平原は甕棺を捨てて割竹形木棺となっている
墓も非常に小さい
鏡の多量副葬は九州ではこれが最後であり、畿内邪馬台国の影響下に入ったと見る
鏡が比較的容易に手に入った北部九州では、墓を大きく作るよりも鏡を副葬する方が簡単だったろう
しかし、これは漢鏡5期までだ
7期からは畿内にコントロールされていたと見られ、変な鏡はちらほら出てくるが画文帯神獣鏡は斜縁神獣鏡は極めて少なく、三角縁神獣鏡は畿内から配布されただけだ

そうすると、平原の鏡は畿内の傘下に入ってしまった北部九州のオウ、最後の畿内に対する抵抗と見ることができるだろう