邪馬台国畿内説 Part972
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1701809374/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 つまり、邪馬台国(女王国)の本当の位置は筑紫平野だけど、陳寿の蛇足により、遥か彼方の南(呉の背後=沖縄と台湾の間の海上)にあるように書かれているってわけね
南水行十日陸行一月は嘘まぼろしということだから、邪馬台国(女王国)は筑紫平野で良いんだね .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 倭人伝には漢の時に朝見して来た倭人の事を書いているが、畿内は漢の時代に朝見していない倭種の国なのでアウトです。 >>113
末盧国〜不弥国〜投馬国までは本当だけど、それ以降の道程は陳寿の蛇足だから無視すべきところを、
箸墓ありきで「南→東」と勝手に変えちゃった我田引水が畿内説ってことだぬ。 筑前に伊都国・奴国・不弥国などの諸国
筑後に邪馬台国・投馬国などの諸国(博多湾側からは御笠川→宝満川→筑後川経由で南に水行)
これに末盧国や吉野ケ里(カンノサキ=華奴蘇奴国?ミネ=弥奴国?)など肥前東部と、日田・玖珠など豊後西部を合わせたあたりが女王卑弥呼の治めていた北部九州倭国だったと考えられる
これは言わば玄界灘文化圏と有明海・筑後川文化圏の連合体だ
その南の肥後北部に同じ倭人だが倭国に属さない狗奴国があった(「狗古智卑狗」や「卑弥弓呼」は倭国と同じ倭人の言語と見られる)
この狗奴国と邪馬台国が、鉄鏃が大量出土する菊池川流域あたりの国境地域で戦争した
さらにその南、熊本県南部、宮崎県南部、鹿児島県などに熊襲がいた
渡来系の影響が濃い倭人と縄文系の影響が濃い熊襲は言語や文化がだいぶ違っていたと思われるが、後にヤマト王権の支配下で同化していった 距離を盛るのは良いんだよ。目的地はその途中=手前にあって必ず着くんだからw
でも(南→東)と方角を「箸墓=卑弥呼の冢」ありきで勝手に解釈を変えたりしちゃダメ(この時点でアウト!)でしょ(絶対着かないんだから、100%間違った場所に着くんだから)w
しかも、247年、卑弥呼の要請で実際に「女王之所都」まで行って、卑弥呼の冢を見ている張政や郡使も読んで、「女王国東渡海千里複国有皆倭種」も東、「其南有狗奴国不属女王」も東、でダブってるじゃないか!
アレ?おかしいぞっ!?てすぐ解るような文章書くかよ、岡上じゃあるまいしw 魏志倭人伝の行程記事
帯方郡から倭に至るには海岸沿いに南に東にと七千里進んで倭の北側の沿岸すなわち朝鮮半島南岸にある狗邪韓国に到着する
狗邪韓国は金海市・釜山市あたりにあった倭人のクニと考えられる(倭人のクニでなければ魏志倭人伝で国名を取り上げる理由がない)
ここから南に
→千里で対馬国
→千里で一大国(壱岐国)
→千里で末蘆国(肥前国松浦郡)
と進み、さらに
→東南に陸行五百里で伊都国(筑前国怡土郡)
→東南に百里で奴国(筑前国儺県=なのあがた)
→東に百里で不弥国(筑前国糟屋郡宇美?筑前国穂波郡?)
と進んだ
さらに、
→伊都国ないし不弥国から南に水行二十日で投馬国
→南に邪馬台国に至った(伊都国ないし不弥国ないし投馬国から水行十日陸行一月)
邪馬台国の南に狗奴国があり、女王に属さなかった
すなわち邪馬台国が女王の統治する倭国の南端だ
帯方郡から女王国すなわち邪馬台国に至るには一万二千里掛かった
(「女王国」の語は魏志倭人伝に5か所記載され単体の「邪馬台国」と解釈できるところと連合王国としての「倭国」と解釈できるところがあるが、既に帯方郡から七千里で倭国の北端狗邪韓国に至っているのでここは「倭国」とは解釈できず「邪馬台国」一択)
さらに倭の地を巡り歩くこと五千里とある
これは、倭国に来て北端の狗邪韓国から邪馬台国まで五千里ということだろう
帯方郡から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里という記述とも綺麗に整合する
(一万二千里−七千里=五千里)
(続く) >>112
>畿内説の存在理由が無いからだろ馬鹿
無いという根拠は?
まったく理由の言えないことばかり言い張る九州説は妄想です (続き)
邪馬台国は伊都国や不弥国などの南にあり、肥後にあったと思われる狗奴国(クマ=隈・熊・球磨の地名、官の狗古智卑狗は菊池の旧名久々知の長で久々知彦)の北にあったので、筑後と推定される
帯方郡から伊都国まで一万五百里なので伊都国から邪馬台国は残り千五百里、魏志韓伝と倭人伝の一里は概ね75m(凡そ300km四方の三韓地域を方四千里と書くなど)なので、伊都国から南におおよそ100kmで邪馬台国に着くということになる
この方角と距離感も筑後で符号する
博多湾側から筑後邪馬台国までは御笠川→宝満川→筑後川で水行してから少し陸行したと考えるのが合理的だ
地名から考えれば、邪馬台国は筑後山門郡(プラス肥後菊池郡山門郷)と比定できる
邪馬台国を目指して筑後川を水行してくる途中には筑後上妻郡・下妻郡があり、これが投馬国と考えられる
邪馬台国と狗奴国の国境に近いであろう菊池川流域では鉄鏃が大量に出土しており、両国の間で激しい戦いがあったことを窺わせる
なお、倭人は里数を知らず日数で距離を測る(隋書倭国伝より)ことから、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月は倭人からの伝聞と考えられる
倭人が安全保障上の理由で距離と戸数(五万戸、七万戸)を誇張したことは大いに考えられるので、水行十日陸行一月や戸数七万戸を額面通りに受け止めて大真面目に議論することは賢明ではないだろう
実際、これらを大真面目に議論して合理的結論に至った人を私は未だかつて一人も見たことがない >>113
遥か彼方の南(呉の背後=沖縄と台湾の間の海上)にあるように書かれている
のなら、行程記事では比定できない >>113
>南水行十日陸行一月は嘘まぼろしということだから、邪馬台国(女王国)は筑紫平野で良いんだね
陳寿の書いた行程が信用できないなら
陳寿の書いた行程から邪馬台国の位置を割り出すのは矛盾した行為だから
行程から邪馬台国の位置を求めてる九州説は
おしまいだね >>112
>邪馬台国と狗奴国の国境に近いであろう菊池川流域では鉄鏃が大量に出土しており、両国の間で激しい戦いがあったことを窺わせる
それ、証拠は? >>122
仮に肥後が狗奴国なら、
九州最大の外港都市博多を中心とした筑前と交流関係がない筑後も狗奴国側 卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。 >>122
>魏志韓伝と倭人伝の一里は概ね75m(凡そ300km四方の三韓地域を方四千里と書くなど)なので
それ、証拠ないよね >>128
卑弥呼は倭国乱後共立された女王で、死後も国中服さない状態になるので
「安定支配」というのがそもそも倭人伝と一致しない >>115
>倭人伝には漢の時に朝見して来た倭人の事を書いているが、畿内は漢の時代に朝見していない倭種の国なのでアウトです。
これ、論理が狂ってるね
漢の時に朝見して来た倭人と邪馬台国が関係あるかどうか不明なんだから >>116
>末盧国〜不弥国〜投馬国までは本当だけど、それ以降の道程は陳寿の蛇足だから無視すべきところを、
それ、根拠なく倭人伝を書き換えちゃってるから
九州説としてアウト
>箸墓ありきで「南→東」と勝手に変えちゃった我田引水が畿内説ってことだぬ。
実際に箸墓あるんだけど >>98
畿内説ではないが里数ある所から東へ千里となると壱岐、奴国、不彌国いづれから千里となる。
さてどこでしょうか?
壱岐からひいg >>121
>日数が正しいという証拠もない
そうだよ
だから九州説はチェリーピッキングで信用を失った
そして破綻して消滅した >>132
末盧国から伊都国も途中から北東にかえる一部の
九州説もいる。さらに千里を無視で短くする
壱岐からの方角の記載はない。食糧入手で南北のみの記述。 魏志倭人伝の行程記事のベースとなる調査報告書を書いた帯方郡使はおそらく呼子・名護屋あたりで上陸したと思われる
ここから現代の地図で伊都国(三雲・井原遺跡あたり)を見るとほぼ真東に当たる
しかし実際に移動するときは東の唐津湾を南回りで進むので、しばらくは東南方向に進むことになる
調査報告書には上陸後東南方向に進んだことが書かれており、陳寿は魏志倭人伝でそこを抜き出したと考えられる
魏志倭人伝は総文字数約二千文字で簡潔に記述されており、伊都国までの道程だけをだらだらと長く書くはずもない
末蘆国の港で上陸してから東南へ陸行五百里で伊都国に着いたという趣旨の議事倭人伝の記述は、このように考えれば特に矛盾はないと考えられる >>128
畿内説をぜんぜん知らない人が畿内説と九州説の比較を言っても説得力ゼロでしょ
なんで絶対に証拠を出さないの?
ひとり脳内で決めつけてても意味ないって理解できないのかな 壱岐と糸島は2世紀後半をピークとして3世紀前半まで楽浪土器がまとまって出ることが魏使ルート比定の根拠
糸島が伊都国に比定されるから、唐津近辺が末盧の津に比定される >>136
考えられませんし考える
千里も短い、到底受け入れられるもんではない。
福永の田川説や阿波説、或いは伊万里説のほうがスッキリ行く、魏志倭人伝が間違いと言っているようなもん。 以下の魏志倭人伝の記述は、全て北部九州説に強くポジティブで畿内説に強くネガティブだ
・邪馬台国(狭義の女王国)は帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里
※魏志韓伝/倭人伝の一里は70〜80m程度
・周旋五千里
・伊都国/不弥国から南に邪馬台国
・邪馬台国の南に軍事的に拮抗した狗奴国で、その官に狗古智卑狗(肥後菊地の旧名久々知彦?)
・東に海を千里渡ると倭種の国
・宮室・楼観・城柵
・絹・養蚕
・有棺無槨の墓制
・倭地温暖(裸足、冬でも生野菜)
そして畿内大和に特徴的な前方後円墳や銅鐸の記述は一切ない
実際、纒向をいくら調査しても宮室・楼観・城柵の跡は出て来ず(一部の畿内説学者が宮殿跡と主張する建物跡はあるが、柱があまりに浅く細く、かつ短期で取り壊されているので客観的・常識的には女王の宮殿などではあり得ない)、大陸と交流した痕跡(銅鏡・鉄器・楽浪土器・硯など)もびっくりするほど何も出て来ない
魏志倭人伝に描かれた倭人の様子とは似ても似つかない纒向が邪馬台国であった可能性は限りなくゼロに近い
これで畿内説などという珍説が一体どこから出てくるのか理解不能だ まあ、纒向遺跡が開店休業状態なのがすべてを物語ってるよ
国民からまともに相手にされてないんだよ >>140
倭国が使者を派遣するときも郡使が来るときも皆伊都国の津で検査しているので
末盧の津からの東南陸行は地理の説明 >>143
意味不明?津はどこでしょうか?
90度、傾いているのか?
海渡りて千里の距離はどうする? >>136
>ここから現代の地図で伊都国(三雲・井原遺跡あたり)を見るとほぼ真東に当たる
>しかし実際に移動するときは東の唐津湾を南回りで進むので、しばらくは東南方向に進むことになる
うちは羽田空港の北にあるから北海道いくのに「南」でいいのだと言われて納得するやつ居ないよ
呼子の岬からも唐津の海岸からも、伊都国は東南じゃない方向に見えてるよ >>136
>ここから現代の地図で伊都国(三雲・井原遺跡あたり)を見るとほぼ真東に当たる
>しかし実際に移動するときは東の唐津湾を南回りで進むので、しばらくは東南方向に進むことになる
うちは羽田空港の北にあるから北海道いくのに「南」でいいのだと言われて納得するやつ居ないよ
呼子の岬からも唐津の海岸からも、伊都国は東南じゃない方向に見えてるよ 宗方、福津あたりが倭種かな?
千里とあるし、或いは不彌国、奴国が九州の東側海岸にあるのだろうか? >>147
当然、呼子も唐津も魏志倭人伝
無視かな? >>142
このように
証拠あることを一つも言わないのが
九州説の特徴 >>151
それと九州説の一部
一部分のみを
千里無視で短くするし方向転換する。 >>144
津は糸島水道
傾いているのは対馬-壱岐の南渡から傾いている
壱岐原の辻-呼子寄港-糸島水道の航路から見て陸続き(東南)
千里の距離は配分だからどうもしない >>157
何故そこだけ
壱岐から千里無視するのか?
どう見ても短い >>155
陸行したら伊都国の津で検査することはないから
糸島までは船 まあ海を渡る時期が帯方郡に6月に到着するくらいの季節だというのはわかる >>162
東松浦半島〜唐津に楽浪土器がまとまって出るような拠点はない >>161
なんでそこだけ千里無視なのか?
間違いなら間違い、別資料の繋ぎ合わせ? 半島南岸4分の3の狗邪韓国から渡海する間に二つ貧しい島があることがわかればいいから
壱岐〜末盧間千里は重要じゃない >>167
重要ではないの?
魏志倭人伝は信用できる部分とできない部分があるでいいのか?それならそう言えばいいのに。 >>157
>夏場に呼子付近から糸島を見れば日の出の方角より南にあるhttps://i.imgur.com/nnEEnn2.jpeg
季節による日の出の方位変化もわかってない
ド素人のつけた記録だとおっしゃりたいなら
信憑性の低い史料だということね >>158
裴世清が難波津に着いたのも6月だから夏場の航海が吉だったのだろうとは想像がつく >>168
里数は観念的な地理的世界観である中国方万里に基づいた里数の配分だと何度も言っている >>171
で観念だけで到着できるのか?
万二千餘里 餘里なんだけど? >>173
道里を計ると、万二千餘里+水行陸行二月で会稽〜東治の東に着く
ので、つまり倭国には着かない 当時一番人口が多かった関東平野無視して九州だ畿内だ言ってるのがありえんわ >>174
そうだよ。陳寿の解釈に過ぎないのでは?
或いは、つぎはぎとか?陳寿にとっては辺境地
魏、蜀、呉がメイン、サッサと書いたかもね >>176
だから日本の学問では考古学研究成果で明らかになった交流関係から
畿内〜筑前博多に及ぶ広域政治連合が通説 >>175
一理あるね。九州から水行20日
太平洋側の強い海流避けながら到着するかも?
鉄鏃の出土もあるしね。
その中間に港があってそこから1ヵ月陸路が邪馬台国かもしれん、南至れば海流に乗れそう >>177
だから何、違うこと言ったら
罰則や刑務所に入れられるのか? 魏晋時代の中国が日本の関東地方のことなんて全く知らないだろう
奈良盆地のことも交流がないので当然知らないはず
彼らがよく知っているのは北部九州の対馬海峡周辺の沿岸地域だけで、あとは長門や出雲のことを少し知っている可能性があるくらいか(それでも基本これらの地域は宗像経由での交易だろうから詳しくは知らないはず)
そういう時代だ >>177
通説では魏志倭人伝の距離や方角はどう
捉えているの? ヤマト王権と邪馬台国は別物
⭕ 畿内には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した >>182
単純に言えば、魏志倭人伝の時代において、一番栄えていた場所が邪馬台国だろうというのが畿内説
書かれている行程を読めば北部九州からそこまで遠く離れた場所にはならんだろってのが九州説 3世紀前半の時点で奈良盆地が一番栄えていたとは思えない
特にこの時代に大陸と交流した痕跡が全くないのは致命的
纒向が邪馬台国であった可能性は限りなくゼロに近い 倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を倭国(阿波)内各地で実施し、
中国鏡・中国産朱も舶載している現実がある。
また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。
大陸と倭国(阿波)までの流通ルートが確立されているのは紛れもない事実である。 @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 伊勢の天の岩戸は、山の中で川の上流、田んぼが作れるような所ではないようですが。
当時はどこに住んでいたんでしょうか? >>186
成る程、中国鏡・中国産朱・鉄・青銅器いずれかがあれば大陸と交流あったという事ですね。 大陸の技術が入りやすく、金属加工や対外交易で発展していたのが博多を中心とした筑前
稲作農耕社会の形成、畿内第X様式圏という広域文化圏
大型首長墓造成の土木事業といった、農業、祭祀、政治的に統合が進んだのが畿内
その広域政治連合が始まったのが3世紀の博多湾貿易 2世紀後半に
いきなり日本列島広域で大乱おっぱじめる想定するのは
さすがに荒唐無稽じゃね?
それより前の時代に日本列島広域を支配する巨大勢力がいて
仲間割れ始めたやつがいるならまだしもそんな気配はないわけで
高地性集落は倭国大乱の時期とは無関係すぎるのでNG >>189
違う! 全部だ。 そして、「鍛冶炉遺構」もだ。 @阿波 >>190
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い九州や畿内に、広域政治連合など成り得る訳もなし! わははははは @阿波 列島最大の貿易都市博多と3世紀に密接な交易関係があったと見られるのは出雲・播磨・丹後など
海無し奈良盆地との直接交流は考えにくい
実際、纒向に北部九州からの土器は殆どない
また纒向の外来土器は吉備(25%)、東海(20%)、河内(20%)、山陰北陸(17%)がメインで、阿讃播(阿波+讃岐+播磨)は8%しかない
大和と播磨がそれ程密接な交流関係があったとは見られない
博多と播磨は密接、播磨と大和は薄い関係、大和と博多は殆ど没交渉
それが実態だ
何で妄想畿内説は筑前と大和が一体ないし緊密であるかのような妄言を吐いているのだろうか
畿内説はキナイコシもトナカイも思考回路があまりにご都合主義で笑える >>192
別に全部とはいう記述はない。
絹やト骨はどうなのか? >>194
>列島最大の貿易都市博多と3世紀に密接な交易関係があったと見られるのは出雲・播磨・丹後など
それら全部、倭人(阿波勢力)。
交易関係があったと見られるのは、倭人(阿波勢力)が各地に進出したから。 @阿波 >>199
まぁ、総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的特異遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の「行程」・「其山有丹」・「倭地の自然環境描写」等々。 @阿波 箸墓が古墳時代のはじまりとして、大和王権が半世紀くらいの間に強い力を持つように
なったようだ
外的要因が考えられるが北九州と敵対しているとその後の強大化は難しい
邪馬台国とヤマトは別の国で西日本はヤマトの影響下にあり、先進地北九州は
発祥の地とも言われており緩やかな同盟関係にあった思われる
やがて九州もなしくづし的に支配下にはいったのだろう
結論は畿内説ではない >>200
進出しているなら吉野ヶ里、
纏向は女王国ですよね >>201
別に時間のズレでもいいじゃないの
近畿や四国等に邪馬台国があって、九州にいた神武が移動とか?まあ記紀もだいぶ後の記録物
過去の出来事もよくわからない部分もあるのでは?創作や神話的な要素もあると思うけど? >>194
ほんとこれ
鉄器繋がりで九州と播磨阿波讃岐に交易があったのだろう
纏向の政治連合とは関係のない単なる交易の繋がりだ >>205
>纏向の政治連合とは関係のない単なる交易の繋がりだ
単なる倭人(阿波勢力)の各地進出だ。 @阿波 讃岐忌部、出雲忌部、紀伊忌部、筑紫忌部、伊勢忌部、越前忌部、淡路忌部、備前忌部、隠岐忌部、安房忌部などは、
後世の学者が「倭人(阿波勢力)」各部族の全国進出を、「十把一絡」に忌部氏と表現したのだろう。
実際は、「物部一派」や「賀茂一派」や「蘇我一派」や「中臣一派」や「葛城一派」や「大伴一派」など、
倭人(阿波勢力)の各部族が全国へ進出していったものであろう。 @阿波 >>205
>何で妄想畿内説は筑前と大和が一体ないし緊密であるかのような妄言を吐いているのだろうか
その笑っちゃうくらいか細い線しか倭人伝北部九州との関係が無いからだろう >>185
見つからないから桃やらカエルやらを持ち出してその理由にしているわけでしょ >>194
博多と出雲、丹後は首長墓も供献土器も違う
大和型庄内甕を模倣製作した博多の筑前型庄内甕の成立のほうが播磨よりもやや早い >>211
鉄器が無い地域からの生口が土器を作っただけだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています