弥生時代後期、畿内の見る銅鐸は突線鈕5式が成立し、東は尾張、遠江まで広がっている
西は吉備、出雲、東は東海、関東までと広域の地域から纒向の建設に来たのは、この銅鐸の広がりによるものだろう

他に、これほど広範な地域から人が集まってくる理由は考えられない