【Y-DNA】新日本古代氏族とハプログループPart22
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中国って異民族に支配されまくってるってのにまだO2増えてるってマジなん? ツングースが中華王朝の覇者なんダァーってずっと言ってたな 最古稲作遺構の菜畑遺跡には渡来人が入植した痕跡がない
青森の砂沢遺跡は前7C頃の水田遺構だが、中部地方よりも200年も先に、
関東地方よりも600年も先に稲作が始まっていた
搬入された遠賀川式土器が数点見つかっているものの入植した事を
意味する在地産の遠賀川式土器遺構がないため、九州北部との交流を通じて
稲作を取り入れて自ら稲作を始めたものと見られる
けっきょく菜畑遺跡もこれと同じ
交流していた朝鮮南部から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕跡がない
朝鮮半島の稲作も同じだろう
交流していた遼東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕遺構がない
遼東半島の稲作も同じだろう
交流していた山東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから中国から入植した事を意味する中国土器遺構がない
稲作渡来民なんて幻想
そんなものは存在しない https://i.imgur.com/kGqWaBR.jpg
または11月26日読売新聞。国立科博・篠田館長の記事。
釜山・加徳島の狼項遺跡(6300年前)の人骨の核DNA分析を ...
韓国が、釜山・加徳島の狼項遺跡(6,300年前)の人骨2体の核DNA分析を行った結果、
縄文人的と判明した。人骨2体はほぼ現在日本人のDNAと同じだと篠田館長は結論した。
弥生時代の少し前ころ韓国南部、小白山脈のライン南部、対馬海峡側には
縄文系の人達が広範囲に生活していた事が分かってきている、
最近の大勢は、「縄文人は列島から列島外に拡散していた。」に傾いている。 https://i.imgur.com/xhSoVTe.jpeg
春秋時代の黄河河口に居たのは
現代西ヨーロッパ人に近縁であった
中国人って何なんだろうなってレベルだね 物部王権(Nigihayahi dynasty) D1(D-CTS1897)古代大和王権
皇室(Imperial House of Japan/Tenno) D1(D-IMS-JST022457)
源氏 D1(D-Z1504, CTS8093)
平氏 D1(D-Z1504, CTS8093)
豊臣秀吉(太閤) C1a1(C-M8)
豊臣秀吉とかいう例外 >>9
あちらにこちらから入植した事を意味する在地産の縄文土器がメインの
縄文系土器遺構がない
解釈の変更を要す 縄文人と弥生人(弥生人倭人説)
スンダランド(今のインドネシア辺り)にいた人類→縄文土器を作る→南方の島々から約1万5千年前に鹿児島南端に辿り着く→日本列島最初の縄文人
スンダランドにいた人類→東南アジア沿岸から長江河口まで移動し漁業を営む倭人になる→近隣のミャオ族などの少数民族(稲作開発者)の影響で半農半漁民になる →黄河流域の漢民族の勢力拡大に圧迫されて、船で中国沿岸部を北上→朝鮮半島の西岸を船で南下→朝鮮半島南岸から対馬に渡る→青銅器を携えて約3千年前に九州北部に辿り着く→日本列島最初の弥生人
縄文人と弥生人がゆっくり時間をかけて(約500年間)平和的に統合
→国家成立前に日本人の原型が形作られる
稲作による疫病を恐れた縄文人のグループ→弥生人と交わらずに北上→オホーツク沿岸部の文化の影響を受ける→鎌倉時代にアイヌと呼ばれる文化になる
ちなみにゾミア(東南~インド中国の丘陵地帯)にも漢民族の圧迫から避難したミャオ族などの少数民族が混在していたからか、日本人とチベット人は似ているw
結論
縄文人と弥生人は日本に来た時期こそ違いはあるものの、ルーツは同じスンダランド系なのでお互いに文化的遺伝的な親近感があり、大規模な戦争やジェノサイドが起こらなかったのが重要なポイント。 1.考古学、遺伝学、文字で書かれた史料、現存する文化習俗など全てにおいて、外来勢力が在来勢力に対して大規模戦争したりジェノサイドして日本列島を征服した痕跡がどの時代にも一切ないこと。
2.日本書紀は今のモンゴル辺りで誕生して朝鮮半島経由で入って来た天孫降臨神話(タカミムスヒ)と縄文・弥生期以来の神話(イザナギ・イザナミ~アマテラス・スサノオ~オオクニヌシ)の二元構造になっており、高句麗の王権神話が天孫降臨神話一元構造なのとは対照的である。8世紀になっても依然として強かった縄文文化の濃厚な勢力への配慮が日本書紀の編纂に大きな影響を与えたと考えられること。
3.日本では7世紀まで父系出自集団は存在しないのは古代史の定説になっているので、父系制=血統主義の部族が日本にやって来たとしても、以後は双系性になり血統の連続性は絶たれてしまっていること。
4.古今東西どの部族にも何らかのインセストタブーがあり、他部族と交わらずに近親婚を繰り返しての人口増加や勢力拡大が困難なこと。
5.紀元前の日本にまだ文字がない頃に中国では既に代数の初歩レベルまで到達。そして江戸時代の関孝和の和算は当時世界最先端の数学。
つまり文明度でようやく日本が中国に追いついたのは江戸時代なので、江戸時代までの文化の伝播の方向性はほぼ中国→日本だったこと。
6.朝鮮半島から対馬は肉眼で見えるほど距離が近くて容易に行けて、対馬には日本神道の原型祭祀と思われる神社が多いこと。
7.日本列島は自然に恵まれ食料が豊富な上に、大陸と距離が離れており日本海も海流が速いので、攻め手側が圧倒的に不利な天然の軍事要塞に等しいこと。また渡来人も国家の圧迫から逃れて来た避難民や王朝交代時の政治亡命者や難民であり、予め征服の強い意志を持ち計画的に日本に侵略して来たのは元寇が最初だったと推測されること。 以上の7点から渡来人は入って来たけど、大規模な戦争で征服したのではなく、主に婚姻を通じてゆっくり時間をかけて対等な立場で平和的に縄文人と統合したと考えられる。
その渡来人は元々長江河口に住んでいた半農半漁民だった倭人。漢民族の勢力拡大の圧迫により、中国海岸と朝鮮半島海岸を船で移動した(強敵のいないこのルートにならざるを得なかった)。当時は平均寿命は短かったので、日本列島に到着する頃には何世代もの世代交代が進んで、中国沿岸部や朝鮮半島沿岸部の文化や遺伝子が混交し、長江河口に住んでいた頃よりかなり雑多な部族になっていた。
その倭人は日本列島で約500年かけて平和的に縄文人と統合するが、統合後でも元倭人の社会が形を変えて朝鮮半島に残っていたので、その人的ネットワークを通じて仏教や律令制度などを比較的スムーズに日本に持って来ることが出来た。 日本には7世紀までは父系出自集団が存在しないのは日本古代史の定説になっているので、早くても8世紀以降、現実には名実ともに父系制に日本がなったのは平安中期頃だろう。その時代に血統を強く意識した文学作品、源氏物語も生まれた。
それ以前の日本は双系制とみて良い。
というのも仏教伝来以前の日本の宗教は呪術であり、呪術の力こそが王権の正統性になっていたからだ。
ところが3~4世紀頃にモンゴル原産で朝鮮半島経由で入って来たある思想が日本列島に大衝撃を与えた。
天孫降臨神話、父系制、血統主義のセットである。
後に崇神天皇と呼ばれるヤマトの崇神大王はその先進性に衝撃を受けて父系制を導入した。
しかし当時はまだ呪術の力が大変強くて理念倒れとなり、仏教が伝来して呪術の効力が低下し始めてから、徐々に父系制が日本列島に浸透していった。
だから古墳時代の数世紀は王権の正統性が呪術から血統主義に移った不安定な過渡期と考えられる。
まあ日本特殊な事があるとしたら、弥生人でも古墳時代からの渡来人でも、在来勢力と大規模戦争して征服した痕跡が全くない事だね。
おそらく日本に来た連中は、当時国家の圧迫から逃れて来た避難民や中国、朝鮮半島の王朝交代時に発生した政治亡命者や難民などの烏合の衆がメイン。だから征服される事なく、先進技術や文字文化だけを上手いこと摂取する事ができた。
それと縄文人は弥生人よりも1万年以上前に日本列島に来たアドバンテージがあった。それは日本各地の聖地を最初に支配出来たこと。聖地とは世俗的な力が及びにくい場所。地形や自然環境に左右されるので、かなり限りがある。地形や自然環境などは100年200年で変わるものではないので、縄文時代の聖地がそのまま古墳時代の聖地にもなっていただろうし、埋め立てなどで地形が変化した場所以外は現代でも大体一緒。少なくとも仏教伝来までは呪術に王権の正統性があったので、有力な聖地を支配していた縄文人は、先進技術では渡来人に劣るものの、呪術の力で上回っていた事で優位に立てた。
仏教が伝来すると縄文人の聖地に寺を建てるんだよね、本地垂迹とか言ってね。それ以降の日本の宗教は神仏習合という形が歴史的に一番長くなる。でも寺院の立派な本殿よりも隅っこにいる稲荷の様な神様の方が遥かに古くから日本にいる。 記紀神話自体は大昔には世界各地に似たようなものがいくらでもありふれていた。むしろ記紀神話の特殊性は記紀神話を編纂出来た事に尽きる。
あの当時でも縄文弥生期くらいの古い神話を継承している人たちは、淘汰されるか辺境にしか居なくなったからね。
でも日本では政治の中枢に強い影響力のある地方豪族がそれらの古い神話を継承していた。それで縄文弥生期以来の既に土着化していた神話を大量に取り入れる必要性が生じた。
ところがそれらの人たちの一部は中世後半になってくると、被差別民というネガティブな存在になっちゃう。
だが地域差がかなり激しくて縄文文化が濃厚だった東日本では近畿に比べて極端に少なく、鎌倉時代では皇族が移り住んでた鎌倉の一区画にしか被差別民はいなかった。
東北にはほとんどいなかったし、明治になって日本に組み込まれた北海道沖縄ではゼロ。
それに日本文化のメインストリームに縄文文化ががっちり組み込まれてたおかげで、20世紀に日本が先進国になっても縄文的感性は失われてはいなかった。
あえて飛躍するがアニメやゲームのキャラ、ゆるキャラ、萌えキャラなんかはそれこそ縄文時代の土偶を現代人の美意識に合わせてバージョンアップした様なもの。クリエイター個人の
才能だけでは説明できないほど現代日本で量産されている。
実際に外国人にはなかなかこういうキャラは作れない。欧米人だけでなくアジア人も不思議なほど作れない。
つまり縄文文化は日本の文化の古層を形成しているのである。 弥生人とされる倭人は筏船を住居にしていたので、建築に関する知識には乏しかった。そして筏船は解体すると丸太しか残らないので、遺跡として残らない。
また船上のスペースは限られているので根っからのミニマリスト。必要最低限のものしか持たない。
彼らにとってどうしても手放せないもの、信仰する神様や祭祀、神話、水田稲作、漁業、青銅器に関するもの以外はアッサリ捨てた。
彼らは水田稲作だけでなく、漁業にも大変優れていた。長江流域で発達した鵜飼の技術で鮎などの傷つきやすい魚を捕獲出来たし、潜水漁法で水中深くにいる魚や海藻、貝類も捕獲出来た。また水田養魚もやっていた。普通の漁業法では採りにくい魚介類も多かったので、食料にして余ったものは現地人と物々交換し、服や食器など生活必需品を比較的容易に入手した。
それに長江河口から直に日本列島に来た訳ではない。漢民族の圧迫を受けてじわじわと中国沿岸を北上し、朝鮮半島西岸を南下。何世代かかけて日本にやって来たので、漢服や鼎などの文化はその途上の何処かで失われた、と思われる。 倭人は水田稲作と太陽と海(航海と漁業)に深い繋がりがある。
倭人の最初の上陸地である対馬の阿連村の雷鳴神社のオヒデリ様や豆酘村に伝わる赤米儀礼と天童信仰は太陽や水田稲作に深く関連しているし、記紀神話でアマテラス女神の子とされている沖ノ島の宗像三女神も海路交通の守り神。
一口に倭人と言っても中国大陸内陸部に入っていき国家を形成した倭人は海との関連性が薄いが、日本に渡来してきた倭人はガチの海洋民。更に日本に渡来してきた倭人の中でも普通の倭人と特に航海技術に長けていた倭人グループがいて、後者がムナカタ(宗像)、スミヨシ(住吉)、アヅミ(安曇)の3グループ。
倭人アヅミ族の北部九州の初期の拠点が糟屋郡の新宮と志賀島。後の政治的事情から律令制後に国家神皇祖神に格上げされたアマテラス大神も、その頃はまだ倭人の多神教世界観の中の単なるいち太陽神に過ぎず、弥生期にはヒルメもしくはオオヒルメと呼ばれて、太陽の化身と太陽神を祀る巫女の両方の意味を持っていた、とされている。 ムナカタとスミヨシは日本と大陸や半島間のヒトやモノの運輸に携わる職能集団だが、アヅミは半農半漁の生活集団だった。普通の倭人やムナカタ、スミヨシが海岸沿岸部を居住地にしていたのに対して、アヅミは日本海側と太平洋側の両方の海岸線から、川を遡って日本列島の内陸部までに広がって行った。
アヅミという名前は海(アマ)に住む→アマスミ→アヅミに変化したと思われ、アヅミの居住地だった場所は安曇、安積、温海、渥美、熱海、弥富、泉、和泉、出水、飯泉、稲積、出海、伊豆見など日本各地に地名として残っていった。アヅミは「稲を高く積み上げた」という意味をもつ「穂積」「穂高見」という神様を信仰していたが、「ワダツミ(綿津見、海神)」という海神も信仰しており、ワダツミ神を祀った神社は内陸部にも沢山見つかる。またワダツミから和田という広く知られた地名苗字が発生。 水田稲作と太陽神と海洋性文化は日本では古くから極めて深い結びつきがある。水田稲作をやっていた部族、太陽神を信仰していた部族、海洋性の部族がそれぞれ別々に日本に渡来して日本で融合したと考えるよりも、水田稲作と太陽神と海洋性文化のワンセットを長江河口を原郷とした倭人が朝鮮半島を経由して日本に伝えた、と考えるのが妥当だろう。
紀元前1000~500年の500年間は倭人と縄文人がお互いと妥協に妥協を重ねて政治的な統合を成し遂げた平和な時代で、大規模戦争どころか局地戦の痕跡すら発見されていない。日本文化=和を重んじる文化が自然発生的に出現したと考えにくいので、この時代を出発点として歴史的和解から人工的に作られた、と思われる。とは言ってもこの時期の和を重んじる文化圏は範囲が狭くて効力も弱い無意識の文化圏だったが、長い時間をかけてゆっくり日本列島全域に浸透していった。ヤマトという言葉は元々は山の処という一般名称であったが、それが地域名となり、更に大いなる和=大和という平和を愛する理念にも次第になっていった。 甲骨文字とインダス文字に共通する特徴として象形文字と表音文字という
二つのグループから合成されていることを解説しています。
また、インダス文字が原エラム文字と非常によく似ていることは広く識られています。
>結局、殷商王朝はシュメールやペルシャインダスからの交易商人が集う活動拠点だった。
漢字はいつ生まれたか?
殷王朝の時代(BC1,700〜BC1,100年)、
紀元前1,300年頃に生まれた(漢字のルーツ甲骨文字・インダス文字・原エラム文字)
世界の象形文字・絵文字の代表的なものが
メソポタミアのシュメール文字(楔形文字)・エジプトの象形文字・中国の甲骨文字
https://members.m-gakusei.com/image/%E8%B1%A1%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97%E3%81%AE%E4%BE%8B.jpg
インダス文字と古代中国文字
https://livedoor.blogimg.jp/kuruchannel/imgs/a/3/a3630e74.jpg 中国の神話の女媧と旧約聖書の類似点
創世記 2:7
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
女媧
人間をつくった存在であるとされており、女媧が泥をこねてつくったものが人類のはじまりだと語られている(搏土造人、抟土作人)。後漢時代に編された『風俗通義』によると、つくりはじめの頃に黄土をこねてていねいにつくった人間がのちの時代の貴人であり、やがて数を増やすため縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている 20世紀になって欧米考古学者、言語学者、オリエント史学者によって解読され始めたシュメール人の文字と言語は、次のようなことが明らかになっている。
【1】シュメールの楔形文字は、漢字の形成とほぼ同じ過程を経て成立した
【2】シュメール文字は現代日本語の漢字仮名まじりと同じ構造をもつ
【3】シュメール文字は子音のみならず母音をも記す(シュメール周辺のセム系言語の文字は、子音のみを表記する)
【4】シュメール語は膠着語である
https://i.imgur.com/UiE2G30.jpeg
https://i.imgur.com/etI4ma5.jpeg
https://i.imgur.com/hdX2nYh.jpeg
https://i.imgur.com/7z9YIJu.jpeg
https://i.imgur.com/CqTxrxA.jpeg シュメール人は自らの国を「キエンギ」と呼んでいました。これは「葦の主の国」という意味になり、
古代日本の呼称である「豊葦原中国」とよく似ているのがわかります。
日本の古語で、天皇や皇族を、「スメ(皇)」や「スメラ(天皇)」と言い、
それは古代バビロニアの「Sumer(スメル)」と似ているだけでなく、
「シュメール」とも発音されていました。
ほとんどの方が「菊花紋」というと、天皇、皇室を連想することでしょう。
実は、シュメールから出土した粘土板にも、菊花紋が描かれています。 シュメールや古代バビロニアの三種の神器である
武神のシンボルの剣
日像鏡
月像の首飾り
日本の三種の神器
草薙の剣(くさなぎのつるぎ)(スサノオ)
八咫鏡(やたのかがみ)(天照大神)
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(月読命)
(シュメール神話により勾玉は月像であり、月神シン(辰)を表してる事が解る。)
中東では「勾玉」のデザインが良く使われる
欧州「ペイズリー」ペルシャ「ボテ(Boteh)」インドでは「ブータ」「カルカ」など。 日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、
草薙の剣を得たという話があります。
シュメールの神話にも、7つの首を持つ龍を退治して、剣を得たという話があります。
これらを関連付けると、
日本の三種の神器はシュメールの神から授かったものという見方もできます。
じゃあ、日本にシュメール神話を伝えた者たちが居た、中東出身説のある秦氏か???
古代バビロニアの楔形文字で書かれた粘土板の物語りを記憶してた民族て事か??? 甲骨文字(こうこつもじ)は、古代中国の遺跡から出土する甲骨
(亀の甲羅や牛の肩甲骨など)に刻みつけられた文字。
特に、殷(商)時代後期、第22代殷王武丁(紀元前13世紀半ば頃)の占卜(亀卜)
に使われた甲骨上の文字を指す。
>実はこの甲骨文字日本の神社などでは、今でも現役で使われてる事は余り知られてない。
占卜(亀卜)などを行う卜部家、お祓いをする忌部家など神官どうしの間で
密かに伝えてたんだろう。 当人たちも殷時代の甲骨文字だとは気づいて無かった、
遺跡から発掘されるまで知らなかったはず。 神代文字として密かに知られてたか??
じゃあ、神話時代の記録、固有名詞など案外正確なのかもと思ってしまう。 フィリピン ベトナム インドネシア 「日本人 - Wikipediaより」
D1a2a 0 .......0 .........0
O1b2 ..0 .... 2.9 ....... 8.0 (日本人25.1%)
(47z)
O1b2 ..0 .... 1.4 ....... 8.0 (朝鮮民族33.3%)
(L682)
C2 .. 0 .... 4.3 ....... 0.0 (朝鮮民族9.3% 漢民族華南5.0%)
>これから見るとベトナム人とインドネシア人のO1b2(47z)は、戦前の日本兵関係ないな
あれば、同数くらい (D1a2a) も出て来るはず、という事は古代中国南部からの流れか?
中国南部浙江省あたりにO1b2(祖先型 O1b2a1a (F1204)がいた。
湖南省の中国型F940も納得。そしてO1b2(47zとL682)も誕生。47zが先に済州島へか。
ベトナムは韓国軍の影響が少しあるな、ライダイハンの影響か。 「玉鉞・刻文付有孔石斧」山形県羽黒町中川代遺跡(縄文中期)
https://utukusinom.exblog.jp/27409899/
文字は「之と生の合体字?」の甲骨文字である。 日本人のY-DNA 「日本人 - Wikipediaより」
D1a2a 縄文型 39% (沖縄 55.6%)(アイヌ 75%)
O1b2 日本型 O-47z 25.1%
O1b2 韓国型 L682 8.4%
O2 漢族型 16.7%
O1b1 長江周辺型 3.8~0.8%
O1a 台湾型 3~0.9%
北ルート C2 7.8~3% (沖縄 0%)(アイヌ 25%)
西ルート C1a1 10~2.3%
遼河型 NO 5.7~3.8%
遼河型 N-M231 7.7~0.8% 岡山県古代吉備文化財センター 変化する縄文時代観 更新日:2019年10月15日更新
https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/636561.html
前者については、今から10年前に報告書が刊行された岡山県南部の総社市南溝手遺跡
の調査成果がまず挙げられる。ここでは縄文時代後期後葉(約3500年前)の
土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、大きな話題を呼んだ。
ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。
この籾痕土器のほかに、コメが作られていたことを示す証拠にはプラント・オパール
がある。プラント・オパールは、コメやススキなどのイネ科植物の葉の細胞にできる
植物珪酸体とよばれる、ガラス質細胞のことである。
プラント・オパールは植物が枯れた後も半永久的に土壌に残るため、
コメが存在していたかどうかを調べるためによく用いられる試料である。
このプラント・オパールは800℃の熱にも耐えて残るため、
土器の胎土に混入したものも調べることができる。 土器の胎土中から検出されたイネのプラント・オパールについては、
後世の混入の心配がなく、信頼性の高い資料である。最古のものとしては、
美甘村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)の事例があり、このほかに
縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
以上の証拠から、縄文時代にコメが存在したことは確実視されており、
イネの栽培が行われていたことも多くの研究者によって指摘がなされている。
ただし、イネの栽培が行われていたといっても、これまでの生業形態に新たに
稲作が加わった程度であり、稲作が生業全体の基本に位置づけられる
弥生時代とは区別して考える意見が大勢を占めている。 >プラント・オパール自身の炭素で14C年代測定を行うんだって。
プラント・オパール中の炭素による生産遺構の年代測定法の確立 [KAKEN]
生産遺構土壌から安定的に検出されるイネを中心とした
1年生イネ科植物に由来するプラント・オパールに含まれる炭素を利用して、
生産遺構の14C年代測定を行う手法の構築に取り組んだ。
その結果、年代の測定精度には検討の余地があるが、国内の生産遺構土壌については、
土壌採取からプラント・オパール抽出、夾雑炭素除去、プラント・オパール中の
炭素抽出、14C年代測定(AMS)までの各工程について、実用性や普及性を備えた条件や
方法を決定でき、生産遺構の年代を測定する一連の手法を構築することができた。 プラント・オパール中の炭素抽出とその 14C 年代測定の試み一
名古屋大学年代測定総合研究センター 宮崎大学農学部 愛媛大学文学部
皇皐館大学文学部,古環境研究所
本研究グループでは、 2010年から土壌から抽出したプラント・オパールを用いた
14 年代測定の研究に取り組んできた。本報告では、これまでの実験成果として、
(1)プラント・オパールから二酸化炭素の抽出、 (2)遺跡土壌から抽出した
プラント・オパールについて得られた 14C 年代、について述べる。
分間 RF 炉で加熱して、プラント・オパーノレ中の炭素をCo2として抽出した。
燃焼ガス中に含まれるCo2を真空ライン(写真 ,図la, lb) を用いて
精製し・分離し14C 年代測定をする。 >>33
前スレにも書いたが、O2が漢族系の一言で括られるのは残念だ
もっと解像度が高い指摘がなされるべき
例えば秦漢系にもO2a1とO2a2が居るし、分岐年代から日本にいるO2は古い系統である事を過去スレでは指摘する声もある
男系に3番目に多いハプロなのになぜか語られなくなって久しいな >中国石棚墓、済州島式支石墓、でよく似た板囲石式支石墓があった。
これで中国浙江省→済州島→九州西北部・半島西南部への可能性が出て来た。
済州島 済州龍潭竜洞4号支石墓(板 囲石式支石墓・石小屋墓)
https://www.sankei.com/article/20150807-ILYVOUMCJNKNFBP7CN3FQSAOTE/
済州島にも支石墓があるが、ここの支石墓は変わっている。墓は地上に造られていて、
板石を楕円形に立て並べた形は卓子形に通じないこともないが、印象はまったく異なる。
これとそっくりの支石墓を、実に意外なところで見た。(記者談)
「中国浙江省瑞安」には、不思議なことに支石墓(石棚墓)が集中している。
しかも、済州島の板 囲石式支石墓に酷似していた。 囲石式支石墓 (済州式支石墓)
済州式と呼ばれる囲石式支石墓は埋葬主体部が地上に露出しているが、
数枚の板石が上石の下端に沿って立てられた形態を呈する。
地上に立てられた板石の数が6枚以上で、大部分楕円形や方形に近い埋葬主体部
をなすことが特徴的である。代表的なものとして、済州龍潭竜洞4号支石墓が挙げらる。 類似する形態のものは「中国浙江省瑞安地域」でも見られる。
浙南石棚墓群(板 囲石式支石墓・石小屋墓)
https://www.zj.gov.cn/art/2020/12/3/art_1229441734_133.html
済州島の囲石式支石墓 (済州式支石墓)と比べると、
板囲い石が散らばってて印象が違うが造営時にはキチンと板石が並べられてたんだろう。 O2の王朝
秦朝 O2 始皇帝
漢朝 O2 劉邦、武帝(劉徹)、光武帝(劉秀)
蜀漢 O2 劉備
孫呉 O2 孫権
劉宋 O2 劉裕
明朝 O2 朱元璋、永楽帝
朝鮮
高麗 O2 王建
李氏朝鮮 O2 李成桂 長崎県の支石墓群(縄文時代晩期から弥生時代中期)
http://www.nagasaki-maibun.jp/news3/news2.cgi?mode=view&no=479
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16243649.html
◎ 原山(はらやま)支石墓 《長崎県南島原市》
島原半島西南部の標高240〜250m前後に立地している支石墓群です。
支石墓群は大きく3群にわかれ、合計100基近く存在しており、
わが国最大規模の支石墓群として国指定史跡に指定されています。
支石墓の下部構造は、石棺が90%程度を占め、ほかには石囲甕棺(いしがこいかめかん)、
土壙甕棺(どこうかめかん)、土壙(どこう)などが確認されています。
◎ 大野台(おおのだい)支石墓 《長崎県佐世保市》
江迎(えむかえ)川河口を望む標高50〜65mの丘陵に立地する支石墓です。
5箇所に支石墓群が確認されており、長崎県北地域では最大規模の支石墓群です。
支石墓の下部構造は箱式石棺(はこしきせっかん)が主となっています。 済州島 『三国志』『後漢書』「州胡」
耽羅(たんら)、耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記される。
耽羅の前身である州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、
鮮卑(匈奴あるいは烏桓も含む)のように髪を剃った弁髪の風習を持ち、
上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。
牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した。
これは当時の韓の風俗として記されるものと大きく異なっている。
屯(たむろ)「屯する」 耽牟羅(たむら)
@ 仲間や同じ職業の人々などが寄り集まっていること。 また、その集団・場所。
日本に来た耽羅国の使者としては、「阿波伎あわき」「姑如こにょ」「椽磨てま・たま」
「久麻伎くまき」、「都羅とら」、「宇麻うま」等の名が知られている。 済州島から上海まで約400km、
奈良時代、日本書紀には済州島から杭州湾会稽山まで2日と8時間で着いたと記録されてる。
だとすると56時間で450kmくらいか? 計算すると平均速度8.036km。
カヤックフォアでは時速20qを超えるスピード。
平均速度8.036km。で、まる2日半漕ぎっぱなして事か? 人が歩く速度が4km/h 。
ふだん漁労生活で櫓を漕ぐのは慣れたもの、少数交代で無理な数字でも無いか?
博多湾から大和まで30日だから楽勝か?? 案外、現代人が考えるよりも、長江から済州島へは頻繁に行き来してたんだろう
6000年前の福井、鳥浜貝塚なんて石斧道具類、漆塗筒形三足器や赤漆塗り櫛、
漆器類、玦状耳飾なんて河姆渡遺跡から出土するものに良く似てるもんな。 >>4
前スレ後半での過剰なO2コンプ笑える
日本の武士階級や西日本の主要な都市部に多いっていう事も弁舌が激しくなる理由なんだろうか
いくつも時の皇帝が云々統計揃えながら頭の悪そうな指摘しかしてないな
O2までのサブだけで括ってるからどうでも良いんだけどね 最古稲作遺構の菜畑遺跡には渡来人が入植した痕跡がない
青森の砂沢遺跡は前7C頃の水田遺構だが、中部地方よりも200年も先に、
関東地方よりも600年も先に稲作が始まっていた
搬入された遠賀川式土器が数点見つかっているものの、入植した事を
意味する在地産の遠賀川式土器遺構がないため、九州北部との交流を通じて
稲作を取り入れて自ら稲作を始めたものと見られる
けっきょく菜畑遺跡もこれと同じ
交流していた朝鮮南部から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕跡がない
朝鮮半島の稲作も同じだろう
交流していた遼東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕遺構がない
遼東半島の稲作も同じだろう
交流していた山東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから中国から入植した事を意味する中国土器遺構がない
稲作渡来民なんて幻想
そんなものは存在しない >>13-48
ほれ、おまえらチンコロ工作員のクッサイ人種wwww
d.パレモンゴリーデ(南蒙古人種)
茶黄色、低身短頭で、顔は丸くやや広鼻。中国南部から東南アジアに広く分布。
. >やあ楽しいな、祖先が人尿洗顔、人糞大好きな挹婁人だったと認めましょう。
挹婁(ゆうろう:扶余から独立した。人尿洗顔の習俗があった)、
勿吉(もっきつ:挹婁と同じく人尿洗顔の習俗があった)、
靺鞨(まっかつ:挹婁・勿吉の末裔で人尿洗顔の習俗があった)
その中の黒水靺鞨という一派が人尿洗顔の狩猟民族(女真)と自称した。
東夷は飲食のときに俎豆(そうず=お膳)を使うが、「ただ挹婁だけは用いない。」
法俗は最も綱紀が無い (最悪の無法者)なり。日本人が連想する姿にソックリ。
秋冬に人が死んだらその遺体を貂(テン)狩りの餌として使用するため、
野に遺体を置いて貂(テン)に食わせ、そのすきに貂(テン)を捕獲する。 イザベラ・バードの「朝鮮紀行」
“私は、なんと、小便で顔を洗うところを目撃したことがある。
その人が言うには、「肌艶がよくなる」と。
さらに、室内に真鍮製の溺壺(しょうべんつぼ)を置き、客を迎える席でも、
これを目につかない場所に移すようなことはしない。
そればかりか、尿意を催すと、すぐにこれをとって用を足し、
また傍らに置く"(「便所」より) >>48
ほれ糞喰いw
ウンコを食べるのは中国文化(嘲笑
嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって
診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。
儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。
中国
故事「嘗糞憂心」
排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、
勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに
治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を
由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の
度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、
苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。
その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に
よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に
便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って
舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを
祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や
寺子屋の教材にも採用されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E
. 【衝撃!】併合当時、朝鮮人は小便で顔を洗い、小便を飲み、大便を食べていた!
最近朝鮮事情 図書 荒川五郎 著 清水書店, 明39.5
1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0
・衛生観念は全く無く、獣に近い
・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので
仕事をしないで呆然としている。雨が降ると動かないので雨具が無い。
日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。ようは治水という概念が無い。
・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。
とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=56&ITYPE=0
・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。
とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮_人にとっては一緒だ。
・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。
・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。
・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。
・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れている
が、朝鮮_人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。 ・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。
また、痰を吐くときは口の近くに小便壷を持ってくる。
・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、
家の中の物が水に浸るが、洗うという事はしないでそのまま使っている。
・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない
黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。 >>48
ほれ糞喰いw
ウンコを食べるのは中国文化(嘲笑
嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって
診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。
儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。
中国
故事「嘗糞憂心」
排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、
勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに
治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を
由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の
度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、
苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。
その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に
よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に
便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って
舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを
祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や
寺子屋の教材にも採用されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E
. >>48
ほれ糞喰いw
ウンコを食べるのは中国文化(嘲笑
嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって
診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。
儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。
中国
故事「嘗糞憂心」
排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、
勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに
治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を
由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の
度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、
苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。
その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に
よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に
便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って
舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを
祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や
寺子屋の教材にも採用されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E
. ウンコを食べるのは中国文化(嘲笑
嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって
診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。
儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。
中国
故事「嘗糞憂心」
排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、
勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに
治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を
由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の
度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、
苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。
その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に
よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に
便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って
舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを
祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や
寺子屋の教材にも採用されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E
. >>55
劉備のハプロがO2っていう話をしてる過去スレを漁ってたら、当時は「コリアンヒーロー」って銘打って藤原氏のO1b2馬鹿にしてたヤツ居るが
ソイツとなんとなく文体が似てる気がする O2=漢民族だからな、反中感情が高い今は嫌悪国だろな
日本人にも16%くらい居るから被害者だろな。 >>28
秦氏の末裔は日本から出て中東インド中国経て戻って来たと言ってるんだけど 最古稲作遺構の菜畑遺跡には渡来人が入植した痕跡がない
青森の砂沢遺跡は前7C頃の水田遺構だが、中部地方よりも200年も先に、
関東地方よりも600年も先に稲作が始まっていた
搬入された遠賀川式土器が数点見つかっているものの、入植した事を
意味する在地産の遠賀川式土器遺構がないため、九州北部との交流を通じて
稲作を取り入れて自ら稲作を始めたものと見られる
けっきょく菜畑遺跡もこれと同じ
交流していた朝鮮南部から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕跡がない
朝鮮半島の稲作も同じだろう
交流していた遼東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕遺構がない
遼東半島の稲作も同じだろう
交流していた山東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから中国から入植した事を意味する中国土器遺構がない
稲作渡来民なんて幻想
そんなものは存在しない >>59-61
ほれ、おまえらチンコロ工作員のクッサイ人種wwww
d.パレモンゴリーデ(南蒙古人種)
茶黄色、低身短頭で、顔は丸くやや広鼻。中国南部から東南アジアに広く分布。
. 大阪に見るO2の方々(日本人に出た系統のごく近縁のみ抜粋)
いずれも古い順。
パーセンテージはY全体より。なお1%以下は検討を省略
O-F11(大阪や広島に顕著に多い)9.2%
中国河北1、中国河南1
O-M134 5.8%
韓国5、中国遼寧1、中国河南1
中国江蘇1、中国不明2、中国広東1
中国湖南1、中国黒龍江1
中国河北1、中国北京1
密な近隣なし2
O-M117(page23) 6.7%
中国不明2、中国広東1、中国湖南1
密な近隣なし2、韓国1、中国黒竜江1
中国河北1、中国北京1
O-M188 2.5%
韓国2(近隣だけで2つ。このサブグレードは
日本以外すべて韓国と北朝鮮。
総数は韓国8、日本1、北朝鮮1) 最新の遺伝学により人生を否定された哀れなおっさんの断末魔は酷く醜い 参考(O2a1c)
東京にのみ5%みられる
O-IMS-JST002611
韓国2、中国江西1、中国不明1
中国河北2、中国甘粛1
中国河南1
東京のO-M188は5%で西日本の2倍います
西遼河系の核心部分か 最新の遺伝学により人生を否定された哀れなおっさん=考古学厨の断末魔は酷く醜い 土イジリしか取り得のない考古学厨の断末魔は酷く醜い
最新の遺伝学により人生を否定された哀れなおっさん 俺の人生を返してくれ〜〜〜 最古稲作遺構の菜畑遺跡には渡来人が入植した痕跡がない
青森の砂沢遺跡は前7C頃の水田遺構だが、中部地方よりも200年も先に、
関東地方よりも600年も先に稲作が始まっていた
搬入された遠賀川式土器が数点見つかっているものの、入植した事を
意味する在地産の遠賀川式土器遺構がないため、九州北部との交流を通じて
稲作を取り入れて自ら稲作を始めたものと見られる
けっきょく菜畑遺跡もこれと同じ
交流していた朝鮮南部から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕跡がない
朝鮮半島の稲作も同じだろう
交流していた遼東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕遺構がない
遼東半島の稲作も同じだろう
交流していた山東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから中国から入植した事を意味する中国土器遺構がない
稲作渡来民なんて幻想
そんなものは存在しない >>74-79
ほれ、おまえらチンコロ工作員のクッサイ人種wwww
d.パレモンゴリーデ(南蒙古人種)
茶黄色、低身短頭で、顔は丸くやや広鼻。中国南部から東南アジアに広く分布。
. 最古稲作遺構の菜畑遺跡には渡来人が入植した痕跡がない
青森の砂沢遺跡は前7C頃の水田遺構だが、中部地方よりも200年も先に、
関東地方よりも600年も先に稲作が始まっていた
搬入された遠賀川式土器が数点見つかっているものの、入植した事を
意味する在地産の遠賀川式土器遺構がないため、九州北部との交流を通じて
稲作を取り入れて自ら稲作を始めたものと見られる
けっきょく菜畑遺跡もこれと同じ
交流していた朝鮮南部から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕跡がない
朝鮮半島の稲作も同じだろう
交流していた遼東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕遺構がない
遼東半島の稲作も同じだろう
交流していた山東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから中国から入植した事を意味する中国土器遺構がない
稲作渡来民なんて幻想
そんなものは存在しない >やあ楽しいな、祖先が人尿洗顔、人糞大好きな挹婁人だったと認めましょう。
挹婁(ゆうろう:扶余から独立した。人尿洗顔の習俗があった)、
勿吉(もっきつ:挹婁と同じく人尿洗顔の習俗があった)、
靺鞨(まっかつ:挹婁・勿吉の末裔で人尿洗顔の習俗があった)
その中の黒水靺鞨という一派が人尿洗顔の狩猟民族(女真)と自称した。
東夷は飲食のときに俎豆(そうず=お膳)を使うが、「ただ挹婁だけは用いない。」
法俗は最も綱紀が無い (最悪の無法者)なり。日本人が連想する姿にソックリ。
秋冬に人が死んだらその遺体を貂(テン)狩りの餌として使用するため、
野に遺体を置いて貂(テン)に食わせ、そのすきに貂(テン)を捕獲する。 イザベラ・バードの「朝鮮紀行」
“私は、なんと、小便で顔を洗うところを目撃したことがある。
その人が言うには、「肌艶がよくなる」と。
さらに、室内に真鍮製の溺壺(しょうべんつぼ)を置き、客を迎える席でも、
これを目につかない場所に移すようなことはしない。
そればかりか、尿意を催すと、すぐにこれをとって用を足し、
また傍らに置く"(「便所」より) 衝撃!】併合当時、朝鮮人は小便で顔を洗い、小便を飲み、大便を食べていた!
最近朝鮮事情 図書 荒川五郎 著 清水書店, 明39.5
1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0
・衛生観念は全く無く、獣に近い
・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので
仕事をしないで呆然としている。雨が降ると動かないので雨具が無い。
日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。ようは治水という概念が無い。
・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。
とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=56&ITYPE=0
・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。
とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮_人にとっては一緒だ。
・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。
・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。
・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。
・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れている
が、朝鮮_人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。 ・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。
また、痰を吐くときは口の近くに小便壷を持ってくる。
・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、
家の中の物が水に浸るが、洗うという事はしないでそのまま使っている。
・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない
黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。 >>66
比重において重要な主成分が語られずなぜかハプロのみで民族だけ語ってる現状だからな Yハプロが標識みたいなもので、母系なんか関係ないのさ父系血統主義。 だいたい漢民族っていう主語が大きいんだよ
鮮卑でさえ複数の部族の連合体だったし、その鮮卑も漢民族の内の小民族
日本民族は縄文人も弥生人も含む上、
近年の研究ではその縄文人も8つの祖先集団で構成され、そのルーツは沖縄にある事が分かって来ている
弥生人も渡来系氏族の総称なのは昔から変わらず、その渡来系もいくつも氏族が存在して渡来時期もまちまちなのが省略される傾向にある
謎の古墳時代人も薄々存在が明らかになってきたし、一概に主体性や前身を演繹的に定義出来ない
近年の研究内容から厳密に定義されるべき内容 漢民族って曖昧で、誰ってなるけど
中国では自称だから誰でも漢民族になれる。 漢民族とか大和民族みたいなもんだろ
まあ、言える事はD系統の縄文系とO系統の渡来系(ほとんど朝鮮人)は全くの別人種だった、という事実 秦氏なら京都の葛野、太秦にゆかりがあって
対馬の壱岐氏にしたがって(?)月神を奉り、
月桂の名の通り右京の桂(川)の由来となった
広隆寺も行ってみれば分かるが見ただけで
相当に古い雰囲気がある。右京が全体として
昔の雰囲気をしている。昭和とかそういうのじゃなく
また秦氏は酒造と芸能を招来したといい
より古くは亀卜をもたらしたかもしれない
蘇我の没落の割をくらい、秦河勝のときに
播磨の赤穂にまで落ちのびた
現代では川勝と名を変えた子孫が静岡県で
知事の職を得て国家事業を10年遅延させた末
舌禍の責任を取り再来月に辞職することになった The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。 Korean and northern Han Chinese had frequent communications in ancient time, and the divergence time between the two populations was estimated as ~ 1.2 KYA (corresponding to the later period of Three Kingdoms of Korea, or the Tang Dynasty in China).
中国人と朝鮮人の分岐は1200年前
And Japanese and Korean separated ~ 1.4 KYA, a little earlier than that of Han Chinese and Korean (corresponding to Asuka period in Japan, or in the middle of Three Kingdoms period of Korea).
朝鮮人と日本人の分岐は1400年前 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています