寺澤薫は纒向遺跡の突然の出現とともに、それまでの拠点的母集落(いわばムラ)が悉く衰退し、そして新たな拠点的母集落が続々と現れるなど地域における不連続的な変化を詳細に説明した上で、突発的に出現する前方後円墳についてもそれまでの在地弥生文化との不連続性を以下のように説明する
なお、文中で「第一の道論」と書いているのは、いわゆる「畿内自生説」のことだ

(纏向学研究第4号の寺沢薫「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」より)
「前方後円墳は王権の主要勢力であった旧イト倭国勢力、吉備などの瀬戸内海沿岸勢力、イヅモなどの日本海沿岸勢力の前段階の王墓の祭祀的(本質的)、階級構造的、形態・技術的諸要素を基軸として、列島各地の祭祀の統合・融合によって設計され、計画的に築造されたものであって、それがわずか30年ほどの間に纒向遺跡のなかで、纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された。
 にもかかわらず、奈良盆地はおろか畿内において前段階(第Ⅵ–2以前)に前方後円墳築造に直接繋がる要素はほとんどない。このことはヤマト王権の権力母体が大和(とりわけ「ヤマト国」)ないしは畿内から直接引き継がれたとする第一の道論にとっては決定的な弱点となる。
つまり、畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。首長層の権力の動向が如実に墓制に反映される社会であるからこそ、大和弥生社会と纒向遺跡の前方後円墳の出現にみる権力者(集団)の断絶と異質性は重要な意味を持つのである。」