邪馬台国畿内説 Part920
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1688722647/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし テンプレ①
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 テンプレ②
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 九州福岡県や熊本県に山門という地名がありますよ。ルーツはここです。移住者は元いた所(故郷)の名前を使うものです。米国の『ニュー』ヨーク、『ニュー』ジャージー。北海道でも「新」十津川村や今エスコンフィールドで有名になった『北』広島市などをみれば明らかです。
九州の地から逃げ出して、流れ流れて奈良盆地の片隅を占拠した一族には『ヤマト』に対する望郷の念があったのでしょう。
分かってしまえば簡単な話です。 饒速日が実際に鳴門海峡にいたというなら分かるけどな
板野郡の東部をぼんやりと鳴門と呼んでるならどうかな
まあいいけどな。家康は東京に居た!でも間違いないんだし >>999
なんで現代の地名を使ったらいかんのじゃ? 能足りん説明せい! @阿波 >>87
>饒速日が実際に鳴門海峡にいたというなら分かるけどな
饒速日の本拠地は阿波町長峰辺りだがな。 @阿波 前スレ1000よ
近畿の銅鐸民は稲作を当然知っていたぞ
石切神社の社伝では稲作を知らない登美の民に稲作を教えてやったと書かれているけどな
それは考古に反する。あるいは饒速日は鏡祭祀族ではなく
銅鐸民であり、銅鐸文化のはしりだったというならまだ理解可能 前スレ850
>金官伽耶を領土にしていた邪馬台国は、
>山門八女以外にない。
領土じゃないし >>79
>では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
>となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
これは考古学者として言えないことを言わせて半端な記事にした新聞記者の罪 >>89
おまはんは、自分が軽薄なポンコツで有る事を自覚した方がええよ、鳴門市ですら無い阿波市が本拠地とか、出鱈目すぎてヘソで茶を沸かすレベル。 >>97
このコピペ毎回みるけど最後の一文が論理的に繋がってないよね 考古資料で分からないなら魏志を尊重して九州になるねと言ってんの >>99
いつもの話そらし詐欺。
なんで現代の地名を使ったらいかんのじゃ? 能足りん説明せい! @阿波 >>101
>このコピペ毎回みるけど最後の一文が論理的に繋がってないよね
まともな学者の書く文章ではない
田舎記者の無能さのせいと思いたい >>103
それ、考古学者の言っていいセリフじゃないから >>104
阿波の歴史に対する愛が無さすぎるからアカンわ。
神山の時もそう、歴史に対する敬意が無い。 箸墓は百襲の墓で百襲は卑弥呼などという非常にオカルティックな主張をする人たちがいるらしい >>104
敬意って分かるかな?
難し過ぎたかな? 九州に何百メートルもの巨大古墳を築く文化は無いからね >>113
そらそうよ
戦乱の真っ只中で巨大古墳は無理 >>110
>箸墓は百襲の墓で百襲は卑弥呼などという非常にオカルティックな主張をする人たちがいるらしい
いるって証拠は?
箸墓は百襲の墓だから卑弥呼の墓ではないなどという非常にオカルティックな主張をする人たちは実際いるけどね 廣曰「伊都国又南邪馬嘉」などの直接証拠と、多くの間接証拠を合わせれば、邪馬台国が九州であることが幾何級数的に高まっている 饒速日は銅鏡祭祀族だったろう。
物部の祭祀道具として後世まで十種の神宝というものが伝わっていた。
これは饒速日の祭祀道具なのだが、ここに銅鐸がない。
よってオレは饒速日は九州から来たという認識で正しいと思う。
蛇足だが、古代の民間信仰の世界では三種の神器よりも十種の神宝の方がメジャーだったようだ。
民間信仰の場に於いてすら銅鐸がない(消えている)というのは、ヤマト王権が如何に銅鐸祭祀を憎んでいたかが透けて見えるというものだ。 九州には価値のある貴重な古墳が皆無で宮内庁は治定すらしていない。 >>109
思い上がりもいい加減にせい! 売郷奴のくせに! 片腹痛いわ。 @阿波 >>109
思い上がりもいい加減にせい! 売郷奴の雑魚のくせに! 片腹痛いわ。 @阿波 >>109
思い上がりもいい加減にせい! 売郷奴の能なしのくせに! 片腹痛いわ。 @阿波 >>122
おまはんは、邪馬台国ごっこには興味は有るが、阿波の歴史に実はたいして興味が無いという事がよう分かりました。
軽薄な邪馬台国ごっこが好きなら、ずっとやっとればいいですよ。 >>119
そりゃ筑紫の王権は天皇家とは別だもの。
天皇家の祖が筑紫だとしてもね。
宮内庁は畿内王権の天皇の陵墓だけしか頭にない。 籠神社に伝わる前漢鏡と後漢鏡が饒速日の十種の神宝の中の鏡だと言われているな。
つまり饒速日は筑紫の銅鏡祭祀氏族だ。 >>125
茶々入れしか出来ん能なし。 売郷奴の雑魚のくせに! 片腹痛いわ。 @阿波 テンプレ読むと、「魏志倭人伝は無視していい」
こういうことらしい 銅鐸だけじゃなく、銅戈銅剣も一緒に消えてるからな
鏡は現代のハンバーガーみたいなもんじゃないのか
実質的な政治変動を伴うのかどうかはちゃんと考えたい >>92
狗邪韓国は筑紫倭国の領土だよ。
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。 魏志倭人伝を無視しないと畿内説にはならないもんな。 東海など他の地域の人もみんなで作った纏向の大型建造物、桃の種を見てるとね
世界遺産のアブ・シンベル神殿を連想するわ
ラムセス2世はヌビアを平定すると、平定した地域の人たちに手伝わせてアブ・シンベル神殿を造らせた
戦乱が終わったから平和の象徴だね 纏向遺跡は東海としか交流がなく、東海は北陸や他の地域とも幅広く交流があった。
これは纏向より東海の方が上位だろ。
それに他の地域との交流の幅では九州博多に勝る地域はない。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【筑紫の海神族・天孫族による倭の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は東へ拡大し、土器に入った産物は王都である筑紫へ >>135
これが不思議
川を降れば難波があるから、西日本のどことでも繋がれそうなのに >>128
ポンコツならポンコツなりに生き方は有ると思う、
まあ、精進なされよ。 >>128
おまはんは、その売郷奴の雑魚に突っ込まれて、顔を真っ赤にしながら罵詈雑言を書き込むしか無い、しょうもないポンコツやけんな、
まあ、反省するべきは反省して、精進してくださいね。 外部勢力がやってきて無防備な祭殿を作ったんだよね
想像つくのはひとつだけ
その地域に昔からいた有力者が挙兵しないように、労力を祭殿や都市づくりに注がせたんだろな >>114
>戦乱の真っ只中で巨大古墳は無理
畿内にやって来て九州の文化に無いものを突然作ったんなら、九州から来た人々じゃないね >>135
>纏向遺跡は東海としか交流がなく
証拠は? 古代日本の最大の貿易品である塩について考えよう。
諸葛亮は天然ガスを利用して製塩をしていたらしい。
https://youtu.be/fc-BzPDlXrw >>143
三種の神器は北部九州から出土してんのにw 要するに畿内の指導者層は筑紫の王族だったんだよ。
以上 征西ならあるけど東征なんかない
単に西方面に権威があって背乗りする必要があっただけ >>151
背乗りw
どっかのナントカ人じゃないんだからさ
日本の話よ? >>147
>九州の鏡ばかり作っているじゃん。
九州の鏡は作ってないな 奈良に古くから住んでいた人が、唐古鍵遺跡にいて
後からやって来た人が巻向遺跡を作って
かなり後に、唐古鍵遺跡後にあった古墳の墳丘は削平
こんな流れでスカ >>154
予備知識や読解力がないとそう読めるけど
九州の習慣だった鏡って意味だろ >>152
>畿内説が生き残るには東遷説にすがるしかないなw
東遷説ならもう死んだ >>150
>要するに畿内の指導者層は筑紫の王族だったんだよ。
根拠なし
以上 お笑い、神武東征。兵站基地の遺跡が一つもない。
爆笑、神武東征。古墳時代の皇后に九州出身者は一人もいない。 >>156
予備知識や読解力がないとそう読めるけど
九州の習慣だった鏡って意味だろ
九州の習慣でない 北部九州が大陸との交渉窓口だった、そこに歴代の王たちがいたのは事実だし
そこから前漢鏡が出てきてんのにw >>163
いつ、いかなる時も言うことに証拠がない
それが九州説 >>164
>北部九州が大陸との交渉窓口だった、そこに歴代の王たちがいたのは事実だし
歴代の王たちがいた証拠なし 西に権威があっかどうかも疑問だよ
神武は王族として東征したわけじゃないからね >>151
西方面の権威って何だ?
筑紫の権威そのものだろw >>161
つまり畿内は筑紫の分家だけれど、古墳時代においても両者の交流は容易ではなかった。
まして伊都に駐在した魏の使いが金印を与えた卑弥呼が畿内にいたはずがない。 >>166
三種の神器は出るわ、魏志倭人伝では王は代々伊都にいたと書かれているわ、証拠だらけだな。 >>167
神武はいちおう王族だよ。
天照大神が邇邇芸を豊葦原中国の王として筑紫で即位させ、その3世孫なんだから。 >>166
弥生時代中・後期の王墓の存在もあーあー知らねーって?
畿内からは出てきてないもんねwww
古墳時代からの巨大古墳はあるのに >>169
>まして伊都に駐在した魏の使いが
駐在していない >>172
>弥生時代中・後期の王墓の存在もあーあー知らねーって?
九州説は証拠の出せないことしか言えない >>171
天照大神と素戔嗚との誓約で「生まれた」のが、邪馬台国を共立した九州北部の王たちで
狗奴国を制するために高千穂に拠点を作ったのが伊都国王の息子たちと想像してみた わてらももとをただせは西の出ですねん
って言う必要があっただけだよな >>174
証拠も何も、普通に遺跡や王墓が出てきてんじゃん
マジで知らないってこと?! なんの根拠もないけど天照大神って奈良・東海の在地系の神なんじゃないの
逆に最高司令官の高木神は九州に根っこを持っているように見える
神武自身の血統としては、彦渚も彦火火出見もすごい海っぽいし
名前から推測できる祖先も大海神ぽい >>170
>三種の神器は出るわ、魏志倭人伝では王は代々伊都にいたと書かれているわ、証拠だらけだな。
ひとつも証拠でない
「三種の神器」なるものが王権と結びつくのは遥か後世のこと
伊都に代々王がいたと倭人伝に書かれているのは、邪馬台国にいた女王の配下
つまり女王共立以降のこと 伊都国との繋がりを否定したら畿内説は終了するのにw
もしかして畿内派のフリしてネガキャンしてんの? >>177
>証拠も何も、普通に遺跡や王墓が出てきてんじゃん
証拠が出せないなら
「そこに歴代の王たちがいたのは事実だしそこから前漢鏡が出てきてんのにw」は妄想 つまり遺跡が出てきても「妄想」ね
じゃあ纏向はどうなるんだよwwwww >>180
>伊都国との繋がりを否定したら畿内説は終了するのにw
という根拠は? >>182
>つまり遺跡が出てきても「妄想」ね
証拠が出せないなら、出て来てない 証拠は?と聞けば論破した気分になれていいね
畿内説が胡散臭いモノだとネガキャンしてる自覚はあるのかなw >>185
>証拠は?と聞けば論破した気分になれていいね
証拠の出せないお前は、論破された 高皇産霊と高木神は厳密には違う神
学者はどう違うのかは説明してくれるけど
いつ習合したのか、習合したことの意味は何なのかまでは説明してくれない
充分な資料を欠く段階では学問の仕事ではないのだろうけど >>185
>畿内説が胡散臭いモノだとネガキャンしてる自覚はあるのかなw
そう主張する根拠は? 北部九州の遺跡を知らないからこそ畿内説を主張できるんだなってよーく分かるスレだね
まさに井の中の蛙 つまり、親玉がコマ人である糸島は有害異人生息地であったということ ここまで無知な連中が畿内説を主張して他所の地域の遺跡を否定してきたのか
ガッカリ
そら何も解明されんわ 証拠がまったく出せない
自分の主張の根拠が言えない、理由すら言えない
系統だった論理的な主張ができない
これが九州説の三重苦 >>192
>北部九州の遺跡を知らないからこそ畿内説を主張できるんだなってよーく分かるスレだね
知ってるなら証拠が出せるでしょ?
どうして出せないの?
九州説の人は北部九州の遺跡を知らないからだよね 邪馬台国時代は1世紀から3世紀後半
倭国大乱まで代々倭王が居た地域
卑弥呼時代は2世紀後半から3世紀前半
3世紀にいきなり七万戸の国家が出来るわけでもなく1世紀からそれなりの規模の居住区を抱えていた地域である
畿内説は全く整合しません 平原遺跡の年代は?
魏志倭人伝で伊都とは別に邪馬台国が書かれている理由は?
親畿内勢力と目される奴国との関係は? >>200
人口も誇張だと思う
呉の沖合に大きな国があったという設定だったんだろう >>196
>ここまで無知な連中が畿内説を主張して他所の地域の遺跡を否定してきたのか
証拠が出せないというのは九州説の人が無知だからでは? >>190
平原馬韓人蘇塗跡には馬韓伝記載の大木が立てられている
郡から遠いところでは、好んで賊を作り、囚徒、奴卑の相集まるが如し
と書かれている >>200
>邪馬台国時代は1世紀から3世紀後半
という根拠は? >>192
北部九州福岡の学術研究者は当然日本の学問の通説畿内説 >>209
後漢書が、どういう理由で、なんの根拠? 大木の話は阿蘇にあり、和泉にもある
東征の兵力は馬韓人の軍隊に負っていたのかな
言語クラスタのYouTuberがそんな動画を出しているけど
馬韓人は自分らではなく神武が王位についたことを疑問にしなかったのだろうか >>213
ほらまた逃げた
敗残の九州説
知識ゼロで先入観だけで語ってるから、そうなる >>216
和泉と同じ話だよ。ものすごい高い木が阿蘇にあって
その影は朝は西の土地を、夕は今の大分県まで覆うほどだったって
特に神格化はされてなくて、後で切られてとても大きい船になる話 >>217
馬韓伝のは自然の高い木ではなくて、
「立大木縣鈴鼓事鬼神 諸亡逃至其中皆不還之 好作賊」 大木を立てているのが、平原馬韓人蘇塗跡サビ色塗装鏡群遺跡と、
日本の中の古代韓国吉野ヶ里カラッポ石棺墓遺跡 木の神は他に大己貴命が八上比売に産ませた木俣神がある
木俣神の別名は御井神という
>>218
そっちは祭祀関係か
池上曽根遺跡にも魔除けの木柱が立ってたらしいけど
大木って感じではないようだ 雄略天皇記に、とある巫女が歌を詠んで、景行天皇の宮に槻の大木があって、それが国土を覆っていたかのように言っている場面がある。
ヤマトに巨木信仰はあったかもしれないな。
この歌の中で、木の葉がこおろこおろと回っています、というくだりは興味深い。
こおろこおろと国が出来る神話は記紀の編纂をかなり遡った昔のからあったのだろう。 >>178
天照大神は筑紫の日向の生まれ。
天照大神がいた高天原は、おそらく沖ノ島。 畿内説()の言い分
Q.帯方郡から萬二千里では畿内まで届かないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
Q.倭国の産物として記された絹や鉄製品が見当たらないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
Q.方角が南と記されているが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。なので東の誤記に決まってます。
Q.畿内の遺跡からカエルの骨が見つかったが?
A.これぞ邪馬台国の動かぬ証拠!ほらやっぱり畿内だった!畿内!畿内!
畿内説は学問ではありません
頭の病気の病名です >>202
邪馬台国と投馬国は他の国邑とは別に書かれているので、複数の国邑を含む地域の名前でしょう。
ならば伊都がその中に含まれていてもいい。
奴国博多は商都として広い地域と交流があったけれども、そらは政治とは別。
伊都の大率が周辺諸国から畏怖されていたので、奴国もおそらく伊都に従属する立場。 筑紫→日向→襲→高千穂→久士布流多気
→橘→小戸→阿波岐原 >>206
大きな柱を立てるのは古神道の習慣でしょう。
イザナギとイザナミはオノゴロ島に天の御柱を立て、その周りを巡って求婚しました。
イザナギとイザナミは国生みや神産みを行って行く事となります。
オノゴロ島は博多湾の能古島のことだとも言われています。 >>226
こういう、九州の異人地帯の気質は「わまかし」と呼ばれた
一人一説は、一致団結することがなくばらばらのため「肥後の腰提灯」といわれる >>227
筑紫の日向の小戸、現在の福岡市西区小戸。
住吉の神もここで生まれた。
宮崎県などではない。 >>233
住吉三神は、
審神者曰「今不答而更後有言乎。」
則對曰「於 【日向國】 橘小門之水底所居 而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。」(日本書紀巻第九)
なので、伊弉諾尊が濁穢を秡除して神々が生まれた「筑紫日向小戸橘之檍原」は【日向國】
「又沈濯於海底、因以生神、號曰底津少童命、次底筒男命。
又潛濯於潮中、因以生神、號曰表中津少童命、次中筒男命。
又浮濯於潮上、因以生神、號曰表津少童命、次表筒男命。
凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是?住吉大神矣。
底津少童命・中津少童命・表津少童命、是【阿曇連】等所祭神矣。
然後、洗左眼、因以生神、號曰天照大神。復洗右眼、因以生神、號曰月讀尊。
復洗鼻、因以生神、號曰素戔嗚尊。」
(日本書紀巻第一) 【筑紫の日向】
記紀における神代の王都である筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山と言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり、朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高祖宮こと高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。 弥生時代後期の博多から大量の播磨の土器
これに関係しているんじゃないか 神道で最も重要な祝詞は、倭国の王都が何処であるかを明確に示している。
筑紫の日向の小戸は、糸島市に近い福岡市西区小戸にあり、大率が女王への献上品を確認したという伊都の港である。
■ 大祓の祝詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと
恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす >>235
高麗人が縣主だった糸島人のただの作り話 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【筑紫の海神族・天孫族による倭の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は東へ拡大し、土器に入った産物は王都である筑紫へ ある日住吉神は、この海から藤の枝を浮かべて
その枝がたどり着いた場所に鎮座したいと言い出した(唐突だな)
その通りにすると、藤の枝は今の播磨国明石郡魚住の浜に流れ着いた
それでそこには魚住住吉神社が建っている
そこから少し東に行くと藤江海岸がある 博多湾に昔は岬があり、立ち鼻つまり橘と呼ばれていた。
橘より東の水門が大戸、西が小戸と呼ばれていた。
大戸は後の那津つまり博多港であり、庶民の国である商都奴国の港だ。
小戸は王都であった伊都の港だ。
イザナギが禊した筑紫の日向の橘の小戸とは、伊都の港という意味になる。
魏志倭人伝では伊都の大率が港で荷を改めたとあるが、筑紫の日向の小戸での話である。
そして博多湾を見下ろす高祖山つまり筑紫の日向の高千穂への入り口が、山門である。
以外の文章を声に出して音読してほしい。
水門、大戸、小戸、伊都、山門
すべて一貫した地名であることがわかるだろう。 >>243
高地性集落という弥生中期の共通した集落が見られる地域が
壱岐から九州を除く本州西日本の倭人の卜骨の風習が見られる地域
九州は首狩りと頭顔面ど変形の風習 肥前国風土記、佐嘉郡の件に、海神のワニを従えた世田姫という石神がいたとある
九州も石神が治める地だったんじゃないか >>204
人口は明確に誇張だよ
邪馬台国時代の全国の人口は180万人
平城京でも人口10万人なのに、戸数7万戸はあり得ない >>249
きっとこれだよ
邪馬台国「え?!魏があの公孫氏を滅ぼしたの?怖!そうだ、うちのクニがめっちゃ広くて人口が多いことにしちゃおっと
卑弥呼さまの都の位置を曖昧にしておかないと」
司馬懿「公孫氏を滅ぼしたぜ
ん?邪馬台国が朝貢したいって?そうだ、邪馬台国が呉の背後にあるクニってことにすればオレ出世できるやん」
※これで本当に出世
陳寿「皇室の祖である司馬懿をアゲアゲしておくか
朝貢するクニは遠いほど、人口が多くて豊かであるほど、皇帝の徳があるっていうもんね
司馬懿が朝貢させた邪馬台国はなんて遠くて人口が多いのでしょう!
礼儀正しくて素晴らしい!
会稽郡の東治の東のほうにあるのか」
こうして
三者三様の思惑が一致したことで
邪馬台国は沖縄あたりにある巨大国家って設定になったのであった
めでたしめでたし >>246
この糸島説は朝鮮半島の5万戸が同じ国の同じ民族だと主張している説 >>247
後漢書によると狗邪韓国から倭奴国までが倭国。
その周辺の高地性集落のあるあたりは倭種の国々。 >>250
この説は九州説でも畿内説でも同様だから、争点はなく、明確に盛ってる >>253
当時のクニは郡レベルじゃん
知らないの? 日田は石を使わず砦が築かれた謂れのある無石堡の地名が風土記に載っている
鏡坂というところもあったようだ >>254
そのはずなんだけど
畿内説の一部が「距離は合ってる!南じゃなくて東に水行したんだよ」とか
「そんなに人口が多いのは九州じゃない!奈良盆地(根拠なし)」とか
平気で言うからね
それが畿内説のネガキャンになってるから迷惑だよ 卑弥呼が鏡を奉じたとは書かれていないので
伊都の墓の中身と後の三種の神器の関係は考察すべき対象だけど
邪馬台国には直接に関わらない >>252
壱岐のカラカミ遺跡は高地性集落で卜骨も出ている
馬韓の大木を立てる蘇塗跡がある糸島は卜骨が出ない土地 >>256
それは御井にもある神籠石だな
元寇に関係するのか、はたまた白村江に関係するのか
それ以外なのかはっきり分からんらしいな >>255
国の戸数には千戸から70倍の7万戸の差がある 壱岐は龍神への信仰が篤い夫婦が住んでいて竜宮城に招かれ褒美に竜宮一の宝物禿童を授かり栄えたという民話が残っているね
禿童は萩童じゃないかな
萩に猪 畿内派が南を東に読み替える理由
・テンプレ→本当に東に進んでいると思った。ただし、水行30日+陸行1月の説明はなく、この部分も東に進んでいるのに南と勘違いしたという説をとってると思われる。
・他の畿内説→南というのは単なる概念であるから、東に読み替えて良い。
全く説得力がない畿内説の方角読み替え理論 唐の時代にまとめられた晋書倭人伝には次のようにまとめられている
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
つまり7万戸というのは女王が支配しうる30国の合計で
邪馬台国というのは連合国家の呼び名である。 >>265
近畿地方は人口25万人
九州は人口45万人
やはり、九州が有利であろう 高皇産霊は壱岐の神の月読の父と言われているな
太占の痕跡こそ出るが、いち早く亀卜に乗り換えたのも壱岐 御所市みたいな狭いところで、弥生早期に九州ではみられない
広大な水田稲作の遺構が出るというのに
文化の程度が同じなら、関東地方はもっと多かっただろう 南方刀美が祀られている諏訪の神さまは黒い龍神だった
石切神社の上之宮にも黒い龍神が祀られていてトミの一族の伝承が残る
遠賀川にも建御名方が祀られている
胸形と南方は関係あるかもな
播磨の五色の玉を持つ石神の胸には涙の跡があると播磨風土記に書いてある
胸の地、胸形は龍の黒神と五色の石神に関係が深かったのかも
スサノオの胸の毛から生えてきたのがヒノキ
日の木? >>266
それもあるし、日程での移動を続きで読んではいけない
これが重要 >>258
平原遺跡の年代は卑弥呼の時代である200〜250年。
無関係ということはない。 >>264
しかし中身を説明させると説明できない畿内説。 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
陳寿はマメなやつだ。 >>263
>畿内派が南を東に読み替える理由
他人が言っても居ないことをリ理由ひとつなく勝手に妄想する九州説
あたまオカシイんじゃねえの? >>272
平原1号は200年ごろのⅠA期
那珂八幡古墳はⅠB期新相(3世紀第2四半期) (久住) >>273
>しかし中身を説明させると説明できない畿内説。
説明はテンプレに書いてあるので嘘をついていることがバレバレの九州説 >>277
もし200年頃なら、卑弥呼の時代になる。
卑弥呼は190年頃にはすでに即位していたからだ。 >>278
もともと後漢書における倭国とは狗邪韓国から倭奴国まで。
卑弥呼の頃に拡大した可能性はあるけれど、少なくとも倭国女王卑弥呼の領土はこの狗邪韓国から奴国までの範囲を含むはず。 畿内説でも数字は明確に盛ってることを主張しています。
例えば、大月氏は洛陽から16370里で、洛陽から邪馬台国までの17000里より近いが、実際は4倍ほど大月氏の方が遠い。 >>281
>もともと後漢書における倭国とは狗邪韓国から倭奴国まで。
それ、世界であんた一人の説だし賛成者もいないから >>254
5万戸 半島の倭人
7万戸 列島の倭人 >>280
博多で大和型庄内甕を母胎に筑前型庄内甕が成立するのはⅠB期(3世紀前半)から
那珂八幡古墳がⅠB期新相(3世紀第2四半世紀)
だから卑弥呼の共立よりも少し後になる
伊都国の王が皆隷属しているのは丗(三十年)だから
235 - 265年くらいになる >>284
>テンプレ
テンプレが何?
日本語喋れないひと? 奈良の唐古・鍵遺跡からは龍の絵画土器、勾玉、銅鐸、鳥装のシャーマンが描かれた土器が見つかっている
纏向遺跡とは文化風習が全然違うんだよな
奈良で何が起きたんだろう? 後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>290
これあれなんだな
金印を倭奴国にあげたよの記事と同じところに
大倭王と邪馬台国の話載せてんのな >>289
広域連合国家の王宮だからな
都庁と国会議事堂があるようなもの
これは伊勢遺跡も同様 つまり志賀島から出た金印をもらった倭奴国王は邪馬台国にいたんだよ。 テンプレの反論が笑えるな
纏向は大陸との交流がないというが、ベニバナが出てるから交流しているそうです >>29
狗邪韓國が倭国の西北界
これは半島南部は倭国が支配している根拠の一つだね、しかも西北の方までとなると結構拾い
女王の管轄は対馬からではあるけど
つまり、邪馬台国30国が7万戸であるならこの狗邪韓國が投馬国であり5万戸ということになる >>291
>反論もできないほどのレベルなんですね
「テンプレ」の四文字になに反論しろと?
お前、なんにも言ってないじゃねーか
言葉が通じてないんだよ
お前の頭蓋こpつの中にあるのh、他の日本人と会話が成立しないレベルの脳なの 失礼、レス番号訂正です
>>290
狗邪韓國が倭国の西北界
これは半島南部は倭国が支配している根拠の一つだね、しかも西北の方までとなると結構拾い
女王の管轄は対馬からではあるけど
つまり、邪馬台国30国が7万戸であるならこの狗邪韓國が投馬国であり5万戸ということになる 中国語だと倭が広域を支配したときに大倭と呼ぶようになる。
後漢書で光武帝が金印を与えたというのは、倭奴国王を大倭王に任じたということであり、その居場所が邪馬台国。
当然、邪馬台国は博多湾沿岸を含まなければいけない。 >>296
そら民間レベルであちこちの港を介して大陸ゆかりのモノくらい来るってのにねw
青銅器だって原料は輸入されたものでしょ >>296
>纏向は大陸との交流がないというが、ベニバナが出てるから交流しているそうです
してたって越論が出てるな
証拠が出たわけだ >>294
それはつまるのか
倭奴国と邪馬台国は同じ国とは書いてないぞ >>299
>狗邪韓國が倭国の西北界
>これは半島南部は倭国が支配している根拠の一つだね、
いや、根拠になってないし、根拠にしてる人もいないから >>299
女王の管轄は狗邪韓国からであろう。
しかし邪馬台国と投馬国は並列に書いてあるので、互いに背反だろう。
投馬国の方が帯方郡からの水行が長いので、より遠くにある。 >>301
魏志倭人伝にはそんな書き方してないから >>301
畿内〜北部九州説vs北部九州説なんだよね
伊都国が一大率なのはゆるぎない >>304
後漢書で光武帝が金印を与えたというのは、倭奴国王を大倭王に任じたということであり、その居場所が邪馬台国。
当然、邪馬台国は博多湾沿岸を含まなければいけない。 >>300
タイプミスくらいにしか反論できない敗者九州説みじめ >>311
それは整合性が取れてなくて後漢書が正しく魏志は間違ってるって事か? >>308
つまりどの説でも伊都は邪馬台国の重要な国邑であり、しかも周辺者国から畏怖される支配的存在であった。
そして卑弥呼の時代の伊都の財宝を全て集めたかのような平原遺跡。 >>308
>伊都国が一大率なのはゆるぎない
何を言う時も、根拠がひとつも出せない九州説
もはや死んでいる >>312
日本語云々を先に言ったのはあなたですよね?
テンプレを読みましたか?
南は本当に東と勘違いしたそうです
これさえ読み取れないレベルですか? >>313
魏志倭人伝が説明不足でわかりにくかったから、後漢書が補足しているのだろう。 >>314
>つまりどの説でも伊都は邪馬台国の重要な国邑であり、しかも周辺者国から畏怖される支配的存在であった。
倭人伝に書いてあることと全く違うけど? >>310
少なくとも北部九州は卑弥呼を共立しているだろう
北部九州は頻繁に半島を行き来してきて渡航技術があったため、魏と交流できた
逆に北部九州をすっ飛ばして交流するのは非常に困難
後の百済滅亡で北部九州〜半島〜大陸経由で船を出せなくなってから、遣唐使船は沈没しまくってる 畿内説もテンプレを読んでいなかったw
じゃあ畿内説の根拠って何? >>316
>テンプレを読みましたか?
あなたは?
読んでないよね
>南は本当に東と勘違いしたそうです
そんなこと書いてないから >>317
魏志倭人伝の行程はそうはなってないでしょ
それは補足じゃない >>320
>少なくとも北部九州は卑弥呼を共立しているだろう
根拠なし >>302
しかし海なし県の奈良では大陸からの産物は何も見つからなかった。
卑弥呼が朝貢貿易で手に入れたはずの荷はどこへ行ったのだろう?
伊都では確かに大率が受け取り、間違いなく女王に届けられたと魏志倭人伝に書いてあるというのに。 畿内説のうちどのくらいがテンプレの内容に同意してんの 別に帯方郡に戻っても良いけど何故そうなるか説明しろよ >>321
>畿内説もテンプレを読んでいなかったw
いかなるときも証拠がひとつも出せない九州説
こりゃ常に論争に負けるわけだ >>324
魏志倭人伝の里程は九州北部で完結していますね。 テンプレによると、以北とは女王国を含まないそうです
つまり、対馬も壱岐も含まれないことになります
したがって、
・女王国以北とは「狗邪韓国以北はその詳細を記載できる」
・「女王国以北の伊都に検察されているのは、狗邪韓国より北の国々」ということになる >>327
>書いてますね
証拠の出せない九州説
結論を言い張るだけだから、いつも論争に負ける 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日 >>334
それがどうしたんだ?
ちゃんと説明しろよ >>334
>魏志倭人伝の里程は九州北部で完結していますね。
全く理由の言えない九州説
論争に負け続けるわけだ 魏志倭人伝の里数の合計で至る奴国から14万戸+旁国が女王国
手前の小さな隷属国から西(倭人伝では北)の官がいない国が観察されている国々 テンプレの論理が破綻しているなら、畿内説は根拠が何一つないことになる。 >>341
なぜ勝手に西と北を読み替えているのか? 放射の放射は大草原だけど
投馬国は半島、よりはマシだとしてあげる >>337
九州説は倭人伝解釈でも敗北したから、倭人伝から逃げ出してどんどん信頼性の劣る文献に頼るようになった
ツガルや変な系図に頼るようになり、トンデモとして消えていった >>337
そう書くと誤解を生じさせる、漢の時代に合わせるなら
(楽浪郡は)その「奴国連合国の」西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
狗邪韓國は倭国でありながら女王共立からはずれている >>346
「奴国連合国」などというものはどこの史書にも書かれていない。
連合国は邪馬台国だ。 テンプレが酷い
・東に海を渡ったらまた倭種とは、伊勢湾のことで、海を渡らなくても渡海と書いてよいそうです。
その理由として、「遼東半島から山東半島まで渡海しなくても行けるから」だそうです
これは酷い。
遼東半島から山東半島を海で行くとわずか130キロですが、陸で行くと1400キロほどになり、どう考えても海を渡った方が10倍近い。 >>335
女王国以北は、里数が書かれている女王国の構成国の奴国と不彌国を含むので
女王国の境界にある国を含む北側 >>341
なぜ勝手に西と北を読み替えているのか?
答えてよ。 >>350
テンプレでは女王国以北とは、女王国より北のことで女王国は含まないと書いてる >>335
>テンプレによると、以北とは女王国を含まないそうです
>つまり、対馬も壱岐も含まれないことになります
どうして?
理由は? >>348
漢時代は奴国王の連合
魏時代は女王国の連合
どちらも邪馬台国と言えばそうかもしれないが
倭国大乱によって共立された女王国は倭国連合の再生中ということを理解しないといけない
そういう意味で、漢の時代を邪馬台国と表現すると、誤解を生じるということを言いたかった >>354
>◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑) >>349
>・東に海を渡ったらまた倭種とは、伊勢湾のことで、海を渡らなくても渡海と書いてよいそうです。
また捏造?
九州説の捏造癖ってひどいねー >>357
しかし後漢書でも大倭王は邪馬台国にいると書いてある。 >>343
テンプレによると、方角を本当に間違えたそうです
他の畿内説では、方角は単なる概念だから読み替えても問題ないそうです >>360
じゃあ女王国から東に渡海したところに倭種がいるというのは、畿内説ではどう解釈しているのか? >>328
まだ出土してないんじゃね?
金印か泥封が出てこないことには確定できない >>365
つまり畿内説はまだ見つかってもいないのに証拠もなく主張している。 国道42号の一部は伊勢湾を渡海する海上国道だよ
フェリーに乗って対岸へ行く
現代の船舶技術で55分かかるよ >>362
>テンプレによると、方角を本当に間違えたそうです
テンプレにそう書いてあるって証拠は? スレ内にリンク貼れればいいのにね
アンカ書いたらいいのか >>366
女王国以北とは女王国を含むという説に、反論している
すなわち、女王国以北とは女王国を含まない >>361
それはそうだろ
邪馬台国は倭国連合の総称
漢時代と魏時代の邪馬台国の勢力の違いの話をしてるの
どちらも邪馬台国と表記すると混乱するって意味で言ってんだよ >>363
>テンプレに書かれてるんですが?
言い張るだけで証拠が出せないってことは、また捏造か
九州説って手癖悪いね 自分が派遣した一大率に自分の国内は検察させないだろ
含んでどうする >>372
実際にどちらも邪馬台国と書いてあるんだよ。
同じ言葉で違うものを意味していることにするつもり? >>371
>女王国以北とは女王国を含むという説に、反論している
>すなわち、女王国以北とは女王国を含まない
それはあんたの解釈だろ?
つまり
「テンプレでは女王国以北とは、女王国より北のことで女王国は含まないと書いてる」
はウソ >>374
自分の国ではなく他国を検察する?
そんなことできるわけがない。 漢の時代の倭国連合の話で言えば
出雲の弥生時代中期の銅鐸の祷型が吉野ヶ里遺跡の物だと判明している
そのころ、出雲から鉄も出土するようになっている
つまり、漢の時代は出雲くらいまで倭国連合の領域だった可能性が高い
一方、女王の共立は北部九州に限定される。 テンプレはだらだら書いてあるからどこに何が書いてあるかわからない。
そうやってのらりくらり誤魔化すのが畿内説のやり口か? >>378
あーそうくるか
確かにどんな権限で他国を検察するかは書いてないわな
同じように、どういう経緯で伊都に一大率が居るのかも説明はない >>379
つまり邪馬台国は九州北部なんだろ。
出雲など本州は、魏の時代には大陸との交易から外れたんだよ。 >>376
国の規模は時代とともに大幅に変化している
倭国大乱直後の女王共立で収まるはずもなく
狗奴国は魏の時代になっても激しく抵抗している
だから、その時代によって同じ呼び方すると誤解を生じるからと何度も説明してるんだが? >>379
へえ。福岡から出るのはカウベルなのに
異人肥人の吉野ヶ里から出雲が銅鐸の鋳型をもらっているのか
明らかに熊襲の、吉野ヶ里からねぇ >>377
女王国より北、すなわち対馬も女王国に含まない >>380
>テンプレはだらだら書いてあるからどこに何が書いてあるかわからない。
それ、九州説が捏造やっていい理由にならんから >>381
倭国が連合国だからこそ、大率が検察するわけだろ。
倭国の内政の中心が伊都なんだよ。 >>384
そんなことは後漢書と三国志の作者に言え。 >>385
吉野ヶ里は甕棺墓だから、伊都国や奴国と同じだよ。
熊襲ではない。 >>383
もう少しわかりやすく説明しよう
漢の時代は、狗邪韓國、魏時代の邪馬台国、狗奴国、出雲国あるいは吉備くらいまで勢力を拡大していたと考えられる
倭国大乱を経て、北部九州に女王共立して邪馬台国を再生している時代の魏志倭人伝が残された
北部九州の共立30国と漢時代の奴国連合は規模が違いすぎる 大率が検察する地域は「女王国から北」と書かれている。
畿内説では、伊都の大率はどこまで支配していたのだろうか?
伊都の大率が海路で若狭湾まで検察していたのだろうか?
陳寿の意図は明らかで、伊都を女王国の都として書いているのである。 >>394
まあ、若狭湾を検察してることになるね
若狭湾辺りはその詳細を記載できるが、傍の国々は遠すぎて良くわからないということになる
テンプレによるとそう解釈せざるを得ない >>392
後漢の頃の大倭とは出雲や吉備を含めた100カ国で、魏の頃は九州北部30カ国が倭国ということか?
それでも後漢書で大倭王は邪馬台国にあるとあるのだから、どちらの時代も九州北部を邪馬台国と呼ぶようだが? 伊都は対馬海峡だけでなく、日本海沿岸を検察して支配下に置き、その交易を牛耳っていたわけだ。
畿内説は誇大妄想的だな。 >>388
>倭国の内政の中心が伊都なんだよ。
根拠なし
妄想 散々帯方郡から順に紹介しておいて、女王国の北にある国々のことは
遠くてよくわからないってあるよな
ちょっと意味が分からない まあ、弥生時代後期には出雲など本州日本海沿岸は鉄を手に入れられなくなっていて、九州北部が総取りしていたから、伊都が対外交流全てを牛耳っていたのは、あながち間違いではない。
郡使も必ず伊都に滞在したしな。 >>397
かじると痛いんだ
こんなものが魔除けになると思ってたんだな
纏向から出るんだから、九州人が持ち込んだんだろ? >>398
>伊都は対馬海峡だけでなく、日本海沿岸を検察して支配下に置き、その交易を牛耳っていたわけだ。
>畿内説は誇大妄想的だな。
そう妄想してるのは九州説の人なんだが >>398
それだけではなく、若狭湾辺りはその詳細を記載できるが、女王国以北の以北とは女王国を含まないとの説をとっているので、
詳細が記載されていると解釈可能な対馬・壱岐・末盧・伊都・奴国・不弥国ですら詳細が分からないということになり論理破綻している >>396
まあそんなところだが
邪馬台国が北部九州というより、その時代における勢力全体を邪馬台国と考える
後の奈良の大倭、大和といった勢力も拡大とともに畿内全体のことになり
支配が広がるにつれ日本全体を表す国に変化している。 >>400
>散々帯方郡から順に紹介しておいて、女王国の北にある国々のことは
>遠くてよくわからないってあるよな
倭人伝にはそのような記述はない >>408
拡大したのは大倭であり、王都である邪馬台国は九州北部だけだろう。
少なくとも投馬国は邪馬台国と並列に書いてあるから含まないだろうし。
範囲が変わるのは大倭だけ。 >>410
仮説として畿内説をとると矛盾だらけになるってことだよ。
それは仮説が誤りだということ。 >>407
>それだけではなく、若狭湾辺りはその詳細を記載できるが、女王国以北の以北とは女王国を含まないとの説をとっているので、
どこの誰が?
>詳細が記載されていると解釈可能な対馬・壱岐・末盧・伊都・奴国・不弥国ですら詳細が分からないということになり論理破綻している
論理破綻?
九州説が、かな? >>410
スレ主は、女王国以北の以北に女王国は含まないと書いている
つまり、確実に詳細を記載できてると解釈できる、対馬・壱岐・末盧・伊都国・奴国・不弥国は当然女王国に含まれないし、
投馬国と邪馬台国も詳細を記載できていると解釈できるから、投馬国も邪馬台国も女王国構成国ではないということになる
完全に論理破綻 >>412
>仮説として畿内説をとると矛盾だらけになるってことだよ。
誰の主張してる何と何が矛盾するの? >>414
>スレ主は、女王国以北の以北に女王国は含まないと書いている
どこに?
書いてないよね? >>411
だから漢時代と魏時代をごっちゃにするとそういう風に誤解するから表記を変えたほうがいいという話ね
魏の時代は投馬国(狗邪韓國)や狗奴国も女王共立からはずれている
だから漢の時代の邪馬台国と違うように見えるけど倭国大乱前は奴国連合(漢時代の邪馬台国)
いちいちこんな説明しないと伝わらないから、漢時代と魏時代の邪馬台国の表記はごっちゃにしないほうがいいて言ってんの >>405
>王は代々伊都にいた。
属国である伊都国王がね >>416
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑) >>381
郡使に刺史のように見えたんだよ
じゃあ何を見て刺史のようだと思ったのか
一大率に関しては結構詳しく書いてるよな >>367
証拠がなくても畿内
今に始まったことではない >>419
つまり「スレ主は、女王国以北の以北に女王国は含まないと書いている」はウソ
書いていない こいつらがんとかになったら
たちまち騙されて色付き水とか飲むんだろうな 刺史みたいなもの、も誇張表現の可能性が
伊都国は立派だけど地方だよ、都はもっとスゴいんだよってアピールしてるように見える
荷物を確認してんだから、実際には邪馬台国と密な繋がりはあっただろう >>400
女王国までのルートの国は詳細がわかるけども通っていない傍にある国はわからんということでは 一大率は女王国以北を検察してると書いてるだけで
何処から何処までなんて重要な事ではない
郡使に刺史のように見えた事が重要なのよ スレ主の以北の用例として用いた3史書は、いずれも「以」とはそれを含まないということを明確に示している。
すなわち、女王国以北とは女王国は含まないという解釈で間違いないのだが、それを採用すると論理破綻することになる。 >>432
当たり前だけど一大率が女王より偉いわけがない >>430
ところが、スレ主は3史書を持ち出して「以」を境界線のように解釈している >>435
そうすると、女王国以北とは女王国を含まないということになる >>436
女王国まで検察してたら女王より偉いだろうが >>437
女王国とは、対馬・壱岐・末盧・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国のことである
邪馬台国以北とは書いてない
女王国以北の女王国とは、女王国を含まないと明確に否定し論理破綻している >>431
>スレ主の以北の用例として用いた3史書は、いずれも「以」とはそれを含まないということを明確に示している。
それはうそ
右北平以東が東部で、右北平以西が中部だったら右北平郡の真北は東部? 中部? >>427
1日2日なら勘違いしても理解できる
スレ主が言うように、確かに1日2日なら間違ってもおかしくない
ところが、
正始元年
・行き→水行30日+陸行1月の合計60日
・帰り→陸行1月+水行30日の合計60日
正始8年
・行き→水行30日+陸行1月の合計60日
・帰り→陸行1月+水行30日の合計60日
合計240日
240日間も方角を間違え続けるわけがないですね >>438
>女王国以北の女王国とは、女王国を含まないと明確に否定し論理破綻している
否定してないよな 現在の日本語の辞書だけど
い‐ほく【以北】 ... 〘名〙 ある地点から北の方。また、その地域。現在では基準となる地点を含んだ地域をいう。
昔は含まなかった。中国は知らんが >>440
スレ主がそもそも以北に女王国を含むということを否定しているし、3史書はいずれも「面」ではなく、「線」と解釈していることは明らかである >>441
>240日間も方角を間違え続けるわけがないですね
間違えたと主張した人がいない
九州説名物、妄想一人相撲 晋書倭人伝を見れば戸7万戸というのは女王国30国全体であることがわかる >>445
>スレ主がそもそも以北に女王国を含むということを否定しているし、
した形跡ないけど?
>3史書はいずれも「面」ではなく、「線」と解釈していることは明らかである
右北平郡が「線」なわけないし >>447
晋書でも陳寿の書いたことが意味不明だったのだろう 魏志倭人伝に「女王国」は5か所出てくるが、広義(邪馬台国連合)で解釈できるところと狭義(邪馬台国単体)で解釈できるところがあるからな(どちらか判別がつかないところもある)
上で議論になっているところは狭義だろう
広義とすると、邪馬台国連合の北端が対馬だとしても狗邪韓国だとしても検察するところが韓半島諸国になってしまう 九州説には「オレ様の解釈が絶対」主義者が多くて気持ち悪い >>448
否定してるよ
從右北平以東、至遼東接夫餘濊貊
右北平から東の、遼東・夫餘・濊貊に接する所が東部 俺は邪馬台国=女王国だと思ってるよ
じゃあ何故卑弥呼が居なきゃ女王国じゃないのに女王国なんて名前を使ったのか?
これは倭王の所都は邪馬台国だから
でもそれだと広域を指す言葉がないから女王国
本当は倭=邪馬台国=女王国で多少の違いはあっても基本的にはこれなんだが
そこまで考えが至らなかった
地図に日本と倭と耶摩提があるようなもんだ だいたい「自郡至女王國萬二千餘里」なんだぞ
伊都国は女王国に入ってないだろ >>449
少なくとも日程移動を続き読みしていないことはわかる >>449
というか、泰始元年(265年)まで朝貢に来たとあるので
晋書の30国7万戸という解釈で正しいと思う 帯方郡から女王国まで一万二千里
帯方郡から伊都国まで一万五百里
これは伊都国が広義の女王国に含まれないと解すべきではなく、狭義の女王国すなわち単体の邪馬台国まで一万二千里と解すべきだ 女王国を広義と解すべきか狭義と解すべきかはとても重要なのでそれぞれの箇所でしっかり考えないといけない >>453
>右北平から東の、遼東・夫餘・濊貊に接する所が東部
じゃあ右北平郡の真北は東部? 中部? >>461
>というか、泰始元年(265年)まで朝貢に来たとあるので
>晋書の30国7万戸という解釈で正しいと思う
なんで?
理由は? >>462
>これは伊都国が広義の女王国に含まれないと解すべきではなく、狭義の女王国すなわち単体の邪馬台国まで一万二千里と解すべきだ
じゃあ広義の女王国に含める理由は? 距離・日数、人口は誇張
邪馬台国「え?!魏があの公孫氏を滅ぼしたの?怖!そうだ、うちのクニがめっちゃ広くて人口が多いことにしちゃおっと
卑弥呼さまの都の位置を曖昧にしておかないと」
司馬懿「公孫氏を滅ぼしたぜ
ん?邪馬台国が朝貢したいって?そうだ、邪馬台国が呉の背後にあるクニってことにすればオレ出世できるやん」
※これで本当に出世
陳寿「皇室の祖である司馬懿をアゲアゲしておくか
朝貢するクニは遠いほど、人口が多くて豊かであるほど、皇帝の徳があるっていうもんね
司馬懿が朝貢させた邪馬台国はなんて遠くて人口が多いのでしょう!
礼儀正しくて素晴らしい!
会稽郡の東治の東のほうにあるのか」←!!
こうして
三者三様の思惑が一致したことで
邪馬台国は沖縄あたりにある巨大国家って設定になったのであった
めでたしめでたし >>466
伊都国は邪馬台国と明らかに連携してるから
邪馬台国連合(倭国)の権能たる一大率を置いているし外交面でも邪馬台国連合の窓口になっている
魏志倭人伝を読んで伊都国が邪馬台国連合に属さないという解釈など成り立たないだろう >>464
東部、中部、西部と分けてるんだから、そこに境目があるのは当然 >>468
目付を派遣して検察するくらいだから警戒対象なんじゃないの? >>469
>東部、中部、西部と分けてるんだから、そこに境目があるのは当然
だから右北平郡の真北は東部? 中部? >>461
晋書武帝紀に、
(泰始二年)十一月己卯,倭人來獻方物 陳寿が三国志を編纂したのは280年代
ただし陳寿が日本に来た事実はない
つまり280年代の認識で正しいだろうと思うことを書いてる
その280年代の認識で明らかに
誤ってる情報があれば、さすがに排除するだろう >>470
邪馬台国の代わりに周囲の諸国を検察したんだよ
どう見ても伊都国は邪馬台国の親密な同盟国的位置付け >>471
右北平郡の真北が東部、中部?
意味が分からない
東部の真北と中部の真北と西部の真北はそれぞれ別の場所 丗有王 皆統屬女王國
伊都国には代々王がいて女王国に属す
この伊都国王は「卑弥呼」の摂政みたいな役割なんかな 倭人伝では、伊都国の津で文書、賜物を検査した後
女王に伝送するが間違いは無いという
つまり、官がいない末盧を通って隷属国伊都国までは間違いが起こる可能性がある
=盗人がはびこっている
奴国から先は安全である
馬韓南部地域に数万基から西北九州に分布する支石墓の糸島が東限である
後に高麗盗人と呼ばれる地域である >>475
中国の地理がわかってない?
鮮卑族は長城の北の広い土地にいる
長城の南にある右北平郡から見て東側が鮮卑の東部、西が中部、上谷郡より西が西部 >>476
>この伊都国王は「卑弥呼」の摂政みたいな役割なんかな
いや、小さな属国の王
一大率が検察している対象 失礼
右北平郡から東を東部
東部を含まない右北平郡から上郡までを中部
上郡から敦煌辺りまでが西部 >>480の続き
したがって、「以」とはそれを含まないというのがスレ主の主張であるから、女王国以北とは女王国を含まないということである。(スレ主の主張によると) 王が居るのに同時に刺史が居るなんてあり得ない
一大率=伊都国王だよ >>474
>どう見ても伊都国は邪馬台国の親密な同盟国的位置付け
女王の置いたお目付である一大率が拠点を構えて監視してんだろ
警戒対象以外のなんだっての >>480
>右北平郡から東を東部
ぜんぜん違う
右北平郡の東隣はr遼西郡で、西隣が漁陽郡、その西が上谷郡だ スレ主の主張
・東に海を渡るとまた倭種とは、東海や北陸のことである
理由→山東半島から遼東半島まで陸で行っても「渡海」となるのだから、別に海を渡らなくても渡海で良い
私の反論→山東半島から遼東半島まで海で行けばわずか130キロ。陸で行くと1400キロの10倍の長旅になるのであるから、渡海とは当然海を渡ると解釈すべきであり、スレ主の主張は破綻している。 >>485
>スレ主の主張
>・東に海を渡るとまた倭種とは、東海や北陸のことである
九州説また捏造 >>483
私は伊都国が検察対称とは思っていない
倭国の北側の半分(とは限らないがある程度の部分)は邪馬台国とほぼ同格の伊都国が統括したと見ている
多分あなたとは考えている「倭国」の構造が全く違うだろうから、ここだけ切り抜いて議論は出来ない気がする >>488
>私は伊都国が検察対称とは思っていない
理由は? >>482
>王が居るのに同時に刺史が居るなんてあり得ない
>一大率=伊都国王だよ
九州説、倭人伝にまったく書いてないことをまた捏造 >>428
大率が検察した周辺国がいわゆる地方なんだよ。
伊都は王都。 弥生時代後期のものとみられる石棺墓が発掘され注目が集まった吉野ケ里遺跡(佐賀県吉野ケ里町、神埼市)。遺跡を保存する吉野ケ里歴史公園は、弥生時代の暮らしの再現だけでなく、音楽フェスの開催などあの手この手で新たな魅力の発信にも取り組む。担当者は「公園のテーマは『弥生人の声が聞こえる』。全国から訪れてほしい」と語る。
「弥生人の声」聞きに来て 佐賀・吉野ケ里、当時を再現 [蚤の市★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1688781761/ >>490
魏志倭人伝に王がいたとされるのは伊都国、邪馬台国、狗奴国の3か国
ここからは私の意見だが、私はこの3か国はそれぞれ筑前、筑後、肥後の最強国だと考えている
このうち伊都国と邪馬台国が共通の王としたのが卑弥呼
これにより筑前と筑後が筑紫の地方勢力として纏まったのが広義の女王国と考えている
筑後邪馬台国とその南の肥後狗奴国が戦争し、その痕跡が菊池川流域から出土する大量の鉄鏃だと考えている
まあ仏教の教えをイスラム教徒に説明しているようなもので1ミリも賛同して貰えないのはわかっている(ただし逆も然り) >>491
俺伊勢遺跡説
そう思う理由は書いてるが >>489
そもそも右北平郡のどこから線を引いたのか分からないので、その質問の意味が分からない >>479
魏志倭人伝に伊都国王なる人物は登場しない。
また、伊都の大率が検察するのは伊都の周辺の地方の国。 >>482
大率が検察するのは伊都ではなく、伊都の周辺の国々だ。 軍隊を率いる伊都国王と一大率が同時に居るっておかしいでしょ >>497
>俺伊勢遺跡説
一つの遺跡、伊勢遺跡がなに? @阿波 >>483
大率が検察するのは伊都ではなく伊都の周辺の国。 >>501
一大率を直方辺りの伊都国に置いたのは、
九州島内で、鍛冶素材などの交易品を盗まれたらいかんからな。
一大率は、輸送隊の警護役も担ったのだろう。 @阿波 >>500
>大率が検察するのは伊都ではなく、伊都の周辺の国々だ。
九州説名物、根拠なし言い張り >>501
伊都国王という人物は魏志倭人伝に出てこない。
伊都に代々いたのは倭王だろう。 >>506
まあそうだろうしそれこそが郡使が見て刺史のようだと思った姿だろう >>493
スレ開けてすぐ阿波みたいな弥生人自生論者が居た >>508
「女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。
諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。
國中に於ける刺史の如く有り」 >>472
晋書_列伝第六十七巻_四夷伝
倭人
宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不?。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
女王が最後に朝貢したのは泰始初(265年)とはっきり書いてある >>509
代々女王国に統属する王が居ると書いてあるだろ スレ主の間違い
・女王国以北の以北とは、女王国を含まない
つまり、対馬も壱岐も入らず、狗邪韓国を含む北側ということになる >>504
>王宮なんて一つでいい
王都は? @阿波 >>517
違うだろうな
倭と一括りにしてるのは中国側の認識だからな >>518
その女王とは魏志の女王のこと
晋に朝貢したのが女王とは書いてない >>522
>王都の名前は無い
名前がなかったら王都は無かったことになるのか? 王都がなくて王宮があるww どういう思考回路なんだ? @阿波 >>513
「泰始初(初めの頃)、だろw
本記に詳細に明記してあるのよ >>523
一応書いてはいるけど邪馬台国7万戸の事でしょ
これはピンポイントの地名ではない >>525
「阿波」は土御門天皇も余生を過ごした極楽地だ。 @阿波 >>520
魏志倭人伝すべて中国側の認識の話だよ。
中国から見て倭国とは?女王国とは?邪馬台国とは? >>526
>これはピンポイントの地名ではない
王都に見合う集落群は? @阿波 >>528
まあそれで良いんだけど
だから日本側が半島をどう認識してたかわからない >>530
7万戸だと広すぎて何処だかわからんだろ? >>531
そんなものどうでもいいんだよ。
全ては中国側の認識の話だよ。 >>515
>スレ主の間違い
>・女王国以北の以北とは、女王国を含まない
テンプレにそんな記載なし
>つまり、対馬も壱岐も入らず、
理由が不明
>狗邪韓国を含む北側ということになる
理由なし >>533
517 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2023/07/09(日) 19:28:21.48
狗邪韓国も女王の支配下だろう。
俺はこれに対してレス付けたんだけど 中国から見て支配的な国邑はどこに見えたかな?
大率を使って周辺諸国を検察していた伊都ではないかな? >>532
王都女王国が7万戸ではない。 「邪馬臺国」が7万戸。 @阿波 >>536
島流しの地は、土佐。 もの知らずめ。 @阿波 >>537
中国から見たら半島も列島も倭人の居住地域が倭だよ
日本はこの認識と一致してたわけじゃない >>539
「卑彌呼」の隠棲地は鮎喰川上流の神山。 王都は鮎喰川下流域集落群。 @阿波 >>543
そうだね。
だから狗邪韓国から南は全て倭、もしくは倭の別種。 「理由なし」
「つまり九州説はウソ」
「証拠は?」
これしか言えない畿内派はいらない
トナカイが来て欲しい >>521
魏のころに卑弥呼が朝貢したとあったと紹介したあとに
その女王が晋の文帝が相となると、また何度もやって来た。
それが泰始年間の初めのことという風に書いてある。 >>547
何わけわかんない事言ってんだよ?
中国から見たら半島も列島も倭人の居住地域が倭だよ >>542
>王都は伊都
女王國の外に王都があるとか
九州説って笑えるね >>550
>半島も列島も
とても倭の気候風土とは言えん。 却下! @阿波 >>546
だからそこの地名は?
魏志に書いてないでしょ >>553
女王国の外だなんてどこにも書いてない。 >>549
>その女王が晋の文帝が相となると、また何度もやって来た。
>それが泰始年間の初めのことという風に書いてある。
間違い
晋の文帝が相となったのは魏末
晋の泰始年間ではない >>556
>だからそこの地名は?
国名は「邪馬臺国」だが? @阿波 >>555
倭在韓東南大海中だから同じ倭でも列島だけ指す場合と
半島も含める場合と二通り使い分けては居る
てか記録した人の違いだな >>550
>半島も列島も
とても倭の気候風土とは言えん。 却下! @阿波 >>558
>女王国の外だなんてどこにも書いてない。
女王国まで12000余里
伊都国は通過済み >>560
邪馬臺国7万戸でしょ
何処だかわかんねえだろうが >>564
>何処だかわかんねえだろうが
ほれ。
「阿波」の北方 「邪馬臺国」(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)
・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸~芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原~大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡
・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡・南蔵本遺跡 @阿波 >>559
だとしても大して意味は変わらんし
魏末まではその女王の使者が何度もやってきたのに
泰始初、遣使重譯入貢 が別人ならそう書くだろ。 7万戸って35万人だろ、2世紀にほぼ無人の纒向には無理ゲー >>568
実在しないキナイセツを捏造し続ける九州説の得意宴会芸は一人相撲 >>549
晋の文帝(司馬昭へ
追贈)が相国に任じられたのは景元四年(263)十月、咸熙二年(265)死去、
泰始年間に倭が朝貢に来たのは、死後の話 人口は盛られてるからいいのだけど距離も同じくだから纒向はそもそも論外。 魏志倭人伝を読んで奈良盆地に邪馬台国があったと思う人はガイジ >>569
>深く埋まってて掘り出せないだけ
遺跡の宝庫「阿波」もだ。 わははははは @阿波 >>571
つまり(泰始二年)の,倭人來獻方物は
台与ちゃんの使者と考えて問題ないな >>576
まあ、日本書紀を引くのはあれなんだが、
神功巻に、
六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」
とあり、晋の起居注を引いてる ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
↑
これは酷い
それじゃあ畿内説は何でもありじゃないか >>580
>魏は阿波が倭国と言う認識はなかっただろうね
でも、
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい? わははははは @阿波 >>582
>神武の東征でも華麗にスルーされている四国w
つまり、九州からの神武東征はなかったということ。 わははははは @阿波 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
↑
北部九州からは畿内系が出るが、纏向からは筑紫の庄内甕1個が纏向から出ただけで、片務的に北部九州は畿内のパシリだったってどういう理屈なの? >>587
伊都国(直方辺り)に立ち寄らなければいけないからな。
関門海峡を通るわけにいかんのだよ。 わははははは @阿波 >>595
阿波はガイジ確定でも、
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい? わははははは @阿波 自分がキチガイだと言うことがわかっていない@阿波w ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
↑
これも南の狗奴国と書かれてるのに、東に読み替えてるな。
で、中部・北陸・関東が狗奴国だったという物的証拠はあるの? >>598
箸墓古墳を一緒に作ってんじゃん
きっとどちらが盛り土を早く完成させるか熱ーいバトルを繰り広げてたんだよ
だから鉄鏃は必要なし >>593
>結論ありきの決めつけ
だという理由は?
そういう理由のない断定を
世間では「結論ありきの決めつけ」と言うんだが >>597
阿波がキチガイだと言うことがわかっていなくても、
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい? わははははは @阿波 >>599
阿波が貧相でも、
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい? わははははは @阿波 都合の悪いときは
「理由は?」「根拠は?」「証拠は?」
でok >>602
阿波はキチガイ確定というのが世間の定説 >>606
阿波はキチガイ確定というのが世間の定説でも、
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい? わははははは @阿波 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
↑
鉄器が九州より圧倒的に出土しないのに、鉄器の普及状態を「推測」すると、大差はないそうです。
さすがに、畿内説何でもアリのアルティメット大会すぎる。 >>598
>これも南の狗奴国と書かれてるのに、東に読み替えてるな。
>で、中部・北陸・関東が狗奴国だったという物的証拠はあるの?
読み替えてないでしょ?
「南」が間違いだという結論に達してるだけ
物的証拠なら「S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した」考古学的事実って書いてあるよ >>609
4世紀以降の鉄器が出土する古墳を3世紀だーと言い張ればok >>605
証拠を問われたときが九州説の都合悪いとき
一目散に雲隠れするね >>610
中部、北陸、関東
みんなと仲良しだったから環濠なんて要らんし、巨大古墳を造れたんだよね
良かったじゃん >>611
阿波が中国の史書には全く出てこなくても、
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい? わははははは @阿波 >>615
馬具や堂ノ後古墳にはめっちゃ笑ったけどねw >>609
>鉄器が九州より圧倒的に出土しないのに、鉄器の普及状態を「推測」すると、大差はないそうです。
それが合理的だからね 纏向ができるちょっと前まで石器が使われていたと暴露されてんのによういうわ >>616
つまり阿波は中国に全く認知されていないということ >>581
なるほど、晋の起居によるととか、記紀では倭の女王を他人事のように伝えてたんですね! >>617
>何の証拠?
あなたが主張することの証拠です 老害が現場を去ったとたん、いろんなことがバレると予想
だから教科書などは無難に「邪馬台国の場所は分からない」となってる 九州では鉄器で農耕していた時代に奈良盆地には石器で稲刈りですか? >>624
>だから教科書などは無難に「邪馬台国の場所は分からない」となってる
「奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。」
「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。」
「所在地については容易に結論は出ないが、古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国が直接つながる可能性が高くなった。
邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。」
などとありますが? ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
>中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
↑
すなわち、スレ主の意見はこうです。
木製輪鎧が発明されたのは5世紀であり、紀年の明らかな鎧は302年なのに、木製輪鎧が箸墓にあっても別におかしくないし、世界最古の木製輪鎧であるということです。
牛馬もいない倭国で、5世紀発明の木製輪鎧が、3世紀半ばの箸墓古墳で見つかっても全く問題ないということです。 >>627
>だからそれは何?
例えば
「九州では鉄器で農耕していた時代に奈良盆地には石器で稲刈り」
という証拠 >>632
吉野ヶ里では鉄の農具は出ているが、纏向では出ていない >>628
小学校の副教材で使われてる東京何とかって会社の教科書だと、邪馬台国と吉野ヶ里は同じページにあるが(2ページ)、
そのページに古墳のことは一切記述されておらず、次の2ページに箸墓とか纏向が出てくる >>629
>すなわち、スレ主の意見はこうです。
>木製輪鎧が発明されたのは5世紀であり、
九州説また捏造 >>635
スレ主の書き方だと容易にそのように解釈していると考えることができる >>633
4世紀以降の鉄の農具を3世紀だーと言い張ればok >>619
つまり、本当は九州と同じくらいもっとたくさんあった鉄が溶けたということ? >>581
これだけで倭の女王は天皇の誰とも一致しない
となると、畿内説は記紀にでてくる天皇以外の「倭の女王」が畿内にいると考えてるの? >>633
>吉野ヶ里では鉄の農具は出ているが、
石包丁使ってるよね吉野ヶ里 >>636
>スレ主の書き方だと容易にそのように解釈していると考えることができる
証拠は? 女王国なんだよな
卑弥呼の国は
卑弥呼らは、倭国と断定できるほどの根拠、帥升の時代の倭国との関係を証明するものを持っていなかったのかな? >>639
>つまり、本当は九州と同じくらいもっとたくさんあった鉄が溶けたということ?
そういうこと
弥生後期に伐採用石斧は五十分の位置から百分の位置地下毛減少しているが、樹木の伐採をしなくなった事実はない 倭国大乱で暦年主がいなかったが共立されたわけで
倭国の歴代大倭王の後継者と認められたから金印を授かったという考え方もありうる >>644
つまり記紀に出てくる昔の天皇はいい加減だけど、箸墓は倭の女王の墓であり
天皇の系統の誰かと考えているのが畿内説なの? 女王国の傍国や一大卒が置かれた伊都国以北の国々は女王国ではなないが、倭国ですらないのか?
女王国の傍国である奴国の方が本来の倭国の構成国として相応しいと思うが 箸墓は大市墓
神大市姫の娘がウカノミタマで、延喜式にウカノミタマの別名はトヨウケと書かれている
箸墓は台与の墓で、後に大物主の妻になったが何か障ることが起きたのかもな >>649
>畿内では鉄が溶けやすい根拠は?
直接粘土層に触れやすい葬制が一般的であること >>648
>つまり記紀に出てくる昔の天皇はいい加減だけど、箸墓は倭の女王の墓であり
>天皇の系統の誰かと考えているのが畿内説なの?
天皇とか言っていない 卑弥呼没後にしゃしゃり出てきて引きずり降ろされたのが崇神 崇神天皇は垂仁天皇のあの尊敬ぶりから
相当な、お方であることは間違いない 畿内では鉄は溶けて痕跡もなくなってしまうらしい
これはオカルトじゃないの? >>649
佐原とかいう畿内学者がそう言ったかららしい
ただそれに関しは畿内学者も全く同意していない >>657
>前方後円墳は天皇の墓ではない?
もちろんだ。 @阿波 関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」 >>658
>畿内では鉄は溶けて痕跡もなくなってしまうらしい
>これはオカルトじゃないの?
いや、科学
粘土に接触すると厚さ2cmの鉄板も百年で溶ける
鍛鉄はもっと早い >>665
関川は間違いが多く、相手にされていない 畿内学者ですら、畿内では鉄が溶けやすい理論を全く無視している >>667
>粘土に接触すると
沼地だからな。 わははははは @阿波 >>668
要するにイジメ?
日本人特有の同調圧力? >>667
溶けるのはいいんだけど、痕跡は残るだろ >>671
明らかに間違った意見を言い張れば、どこの世界でも相手にされなくなる >>674
コロナみたいに?
尾身が言ったからそれが通説? 箸墓からは、宮山型特殊器台が出土した
それなのに、卑弥呼の墓ですと言い張るのはおかしい どうやったら箸墓古墳の葺石が3世紀という事になるのかまったくわからない。 @阿波 >>672
>溶けるのはいいんだけど、痕跡は残るだろ
沼地では無理だろう。 @阿波 「箸墓は卑弥呼の墓で間違いない!」と、断定した歴博のボスは、マスコミに散々突っ込まれるもろくに回答できず。
しかも、それ以前には「弥生時代は500年遡る!」とも発言←後で間違いだと発覚
警察・検察などの捜査機関に例えるなら、この歴博のボスは冤罪生産機としか言いようがない。 >>674
明らかに間違った意見とは具体的に何?
例えば、スレ主は明らかに間違ったことをテンプレに書いてる。
「女王国以北の以北には女王国は含まないんだ!」と明らかな間違いを書いてる >>674
そういやコロナワクチンの安全性を疑問視した医師が干されてたね
反論すりゃいいのに >>674
あーだから畿内説は世間から相手にされてないのか >>684
畿内説がそんなに上等か? お前、おかしいぞ。 わははははは @阿波 トンデモに王都遺跡(観音寺・敷地遺跡)はないぞ。 お前、おかしいぞ。 わははははは @阿波 箸墓古墳からは中国からのブツが一切発見されない
パチモン三角縁神獣鏡すら出ない
そもそも鏡が出ない
出るのは、吉備の宮山型特殊器台のみ
なぜ、箸墓が卑弥呼の墓になるのか全く理解できない >>676
>関川に反論できない畿内
関川は纒向の土器を6段階に分けて、最後の6段階目と入れ替わりに須恵器の時代になるので5世紀中葉から6段階x30年遡って、纏向遺跡の始まりが3世紀末くらいと主張した
しかし他の人が調べたら、6段階目は無かった
もちろん須恵器との接点も無かった
論文は削除された >>693
まあ、それぐらいの間違いはあるだろうな
歴博のボスが「弥生時代は500年遡る!」とか言って、さすがにそれはトンデモでしょうとなったことに比べれば関川氏の間違いは受容可能 >>693
3世紀末じゃなくて実は…おっとwなんでもない >>692
偉い先生()がそう言ってんならそうなんだよw >>693
間違いに気づいて削除するなんて偉いじゃん
誰かさんたちも見習えばいいのに >>681
>明らかに間違った意見とは具体的に何?
>例えば、スレ主は明らかに間違ったことをテンプレに書いてる。
そんなこと書いてないけど? >>698
>間違いに気づいて削除するなんて偉いじゃん
本人はまだ言い張ってる
しかし削除された
間違ってたから スレ主は、箸墓古墳(箸中山古墳)が卑弥呼の墓であるとするが、出土品から中国のブツが一切出ておらず、卑弥呼の墓ではあり得ない
確か、トナカイも箸墓は卑弥呼の墓ではないという意見だっけ? >>702
>証拠は?
テンプレには「女王国以北の以北には女王国は含まない」という文がない >>703
土器は間違いでも畿内説の間違いも示される日が来るから大丈夫だよ >>705
>スレ主は、箸墓古墳(箸中山古墳)が卑弥呼の墓であるとするが、出土品から中国のブツが一切出ておらず、
発掘されていないので、そんなことは分からない
つまり>>705は確実にうそ 発掘調査してないけど箸墓はモモソの墓だしモモソは卑弥呼だぞ >>713
モモソ本人は4世紀の可能性あるのに大丈夫か?w >>709
>証拠は?
このファイルを文字検索すればテンプレにその文字列が無いことが誰にでも確認できるので
>「女王国以北の以北には女王国は含まないんだ!」と明らかな間違いを書いてる
はウソだと分かる >>714
>宮内庁が発掘しておりますけど?
証拠は? >>715
宮内庁が比定した崇神陵の行燈山古墳も4世紀だしヘーキヘーキ >>717
宮山型特殊器台が発掘されてますけど?
それと世界最古と言い張る木製輪鎧 そういや、馬は4世紀末〜5世紀初頭からとされてきたのに
3世紀に遡らせたのは箸墓への忖度? >>720
>宮山型特殊器台が発掘されてますけど?
発掘されてません >>722
都合が悪くなったら他のところを調整して合ってることにするから大丈夫w
馬も3世紀からと言い出した奴いるし >>718
>証拠は?
全文検索でヒットしない
よって
>「女王国以北の以北には女王国は含まないんだ!」と明らかな間違いを書いてる
はウソ 箸墓は卑弥呼の墓だよ。
初期道教の墓と紀も認めちゃってる。
神仙思想と中華尺と北枕を持ち込む女性が他に誰がいると思うのだ。卑弥呼以前に卑弥呼に鬼道を教えた者なぞ倭には存在しない。
中国人だよ。だから隠すんだろ。 箸墓は邪馬台国(ヤマト王権)の墓に相違ない。
伊都国は韓半島との密接な交流により韓半島文化との関わりが強かった。
箸墓は中国系の公孫氏の墓ではなく、韓半島系の伊都国の遺跡に間違いない。 女王国は旧体制に対する反乱の結果できた国の枠組みで、卑弥呼亡き後国が乱れ旧体制の枠組みに再び吸収されたんじゃないかな
歴史に残されず、卑弥呼の墓も潰された可能性もある 天皇家は韓半島との交流が深い。これは藤原家でも言える。
ネトウヨは否定するが古代日本人の支配階級は常に韓半島(高天原)との関係を持ち続けていた。
そもそも倭人は韓半島の松菊里文化人の末裔であり韓民族とは遺伝人類学的に9割を祖先として共通とすることが分かっている。
アイヌは血はせいぜい一割に過ぎぬ。韓民族と日本民族は兄と弟の関係であり差別しあう仲ではなかったのだ。 >>731
>方位
間違いと判明してるので都合悪くない 距離や日数、戸数を誇張するのはまだ分かるし、沖縄あたりの南国をイメージしていたんだろうけど
方位を間違える意味が分からんわ
日の出る方向に向かっていながら「南」? >>826
小学生の頃はそんなもんだろ。
俺だってうんこして奴見つけたらたわし投げ入れたりホースで水かけたりして遊んでだぞ。 それは卑弥呼後、帯方郡が高句麗に滅ばされた頃から半島が本格的に流れこんできてからの話だろ、大体元は小国日本とやらは大加羅辺りにあったんじゃないのか?とさえ考えている。 そもそも血統が続くならご先祖様のやってきたことを否定し、隠したりしないでちゃんと記すだろ。或いは一時期否定する王もいるだろうがそれを批判する王も出たりするのが普通だと考えるがそういう者が出てこないのはこれで行こうということだわね。 >>743
おまえの出してる答えとは合わないもんな >>741
日本列島は台湾沖にはない
だから、行程の記事には間違いがあることが確定している
行程の約3/4は南方向に進んでおり、郡の東南と言う記述と矛盾する
考古学的にも邪馬台国は畿内なので、「南」水行は誤りだ >>746
会稽東治は上海付近だから台湾沖では無い。 >>745
だっておまえが出した答えと違うと無視してるでしょ
これに関しては俺は何度も何度も答えてるんだが 三韓が方四千里もある想定なのでその巨大な三韓の先にある倭も三韓のサイズ分だけ南にズレてる
よって行程記事もその巨大な東夷を念頭に読む必要がある
あと日数の部分は別資料からのコピペなので連続した行程と理解してはいけない >>747
>会稽東治は上海付近だから
歴史無視のトンデモ説に支持者なし >>754
>あと日数の部分は別資料からのコピペなので連続した行程と理解してはいけない
倭人伝無視はダメ >>749
>郡の東南はビッタビタに九州
証拠は?
また出せないで逃げるでしょ >>760
ほら!
また九州説は証拠を出せずに逃げ出しました
論破完了 吉備地方特有の土器片
箸墓古墳で大量出土
■ 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある巨大な前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」(奈良県桜井市)の墳丘部から、吉備地方(現在の岡山県)で主に出土する特殊な土器や、
最古型の埴輪などの破片が三千点以上出土していたことが平成12年5月17日(水)、宮内庁の調査でわかった。箸墓古墳は今年3月、邪馬台国が存続していた三世紀前半ごろで最古の古墳と確認されたホケノ山古墳に隣接し、三世紀後半に築造されたとの説がある。
しかし、宮内庁が陵墓として管理しているため、発掘は規制され、これほど大量の遺物の出土は今回が初めて。被葬者と吉備地方の勢力が深く関わっていることを改めて裏付けると
ともに、箸墓古墳の築造年代を特定する一級の資料。邪馬台国の所在論争にも影響を与えそうだ。
↑
箸墓から発掘調査した結果、吉備の特殊器台などが3000点以上出てきたが、中国との関わりを示す物は「ゼロ」 >>763
ほら!
証拠が出せないので、また九州説が論破されました >>765
つまり九州説が連敗していると言う事実ね >>762
>箸墓から発掘調査した結果、吉備の特殊器台などが3000点以上出てきたが、中国との関わりを示す物は「ゼロ」
今度は九州説、にせ情報を流したので反則負け
連敗だね 畿内説を唱える人を見たら詐欺師だと思いましょう、カルトと同じです。 白鳥庫吉の昔から150年以上倭人伝の論争して結論が出ないのに
何をやってるんだか 桜井市の教育委員会はキナイコシみたいなのを雇ってるの? >>770
完全に真南から45度の東南ですね
畿内だと限りなく東に近くなる 本日の結論
畿内は女王国の東の倭種の国でした
以上 >>781
>完全に真南から45度の東南ですね
ほら、証拠が出せない 纒向は奈良盆地に大きな権力が生まれたことを示している
その大きな権力がヤマト王権であることは確実だが、それが邪馬台国でもあることは魏志倭人伝の記述からは全く窺えず関西考古学界の願望にしか見えない
日本列島各地に地方勢力が勃興していた時代に北部九州には邪馬台国連合があり奈良盆地ではヤマト王権が生まれた
文字記録に十分に残っていないだけで、その時代の毛野には毛野の、高志には高志の、尾張には尾張の、それ以外の地域にもそれ以外の地域毎の独立した権力がありその歴史があったろう
その中でヤマト王権の権力や体制が相対的に強かった可能性はあるものの、それによる日本列島の統一はまだまだ先の話だ 邪馬台国時代は1世紀から3世紀後半
倭国大乱まで代々倭王が居た地域
卑弥呼時代は2世紀後半から3世紀前半
3世紀にいきなり七万戸の国家が出来るわけでもなく1世紀からそれなりの規模の居住区を抱えていた地域である
纒向説は全く整合しません >>788
九州説さん、根拠を全く示せない主張をいくら連呼しても意味がないよ >>563
> >>558
> >女王国の外だなんてどこにも書いてない。
>
> 女王国まで12000余里
> 伊都国は通過済み
国境は帯方郡から七千里の狗邪韓国だから、伊都国は国内。 記紀というファンタジーに東征と書いてあるのに惑わされすぎなんだよ
中国の史書を並べれば西征によって滅ぼされたと見る方が無理がない >>789
史書をガン無視する畿内説には理解できないだけ >>790
>国境は帯方郡から七千里の狗邪韓国だから、伊都国は国内。
倭国内だよ
女王国内じゃないだろ >>794
>史書をガン無視する畿内説には理解できないだけ
畿内説がそんなことしたって証拠は? ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
↑
畿内説は、何でもアリすぎる 寺澤薫は部族制国家の体制などが北部九州とりわけ伊都国から纒向にもたらされたとし、伊都国の東遷を想定する
北條芳隆は天文考古学の研究から伊都国と纒向の農事暦の共通性を指摘し、同じく伊都国から纒向への東遷を想定する
記紀の神武東征ではイワレビコが白肩の津に上陸したとするが、このあたりは記紀が書かれた頃には内陸であり、数百年前はそこまで船で行けたことを科学的に知っていたとは考えられないことから、当時の皇室に実際に伝承として残っていたと考えられる
ホメーロスが書いたトロイ戦争も、史記が書いた夏王朝や殷王朝も、かつては創作だと思われていたがいずれも遺跡が発掘され史実性が明らかになっている
神武東征も考古学的な裏付けが出来つつあるように思える >>797
>という根拠は?
九州説が、自分たちが主張する説の根拠をまったく言わなければ
第三者は九州説の真偽を判断できないので
主張するだけ無駄だから >>798
>畿内説は、何でもアリすぎる
という理由は? 神武は日向から来たという話では
九州なんだから北も南も別にいいだろって? >>803
文献では南九州の「ヒムカ」から来たと書かれているのに
福岡県にある「ヒナタ」峠と漢字が同じなだけで北部九州の話にしてしまう九州説は
ひどい文献無視だね >>806
寺澤薫や北條芳隆の意見に考古学的裏付けがないと考えるのはあなたの主観でしょ ニニギノミコトは筑紫の日向のクシフル峰に天下り、「ここは韓国(からくに)に向かう良い土地だ」と言った
糸島にクシフル山と呼ばれる山がありその近くに日向峠がある
宮崎では韓国に向かっておらず、また天孫降臨が大陸からの渡来とするならその地が宮崎と考えるのも不自然だ
ニニギノミコトに擬される人物または勢力は糸島に渡来したと考えるのが合理的だろう >>807
>寺澤薫や北條芳隆の意見に考古学的裏付けがないと考えるのはあなたの主観でしょ
考古学で扱う研究分野かどうかは客観的な話 畿内派は、証拠や論拠をこちらが示しても
「という理由は?」
「という根拠は?」
これを連呼するのでこちらもこれで応戦する >>808
>という証拠は?
人間社会が理由の正当性如何で可否を判断するということが証拠 >>813
>畿内派は、証拠や論拠をこちらが示しても
示したという証拠は? >>809
>という証拠は?
質問に証拠は要りません 古事記には日向から筑紫へと書いてあるが素直に読めばこれは国名であろう。
もちろん南九州の日向からの勢力の文化的影響は畿内では一切確認されていない。 >>810
>という理由は?
福岡県にある「ヒナタ」峠が「ヒムカ」と関係あるという根拠が示されていないから 伊都国の地に渡来したと考えられる皇室の祖
その何代か後の世代が奈良盆地に攻め入って王権を樹立したとするのが神武東征神話
考古学者の中には伊都国が纒向のルーツであるとする見解も複数出てきた
神話と考古学が結びついたトロイ戦争や夏殷王朝の前例に似た流れになってきたのではないか このスレッドはキチガイ畿内派のせいで、
という根拠は?
という理由は?
という証拠は?
これで埋め尽くされることになる >>818
>古事記には日向から筑紫へと書いてあるが素直に読めばこれは国名であろう。
つまり「日向」は峠の名前ではない >>818
>古事記には日向から筑紫へと書いてあるが素直に読めばこれは国名であろう。
阿蘇も磯城も飛鳥も出雲も伊勢も日向も筑紫も大津も吉野も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
記紀に固有の「国名」など有る訳がない。
「好字二字令」は元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に発せられた勅令である。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 >>822
>という証拠は?
根拠は正当性を保証するものだから 古事記東征の下りにおいては日向、筑紫ときて豊国の宇沙となっている。
このような書き方である以上、日向を小地域名とみなすのは牽強付会でしかない。 >>824
それは狂った人間のする荒らしだよ
九州説には証拠も根拠も、そして理由もないから発狂して荒らしをするのdさとj伯してることんあるよ
九州説の悲惨 ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
↑
何でもありの畿内説
方角をいじりまくり ただし時代によらず大和に日向からの文化的影響が皆無である事実は念頭におかねばならない
かと言って記述を無視してもならない
当スレ住民はなべて非常にせっかちであり、複雑な現状に耐えられていない
誠実なエポケーを >>831
>という証拠は?
根拠:物事が存在するための理由となるもの。存在の理由。(出典:デジタル大辞泉(小学館)) >>836
>という証拠は?
あんたの投稿>>824 >>837
そのQAはまさに韓国人の論法だな
キナイコシは日本語おかしいしエセ日本人だろな スレ主のテンプレによると、確かに纏向には中国由来のブツが出ていないことは認めている。
ただ、ベニバナがあるのだから、中国と交流はあったと見なすべきだそうです。 >>842
>そのQAはまさに韓国人の論法だな
という根拠は? >>843
まあ縄文時代から交易という交流はあっただろうな >>849
ただ、スレ主によるとベニバナとバジルのみ
他には大陸由来の物は何にも出ない 纒向は大陸との交流のない吉備から東海くらいまでとの結びつきの強い勢力=初期のヤマト王権
大陸と交流する邪馬台国は前漢あたりの時代からの流れを組む北部九州倭国の3世紀前半の女王がいたクニ
そう考えるのが文献的にも考古学的にも最も矛盾が少ないだろう 景行天皇の九州巡幸でも景行天皇が神と呼び水沼の県主が女神と呼ぶ崇高な存在である八女津媛がいた
卑弥呼の流れを汲む北部九州倭国の巫女女王だろう
古墳時代は北部九州倭国と畿内日本国の二王朝が並立していたと考えるべきだろう >>845
>という証拠は?
>このスレッドはキチガイ畿内派のせいで、
>という根拠は?
>という理由は?
>という証拠は?
>これで埋め尽くされることになる
という投稿は、主張の根拠を問われることを嫌って相手を「キチガイ」と呼び
報復にいやがらせの荒らしをするという宣言なので
九州説に根拠がないことと良心が無いことを露呈してるという事実が証拠 >>852
でも、
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい? わははははは @阿波 >>854
>古墳時代は北部九州倭国と畿内日本国の二王朝が並立していたと考えるべきだろう
でも、
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい? わははははは @阿波 ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
↑
何でもありの畿内説
方角をいじりまくり >>852
倭国大乱がいきなり列島スケールで始まる想定がおかしいんだよな >>869
九州説さん、あなたは>>824で自分が荒らしだと名乗りました
荒らす理由が、九州説は根拠を示せないからだとも自白しています
みじめですね九州説は >>872
そうそう
弥生時代に列島広域で戦争とか不見識も甚だしい 関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」 纒向しか無いからと言って全てを纒向に関連付けようと必死な畿内説がいるが、それが詐欺行為である事をわかってやってるのか? >>876
>理由はという理由は?
「倭国大乱がいきなり列島スケールで始まる想定がおかしいんだよな」( >>872)
に理由が書いてないという事実 >>878
>弥生時代に列島広域で戦争とか不見識も甚だしい
弥生時代に列島広域で戦争があった、というのは誰の説? >>883
>という根拠は?
理由が書いてあるなら示してください
できないなら
「倭国大乱がいきなり列島スケールで始まる想定がおかしいんだよな」( >>872)
という投稿に理由が書いてないのが事実と証明されます >>885
>ではないという根拠は?
ではないと主張していないので、言う義務がありません >>887
あなたが理由を示せないので
「倭国大乱がいきなり列島スケールで始まる想定がおかしいんだよな」( >>872)
という投稿に理由が書いてないのが事実と証明されました キチガイ畿内派が
「という根拠は?」
「という理由は?」
「という証拠は?」
という言葉を使用しないのであれば、こちらもきちんと答える どうやったら箸墓古墳の葺石が3世紀という事になるのかまったくわからない。 @阿波 >>890
根拠を聞かれたくない理由は?
九州説の主張に証拠も根拠もないからですね?_ 畿内説に質問だが3世紀の畿内には崇神朝と邪馬台国が共存していたの? >>891
>という根拠は?
自分が主張していることでなく否定する意思も無ければ、根拠があろうが無かろうが、何か関係ありますか? キチガイ畿内派が「という根拠は?」を連呼しなくなったのでかなり効果があったということだ >>896
>畿内説に質問だが3世紀の畿内には崇神朝と邪馬台国が共存していたの?
3世紀の畿内には崇神朝と邪馬台国が共存していた
と言うのは誰の主張? スレ主の間違い
・女王国以北の「以」とは女王国を含まない
含まないのであるから、対馬、壱岐も含まない
すなわち、詳細が記載されている対馬・壱岐・末盧・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国すら女王国ではないということになり、完全に論理破綻している 大陸の動乱が周辺領域に波及していくと考えれば日本列島に影響が及ぶのはのは3世紀後半~4世紀にかけてだろうなあ
倭国大乱は桓帝(146-167)霊帝(168-189)の間だから黄巾の乱よりも先にはじまってる
そんな時代に列島スケールで内乱起こすような統一国家が倭国にできてたという話も聞かないし >>901
>という理由は?
何か関係がありますか?
誰も指摘できないなら、関係ありません >>902
では聞くが3世紀に崇神朝は存在していたのか? >>903
>スレ主の間違い
>・女王国以北の「以」とは女王国を含まない
テンプレには
『女王国以北の「以」とは女王国を含まない』と書かれていないので
スレ主の間違いは存在しない スレ主のテキトー理論
・南は東の間違いであるから全く問題ない
確かに、1日2日なら間違っても不思議ではない
ところが、魏志倭人伝によると240日も太陽の昇り沈みを見ているのだから、絶対に間違いようがない >>906
>という理由は?
自分も含めて誰も関係あると指摘しないなら
関係あると考える必要はないから 右北平郡を東西に分けたのであるから、「以」とは算数で言うところの「以」ではなく、「より」と使用すべきであるというのがスレ主の考えである >>909
>ところが、魏志倭人伝によると240日も太陽の昇り沈みを見ているのだから、絶対に間違いようがない
間違えたと主張いていない人にとって、その指摘は意味がない >>914
間違えたと主張していないという根拠は? >>912
>という根拠は?
本人も他人も誰も主張していない事柄って、何か関与する必要あります? >>913
>右北平郡を東西に分けたのであるから、「以」とは算数で言うところの「以」ではなく、「より」と使用すべきであるというのがスレ主の考えである
分けてないし
1も言っていない >>918
>という理由は?
関係ないんなら考える必要ないでしょ? >>921
>と、お前が勝手に解釈した理由は?
だって鮮卑を東・中・西に分類するって明記されてるから、右北平郡は分けてないでしょ >>926
と、お前がスレ主とは全く違う解釈をしている理由は? >>924
どんな必要性があります?
指摘がないなら必要ない >>928
>と、お前がスレ主とは全く違う解釈をしている理由は?
全く違う解釈をしていると断定する理由は? スレ主が右北平郡を、東・中・西に分けているのは明ら、かつ、「以北」とは女王国を含まないと解釈しているのは明白であるのに、それを否定するのは知能か低いと言わざるを得ない。
仮に、以はそれを含まないと解釈するのであれば、邪馬台国以北の以北とは邪馬台国を含まないと書くべきであるのに、スレ主はそのように書いていない 畿内説はこうだから間違ってるとおまえが勝手に結論出してるだけなのよね
常にこの論調だから証拠は?と聞かれる >>932
全く違う解釈をしていないと断定する理由は? >>916
>間違えたと主張していないという根拠は?
テンプレに間違えたと書いてないから
どこかに書いてあります? >>934
>スレ主が右北平郡を、東・中・西に分けているのは明ら、かつ、「以北」とは女王国を含まないと解釈しているのは明白であるのに、
本人そう書いてないのに、どうして明らかなの? >>939
>という証拠は?
あなたも、そう書いた箇所を引用できないでしょ?
それが証拠 >>943
>という証拠は?
あなたが引用できないという事実が証拠 スレ主が、
以北を「>または<」と認識しているのは明らかであるのに、≦と認識していると思ってる奴は知能が低すぎる スレ主が、
以北を「>または<」と認識しているのは明らかであるのに、≦と認識していると思ってる奴は知能が低すぎる 辞書では
はん‐ろん【反論】
[名](スル)相手の論や批判に反対の意見を述べること。また、その議論。 >>946
>スレ主が、
>以北を「>または<」と認識しているのは明らかであるのに、≦と認識していると思ってる奴は知能が低すぎる
そう認識しているという証拠は? ≦と認識した場合、どう考えても右北平郡の中部と東部は重なり合う
それはおかしい 小学生みたいな低レベルなケンカすんなよwww
たぶんいい年したオッサンどうしだろ?
証拠はないけどw
どちらの説だろうと、根拠なしのレスには反応しないのがいいよ
全部に「根拠は?」って聞いてたらそれだけでスレ消費しちゃうし >>948
>引用してないという証拠は?
すでに引用したなら、そのレス番が言えるはず
でも、あなたは言えないでしょ
だから、引用してない 以東の東部は千葉ですと書いた場合、東部は当然に千葉県
西部は八王子から西の山梨県であると書いた場合、西部は当然に山梨県
中部は東京都になる
以北の以とはそれも含むと考えた場合、千葉県と東京都が同じになる
それはおかしい >>953
>≦と認識した場合、どう考えても右北平郡の中部と東部は重なり合う
という理由は? >>954
俺もスレ主には出ていけと言われた事もあるし言いたい事もあるけど
九州説が酷すぎ
近畿説同士の話もできやしない >>960
畿内説の知的レベルが低すぎる
まともなのはトナカイだけだな >>962
トナカイがなんか言ってたっけ?全然覚えてないわ
お前にとって都合が良いだけじゃないの? 「東京都以東は千葉県」と仮に書いた場合、それは千葉県。
当然ながら、東京都は含まれないというのがスレ主の論理である。
したがって、女王国以北の以北とは女王国は含まないというスレ主の論理は完全に破綻している すなわち、
以とは>なのか≦なのか、完全に使い分けられてないというべきである。 >>957
右北平郡の東は遼西郡、西は漁陽郡
みんな長城の南
長城の北にいる鮮卑族を東部と中部に分けました
東部は右北平郡以東、西部は右北平郡以西
鮮卑の東部と中部は接してる
つまり鮮卑の東部と中部は右北平郡の北のどこかであいまいに接している
右北平郡以東と以西はどちらも右北平郡を中途半端に含んでいて、かつ重なっていない >>959
>書いてないという根拠は?
全文検索でヒットしない >>964
>「東京都以東は千葉県」と仮に書いた場合、それは千葉県。
>当然ながら、東京都は含まれないというのがスレ主の論理である。
それ、証拠ないし >>962
トナカイは東遷説を否定しているから逃げ場が無いな 目潰し、金的以外何でもありのアルティメット
目潰しも金的もありの本当に何でもありの畿内説 >>884
テンプレで倭国大乱をどう説明しているかなと思ってざっと見たが見当たらなかった
ただ、昔から畿内説は北部九州から瀬戸内を通って畿内まで広がる高地性集落を倭国大乱と結びつける見方がオーソドックスではなかったか
最近の畿内説が違う説明をしているのであれば教えて欲しい
(もしテンプレの見落としなら番号を教えて欲しい) >>971
>さすがに頭が悪すぎる
悪口言っても反論にならないよ
むしろ論破された証拠 >>973
>証拠がないという証拠は?
誰も証拠が出せない事実が証拠 東京都の東は千葉県、西は山梨県
東部は東京都以東、西部は東京都以西
東京都と千葉県は接している
つまり東京都と千葉県はどこかであいまいに接している
東京都以東と東京都以西はどちらも東京都を中途半端に含んでいて、かつ重なっていない
↑
意味不明 >>969
>という証拠は?
あなたが検索結果を出せないのが証拠 >>980
>完全にお前が論破されたのだけど?
という証拠は? >>983
>という理由は?
事実、出せないでしょ? >>981
>証拠を出せないという証拠は?
あなたが証拠を出せない事実 >>988
証拠を出したのに、出してないと強弁する理由は? >>987
>出したけど?
いつ、どこに何を?
九州説は証拠が出せません 高地性集落と倭国大乱が関連するとみなしている根拠は? >>991
じゃあ、お前の国語力が著しく低いのだな >>989
>証拠を出したのに、出してないと強弁する理由は?
出したと強弁するだけで、証拠を出さないから 東京都の東は千葉県、西は山梨県
東部は東京都以東、西部は東京都以西
東京都と千葉県は接している
つまり東京都と千葉県はどこかであいまいに接している
東京都以東と東京都以西はどちらも東京都を中途半端に含んでいて、かつ重なっていない
↑
スレ主の完全な論理破綻を必死で擁護する畿内派 >>992
>スレ主の論理破綻を必死に擁護する畿内派
論理破綻が実在しません 東京都の東は千葉県、西は山梨県
東部は東京都以東、西部は東京都以西
東京都と千葉県は接している
つまり東京都と千葉県はどこかであいまいに接している
東京都以東と東京都以西はどちらも東京都を中途半端に含んでいて、かつ重なっていない
↑
スレ主の完全な論理破綻を必死で擁護する畿内派 東京都の東は千葉県、西は山梨県
東部は東京都以東、西部は東京都以西
東京都と千葉県は接している
つまり東京都と千葉県はどこかであいまいに接している
東京都以東と東京都以西はどちらも東京都を中途半端に含んでいて、かつ重なっていない
↑
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