拠点的母集落を解体し、広域の連合を作り始める本州と違い、北部九州では未だ不弥国1000戸、末盧国4000戸などの弥生集落が存続し、
伊都国と奴国の統合もできてない

こうした弥生集落が九州で存続しつ続けた理由は不明であるが、早くも畿内第V様式圏を完成させ、庄内併行期には東海、北陸、関東、四国、吉備、出雲などの人々を集めた纒向邪馬台国政権は、
墓を次第に巨大化させ始め、前方後円墳の共有、銅鏡の配布共有をも開始し、後のヤマト王権へと繋がっていくのである。