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邪馬台国畿内説 Part1020
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0001◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:35:34.78
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1714717130/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:36:31.78
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:37:07.29
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:37:54.34
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:38:37.72
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:39:20.57
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:39:59.20
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:40:44.72
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:41:47.86
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:42:46.97
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:43:35.61
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:44:25.37
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:45:11.56
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:45:53.60
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:46:35.23
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:47:14.22
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:47:51.94
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:47:52.47
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:48:33.99
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0020◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/06(月) 09:49:15.67
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 09:57:05.91
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6 ころころ
垢版 |
2024/05/06(月) 10:01:00.90
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない
0023◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:01:56.04
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:02:36.32
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:03:14.87
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:04:00.93
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:04:42.10
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:05:27.97
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:06:07.42
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:06:50.71
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:07:32.99
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:08:18.89
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:09:02.88
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:09:43.21
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:10:23.07
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2024/05/06(月) 10:11:03.49
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
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2024/05/06(月) 10:11:45.45
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質であ
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2024/05/06(月) 10:12:30.79
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2024/05/06(月) 10:13:15.66
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
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2024/05/06(月) 10:14:00.95
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2024/05/06(月) 10:14:38.62
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2024/05/06(月) 10:15:24.82
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
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2024/05/06(月) 10:16:05.92
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
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2024/05/06(月) 10:16:51.15
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
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2024/05/06(月) 10:17:29.10
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2024/05/06(月) 10:18:13.44
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:18:14.67
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0048◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:19:01.53
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0049◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:22:47.47
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:23:28.38
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
0051◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:24:06.15
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:24:46.53
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:25:45.04
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:26:26.90
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:29:19.46
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
0056◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:29:19.86
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
0057◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:30:10.36
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
0058◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:30:52.69
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである
0059◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:31:35.11
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0060◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:32:14.82
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0061◆ondZSOlfxeS6 ころころ
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2024/05/06(月) 10:32:53.17
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0062◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:33:37.01
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0063◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:34:18.60
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0064◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:34:57.15
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0065◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:35:36.38
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0066◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:36:20.43
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2024/05/06(月) 10:37:02.93
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0068◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:37:40.15
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0069◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:38:28.18
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0070◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:39:06.59
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:39:42.90
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:40:17.71
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:40:59.56
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0074◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:41:36.85
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0075◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:42:10.30
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0076◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/06(月) 10:42:44.77
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0077日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 11:25:24.60
まずヤマト王権の正体を整理すると、

前方後円墳は、葺石のある出雲四隅突出墓と吉備楯築弥生墳丘墓の融合であって、弥生畿内の方形周溝墓じゃない。
また埋葬主体部は木棺+竪穴式石室であって、北部九州のような甕棺や石棺を直接土葬する「有棺無槨」ではない。
さらに副葬品は三種の神器(平原遺跡に初出)であることから、ヤマト王権は北部九州による征服であって、畿内自生ではない。

というわけで、汚舞らやテンプレ>>1-76のコピペ廃人も、畿内(実は東遷)説に汚染されるまでは、こんな理解↓だったんジャマイカ?w
https://pbs.twimg.com/media/GM0UDmQaoAA2Aif?format=jpg&name=medium
0078日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 12:31:47.49
>>77
九州説は奴国(福岡市)と狗奴国(熊本県菊池市以南)の間に、
投馬国と邪馬台国と
「遠くて戸数・距離がわららない国々」を狭い範囲に詰め込まないと成立しない

しかも「女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、
それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。」(魏志倭人伝)

というのもおかしい
九州説では北の国々を回って南下して邪馬台国に入ったはずで
あたかも、「北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが」と北には入ってない口ぶり
「それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。」
これも、九州説ではさらに北の朝鮮半島から来たはずなのにわからないという
0079日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 12:39:56.43
>>78
雑多とか言いながら一義的に九州説を論じるんだな
0080日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 12:45:56.54
>>79
欠陥は同じだから
0081日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:46:30.70
みんな、やっと判ったよ!つまり⇩こういうこと⇩だったのです!

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg
後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通り過ぎた筑紫(↑則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMTfAfuaEAEBmVS?format=jpg

陳寿(帯方郡使・張政ら)も、范曄も、裴世清も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3都ともすべて「ヤマトYAMATO」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人も全部混同しちゃうってわけw

でゎ、【山門(▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)】が【大和】という漢字表記になった経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告に驚いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤が脆弱で跡継ぎもおらず、軍事や政治にも明るくないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権と養子縁組した上で倭王位を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を養母(前女王)台与のために築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)にそのまま「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけw (๑•᎑<๑)ー☆
0082日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:49:34.71
>>78
末盧と伊都(魏略説1万戸採用)、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国を足すと、15.5万戸
それに傍国21ヶ国を足すと20万戸は超えるでしょう
傍国21ヶ国を足さなくても、高句麗8万戸の倍、傍国21ヶ国を足すと大月氏10万戸の倍になると思われる

そのような超大国が北部九州だけにあるという珍説が九州説ですね
0083日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 12:50:36.86
>>77

木棺+竪穴式石室だから「有棺無槨」
平原のサビ色塗装鏡は畿内にはない、というか中国にもない
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:51:52.90
>>81
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいて河内湖の干拓とかしてたんだけど、南朝に朝貢して安東大将軍号を得て半島派兵がすっかり軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営(本陣)として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、筑紫(九州)にいた方が何かと便利じゃね?河内&大和には分家(留守番)置いとけばいいんじゃね?wという話にだんだんなってきて、ついに527年筑紫君磐井の乱の鎮圧をキッカケに、継体が三男欽明を分家(留守番)として河内(大和)に残して、阿蘇邪靡堆(山外=阿蘇外輪山)に西遷しちゃったんだよ!

その名残が、継体が(子飼いの武寧王を傀儡として百済を完全な属国にしたことから)中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて創始しちゃった(中華皇帝=宇宙の支配者による冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁淡海(✕琵琶湖○有明海)、そして新羅からの朝貢で図に乗って607年隋の煬帝に「日出処天子」を名乗っちゃった阿毎多利思比孤(天から垂れた彦=大王)。そして大和にいた分家(留守番)欽明(継体三男)の孫・推古と摂政厩戸王子。

その後、天智の代で阿蘇山が大噴火して都の阿蘇邪靡堆(山外)が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を逃げるように近江大津宮へ東遷。そして大和分家の天武と合流して(天智天武兄弟の秘密)、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差すことが確実な継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中華皇帝(宇宙の支配者)とはほぼ無関係だった大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条)
v(^^
0085日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:53:55.32
>>84
⇩倭王都の変遷だよ!(´。✪ω✪。 ` )

漢委奴国王(博多)
└帥升(糸島)倭面土国
━倭国大乱━
卑弥呼・台与(吉野ヶ里)邪馬台=脊振【山】南麓の舌状【台】地
━魏晋禅譲━
崇神朝(大和)山門(▲二上山▲河内平野⇔大和盆地出入り口の門柱)
━香坂忍熊の乱━
応神朝(筑紫⇔河内)倭の五王「讃珍済興武」本陣・宇佐八幡宮
━磐井の乱━━
継体朝(阿蘇)邪靡堆=【外】輪【山】ピンク石棺、万葉集の鯨漁淡海=有明海
└九州(倭国独自)年号「日出処天子」阿毎多利思比孤→世界帝国唐の皇帝への朝貢外交の邪魔(記紀が抹消)
━阿蘇山大噴火━
天智朝(太宰府)
━白村江の戦い━
天智朝(近江大津宮)
━壬申の乱━
天武朝(飛鳥藤原京)
0086日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 12:55:02.75
一人一説雑多九州小説は、
実は邪馬台国はちっちゃいんだと言っている
なので7戸でもいいのかと聞いてるのだが返事がない
0087日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:55:32.16
近畿一円を邪馬台国にする方が珍説だと思う

畿内説による奴国、投馬国、邪馬台国の人口密度

奴国ニ万戸=旧那珂郡 約430km2
→46.5戸/km2

投馬国五万戸=中国地方 31,920km2
→1.6戸/km2

邪馬台国七万戸=近畿地方 33,110km2
→2.1戸/km2
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:56:52.72
戸数に拘ってるやつは
里数に拘って短里はあったんだと言ってるやつと同類
比率は正しかったはずだとか言ってることがそっくり
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:58:00.46
だから何戸なのか?
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:58:13.23
>>88
奴国2万戸なのに、実は投馬国は1万戸しかなくて、邪馬台国も1万戸しかないと考えるのか?
荒唐無稽すぎる
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:59:36.29
奴国も2戸に減らすんじゃないか
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 12:59:42.48
>>87
後にヤマト王権が日本を統治することは確実なので無意味な数字
日本の方がアメリカよりはるかに人口密度が低いので、日本の方がアメリカより超大国だと言うのと同じ
0093日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:00:10.11
>>85
つまり九州説+九州王朝(修正)説が正解だったということだね
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:01:23.34
まだ偽書の会とかやってるのかよ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:05:54.80
>>87
平安時代末期の博多 1300家(約8千人)
明治時代初期の博多 4万6千人

古代奴国は平安末期の10倍、明治初期の2倍の人口密度だな
0096日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:06:36.94
>>83
>木棺+竪穴式石室だから「有棺無槨」

???   竪穴式石室ということは、「有槨」   @阿波
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:06:55.66
8世紀律令制の概念「畿内」説!w
0098日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:07:27.43
>>95
だから?
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:11:18.61
>>97
邪馬台国とは畿内の領域ではない
畿内第V様式圏が邪馬台国の領域である
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:11:21.15
>>98
アホはおかしいと思わんの?
0103日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:14:07.01
>>101
どう正すべきか説明してごらん
0104日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:14:57.74
古代の九州北部の人口が韓国より多かった、と言ってるのが九州説
0105日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:18:40.83
なんか新情報ねえの(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)
0106日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:20:34.20
7万戸は日本の戸数、5万戸は半島の倭人の戸数、奴国に相当する場所は今のところ無いな
0107日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:20:36.33
7万戸は日本の戸数、5万戸は半島の倭人の戸数、奴国に相当する場所は今のところ無いな
0108日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:22:32.95
人口密度ランキングナンバーワンはモナコ公国
シンガポールは2位
3位バーレーン
4位モルディブ
5位マルタ
6位バングラデシュ

ここからは非独立(香港、マカオ)などを含めたランキングになるが、
台湾17位、韓国26位、日本43位、中国86位、アメリカ180位となり、  
・シンガポールはアメリカより上
・日本は中国より上
・台湾、韓国は日本より上
ということになる。人口密度だけでランキングを考えれば
0109日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:23:16.80
>>95

平安末期の商都博多と奴国は領域が違う
0110日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:24:00.28
>>99
お前がしきりに言っているそのピンクの石は、徳島県の石に選定されている「紅簾片岩」だろう。

『日本地質学会が「県の石」選定』
徳島県は岩石が「青色片岩」 鉱物が「紅蓮石」 化石が「三角貝」
その「紅蓮石」は、勾玉製作に必要不可欠な石。

「伊加々志神社」の境内にある崇神天皇を祀っている「王子宮」?に使われている。   @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/10039623/
0112日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:28:34.21
わかってる事は半島と列島を併せた倭人居住地が倭国で列島だけ指す場合は倭奴国で日本語では邪馬臺国
半島の倭人居住地の国名はわかんないな
0113日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:29:33.88
「紅蓮石」は、濃い紅色や桃色をした長柱状の結晶で、

眉山を訪れた明治時代の地質学者が世界で初めて発見したとされている。   @阿波
0114日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:31:03.12
結局魏志倭人伝に何一つとして一致していない畿内説が、唯一一致させられたのは箸墓の築造年代だけってことか…
0115日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:31:36.46
平安末期の博多は清盛が貿易港(袖の湊)を整備し
宋人が多勢居住した筑前のごく一部の都市
0116日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:32:19.66
まぁ、古代は何から何まで、「阿波」繋がり。   @阿波
0118日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:33:29.17
応神天皇の遠祖が宇佐国造だからくらいしか
材料がないな。火国造と宇佐国造は同族みたいだから
0119日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:34:34.23
人口密度だけで言うなら、那覇市、浦添市、宜野湾市の方が福岡市より高い

宜野湾市は普天間飛行場に4分の1を取られてもこの数字だ
宜野湾市の方が福岡市より上だ
0120日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:37:19.54
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
伊勢神宮の創建時期とも合致してて作り話として妥当なところか
0121日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:37:34.38
>>117
理化学的年代測定法では一致している
AMS法でも酸素同位体比年輪年代法でも一致した
ただし、橿考研などは箸墓古墳は260〜280年としているのは事実
逆に、歴博の学者は箸墓卑弥呼の墓説だ
0122日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:38:30.83
福岡市の人口密度は、沖縄県与那原町や南風原町といい勝負だな
0123日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:41:55.20
>>117
倭人伝の邪馬台国と畿内説が一致するのは箸墓の築造年代だけだが、この状況で30万㎥の版築&葺石(吉備特殊器台職人、飯炊き女など間接労働も入れて総勢135万人必要)は無理っしょ!w
しかも247年時点で戦争してる東海狗奴国が手伝ってる矛盾はどうしようもないw

其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
0125伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2024/05/06(月) 13:42:09.18
阿蘇溶結凝灰岩と紅簾片岩は成分も成り立ちも違う。

思い付きで横から茶々入れるのは失礼ですよ。
0126日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:43:45.45
人口密度だけで言うなら
6畳一間に家族6人で暮らしてる家が高い
0127日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:45:42.77
>>123
纒向の建設は早ければ180年頃であり、問題ない
纒向は25%が他地域から来た人々で建設されている
他の遺跡の5%の5倍
仮に、狗奴国東海説を採用しても問題ない
狗奴国は張政の訪日で戦わずして和解したと見られる
0128日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:45:45.72
>>125
まず、間違いなく紅簾片岩だろう。 阿波の青石といっしょに「阿波」から運ばれたものと思われる。

熊本から来る訳がない。 他に熊本由来の物があるならともかく。   @阿波
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:50:08.80
那覇市の人口密度は福岡市の約2倍
那覇市が邪馬台国だったのだ!
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:52:56.48
>>87
旧那珂郡の人口密度は沖縄県の密度より低いな
那覇市の10分の1以下じゃないか
0131日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 13:56:52.41
まず遺跡を掘り出してから言ってくれんかなあ
なんも無い所を比定されても
九州で商都に相応しいのは今のところ壱岐原の辻遺跡だと思うが
0132伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/05/06(月) 13:57:21.36
>>128

藤井寺市のサイトより。

>熊本大学の渡辺一徳さんと宇土市教育委員会の高木恭二さんによって石材に含まれるガラス成分の分析が進められ、新しい研究成果が発表されたのです。
>これによると、1号棺は従来の推定のように阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)だったのでbキが、2号棺も同じく阿蘇溶結凝灰岩を石材としていることが確実になったのです。
>2基とも遠く九州からはるばる大阪に運ばれてきたのです。
>ただ、両石棺は、同時期に造られたものではなく、まず1号棺から造られ、少し後に2号棺が造られた可能性が高いと考えます。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:58:50.29
奴国は儺県と理解すれば良い
データが上振れするように那珂郡だけで
面積を取り出しているからおかしなことになる

出雲と宇佐の距離を比較した珍妙な地図と同じで
やることが姑息
0134日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 13:59:51.38
世界一人口密度が高いのはフィリピンのマニラ 46,177(人/㎢)
0135日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:02:10.18
右翼の結びチャンネル?とかいうのが邪馬台国沖縄説とか言ってて失笑したな
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:03:32.72
>>132
で、紅簾片岩との比較はしているのか?  阿波の紅簾片岩を認知していたのか? はなはだ疑わしい。

もし、これが 阿波の紅簾片岩なら、言い出しっぺは・・・   @阿波
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:03:50.18
阿蘇溶結凝灰岩とやらもタダで手に入れたと考えるからおかしい
切り出して職人さんが加工したものを買ったと考えなきゃ
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:05:05.57
>>136
おい、見苦しい
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:07:34.94
熊本の石棺は結構畿内に入ってきてたから流行ったんだろう
0141日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:12:38.67
>>140
熊本から来る訳がない。 他に熊本由来の物があるならともかく。   @阿波
0143日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:14:44.93
ここにいる阿波説以下の素人YouTuberが、萩原1号が中国産水銀朱を使っており、この時代には阿波の水銀朱は枯渇していたって言ってたな
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:16:14.86
継体天皇のための特別チョイスてわけではなさそうだな
0145日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 14:18:06.83
>>143
>萩原1号が中国産水銀朱を使っており、この時代には阿波の水銀朱は枯渇していたって言ってたな

枯渇ではなく、「卑弥呼」時代は「狗奴国」と不仲だったので、一時的に水銀朱が入手しにくかったんだろう。   @阿波
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:19:48.94
岸本直文は邪馬台国以来2人の王(神聖王と執政王)がいたが、継体天皇の時に統一されたと言ってるな
0147日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:19:53.36
萩原1号から🥇画文帯神獣鏡が出てるから
ホケノ山の縁者でかつ魏人の技術者と懇意にあったはず
徳島で朱が不足したかどうかは関係ないな
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:26:55.81
>>148
だから近畿で流行ったんでしょう
ただ近畿の石棺は5世紀辺りだからちょっと時代が違うな
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:27:20.58
>>85
>>146
河内朝では大王陵に加え、皇后陵も造っていただけで、
それが継体朝で、執政王(安閑宣化→阿毎多利思比孤→天智・九州本家)と祭祀王(欽明→推古→天武・大和分家)に分かれたのではないか?

確かに真の継体とされる今城塚古墳の阿蘇ピンク石の話は注目に値する。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:28:30.32
>>90
ほら短里を主張してる人とそっくり
瓜二つ
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:29:07.16
まとめると、

崇神朝=大王墓のみ
河内長=大王墓+皇后墓
継体朝=九州本家墓+大和分家墓
0153日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 14:30:16.30
>>149
>だから近畿で流行ったんでしょう

まぁ、阿波の青石より紅簾片岩の方が珍品貴重だな。   @阿波
0155日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:31:15.32
収租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之
魏志倭人伝に書いてあるまさにこれで市を開いて過不足なく行き渡るようにしてた
阿蘇のピンク石が欲しい奴が買っていった
0156日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:33:20.32
@まず【魏人にしか書けない里数表記(倭人不知但計以日)】の「女王国(九州)東渡海【千里】(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、人長三四尺(少彦名)去女王【四千里】(300q)」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官、狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

そして「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GM0UDmQaoAA2Aif?format=jpg
0157日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:34:16.71
>>155
「収租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之」

これは、大河吉野川流域の国々のことだな。   @阿波
0158日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 14:37:20.37
>>156
ちなみに、日向投馬(都萬)国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇あたり)にあり」とする魏の誤認で、会稽郡(東治→東冶)間の580km(倭地に牛馬なし→徒歩で30日×19km)の転用だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GMTLWv_bEAAXS_g?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)にあり、宿敵・孫権を牽制してくれようとしている可愛い東夷という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

※魏志倭人伝の蛇足(魏の誤認)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
.........................↖投馬国(都萬・耳川)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖誤認
0159日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 14:37:27.85
>>151
短里はない
それぞれの千里の実距離

・遼陽(遼東郡治)→集安(国内城)250km
・遼陽(遼東郡治)→桓仁(卒本)180km
・遼陽(遼東郡治)→平壌(楽浪治)330km
・撫順(玄菟郡治)→吉林(夫餘東団山城)320km
・吉林(夫餘東団山城)→佳木斯(挹婁滾兎嶺土城 )480km
・鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) 220km
・鳳山(帯方郡治)→金海(狗耶韓国) 450km

・狗邪韓国→対馬千里(遠い方にとって100Km)
・対馬→壱岐千里(約60Km)
・壱岐→末盧千里(約30Km)
・関門海峡渡海千里(数Km)
0160日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 14:44:48.34
鳳山(帯方郡治)→金海(狗耶韓国) 千里450kmは注目

帯方郡→狗邪韓国までは船で行くと7000里なのに、直線距離だと1000里と表記されている
里数は九服之制による天下観念の距離であり、実際の距離ではない
0161日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 14:48:32.96
「阿波石」とは、徳島県に産する泥岩です。青石と赤石があり、石種は青石が緑泥片岩(りょくでいへんがん)、赤石が紅簾片岩(こうれいへんがん)となります。
産出量は青石のほうが多く、その地層に挟まれるようにして赤石が出てきます。従って、赤石の大きな原石は特に貴重で、高価に取り引きされます。
なお、硬度は赤石の方が勝っています。   @阿波
https://greenfields-729.com/archive/old/talk/stone/016.htm#:~:text=%E3%80%8C%E9%98%BF%E6%B3%A2%E7%9F%B3%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81,%E8%B5%A4%E7%9F%B3%E3%81%8C%E5%87%BA%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
0162日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:06:02.70
邪馬台国までの里数は不明のため、誰かに聞いた日数としたわけで、
その誰かが戸数も教えてくれたとして、魏使が調査したものとはカウント法が違うかもしれないし、
時期が全然異なっているかもしれない

戸数を同列で比較するのは無理だろう
倭人は戸数の意味が分からず、人数を答えたのかもしれない
0163日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:06:33.85
纏向の建築物は環濠や城柵が出土していないから初代の発掘責任者も
纏向は邪馬台国では無いとはっきりと断言しているし、最近も橿原
考古学研究所を退職した人が退職した途端に纏向説を否定する本を
出版したのには笑い転げた、所内では思った事が言えない中国の
ような雰囲気が漂っていると思う
0164日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:10:12.57
>>162
が、壱岐3千家、末盧国4千里、奴国2万戸を考えると、割合は一定と見るべきで、投馬国、邪馬台国を奴国以下と考えることは不可能
0165日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:10:15.80
>>117
木槨に4世紀前半の木材が使われていたホケノ山古墳で明らかなように、前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に【木】棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する【甕】棺墓や【石】棺墓)の象徴ではありません。
畿内説の皆さんは、槨の定義より、棺の材質【木】か【石】かに着目してくださいね。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形式の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+(【斜縁】に銅鐸紐の鋸歯紋▲▲▲を入れた)【三角縁】神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:11:49.84
>>163
引退した人で纒向説を否定しているのは関川だけ
今や纒向説はさらに強まっている
0167日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:12:57.30
箸墓古墳の築造年代について

Wikiより
奈良県立橿原考古学研究所は(箸墓の)築造時期を280〜300年(±10〜20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。また同研究所が箸墓古墳に先行するホケノ山古墳の築造年代について、平成20(2008)年の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、木槨木材のC14炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しており、さらにC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出る例が続出していることから、(箸墓だけでなく)この墓も卑弥呼の墓である可能性は限りなくゼロに近いとする意見を紹介している。
0168日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:15:22.78
>>163
つまり畿内説が邪馬台国に一致させれたのは箸墓の築造年代だけ。
しかもホケノ山の木槨に4世紀前半の木材が使われていたことから、それも一致していないことが判明。
>>167
0169日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:16:17.81
>>167
批判を受けて歴博が14Cをやり直すと、やはり240〜260年と出た
さらに、名古屋大の中塚氏の酸素同位体比年輪年代法でも同様の結果が出た
0170日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:18:09.79
橿考研を引退した寺澤は箸墓は卑弥呼の墓じゃないと言ってる一方、邪馬台国は纒向であり、邪馬台国はヤマト王権であり、邪馬台国論争を終わらせるべきだと述べている
0171日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:18:24.72
>>169
畿内説の牙城・歴博ってとこが怪しいなw
C14炭素年代法は実年代より100年近く古く出るから、実際の年代は340〜360年だろう
0172日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:20:55.64
>>171
との批判を受けて歴博は、較正をやり直したがやはり同じ結果が出た
また、全く別の手法である名古屋大・中塚氏の酸素同位体比年輪年代法も同様の結果が出た
0173日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:23:56.58
>>170
名古屋大も畿内説の牙城w 
やはり公金チューチューの考古学者が畿内説ありきでたくさん論文書いちゃってるから、もう今更引くに引けないのだろうw

ホケノ山の木槨に4世紀前半の木材が使われていたことなど、完全に黙殺してるしw
0174日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:27:43.72
寺澤と言う人物も分裂症の思考をするな、卑弥呼の墓も邪馬台国も
北部九州にあったと考えるのが正解、邪馬台国は吉野ケ里で墓は
糸島市の平原王墓と言う事
0175日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:32:08.16
>>170
それじゃ戸数に拘ってる人が馬鹿みたいじゃないですか
0176日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 15:32:50.46
橿考研は箸墓を3世紀後半と維持する一方、ホケノ山は3世紀中葉、もしくは3世紀前半の可能性もあるとホームページで元副所長の岡林氏が述べている
また、通常箸墓古墳から始まる250年から古墳時代説ではなく、ホケノ山の段階からすでに古墳時代は始まっていたと述べている
0177日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:32:55.73
>>166
>今や纒向説はさらに強まっている

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い纏向をか?   @阿波
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:38:19.00
ホケノ山の炭素C14年代が4世紀前半って木槨じゃなくて小枝だろ
0180日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:38:54.93
橿考研は箸墓3世紀後半説を維持する一方、桜井茶臼山の銅鏡103面(盗掘済みでこれ)を確認し、「3世紀末の奈良盆地には圧倒的な王権が存在した」(所長青柳氏)
「他の追随を許さない圧倒的な王権」(元副所長岡林氏)
「初期ヤマトは王権は弱体と見られていたが見直しが迫られている」(同岡林氏)と述べている

そして、箸墓3世紀末説を唱えながら、ミューオン透視を試みている
0182日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:40:40.79
古墳時代は畿内より100年早く東日本の前方後方墳で始まっていた
ちなみに纒向メクリ1号墳も前方後方墳だ
古墳が纒向で始まったなどというデマを拡散している学者は学位剥奪しろ
0183日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:43:28.05
メクリ1号墳は小っちゃい
0185日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:45:08.90
もしかして前方後円墳体制ってまるっきり勘違いか
あるいはだいぶ限定的な話なんじゃなかろうか
0186日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:47:30.36
>>185
>もしかして前方後円墳体制ってまるっきり勘違いか

そんなもの、あるか!  倭人(阿波勢力)が勝手にあっちこっち色んなお墓を造ったに過ぎない。   @阿波
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:51:33.75
纒向学研究センターがIntCal13を使って、纒向の桃核12個を調べたら、2〜3世紀で確定
九州説のノンプロハルキー氏はそれを疑って、同じく纒向の桃核12個をIntCal20で年代測定をしてみたが、やはり2〜3世紀と出る
九州説詰みです
0188日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:52:18.24
メクリ1号墳は楯築墳丘墓や四隅突出型墳丘墓(西谷)の弥生墳丘墓よりも小っちゃい
小っちゃい前方後方墳が100mクラスの前方後円墳に囲まれている
そして最初の定型化巨大前方後円墳の箸墓古墳でとどめを刺されている
0190日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:54:24.39
>>165
庶民の墓に石棺なんか使うわけねえじゃん
0191日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:54:42.62
>>182
と言ってる学者は1人もいない
神門5号とか言いたいんだろ?
神門5号は纒向古墳群より後に作られたものだ
残念
0192日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:57:23.98
>>170
つまり大本営はもう畿内説で手を打ちたいという打算が透けて見える(つまり九州説が史実という事w)
あまりにも多くの学者が畿内説で論文を書いてしまっているので、それをひっくり返すわけにいかないというわけだ。
邪馬台国利権は学会における満州利権で、手放すわけにはいかないんだよ。
そこに阿諛追従しよう現れた、八方美人の折衷案、3人卑弥呼説(平原・石塚・勝山)を出したバカ学芸員w
0193日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:58:51.64
>>185
前方後円墳体制なんてのは何の証拠もない単なる妄想
低能学者が思い込みで発言してそれをあたかも学説であるかのように印象操作してきたんだよ
そんなものは無かったという事を城野遺跡が示している
0195日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 15:59:44.75
>>192
ではない
箸墓卑弥呼説否定学者は、箸墓を臺与などに否定し、纒向勝山、東田大塚、纒向矢塚などを卑弥呼の墓に比定している
0197日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:02:50.82
いろんな墓が入り混じってるし前方後円墳体制なんて無いってのは俺もそう思う
でも調査結果が出鱈目とか言い出すと全ての古墳の基準が無くなるし後始末どうするの?
0198日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:03:30.51
城野遺跡は衰退した遺跡
すぐ近くに前方後円墳が造られている
0199日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:04:16.24
魏志倭人伝には倭国に前方後円墳があるとは書いていない
0200日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:05:09.82
前方後円墳という名は江戸時代だから
0202日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:12:16.81
前方後円墳という呼び方は牛車からきている
3世紀にはそんなものはないので
周溝に囲まれた前方後円墳は神仙思想の海上の壺形の三神山
神仙思想を図像化した神獣鏡が全国の大型古墳に副葬されるようになる
0203日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/06(月) 16:16:16.40
つまり畿内説は大本営による言論封殺
0204日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 16:20:04.29
ハルキーさんは本当に正直者
九州説をとりながら、自分でIntCal20を使って纒向の桃核12個を調べた動画を出している
4世紀の可能性もある桃核では「4世紀の山があります」と言ってるが、3世紀より4世紀の山が大きかった桃核は1個もないどころが、むしろ4世紀より2世紀の山が大きい桃核の方が多かった

さらには、4世紀の山が全くない山の桃核の場合は、「見なかったことにして下さい」と言って、相方が「できるかよ」と非常に正直
0205日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:24:44.23
前方後円墳体制というもので北部九州が支配下に置かれていたというなら、張政が奴国にやって来た時には前方後円墳がなければならないが?
0207日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:27:52.82
>>205
>前方後円墳体制というもので北部九州が支配下に置かれていたというなら

もちろん、そんなものは、無い。  倭人(阿波勢力)が勝手にあっちこっち色んなお墓を無秩序に造ったに過ぎない。   @阿波
0208日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:33:11.58
阿波はよその歴史をネコババしているだけ
0209日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:33:16.69
弥生時代末から古墳時代前期
日本海側、琵琶湖北部の土器が静岡東部に流入し日本海側で流行っていた舟形木棺の土器が現れ、その後静岡東部の土器が関東に拡散する
日本海側琵琶湖北部→静岡東部経由→関東と人々が移動したんじゃないか
石見神楽の五神で東の統治を割り振られたのは青
日本海側はスサノオが青草を束ねた場所(大蛇の話)、事代主が船を傾け青柴垣に変えた場所、青谷の地名が残る場所だな
0211日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:36:25.09
纒向では張政は前方後円墳を見てますね
ただ、そこまで大きくない
石塚、矢塚、通説だとホケノ山もある
ホケノ山は「まあ、すごいかな」ぐらいには思ったかもしれない
0212日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:37:14.31
>>210
阿波には誇れる物は何も無い
0213日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:40:16.26
支配の象徴である前方後円墳を俯瞰すると
最も力を入れて、最も大々的に支配「された」のが大和だった
0214日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:40:21.29
>>212
だから「阿波」以外の何処に在る と聞いてるんだ。 聞かれたことの答えろ、どカス!   @阿波
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:46:26.93
>>214
アワアワうるせーんだよキチガイ
0217日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:48:15.69
>>204
>4世紀の可能性もある桃核では「4世紀の山があります」と言ってるが、3世紀より4世紀の山が大きかった桃核は1個もないどころが、むしろ4世紀より2世紀の山が大きい桃核の方が多かった

14Cの原理がわかってりゃ3世紀って結論が出るさ
0218日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/06(月) 16:48:19.80
>>215
見るものを威圧し当地の領有を宣言する働きをもつ巨大前方後円墳が集中しているから
前方後円墳を作らせた者の本拠地には必要ないものだ
0220日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:49:19.75
>>206
那珂八幡古墳が張政が来た時代にあったのなら箸墓よりも遥かに古い物になるね
0221日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:50:24.77
>>219
人様に指示するんじゃねえよ阿波キチガイさんよ
0224日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:56:02.16
>>220
那珂八幡第1主体は論争がないので3世紀半ば
確かに、箸墓より古い可能性はある
0225日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 16:56:06.27
>>218
畿内にとっては侵略勢力の応神とその子仁徳の陵がクソでかいのもそのせいかね
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:00:33.16
>>223
まさかおまえは自分の事を雑魚じゃ無いと思ってんのか?笑かすw
おまえはキチガイのミジンコだよ
0227日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:00:35.37
そもそも桃の種は纒向遺跡とは別の遺構で発見されたもの
纒向遺跡より下の層だ
これも畿内説お得意の韓流印象操作の事例の一つだな
0229日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:03:50.70
>>226
くだらん御託を並べる前に、さっさと質問に答えろ! 雑魚!   @阿波
0230日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:04:16.56
前方後円墳の中心地があるから
地方で造られていも海外から倭国を訪れた者は
その中心地と関係がある首長なんだとわかる
0231日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:06:04.83
>>220

那珂八幡古墳はTB期新相なので、箸墓より前
纏向石塚より後
0232日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:07:01.38
>>229
痴呆のキチガイを相手にしても時間の無駄です
0233日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:07:17.50
>>227
>そもそも桃の種は纒向遺跡とは別の遺構で発見されたもの

こういうニセ情報流すようになった九州説はもうオワコン
0235日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:08:21.86
>>231
石塚より前の前方後円墳は奈良にはいくつある?
0236日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:09:55.77
>>235

纏向石塚の前は陸橋付円形周溝墓
0237日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:11:11.68
>>234
国宝も世界遺産も宗廟も何も無いのが阿波。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:13:21.50
>>236
つまり那珂八幡古墳より古い前方後円墳は石塚だけって事?
0240日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:13:29.87
>.237
お前が答えりゃ済む話だ。 なぜ答えないんだ?   @阿波
0241日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:15:04.20
>>239

纏向石塚古墳が最初だろうな
0242日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:15:35.24
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0244日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:21:43.14
>>241
たった一つの前方後円墳の存在だけで北部九州を前方後円墳体制下に置いたとするのは無理があると思うけど?
0245日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:24:23.41
箸墓は狗奴国問題終了後かな
0247日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:32:55.91
>>246

久住猛雄氏(福岡市埋蔵文化財課)によると、那珂八幡古墳の造営時期は彼自身の久住編年IB期、215-250年だそうです(『二万余戸の実像 奴国』伊都国歴史博物館 2021年)。

という事ですが神門5号の築造年はいつですか?
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:35:33.66
>>244

箸墓より前の3世紀前半はまだ前方後円墳体制というのはないよ
大きさも那珂八幡のほうがちょこっと小さいだけだから
ホケノよりちょこっと大きいし
畿内と博多が密接な関係であることはわかる
0249日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:39:04.94
神門5号は定型化前だろうという推測だけだろ
0251日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:40:18.34
ホケノ山は大神神社が豊鍬入姫の墓だと言っているから箸墓よりも新しいよ
0252日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:41:30.36
大神神社の誰が?
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:42:23.30
水主神社に香川県が設置した説明文には
倭国大乱ではなく「卑弥呼没後」の政争を避けて
百襲姫が黒田宮から齢13歳(あるいは6歳)で
讃岐にやってきたとある
247年に卑弥呼が崩御したとして、おばとめい
くらいの年代とみると百襲姫の薨去が300年前後
百襲姫の薨去は記録上崇神10年10月
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:43:52.68
神社の由緒書はあてにならん
0255日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:44:16.13
>>253
50年も離れないか。25年として
百襲姫は275年頃の薨去
0256日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:49:50.22
阿波を舐めるんじゃネエ、鳴門のワカメを知らねえのか?
東北産を産地偽装はしてねえよ、正真正銘の鳴門ワカメだぞ
どこよりも安くて美味しい栄養たっぷりのワカメだぞ
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:56:16.69
>>251
箸墓3世紀後半説をとる橿考研が、ホケノ山を意外にも3世半ばあるいは前半説を採ってる
0259日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:57:15.26
神門5号って鉄剣も出てるしすげえな
彦根の鉄工房が有るからおかしくはないんだけどさ
別にそれで支配下とか思わんよ
0260日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 17:58:05.69
4世紀だからいずれド派手に爆散する運命
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:04:35.16
大神神社は大田田根子の子孫が代々の宮司な訳だから豊鍬入姫の墓を間違えて言い伝えることは無いと思うがね
0263日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:05:43.91
https://i.imgur.com/Ir21QLQ.jpeg
百襲が実在したとすると、崇神はこのくらいの年代で良さそうなのか
0264日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:06:33.56
中四国から関東辺りが邪馬臺國連合だと思ってるから不自然さは感じない
この地域の豪族が卑弥呼を共立したんでしょう
0265日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:10:40.08
邪馬台国時代の奴国の中心地は春日市岡本近辺で海抜30mほどの
所、現在の博多と呼んでいる所は海抜7mほどだからまだ海の中
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:10:45.44
>>259
畿内系土器が多数出てるからまだ支配、被支配の関係にないとするのが通説
卑弥呼は共立王

後に畿内系は少数派になったのだろう
前方後方墳に代わる
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:13:21.75
>>266
少数派になってて草
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:15:26.92
>>266
まだと言うよりずっとでしょう
土器とか交易に依ってもたらされたものだし墓の形状は流行りだろうし支配とか関係ない
戦争となれば軍隊を持ってる豪族が強いに決まってる
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:16:07.21
関西人も8割以上は畿内説を内心ではバカにしているが関西以外の
地域では・・・・必死で書き込んでいる関西人が気の毒だから黙っておこう
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:16:21.21
畿内系の人間が畿内系の墓を作ったという方がいいね
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:17:13.84
>>267
前方後方墳に代わってるから移住してきた畿内系は覇権を取れなかったと見られる
が、後にヤマト王権の関東支配拠点に千葉県はなる
千葉県の前方後円墳の数は全国一
数だけででかくはないが
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:20:04.77
>>269
むしろ、地元が地元説を採ってないなら関西は素晴らしい
九州人はムキになりすぎて全く論理的でない
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:20:15.79
近畿が豊かな土地だったんでしょう
いろんなものを作ってるしそれを売ってより豊かになった
0274伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/05/06(月) 18:22:19.94
>>265
ところが、博多駅の北西側、現在の海抜5.8mぐらいの地点から弥生時代から続く複合遺跡が出てる。
海抜は低いが、湊として機能していたという事が推測できる。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:24:04.64
後漢滅亡からずっと大陸で動乱の時代が続くから
大量の渡来人がやってきては東に東に進んでいったのだろう
そしてちょうど良さげなところに過疎地が見つかった
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:24:14.49
銅鐸をバラシて各地から纏向に売りに来てたんじゃないか?
「これで米を・・・」
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:26:31.23
>>276
米より祭祀道具買えるなら金持ち
0278日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 18:28:22.14
>>277
祭祀道具をたくさん持ってる所は余裕があるのよ
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:31:00.52
銅鐸から鏃作ってるのよ
貧しい所はそれと交換して鹿や猪を捕まえてたんでしょう
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:32:21.17
>>259
>神門5号って鉄剣も出てるしすげえな

関東忌部なんだから、驚くことはない。   @阿波
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:32:43.61
貧しかったら石鏃っしょ
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:34:46.92
>>266
>畿内系土器が多数出てるから

それ、「東阿波型土器」な。   @阿波
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:38:38.22
井上ダウン
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:46:34.48
市をやってたのは纏向だけじゃなく各地でやってたでしょう
大型建物や祭祀施設であろうものは北陸や関東にもある
一番豊かなのが纏向ってだけで
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:49:17.99
>>284
>一番豊かなのが纏向ってだけで

「阿波」だよ。 勘違いするな!   @阿波
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 18:50:53.73
もしかすると職人も売り買いの対象かもね
生口ってやつ
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:13:41.81
粟やひえが主食の阿波がなんだってー
0288日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:16:37.58
大阪北部の銅鐸職人は中部地方に出て行った
もしかすると南部の職人に技術で負けたのかもね
でもそれだけなら切磋琢磨すればいいだけだし出て行かないでしょう
おそらく好待遇で迎えられた
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:18:42.54
>>249
>神門5号は定型化前だろうという推測だけだろ

無知ゆえの妄想尾
神門5号は草刈I式前半だから弥生の範疇
後半から畿内式の定格式鉄鏃や庄内式の搬入が始まる
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:19:03.17
久しぶりに北陸という中央からやや離れた地域を調べてみた

庄内併行期(おそらく3期)最初に前方後方墳が出てきます。
・越前→中角SX1
・加賀→小菅波4号、一塚SX04  

古墳時代前期前半にすぐ前方後円墳が出てきます。
・越前→花野谷1号、
・加賀→分校カン山、宿東山1号
・越中→谷内16号
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:28:26.29
布留0で纒向は王権を完全に確立
他の追随を許さない圧倒的な王権(3世紀後半)へと早くもその地位を確立するのだろう
0292日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:35:41.07
後漢書に記されている通り、邪馬台国連合は後漢時代ですでに代々王を継いできた30国からなる連合国だ
そんな時代の纒向は空き地であり代々王を継いでいた痕跡は無い
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:37:53.69
>>291
>布留0で纒向は王権を完全に確立

そして、布留1で日本に馬が到来したってか?   @阿波
0295 警備員[Lv.11(前25)][苗]
垢版 |
2024/05/06(月) 19:43:32.46
NHK 東北ココから

古代史ミステリー 東北古墳調査最前線
初回放送日:2024年5月10日(金)午後7:30

今、全国で、ヤマト王権の謎を解き明かす発見が相継ぐ。鍵は、大和王権の象徴・前方後円墳。東北でも新発見が。今年1月、人工知能を使った調査で、前方後円墳のある可能性がある古墳を発見。ほとんど前方後円墳が発見されていない北東北もヤマト王権で結びついていたことが明らかに。東北の古墳時代の最新調査研究から、知られざる東北の姿を解き明かす。

www.nhk.jp/p/ts/WJ1LZ5K145/episode/te/Y67LW1QW49/
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:47:31.66
越前、加賀、越中でも古墳時代前期前半に出てくるなら、北東北で出てきても不思議ではない
半島の栄山江の方が前方後円墳の数は多いが
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:48:22.29
>>295
強制されたもんじゃないと思ってる
交易の痕跡だと思う
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:50:36.18
>>295
もしかして前方後円墳体制なんてただの勘違いだったんじゃ……
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:50:47.43
久住に「それは交易では?」と聞いたら、「何と交換したんだ?」と言われた
反論できたがしなかった
だが、前方後円墳は交易関係ないだろ
何と交換したんだ?
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:52:19.43
纏向が北東北にどんな指令出してたっていうんだか
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:53:59.14
え?前方後円墳と何かを交換したの?
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:54:36.32
前方後円墳は物部氏のビジネスモデル
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 19:55:57.55
前方後円墳体制ってなんだろうな
墓を前方後円墳にするかわりに税を納める権利をやろう
とかか?
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:12:32.32
松木武彦は「古墳とはなにか」の中で、前方後円墳に過度な政治的意味合いを持たせた従来型の畿内説(ほぼ畿内自生説と被る)をやんわりと批判する(都出比呂志や白石太一郎など考古学界の重鎮への批判になるので筆致は遠慮がち)
関東の例も含め、古い畿内説の論理的弱点を的確に突いており、極めて妥当な考え方だ

「だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている」

「墳丘の形や規模を畿内との政治的関係の表示とみる方法論の原則を首尾一貫させるのであれば、六世紀末から七世紀にかけての関東の長たちは、畿内の長たちよりも政治的に上位にあったと解釈しなければならない。もし、文献史料がまったくなかったとしたら、七世紀には列島の政治的中心が畿内から関東へと移った、と考えられたにちがいない。もちろん、そんなことは実際にはなかった。おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう」
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:14:01.72
3世紀の日本列島で広域の外来土器が見られるのは纒向に限ったことではない
広域の人的・物的流通ネットワークのハブになる大集落は各地に存在した
畿内とりわけ纒向遺跡を日本列島の絶対的な中心とするような極端な考え方は最近急速に否定されつつある

松木武彦「古墳とはなにか」より
「前の章で、古墳は、弥生時代の終わりに向けて発展した広域流通経済のなかで各地に形成された「町」ともよぶべき大集落を舞台に生み出されたことを述べた。大和の纒向、吉備の津寺・加茂、筑紫の比恵・那珂などが、町の代表としてあげられる各地の中心地だ。これらの大集落からは、ほかの地域からはるばると運ばれてきた土器がたくさん出る。弥生時代の後半にさかんになった遠距離交易の物資やその輸送にたずさわる人びとが、遠くから集まってくる場所だったのである。」

寺澤薫「卑弥呼とヤマト王権」より
「三世紀では搬入土器の比率の高さと搬入元の範囲の広さにおいて、他の追随を許さない。纒向遺跡は日本列島の物流と交易の中心とも考えられるようになった。
ところがその後、この時期の遺跡の調査が全国的に進むにつれ、「纏向遺跡に匹敵する」という事例が次々と報告されるようになった。こうした物流・交易センターといえる遺跡は、各地方の中心地には普遍的に存在するとの見方も出てきた。」
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:27:14.72
>>299
>だが、前方後円墳は交易関係ないだろ

ヤクザの交わす盃と同じ
四分六とか七三とか力関係を約して公示する
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:27:35.56
>>304
定説畿内説の松木さん
学者は定説畿内説しかいないから、畿内説同士の言い合いの方が凄い
松木さんが誰かと言い合ってるかは分からないがT先生はその発言から誰かと物凄く言い合いしていると推認できる(関西の学者を畿内優越史観と呼んで批判している)
で、一番畿内自生説が嫌いなのがおそらくK先生
Xでも、もう丸わかり

また別のフォーラムでは、司会者が空気を読んで、「物凄く答えにくい質問だと思いますけど」とわざわざ前置きして、「卑弥呼がもらった銅鏡100枚はどれだと思いますか?」と島根大の教授に質問する
「三角縁と画文帯の組み合わせ」と答えたが、畿内説でも「後漢鏡」を推してる学者がいる

T先生なんかはそれもあってか、むしろ安本美典とかの方が好きそう
「九州は大好きです。九州で何か発掘されたらすぐ九州に飛んで学者と話し合ってます」と新聞で言ってる
九州説という敵がいないから、夫婦喧嘩してる感じなのが、定説畿内説の辛いところ
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:38:08.36
>>294
テンプレによると、布留0で箸墓古墳が出来て、布留1で日本に馬が到来したとさ。   @阿波
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:42:53.35
>>309
>テンプレによると、布留0で箸墓古墳が出来て、布留1で日本に馬が到来したとさ。

つまり、布留1が5世紀で、箸墓古墳が出来た布留0は4世紀末ということだな。   @阿波 
0313日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:46:31.25
>>309
>テンプレによると、布留0で箸墓古墳が出来て、布留1で日本に馬が到来したとさ。

つまり、布留1が5世紀で、箸墓古墳が出来た布留0は4世紀末ということだな。   @阿波 
0314日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:47:04.15
>>312
馬鹿すぎだろ
馬が日本に来てたら大事件だから、嬉々としてテンプレに書くだろ
0315日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:47:40.52
>>291
纏向は一時的だろ。
丹後王国に乗っ取られるんだから。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:49:22.31
>>315
邪馬台国論争超絶素人YouTuberに感化されてこのスレッドに来たの?
0317日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:50:01.10
黒塚古墳は箸墓の前でも問題無いのだな
百襲姫と同年代か少し長生きの台与を茶臼山に比定しても
ポチとハマるな

布留1式に馬が来たとも来てないとも書いてないよ
それより阿波の剣幕に驚いたわw
0318日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:50:33.17
トンデモ説理由言わないの法則
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:55:03.08
>>288
大阪北部は長髄彦が勢力を張っており、
北部九州から進出したニギハヤヒと協力関係にあって、
その後に大和北部や山城まで勢力を拡大。
それらの地域に居た大国主系列は
中部に移転せざるを得なかったのだろう。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 20:58:57.06
>>316
纏向は崇神垂仁景行成務時代まで。
景行成務頃には丹後王国が全盛期を迎えようとしていた。
でなければ神功皇后が熊襲征伐や三韓征伐をし、
キングメーカーに君臨する事が出来ない。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:04:21.63
畿内説支持者はNHKまでも巻き込んで必死に畿内説を流布したので
また邪馬台国は九州にあったのか畿内にあったのか、大々的に
調査をしたら良いと思う
0322日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:06:05.09
いらん
九州説とかもう無いし
0324日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:16:05.32
>>320
纒向から丹後に移ったという珍説のYouTube見たの?
0325日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:20:53.64
最も初期の前方後円墳は、
泰始二年に臺與の使者が洛陽で見たとされる
円丘方丘を合わせた祭壇で、
夏至と冬至の祭り事を合わせて行ったとされる場所の事で、
先ず山門八女ー日田ー大分のどこかで作られたはずで、
ソレを日向生目氏が真似て生目で作り、
その後、生目氏の纏向進出によって、
纏向に前方後円墳が作られるようなったと考えていいだろう。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:23:02.05
>>325
妄想乙
0327日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:23:24.18
>>317
>布留1式に馬が来たとも来てないとも書いてないよ

木製鐙が出た以上、馬がいたんだろうよ。 5世紀の布留1期に。   @阿波
0328日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:29:02.21
実際に洛陽で司馬炎の祭り事を見た
丹後に入った臺與の勢力は、
前方後円墳を墓とは考えておらず、
墓自体は方形周溝墓を作っていたと考えられる。
円丘方丘併せた祭壇は都の北部に作っていたはずだ。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:33:28.20
珍説オールスタースレ
確定畿内説に押されて、もはや妄想で対抗するしかない
0330日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:39:57.72
前方後円墳は朝鮮半島でボコボコ造られている事を考えると
倭人の勢力拡大の象徴と見ていいだろうな。
それを作る人たちが大挙して朝鮮半島に押し寄せたと言っていい。
神功皇后の頃の丹後王国もその頃は進出した各地に前方後円墳を作りまくっていた。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:40:45.85
>>329
>確定畿内説

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内に確定かよww   @阿波
0332日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:41:25.77
再度邪馬台国の調査をしても九州説が圧倒的な支持を取るのは
目に見えている、纏向のショボい遺跡を見て支持する気になる
ような者は奇特と言うより変態だな
0334日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 21:43:32.03
久しぶりにせっかく、北陸という中央からやや離れた地域を調べてみたので前方後円墳の出現期について、もう一度貼ります

庄内併行期(おそらく3期)最初に前方後方墳が出てきます。
・越前→中角SX1
・加賀→小菅波4号、一塚SX04  

古墳時代前期前半にすぐ前方後円墳が出てきます。
・越前→花野谷1号、
・加賀→分校カン山、宿東山1号
・越中→谷内16号
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 22:01:18.49
通常は南郊で冬至に天の祭り事を行い、
北郊で夏至に地の祭り事を行うのが、
漢の時代の祭り事なのだが、
司馬炎がどうやって冬至と夏至の祭り事を併せて行ったのか気になる所だな。
司馬炎は魏の家臣から皇帝に成り上がったということで、
地の祭り事を天の祭り事と同格にしたと言うことだろうか??
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 22:04:16.96
どっちにしろ前方後円墳とは無関係なんだからダダこねても無駄だろ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 22:11:10.69
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0338日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 22:21:57.69
天皇家について書かれていないテンプレ

卑弥呼だ邪馬台国だと言いたいだけで、
日本の歴史を全く説明できてない
0339日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 22:29:55.98
>>338
邪馬台国のスレだからね
0340日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 22:34:09.27
卑弥呼はヤマト王権の初代大王
          by寺澤薫
0341日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 22:59:20.75
弥生時代後期南は鹿児島、西は五島列島から東は東京富山迄、龍の絵画土器が一斉に広がる
1番古いものは池上曽根遺跡で、龍の絵の変遷からオリジナルに近いものは池上曽根遺跡や柏原の船橋遺跡
柏原には奈良から降りてきた龍神が留まり大和川の治水を行った伝承が残る
龍の絵画土器は大阪から各地に広がったんじゃないか
多数の人々が進出したり侵略した痕跡はないから、威信材として配られたか各地に婿入り嫁入りしたかじゃないかな
大和国ふどきいつぶんにある石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のことという記述に関係すると思うんだが
池上曽根遺跡のすぐ隣は石津川の支流の和田川水域にある
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 23:27:05.59
畿内説の最大の弱点は倭人伝に記載のある鉄の鏃と絹織物の痕跡が
全く出土しなかったと言う事で北部九州に大きく差を付けられた
つまり畿内は弥生時代では無く縄文時代から東征軍によって
強引に古墳時代にさせられた、畿内には弥生時代は無かった
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 23:27:33.69
中央集権は出来上がっていく
これは後の時代を見れば明らか
でも初期の頃武力によって統合したんじゃない
やっぱり物が集まる豊かな土地が強い
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 23:28:28.67
>>342
銅鐸がある
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 23:36:03.58
当時鉄で何が作れたかが重要
優れてなければ意味が無い
0346日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 23:38:32.31
鉄の鏃も銅の鏃も一緒に出るんだよね
じゃあどっちが優れてるのか?
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 23:42:24.63
>>343
中央でも土地が乏しく困窮さが際立つ日本海側は全然ダメだったと思うわ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 23:44:24.62
>>347
貿易を押さえる出雲は豊かでしょう
他もどうだろう?
それにヒスイがある
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 23:56:25.65
>>348
肥えた土地では出雲自体けして無いし
単なる中継地としか見てないわ
0350日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 00:00:42.74
>>349
原料としての青銅器を手に入れて加工したものを買い戻すってのをやってたんじゃないか?
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 00:07:48.13
出雲は玉類の生産もやってたな
これは九州に売ってたらしいけど
そのころ近畿では玉類の需要が無くなってた
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 00:08:40.68
>>335
宋書礼志三にこの時の話があり、

「是(泰始二)年十一月,有司又議奏:「古者丘郊不異,宜并圓丘方澤於南北郊,更脩治壇兆。其二至之祀,合於二郊。」帝又從之,一如宣帝所用王肅議也。
是月庚寅冬至,帝親祠圓丘於南郊。自是後,圓丘方澤不別立至今矣」

→是の月、庚寅冬至、帝、親ら園丘を南郊に祀る。是より後、園丘・方澤を別に立てず(廃止した)今に至る。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 00:09:05.22
空想するのは結構なお話だけど
帯方郡に駐留していた技術系漢人が
大和政権と交易する中継地点として
出雲の地を利用していただけ
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 00:12:18.25
>>353
そうなんだろうが当時豪族の力は強い
大倭王を選んだり降ろしたりする力があった
0355日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 00:14:06.27
技術系漢人とは何のことだ?
需要は銅鐸生産だけど
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 00:21:20.34
>>352
前方後円墳型の祭壇なんか造りませんでしたと

少なくとも倭の使節が見たのは圓丘の祭壇だったわけだ
0357 警備員[Lv.34(前18)][苗]
垢版 |
2024/05/07(火) 01:07:13.78
韓国(三韓)と西日本の人口が同じくらいだろう、と思うのが普通のバランス感覚
韓国(三韓)と九州北部の人口が同じくらいだろう、と思うのが九州説のバランス感覚
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:08:46.20
戸数に拘ってるうちは科学的な思考が足りてないと言わざるを得ない
0359日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:14:36.69
戸数をガン無視してるうちは科学的な思考が足りてないと言わざるを得ない
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:21:38.04
なんの根拠もない戸数に振り回されて妄想逞しくする科学的思考とかw
0361日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:24:52.76
寺澤薫「邪馬台国の人口は1万5千人」
0362日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:25:13.01
九州説のバカによると魏志倭人伝は何の根拠も無いそうです
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:25:40.66
>>361
それ邪馬台国と違うだろ
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:27:53.96
畿内が倭国だった証拠は無い
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:32:44.90
なんの根拠もない戸数に比べたら
実際の距離がわかってるだけまだ短里説の方がマシまである
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:35:03.60
>>361
戸数にしたらいくつなの
0367日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:42:46.83
>>366
3000戸
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:44:40.60
「王都を擁する「磯城下」と「磯城上」の二つの大共同体をあわせてもせいぜい四〇〇〇人。ならばヤマト国(邪馬台国)全体でも最大に見積もって一万五〇〇〇人ほどだろう。奈良盆地全体なら三万五〇〇〇人、戸数にして七〇〇〇戸ほどだ。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0369日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:46:46.21
1戸5人か
核家族やね
0370日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 01:54:28.05
身分の低いものでも妻が2,3人となってるから子が2人づついたりすると
戸主1、妻1子2、妻1子2で7人
さらに老親2人つけると9人になる

竪穴式住居って何人くらいで生活してたんだろう
0371日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:25:55.78
実際の人口はともかく九州説の考える国と言うのか集落は小さすぎる
0372日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:33:09.06
吉野ヶ里遺跡は環濠内に1200人で全体で5400人だっけ?
これだけの食料を賄うには広大な領土が必要
当時は見渡す限り水田てわけじゃないだろうし
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:41:32.75
吉野ケ里は水田跡も見つかってないから何を食ってたかは謎
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:43:04.87
>>373
だったら水田があるところまで範囲を拡げないと
0375日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:43:55.70
吉野ヶ里で農具や炭化米が出ているのを知らない情弱がいるようだ
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:45:59.88
>>375
だから稲作をやってたはずだから水田跡があるところまで範囲を拡げないとダメなのよ
0378日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:51:15.17
北部九州は壱岐原の辻遺跡の勢力と吉野ヶ里遺跡の勢力が分け合ってたと思ってる
0379日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:52:55.15
吉野ヶ里の周辺は現在も水田だらけだよ、当時の水田が今も水田として機能していると考えた方がいいだろhttps://i.imgur.com/F21zWTr.jpeg
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:54:20.63
現在もw
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:54:27.27
>>379
それなら遺跡が出る
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:55:48.37
>>352
それは間違った解釈だな。
晋書には円丘方丘合わせた祭壇を作ったと書いてあるからな。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 02:59:55.67
炭化米は稲作の根拠にならんてw
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:01:20.25
>>371
そんなことはない。
山門八女ー日田ー大分に7万個の家屋があった→ウム
ただそれだけの事でしかない。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:02:40.38
狩りで動物を食べてたとしてもやっぱり領土は必要なのよ
個体数に限りがあるし他所の領土で狩ってたら揉める
0387日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:05:58.47
>>385
国は邪馬臺国だけじゃないでしょ?
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:14:30.68
狩猟の場合は対象の動物が移動するから領土ではなかろう
肉食動物のようなテリトリーといったほうがいいいだろう
0390日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:15:26.50
証拠を出すまでも無く稲作の技術があるのにやってないなんて考えられん
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:17:34.59
稲作をやってたかどうかではなくて、
稲作農耕社会が形成されてたかどうかなんだよな
0392日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:17:36.17
奴国(那珂)2万個→ウム
投馬国(妻)5万個→ウム
それだけの事でしかない。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:19:39.08
吉野ヶ里の人口は集落内の1200人を食わせるのにどのくらい必要とかそんな感じの推定でしょ?
0394日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:24:12.61
貝類やイヌ・シカ・イノシシ類でも食えるからな
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:27:36.84
>>394
5400人だからな
どれだけ狩らなきゃならんのよ
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:30:31.13
吉野ヶ里の空環壕はツングース地帯の環壕だからな
外環壕土塁柵だし
0397日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:34:25.43
訂正

外土塁柵内環壕
0398日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:41:18.51
吉野ヶ里には高床式倉庫もあるしな
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:44:48.68
吉野ヶ里だって稲作やってたに決まってる
ただ周辺に田んぼの遺跡が無いならある所まで範囲は拡げなきゃ
0400日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 03:55:04.59
5400人分の食料なんだから吉野ヶ里遺跡の周辺だけじゃとても足りない
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 04:02:51.04
八女とか日田とか全部吉野ヶ里の領土でしょう
0402日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 04:37:55.17
私の試算では5000人が食っていくには700メートル四方の面積の水田があれば良いだろうhttps://i.imgur.com/uaPNC9r.jpeg
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 04:56:48.78
吉野ケ里は華奴蘇奴国(神埼国)だから、
詳細が記されないその他大勢のクニでしかない。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 05:03:05.45
吉野ケ里遺跡とその周辺は、
最も初期の福田型銅鐸とその型が出土した事で、
スサノウが任された海原や天下だった事は確実で、
そこを放棄して出雲に移住してしまった訳だから、
北部九州のメインストリーム足り得なかった事は確実。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 05:23:25.68
>>403
拠点集落と呼ばれる大規模な遺跡はそんなに数無いから
0408ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/07(火) 05:55:50.01
稲作は生産性が高いと言っても弥生時代の技術ではたかがしれている
ここは記紀に信用してヤマト王権が韓半島から技術者を招聘して初めて収穫が上がったと考えるべきだろう

弥生時代のクニではヒエやアワなどの雑穀がメインであったろう
古代においては中国大陸や韓半島ですら黍や粟が主食であったし、それに孔子の時代では粟は上等な食とされていた

そんな時代なのだから、倭人はクニの支配階級ですら米を毎日食していたか怪しい
稲は超高級食で日々の生活では黍や粟が主食であったと考えるべきである
0409日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:09:58.53
倭人伝には倭人は稲を栽培しと書かれている
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:25:56.18
吉野ケ里=華奴蘇奴(神埼)国説は、(九州説を装った)畿内説の工作員w
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:29:27.70
狩猟をする。山に木の実を採りに行く。
それでも毎日5400人分だからな
0412日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:31:15.64
>>117
>>167
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

形状は方墳で、規模は東西24m、南北23m、高さ6mで、標高60m(墳丘頂部)、標高55m(墳丘基準面)である。葺石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を【楕円形に整形】した台地の上に存在する。

周辺からは埴輪(殉葬の代用品)は出土していない。埋葬主体は墳頂部中央の箱式石棺である。【石棺はあるが槨はなく】形状、規模とも吉野ケ里遺跡の【楕円状構築物の上に築造された方形墳丘墓】および楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳に類似する。

墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5基・不明2基を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設が確認されている。甕棺は糸島地区にみられる甕棺専用大型土器の系統に連なり、その末期型式に位置づけられる。第7号箱式石棺墓(H7)では、石棺の両小口側(短辺側)それぞれに朱に染まった粘土塊があることから枕の痕跡と考えられ(ただし人骨は見つかっていない)、被葬者2体の頭位を逆にして同じ棺に埋葬した「差し違い2体葬」と考えられる。このような「差し違い2体葬」は当墓のほか、祇園山古墳の南に位置する祇園山2号墳の墳丘直下で検出された石蓋土壙墓でも見つかっている。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:35:45.39
祇園山古墳の箱式石棺が「有棺無槨」ってニセ情報
棺は無い
殉葬もない





 
0414日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:39:23.82
>>156
>>158
「径百尺」から「径百歩」に陳寿が盛った、とするだけで魏志倭人伝の記述とすべて完全に符合する九州説

vs

(いくら年代繰り上げ操作を積み重ねても一致しない)箸墓の築造年代だけが頼りの畿内説w

すでに勝敗は明らかw
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:42:06.17
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼の墓はこれしか書いてないから
有棺とか書いてない
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:43:15.79
箸墓古墳の築造年代について

Wikiより
奈良県立橿原考古学研究所は(箸墓の)築造時期を280〜300年(±10〜20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。また同研究所が箸墓古墳に先行するホケノ山古墳の築造年代について、平成20(2008)年の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、木槨木材のC14炭素年代測定結果の幅が【4世紀前半をも含む範囲】であることを報告しており、さらにC14炭素年代測定法による推定は【100年程度古く出る例が続出している】ことから、(箸墓だけでなく)この墓も卑弥呼の墓である可能性は限りなくゼロに近いとする意見を紹介している。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:54:29.80
日本書紀では日本武尊は天皇の直系の子孫となっているが実在性に乏しいほか
日本書紀の記述には信用できない点が多く信用できない偽書である。

このような偽書に基づき巻向を邪馬台国に無理やり当てはめる江戸時代のトンデモ説には到底与することは出来ない。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 06:57:25.13
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
伊勢神宮の創建時期とも合致してて作り話として妥当なところか

これが正しい
0420日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 07:05:53.94
祇園山古墳
 まず殉葬された奴婢の人骨ですが、確実に殉葬が行われたとする人骨や遺構は確認されていません。66人の遺骨はその後半世紀の間に亡くなった人骨であって、卑弥呼の死亡と同時に葬られた奴婢ではないと確認されました。
 また、形状は方墳で、大きさは約24m四方です。全然違いますね。とても百余歩の円墳などではありません。ところがここを卑弥呼の墓と主張する研究者たちは、当時は「円墳だった」、「掘削されて小さくなった」などと摩訶不思議な曲解をしています。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 07:06:22.89
>>417
>祇園山古墳の箱式石棺

ニセ情報に頼るしかない九州説の惨状

現代日本語の「槨」って中国語と無関係なのにネタにして無知な人を騙す詐欺師
それが、もう学説でない俗流九州説





w
0422日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 07:10:34.59
>>416

>Wikiより
>奈良県立橿原考古学研究所は(箸墓の)築造時期を280〜300年(±10〜20年)と推定しており、

>木槨木材のC14炭素年代測定結果の幅が【4世紀前半をも含む範囲】であることを報告しており


WIKをニセ情報で汚染する犯罪者
それが詐欺師にまで堕落した九州説
0423日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 07:22:32.88
>>418
「日本武尊」の陵墓か。
「四国初の並列粘土槨」
「石井の山ノ神古墳 墳丘と同時造成」 徳島新聞朝刊 平成30年3月1日
石井町教委は28日、古墳時代前期とみられる前方後円墳「山ノ神古墳」(同町石井)の後円部の墳頂で、
木棺を粘土で包んだ埋葬施設「粘土槨」が2基並んだ状態で見つかったと発表した。
この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓の可能性が高い。  @阿波
0425日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 07:46:18.83
>>422
形象埴輪あって4世紀後半な
0426日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 07:46:32.88
>>419
>まあ筑紫城なんて無いし

阿波市に在った。 

神武東征の主戦場も阿波市だった。   @阿波
0427日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 08:03:45.71
>>382

そんなこと書いてないが

晋書武帝
 「并圜丘方丘於南北郊,二至之祀合於二郊」

→(武帝は)南郊と北郊で行われていた円丘壇と方丘壇を統合し、また、南郊・北郊における二祀(夏至・冬至)の祀りも合せて行うこととした。

ごちゃごちゃ何回もやってたやつを1回にまとめただけ(祭壇は以前の園丘壇をそのまま使う)

○王粛説(おうしゅく)(晋の郊祀制度)
 感生帝説と六天説を否定し、天帝の神格は一つとする立場から園丘(昊天上帝を祭る壇)と南郊(守護神としての天を祭る壇)は同一の場所(方沢と北郊も同じ)で(昊天上帝一柱を南郊で)祀り、年一回のみとする。東晋以下南朝系で実施される。
 また、十一月庚寅(一六日)の冬至には武帝「親ら円丘を南郊に祀る。是より後、円丘・方沢(=方丘)を別に立てず」(『晋書』礼志)とある。
 魏代では、円丘と方丘、北郊と南郊がそれぞれ別に立てられていた。
晋武帝は、円丘と南郊、方丘と北郊を併合して、南郊壇、北郊壇のみを作ることにし、冬至の祭祀は南郊で、夏至の祭祀は北郊で行うように定めた。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 08:12:31.76
実存した古代畿内の中央政権を、
中国文献上の九州王と
同一視することで、
考古学が日本の古代史を
ミスリードする理由は何?

記紀との不整合
古代朝鮮史への忖度
は、知ってる。

学問的真実の歴史を
ねじ曲げる理由になるのか?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 08:16:43.36
>>428
そんな架空の九州王を捏造するのが
歴史のねじ曲げだから

九州にそんな政治権力なかったことは判明済みなので
0431日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 08:26:25.72
天皇家は弥生時代には既に奈良で日本を統治していました
というファンタジーをゴッドハンドしているのが畿内説
0433日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 09:41:13.68
>>420
なぜそういう嘘を付く??

祇園山古墳では外周部の竪穴式石室(H7)に「差し違い二体葬」が確認されており、
ごく近くの祇園山第二号墳墳丘下の石蓋土壙墓でも、同様に差し違い二体葬が見られる。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 10:10:26.60
祇園山古墳が卑弥呼の墓と言う説は誰も納得させる事は無理
何故なら、墓の場所を言う前に肝心かなめの邪馬台国の宮殿を
示す必要があるからだ、宮殿跡も出土していないのに卑弥呼の墓は
祇園山古墳とかわめいても誰も納得する訳が無い
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 10:19:15.60
>>434
あそこら辺は邪馬壹国の候補地のメッカだろw
八女に朝倉吉野ヶ里
宮殿そのものが見付かってないのは否定する根拠にはならない
0436日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 10:20:09.00
>>434
>墓の場所を言う前に肝心かなめの邪馬台国の宮殿を
示す必要があるからだ

違う。
邪馬台国の宮殿を示す前に、肝心かなめの邪馬台国の民草が暮らした集落遺跡群を示す必要がある。   @阿波
0437日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 10:26:34.28
久留米に何処から水行十日陸行一月でたどり着くんだよ
江戸時代で人口8千人の久留米に7万戸あったのかよ
0438日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 10:30:46.41
>>437
途中で距離の単位変えるのはおかしい
水行陸行の記事は改編された結果だと思う
0439日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 10:35:18.93
祇園山古墳は筑後川の南端(久留米市側)だがあの付近からは集落跡の
遺跡は発見されていない、どこで暮らしていたのかも分からんし、
中は盗掘されているので確定的な事は何ひとつ言えん、それを卑弥呼の
墓と言い張るお前は完全なキチガイ
0442日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 10:46:50.05
>>427
金子修一
「魏晋より隋唐に至る郊祀・宗廟の制度について」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/88/10/88_KJ00003672503/_article/-char/ja/
が、わかりやすく説明している。

「晋の武帝は受禅の翌年、泰始二年(二六六)に曹魏の制度を全面的に改めた。・・・ここでは円丘は南郊に、方沢は北郊に併合して南郊壇・北郊壇のみを作ることにし、冬至の祭祀は南郊で、夏至の祭祀は北郊で行なうように定められたのである。これは引用文中に見えるように、王粛説に従った改革である。そして、「是月庚寅冬至、帝親祠圓丘於南郊。自是後圓丘方澤不別立至今矣。」とあるように、以後南朝を通じて円丘、方沢を特に立てず、南北郊のみを設ける制度が踏襲されるのである。」
0444日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 10:54:38.80
>>443
どれが集落群なんだ? お墓ばかり。  そこらは墓地なのか?   @阿波
0445日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:03:48.35
曹操が使っていた鏡と同じ鉄鏡
中国の考古学者が卑弥呼が貰った鏡はコレと指摘した鏡はダンワラ古墳から見付かったと伝えられている

Google Mapでダンワラ古墳で検索したらダンワラ遺跡が出た
ここがダンワラ古墳だとして距離測定
宇佐神宮まで46キロ
大宰府天満宮まで46キロ
ダンワラ古墳を頂点にした二等辺三角形が浮かび上がる
0446日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:24:42.99
>>444
『弥生時代の遺跡一覧』でググってみた
んでwikiから

福岡県
立岩遺跡(飯塚市)
平原遺跡(糸島市)
三雲南小路遺跡(糸島市)
板付遺跡(福岡市)
野方遺跡(福岡市)
須玖岡本遺跡(春日市)
今宿五郎江・大塚遺跡(福岡市)
佐賀県
吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里町)
千塔山遺跡(基山町)
七ヶ瀬遺跡(佐賀市)
長崎県
原の辻遺跡(壱岐市)
里田原遺跡(平戸市)
富の原遺跡(大村市)
寄神貝塚
カラカミ遺跡(壱岐市)
車出遺跡(壱岐市)
熊本県
斉藤山遺跡(玉名市)
方保田東原遺跡(山鹿市)
小野崎遺跡(菊池市)
うてな遺跡(菊池市)
西弥護免遺跡 (大津町)
狩尾遺跡群 (阿蘇市)
黒髪町遺跡(熊本市)
荒毛遺跡 (人吉市)
大分県
安国寺集落遺跡(国東市)
宮崎県
檍遺跡
坂元遺跡
鹿児島県
広田遺跡(南種子町)
0447伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/05/07(火) 11:24:44.74
>>445
太宰府天満宮は平安時代の創建なので時代が全く合わん。
二等辺三角形を作るために任意に地点を選んだだけでしかない。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:25:46.86
祇園山古墳説は阿波説とおなじ位説得力に欠ける、しかも盗掘
されているのでこれ以上言い張るのは止めた方が良い
お前も@阿波のバカさ加減にうんざりしているだろう?
あいつと同じくらいお前にうんざりしている者は多い
0449日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:28:56.26
>>444
ちなみに四国の弥生時代遺跡

徳島県
矢野遺跡

香川県
紫雲出山遺跡

以上w
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:31:36.06
>>447
なぜ大宰府天満宮を建てる際に彼処が選ばれたのか?
宇佐神宮と卑弥呼の力で菅原道真の怨念を抑え込む為だろう
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:39:47.96
ひたすらウソを繰り返すのが九州説
ひとつも証拠を出すことはない
0453日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:40:20.20
祇園山古墳は卑弥呼の墓ではないかもしれないが、それ以降の巫女女王系譜である台与や八女津媛の墓である可能性はありそうだ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:40:42.88
>>451
評論家を気取らずに、自分の見解を言え! いや、言えんのかww   @阿波
0455日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:42:49.42
>>453
>それ以降の巫女女王系譜である台与や八女津媛の墓である可能性はありそうだ

ないない! 碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い所にそんな可能性はない!  @阿波
0456日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:53:53.46
畿内にせよ九州にせよ、お墓しかないんだから、いい加減に悟れよ! トンデモだと。   @阿波
0457日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:56:11.76
>>436
その必要は無い
何故庶民と一緒に竪穴住居で暮らさなきゃならんのか?
0458日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 11:57:19.45
>>453
このように
理由をひとことも言わないのが九州説
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:04:42.35
中国年号が出てる畿内が勝ち
0461日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:05:19.38
当時の技術じゃ鏃くらいしか作れねえじゃん
0462日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:08:51.66
畿内説は史実と全く整合していません

【後漢書】
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0463日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:11:07.32
>>462
畿内説は宗教なんだよな
俺たちの天皇家は弥生時代から続く世界最古の王朝なんだ!
という願望に合わせて歴史をゴッドハンドしてる
0464日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:11:19.46
>>462
鉄鉱石を掘り出しても鉄に精製出来ないでしょ?
半島在住の倭人が掘ってたんだよ
0465日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:13:16.09
鉄を輸入しても鏃くらいしか作れねえし
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:15:10.92
>>464
>半島在住の倭人が掘ってたんだよ

まぁ、鉄器王国「阿波」の技能集団だけどな。   @阿波
0467日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:16:25.70
>>466
鉄鉱石を掘り出しても鉄に精製出来ないでしょ?
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:18:40.55
鉄の鏃で鹿や猪を狩ってたんだよ
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:27:50.75
鉄も銅も原料は輸入なんだよな
そりゃ日本中から博多に集まるわ
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:29:15.57
>>470
わけわかんないんだけど
出雲の大量の青銅器は?
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:34:41.58
>>398

高床式倉庫は三内丸山遺跡時代からある
0473日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:34:48.79
>>462
>卑弥呼時代の鉄器文化圏

これ、使えない資料ね
時代区分が無茶苦茶だから
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:36:17.02
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0476日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:44:57.56
>>475
痴呆症はもう忘れたのかw
0478日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:46:44.22
阿波に何かを教えてやっても無駄だ、こいつは痴呆症だから記憶出来ない
0479日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:48:35.25
赤井手遺跡

日本に鉄器が入ってきた弥生時代初期、刀子(とうす)、鉄斧などの工具がもたらされた。硬くて、丈夫でしかも自由な形に加工しやすいといった特徴を持った鉄は、次第にそれまでの素材である石にとって変わっていった。同中期には全国各地で鉄器が出土するようになる。福岡県春日市赤井手遺跡では日本でも最も古い段階の鍛冶工房跡が発見され、鉄素材、未製品、製品が多量に出土し、国内での鉄器の生産が裏付けられている。

http://ohmura-study.net/403.html
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:52:03.40
>>479
まぁ、どのみち倭人(阿波勢力)の遺跡だ。 気にするな!   @阿波
0482日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 12:52:03.54
>>458
このように異論を認めない全体主義体質が畿内説(特に纒向調査の結果理論的に滅亡した古い畿内自生説信者はそれが顕著)
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 13:25:59.11
>>479
>福岡県春日市赤井手遺跡から鏃(ぞく・やじり)、鉄斧等の製品・加工途中の品、銅鉾鎔笵(ようはん=鋳型)、鉄素材などが多数出土した。
>弥生後期後半=紀元1世紀初頭とみられている。

弥生後期後半=紀元1世紀初頭かよ。 前に、弥生中期って言ってなかったか?  どうでもいいけど。 どのみち、倭人(阿波勢力)だ。   @阿波
0486日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 13:31:14.19
>>485
ググったら弥生時代は紀元前300年から250年となってるから
前期後期の二つに分類するなら後半やね
0487日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 13:37:19.17
>>485
それは安武深田遺跡の事だろ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 13:37:37.05
>>486
前期後期の二つにしない
0489日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 13:40:51.17
>>482
このように異論を認めない全体主義体質が「纒向調査の結果理論的に滅亡した」畿内自生説などと妄言を吐く人なー
0491日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 13:46:34.43
福岡の赤井手遺跡の鍛治工房の絶対年代は1世紀初頭

阿波の矢野遺跡のは、1世紀後半
0492日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 13:55:00.05
>>489
纒向遺跡は在地の弥生勢力との連続性が全く見られないので、畿内自生説が理論的に成り立たないことは考古学的に確定している

あとは君のような古い自生説信者の脳がその事実を受け入れられるかどうかだけの問題だ
0493日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 14:00:47.63
つまり畿内説が事実否定のための工作を続けている以上、日本の歴史は捏造の歴史ですよと
0494日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 14:12:14.73
>>492
妄想乙
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 14:22:52.93
>>490
>書いた人に言えよw

まいど責任逃れするゴミさんこんにちわ
反論もできない書いてる人も明かせないということはトンデモ説なんですね
お疲れ様です
0498日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 14:33:47.99
>>494
寺澤の纒向学研究の論文や「卑弥呼とヤマト王権」を読めばわかる
自生説の成り立つ余地はない
0499日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 14:38:47.49
>>498
まともな畿内説の学者もいるんだな
ちゃんと自分達の間違いを認められる学者が
0501日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:04:39.43
>>498
理由をひとことも説明できないの?
なさけないね
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:07:48.99
>>501
まぁ、碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡が無いんだから、理由もくそもないだろ?  自生説の成り立つ余地はない    @阿波
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:12:56.73
伊勢遺跡だ
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:19:46.52
阿波が言うなら、その反対が正解
0505日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:20:06.18
>>503
集落でもない、消滅遺跡一つでなにが言いたいんだ?   @阿波   
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:21:54.10
>>504
徳島県最大だぞ
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:40:50.18
狗奴国王はククチヒコと呼ばれていたらしいから菊池彦の事
では無いかと思う、熊本県山鹿・菊池地方を根拠地にして筑後地方に
進出して元々は邪馬台国側の領土だった筑後地方を占領して
筑後川を挟んで邪馬台国と対立していたが邪馬台国の同盟国が
加勢して狗奴国は敗北した、邪馬台国が負けていたら卑弥呼の
後継者に卑弥呼の親族がなれる訳が無いからな
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:41:34.50
>>442
>纒向遺跡は在地の弥生勢力との連続性が全く見られないので、

これは確実にニセ情報
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:44:07.22
>>508
伊勢遺跡だ
唐子鍵遺跡ではない
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:46:21.71
>>508
文句があるなら寺澤に論文で反論すれば良い
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 15:52:35.53
>>510
そいつが言ってる事が正しいとは限らんのに何言ってんだ?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:02:32.77
「弥生時代の遺跡から出土した中国鏡となると、畿内では完形のものは一枚たりとも存在しない。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:08:45.08
>>513
弥生時代関係ないです
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:14:40.62
>>514
何年までが弥生時代なのか?
0517日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:23:10.51
>>512
だから正しくないと思うから反論の論文を書くんでしょ
Do you understand?
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:23:12.15
>>508
畿内説の大御所寺澤薫の「卑弥呼とヤマト王権」から抜粋です

纒向遺跡が形成された初瀬川上流の「纒向川扇状地」小共同体には、
弥生時代の拠点的母集落はおろか、集落といえるほどの遺跡がない。
自然林に覆われた空閑地に突如として纒向遺跡は出現したのである。  
纒向遺跡の第一の特徴は、弥生時代にはほとんど人の手が入らなかった地域に、三世紀になって突然、人が集まりはじめて巨大な集落を形成し、
一〇〇年もたたないうちに急速に衰退する点にある。
以上転載終わり

要するに2世紀の纒向には邪馬台国の痕跡どころか集落遺跡も無かったという事です
0519日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:28:17.14
>>518
つまり
「纒向遺跡は在地の弥生勢力との連続性が全く見られない」
はウソ
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:29:24.86
巨大な集落=奈良盆地に七千戸
もうギブアップしてもいいのよ?
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:30:00.18
>>517
>だから正しくないと思うから反論の論文を書くんでしょ

明らかにウソだから論文必要ない
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:30:04.59
おま>>517
おまえはそんな事してるの?
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:31:26.14
>>520
九州説はギブアップしたから学者が去った
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:33:47.37
>>515
>何年までが弥生時代なのか?

あんたの認識は?
何年までが弥生時代だと思ってんの?
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:33:48.66
>>515
>何年までが弥生時代なのか?

あんたの認識は?
何年までが弥生時代だと思ってんの?
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:42:30.19
>>518
>纒向遺跡の第一の特徴は、弥生時代にはほとんど人の手が入らなかった地域に、三世紀になって突然、人が集まりはじめて巨大な集落を形成し、
一〇〇年もたたないうちに急速に衰退する点にある。

要するに、纏向遺跡は倭人(阿波勢力)の「古墳造営前線基地」ってこと。   @阿波
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:43:28.67
>>516
>学者も認める事実だが?

そんな事実があるって証拠は?
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:44:27.84
>>523
奴国が二万戸、投馬国が五万戸、邪馬臺国が七万戸だから九州は有り得ない!

奈良盆地は七千戸

どういうことなの……
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:46:02.67
>>527
学者に聞けよw
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:49:35.87
>>524
こっちの質問に答えろ
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 16:54:02.91
>>529
そいつが正しいかわかんねえじゃん
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:02:31.22
>>532
いちいち聞くわけねえじゃん
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:03:35.65
>>529
>学者に聞けよw

実在しない誰に聞くの?
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:04:56.76
正直俺学者の名前とか全然知らんわ
関心も無いし
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:05:55.62
>>530
>こっちの質問に答えろ

寺澤は200年まで
あんたは?
0537日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:06:40.64
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0538日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:09:27.89
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:30:51.64
>>536
寺澤編年だと300年くらいまでが弥生時代のハイブリッドだな、つまり卑弥呼は弥生時代の人間https://i.imgur.com/eAVhNND.jpeg
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:30:56.20
『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、
倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市ではみな、
中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも
供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、
帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉
にあたる。「弁辰と加耶の鉄」(東潮:2003)によると、
銭のように用いていた鉄とは、斧状鉄板(板状鉄製品)で、
3世紀を中心にして三韓地域に分布する。
この斧状鉄板は、貨幣の役割を持つ鉄素材として
流通していたのであろうとしている。
板状鉄製品は福岡の西新町遺跡、
熊本県の二子塚遺跡、島根の上野II遺跡、
鳥取の妻木晩田遺跡、徳島の矢野遺跡、
埼玉の向山遺跡などの弥生後期の遺跡から出土している。

※五斗長垣内の発掘開始は2007年
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:34:17.32
>>540
>寺澤編年だと300年くらいまでが弥生時代のハイブリッドだな、

それも真っ赤なウソ
200年から古墳時代という年表を2016年に出している
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:40:25.19
>>541
鉄として出来上がったものを輸入してたのよ
0544日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:44:30.37
>>541
>徳島の矢野遺跡、埼玉の向山遺跡などの弥生後期の遺跡から出土している。

矢野遺跡の弥生中期後半って、AC何年ごろ?   @阿波
0545日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:46:07.15
BC
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:46:22.73
久留米市は人口35万人で福岡県では3番目に大きな都市で大きなビルも
多いのでビルを作る時は地下も掘る事になるが弥生時代の大規模な遺跡は
出ていないので当時は人が住めない湿地だったと思う
広川町からは環濠集落が出たらしいが
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:47:04.58
>>519
はあ?
どういうロジックで「噓」になるんだよ
ロジックを説明してごらん
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:48:08.19
>>521
「明らかに噓」という論拠が少なくとも君の投稿には完全にゼロだ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:48:57.33
>>545
BCは鉄器を作る技術も無い
完成品を輸入してた
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:49:50.51
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね
0554日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:50:58.20
>>551
徳島県埋蔵文化財センター調査報告書 第63集
矢野遺跡 (Ⅲ )(弥生・古代篇)
一般国道192号徳島南環状道路改築に伴う埋蔵文化財発掘調査   @阿波

竪穴住居跡 (SB2006)
炉跡 2基 (長軸59cm、 短軸38cmの正円形の EHlと 、長軸79cm、 短軸21cmの楕円形の EH2で、
ともに深さ8cm、 炭化物や土器片を含む 1~ 2層 の堆積である。
時期  弥生時代 中期後半 備考 炉跡の構造は、その平面形状から10(いちまる)土坑と俗称されるものである。
中期後半に播磨地域で見られる炉形態 と考えられる。   @阿波
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/list/36/36000/p/4/item/14024?sort=publish_date%3Ar
0555日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:52:43.22
纒向遺跡の調査の結果、在地弥生勢力との政治的・文化的連続性は完膚なきまでに否定された
これによって畿内自生説が成立する余地は理論的になくなった

しかし古い畿内自生説の盲目的信者はまだ脳内からデリート出来ないようだ
0556日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:53:29.91
>>541
ああなるほど
それが倭国の範囲か
0557日本@名無史さん
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2024/05/07(火) 17:55:36.54
>>555
彼らは真実を知りたいんじゃなくて
天皇家は弥生時代から続いているんだ教の教義を信じてるカルト信者でしかない
0558日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 17:58:26.28
>>543
トンテンカン♪トンテンカン♪
倭国のインゴット依存は長く鉄鉱石からの製錬は
早くても六世紀

矢野遺跡の鍛治炉自体を正面から編年したものは
見つからなかった
ちなみに前二世紀吉ヶ浦は香川県小豆島
前一世紀赤井手は鳥取県米子
同奈具丘は京都府京丹後市

https://i.imgur.com/hrYPx65.png
0559日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:01:38.41
徳島県埋蔵文化財センター調査報告書 第63集
矢野遺跡 (Ⅲ )(弥生・古代篇)
一般国道192号徳島南環状道路改築に伴う埋蔵文化財発掘調査   @阿波

竪穴住居跡 (SB2001)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2004)  炉跡 EH lの 1基
竪穴住居跡 (SB2005)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2006)  炉跡 2基
竪穴住居跡 (SB2007)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2008a) 炉跡 1.基
竪穴住居跡 (SB2008b) 炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2009)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2011)  炉跡 1基
竪宍住居跡 (SB2012)  炉跡 EHl・ 2の 2基
竪穴住居跡 (SB2013)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2014)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2015)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2019)  炉跡 EHl・ 2の 2基
竪穴住層跡 (SB2020)  炉跡 I基
竪穴住居跡 (SB2021)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2022)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2023)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2024)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2025)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2026)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2035)  炉跡 1基
0560日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:01:43.11
>>520

>奈良盆地に七千戸

これは寺沢の漠然とした主観だろう
推定人口を算出してるのは、
小山修三(考古学(縄文時代))、澤田吾一(数学者)、鬼頭宏(経済学者)だから
0561日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:04:04.93
>>1
崇神天皇は纏向宮で天下を治められ、
その大和政権が今日まで日本国として続いているのだが、

テンプレには、
邪馬台国や卑弥呼がどのように関係しているのか一切書かれていない。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:06:56.65
>>561
1はサヨ
テンノー認めてないだろ
0563日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:10:08.46
>>555
>纒向遺跡の調査の結果、在地弥生勢力との政治的・文化的連続性は完膚なきまでに否定された

そんな調査はありません
論文もありません
0564日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:14:04.17
>>562
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:27:36.85
>>564
>まあ筑紫城なんて無いし

阿波市に在った。

神武東征も阿波市が主戦場。   @阿波
0566日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:28:30.23
>>565
わかったわかった
どうせ7世紀の話しだから
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:28:32.73
>>558
徳島県埋蔵文化財センター調査報告書 第63集
矢野遺跡 (Ⅲ )(弥生・古代篇)
一般国道192号徳島南環状道路改築に伴う埋蔵文化財発掘調査   @阿波

竪穴住居跡 (SB2001)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2004)  炉跡 EH lの 1基
竪穴住居跡 (SB2005)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2006)  炉跡 2基
竪穴住居跡 (SB2007)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2008a) 炉跡 1.基
竪穴住居跡 (SB2008b) 炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2009)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2011)  炉跡 1基
竪宍住居跡 (SB2012)  炉跡 EHl・ 2の 2基
竪穴住居跡 (SB2013)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2014)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2015)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2019)  炉跡 EHl・ 2の 2基
竪穴住層跡 (SB2020)  炉跡 I基
竪穴住居跡 (SB2021)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2022)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2023)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2024)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2025)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2026)  炉跡 1基
竪穴住居跡 (SB2035)  炉跡 1基
0568日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:30:41.03
>>566
>どうせ7世紀の話しだから

神武東征は、4世紀だから。   @阿波
0569日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:32:21.50
>>568
天皇と呼んだのは7世紀だっつってんだろうが
0571日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:34:20.64
>>570
だから7世紀の話しだろうが
0573日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:42:36.43
>>572
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになったと記紀に書いてあるだろ?
0575日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:45:45.84
天皇を自称するまでは大君だったんだよな
だから大和朝廷じゃなくて大和王権

大君って何ヵ国かの国の君達から共立されて大君になっていたんじゃないかな
邪馬壹国の女王卑弥呼のように
んで天皇家に対抗しうる最大のライバル氏族の蘇我氏を大化の改新で粛清して
独裁体制を確立して、もう共立してもらう必要はない、
朕に代わる君は存在しないから天皇を名乗ったんじゃないかと思う
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:47:29.38
>>575
>天皇を自称するまでは大君だったんだよな

違う!  大王だ。   @阿波
0577日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 18:48:58.10
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
AC600年の號は阿輩雞彌=大王
つまり神武東征はこれ以降のはなし
伊勢神宮の創建年とも合致して辻褄が合う 
0579日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:02:19.07
>>578
実際は筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけどさ
おまえがしつこく阿波に筑紫城があったなんて言うから合わせてやっただけだよ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:03:49.05
取り込み中ごめんね
稲作の開始だけが大きく間延びしたので
弥生の年代観はよく分からない部分がある
以前からあった編年は土器を基準にしていて
稲作の開始は直接関係ないから、そのまま信用しても
いいように思う。その上で
弥生中期とはBC200年からAD100年の期間をいい
出典によっては全体的に100年未満の範囲で古くなるが
全国的に鉄製品が盛んに作られるのは紀元後一世紀代のようだ

よって日本国内でとびきり早くてBC100年
矢野遺跡の場合はBC75年からBC25年頃の「開始」かな
0581日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:03:52.68
>>579
>まあ筑紫城なんて無いし

阿波市に在った。

神武東征も阿波市が主戦場。   @阿波
0583日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:07:38.44
>>546
久留米の人口は30万人
0584日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:10:57.24
>>1
纏向が邪馬台国ならば、
崇神天皇あるいは同時代の天皇はどこで政務をとっていたのか?

天皇家の成り立ちと真面目に向き合ってるだけ
阿波のがマシ
0585日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:11:16.37
>>580
鉄器工房と言ってもガラクタみたいなもんだし気にしなくて良いよ
0586日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:11:44.64
垂仁の血筋が王になる天皇というシステムを構築したのは神功皇后。
丹波道主命の系列が丹後に進出した時、
北部九州の邪馬台国と
丹波道主命の丹後王国に分裂しており、
丹後王国の女王神功皇后と、
邪馬台国の王仲哀の婚姻という形で同盟関係を築いていた。
仲哀は日本武尊の息子ということで、
日向大和王権とも関係はよく、
母方の吉備王国とも良好な関係だった。
これらに対抗するのが熊襲と新羅で、
一時的に邪馬台国を制圧して仲哀をキル。
この時に丹後王国を率いて熊襲征伐をし、
結果的に丹後王国(山陰北陸中部関東)+九州一帯(邪馬台国+熊襲)+朝鮮半島南部(任那日本府)という強大な勢力を構築するに至った。
このときに、丹後王国の女王神功皇后が、
垂仁の血筋の応神の後見として日向大和王国を吸収したのが大和王権ということになるだろう。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:12:53.21
>>584
何処が真面目なんだよ?
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど

これおかしいか??
0588日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:14:56.61
久留米あたりに邪馬台国があったら、普通に奴国から南に四百里って書いてあるだろ
不弥国・投馬国情報も要らないし、水行十日陸行一月だの絶対に書かない
0589日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:17:29.58
>>580
>矢野遺跡の場合はBC75年からBC25年頃の「開始」かな

まぁ、そんなものだろう。  「加茂宮の前遺跡」もな。   @阿波
0590日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:19:30.31
>>588
ソレはアンタの願望で、
実際に大分日田経由で山門八女に入っていかざるを得なかった当時の行程をむしろ忠実に記載しているものと考えられる。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:21:27.62
九州説を粉砕する太平御覧版「魏志倭人伝」
◆又東南至奴国百里、置官曰先馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸
◆又東行百里至不彌国、戸千余、置官曰多模、副曰卑奴母離
◆又南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利
◆又南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、其属小国有二十一、皆統之
◆女王之南又有狗奴国、男子為王 其官曰拘右智卑狗者 不属女王也

・文頭に「又」があるため放射読み出来ない
・投馬国が於投馬(イォドゥマ)国と表記(イヅモと読める)
・狗奴国の官名が拘右智卑狗と表記(菊池彦と読めない)
0593伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/05/07(火) 19:24:16.45
>>567
もしかして「炉跡」がすべて鍛冶炉だと勘違いしてないでしょうね?
炉跡には鍛冶炉ももちろん含まれていますが、煮炊き用の炉や、暖をとる用の炉も含まれておりますから気を付けてね。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:24:17.24
>>563
見たくないものは見ないのが妄想畿内自生説信者
0595日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:32:48.15
神武の東征以前に、
ニギハヤヒの天孫降臨が、
河内を拠点にして大和北部にあった。
コレが大阪湾型銅戈の分布であり、
一部は国譲りとして、
建御名方を信濃まで追い詰めていった事も、
柳沢遺跡の銅鐸と大阪湾型銅戈の出土で確定している。
コレがおよそ1世紀~2世紀の話で、
考古学的には、コレに吉備の吉備津彦の勢力が結びついて纏向に進出、
三輪山の大物主神をモモソヒメが取り込んで大和の南北統一を果たし、
本州各地に四道将軍を派遣して、
大和を中心にした御肇國天皇が崇神であり、
そこに婚姻関係で大和に進出した日向の豪族が、
垂仁、景行で、
即ち、神武の東征を考古学的にここに入れ込む事は不可能である。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:38:22.14
オオキミじゃなくてアハケミとある
阿波君だな!
0597日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:39:29.49
以下、「纏向学研究第4号」に掲載された寺沢薫「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」の論文要旨より
畿内自生説的な論理を引き合いに出し、これを破綻していると断ずる

「本論の二つ目の主旨は、ヤマト王権成立前史としての大和弥生社会の政治的評価である。第Ⅵ様式までの集落と庄内式との間にはその出現と消長をめぐって大きな断絶があり、とくに拠点的母集落の解体は単線的内的発展の延長とは考え難く、外的なイベントの存在が想起される。その象徴こそが王権最初の都宮と目される纒向遺跡の突然の出現であるが、王権のシンボルたる前方後円墳の系譜が畿内・大和に辿れないこと、奈良盆地の「クニ」や「国」の形成メカニズムが政治権力による重層化になかったこと等々から、大和(畿内)弥生社会の政治的権力の結集がヤマト王権の誕生に直結したという論理は破綻すると考える。この点は、私の一連のヤマト王権成立史研究の前提的、基礎的研究の一つであり、主要主旨の多くは註に掲げた関連論文にあるので参照いただければ幸いである。」
0598日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:40:42.65
>>595
>河内を拠点にして大和北部にあった。

そんなことは、どこにも書かれていない!  勝手に捏造するな!   @阿波
0599日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 19:44:51.92
>>598
先代旧事本紀に明記されています。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 20:16:14.30
物部氏の祖神饒速日命が天磐船に乗り、河内国河上哮峯(たけるがみね)に天降り、つづいて大和に遷った。 この時大和平野を見て、「虚空見日本国」(そらみつやまとのくに)と言った。
先代旧事本紀より。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 20:19:10.27
奈良県高取町の観覚寺遺跡で、
朝鮮半島などで使う床暖房「オンドル」とみられる石組みが付いた
7世紀前半−中ごろの大壁建物跡が見つかり、
同町教育委員会が1日、発表した。

奈良県高取町の市尾カンデ遺跡で
朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を
持つものを含めて約40棟見つかっている。

奈良県高市郡明日香村のキトラ古墳の壁画は
北朝鮮平壌郊外にある高句麗古墳群の
壁画と画法がそっくり、北朝鮮から
奈良に大勢の渡来人が来たのは間違いない
0604日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 20:19:17.39
>>1
神武より先に来ていたはずの饒速日命はどこにいたんだ?
テンプレになんにも書かれていないようだが
0606日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 20:30:33.67
>>603
「キトラ古墳」「高松塚古墳」(7世紀末~8世紀初め)も、朝鮮半島避難渡来人のお墓だろう。

倭国(阿波)はもちろんのこと、日本のどこにも天文図や四神を描く文化は無い。   @阿波
0607日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 20:32:27.45
飛鳥時代、倭国(阿波)王権は百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内各地に庇護のうえ住まわせ、

彼らの知識・技術を習得活用して、8世紀に避難疎開遷都し樹立した大和朝廷へと発展昇華させた。   @阿波
0608日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 20:33:13.92
飛鳥時代の王宮は、外国要人を迎える迎賓館の役割もあったのだろう。 小松島も津田いずれも海辺に在る。  

大陸との往来が活発となる時期だ。   @阿波
0609日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 20:34:01.68
「裴世清」
『隋書』によれば、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支国、竹斯国(筑紫)、そして東に進み、秦王国(辰王国?)に着いたという。(Wikipedia)

竹斯国(筑紫)から東に進んだのは瀬戸内海。 

その「秦王国」とは、東四国のさぬき市難波郷津田。   @阿波
0610日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 20:34:43.82
飛鳥の王都が在ったのは、鮎喰川下流域集落群の地。   

飛鳥の王宮が在ったのは、小松島の地と讃岐難波郷津田の地。   @阿波
0611日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 20:36:38.88
>>605
眉唾でないことが大阪湾型銅戈の出土で証明されたと言っていい。
国譲りの勢力の中に、
河内を拠点に大和に進出し、
一部は建御名方を信濃に追い詰めていった勢力が
実際に居たことが確定したのである。
0612 警備員[Lv.1][新芽]
垢版 |
2024/05/07(火) 20:52:03.08
>>597
拠点的母集落の解体を、外的な要因と見るべきではない
それは自立的な解体と見るべきである
理由として以下が挙げられる

・畿内ではすでに畿内第V様式圏が完成している
・寺澤が考える吉備系は畿内の銅鐸文化を放棄している
・漢鏡4期までほとんどゼロと言っても皆無ではない銅鏡が、5期(1世紀半ば〜後半)になると急に畿内及び東日本に広まっている
・吉備が放棄した銅鐸文化が漢鏡編年と時を同じくして急に東日本に広まっている
・庄内0では吉備も纒向の建設に参加していたが、庄内2、3期になると東海、北陸、関東の方が纒向の建設に多く参加している

以上のことから、寺澤の考えを支持できない
0613 警備員[Lv.2][新初]
垢版 |
2024/05/07(火) 21:04:49.10
寺澤は、「理化学的年代測定法にすぐ飛びつくべきでない」というが、それは畿内説全般の学者に対して言っていることではない。
いわゆる畿内自生説に対して、畿内自生説は自らの敵であるからそのように牽制する発言をしたと見るべきである。

すなわち、理化学的年代測定法によって、自らの提唱する編年が崩壊し、畿内自生説が成立する可能性が高まってきたので、14Cや酸素同位体比年輪年代法を信用しすぎるべきではないと言っているのである。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:09:27.39
つまり古く出やすいというデメリットをきちんと踏まえて
安易に採用できないと言ってるんだろうな
0615日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:14:18.45
>>611
>河内を拠点に大和に進出し、
>一部は建御名方を信濃に追い詰めていった勢力が
>実際に居たことが確定したのである

倭人(阿波勢力)がな。   @阿波
0616日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:16:00.37
弥生時代後期九州一円から東は東京まで龍の絵画土器が一斉に広がる
龍の絵の変遷を見るとオリジナルは池上曽根遺跡か河内の船橋遺跡
最古は池上曽根遺跡だ
元々大阪出雲鳥取野洲川辺り小松は鳥形の地であったが、弥生時代後期琵琶湖北部若狭東海に河内や摂津と同じ形の鳥形が広がる
弥生時代後期に誕生する登呂遺跡もその一つ
唐古・鍵遺跡や橿原からは龍と鳥装のシャーマンの絵画土器
池上曽根遺跡は出雲の西川津遺跡と同じ形の鳥形が複数見つかっている
弥生時代後期においても河内和泉は石棒祭祀が続いていた地でもある
和泉国ふどきいつぶんには始鳥和泉国の記述があった
0617 警備員[Lv.12][苗]
垢版 |
2024/05/07(火) 21:17:06.84
>>612
寺澤の方が圧倒的に実証的で論理的だ
寺澤の論文の本文や「卑弥呼とヤマト王権」を読めばね
0618日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:19:01.38
>>614
古く出やすいという条件を克服しようとおそらく寺澤は頑張ったが、むしろさらに古く出てしまって、畿内自生説が成立し得るので焦っていると見るべきであろう
寺澤が使用したと思われるIntCal13をさらに改良したIntCal20は一般人でも使え、それを使うと寺澤の編年は崩壊する。
すると、これまで北部九州や吉備が「拠点的母集落を解体した」とする寺澤の根拠が薄くなる。
すなわち、畿内は自ら拠点的母集落を解体し、そこに纒向を作ったという畿内自生説が勢いを増す。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:20:12.80
>>580
ソースある?
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:22:51.34
>>618
自生説にしてしまうとなおさら
後漢書にある大倭王の卑弥呼とは無関係の王権が畿内に生えたことになるなw
0621日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:22:53.14
畿内自生説は寺澤や北條や久住にコテンパンにやられてペンペン草も生えない状態
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:23:20.59
>>616
>弥生時代後期においても河内和泉は石棒祭祀が続いていた地でもある

その石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡で作られた泥質片岩製の石棒な。
この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、三谷遺跡は、その一大製作遺跡であると考えられている。   @阿波
0623日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:23:35.50
弥生時代後期瀬戸内海は龍の絵画土器が集中している場所だが吉備は特に集中している
音がかにも龍の絵画土器が見つかっている
諏訪の神は黒い龍神として描かれることが多い
石切神社の上之宮には黒い龍神が祀られていてトミの一族の伝承が残る
遠賀川の各地に南方刀美が祀られている
諏訪から龍の絵画土器は見つかっていないので、南方刀美は遠賀川にいたんじゃないか
0624日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:24:31.04
なんとか捏ね繰り返して九州から畿内に移動したことにしようと頑張ってるのに
自生説のせいで後漢書の記述と合わなくなってしまうw
0625日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:25:48.60
>>621
畿内自生説じゃないなら、
寺澤や北條や久住はそれぞれどこから王権がやってきたと主張しているの?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:26:35.65
堺には巨大な鳥と龍が眠っているという噂話もある
浅香にはいい香がする木が埋まっている伝承もあるな
0628日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:30:35.90
>>620
そうではない
畿内自生説は、すでに後漢書の時点で畿内から東日本に至って、それぞれが一度拠点的母集落を解体し、広域の連合を作ったとする考えである。
他方、九州ではいまだ拠点的母集落が存していたことは、伊都国、奴国、不弥国(1000戸)、吉野ヶ里から明らかであるという。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:31:50.12
>>623
訂正遠賀川
0630日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:35:27.29
>>628
つまり前方後方墳こそが本来の倭国ということになるなw
0631日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:37:38.12
毛人ヤマト国説か
0632日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:39:14.65
弥生時代中期末頃山陰の勢力が奈良や大阪に移住して在地の人々と共に国を作ったんだろう
代わりに瀬戸内海を元々治めていたウシさんは日本海側或いは鉄のルートの統治を任されたんじゃないか
牛とアカルヒメの伝承は朝鮮半島とも関係する
牛鬼伝説は山陰に始まり、後々瀬戸内海にも残る
0633日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:39:50.68
>>630
そうではないが、前方後方墳の東日本の方が北部九州より広域の連合を組織していたというのは確かである
0634日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:43:47.70
前方後方墳は3世紀半ば静岡東部に出現
日本海側と琵琶湖北部の土器、日本海側の墓制舟形木棺
アメノヒナドリと布都主、青に関係するんじゃないかな
トヨヒルメを望んだ石上布留社の大刀、布都御霊剣
0635日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:51:33.98
寺澤は、「纒向は突如として出来たんだ」と言ってるが、突如できる方が不合理であり、その説明を尽くさねばならず、畿内自生説に何度も反論すべきである
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:55:19.19
>>628
>畿内自生説は、すでに後漢書の時点で畿内から東日本に至って、それぞれが一度拠点的母集落を解体し、広域の連合を作ったとする考えである。

そんな説の人、いないだろ
テンプレだって「初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に『共立』され求心的に集約された権力基盤を持つ者」と言ってる
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:58:56.55
>>625
吉備や北部九州
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 21:59:34.83
久住猛雄の最近のXポスト
理化学的年代測定や酸素同位体比年代測定をよく考えもせず安易に錦の御旗の如く捉える風潮に警鐘

「ただしその年代イコール遺構年代とか廃棄年代とは限らないことに注意というのは @gijyou さんが指摘した通り
AMSについては、較正曲線が更新されると推定年代が動きます。実際、2014年の曲線では庄内式開始が2世紀前半とかなったが、おかしいと私が論文で交差年代法で批判し、その後」

「2020年(2021だったかな)の曲線では年代が下降。そうすると2014年曲線根拠の庄内式や廻間Ⅰ式開始が2世紀前半という説はそもそも根拠喪失してます。「交差年代法」を軽視してたから。」

「酸素同位体比も、遺構出土木材の伐採年代は出ますが、遺構出土土器群の廃棄年代とは必ずしも一緒とは限らず、木材(木製品)によっては再利用とか保管とかありうるので、性急な結論はNG。年輪年代も一緒。また列島の地域によっては酸素同位体比変動が違う可能性があって、中塚先生も各地資料を」

「集めて修正しようとしてるところです。実際、近畿か伊勢湾岸はほぼ同じということですが、東北あるいは屋久島の酸素同位体比変動は違うというのが分かってます。
これ、年代論だけでなく、「広域」の「気候変動」を社会変化の原因とする説は慎重になってほしいところでもあります」
0639日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:00:57.60
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0640日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:01:49.72
テンプレ 「初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に『共立』され求心的に集約された権力基盤を持つ者」

その各地ってどこなんだ?  

求心的に集約された権力基盤って具体的になんなんだ?   @阿波
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:06:34.91
>>636
「共立」は畿内自生説かどうかを判断する材料にならない
卑弥呼が共立されたことは疑いないからである
畿内自生説の共立とは、簡単に言えば戦争に寄らない解決であると言えよう
すなわち、仮に卑弥呼という神聖王がいなければ、戦争によって倭国は統一されたんだということ

戦争によらず、神聖王卑弥呼によって平和になったとするのが「共立」である
0642日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:08:21.16
>>638
久住先生も理化学的年代測定法によって畿内自生説が強まっていることに焦ってますね
0644日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:13:26.67
>>641
俺はそうは思わん
卑弥呼が王になったのはいろいろあるさってだけの話しで
後漢書にある滅朝鮮で使役を通じた時には出来上がってる
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:18:07.86
本来ならすんなり男王が選ばれるはずが異例の抜擢で卑弥呼なり台与なりが王になっただけ
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:21:22.52
邪馬台国は奈良で狗奴国は河内和泉和歌山じゃないか
河内和泉は卑弥呼の時代はまだ銅鐸、龍の絵画土器、勾玉、鳥形の時代だ。弥生時代後期の枠組みを守っていた地域といえる
3世紀後半、纏向からは吉備の土器が見られなくなり河内や日本海側の土器が急増する
卑弥呼亡き後大規模な内乱を経て、纏向は狗奴国に飲み込まれたんじゃないか

鎮魂歌祝詞、トヨヒルメの誕生の歌だが三輪山に猟師の真弓が現れるとある
強力な弓を持つ山の民が現れたんだろう

卑弥呼を共立したのは文身の風習を持つ海人なので、全く別の勢力だろうな
0647日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:25:25.63
>>617
結局
「纒向遺跡は在地の弥生勢力との連続性が全く見られない」
はウソ
0648日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:30:42.62
>>1
で、纏向遺跡が卑弥呼の邪馬台国なら、
天皇はどこで何をしていたのだ?
0649日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:32:24.58
>>645
暦年無主で大いに乱れたからな
次期大王に誰がなるかで相当揉めてるわ
0650日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:32:28.78
岸本直文は二王並立説を採用し、神聖王と執政王がいたとし、継体朝の時に一本化されたと述べている

また、橿原考古学研究所も桜井茶臼山と西殿塚が同時期に作られていることに注目し、岸本直文の主張を支持していると思われる
0651日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:37:34.82
>>650
つまり畿内は後漢書や魏志に書かれてる邪馬臺国とは異なる政体だったのだな
0654日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:44:01.24
>>652
つまり畿内の歴史と邪馬臺国の歴史は異なるのだな
0655日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:44:49.50
何が記紀だよ、ばかばかしい
0656日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:48:27.57
摂津国ふどきいつぶんの登場人物そのままじゃないか

アメノワカヒコ=香島の天の大神=大物主が招いた酒=観松彦香殖稲天皇孝昭天皇
酒の匂いが香
摂津に降臨したアジスキタカヒコネ=卑弥呼の次の男王=孝安天皇
摂津の稲倉山に常にいたトヨウケ=台与=孝霊天皇
その後は孝元天皇=大物主だろう

此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)

味と酒
0657日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:50:18.88
>>655
ところが大真面目に百襲を持ち出す人たちがいる
0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:50:53.31
追加 アメノワカヒコが狗奴国の卑弥弓呼
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:54:05.56
自生説 vs 東遷説
これが畿内説スレのあるべき姿だろうね
0660日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 22:57:18.69
>>619
ソースというか矢野遺跡の鍛治炉が弥生中期後半という
調査報告と、弥生そのものの時代区分を組み合わせてみただけよ

他にも貼られているとおり、矢野遺跡の鍛治炉の
スタイルは播磨のものに似ているらしい
弥生中期後半のことを指しているのか分からないけど
近隣で矢野遺跡の鍛治炉のような遺構は少なくとも
四国には無く、後は播磨と吉備にあるくらいだと

読んだ資料が北部九州に触れていないのだが
西新町遺跡も弥生中期後半だってさ
0661日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:01:03.80
その後は石見神楽などの五神の話でしょ
カシコネが国土の統治を割り振る話
北は黒、東は青、西は白、南は赤、真ん中は埴安大王
雄略天皇の歌では三輪山の樫の姫の歌がある
和泉には楠の元に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた伝承がある
堅い木とは、非常に加工が難しい樫の木のことだろう
弥生時代前期、松江の西川津遺跡から樫の鳥形が見つかり、弥生時代中期には西川津遺跡の樫の鳥形と同じ形の鳥形が池上曽根遺跡から見つかっている
松江→和泉→三輪山とカシは移動したのかもな
0662日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:04:47.54
>>642
よくそんな頓珍漢なことを書けるものだな
0663日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:04:56.20
>>659
東遷説は存在しない
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:05:55.65
>>647
既に考古学的に成り立たない古い畿内自生説を盲目的に信じる君が嘘だと思いたいだけだろう
0665日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:05:57.36
>>659
倭奴国が後漢書にいう大倭王なら自生説取れたのにな
倭の極南界が奴国じゃなくてヤマトのことってことで
でも金印が…
0666日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:07:03.89
畿内は倭面土王帥升に賭けようか
0667日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:11:01.18
そういえばコテコテの畿内自生説だったトナカイが数ヶ月ぶりに現れたらあっさり畿内自生説を否定してたな
一定以上の知能を持つ人間が最近の考古学の論文や書籍をちゃんと読めば、畿内自生説が成り立たないことなど普通にわかるはずだ
0668日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:11:18.10
>>665
おまえは金印が証拠になると思ってるのかよ?
あんなの間違いなく倭奴国だよ
0669日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:12:48.08
>>666
勿論、継続してるんだから帥升は畿内に居た
てか伊勢遺跡
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:16:10.55
>>668
書体も金属の組成も鈕も不審なところはないみたいだけど
想像で作ったにしては出来過ぎ(考証に合ってる)て
0671日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:16:46.74
>>669
卑弥呼も台与も帥升の子孫よね
0672日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:19:46.32
>>671
正当性が無きゃ卑弥呼も台与も共立されない
0673日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:24:58.84
権威は複数あったと思うが出雲の権威は畿内に東遷しているんじゃないか
加茂岩倉遺跡の銅鐸とか西川津遺跡の鳥形とか
那津の板付遺跡も弥生時代中期までなので、出雲を経て弥生時代中期末頃には畿内に移った可能性もある
スサノオの妻、湯津爪櫛になったクシナダ姫、アシナヅチとはテナヅチの娘
湯が湧き栄えた伝承がある、石器作りの大集落池上曽根遺跡
池上曽根遺跡の弥生時代中期末に作られた弥生時代最大級の神殿は湯津爪櫛の宮の候補地だな
神殿と井戸の配置は伊勢遺跡にも受け継がれている

クシナダ姫の子が清之湯山主三名狹漏彦八嶋、篠清之繁名坂軽彦八嶋手命

軽は楠と関係が深い言葉
0674日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:41:01.47
https://i.imgur.com/cF35bKo.jpeg
畿内説は2世紀末の倭国大乱以前に九州から東遷したとするか
あるいは後漢書や魏志の邪馬臺国とは無縁の東の倭種が畿内に自生したとするか
どっちかしかない
0675日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:42:49.95
帥升は汚点ではあるけど立派な王だったと思うよ
自身が乗り込んでいくなんてなかなか出来る事じゃない
0676日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/07(火) 23:51:48.59
年代的には伊勢遺跡を作ったのは帥升かもしれない
0677日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 00:01:29.67
綏靖天皇
0678日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 00:11:27.64
>>677
帥升を歴代天皇に当てはめようと思わない
なんの意味も無い
0680日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 00:28:51.63
>>664
>既に考古学的に成り立たない古い畿内自生説を

成り立たないという理由が言えないのは盲目的に信じてる人
0682日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 02:21:18.23
>>660
弥生時代がいつ始まったかの考え方が違えば中期も変動するわけだがね
0683 警備員[Lv.4(前37)][苗]
垢版 |
2024/05/08(水) 02:33:49.59
file:///C:/Users/Owner/Downloads/BR0097_001-052%20(2).pdf
https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20190625_01/index.html#:~:text=%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%80%81%E7%B4%842500%E5%B9%B4%E5%89%8D,%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
弥生時代の始まりは、紀元前8〜7世紀の世界的な気候変動に起因する
0684日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 04:23:14.96
682
中国史における周王朝が行った東夷征伐から

紀元前10世紀ころに東夷と呼ばれた地域は一つしかない

中国、山東半島
0685日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 04:25:00.51
その戦後あたりから日本も弥生時代だの呼ばれる時代となる

つまりおそらく戦火の影響で日本までやって来た連中らも現れだしたのやろ
0686日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 04:44:42.63
雑草は気温が低い梅雨前はあまり伸びず、梅雨が明けたら一気に伸びる
魏使は呼子で下船して海岸沿いは通らずに近道の山道を通ったから
路が雑草に覆われて進むのに難儀しながら末盧国の首都があった唐津市
菜畑に到着しているので、魏使が来たのは梅雨明けの7月末〜8月初旬
となる、帯方郡、あるいは釜山から魏使は邪馬台国が差しまわした
船に乗って呼子まで来て、後は邪馬台国まで道中の国々を訪問
しながら行った訳だ
0687日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 04:46:50.57
>>672
師升は107年の倭国王で、239年卑弥呼はその後継者なんだから、
天皇にあてはめないのなら、
天皇=日本の元首はいったいどこで何をしていたのかということになる。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 06:48:33.06
>>664
成り立たないという証明は?
0690日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 06:53:18.94
畿内が倭国だった証拠が無い
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 06:57:45.69
ばか発見
0692日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 07:08:29.43
「魏志倭人伝」と言いつつ、九州北部だけを二ヵ月間水陸グルグル周って記録した、と言ってるのが九州説
0693日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 07:12:24.21
>>664
確定してるのは
「纒向遺跡は在地の弥生勢力との連続性が全く見られない」がウソってこと



 
0694日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 07:14:22.67
>>693
纒向は他の弥生遺跡と連続性が無い事で有名なんだが?
だから特別だとも言われている
0695日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 07:22:02.39
>>693
根拠なく言い張る理論的に崩壊した畿内自生説の残党
0696日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 07:22:23.25
日数が正しいという証拠もない
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 07:22:51.34
>>694
纏向遺跡は、倭人(阿波勢力)の「古墳造営前線基地」だから。   @阿波
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 07:48:08.28
>>694
>纒向は他の弥生遺跡と連続性が無い事で有名なんだが?
>だから特別だとも言われている

どこで有名?
一体だれの説?
もちろん学者じゃないよね
0699日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 07:54:41.74
>>692
東に海を渡った先にも倭人の国があると書かれてるから
間違いなく九州だな
0700日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 07:55:39.21
>>698
畿内説の大御所寺澤薫の「卑弥呼とヤマト王権」から抜粋です

纒向遺跡が形成された初瀬川上流の「纒向川扇状地」小共同体には、弥生時代の拠点的母集落はおろか、集落といえるほどの遺跡がない。
自然林に覆われた空閑地に突如として纒向遺跡は出現したのである。  
纒向遺跡の第一の特徴は、弥生時代にはほとんど人の手が入らなかった地域に、三世紀になって突然、人が集まりはじめて巨大な集落を形成し、
一〇〇年もたたないうちに急速に衰退する点にある。以上転載終わり

要するに2世紀の纒向には邪馬台国の痕跡どころか集落遺跡も無かったという事です
0701日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:02:07.81
九州北部2ヵ月ツアーに参加してしまうのが九州説
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:02:40.10
寺澤薫は纒向遺跡の突然の出現とともに、それまでの拠点的母集落(いわばムラ)が悉く衰退し、そして新たな拠点的母集落が続々と現れるなど地域における不連続的な変化を詳細に説明した上で、突発的に出現する前方後円墳についてもそれまでの在地弥生文化との不連続性を以下のように説明する
なお、文中で「第一の道論」と書いているのは、いわゆる「畿内自生説」のことだ

(纏向学研究第4号の寺沢薫「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」より)
「前方後円墳は王権の主要勢力であった旧イト倭国勢力、吉備などの瀬戸内海沿岸勢力、イヅモなどの日本海沿岸勢力の前段階の王墓の祭祀的(本質的)、階級構造的、形態・技術的諸要素を基軸として、列島各地の祭祀の統合・融合によって設計され、計画的に築造されたものであって、それがわずか30年ほどの間に纒向遺跡のなかで、纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された。
 にもかかわらず、奈良盆地はおろか畿内において前段階(第Ⅵ–2以前)に前方後円墳築造に直接繋がる要素はほとんどない。このことはヤマト王権の権力母体が大和(とりわけ「ヤマト国」)ないしは畿内から直接引き継がれたとする第一の道論にとっては決定的な弱点となる。
つまり、畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。首長層の権力の動向が如実に墓制に反映される社会であるからこそ、大和弥生社会と纒向遺跡の前方後円墳の出現
にみる権力者(集団)の断絶と異質性は重要な意味を持つのである。」
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:07:14.71
>>700
つまり
「纒向は他の弥生遺跡と連続性が無い事で有名」
というのは真っ赤なウソってことだね
寺澤は、そんなこと書いてない訳だから
0704日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:10:30.86
>>702
つまり
「纒向遺跡は在地の弥生勢力との連続性が全く見られない」がウソってこと
寺澤は、そんなこと書いてない訳だから
0705日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:12:11.56
>>704
君はそんな愚にもつかない反論をして虚しくならないかね?
理論的に敗北してるのだよ、君は
0706日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:15:37.07
水行二十日、さらに水行十日してもまだ九州北部

郡使「おえい、遊びすぎだぞ船頭!」
0707日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:20:33.11
>>705-706
つまり、畿内でもなく九州でもないということだ。  いい加減に腹をくくれ!   @阿波
0708日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:30:44.35
>>705
>君はそんな愚にもつかない反論をして虚しくならないかね?

愚にもつかないのはアンタ
悪口しか言い返せないって、脳ない敗者の証拠だよ

寺澤が言ってないことデッチ上げてたの、バレたでしょ?
「纒向遺跡は在地の弥生勢力との連続性が全く見られない」はウソ

明確かつ致命的な反論を受けて
アンタの珍説は崩壊しました
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:34:52.26
九州北部2ヵ月ツアーには、博多の2.5倍と3.5倍の巨大都市がサプライズで隠されている
0710日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:40:56.03
連続性がないと書いてるやん
相変わらず強弁詭弁が好きだね
0711日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 08:51:55.30
>>710
>連続性がないと書いてるやん

どこに?
また捏造かな?

九州説さん、ウソをついたら負けだよ
0712日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 09:32:03.96
畿内が倭国だった証拠は無い
0713日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 09:50:02.68
>>708
理論の中身で議論できない君

そんな知能だからとっくに崩壊した畿内自生説を盲信するんだね
0714日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:13:23.29
>>713
ぜんぜん反論出来ないで罵っても恥かくだけだよ九州説さん
ウソついちゃった事件で即あなたの負けだし
0715日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:20:37.52
>>713
ぜんぜん反論出来ないで罵っても恥かくだけだよ九州説さん
ウソついちゃった事件で即あなたの負けだし
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:22:23.42
弥生時代の奈良盆地は、
・銅鏡が出ない
・鉄器が出ない
・銭貨・貨泉が出ない
・硯など文字を使った痕跡がない
・絹・養蚕がない
(⇒以上より、大陸との交流が全く認められない)
・前方後円墳の前身である墳丘墓の文化があまりなく明らかに別系統である方形周溝墓が普及
・纏向遺跡が現れた頃に破砕され以後使われなくなった銅鐸を用いた銅鐸祭祀が盛ん
・副葬品の文化があまりなく副葬品があっても貧弱
・強い王権による支配の痕跡がない

纒向出現後、これらの要素が劇的に変わる
寺澤が実証したように拠点集落も一気に入れ替わる

考古学的に見て畿内自生説の成り立つ余地はない
0717日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:28:17.16
>>716
それ、貴方の個人的意見だよね?
学者はそう主張していない

「連続性がないと書いてるやん」

も捏造でした
諦めろ
0718日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:30:34.92
>>717
はあ?大丈夫?
私の書いたことは全て常識だよ君
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:31:52.86
考古学を全く知らないド素人が盲信する畿内自生説
0721日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:33:43.78
ここ30年くらいの考古学の進歩を全く知らない昔の畿内自生説論者がスレに紛れ込んでるな
0722日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:44:45.95
>>718
悪口いうだけ
「寺澤が言ってる」もウソだった

どうしようもないね九州説は
0723日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:46:39.60
>>710
>連続性がないと書いてるやん

は真っ赤なウソだったでしょ
九州説さん、ウソをついたら負けだよ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:47:54.05
寺澤なんて知らね
そいつが何言ってようとどうでも良いわ
0725日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:50:38.97
>>722
小学生の口喧嘩並やな、畿内説
0726日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:51:09.93
>>710
>連続性がないと書いてるやん

は真っ赤なウソだったでしょ?
ウソつきさん

九州説は失格退場
0727日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:52:40.04
伊勢遺跡→纏向遺跡だと言ってんだろうがボケ
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:53:11.82
>>725
>小学生の口喧嘩並やな、畿内説

罵って誤魔化してもダメ
貴方の言い張ってたことはウソでしたから
0729日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:53:12.29
学者の書いたことを全て鵜呑みにする必要はないが、学者の書いたものをたくさん読んで咀嚼しなければ、筋の通った自論は決して出来ない
0730日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:54:27.69
ここの見苦しい畿内自生説の残党は少なくともこの「咀嚼」が全く出来ていない
読解力がないのだろう
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:54:46.74
>>729
邪馬台国論争なんか知識が無いど素人でも参加できるよ
0732日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:55:34.96
>>731
参加してもいいが枯れ木も山の賑わいの枯れ木にしかなれないよ
0733日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 10:58:12.79
陳寿が書き間違えたと言ってる方がましってくらい無理矢理な解釈をしてるからど素人でも矛盾を指摘できる
0734日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:00:06.98
>>732
確かにそういう場合もあるし勉強にはなるけど邪馬台国以前の初歩的なバカもたくさん居る
0735日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:07:08.91
>>730
>ここの見苦しい畿内自生説の残党は少なくともこの「咀嚼」が全く出来ていない
>読解力がないのだろう

具体的な内容のない悪口をいくら言っても
なんの反論にもなりません
九州説が恥をかくだけ

ましてや露骨にウソついちゃってるものねえ
最低でしょ九州説って
0736日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:09:16.15
>>729
学者の書いてるものが筋の通ってない作文ばかりなんだが?
考古学者なんてのは一般人にも満たない底辺しかいないんだよ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:11:47.62
>>734
同意w
0738日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:12:49.09
魏志倭人伝と後漢書東夷伝の倭国大乱を比較すると、





《その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、
互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。》




《桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、
主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。》





桓霊(かんれい)の間 =後漢の桓帝・霊帝のころ。 すなわち146〜189年の間。

桓帝の在位期間146〜168年、霊帝の在位期間168〜189年

倭国大乱が160年頃から始まったと考えると最初の男王が邪馬台国に
居住して七、八十年後の出来事になるから最初の男王が邪馬台国に居住したのは
80〜90年頃になる

最初の男王を神武天皇だとすると107年に後漢に朝貢した帥升は綏靖天皇か
安寧天皇あたりだという事になる
0739日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:13:17.78
断絶してるのだから連続性は無いだろ
ゴネるところかね?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:14:02.16
>>736
そんなことないよ
自分がやったら何年も掛かる(又は何年掛かっても出来ない)ような調査とその分析の結果が短時間で手に入れられる
読まない手はない
0741日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:16:21.21
土器の外側についてる煤のデータを採用してたら
その煤は信ぴょう性が怪しいから採用しないでやってみてって思ちゃうな
0742日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:23:43.89
>>741
採用してるって証拠は?
0743日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:25:45.12
>>736
>学者の書いてるものが筋の通ってない作文ばかりなんだが?

という証拠は?
0744日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:29:16.62
>>739
>断絶してるのだから連続性は無いだろ

という根拠は?
九州説は、根拠もなくゴネるの?
0745日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:38:46.48
詳しくてすげえ勉強になるブログとかあるけど
それでもあれ?って思う事はある
全く同じ考えをしてるんじゃないし仕方がない
0746日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:40:56.42
>>744
>という根拠は?

根拠は、碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡が無いから!   @阿波
0747日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:42:28.25
>>746
当時はまだ碌な鉄器作ってないから
0748日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:45:23.69
鉄の鏃と銅の鏃が同時に出る
当時はどっちが優れてるとかないんでしょ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:47:03.84
>>749
富雄丸山の蛇行剣
0752日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:48:56.57
>>751
さあ、滋賀県あたりじゃないか?
0753日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 11:59:49.60
帯方郡から邪馬台国までの里数、同じく帯方郡から不弥国までの里数
も記載しているので、日数を考慮するのは大間違い、歓迎されて同じ
所に何泊もする事は現代でも普通に起きている、単純に方角と
里数だけを考えれば良いだけ
0754日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 12:00:35.03
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0755日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 12:05:06.62
>>753は倭人伝無視のトンデモ説な


さすが九州説
0757日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 12:12:04.19
>>744
>という根拠は?

根拠は、碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡が無いから!   @阿波
0758日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 12:13:40.80
方角を90度間違えて遭難する畿内説
張政の帰国時も90度方角を間違えたまま送り届けたというのだろうかw
0759日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 12:19:22.52
九州説信者よ、畿内説信者と遊ぶには、バックに遺跡が要るんだよ。 まぁ、九州では無理なんだろうがww   @阿波
0760日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 12:23:47.46
>>758
>方角を90度間違えて遭難する畿内

間違えたっていう証拠は?
九州説さん、また理由もなく決めつけ?
0761日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 12:43:34.60
戸数や里数は陳寿または資料が間違えてるんでしょ?
そういえば良いのに
0762日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 12:58:19.32
なるほど、九州以外ですね。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 12:59:44.72
>>761
>戸数や里数は陳寿または資料が間違えてるんでしょ?
>そういえば良いのに

一体どんな理由があって
九州説はそんなこと決めつけるの?
0764日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 13:36:37.75
九州説は張政を一ヵ月、太平洋を水蜘蛛で歩かせた
0765日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 13:39:38.58
畿内説は科学的思考能力に欠けてることがよくわかる
0766日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 13:43:58.67
陸を船で進み、海を歩いて行くのが九州説
0767日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 13:48:11.73
>>765
などと理由もなく言い放つほどに思考能力が欠如しているのが九州説信者
0768日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:00:32.46
俺なんて行程は女王之所都水行十日陸行一月だけが正しいと思ってるよ
他は全部間違い
0769日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:01:24.16
南至投馬國水行二十日も正しいな
0770日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:11:30.04
帯方郡または楽浪郡から水行二十日半島南端に着く
そこから水行十日で列島に着く
陸行ひと月で女王の所都
こんなにピッタリなのも無いと思うが賛同者があまり居ないなあ
0771日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:23:14.19
投馬国を朝鮮半島に、邪馬台国を太平洋にワープさせないと成立しない九州説
0772日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:30:03.05
九州は倭奴国。畿内は大倭国。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:30:33.01
>>771
投馬国が朝鮮半島でなんかおかしいか?
里数と日数をつなげる方がおかしい
これは九州とか畿内とか関係ない
0774日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:36:50.74
>>773
>投馬国が朝鮮半島でなんかおかしいか?

おかしい以前に、考古学的に否定されてる

>里数と日数をつなげる方がおかしい

理由もなく「おかしい」ものなどこの世に無い
0775日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:39:24.08
>>774
普通里数と日数を混ぜたりしないでしょ
0776日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:42:11.09
>>774
考古学的にってわけわかんねえ
陳寿の記述は名違ってると俺は言ってるのに
0777日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:46:28.09
>>773
>里数と日数をつなげる方がおかしい

お前の頭がおかしい。   @阿波
0778日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:47:50.84
そのままだと太平洋上なるからおかしいんでしょ?
だったら何処かに間違いがあると考えなきゃ
0780日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:52:02.86
>>777
おまえは確かに矛盾が無いように考えてるな
ただし短里は存在しない
あんなの辻褄が合わなくて苦し紛れに考え出したに過ぎない
根拠がまるでない
0781日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:52:25.55
>>775
>普通里数と日数を混ぜたりしないでしょ

なぜ?
0782日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:54:35.88
>>776
>考古学的にってわけわかんねえ

考古学を知らないなら
わからないのは当然だ
0783日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:55:48.08
>>780
>あんなの辻褄が合わなくて苦し紛れに考え出したに過ぎない

「魏志倭人伝」の通り、辻褄が合って、ちゃんと「阿波」に到着する。   @阿波
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 14:55:50.62
>>781
あれじゃ距離も日数もわからん
0785日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:01:07.34
里数と日数を混ぜていったい何を伝えたいのか?
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:02:16.54
まあ畿内説はムーみたいな考え方してるからオカルト寄りではあるな
0787日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:08:23.95
>>785
>里数と日数を混ぜて

混ぜていない。 九州と四国で表現を変えているだけ。   @阿波
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:10:50.11
>>787
九州とか四国とか知らないでしょ
0789日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:11:11.63
>>784
>あれじゃ距離も日数もわからん

なら、なぜそういう表記が他の史料でも有るの?

0791日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:13:51.51
トンデモの観察には阿波を見るのが良い
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:15:09.50
>>789
それをなぜとなぜ聞く?
0793日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:16:42.67
>>791
「阿波」をよく見て、今までの間違いった常識を改めなさい。   @阿波
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:19:09.98
対馬を出発して隠岐の島を目印に流れて来るんでしょう
0795日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:32:58.12
>>792
>それをなぜとなぜ聞く?

里数と日数を混ぜておかしくない理由を啓蒙してあげたいから
0796日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:33:19.92
阿波の言う倭国は阿波と言う狭い範囲
0797日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 15:59:57.32
東南の方向に浮かぶ島としか中国人は知らねえよ
0798日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:02:43.51
魏使は四国には行っていない、九州から見えただけ
0799日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:03:29.72
>>774
行程として船できて
里程で九州まで説明して
陸上700里を歩いたのに

そこからまた船が有るのがおかしいし
直列する行程なのに
里程100里が、南至、水行20日に
繋がる文を書いたとしたら、

三国志を書いた
陳寿の文では有り得ない。

そもそも陳寿は、
魏時二回の渡航者の説明による
倭国の情報を記録した、と
東夷伝序文、評曰に記している。

筆致の違う二人の報告書が並んでいる。
投馬国は、弁韓の仮称である。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:05:45.74
朝鮮投馬国はトンデモの極み
0801日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:08:08.22
裸国黒歯国まで舟行一年と書いてるけど日本だと思ってないでしょ?
そのレベルで書いてるんだよ
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:13:43.07
>>801
楽浪海中に、あるいは連なりあるいは孤立しながら
分かれて百余国の島国があってその百余国に倭種が住んでるという認識だから
東南大海の中の島国が倭種の国の可能性があるという認識で引用されたんだろうな
0803日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:14:51.63
これは倭に関する記述だろうと思えば書き写したんだよ
それが正しいか間違ってるか陳寿に判断できない
0804日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:16:28.70
>>774
>そこからまた船が有るのがおかしいし

どうして?
魏の使者が辿ったコースだなんて倭人伝にひとことも書いてないけど?

>陳寿の文では有り得ない。

理由は?
あなた何も言ってないけど

>東夷伝序文、評曰に記している。

なんと?
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:22:37.51
魏と接触した邪馬台国が数百年かけて漢化した姿が大和朝廷。
日本文化は先進的な漢化と伝統的な倭文化との葛藤を経て融合して生まれたのだ。これが真実。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:28:33.37
魏志の女王国東渡海千餘里復有國皆倭種
魏略の倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種は
明らかに陳寿は魏略を書き写してるけど見てる場所が違うよね?
魏志では九州から本州を見てるように読み取れるけど
魏略は大陸から日本を見てる
0808日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:49:42.40
ただ魏略は行程も書いてて対馬一支末盧の渡海がそれぞれ千里と書いててここ矛盾する
0809日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:52:21.54
>>806
そんな解釈してる人はほとんど居ない
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:54:56.89
>>806
>明らかに陳寿は魏略を書き写してるけど見てる場所が違うよね?

魏略にそう書いてあった保証ゼロなので、その解釈には意味がない
0811日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:55:45.02
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種の渡海千里は公式の里数だろうが
対馬一支末盧のそれぞれ千里はなにか間違えたんだろう
陳寿は対馬一支末盧のそれぞれ千里が正しいと判断してしまった
0812日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 16:57:53.49
>>810
魏略曰くだから
それを言い出せば魏志だって何度も書き写してるし写し間違いがあるかもしれない
0813!donguri
垢版 |
2024/05/08(水) 17:00:53.10
東夷伝序文 より
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
↑ 陳寿の書き記した倭人伝の意義
遂 周觀 諸國/各有 名號 可得 詳紀 が

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王

評曰 使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
魏時2回の使譯は、倭人伝外交記録によって
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
と 65 其八年 太守王頎到官
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
であり、倭人伝冒頭の
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
以降に、筆致の違う二人の報告書で
伊都に到る万5百里の里程と、
女王の処都まで万2千里の日程、女王国の詳細説明文が列記されている。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:03:32.61
>>796
>阿波の言う倭国は阿波と言う狭い範囲

違う。
「卑彌呼」・「壹與」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+東部讃岐+南部淡路島 程度だろう。   @阿波
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:04:26.62
>>813
不弥国まで書いてあるし誤魔化しだな
そもそも目的地は女王の所都である邪馬台国であって伊都国や不弥国ではない
0817日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:06:28.23
>>814
倭国がそんな狭いわけねえじゃん
倭在帯方東南大海中だよ
0818日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:06:35.17
>>801
>裸国黒歯国まで舟行一年と書いてるけど日本だと思ってないでしょ?

思っている。
伊豆諸島の神津島だ。   @阿波
0819日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:07:00.43
評曰・・使譯時通記述隨事豈常也哉

東夷までも使訳が時に通うようになった。記述は事の変化に随うべきである。どうして常のことがあるだろうか!
0820日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:07:29.05
>>812
>魏略曰くだから

それ、誰が言ってます?
信用のおける相手かどうか、ぜんぜん考えないの?

それって学問じゃないでしょ九州説さん
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:09:15.11
>>817
>倭国がそんな狭いわけねえじゃん

時代による。 時代が下るほど、広くなる。   @阿波
0822日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:09:24.03
>>820
俺は九州だなんて一度も言ってないし九州説ではない
0823日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:09:25.50
行程記事が間違ってるなら
記事の解釈で比定することはできない
考古資料だけで倭国の領域を推定するしかない
0824日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:10:08.62
>>821
中国人がそんなピンポイント知らねえって
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:11:47.52
>>823
>考古資料だけで倭国の領域を推定するしかない

「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」で「阿波」確定!   @阿波
0826日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:12:18.30
>>823
陳寿は意図して出鱈目を書いたんじゃ無いから
知らない中で資料を読んで想像して書いた
0827日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:13:36.76
>>824
しょっちゅう往来している倭人(阿波勢力)から聞いて知りぬいている。   @阿波
0828日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:15:01.90
>>826

で間違った行程が書かれてるんだろ
間違ってるなら比定はできない
0830日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:17:48.79
>>822
馬鹿だったら九州説
0831日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:18:06.05
>>828
まあそうとも言えるかな?
だから遺跡が出ない事には証明にならないと思ってる
0832日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:19:30.32
徳島と言えばボンカレー
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:21:54.18
>>819
(筑摩書房「三国志」)
評にいう、『史記』や『漢書』は朝鮮や両越のことを記し、後漢の歴史書は西羌のことを記録している。魏の時代には匈奴がだんだんと衰勢に向かい、代って烏丸、鮮卑さらには東夷までがあらわれて、使者や通訳が時おり(これらの地域に)往来するようになった。歴史の記述は、それぞれの時代に起った事を記録してゆくものであっって、扱わねばならぬ対象がつねに定まっているというものではない。(だから、両越や西羌の伝をはぶいて、烏丸・鮮卑・東夷などの伝をたてたのである。)
0836日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:26:55.02
魏の使者の中には測量専門の技術者も同行していて、1日何時間歩けば
何里と言う事は広い中国大陸の測量を何度もして理解しているから
倭人伝に記載している帯方郡〜邪馬台国の里程1万2千余里と不弥国までの
里程は信用できるので邪馬台国は不弥国から100数十kmとなるのも
完全に信用できるので邪馬台国は北部九州内で決定する。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:30:14.44
>>836
>邪馬台国は北部九州内で決定する。

と宣言されても、チンプンカンプン。   @阿波
0838日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:31:55.07
>>813
>評曰 使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

「そもそも陳寿は、魏時二回の渡航者の説明による倭国の情報を記録した、と東夷伝序文、評曰に記している」

なーんて事実、ありませんでしたね?


 
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:31:55.50
>>813
>評曰 使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

「そもそも陳寿は、魏時二回の渡航者の説明による倭国の情報を記録した、と東夷伝序文、評曰に記している」

なーんて事実、ありませんでしたね?


 
0840日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:41:48.40
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである








.
0841日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:41:54.85
>>830
馬鹿じゃねーの

纏向は邪馬台国の王都と畿内説がぶち上げて、ずいぶん経つが
なんら進展せず、倭人伝の記述と合致する遺物が見つからない
いまだに、カエル、桃、水路、前方後円墳、土器、、、、なちゃら、、、
倭人伝に出てこねーし

おまいら、嘘ついちゃだめだよ
倭人伝記述と合致する遺物を纏向で列記しないとね
0842日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:41:55.12
>>830
馬鹿じゃねーの

纏向は邪馬台国の王都と畿内説がぶち上げて、ずいぶん経つが
なんら進展せず、倭人伝の記述と合致する遺物が見つからない
いまだに、カエル、桃、水路、前方後円墳、土器、、、、なちゃら、、、
倭人伝に出てこねーし

おまいら、嘘ついちゃだめだよ
倭人伝記述と合致する遺物を纏向で列記しないとね
0843日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:43:27.78
>>806
陳寿が魏使二人の報告書を正確に引用しているのに対して
魏略は伊都と邪馬台国の位置関係を正確に把握している。
魏略は二つの記録から、自分の頭の中で地理を構成しなおしている。

陳寿の南至投馬国20日と邪馬台国10日は
帯方郡から九州上陸と重複なので要らなかった。
これは報告書と九服外域の概念図を見れば一目瞭然。

伊都は九州上陸後500里。
女王の処都は上陸地から陸行1月行=2000里である。
行程に海里千里の九服50歩一里での500里設定の誤差、
目測100里、300里、400里、以上の間違いはない。 
0844日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:43:46.92
>>841
だから、倭人伝記述と合致する遺物を列記できるのは「阿波」だけ と、何度言えばww   @阿波
0845日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:44:45.09
畿内説は
倭人伝を否定して成り立つ説

倭人伝なかりせば邪馬台国も卑弥呼も存在しないことをわかっていない、いいかげんな畿内説。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:47:10.30
>>843
>伊都は九州上陸後500里。

魏略にも、そんなことは書いていない。   @阿波
0847日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:48:21.90
>>844
よーーく考えようね
簡単なことだよ
阿波は畿内邪馬台国の出先なのですよ
すっきりするでしょ。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:48:36.71
日本の学問の通説畿内説は、
倭人伝で会稽東冶の東に推定している行程は使わない
0850日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:51:58.20
>>843

>南至投馬国20日と邪馬台国10日は
>帯方郡から九州上陸と重複なので要らなかった。

このようにちょろまかせばどこにでも比定できてしまう
0852日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 17:58:55.38
>>836
>魏の使者の中には測量専門の技術者も同行していて、1日何時間歩けば
>何里と言う事は広い中国大陸の測量を何度もして理解しているから

それ、あなたの空想ですよね?
0854日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:01:20.34
>>843
>陳寿が魏使二人の報告書を正確に引用しているのに対して
>魏略は伊都と邪馬台国の位置関係を正確に把握している。

っていう理由は?
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:07:57.97
>>848
そもそも、
会稽東冶の之東と言うのは
道里と言う行程を表現する文言でもなく、
倭国の説明でも無い。

種子島以南の緯度一点を言っているわけで
当時の中國は、倭国は九州南端から
沿海州の東迄繋がっていることは認識している。
つまり、この文章は公文書化、版本時等の
太伯の後の 一文削除によって、壊れている。

金印配達の梯儁が女王国の仮称とした
和名音参問の邪馬国に有った卑弥呼の臺の忌避で、
邪馬台国の臺が
魏にまつわる後世の文献で壹や嘉にしても良いのも同じ理由。
唐代に曹操忖度は無い。
0858日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/08(水) 18:11:25.09
ちょろまかしは、南は東だろwww
0859日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:12:46.97
つまり畿内説はスタートすら出来ていないオワコンですよと
0860日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:13:39.80
>>856
>会稽東冶の之東と言うのは
>道里と言う行程を表現する文言でもなく、

なぜ突然結論から始まる
0861日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:15:17.33
ここで、贅六、贅六、叫んでいた基地外って誰だったっけ?
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:27:09.41
>>849
喜べよ
マイナーな阿波くん

阿波が畿内邪馬台国の出先で満足しろよ
大場番振る舞いだぞ
0864日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:30:04.85
畿内説では纏向の桃の種の炭素年代が3世紀ですよね

しかし、桃は倭人伝には出てこない  残念でした
0865日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:33:12.77
>>863
畿内邪馬台国が阿波で作らせたでいいじゃん
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:33:42.75
桃は不老不死のお薬だったので、渡来人が好んで食べていたもよう
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:35:04.09
>>860
倭人伝をそのまま読む、
と言うのは、
学問的読書行為による結論であって
畿内説のような、説では無い。

文献として陳寿の間違いや改竄が
存在しない訳でも無いが
文献の真実該当性の否定になるようなものは無いし
行間を読む必要が有る場合は歴史背景の理由が有る。

版本化されている、中国古典文献である以上
理由も無しに、地理的に南は東だ、のような
御都合主義の仮説は存在し得ない。 

論争が必要だとも思っていないが
倭人伝が結論でないなら邪馬台国論争は無意味。

一大率は246年位で中央政権が
博多湾岸に設置した外交管理官庁である。

のび太君、日本の古代史を見つめなくちゃw
日本は考古学が歴史の話出来ないとかw
中学生に笑われてるんだよ。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:36:35.09
当時、不老不死の生き物が居たんだろう。そうなりたかったのかも
0869日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:37:02.72
>>865
自前で鉄器さえも作れない所に王権が立つと思うか?  世界にそんな陳腐な王朝があるか?   @阿波
0870日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:44:27.74
たしかに
自前で鉄器さえも作れない所に王権が建つはずはないな。
天皇の大和政権はやはりちがう場所から発展したのではないか。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:45:35.91
>>856

>当時の中國は、倭国は九州南端から
>沿海州の東迄繋がっていることは認識している。

根拠は?
0872日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:47:39.54
>>870
だから、自前で鉄器を作っていた「阿波」 だと、何度言えばww   @阿波
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 18:50:10.08
>>869
やっぱり弥生時代の本格的な鍛冶遺構が確認されてる房総ですよね  邪馬台国は安房!
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:04:06.25
>>871
なんで、三国志読まないの?

其後 高句麗 背反 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 践 肅慎之庭

既出↓
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀

246年高句麗沿海州に追ったのは後の帯方太守
肅慎の沿海から日の出るところは、日本海の向こう

倭人伝否定は、邪馬台国全否定だろ?
邪馬台国は
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁
の、自称国名が無かった女王国の仮称で

その国域は
参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
魏使の最終到達点、九州北部南北2千里に収まる。

250年の女王国以南はヤマト朝廷にも属していなかった。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:10:26.79
>>874
魏志の女王国東渡海千餘里復有國皆倭種
魏略の倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種は
明らかに陳寿は魏略を書き写してるけど見てる場所が違うよね?
魏志では九州から本州を見てるように読み取れるけど
魏略は大陸から日本を見てる

俺の書き込み、別におかしくないでしょ?
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:13:21.00
>>876
>魏志では九州から本州を見てるように読み取れるけど

読み取れない!   @阿波
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:16:28.87
>>861
0880日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:16:47.96
ぽこぽこ前方後円墳が建設されてるんだが、
そんなたくさん大王がひしめき合ってた世界なんぞ
記紀にも倭人伝にもない
0881日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:18:32.34
>>880
だから、倭人(阿波勢力)有力豪族のお墓 だと、何度言えばww   @阿波
0882日本@名無史さん
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2024/05/08(水) 19:20:00.38
>>874
高句麗討伐は玄菟太守王頎

>>876
魏略でも韓倭間は三千里程度あるので、「度海千里復有国皆倭種」の視点は倭国からであることは明らか
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:22:07.06
前方後円墳は朝鮮半島にもメチャクチャ作られてるのよ。
空白の4世紀とか言ってられないワナ。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:24:06.17
>>883
だから、倭人(阿波勢力)有力豪族のお墓 だと、何度言えばww   @阿波
0885日本@名無史さん
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2024/05/08(水) 19:25:36.05
>>882
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
おまえ何言ってんだ?
これがあっての話しだからな
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:26:51.18
>>876
そんな解釈してるひと見たことない
0887日本@名無史さん
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2024/05/08(水) 19:27:17.77
>>864
纒向の桃核12個を調べると3世紀の可能性が高かったが、2世紀の可能性も高いことを示しており、12個だけではなく、もっと数を増やすべきと見る
0888日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:27:23.50
空白の4世紀に、
実は歴史上最も朝鮮半島に
倭人がメチャクチャ進出していた
と言っていいだろう。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:27:39.32
>>886
知らんしどうでもいい
0890日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:29:08.55
>>889
そんな解釈してるのお前以外いないんじゃね
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:33:31.03
>>867
南を東に変えたというような表現をすべきではない
陳寿は倭国は南北に伸びていたと認識していた、あるいはそのような地図があったと解すべきである
古今華夷區域總要圖、四海華夷總圖、混一疆理歴代国都之図、ヴァルトゼーミュラー地図からも明らかである
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:34:09.77
>>890
書いてあるまんまで解釈でもないんだけどな
0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:36:14.62
>>870
ホケノ山、桜井茶臼山、椿井大塚山からも、遅くとも2世紀末には畿内において鉄器が大量にあったことは確実である
0894日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:37:21.05
>>891
太陽が昇る方角が東  船で行く人が東がどっちか間違えますか?  海の東の果ては安房!
0895日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:39:16.35
>>893
ソレは4世紀の墓だろカス。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:41:10.10
九服之制により、帯方郡→狗邪韓国は六服7000里と決まっている
それに周旋5000里を足せば、女王之所都12000里である
したがって、短里なるものは存在せず、邪馬台国までの12000里とは単に天下観念によるものとする東潮を支持する
0897日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:41:29.08
>>891
当時地図を描くほど知識も無いし晋代に嘘を書く理由も無い
倭人在帶方東南大海之中
なによりこの認識から無理がある
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:42:52.04
>>895
ホケノ山を3世紀前半の可能性と考える橿考研を支持する
0899日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:45:22.04
893
古墳ともども、鉄器王国「阿波」によってな。   @阿波
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:48:10.79
>>896
>邪馬台国までの12000里とは単に天下観念によるものとする東潮を支持する

であるならば、萬余里とする。 よって、却下!   @阿波
0901日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:49:05.34
狗邪韓国→金官伽耶
對馬国→対馬
一支国→壱岐島
末廬国→松浦
伊都国→怡土・糸島(福岡早良地区を含む)
奴国→那の津・那珂川
不彌国→宇美~北九州
投馬国→妻・都間
邪馬台国→山門八女~日田~大分
狗奴国→隈・熊襲
侏儒国→種子島
コレは確定しており議論する余地はゼロ。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:49:06.61
>>558
ごめw
吉ヶ浦は福岡県太宰府市
赤井手は福岡県春日市
0903日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:49:10.95
>>897
陳寿は全く嘘を書いていない
「倭国にあるもモノ、ないモノは海南島と同じ」とする記述から、何らかの理由で倭国が南北に伸びていたと認識していたというべきである

最も参考になるのはヴァルトゼーミュラー地図であろう
倭国は北緯35度〜5度に位置している
ヨーロッパはほとんど現在と変わらない国土と緯度を誇っているが、倭国は魏志倭人伝等に依拠したことか確実である
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:51:32.94
ホケノは槨埋葬だから。
邪馬台国からは外しましょう。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:54:21.23
張政が19年滞在した場所が、
国東半島の安国寺集落遺跡周辺で、
今でも張政が日本に残した子孫、
弓長氏が住んでいるのだから驚きだ。
元阪神の弓長投手がその子孫の有名人である。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:57:01.09
ちなみに、邪馬台国の男系子孫の有名人が丹波哲郎な。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:57:59.99
>>904
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼の墓はこれしか書いてないから
読んでるか?
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:58:01.99
>>1
纏向宮を卑弥呼の宮殿にしたのはいいが、
崇神天皇そして日本国ヤマト政権はどうなるのかね?
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:59:06.34
>>908
崇神天皇なんて居ない
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:59:19.11
>>907
ソレがどうかしたのか??
0911日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 19:59:59.59
>>874

倭国は九州南端から沿海州の東
の根拠になってねえじゃん
0912日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:01:46.10
記紀に出て来る天皇はどうなってるんだなんて全くもってアホらしい
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:04:57.45
一大卒が大若子=御馬皇子=大幡主命で、
野芥櫛田神社辺りがその候補地になる。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:06:05.92
>>905
張政は247年のうちに帰国してる
0915日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:06:30.78
博多祇園山笠は、
実際には弥生時代から続く祭り事で、
一大卒が奴国を練り歩いて監視した事の名残なのだ。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:07:47.25
>>914
だから、その日本に残した子孫が弓長氏だ。
ちなみに張政の娘の迦具夜比売は晋に帰っている。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:12:03.76
>>917
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:18:11.06
>>919
天智天皇とか天武天皇とかその辺でしょう
0922日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:19:24.08
前世紀に絶滅したとされる動物「ツダソーキチシンジャ」を>>909>>912に現認
この調子ならニホンオオカミもニホンカワウソもまだ生存してるな
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:20:54.49
庄内期が2世紀に遡ると大賀克彦、堀大介は言う。
これに加えて、14Cとも整合させ、纒向の建設を150年頃とする岸本直文を支持する。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:21:18.52
>>921
大王は居た
名前はわからん
とりあえず一人だけ
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
0925日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:23:12.70
阿波説は博多を知らない
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:25:15.10
>>924
阿波君って書いてあるな!
0927日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:25:18.71
AC600年に居たのは大王阿毎多利思北孤か推古天皇かさあどちらでしょう?
0928日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:34:03.24
行燈山古墳の埋葬者は2017~18年にこっそりとDNA鑑定がなされており、
D1a2a1a2b1a1a...CTS8093と結論が出ている。
これを崇神とするか、垂仁景行天皇とするかという事だろう。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:43:27.36
>>923
あーあとうとう倭国大乱(2世紀末)よりも前になってしまったか
纏向は東の倭種と確定してしまったな
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 20:48:49.51
>>926
阿毎字多利思北孤も
阿輩雖彌遣使詣闕も
阿波君も
阿波の「「阿」   @阿波
0933日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 21:07:44.04
AC600年にいきなりこれだもんな
崇神なんか居るわけねえ
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 21:18:11.62
>>930
考古学成果によれば「弥生戦乱」状況は地域を遷移させつつ約300年間継続したものとみられている。
後世の外国で、しかも伝聞によって編纂された文献に謂う「倭国(大)乱」が必ずしも戦乱の実態を正しく書き得たものとは云えない。
「弥生戦乱」終末期数十年間の局面のみを切り取った誤認識である蓋然性が高い。
 
0936日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 21:27:57.00
倭国大乱の前は男王の時代が70-80年続いたと書かれてるが
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 21:29:56.79
>>936
その前は?
0938日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 21:29:57.82
>>932
阿波の阿は阿保の阿。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 21:35:15.69
魏志倭人伝の倭国乱は九州の1部の混乱で、弥生戦乱とは別物だろうと
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 21:46:05.09
布留0も布留1も周濠に投げ込まれた土器なんだ
墳丘では竣工直後に営まれた会式の跡があるだろう
そこから纒向3類(庄内II式)が出るから
そこでまた議論百出するだろう

箸墓が卑弥呼の陵とは思わんがね
0941日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 21:51:40.50
戦時中にあんな奢侈な大陵を作ってる余裕なんかないだろ
0942日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 21:56:43.59
>>940
量が多いから、新しい土器が使い勝手が良いので、古いのを捨て新型に切り替えた。
は、あり得ないか?
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 22:01:19.29
>>942
周濠はリサイクルセンターやないぞ
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 22:03:08.68
箸墓古墳の周濠に、水が溜まっていた痕跡はあるんですか?
0945日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 22:20:00.50
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0946日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/08(水) 23:57:58.75
YouTube動画を見てみるとネトウヨのインターネット声闘はますます激しくなっているようだな
全く無駄なことだ。邪馬台国は大和王権であり日本の天皇の卑弥呼は中国に臣下の礼をとったのである。

日ユ道祖論や平田篤胤の教学を信奉する輩が日本会議の構成員にいて、彼らが工作活動をしているのだろう
0947日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 00:12:57.25
ソントはチョンコの特技
0948日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 00:24:11.61
ヤマト政権の母体は狗奴国で一時大和を占拠した邪馬台国卑弥呼によって滅ぼされかけていたが耐え抜いたんじゃないか
狗奴国は河内和泉で
ヤマト政権の宮が必ずしも大和の地にあるとは限らないんじゃないかなと

文身の風習のある海人の国女王国は、農耕民や狩猟民など多様な人々を反映してない点も気になるところだ
0949琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/09(木) 00:53:42.36
無駄だよ。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 00:59:38.51
海人の国の王都に行くのに一月も陸行するわけないだろ
0951琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/09(木) 01:05:59.66
王墓はその時代の思想理念に基づく
神仙思想が忽然と畿内に現れたのだよ、それまでの半島や列島に無い北枕、北辰の墓なんだな。しかも五段
麒麟だよ。無駄だな。
0952日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/09(木) 02:05:20.38
>>948
> 文身の風習のある海人の国女王国
 
ヤマト王権草創伝説に見る建国王の盟友は黥面の人。
而してヤマト原住民はそれを見慣れぬ奇怪なものとして扱っている。
伝説を文書化した天武朝がオリジナルヤマト王権と如何なる関係に在るものか定かではないが、
少なくとも天武朝時点では王権草創に於ける「ヤマトならざるもの」の参入を公式見解として認めていた。
 
0953日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/09(木) 02:05:23.55
王母とか言ってそいつらが持ってるものしかイメージしねえしな

中国人が偉大だの思ってるバカなぞいやしねえぞ

都合よい夢を見たいだけだと思うがおまえらの現実どおよ?
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 02:06:54.86
952
だからそのヤマト王権なんて呼ばれるものは存在しなかったぞ

もしかしたらおまえらが勝手にそう呼んでただけなのかもな
0955日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 02:09:19.13
ヤマトなんて名称が使われるようになったのは1000年ころからだしな

中国との交易だのも増えてきたから公式に使いだしたんじゃねえの?

そもそも天智天皇らがいたころのあの辺の名称はアスカだろw
0956日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 02:10:28.60
おまえらが制定化しようってのが無理なんだよ

嘘ばかりほざきやがってよ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 02:20:09.39
ああ、なるほど。
此奴は先日まで質問スレで暴れていたキ印だな。
スレが潰れて世界史板に河岸を変えたようだが舞い戻って来たか。
0958◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/09(木) 02:25:32.87
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715184472/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0959日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 02:44:36.71
>>952

黥面土器が多く出るのは瀬戸内と東海
黥ける利目(目の周りの刺青)を奇妙に思ったのは
国津神の大物主神の娘のイスケヨリヒメ
天津神には黥面はない
0960日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 02:54:54.33
>>955
日本武尊と倭建命
0961日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/09(木) 04:23:29.43
魏志韓伝だと馬韓10万戸、弁辰4〜5万戸
邪馬台国・投馬国もこれに見合った規模を想像するのが普通の人
両方九州北部にブチ込むのがアホな人
0962日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 05:51:34.61
ヤマト国風土記にある天津神と石津神の三都のまぐわいは婚姻のこと
これが本来の形
石津神は五色の石神とひるこでしょ
天津神とは縄文時代以降全ての渡来人じゃないか
石津神とは旧石器時代からいる人々

岩や松に掛けてあった神女の羽衣を漁師が盗む話が駿河国ふどきや各地の伝承に残る
これが倭国大乱とその後の文身の海人の国女王国誕生の話だろう
黥面土器が集中している尾張と吉備
当時の尾張の大部分は海で真ん中に中島というでかい島があった
駿河には弥生時代後期登呂遺跡など複数の集落が誕生する
全て河内や摂津の玉津田中遺跡と同じ形の鳥形が見つかる集落跡である
弥生時代鳥形の集落が集中している河内和泉は石棒祭祀を守り続けていた地域でもある
0963日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 06:06:21.33
弥生時代後期、西は九州一円薩摩半島、美々津、五島列島、壱岐、博多、遠賀川などから東は富山東京まで一斉に龍の絵画土器が広がる
吉備も龍の絵画土器が集中しているエリアだ
唐古・鍵遺跡や橿原から龍の絵画土器、鳥装のシャーマンの絵画土器が見つかっており、大和の地も元は龍と鳥のエリアだった
龍の絵の変遷を見るとオリジナルは池上曽根遺跡と柏原の船橋遺跡
最古の龍の絵画土器は池上曽根遺跡である

元々河内和泉摂津出雲鳥取野洲川小松高松辺りは鳥形の集落があったが、弥生時代後期琵琶湖北部若狭、東海に一斉に鳥形の集落が誕生する
全て河内や摂津の鳥形と同じ形の鳥形である

弥生時代後期の中心は龍の絵画土器と鳥形から見ると摂津河内和泉にあるのがわかる
その生き残りが邪馬台国の南にある、河内湖と大和川の南の狗奴国だろう

吉備の土器が大量に見つかる纏向遺跡からは龍の絵画土器は見つかっていない
龍や鳥を排除する形で下克上が起きたのが倭国大乱で、纏向遺跡や女王国は下克上の結果誕生した国なんじゃ無かろうか
0964日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 06:28:04.08
古墳時代、垂仁天皇の時代や忍熊皇子の時代、イサの名が活躍する時代である
丹後もまた丹後国ふどきいつぶんを見るといさなご岳にトヨウケが降臨する話があるなどイサの地であった

2世紀後半大和盆地を含めて畿内に円墳が現れるが古墳時代になると姿を消し、4世紀後半再び円墳が現れる
古墳時代円墳が流行っていたのは九州東岸だ
鰐の地でもある
熊襲の頭はイサオであり九州西部も元々はイサの地だったんじゃないか
イサを追いやったのは同じ海人である鰐ではないか?

鯨魚取り・勇魚取り、いさなとりという海、浜、灘にかかる枕詞がある

壱岐国ふどきいつぶんには鯨の話がある
鯨伏郷(いさふしのさと)。郡の西にある。

昔、鮐鰐(おほわに)に追われた鯨が、逃げて隠れ伏した。故に鯨伏(いさふし)という。この鰐と鯨は共に石と化し、互いに一里を去った。地元では鯨を伊佐(イサ)という。
0965琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/09(木) 07:39:17.65
龍や鳥の排除から神仙思想が誕生するとするのはちとおかしい。龍と鳥は西王母でもある
0966 警備員[Lv.16][苗]
垢版 |
2024/05/09(木) 07:46:40.08
龍や鳥の文化を排除したのがまさに神武東征でしょう
纒向が築造される頃に奈良盆地は東南部主体に拠点集落、文化、墓制などあらゆる面で激変した
まさに外来勢力による征服そのものだ
0967日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 07:51:03.56
>>966
>纒向が築造される頃に奈良盆地は東南部主体に拠点集落、文化、墓制などあらゆる面で激変した

理由は簡単な話である。
激変をもたらした絶対的理由は、異常な気候変動によるものである。   @阿波
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 07:51:41.13
>>966
それをがね
鉄に代表されるように文明的に畿内の3世紀は劣っているんですよ
0970日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 07:58:49.56
つまり畿内説は100年後の東の倭種の国によるオレオレ詐欺でしたと
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 07:59:25.00
浅学非才はすぐ、外来勢力による征服などと言い出す。   @阿波
0972日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/09(木) 08:03:37.43
阿波が邪馬台国なら奈良盆地が征服されようが無関係だろうにw
0973日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:15:58.38
そもそも8世紀の皇室が、うちらの先祖は九州から来て在地勢力の一部に戦で勝ってここに定着して、その他の在地有力者とは婚姻関係をバンバン結んだ、と書いてるからな
考古学は見事にこれ(皇室の祖先は外来征服勢力)を裏付けている
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:19:25.41
>>972
阿波が邪馬台国なら、征服などしない。 「阿波」国内は、戦乱続きだが、倭種の国々に「阿波」に対抗できる勢力は無い。   @阿波
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:20:07.49
>>974
はいはいw
0977日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:20:58.97
>>976
長い文章を要約する力がないだけでしょ
0980日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:25:59.98
伊勢遺跡から移転しただけ
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:28:25.81
伊勢遺跡は征服された側の出雲系銅鐸祭祀勢力
0982日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:33:22.79
柱引き抜いて掃除して出て行ってるから戦ったわけではない
そもそも生活痕が無い
0983 警備員[Lv.12(前37)][苗]
垢版 |
2024/05/09(木) 08:36:56.73
>>970
邪馬台国は九州の南の海の中 その東の倭種も海の中
0984日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:43:14.56
九州説は宗教だから人の言葉が届かない
0985日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:44:59.53
皇室は孝霊天皇まで磯城県主娘を皇后にする
第8代孝元天皇から物部氏に変わる
第9代開化天皇もこれに倣いここから崇神天皇が嗣ぐ
後世物部氏は磯城県主の地位をしれっとついでいるが
国中が災いになったのでわざわざ堺から呼び寄せた
大田田根子その他磯城県主本来の系統を無視している

崇神天皇と、百襲姫や吉備津彦は女系が違う
ただこの2人は味方や臣下として描かれている
明確な敵の埴安彦は孝元天皇の皇子だが
やはり女系が違い、母は埴安姫
その母の父は河內靑玉繫といい
妻も出自も一才が不明という謎の人物となっている
0986ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/09(木) 08:47:22.03
古事記などでは大倭と書いてオホヤマトと読ませている
即ち倭=ヤマトというのが当時の日本の朝廷の公式見解なのである

ネトウヨには倭とヤマトを別物にしたいものがいるらしい
ヤマト王権と倭国を別にするための詭弁に使うつもりなのだろう

倭はヤマトではないというのからジャップとでも訓じるのが正しいのだろうか
それならオレも意義はない
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:54:20.96
>>984
けどそのうち教皇庁や教皇の言葉も届かなくなる
我こそは経典の本旨を悟りし者と自負して
仲間だけでセクトをつくり世俗領主がこれを支援する
プロテスタント(抗議者)の誕生
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:55:01.43
安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
ヤマト政権の宮は大和の地以外にある時代もあったんじゃないか

0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 08:57:39.51
>>986
倭はヤマトではない
ヤマトはもともと倭国ではなく若狭湾や北陸あたりから入植した渡来勢力だ
0991日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 09:20:27.48
「トンデモは理由を言わない」の法則
0992日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 09:23:05.80
>>990
倭建命
0993日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 09:23:56.31
>>987
九州説のほうが韓流丸出しだけど?
言ってることは韓国起源説そっくりだし
嘘のつき方はレーダー照射事件の時の彼方の海軍そのもの
0994日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/09(木) 09:24:43.31
>>986
>即ち倭=ヤマトというのが当時の日本の朝廷の公式見解なのである

大和朝廷が認めざるを得ない日本唯一「倭大国魂神大国敷神社 二座」   @阿波
0995日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/09(木) 09:24:57.03
なんで倭や日本がヤマトなのかって話しだわな
0996日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 09:27:35.09
これこそ中国語の倭(ワ)日本語のヤマトだな
0997日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 09:28:34.59
>>995
説明しよう。
7世紀になって漢字を読み書き出来るようになった倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」「邪馬堆」をヤマトと読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたのだろう。   @阿波
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 09:29:47.62
>>997
同じ意味で国号だよ
0999日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 09:31:29.76
>>997
おまえが言ってるのは違うわ
邪馬臺は日本語でずっとそう言ってたんだ
1000日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 09:31:49.08
朝鮮半島からの脱出避難文化人が来るまで、日本人には倭国とか日本国とかの国名という概念がなかった。  
日本国名や国名の必要性に思い至ったのは、7世紀以降。
倭国(阿波)王権の役人が、自国の事象を文字で記録するようになったからなんだろう。   @阿波
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