは弥生時代なので
まだそれほど大きな古墳はない。 奈良時代に流入したとされる鯉も
ゲノム解析したら稲作と同時に日本に渡来した可能性あるんじゃないかと
>グランド・グルメ ヨーロッパ食材紀行「実りの秋のコメに生きる〜イタリア」
>イタリア北東部のイゾラ・デッラ・スカーラ地方は、1000年以上昔から稲作を行ってきた。鯉の米づめやリゾット料理など稲作農民に伝わる米料理を中心に紹介。 >用水路の鯉も名物。 害虫を食べるためだそうですが、 刈り取りの前に捕まえて、食すそうです。 その料理が鯉の米詰め 都合の悪い調査結果は証拠隠滅してしまう事で有名な畿内説さん
結果報告まだですか?
箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/ 吉備の墓造りを踏襲してたら郭はあるだろなぁ
楯築とか排水機構まであったんだろ? コロナ対策の予算で買ったゲノム解析機が未使用で死蔵されてるらしい
馬と鯉の解析しよう 大和王権が持ち帰ったものなら奈良の鯉がもっとも中国の鯉に近い
稲作とともに倭人が持ち込んだのなら九州の鯉が中国の鯉に近い
都があった黄河流域の鯉に近いのか
倭人の故地長江流域の鯉に近いのか 魏志倭人伝には女王国の南に敵対する狗奴国があったと書いてある。
この狗奴国の「狗」というのは「反目」を意味します。
狗耶韓国の場合は反韓国の国であり、狗奴国の場合は反奴国の国を意味します。
つまり女王国=奴国と明記してあるも同然なのですよ。 BSプレミアムAM9:30〜
コメ食う人々 北イタリア・ポー川流域(2009年) >>490
深夜12時から再放送あり
明日・明後日もコメ食う人々シリーズでフィリピン・アフリカ
こっちは稲作の始まりが15世紀だったけど
イタリアにも赤米・黒米があるんだね 隣の隣にある長粒米のフィリピンより
遠く離れたイタリアのほうが日本の米に近い
白米のほか古代米とされる赤米・黒米まであり
田の害虫を食べる益魚として鯉までパッケージで伝わっている
日本の鯉も稲作とセットで伝来したのと違う?
>>489
池の水を抜く番組では外来魚として駆除されることもある 帯方郡から12000里
壱岐島が300里四方
倭国は一周5000里
魏志倭人伝で使われている1里は、実際の距離から換算すると80m前後
数字だけ見ると明らかに九州北部一帯の話だわな
九州だけで20程度の国造がいるし、30国の邪馬台国連合は九州限定の連合だろう 旧郡単位を一つの国とすると、
筑前+筑後で25郡
肥前+肥後でも25郡
30国だと、ざっと一つの県くらいだろうか。 あと、西海道(現九州)枠で96郡。
この数字のもとになった和名類聚抄は
平安時代のものだから、多少の変化はあるだろう。
倭国100余国は九州全体として良いと考える。 三国志での三韓の記述が「4000里四方」
朝鮮半島の幅が400km程度なので、1里はここでも100m前後
馬韓全体で十数万戸
1周5000里かつ九州北部と投馬国邪馬台国で15万戸程度の倭は三韓よりも小さい認識
10700里まで細かく記述しておいて、全体で12000里と書いているのに、12000里が概念なはずがない
邪馬台国は、数字から解釈するとどうみても九州限定 カザフスタンのピラミッド型古墳
日本の古墳の原型になりそうな雰囲気あった 畿内説は郡から九州までのキロ数を絶対に答える事は無い、何故なら答えてしまうと短里だとバレてしまうから。 >>496
水行陸行何日とかいう記述だけ無視したら、完全に九州限定の記述なんだよな
まあその何日というのも曖昧すぎてどうにでもなる解釈に引っ張られて畿内説はありえないと思う
平原1号墓なんか年代が数十年違うとか円墳ではないとか殉葬人数が少ないとか小さい差異はあるが、要素的には完全に卑弥呼の墓 >>501
里程でも完全に九州限定
日程でも完全に九州限定
曖昧でもなんでもない、それぞれ明確な別々の並行記事だよ。
平原の年代は後漢代だから、長寿の巫女女王だった卑弥呼副葬品としてドンピシャ。
円墳なんてのは根拠なしの勝手な縛りであって意味なし。
1号墳と2号墳は共通の周濠で囲まれていて、
その径が短里で丁度百余歩。
周濠の中に複数の土壙墓があって、土壙墓一つに複数人が殉葬されて殉葬百人。
土壙墓は残らないから分かりにくいが、石棺墓などでは一つの石棺に複数人が埋葬されることがよくあるから。 大和王権は年季・年齢を数えてなかったそうだから
遺物の銘にある干支も信用ならないな 年季・年齢を数えない世界ってあるのか?w
自分の子供がなんとなく大きくなっていく〜www >>501
1号墓から出土したように、剣、勾玉、鏡って九州の祭器なんだが、なぜそれが皇室の三種の神器となったのか
単に文化が伝播したのか、九州の人間が畿内に移ったのか >>506
畿内説と阿波説は捏造と思ってウオッチするととても面白いよ 畿内説があるので外国人に日本の学者は捏造が大好きだと思われてしまう
日本人として大変恥ずかしいことだ。 >>502
里程と日程が並列で日程は里程を補うために後から追加された記事だと考えると魏志倭人伝の記事は分かり易いな。
従来の説の多くが里程と日程を連続して読んでた事が大きな誤りだったんだね。 「自女王國以北 其戸數道里可得略載」
女王国より以北は、その戸数や道程の里数のおおよそを記載出来る
里程ではない「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」の文章は
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」が書かれた時点ては存在していなかった
後で追加挿入されたものものなのだ。
当初は「東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家 自女王國以北 其戸數道里可得略載」と繋がっていたのだ。 「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」
の文章は後から別資料からの引用されたもので他の文章とは完全に独立した文章である
なので「邪馬壹國 女王之所都」とは邪馬壹国とは首都の意味ではなく
単に投馬国に対して邪馬壹国を女王が都(す)べている意味。 >>512
大意はそれでいいけど、
>単に投馬国に対して邪馬壹国を女王が都(す)べている意味。
なのであれば、
水行十日で至る、でいいのでは?
陸行が不要。 >>513
陸行一月は末盧国から伊都国、奴国までの600里を行くのに掛かる時間ですから
陸行一日の誤記なんですね
明治時代の白鳥庫吉先生の指摘は正しかったんですね。 7000里に水行20日、4400里に水行10日、600里に陸行1日掛かったんですね。 >>514
そのために陸行をつけるなら、邪馬壹国ではなく、
邪馬壹国の中における、奴国を示すのでは? 水行20日、10日、陸行1月。
実際の日数を5倍してるんだよ。
つまり、倭人は掛け算が出来た。 >>516
郡使の出発地は帯方郡の中心地の郡治からではなく帯方郡の南の端の海岸から
だから海岸着けば至や到となる
7000里も帯方郡の南の端の海岸から狗邪韓国の海岸まで
4400里も狗邪韓国の海岸から末盧国の北の端の海岸まで
末盧国の北の端の呼子付近から伊都国との国境までが500里となる
600里は伊都国と奴国の国境まで
女王国までが12000里なので女王国とは伊都国と奴国を中心とした地域である事が分かりますね。 >>515
何故、陳寿は里程の後に日程を書き足したのか
それは魏志倭人伝の里が魏で使用されていた里よりも短い里(1里約80m)だったから
魏で使用されていた里なら7000里を20日、4400里を10日、600里を1日で行くとか不可能ですから
魏志倭人伝内の里が魏で使用されていた里よりも短い里である事が分かるから
陳寿自身も魏志倭人伝の1里が魏の何里に当たるのかは知らなかった
魏略等の魏志倭人伝の作成に参考にした資料で使われてる里が魏の里とは違う里であると気付いただけだったんだ。 >>518
海岸に着いたら至であれば、末蘆の海岸に水行十日で至るでいいと思うけど。
呼子から奴国まで1日も弥生時代の道だと厳しい。
けどまあそれでわかりました。 狗邪韓国を含む朝鮮半島南部の地域が投馬国
北部九州地域が邪馬台国
南部九州地域が狗奴国
中国地方が倭種ですね
女王国とは邪馬台国の首都圏である伊都国、奴国、不弥国のこと 現在も「法の支配」とか言って、支配するのが好きだけど。 >>522
やはり、邪馬台国は九州で、4世紀以降畿内勢力に滅ぼされたというのが妥当だな >>522
3世紀末は未だ弥生時代、桜井茶臼山古墳みたいな古墳が造られたのは5世紀以後の古墳時代
200年くらいは時代を遡ってる、捏造癖が酷いな。 九州の天智天皇は7世紀に白村江でボロ負けして
近江大津宮に疎開して、天武天皇にクーデターされて
畿内政権に変わった。 明帝(曹叡)が司馬懿に命じて襄平にいた公孫淵を征伐した時の行軍距離が
長里で四千里だ。
倭が遠い国だと見せかける為に何のことわりも無しに短里で「万二千里」と10倍に誇張して書いてる倭人伝www 「径」は王乗る様な車が乗り入れられない細道を表わす漢字
「径」が直径や「半径」などを表わすようになったのは
明代以降だろ。日本では江戸時代に算額=絵馬のような木札に
幾何学問題を書いて解けるかどうかを競うのが流行したが
その時には「圓径」という言葉が使われていた。
わざわざ「圓」という字を付け加えなければならないほど
円の直径、半径は新しい概念であった。
http://www2.nkansai.ne.jp/users/yoshioka/image/challe_212b.jpg
寛文元年=AD1661年 今我々が読んでいる魏志倭人伝は誤字が有ったり文字が改竄されたりで
陳寿が書いた原典そのままではない。
「難升米」が7ケ所出てくるが此は8世紀に日本書紀が編纂された時神功紀に魏志を引用していたが
そこには「難斗米」と書かれている。
そして魏志倭人伝は
中華民国時代の学者・張元済である。 張は各種の版本を検討した結果、「紹煕本」は非常に優れていると提唱した
宮内庁書陵部蔵の「南宋紹煕年間の刻本」が最善本とされている。
紹煕本 朝鮮半島から初めて海を渡って着いた地名が「対海国」。
百衲本 ほぼ「紹煕本」と同一だが細部に相違がある。
紹興本 朝鮮半島から初めて海を渡って着いた地名が「対馬国」。
中華書局本 紹興本によって「対馬国」とする以外は「紹煕本」に依拠。 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼、以って死す。大いに冢を作る。径百余歩に、徇葬者の奴婢は百余人なり。
卑弥呼は既に死んでいた。多くの冢が作られ、直径百余歩の範囲に、徇葬者の奴婢は百余人であった。 >>531 からの続き
「対馬」が「対海」と書かれている事を根拠に藤堂明保は
「赤トンボの羽根取ったらアブラムシ」になる様に
「海」のサンズイ篇を取ったら「毎」になる様に「海」の上古音を
「唇を閉じて声帯や唇を振るわせない無声音のmで始まるmuəと推定した。 紹興本 「対海国」から「対馬国」になったのは
遣唐使が持参し唐や宋の皇帝に献呈した日本書紀や10世紀前半の源順の著作「倭名抄」を読んで改訂したものである。 >>529
短里は魏志倭人伝だけでなく東夷伝全体で使われているから
倭が遠い国だと見せかける為に作られたものではないよ
実際に東夷で使用されていたものだよ。 対海国をタイハイ国ではなくツェマ国と発音するのであれば
その記録は魏晋時代ではなく秦漢時代に記録されたものかも知らんね >>536
對の頭子音は「ツ」ではなく英語のto,twonのような音
「倭名抄」の著者源順(みなもとのしたごう)が参照した【唐韻】によると「都隊切」で
「都市」はツtsuシshiではなくトtoシshiと読むように
現代日本語のタ行のタチツテトの子音は不規則で3種類の子音が混じっている。
チがchi/tschiでツがtsuと訛ってる。自動車メーカーのマツダはMAZUDAと綴る。此れはドイツ風の書法。
プロ野球選手だった松井Matsuiがアメリカで活躍してた頃、
アメリカ人はツの発音が難しいらしくマスイと発音してたし
インドネシアが震源で印度洋大津波の時は津波と発音出来なくて
スナミと発音してた。
「対」の中国音はツイではなくトゥイで中国式ローマ字はduiと書く。
「隊」も中国現代音はdui。堆積の「堆」も声調(イントネーション)は違うが
同じduiトゥイという発音、 脊椎の「椎」は母音部分が同じでも頭子音が異なってて
椎は中国式ローマ字でzhuiと発音する。
こちらはモンゴル、満州訛りの影響を受けてる。
魏晋時代の発音を残してると言われる
閩語は「椎」をtʰuiと発音する。
tʰはtの音を威勢よく力強く発音するIPA=発音記号
江戸弁のような発音。日清戦争で日本が日清戦争勝利して独立させてやるまで
五千年間只管中国の真似ばかりしてたという朝鮮語でいう激音と大体同じ。 隋書にはヤマタイと書かれてて魏志と同じ「ヤマタイ」だと思われる
一方奈良のそれはヤマトであってヤマタイでもヤマトイでもない
つまり隋書に書かれたヤマタイはあくまでも魏志からの引用に過ぎず
奈良のヤマトを反映していない >>538
邪馬台国と投馬国の戸数が韓の馬韓や辰韓、弁韓並みな訳も説明が付きますし
3世紀に70000戸の遺跡が日本に無い理由も説明が付き矛盾無く理解出来るでしょ。 隋書のヤマタイは邪馬台国が東遷したことの証拠になるだろうね 本当に東遷なんかな
政権争いに負けた分家が敵対する吉備に亡命して、そこで僻地(纏向)の統治を任されて力をつけたうえで本家を滅ぼして「うちが本家、引っ越してきた」と言ってる可能性を考えたわ 単純に九州を滅ぼして背乗りしただけだろう
下した敵の名前を名乗るのはヤマトタケルもそう
それが古代の風習だったのかもしれない >>541
ところがドッコイショ
「臺」は客家(ハッカ)語toi、広東方言はtooiトーィと発音する。
広東語は「愛」も「「哀」もオイと発音する。
中国華北北方系アイが華南江南系の方言でオイに対応するという規則性がある。
福建省北部の建甌方言は日本語の「ト」と同じ発音をする。 景行天皇とヤマトタケルの熊襲征伐は
九州豪族の話を記紀に組み込んだもの。
東北のヤマトタケルの話は、また別の豪族のもの。 現代の中国華南に分布する方言が中国古代の面影を伝えているという話
華北方言は匈奴、鮮卑、蒙古、女真などに占領されて支配する異民族の影響を受けて
発音が変化したという話。
亭主の好きな赤烏帽子という諺があるだろう。
「烏帽子」は烏色の黒い帽子。
たとえ人の失笑を買うようなものでも、主人(支配者)が好きだというのなら、家族(征服された庶民)はこれに従わなければならぬという事。
日本でも明治維新で天皇陛下や公家が東京に移住したので
関東弁が標準語になってテレビ、ラジオ、文学が東京周辺の言葉で書かれ
成りあがり者の東京都民が偉そうにしているのと同じ事 >>549
標準語が無いと津軽弁と鹿児島弁では全くコミュニケーションが取れないだろうね >>543
隋代まで九州に倭国が存在し続けていたって九州王朝説もあるね。 畿内が九州邪馬台国を滅ぼす
大量の鏡を発見
これを全国に配れと大陸の王朝に言われたという話を九州邪馬台国の人間に聞く
だったら大量に作って配布したるわ
これが三角縁神獣鏡 >>552
何言ってるか分かんない?
関西地方では古墳時代に住民が入れ替わってしまう程の大量の移民があった
仮に関西地方に邪馬台国が在ったとしてもその後に滅亡してるな。 >>553
昭和30年代半ばに九州から炭鉱離職者=失業者が大勢阪神に流入した
うちの家から200mほどの処に炭鉱離職者=失業者が集団移住して住んでいるアパート群がある。
一挙に半島系DNAが濃くなった。当時はDNA分析の技術はまだ開発されてなかったけど…
急に増えたので小学校の運動場にプレハブ校舎が林立した。
貧乏人の子沢山とはよく言ったもんだ。 >>554
頭悪い?
八世紀まで近畿は半島系の入植地だったんだよ
記録も残ってる
昭和の小規模な移住でそう簡単にDNAは書きかわらない 自分達に都合が悪いことは噓を搗いて胡麻かそうとする九州野郎共www
「青春の門」に九州炭鉱労働者の悲惨な状況が描かれている >>卑弥呼は魏に助けを求めたのだが、これは崇神朝の四道将軍の派遣
の様とは大きく違うので崇神朝は邪馬台国ではない
卑弥呼が亡くなったのは崇神朝の2代程前、3世紀中ごろでちょうど
箸墓古墳が作られたころ、それで同時代と思われるモモソヒメを卑弥呼
ではないか箸墓は卑弥呼の墓ではないかと言ったりするが、崇神朝から
それほど古くはなくむしろ近い
問題は箸墓は立派な前方後円墳である、またこの頃の大和の王は崇神朝
から年代がそれほど変わらず、大和の王には連合国家の王より統一国家、
征服王朝の強いイメージがある
イメージが先行するが、言いたいことは上に述べた人の意見と同じである 邪馬台国畿内説 Part960
レス番号810
橿考は昔2chで印象操作工作活動を展開してたよ
2001年頃奈良で関係者に聞いた話
https://i.imgur.com/e90jUOc.jpeg
これはあかんやつや 近畿圏はハニワ民族
それ以外は土偶民族
現代でもDNAがそれを明示している >>559
ヤマト政権が中国と外交関係を持ったのは唐代からだからな
魏なんて知らないね。 10年くらい前に邪馬台国のスレを時々見に行ったが、纏向の発掘で九州説の人は
頭がおかしいとか、絶滅危惧種とか言われていた
10年たってみると、互いに頭がおかしいと言うのは同じだが、絶滅危惧と言われる
のは畿内説の方で逆転したようである
なにがあったのだろう 巻向を掘っていた畿内説の学者はほとんどが引退し
一部が纏向学研究センターに移行して
畿内説から、地元の巻向発掘調査に変わった。
以降、2011年頃から、畿内説という言葉の入った
論文や書籍はほとんど出なくなった。 もともとは科研費や地方自治体から
畿内説の立証のための予算を取っていたが
掘ってお金を使ったら、当然報告書を出さなければならない。
200回掘ってそれなりに何かは出土するものの
畿内説を補強するものではなく
報告書を出すのも苦しくなり
最後には、魚の骨や桃の種、
5世紀に日本に来たとされる紅花までを
畿内説の根拠といい張る始末。
さすがにもう畿内説を立証するのは難しくなって
地元の発掘調査に絞った纏向学研究センターに移行した。
ある意味、地元の発掘調査という正しい
調査姿勢に戻ったと言える。
纏向学研究センターのHPを見れば、
なんとなく畿内説の残渣が感じられるだろう。 >>543
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家族・友人に紹介したり、通常タスクをこなせば更にポイントを追加でゲットできます ❌畿内の邪馬台国は強大な権力を持っていた
⭕ 畿内には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した >>569
東遷じゃなくて分家が倭種の地の平定を任されて
そこを拠点にして強力な政権が誕生
九州の本家を滅ぼしたんじゃないかと
後の戦国時代でも
天下統一した大阪の豊臣を、江戸の僻地を発展させた徳川が滅ぼしたのと同じように 九州本家の天智天皇と畿内分家の天武天皇。
本家の天智天皇が白村江で大敗して
唐が攻めてくることを危惧して
近江大津宮に遷都。
近江大津宮で好き勝手にやったら、
分家の天武天皇がブチ切れてクーデターを起こされた。
以降は畿内が本家になり、畿内に都が作られた。 中国では政権交代したら、
前政権の史書を作るらしいので
日本でも天武天皇に変わってから史書を作った。
古事記、日本書紀である。 大津皇子は博多っこ
高市皇子の母親は宗像氏
九州と縁が深いっすね 宗像氏は賀茂と同族
天武朝で伊勢・賀茂に未婚の皇女を差し出すようになるのは何かあるな >>581
>賀茂に未婚の皇女を差し出す
どう言う事ですか? 「国生み」にも「神生み」にも出てくるのは「阿波」の神「大宜都比売」だけ。
更に高天原を追放された須佐之男命に料理を振る舞う神としても登場する。
いかに「阿波」の神「大宜都比売」が偉大で、欠かすことのできない重要な存在であることが分かる。 @阿波 そしてその「大宜都比売命」をお祀りしているのは。勿論「阿波」だけ。
阿波國名方郡「一宮神社」 御祭神 大宜都比売命
阿波國名方郡(名西郡)神山町「上一宮大粟神社」 御祭神 大宜都比売命 遺跡はウソをつかない。
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を倭国(阿波)内各地で実施し、
中国鏡・中国産朱も舶載している現実がある。
また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。
大陸と倭国(阿波)までの流通ルートが確立されているのは紛れもない事実である。 @阿波 >>586
「阿波」も遺跡もウソをつかない。
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を倭国(阿波)内各地で実施し、
中国鏡・中国産朱も舶載している現実がある。
また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。
大陸と倭国(阿波)までの流通ルートが確立されているのは紛れもない事実である。 @阿波 蒙古軍の船が沈んでいるのもこの辺り。
大陸・半島へ逃げ帰るため、蒙古軍は、対馬海流を利用して平戸の渡島・大島辺りに集結していたのだろう。 @阿波 人口だけで考えれば、
邪馬台国は筑後肥前肥後とするのが妥当であろう >>592
人口を考えると熊本は無視出来ませんからね 有明海湾岸の肥前肥後の肥国
博多湾岸の筑紫国
筑後は有明海なので古くは肥の一部であったが
景行天皇のネタ元になった筑紫豪族が
筑後高良山を奪取し、筑紫国グループの一員の
「筑後国」になった。 /\___/ヽ
/ノヽ ヽ、
/ ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' :::ヘ
| ン(○),ン <、(○)<::| |`ヽ、
| `⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒´ ::l |::::ヽl
. ヽ ヽ il´トェェェイ`li r ;/ .|:::::i |
/ヽ !l |,r-r-| l! /ヽ |:::::l |
/ |^|ヽ、 `ニニ´一/|^|`,r-|:「 ̄
/ | .| | .| ,U(ニ 、)ヽ 畿内説も九州説も人の話聞けないコミュ障しか居ないようにみえるよね
5chの外でもそうだから邪馬台国界隈は近寄りたくない 記紀より成立が古い常陸国風土記の天皇名
■崇神天皇
美麻貴天皇馭宇
美万貴天皇
新貴満垣宮大八洲所馭天皇
初国所知美麻貴天皇
美麻貴天皇(2ヶ所)
■垂仁天皇
伊久米天皇
■景行天皇
大足日子天皇(2ヶ所)
■日本武尊
倭武天皇(13ヶ所)
■弟橘媛
倭武天皇之后大橘比売命
■成務天皇
斯我高穴穂宮大八洲照臨天皇
■神功皇后
息長帯比売天皇
息長足日売皇后
■応神天皇
品太天皇
■継体天皇
石村玉穂宮大八洲所馭天皇
■孝徳天皇
難波長柄豊前大宮臨軒天皇(3ヶ所)
難波長柄豊前大宮馭宇天皇(2ヶ所)
難波天皇 ■天智天皇
淡海大津朝
淡海
淡海大津大朝光宅天皇
■天武天皇
飛鳥浄御原大宮臨軒天皇
飛鳥浄御原天皇
飛鳥浄見原大朝
臨軒…孝徳天皇、天武天皇
馭…崇神天皇、継体天皇、孝徳天皇
宮…崇神天皇、成務天皇、継体天皇、孝徳天皇、天武天皇
大八洲…崇神天皇、成務天皇、継体天皇
照臨…成務天皇
成務天皇って超重要人物?
大八洲に所馭する崇神・継体
大八洲を照臨する成務
孝徳・天武が大宮なのは臨軒だからか
崇神・継体・成務と孝徳・天武が特例すべき存在なのか 成務は国造定めたりして後の律令国制に繋がる雛形作った はつくにをしろしめたのが崇神
おおやしまをしろしめたのは成務か
なるほどなあ 石村玉穂宮大八洲所馭天皇(デコ盛り)の正統性を担保する品太天皇(あっさり) ネトウヨ論法だと邪馬台国はヤマト王権ではなく、倭王は中華に朝貢していないという
これは江戸時代のネトウヨである国学者の妄説
日本は建国の頃から中国の冊封を受けていた
現代ネトウヨが国学者の九州説を主張しているのは笑止だ
ジャップは中華の属国だったし日王も属国の王なんだ!
ネトウヨ悔しいだろうが、それが真実の歴史だ、 ネトウヨは日本が神州だと信じているからな
神日本wwwwww
九九から勉強しなおせよ 在日コリアンの多くは密航者
日本が嫌いなら逃げてきた祖国に帰ればいい 朝鮮半島の無文土器が、「投馬國」の福良遺跡や「狗奴国」の古屋岩陰遺跡で出土している。
弥生時代初頭には、「投馬國」及び「狗奴国」が朝鮮半島との交流があったことがが窺われる。 @阿波 そらそやろな。
白村江で48000人送り込むんだから
九州王朝にとっては、対馬海峡や玄界灘は
自分の庭みたいなもんやろ。
遣唐使になってからは、1/4が遭難してるから
こっちは畿内王権やろな。 >>614
>九州王朝
妄想だけで、まったく裏付けるもの無し! @阿波 >>616
四国・近畿の遺伝的(半島系固有DNA}近縁は、倭国(阿波)王権による、飛鳥時代の朝鮮半島避難民保護が原因。 @阿波 >>619
どうするどうする わははははは @阿波 成務天皇って有力な子孫もいない1代限りの傍系なんだね
大八洲所馭天皇の直系先祖が品太天皇で
後世の誰とも繋がらない傍系天皇が大八洲照臨天皇 そもそも箸墓古墳は今、前方後円墳の形だけど
江戸時代中期の古文献や大和絵図では「円墳」だよ >>623
そういうことにしたいんじゃね?
よっぽど追い詰められてんだねーとしかw あれだけ堀から3世紀()の土器がーとか言ってたくせにな 箸墓古墳の周濠は、掘っみたら溝らしい。程度のものではないかと。 >他にも何件か円丘だと書かれた日記などが残ってて、
横の箸中大池は無く畑だと書かれてる。江戸末期の修復時に造成した跡。
河村秀根『書紀集解』尾張藩士河村秀根(1723‐1792)
嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。
相伝曰箸墓。無長樹、荊楚成林耳。
(かつて大和へ行き、柳本村から箸中村を通った。道の右に円形の丘があり、
箸墓という伝承がある。大きな樹木はなく、茨の類が茂っているだけである)
この大和名所図会は西から見た図で、ちょうど前方部側から見た図。
https://i.imgur.com/lTxb8mn.png >この話は考古学会人なら皆知ってる話で、沈黙してる考古学の闇だな。
江戸後期に前方後円墳の名付け親 蒲生君平、明和5年(1768年)
がいて宇都宮藩が山陵修補を企画したんだよ、尊王思想が広がる雰囲気の中で、
主な古墳を修復と云いつつ可なり理想形の前方後円墳に造ってしまった。
で、明治期の写真では確かに前方後円墳で樹木に覆われた形で写ってる。 >>631
>理想形の前方後円墳に造ってしまった。
宇都宮藩内の古墳をか? @阿波 >>630
この図の円墳の段数がレーザー測量図の箸墓と全く同じ数だ
外から見ても判らないのに
ってことはこの図は正しいってことやんけ >いや、主には畿内の大古墳
■山陵奉行
文久2年閏8月8日(1862年10月1日)、宇都宮藩主戸田忠恕(越前守)は
山陵(=天皇陵)修築の建白を老中板倉勝静に提出しました。
宇都宮藩の修陵の建白は、現在の天皇陵管理に大きな影響を及ぼしていきます。
「前方後円墳」の名付け親、蒲生 君平
宇都宮藩主戸田忠恕、改名した。忠至は朝廷から山陵奉公に任じられ、
修補工事は文久3年(1863)初代天皇といわれる神武天皇陵から始められました。
以後3年の月日を費やし、130を越える御陵を修復しました。 >>633
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/3100.html (中段位)
この「大和名所図会」は全体が描てる絵だけど、右に三輪山がハッキリ描かれていて
現在の国道169号線が合流する辺りからの描写で前方部からの絵だけども
前方部らしきが無いばかりか、前面部には畑らしき描写があり、
当然、箸中大池もない、地元の旧家の日記にも箸墓の周りは畑が取り囲むとある。 だから >>635
の全体図を見ればわかる、ホケノ山は箸墓の東側、この絵図は箸墓の西側からの絵。 円墳なら後方部周濠の布留0式土器は箸墓とは無関係だな。 陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、
奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器
が多量に出土した。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は
炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している。
しかし土器は「古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外」の周濠の底
から発見された土器に、付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、
この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているので
それが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えない。 確かに箸墓古墳の周りには前方後円墳の様な外堀の遺構が発見されてるので
前方部は祭祀ようの平面陸橋が有った可能性はある。
纒向型古墳には前方部が平面的な陸橋タイプが多い。
説明されないと足元が前方部だと気づかない。 >>642
纒向には縄文遺跡無い
橿原と纒向は近いが時代も様式も全く異なる遺跡だぞ つまり纒向は墓域に指定されていたということ
だから古墳が多いのは当たり前
副葬品が出土するのも当たり前
実際纒向遺跡の出土品の多くは土木用具と残飯だ
そして定住者がほとんどいないので人々の生活を示す出土品は無い 大量の木器を使っていたのだから、出土しない鉄器は無かったのだろう。 史跡 纒向遺跡・史跡 纒向古墳群 史跡 纒向遺跡・史跡 ... - 桜井市
https://www.city.sakurai.lg.jp/material/files/group/54/maki-hozon.pdf
なお、桜井市域には纒向遺跡以外にも多数の遺跡が展開しており、
時代的にも縄文・弥生から. 中世・近世に渡って我が国の歴史に名をとどめる史跡が ...
纒向遺跡の始まりは、縄文時代後・晩期からと推定される。
粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片が土偶や深鉢などが
この遺跡のあちこちから出土していて、縄文時代の集落が営まれていたと考えられている。 このほか、この遺跡で注目される出土遺物としては、東海をはじめ、
南関東から北部九州という広範囲にわたる他地域の土器が出土していることである。
地点によっては全体の 15〜30%を占め、この遺跡の性格を考える上で重要である。
このほか、銅鐸片や鳥形・舟形の木製品、木製仮面の出土も注目される。
布留式期になると、鞴の羽口や鉄滓なども出土し、
鉄器製作を行っていたことも明らかとなっている。
副葬品
としては画文帯神獣鏡1点、銅鏃 38 点以上、鉄鏃 75 点以上、素環頭大刀1点、
鉄刀1点、鉄剣6点のほか、鏟形鉄製品1点、鉄鑿2点、鉄鉇2点などがある。 言っとくが、纒向遺跡周辺での中心的存在が北西約5kmの距離にある
田原本町の唐古・鍵遺跡で、記紀などで登場する倭王武の「磯城シキの宮」。 >>650
そんなものが国史跡かよ。 なんで「矢野遺跡」や「加茂宮ノ前遺跡」が国史跡にならんのだ? @阿波 ごめん、磯城の宮は三輪山の南側だったな、
取り合えず田原本町は磯城郡で3〜5世紀ころの政治の中心だ。 >>654
>田原本町は磯城郡で3~5世紀ころの政治の中心だ。
妄想だけで、まったく裏付けるもの無し! @阿波 箸墓は円墳だったということか
どうりで真ん中に通路が出来てる訳だ
元々無かった部分だから事情を知ってる地元の人は通行の邪魔ってことで躊躇なく壊したんだろうな >>655
神武天皇の東征の際に、兄磯城・弟磯城の兄弟が磯城の統治者として登場
綏靖天皇の大后の名前は「師木県主の祖(おや)、河俣毘売」となっている
崇神天皇 が都を磯城瑞籬宮に遷した
豊鍬入姫命に大和の笠縫邑に祭るため、「仍りて磯堅城の神籬を立つ」
垂仁天皇の「師木の玉垣宮」
「獲加多支鹵大王」は雄略天皇と推定され、「斯鬼宮」が磯城郡にあった天皇
天武天皇の時代の683年、磯城県主ら14氏に「連」の姓が授けられ
欽明天皇が都を磯城郡の磯城嶋(しきしま)磯城嶋金刺宮と名づけている
物部氏上祖が磯城県主の娘を妻として >>656
そりゃ、地元民にすれば、こんな邪魔な物作りやがってと思ったんだろう。 >>650
そんなものが国史跡かよ。 なんで「矢野遺跡」や「加茂宮ノ前遺跡」が国史跡にならんのだ? @阿波 ホケノ山は相当後に再整備されてるはず。
でなければ、ホケノ山の下に5世紀の
堂ノ後古墳が残ってるはずはないわけで。 獲加多支鹵大王
えかおほしろ大王?
磯城県主
数百年間の宮都を氏の名にできるんだね
崇神天皇が都を磯城瑞籬宮
垂仁天皇の「師木の玉垣宮」
欽明天皇が磯城嶋金刺宮
天武天皇の「斯鬼宮」 讃岐忌部、出雲忌部、紀伊忌部、筑紫忌部、伊勢忌部、越前忌部、淡路忌部、備前忌部、隠岐忌部、安房忌部などは、
後世の学者が「倭人(阿波勢力)」各部族の全国進出を、「十把一絡」に忌部氏と表現したのだろう。
実際は、「物部一派」や「賀茂一派」や「蘇我一派」や「中臣一派」や「葛城一派」や「大伴一派」など、
倭人(阿波勢力)の各部族が全国へ進出していったものであろう。 @阿波 >>667
このドアホがいくらグジグジ言ったところで、「阿波」は 、日本で最も特異遺跡がわんさかの遺跡王国No.1 わははははは @阿波 >>668
阿波よ寝言は寝て言え!
世界遺産も国宝の神社もたった一つの国宝も皇室の宗廟も何も無いのが阿波。 >>669
関係ないものばかり挙げずに、鍛冶炉遺構や集落遺跡を挙げてみろ。
「阿波」は 、日本で最も特異遺跡がわんさかの遺跡王国No.1 わははははは @阿波 >>671
でも、「阿波」は 、日本で最も特異遺跡がわんさかの遺跡王国No.1だから。 わははははは @阿波 >>673
当たり前。 遷都した後だから、祭りの後の寂しさだ。 @阿波 >>675
でも、「阿波」は 、日本で最も特異遺跡がわんさかの遺跡王国No.1だから。 わははははは @阿波 >>677
でも、「阿波」は 、日本で最も特異遺跡がわんさかの遺跡王国No.1だから。 わははははは @阿波 >>679
しょぼさNO.1というデータは? @阿波 >>680
唯一国宝が無いのがしょぼさを表している >>681
しょぼさNO.1というデータは? @阿波 >>683
国宝が、「しょぼさNO.1の貧相な遺跡群」というデータは? わははははは @阿波 >>683
国宝が無いと言うことが、「しょぼさNO.1の貧相な遺跡群」というデータは? わははははは @阿波 国宝のある宗像大社や平原王墓や宮地嶽古墳はしょぼく無いだろ >>686
そりゃ、大陸の玄関口「末盧国(万津浦)」だからな。 わははははは @阿波 >>688
国宝が無いと言うことが、「しょぼさNO.1の貧相な遺跡群」というデータは? わははははは @阿波 >>689
阿波の全ての遺物が国宝より劣っていてしょぼいと言う事だ。 >>690
というデータは? わははははは @阿波 箸墓が卑弥呼の墓という嘘を発明した畿内説はさらに嘘を重ねて自滅した ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています