X



邪馬台国畿内説 Part1023
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:51:53.08
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715434145/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:52:41.80
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:53:18.64
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:53:56.12
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:54:29.09
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:55:02.91
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:55:36.54
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:56:10.44
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:56:44.46
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:57:18.77
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:57:52.40
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:58:22.19
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:58:53.51
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:59:23.72
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 18:59:54.92
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:00:29.73
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:01:02.34
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:01:32.94
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:02:03.68
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:06:11.48
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。

 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
0021◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:06:45.64
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:07:04.87
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:08:34.79
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:09:03.79
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:09:33.45
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:10:03.94
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:11:53.10
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
0028◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:12:33.79
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:13:03.94
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:13:34.33
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:14:03.93
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:14:33.89
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:15:04.19
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:15:33.95
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:16:03.72
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:16:33.91
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:17:03.94
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:17:34.38
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:18:34.88
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:19:04.00
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:19:34.76
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:20:34.73
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:21:05.19
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:21:34.87
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:22:04.11
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:22:34.98
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:23:05.32
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:25:01.08
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:25:33.92
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:26:10.49
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
0051◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:26:39.77
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:27:15.19
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:27:45.11
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:28:13.90
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:29:06.04
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。


 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:29:44.54
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0057◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:30:19.04
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0058◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:30:49.08
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0059◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:31:19.68
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0060◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:33:33.45
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。


 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0061◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:34:04.46
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0062◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:34:33.76
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:35:19.66
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0064◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:35:50.04
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0065◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:36:19.21
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
0066◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:36:50.10
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0067◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:37:19.95
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0068◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:37:49.81
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:38:20.21
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:38:49.62
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:39:19.53
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:39:50.11
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:40:19.70
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:40:51.49
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/14(火) 19:41:20.00
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 20:12:34.62
新しい知見を示す。

纏向土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。 

各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。   @阿波 
0077伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/05/14(火) 20:41:34.51
>>76
【東阿波型土器】
徳島県東部で大量に出土している2~3世紀頃の弥生土器。阿波の青石と呼ばれる結晶片岩を粉上にして粘土に混ぜ込ませてあるのが特徴。

ど素人が勝手に定義を変えないように。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 20:44:07.70
>>77
それがどうしたって話。  能無し!   @阿波
0079日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 20:51:33.37
969
>東は尾張、遠江まで、西は吉備、出雲、東は東海、関東までと広域の地域まで纒向の建設に来た

そんな広範囲から人が集まる訳がない。

新しい知見を示す。

纏向出土土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。 

各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。   @阿波 
0080日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:01:24.66
969
>西は吉備、出雲、東は東海、関東までと広域の地域まで纒向の建設に来た

そんな広範囲から人が集まる訳がない。

新しい知見を示す。

纏向出土土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。 

各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。   @阿波 
0081日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:33:15.62
畿内説と阿波は五十歩百歩。

どっちもトンデモ
0082日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:40:13.44
阿波も畿内も倭国だった証拠が無い
0083日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:43:12.46
>>82
阿波が倭国だった証拠の一つ=「若杉山辰砂採掘遺跡」   @阿波
0084伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/05/14(火) 21:44:27.77
>>80
〇〇型土器などの名称は研究者が地道な研究の結果分類命名したもの。
おまはんが、それと違った解釈をするのであれば、違う名称を使う以外無い。
名称だけいいとこ取りはあり得ません。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:45:43.49
>>82
阿波が倭国だった証拠の一つ=7世紀中頃の政庁遺跡「観音寺・敷地遺跡」   @阿波
0086日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:49:33.46
>>82
阿波が倭国だった証拠の一つ=全国唯一「倭」の物証「倭大国魂神大国敷神社 二座」   @阿波
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:54:08.15
阿波に倭国王無し
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:55:19.77
青玉も丹も出ない九州
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:55:49.40
まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。  
「文字」「律令制」「条里制」「古代政務」「白鳳寺院」「三角縁神獣鏡」「鉄器」「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「銅鐸」
「稲作」「「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「鯨面土製仮面」「弧帯文土器」などなど。
ただし、国宝もなければ世界遺産もない。 でも、天皇家と今もって繋がりがあるから、それで十分。   @阿波
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:57:37.12
>>1
纏向宮に卑弥呼台与の邪馬台国政権があったのなら、

崇神天皇のヤマト政権はいったいどこで何をしていたのかね?
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 21:58:47.40
阿波は捏造スレでボロが出まくりなのでトンデモ確定です
0093日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:00:20.96
>>90
今上天皇の先祖が阿波にいたのか?
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:02:58.63
>>92
捏造スレは「阿波」が来てくれないので閑古鳥が鳴いています。 わははははは    @阿波
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:03:57.51
>>93
だから、践祚大嘗祭で「麁服」を必ず調進する。   @阿波
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:06:34.02
>>95
だから誰が今上天皇の先祖かと聞いている?
0098140
垢版 |
2024/05/14(火) 22:06:53.76
>>93
最近時々見かける 今上天皇 とかいう滑稽な間違い
おかしいと思わないのかねえ 知識以前の常識だろうに
0099日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:09:27.55
なんだよいまがみチョンファンとでも言えば満足か
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:09:56.67
古代人も現代人も、生きる為の基本が「衣・食・住」
それが、践祚大嘗祭で再現されている。   @阿波
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:11:16.74
>>97
誰が? 倭人(阿波勢力)としか言いようがない。 強いて言えば、ホモサピエンス。   @阿波
0102日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:11:16.75
>>100

九州には宗像徳善という今上天皇の直系の先祖がいるが阿波はにいるのか?
0103140
垢版 |
2024/05/14(火) 22:11:36.42
>>99
白い白馬 頭痛が痛い
↑これ見てまだ解んないようなら知ったかぶりして今上なんて使わない方がいいぞ
0104日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:14:03.84
>>101
つまり阿波は今上天皇の先祖は居ないのに、天皇の名前を出してさも天皇家の祖を騙るというフトドキモノというわけだ。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:17:13.60
>>97
ピカイア・グラキレンスそのものは直接の祖先ではないが それに極めて近縁の種であるとされている
0107日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:18:44.66
>>106
そのピカが阿波にいたのか?
0108日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:19:48.28
>>105
バカだなー 現代の痴の結晶であるウィキペディアが正しいとでも思ってんの? 侍従さんの一人でも捕まえて聞いてごらん
0109日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:22:02.71
>>107
いたかもしれないな 日本列島は火山由来だから カンブリア紀の海成層なんか見つかったら大騒ぎだね
0110日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:26:06.31
あたかも阿波が天皇家の祖であるような書き込みは世が世であれば不敬になったであろう
0111日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:26:49.22
九州北部を二ヵ月かけて進む九州説
0112日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:27:24.36
三韓と九州北部が同じ戸数になる九州説
0113日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:27:58.92
水田跡も見つからない吉野ケ里
0114日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:28:20.41
40キロを1ヶ月かけて歩く畿内説
0115日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:28:31.90
投馬国がコロコロ位置を変える九州説
0116日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:28:55.15
>>113
今も水田だから
0117日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:29:11.34
豪雨ですぐに流される筑紫平野・邪馬台国
0118日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:29:56.98
傍国21ヵ国が比定できない九州説
0119日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:32:05.48
倭国だった証拠が無い畿内説
0120日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:32:45.03
「考古学的な情報を集めても、倭の王の覇権は九州以外に及んでいない。あくまでも九州の 局地政権であり、さらに東のほうにバーバリアン(未開人)がわーっといる感じです」
0121日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:38:50.39
>>108
学術分野に限れば
Wikipediaは紙の百科事典よりも正確という調査が何年も前に出ているよ
紙の百科事典は修正版が出るのに何年もかかる
>>111
陳寿が参照した原資料では伊都国のすぐ南だからそんな日数かからない
中国では写本の段階で畿内と読めるように修正されているが定説。古い写本の発見を待つしかない
0122日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:44:56.01
>>121
ほんとにバカだなー 最近世の中バカが多いから 間違ったことを正しいと思い込んでるだけって例が溢れてる 多数派イコール正しいとか思ってるバカはもっと多いし
まっとうな知識を持った人に 今上天皇 なんて言ってごらん 笑われるならマシ 怒られても文句は言えない
0123日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:46:33.06
>>122
今上天皇の意味がわからないのは馬鹿か朝鮮人
0124日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:51:36.76
>>123
あのね、、、 今上 って言葉の一字一字に込められた意味を正しく理解できてれば 今上天皇なんてバカな言い方するわけないの 
無知なキミに教えてあげる 上 だけで天皇陛下って意味なんですよ 現在の陛下 今の上 だから今上
漢字、わかりますかー?
0125日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 22:54:35.21
>>124
上だけで多くの人には伝わらんだろ
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 23:03:03.76
>>122
『日本国語大辞典 第2版 第4巻』(日本国語大辞典第二版編集委員会編 小学館 2001)
p678「キンジョウコウテイ「今上皇帝」」現在の皇帝。当代の天皇。
用例として、
「故実拾要」(1720頃)「今上皇帝・当今、是当時御在位の間を奉申也」とあり。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 23:09:47.61
>>126
近世以前の古文書をちゃんと読んだことありますかー? お茶を噴き出すような言葉の誤用がいっぱいありますよ? ものごとは根本に戻ってかんがえないと ね
0128日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 23:11:30.41
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 23:15:38.90
>>127
今の天皇と前天皇の違いはどういう言葉で表すのか教えてくれ
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 23:24:45.88
魏略に邪馬台国なくね
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 23:26:25.27
>>130
今の天皇は今上天皇でいいな
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 23:27:33.20
いつのまにか阿波はほっかむり
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 23:37:47.20
>>134
天皇は過去に126人いるからな、今の天皇は今上天皇でいいだろ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/14(火) 23:54:34.65
>>1
纏向宮に卑弥呼台与の邪馬台国政権が陣取っていたのなら、

実在していたとされる
崇神のヤマト政権はどこでなにをしていたと言うのだ?
0138琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 00:00:24.93
1.に記してあるだろ、
良く読みなさい。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 00:06:11.93
自分を頭良いと思いってる人が
今上をいまがみと読んで馬鹿にされ、認知的不協和に陥り
そもそも今上という語がおかしいのだ
と火病っているように見える
0141日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 00:33:19.04
魏略には倭人は太伯の後と自ら語るとあるな
アイデンティティが大陸にあるのはどういうことなのか
0143日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 00:45:17.21
河内和泉辺りは石棒祭祀が残りヒスイの勾玉を大切にしていた
とても太伯の後を自称する倭人の国、女王国とは思えん
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 00:49:03.16
>>143
石棒が魔羅で勾玉が睾丸? それとも勾玉をふたつ向かい合わせに置いて大陰唇?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 00:59:25.19
>>141
源氏や平家みたいなもんだ
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 01:01:04.03
洛陽城すげえのに作業場みたいなみすぼらしい所に使者を招くわけねえじゃん
0147日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 01:13:21.75
歓迎の式典とかやるんだぞ
0148伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/05/15(水) 06:00:39.66
>>133
@阿波氏は
>>90のような失笑レベルのコピペを繰り返すような方なので、多くを期待してはダメです。
コピペの元も本人制作なのでしょうがw
矛盾、間違いを指摘しても知らず存ぜずです。
正しいかどうかなんてどうでも良いんでしょう。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 06:20:21.55
>>1
>纏向宮に卑弥呼台与の邪馬台国政権が陣取っていたのなら、

>実在していたとされる
>崇神のヤマト政権はどこでなにをしていたと言うのだ?


1に答え書いてあるか?
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 06:49:11.68
>>143
>河内和泉辺りは石棒祭祀が残りヒスイの勾玉を大切にしていた

石棒も翡翠の勾玉も「阿波」の専売特許品。  当然、河内和泉辺りも倭人(阿波勢力)の進出地。   @阿波
0151日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 06:53:34.01
まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。  
「泥質片岩製石棒」「勾玉」「文字」「律令制」「条里制」「古代政務」「白鳳寺院」「三角縁神獣鏡」「鉄器」「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「銅鐸」
「稲作」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「鯨面土製仮面」「弧帯文土器」などなど。

ただし、国宝もなければ世界遺産もない。 でも、天皇家と今もって繋がりがあるから、それで十分。   @阿波
0152琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 07:07:12.78
1、は記紀を史料とはしないと成っとるのだよ。
崇神とやらは卑弥呼の時代に
0153琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 07:13:51.99
>>149.
1は記紀を史料とはしないと成っとるのだよ。
今現在の日本の国体を守護する者は官僚である
その者等はしばしば空気(天皇制)という形で告知するのだよ
0154琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 07:13:51.97
>>149.
1は記紀を史料とはしないと成っとるのだよ。
今現在の日本の国体を守護する者は官僚である
その者等はしばしば空気(天皇制)という形で告知するのだよ
0155琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 07:16:33.26
失礼途中だった
まあ吾輩の考えと同じと守護者らは言ってくれているので記紀でこの卑弥呼の時代を語るのは無駄だよ
0156琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 07:21:40.76
守護する者はその守護する者を理解していなければ守護できないであろう。
日本を勘違いしているのが多いのだな。
0157琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 07:43:50.56
また、ドングリがとんでくるな。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 08:12:04.52
ログ見てみ
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 09:41:12.09
つまり畿内説は記録文献とは全く関係のない作り話の世界でしたと
0162日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 09:54:09.99
中国の使者が金印持ってきてるのに
ご苦労さん、その辺置いといてってわけにいかない
0163日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:00:30.59
魏の使いが九州をノロノロ一ヵ月歩いてたら、多数の通行人に「邪魔たい!」と九州弁で怒られた
それを国名と勘違いして「邪馬台国」になった
0164日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:01:19.21
畿内説の学者もしどろもどろ
纏向は邪馬台国との関係性をなんら証明できない遺跡
つまり
纏向遺跡で倭人伝記述と整合する遺物を数多く列記できない
纏向は3世紀の遺跡と叫ぶのが関の山
3世紀に全国各地に人は居たんだろうから纏向にいても不思議じゃないしね

いつまで公金チュウチュウの畿内説は茶番を続けるのだろうね
0165誰か
垢版 |
2024/05/15(水) 10:04:11.19
東西以海為限南與倭接 方可四千里 
 倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:06:41.44
>>165
朝鮮投馬国説支持者ゼロ
0167日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:10:12.42
>>164
北部九州で倭人伝記述と整合する遺物をぜんぜん列記できない九州説
不整合は数多く指摘されてるのに弁明できない九州説
倭人伝記述と整合する遺物を一つも言えない東遷説

みんな壊滅済み
0168誰か教えて
垢版 |
2024/05/15(水) 10:10:57.15
失礼しました。素人ですが教えてください。
魏志韓伝では
韓の領土を四方4千里としています
「東西以海為限南與倭接 方可四千里 」
一方
魏志倭人伝では
倭地は周囲5千里としています
 「倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」

つまり、魏志倭人伝で記述された倭地、倭国、邪馬台国は韓伝と対比すると、韓の領土より狭い範囲におさまりますよね。倭国、邪馬台国はさほど大きな領土と思えません。
畿内なんてはるか遠くですよね。

間違ってるでしょうか??????
0169日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:12:34.55
帯方郡から水行二十日で対馬→水行十日で日本列島→陸行ひと月で伊勢遺跡
0170日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:13:56.58
>>167
悔しそうだなWw
畿内説のスレで他説批判かいなワハハ
畿内説では万歳かワハハ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:15:58.84
>>167
あのーーー
私は九州説ではありませんよ。
纏向は無いよと言いたいだけなんですけど、、、、
無茶ぶりはやめてくださいよ
0172日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:16:33.76
旧唐書から読み取れる事
・倭奴国時代から続く倭国
・東の倭種の国が当初は倭国の一員としてだったが後に日本と名乗り朝貢した
・日本は女王国の歴史知らないので倭国との関連性を明確に説明出来なかった
・日本は倭国を併合した事にして倭奴国の末裔に成りすました

つまり畿内説はオレオレ詐欺でしたと
0173日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:18:12.48
>>168
1万2千里-到其北岸狗邪韓國七千餘里=周旋可五千餘里
周旋なんてほんとにやったと思ってますか?
0174日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:21:37.23
九州説だと邪馬台国は南の海の中 その東の倭種も海の中
0175日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/15(水) 10:27:28.52
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南 船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里
これ全部続いてるのに5千里なわけねえじゃん
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:44:22.55
>>175
つぎはぎだらけの文章だからそういうへんてこりんな箇所が出てくるんだな
0177日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:49:19.71
自分の妄想を史実だと言いたがる精神ってどうなんだろうね
明らかに精神病だと思うけどね
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 10:58:07.78
>>171
逃亡するカスは九州説
0179日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/15(水) 11:00:11.04
いつも逃亡してる畿内説の発言ってどうなんだろうね

>178:日本@名無史さん:2024/05/15(水) 10:58:07.78
>>>171
>逃亡するカスは九州説
0180 ころころ
垢版 |
2024/05/15(水) 11:07:32.20
「周旋」について、古代史新説チャンネルの伊藤さんは三国志での用例は「めぐり歩く」という意味であって、「周旋」をぐるっと一周するという用例で用いた箇所は1か所もないことを検証済だ

なお、YouTube動画では他の22カ所の具体例も映像に出していたが、ブログではそこは省略している

動画とブログはここに貼れないので各自検索で探して欲しい
0182日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 11:26:28.51
>>180
それその人の希望的観測結果でとっくに論破されてるから

周旋とは、一周とは限らないがグルグル回る事を指す
例えとして鳥が旋回する様子を周旋と記述している例が挙げられていた
0185日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 11:34:31.08
信仰は望んでいる事柄を確信し
見えない事実を確認することである

-“異邦人の使徒”聖パウロ
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 11:37:08.24
周旋可五千餘里は実際の距離じゃない事は明らかなのになんで?
0189日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 11:43:09.69
>>188
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南 船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里
これ全部続いてるのに5千里なわけねえじゃん
0191日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 11:55:10.30
五千里というのは万二千里から七千里を引いただけだぞ
そこに深い意味は無い
0192日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:02:20.28
>>186
自然の地形と判断されたそうだが、近所の人が弥生式土器を掘り出してたよ
古墳かもしれないね
0193 警備員[Lv.1][新初]
垢版 |
2024/05/15(水) 12:02:41.99
>>182
誰にも論破されてないよ
そもそも三国志の原文にある「周旋」を全部当たって確認してある
周旋は「巡り歩く」で確定している
0194日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:03:09.16
>>182
>それその人の希望的観測結果でとっくに論破されてるから

されてるという証拠なし
0195日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:04:51.04
つまり日本の考古学は希望的観測集を経典とする宗教ですよと
0196 警備員[Lv.1][新初]
垢版 |
2024/05/15(水) 12:05:56.57
魏志倭人伝の行程記事を読む

帯方郡から倭に至るには海岸沿いに南に東にと七千里進んで倭の北側の沿岸すなわち朝鮮半島南岸にある狗邪韓国に到着する
狗邪韓国は金海市・釜山市あたりにあった倭人のクニと考えられる(倭人のクニでなければ魏志倭人伝で国名を取り上げる理由がない)

ここから南に
→千里で対馬国
→千里で一大国(壱岐国)
→千里で末蘆国(肥前国松浦郡)
と進み、さらに
→東南に陸行五百里で伊都国(筑前国怡土郡)
→東南に百里で奴国(筑前国儺県=なのあがた)
→東に百里で不弥国(筑前国糟屋郡宇美?筑前国穂波郡?筑前国儺県の一部または周辺?)
と進んだ

さらに、
→伊都国ないし不弥国から南に水行二十日で投馬国
→南に邪馬台国に至った(伊都国ないし不弥国ないし投馬国から水行十日陸行一月)

邪馬台国の南に狗奴国があり、女王に属さなかった
すなわち邪馬台国が女王の統治する倭国の南端だ
帯方郡から女王国すなわち邪馬台国に至るには一万二千里掛かった
(「女王国」の語は魏志倭人伝に5か所記載され単体の「邪馬台国」と解釈できるところと連合王国としての「倭国」と解釈できるところがあるが、既に帯方郡から七千里で倭国の北端狗邪韓国に至っているのでここは「倭国」とは解釈できず「邪馬台国」一択)

さらに倭の地を巡り歩くこと五千里とある
これは、倭国に来て北端の狗邪韓国から邪馬台国まで五千里ということだろう
帯方郡から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里という記述とも綺麗に整合する
(一万二千里-七千里=五千里)
(続く)
0197 警備員[Lv.1][新初]
垢版 |
2024/05/15(水) 12:07:29.78
(続き)
邪馬台国は伊都国や不弥国などの南にあり、肥後にあったと思われる狗奴国(クマ=隈・熊・球磨の地名、官の狗古智卑狗は菊池の旧名久々知の長で久々知彦)の北にあったので、筑後と推定される
帯方郡から伊都国まで一万五百里なので伊都国から邪馬台国は残り千五百里、魏志韓伝と倭人伝の一里は概ね75m(凡そ300km四方の三韓地域を方四千里と書くなど)なので、伊都国から南におおよそ100kmで邪馬台国に着くということになる
この方角と距離感も筑後で符合する
博多湾側から筑後邪馬台国までは御笠川→宝満川→筑後川で水行してから少し陸行したと考えるのが合理的だ

地名から考えれば、邪馬台国は筑後山門郡(プラス肥後菊池郡山門郷)と比定できる
邪馬台国を目指して筑後川を水行してくる途中には筑後上妻郡・下妻郡があり、これが投馬国と考えられる
邪馬台国と狗奴国の国境に近いであろう菊池川流域では鉄鏃が大量に出土しており、両国の間で激しい戦いがあったことを窺わせる

なお、倭人は里数を知らず日数で距離を測る(隋書倭国伝より)ことから、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月は倭人からの伝聞と考えられる
0198日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:10:21.08
考古学者はバタフライ理論って知らないのか?
「1匹の蝶の羽ばたきが世界のどこかの竜巻の原因かもしれない」というカオス系の理論だが

畿内説はその意味を曲解釈して「目の前の蝶の羽ばたきがあの竜巻の原因だ」と言ってるようなもんなんだよ

つまり畿内説は池沼ですよと
0199日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:15:45.32
または、あの竜巻の原因はこの目の前にいる蝶なのだ!
とほざいてるようなもの
とても学問に携わるものとは思えない思考だな
0200日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:17:12.12
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0201日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:41:01.68
>>199
このように
具体的内容のない悪口がすべてで
まったく畿内説に反論ができないのが
九州説のみじめさ
0202日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:43:02.80
>>196
そんな間違いじゃなくて侏儒国とか明らかに入ってるから
0203日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:44:36.34
>>198
目の前であろうが世界であろうが蝶の羽ばたきで竜巻はおこらないんだって
0206日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:48:56.01
>>205
もし起きたならまず疑えよバカ
0207日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:49:13.31
>>164
卑弥呼の即位の情報は魏志倭人伝にある
その即位の後纏向は造成された
当時我が国最大の都市遺跡
つまり纏向遺跡が卑弥呼の存在の考古学的証拠
0209日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:52:51.90
>>168
魏志倭人伝では厳密な用語によって記述されている
「倭地」とは倭国以外で倭人が住んでいる地域のうち魏と国交のある地域を指している
具体的には狗奴国から南西諸島にかけての地域
0210日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/15(水) 12:55:12.28
つまり畿内説が同人誌作成のために考古学基準を改変し、考古学会の低能さを露呈して自滅するだけですよと
0211日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:55:47.42
>>208
んなこたあない
洛陽城を見て式典やってるのにそれなりの所に招待するに決まってるだろ
0212日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:57:54.82
俺が伊勢遺跡→纏向遺跡と考えるのはまさに使者を招待するのにふさわしいかどうか
0214日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 12:59:33.36
墓場の隣の工房で式典やるわけねえじゃん
0215日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:01:03.37
>>204
>畿内説ってどれ?

テンプレ
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:06:53.99
卑弥呼が跪いて金印を受け取るんだからそれなりの場所ってもんがあるだろ?
0217日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:08:39.55
纏向は倭国大乱より前に作られたらしいぞ
ソースは畿内説
0219日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:17:15.57
>>218
悪口いうだけでは説明じゃ無くならないよ
0220日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/15(水) 13:18:34.23
倭奴国王が朝貢した時に洛陽城を見て伊勢遺跡を慌てて作ったんじゃないか?
中国からレンガ作りの職人呼んだりして
0221日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:21:57.48
記録文献に記された倭国の出来事

卑弥呼が女王に即位したのは2世紀末
女王共立に賛同した30国は代々王を継いできた国々
倭人は鉄の鏃を使っていた
倭人は半島まで鉄を取りに行っていた
卑弥呼が親魏倭王の称号を貰ったのが3世紀前半
3世紀中頃、女王国に狗奴国が戦争を仕掛けてきた
その最中に死因は不明だが卑弥呼死去
代わりに男王が立つも内乱勃発で千人以上の死者を出す
幼い臺与を女王とする事で平和な時代が訪れた


つまり畿内説は全く無関係な作り話でしたと
0222日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:23:29.92
>>221
日本人が鉄鉱石掘っても鉄にできないから
0223日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:27:07.06
>>197
福岡横断に二ヵ月かかる九州説
0224日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:27:19.13
>>192
写真を見ると自然の地形には見えない。
大きさが大きいから、古墳だと都合が悪いとかあるかもね
0225 警備員[Lv.3(前2)][新初]
垢版 |
2024/05/15(水) 13:28:32.17
纒向を作った北部九州・吉備からの征服勢力は銅鏡や墳丘墓(→古墳)や強い王権という異質なカルチャーを畿内に持ち込んだ

畿内在地の銅鐸祭祀勢力は彼らに征服され宗教や政治体制が一掃されたが、伊勢遺跡は征服された側の銅鐸祭祀勢力だろう

伊勢遺跡と纒向遺跡は宗教も権力も別物だ
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:29:39.82
古代福岡の戸数が三韓と同じになる九州説
0227 警備員[Lv.3(前2)][新初]
垢版 |
2024/05/15(水) 13:36:22.34
>>223
実際は掛からないよ
邪馬台国と投馬国の日数と戸数は倭人からの誇張された伝聞だから
0228日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:38:53.34
醜悪でご都合主義の九州説
0229日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:39:52.71
古代福岡だけで大月氏を軽く上回る国力
0230日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 13:53:32.64
そのまんま読むと大隅半島あたりだからな

そこから一月もどこをどう歩くのやら
0231日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:12:44.20
魏志倭人伝の行程記事
北部九州地域全域が邪馬台国説
7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里
女王国までの12000里の行程の説明終了(公孫氏の時代からの引用)
水行20日。水行10日、陸行1日(月)帯方郡からの時間での再説明(魏使の梯儁の報告書からの引用)
女王国は公孫氏時代の伊都国、奴国、不弥国地域の呼び方、邪馬壱国は魏代の北部九州地域全域の名称。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:12:59.51
>>225
>纒向を作った北部九州・吉備からの征服勢力は

根拠不明
0233日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:15:05.03
>>231
>女王国は公孫氏時代の伊都国、奴国、不弥国地域の呼び方、

その計算だと女王国の領域に入るのは伊都国通過後なので、論理破綻
0234日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:19:08.10
>>224
国土地理院の赤色立体地図の画像をはって
自然の地形にしか見えないってレスしようとしたら
規制くらって書き込めなくなった
画像貼るときは要注意だ
0235日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:21:29.68
>>182
それが正解ですね。旋が戻るの意味ですから回って戻る、戻らない周旋はありませんね。
>>191
それは違います、可が付いてますから推測した数字です。
実際に通った距離に可は付けませんw
>>193
その場合は同じ所をぐるぐる巡り歩くって意味です。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:25:49.25
>>233
帯方郡の南端からの距離を書いてありますから
計算すると伊都国の国の端に着くのは11900里となります
12000里は伊都国と奴国の国境付近とな女王国の中心付近を指しています。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:39:10.57
>>234
つまり伊都国は通過済み
残念でした
0238日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:39:33.92
九州説はゲームが上手くいかなかったら、すぐリセットボタン押すタイプ
0239日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:41:20.10
>>235
そんな結論が出るって理由は?
0240日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:43:38.02
【編纂環境】
魏志倭人伝は、倭国に関する地理観の無い陳寿が記録の切れっぱしを寄せ集め私見を添えながら編集したものです

【既知の情報】
郡から南や東に水行して渡海し対馬→壱岐
呼子あたりに上陸し徒歩で伊都国入り
東へ行けば不彌国、東南は奴国である

【倭人朝貢事の記録】
◯◯から船で沿岸沿いに南へ20日行くと投馬国(半島南部)
さらに船で島伝いに南へ10日行くと邪馬台国(北部九州)
郡から女王国まで万二千里 水行したり陸行したりで約一月(30日)の道のりである
(◯◯が帯方郡と思われる)

【女王国周辺国の情報】
女王国の東の海を渡海したら倭種の国々
女王国の南は狗奴国

つまり畿内説は論外
0241日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:44:02.06
>>237
女王国の中心国は2万戸の奴国なので奴国までの距離12000里が女王国までの距離として書かれているが
女王卑弥呼は伊都国の方に居たんだ。
0243誰か教えて
垢版 |
2024/05/15(水) 14:46:07.00
万二千里でパプアニューギニアとか言ってるけど

九州で納まると思うのですが、、、、

根拠
1,韓伝では韓は四方4千里だから、万二千里は郡から九州内に納まる
2,北部九州まで1万里だとすれば万二千里は九州で納まる

日数では距離は確定できないから九州に邪馬台国があったでいいと思うが、、
(畿内説でも陸行1月かけて難波から纏向・・40キロでしょ)
0244日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:51:19.46
>>240
女王国の東は不弥国(室見川下流域の博多湾)から1000里(80km)で関門海峡を渡り山口県ってことだな。
0245 警備員[Lv.3(前4)][新苗警]
垢版 |
2024/05/15(水) 14:55:00.50
>>232
寺澤の論文を声に出して読め
0246日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:56:12.50
>>243
>韓伝では韓は四方4千里だから、万二千里は郡から九州内に納まる

ただし、北部九州は納まらない。   @阿波
0247 警備員[Lv.3(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/15(水) 14:56:24.92
>>235
三国志の中で周旋がぐるぐる回る意味で使われた例はないよ
つまり君の妄想
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 14:57:09.48
>>243
>北部九州まで1万里だとすれば

陳寿はそんなこと、一切書いていない!   @阿波
0249日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:00:16.92
>>244
>不弥国(室見川下流域の博多湾)

東に海は無く、在るのは山ばかり。   @阿波
0250日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:01:13.25
周旋がぐるぐる回る意味だろうが巡り歩く意味だろうが
万二千里から七千里引いただけの概念的な数字が五千里なので
そこに深い意味は無い
0251日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/15(水) 15:02:37.03
>>247
三国志の中で周旋もぐるぐる回る意味で使われてますよw
無理に変な解釈をしてるだけですね
入り口と出口が違うから回ってないとか古田武彦氏が間違った解説してましたね
同じ所を一周半や二周半したから入り口と出口が違うだけなんですよ。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:04:01.15
投馬国がコロコロ移動するご都合主義九州説
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:05:54.66
【補足】

【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称と考えられる
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:07:37.40
>>250
「參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」の5000里には可が付いてますから実際には行ってない所の話
倭地について(倭人に)問いて(情報)集めると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったりして、一周は五千余里ほどであるらしい。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:07:46.39
>>235
行かないって
侏儒国に行ったら距離合わねえじゃん
0256日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:10:04.21
>>252
投馬国と邪馬壱国、狗奴国は魏使の梯儁の報告によるもので
投馬国は朝鮮半島南部地域、邪馬壱国は北部九州地域、狗奴国は南部九州地域を指している。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:10:58.33
>>254
五千里は単純計算しただけの概念的な数字ですね
0258日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/15(水) 15:11:42.25
投馬国を消滅させたい九州説
0259 警備員[Lv.1][新初]
垢版 |
2024/05/15(水) 15:15:21.12
>>168
韓の方4千里は単なる天下観念
方とは文字通り四角形
周旋は巡り歩くことで意味が全く違う
九服之制では、六服=7000里と決まっている
これに周旋5000里を足すと12000里となる

すなわち、魏志倭人伝の距離は実測に基づく距離ではない
0260日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:15:35.00
周旋は単なる漢語だが
問題は参問倭地だよ。

倭人伝の中で魏使が参問した倭地は
聞き取った倭音国名を漢字にして
列記した次有り21国なのであって、
此れが周旋可五千里で州島の上に有る。

糸島福岡筑紫平野の21国が
参問倭地で周旋可五千里の
女王国7万戸です。

金印を届けた際に、女王国の詳細を
参問した魏使が
漢字にした邪馬国に卑弥呼の臺があった。
これを自称国名の無い女王国の仮称
邪馬臺国とした。

投馬国と邪馬台国の仮称は
247年の帳政の時は弁韓名があったし、
陳寿も引用以外では採用していない。

臺は表意文字であり漢字の造語。
魏略、廣志で明らか。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:17:50.39
>>255
何の距離が合わないのか分からんが
「又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至」
の部分は山海経等の古い資料や言い伝えを参考にしてるようだな。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:20:26.65
対馬海峡だけで3000里もあるんだからいい加減な数字だと気づけよ
0263日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:21:38.15
>>253
>伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

ありません
0264日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:21:57.46
>>253
>伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

ありません
0265日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:23:04.08
九州説は死ななきゃ治らない
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:27:08.01
>>241
>女王国の中心国は2万戸の奴国なので奴国までの距離12000里が女王国までの距離として書かれているが
>女王卑弥呼は伊都国の方に居たんだ。

でも伊都国を通り過ぎた後に女王国につくんでしょ
だから、あなたの説は間違い
計算が狂ってる
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:28:42.01
>>251
>三国志の中で周旋もぐるぐる回る意味で使われてますよw

どこで?
証拠は?
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:28:44.14
>>264
伊都国の南に女王国
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:30:17.49
>>256
>投馬国と邪馬壱国、狗奴国は魏使の梯儁の報告によるもので

そんなこと決めつける理由は?
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:33:48.49
>>245
>寺澤の論文を声に出して読め

いくら読んでも寺澤は「纒向を作った北部九州・吉備からの征服勢力」なんて主張してないので
あなたの意見は妄想
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:35:25.50
九州説って絶対に証拠出さないで
理由すら言わないで
結論言い張るだけだね
学問であり得ない
0274 警備員[Lv.4(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/15(水) 15:40:10.50
>>251
具体的に出して欲しい
伊藤氏の検証では一つもなかった
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:43:29.24
倭人伝の行程は北部九州を時計回りしただけ
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:44:27.38
>>248
阿波は馬鹿ですか?
韓が縦4千里でしょう、郡から、その2.5倍(1万里)の距離だったら北部九州でいいのですよ。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:45:42.57
>>273
見苦しい阿鼻叫喚とは
ひとつも証拠出さずに言い張って反論の真似をする九州説では?
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:49:28.30
>>248
郡から阿波まで直線で万二千里と言いたいのだろうな
しかし方位がねーーーー
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:51:53.00
>>278
倭人在帶方東南大海之中だから方位あってるよ
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:51:56.07
>>259
それで、、
距離を無視しようとしても無駄
倭人伝に文句言ってくれ
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 15:56:06.19
>>280
1里は434mだから
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 16:07:18.69
筑紫梅雨秋雨洪水海没中、石爺国有り
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 16:13:25.90
>>279
阿波がよく貼る地図出してみな
0285日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/15(水) 16:15:44.31
ほんと見苦しいですねーw

>277:日本@名無史さん:2024/05/15(水) 15:45:42.57
>>>273
>見苦しい阿鼻叫喚とは
>ひとつも証拠出さずに言い張って反論の真似をする九州説では?
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 16:28:07.33
>>241
不彌国では?
奴国には行っていないかもしれん。
距離はわかるが広さがわからないので
女王の境となる。その南に狗奴国とか?
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 16:35:17.85
周旋ルート

松浦半島

糸島

博多

宗像

豊前

日田・筑後
0288日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 16:40:38.06
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:00:50.23
>>259
>すなわち、魏志倭人伝の距離は実測に基づく距離ではない

と、トンデモは言い訳をする。   @阿波
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:02:01.16
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:02:37.48
>>262
対馬海峡だけで3000里なんだからいい加減、短里だと気づけよ。   @阿波
0292日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:03:23.82
阿波がトンデモだと言うことはここの住人の常識である
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:04:34.54
>>276
>郡から、その2.5倍(1万里)の距離だったら

陳寿はそんなこと、一切書いていない!   @阿波
0294日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:06:09.25
>>285
ほら、ひとことも反論できない九州説って見苦しい
0295日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:06:14.05
>>278
「帯方郡の東南の大海の中」

方角ぴったり、四国の「阿波」   @阿波
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:08:43.73
>>291
阿波のくせに対馬海峡の3000里を足し算してんの?
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:10:30.00
>>297
対馬海峡の距離なんだから、そりゃ足さんと距離だせんわな。 アホか!   @阿波
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:12:36.62
>>296
短里って何?と今まで疑問を持った事はないのか?
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:13:56.35
>>299
ない!   @阿波
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:15:30.04
行程はシンプルに

帯方郡

投馬国(半島南岸)←其の(倭の)北岸ともいう

邪馬台国(北部九州)
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:15:58.02
>>281
>1里は434mだから

いつの時代も、不変と思うアンポンタン。   @阿波
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:17:42.67
>>298
だったら末盧国までで1万里でいいよな
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:23:46.56
中国の1000里

・遼陽(遼東郡治)→集安(国内城)250km
・遼陽(遼東郡治)→桓仁(卒本)180km
・遼陽(遼東郡治)→平壌(楽浪治)330km
・撫順(玄菟郡治)→吉林(夫餘東団山城)320km
・吉林(夫餘東団山城)→佳木斯(挹婁滾兎嶺土城 )480km
・鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) 220km
・鳳山(帯方郡治)→金海(狗耶韓国) 450km
・狗邪韓国→対馬100Km
・対馬→壱岐60Km
・壱岐→末盧国30Km
・関門海峡渡海、数Km

はい、間違いなく短里なるもので実測していません
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:29:22.61
>>303
その1万里と、「萬二千里」は無関係だがな。  勝手に引き算なんかするなよ!   @阿波
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:30:35.75
>>225
鏡の副葬は九州に影響されたろう。
墓の高塚化は吉備に求めることができそうだが、纒向独自のアイディアである可能性も排除できない。

他方、
・北部九州では甕棺墓が駆逐
・生活用の煮炊き甕が、畿内第V様式圏→筑前型庄内甕→北部九州布留甕→纒向型前方後円墳→定型化前方後円墳と完全に畿内化されている。

北部九州と吉備の畿内征服説は難しいだろう
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:30:52.30
>>305
だから阿波はトンデモとして笑われる
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:33:22.49
>>307
萬二千余里は、行程とは別項目だから無関係。   
まさか、萬二千余里から引き算されるとは、陳寿も青天の霹靂だ。   @阿波
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:36:26.54
いまだに、行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。

古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。   @阿波
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:37:15.98
漢鏡7-1、7-2、7-3は一部は銅鏡100枚に入るだろうが、3種は多すぎる
斉一性がなければ綏撫する役割を果たせない
したがって、上方作系浮彫式獣帯鏡、飛禽鏡、画象鏡、八鳳鏡などは、畿内が魏に遣使する前に畿内が得たものであろう。

纒向は、卑弥呼の共立時にはすでに存在したのである。
ならば、纒向石塚の王は一体誰であろうか?
0311 警備員[Lv.6(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/15(水) 17:37:40.81
>>306
難しくないよ
今や福永伸哉と岸本直文以外の現役世代の著名な考古学者は殆ど全て纒向への北部九州や吉備の深い関与を想定しているだろう
0312日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:39:21.16
>>310
>ならば、纒向石塚の王は一体誰であろうか?

特定はできないが、いづれにせよ倭人(阿波勢力)のお墓。   @阿波
0313日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:44:13.04
>>311
久住は、関西の大学ではいまだ自生説も根強いことを認めている
0314 警備員[Lv.6(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/15(水) 17:45:06.94
>>313
その人達の殆どは著名ではないんだろうね
0315日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:46:24.84
根強いってか主流だから
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:48:21.64
直線距離の測定方式をいまだに言えない阿波のトンデモ説
0317日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:48:47.15
伊勢遺跡だっつってんだろうが
0318日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:49:24.26
寺澤は「自分は異端者」と言って、関西人を畿内優越史観と批判している
自生説とアンチ自生説の戦いこそ、邪馬台国論文の醍醐味だ
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:49:24.38
福永伸哉より福永晋三の方が面白い
0320 警備員[Lv.12(前13)][苗]
垢版 |
2024/05/15(水) 17:52:22.93
Takeo Kusumi@T_Kusumi057

私説としては、第1代倭女王「卑弥呼」は伊都国と想定。200年頃の平原が、墳丘小規模だが副葬品は圧倒的。小墳丘は、「共立」当初状況を示すと考察。その後、おそらく伊都国王家と吉備王家の通婚同盟で、第2代「卑弥呼」共立、列島(「倭」世界)の中心として造営されていた纒向が「王都」として準備が整った庄内1〜2式に「邪馬台国」に倭王都が移転し、最初の大型前方後円墳として纒向石塚築造、第2代「卑弥呼」埋葬、さらに超大型建物を倭王祭政執行場所として造営整備した第3代「卑弥呼」が存在し、これが公孫氏滅亡ないし魏の公孫氏攻略開始を受けて魏と外交開始。
 この倭女王は「纒向型」よりも前方部が長くなった勝山古墳に埋葬か。なおこの時の外交全権大使「難斗米」(ナトべ?)は奴国の大首長で那珂八幡古墳に勝山前後して埋葬を想定。
この第3代「卑弥呼」没後男王は、反乱起こり廃されるが、埋葬古墳候補は布留0式古相前半の東田大塚ないし中山大塚。
 第4代「卑弥呼」は即位経緯が郡使ないし魏使に伝わり「台与(壹与?)」。倭王権はより絶対化し、即位後しばらくして超大型古墳造営開始。これが箸墓。箸墓の位置には、前代「卑弥呼」代のなんらかの祭祀施設(祭壇?)などがあったことを想定し、造営位置が決定された。箸墓造営で各地から人が集まり、纒向は超大規模化
0321日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:53:22.15
まあ寺澤は森浩一の教え子で、変な宗教から脱会したけれど森の非考古学的なところの影響は少し残ってるて程度
0322日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:57:49.39
>>316
お前も15世紀の「混一疆理歴代国都之図」の測量法さえ言えない。  それでも描けている。 古代人は偉大だ。   @阿波
0323日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 17:58:53.09
尺貫法の長さ・距離は人体の大きさが基礎
人体の大きさが変わらなければ変わらない
0324日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:00:14.10
>>322
行基図を合成しただけの地図だろ
0325日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:01:23.31
>>324
お前には描けない。 古代人は偉大だ。   @阿波
0327日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:02:37.21
でもまあ結局

「纒向遺跡のなかで、纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、
王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された」

という事実が厳然とあるので
畿内自生説の主流は動かないんですよ
0328日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:04:53.87
>>326
肝心の、3~6世紀がないぞ! 隠しているのか?  わははははは   @阿波
0329日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:05:07.34
>>320
この考えには多くの問題がある。
平原を200年にすると、纒向石塚177年と出た年輪年代法と矛盾する。
また、平原から遷都し纒向石塚を築造というが、纒向石塚からは鏡は出てこない。
弧文円板とかいう変わり種が出てくる。
平原の王権と同じ一族とはとても思えない。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:05:34.04
>>327
動かないのは結構ですが
纏向宮に邪馬台国政権がいたのであれば
時期が近くて実在したとされる
崇神天皇のヤマト政権はどこにいたのですか?
0331日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:06:23.85
>>328
よく見てるな
でも魏代の記録だから
0332日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:06:47.15
>>330
行燈山
0333日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:07:18.82
>纒向石塚からは鏡は出てこない。

生口を船行一年で献上したのに、

自ら物見遊山した倭国王師升から
後漢鏡一枚もらえなかったとわ・・
0334日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:07:35.78
纏向石塚も吉備人ぽいが
どうなんよイッチー
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:08:26.22
>>327
>王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された」

倭人(阿波勢力)の墓地が進化しただけのこと。   @阿波
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:09:02.70
>>332
ヤマト政権と邪馬台国政権が同じ奈良県内で近接していたのに
お互いが
倭人伝にも記紀にも記録されていないのは
どうして?
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:09:51.08
弧文円板は吉備だな
ここの影響は否定しない
0338日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:10:00.31
>>331
陳寿が書いたのは西晋時代だ。   @阿波
0339日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:11:14.13
>>336
同じだから
バカなのか?
0340日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:12:06.28
>>339
同じとは?
0341日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:12:21.42
>>338
なんで西晋時代の資料を引用しなきゃならんのよ
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:15:05.75
>>340
はっきり言う居やしない
崇神など居やしない
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:15:30.94
同じ元銅鐸民だからいっか
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:18:07.57
>>331
西晋王に、西晋の度量衡で「魏志倭人伝」を奏上したため。   @阿波
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:25:19.03
>>325
直線距離の測定方式とは無関係だろ
0346日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:29:49.84
>>345
直線距離と方角が分からんと地図は描けん。   @阿波
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:35:50.78
>>346
何と言う測定方法なのか述べよ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:36:54.49
阿波は愚かな卑怯者
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:37:17.45
>>347
古代人に聞かんと分からん。 古代人は偉大だ。   @阿波
0350日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:38:54.54
>>349
わからん事を言い張るのをトンデモと言う
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:39:14.48
日本の地図とかあるわけないだろ
古今華夷區域總要圖と四海華夷總圖を見ろよ
ただの丸
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:40:45.54
>>350
分からんでも、現実に地図が描けているではないか! お前にも描けん!  古代人が偉大だ。   @阿波
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:41:19.92
阿波は詐欺師でありペテン師。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:42:23.51
伊能忠敬は歩いて地図を書いている
0355日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:44:41.12
>>353
お前は古代人以下。   @阿波
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:48:04.42
阿波は皇祖中の皇祖にウンコを食わせた国賊
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:50:18.65
陳陳べつに地図描いてないけど
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:51:29.83
>>356
「大宜都比売命」は「阿波」の神。
ならば、殺した「須佐之男命」も「阿波」の神。
「須佐之男命」の姉神「天照大御神」も阿波」の神。

どう転んでも、記紀神話の神々は「阿波」の神々である。 わははははは   @阿波
0359日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:53:59.74
阿波説に騙されるのは特殊な人達
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:54:58.97
>>359
お前は古代人以下。   @阿波
0361日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:57:32.03
阿波は石器人以下の特殊学級
0362日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 18:59:17.10
>>359
>阿波説に騙されるのは特殊な人達

まぁ、騙されたと思うかもしれない。

縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。  
「文字」「律令制」「条里制」「古代政務」「白鳳寺院」「三角縁神獣鏡」「鉄器」「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「銅鐸」
「稲作」「「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「鯨面土製仮面」「弧帯文土器」などなど。
ただし、国宝もなければ世界遺産もない。 でも、天皇家と今もって繋がりがあるから、それで十分。   @阿波
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:02:57.11
>>362
天皇家との血縁関係が全く無い阿波
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:03:06.37
畿内の銅鐸は、2世紀にも突線鈕4式、5式と、東海、北陸に広がっていく
四国でも5式は出るが、吉備では4式までしか出ない
4式の時代はちょうど纒向の建設が始まった頃(2世紀前半〜半ば)と考えれば、整合性が取れる
2世紀半ばからは、吉備は纒向の建設からは距離を置くようになり、東海、北陸、関東、紀伊などが増えてくる。
また、当然ながら纒向石塚や纒向勝山などの王墓も、王都纒向と同時代に作られ、この時代の纒向には全国から集まった人々(労働者)でごった返していただろう。
王都纒向を作るだけでも大変な労働者が必要であったのに、さらに巨大な墓も同時に作っているわけだ。
また、箸墓古墳は生前に築造が始まったとされており、
述べ135万人の労働力を必要とした畿内は、まさに「邪馬台国7万戸」の様相を呈していただろう。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:06:35.01
>>364
>この時代の纒向には全国から集まった人々(労働者)でごった返していただろう。

現代ならいざ知らず、古代に全国から人が集まる訳がない。

新しい知見を示す。
纏向土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。 
各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。   @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:09:19.51
阿波の言う飛鳥時代以前の王都が阿波だったと言うのは嘘八百。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:12:01.50
>>364
倭国大乱さん「あのー」
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:12:10.70
鍋島氏の家紋は大友氏のもの
鍋島が大友を倒した記念に大友の家紋を自分の家紋にした
巨人が阪神を倒したときに読売阪神軍と名を変えるようなもの
そんなことを記録の少ない古代にやられたら訳がわからなくなる
0369日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:15:32.72
>>367
倭国乱は岸本直文の理解で良い
0370日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:45:45.78
「邪馬臺国」は、少数民族の集合体。   @阿波
0371日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:48:43.35
倭人(阿波勢力)の派閥とは、「阿波」国内に点在する少数民族(古代の国)。   @阿波
0372日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:51:26.71
纒向石塚は鏡の副葬をしなかったが、ホケノ山(225年築造)は画文帯神獣鏡と内行花文鏡を副葬している。
その他、鉄鏃60本、素環頭大刀1口、鉄製刀剣類 10口、鉄製農具(合計約70以上)

ホケノ山に至って、纒向邪馬台国は魏王朝かあるいは半島と交流を持ったと思われる。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:53:11.01
>>369
良いと思うのはお前のお仲間だけだからw
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:54:05.76
纒向石塚は大量の生口を船行一年かけて献上したのに、

自ら物見遊山した倭国王師升から、
お土産の後漢鏡一枚ももらえなかったのだなぁ
0375日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:54:33.74
>>372
>ホケノ山に至って、纒向邪馬台国は魏王朝かあるいは半島と交流を持ったと思われる。

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内が、魏王朝や半島と交流を持てる訳がない!   @阿波
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:58:52.05
キッシー少しハッスルしすぎな気も駿河
0377日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 19:59:49.23
ホケノ山の副葬品は、一大率を置かれた九州の立場をよく表していると思う。
同時代、北部九州は画文帯神獣鏡を入手できなかったが、纒向の建設に関わった阿波では萩原1号で、平壌市大同と同笵の画文帯神獣鏡を副葬している。

北部九州が纒向邪馬台国の置いた一大率に監視されているという理由以外に、画文帯神獣鏡を入手できなかった理由を考えることは不可能であって、魏志の通りであろう。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:02:19.21
銅鏡の破片を与えられた名もない武人が、

辺境の湿原を占領するよう命じられて

心底いやいやながら攻め込んだら

大した抵抗もなく占領してしまって帰ることもできず

そこでそのまま支配しておくよう命じられて

使わなかった大量の兵器と一緒に埋葬されましたとさ
0379日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:05:02.58
>>377
だったら一大率より遥かにどうでもいい九州南部から画文帯神獣鏡が出土することの説明がつかない。

だから、北部九州邪馬台国と南部九州狗奴国で、
しかも画文帯神獣鏡は狗奴国の鏡だろう。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:05:05.60
崇神が纏向にいたのは卑弥呼と続く台与の政権がそこを都としていたから
都で働く役人だったのだろう

崇神の時代は疫病で人口の半分が失われた時代、台与も疫病に倒れたのかもしれない

崇神の物語には三輪山と大物主の神、百襲姫と天照大神が登場する
崇神は天照大神を恐れ、行く先も決まらぬうちに都から離すことを決断する

この天照大神の存在は卑弥呼の姿を投影したものだろう
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:05:59.78
>>380
邪馬台国畿内説にとっては、崇神が纏向の役人だったって?

じゃあヤマト政権はなんだったのだ?
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:07:08.50
>>376
まあ、俺もハッスルしすぎな気はしている
が、理化学的年代測定法の結果がかなり追い風になってる
0384日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:11:38.34
>>379
江田船山古墳の画文帯神獣鏡か
江田船山は年代が離れすぎてて評価しづらい
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:21:46.01
崇神の物語には不思議なリアル感がある
それは皇祖神の直系なはずなのに大疫病の国難の時に天照大神ではなく国津神の大物主に頼ろうとする
さらにこの国難の時に天照大神を宮から遠ざけようとする
これは冷静に考えれば、天津神の子孫とは思えぬ行動だ しかし、それが当時のリアルを伝えているのだろう
記紀の編纂者もそれをそのまま伝えているように思う
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:28:54.72
吉備と九州の東半分は繋がっとる
0387日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:29:34.38
記紀には九州勢力が三種の神器を献上して畿内ヤマトに降伏する様子が書かれてる
九州北部で突然にお宝が出てこなくなる理由がこれだ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:37:51.27
>>387
畿内説はこのように他人でも確認できる事実から結論を導くが
九州説は自分個人の考えから自分だけの結論を作る

この差が決定的
0390日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:38:32.25
>>385
> 不思議なリアル感がある
 
そんな妄想を拠り所に青筋立てて力説されてもな。
リアル感でいえば『記』(『紀』は論外)の神武伝説にも相当「リアル感」はあるわけだがそんな話を始めたら袋叩きに遭うだけだ。
記紀のような政治文書に無理矢理真実性を求めなくてもいいんだよ。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:41:49.62
此処にも津田左右吉史観のほっかむり包茎頭が
0392日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:46:57.33
>>390
それは現代の私たちに繋がるリアルさ
伊勢神宮を最初に訪れた天皇は明治天皇
それまでの長い歴史の中で天皇としては誰も訪れていない
それを促すような伝統があったのだろう
0393琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 20:48:09.79
確りドングリが飛んできたわ。
無駄だな。
卑弥呼は鬼道で民を惑わしたのだな。
卑弥呼以前に北枕、中華度量衡の痕跡は無い
突然、神仙思想が畿内に現れたのであり、何より墓は嘘をつけない
甕棺の巫女は柱鬼神の巫女
九州から移動し畿内で神仙思想が開花するなぞ片腹痛い。
八角墳墓は理念は神武詔勅
卑弥呼畿内、前方後円墳にその理念は微塵もない。
八角墳墓の聖地は慶州羅井
卑弥呼の時代にはまだ月支城であろう。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:49:22.09
>>391
生憎だが俺は津田ドグマには徹頭徹尾反対だよ。
以前も書いたが、
記紀という文書は「事実」の函数を一度微分しておいて座標系の方を変換した上でシレっと元の変数で積分したものだと考えている。
事実の微分単位群はそのまま含まれているがプロット=積分後の新函数に真実性など求めようも無い、と。
そして件の座標変換式が天武朝のイデオロギーによるものだから史書に非ず「政治文書」だと云っている。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 20:56:51.90
>>395
馬鹿にも分かるように説明して?
たとえば神武東征は応神朝(河内王朝)の進出の
換骨奪胎みたいな?
0397琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 21:00:04.77
隋書、倭人は巫女を一番信じる
これが倭別種になり消えて行ったのだな
道とはひとつひとつ階段を上がる物だよ、いきなり娘が斎宮にはならん物なんだな。ここで卑弥呼道は破壊されている
無駄だな
0398日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 21:06:46.79
斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が乗っている

神鳳寺縁起帳に「第十一垂仁天皇の御時、初めて斎宮女御を別御室にて祝ひ奉る。この室に(天照大神)が入らせ給はんとては、御冠装束は俗の姿にて入らせ給ふ。必ず三枚の鱗を落とす。これを大唐櫃に取り入る。この櫃入り満たむ時は、世の中滅ぶべしと云々」とある

よく似た話が、鎌倉時代の僧で、神宮祭主の大中臣隆通の子である通海が神宮を訪れた記録『大神宮参詣記(別名、通海参詣記)』の中に出てくるのです。要約すると、
 「斎宮は皇太神宮の后で、夜な夜な通うので、斎宮の御衾には朝になると蛇の鱗が落ちているという人がいる。」

伊勢の神も三輪の神も蛇、能の三輪によると伊勢の神と三輪の神は一心同体で、どちらも岩倉
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 21:12:44.43
>>396
そんな次元の話はしていない。
「神武東征」説話に出て来るモノや地理などの微分単位群が事実であったとしても、
その単位群は時間方向にも空間方向にもプロット通りに並べ得るものではない、ということ。
記紀に顕れた積分後の新函数は元の事実の函数とは似ても似つかないものだろう。
プロットと云う器が神武だろうが応神だろうが同じ。
 
伝説の建国王は黥面の人を盟友としていた、又はしていたと信じられていた。
では何故そんな異形の者がヤマトに?と云う問いの答えをあのプロットに求めても無駄だと云っている。
 
河内平野が海湾であったという紛れも無い地質学的事実をあの説話は含む。
しかしそこを舞台に戦闘が勃発したとか侵入者側が惨敗潰走したとか、
プロットを真に受けてもその先には何も無い。
 
理解頂けたかな?
0400日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 21:14:50.26
石見神楽の切目も面白い

切目「「それ神といつぱ、天地未分の昔より、虚空円満におはします。これは即ち一元の神、又五行別像のその理はいかに。」
介添「木火土金水、青黄赤白黒の色を得て、五柱の神と現はれたまふ。」
切目「さてその垂跡は」
介添「事解男、速玉の男、伊弉諾の神社。」
切目「無念の鼓は。」
介添「父母の声。」
切目「羯鼓太鼓は。」
介添「幼兒の声。」
切目「みな神風の源は。」
介添「重波よする伊勢の宮。古歌に曰く、片そぎの千木は内外に變れども誓ひは同じ伊勢の神風。」


堺の伝承でも元々は神さましかいなかったとある
神さまとは旧石器時代からいる先住民である
先住民が様々な勢力の姫を娶り五つの姿で顕現したのである

大和国ふどきいつぶんの石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のこと
これも同じようなことを表しているんだろう
神女や天女の羽衣が掛けてあるのは松であり岩である。例外は1つもない!!
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 21:15:10.43
>>399
…(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)
やっぱ否定してね
0402日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 21:25:01.49
>>401
少なくとも津田ドグマのように「天武朝の史官が机上で全て捏造した」とは全く思わないけどな。

河内湾の存在年代を考えれば遅くとも四世紀、下手すりゃ二世紀頃の事実記憶が伝えられていたのは間違いない。
船団の寄港地が高地性遺跡所在地と全く符合するのは弥生戦乱当時の何某かの事実記憶があったと考えるしかない。
しかしそれが特定の一つの集団が特定の時期にあの時系列で経験したことだと信じ込むほど皇國史観に毒されちゃいないってだけだ。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 21:33:21.04
東征は円墳の東征だよ
4世紀半ばから後半
奈良から堺、摂津まで侵入している
5世紀になると畿内から円墳はなくなり、巨大な前方後円墳の周辺で作られるのはもっぱら方墳
5世紀前半の奈良の桝山古墳は日本最大の方墳だよ

円墳の勢力の畿内の最後は摂津国ふどきいつぶんのこの記述だよ
淡路島の牝鹿は淡路島にいた日向牛諸井の娘、髪長姫だろう

雄伴郡(をとものこほり)には夢野(いめの)がある。

父・老が共に伝えて言うのは、昔 刀我野には牡鹿(おじが)がいた。その嫡(本妻)の牝鹿は この野に居り、その妾の牝鹿は淡路国の野嶋に居た。

この牡鹿は野嶋に行って妾をとても愛おしんだので、その日は嫡の元には帰らなかった。その翌日、牡鹿は嫡の牝鹿に「今夜 夢を見たが、私の背に雪が降り積もっていた。また、(背の上に)すすきという草が生えているのもみたが、この夢は何の兆しだろうか」と言うと、嫡の牝鹿は夫が妾の所に向かうのを憎み、偽って「背の草が生えるというのは、背の上を矢で射られるという兆しでしょう。また、雪が降り積もるというのは鹽(塩)を宍(肉)に塗られる兆しでしょう。あなたが淡路の野嶋に渡るのであれば、必ず船人と遭遇して海中にて射たれ死ぬことでしょう。謹んで往復してください」と言った。

しかし、その牡鹿は妾を愛おしむあまりに野嶋に渡っていき、海を行く船に遭遇して射殺されてしまった。よって、この野は夢野と名付けられた。土地に伝わる説に「刀我野に立てる眞牡鹿も、夢相のまにまに」というものがある。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 21:39:47.02
>>403
>5世紀になると畿内から円墳はなくなり、巨大な前方後円墳の周辺で作られるのはもっぱら方墳

倭人(阿波勢力)の前方後円墳少数民族と円墳少数民族と方墳少数民族が入れ替わり造営しただけ。   @阿波
0405琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 21:44:10.10
朝にも書いたが現在の守護者等は皇国史観とはいえない者等だよ。そのものズバリ吾輩が驚くほど同じに考えているよ。
だから無駄なんだよ。
1300年は否定しないが卑弥呼時代は違ますよね。が私の考え
神武詔勅は今現在も理念だよ。先日国会で山本太郎の質問で敗戦国ではありませんと答えている。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 21:52:05.36
神さまである旧石器時代からいる先住民を蔑ろにしてはいけませんという現代にも通じる価値観の話なんじゃないの
茅の輪潜りは重要という話でしょ
0407琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/15(水) 21:53:39.12
吾輩がこんなこというのは吾輩が解ることが諸外国の分析官に解らないわけがないと言うことなんだな。
話がそれたが。
戻してくれ
0408日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 21:57:30.96
いや大丈夫だよ続けてくれ
どちらにせよ吾輩には其方の言うことはよう分からんのだが
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 22:19:31.43
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである







.
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 22:52:19.99
>>410
出雲→陸行ひと月で吉備で邪馬台国で良いと思うけどな
俺は出雲→吉備→伊勢遺跡で陸行ひと月だと思ってるけど
0412 警備員[Lv.6(前37)][苗]
垢版 |
2024/05/15(水) 23:04:27.33
吉備もたぶん投馬国に入ってる
0413日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 01:10:15.05
邪馬台国は九州以外てこと
0414日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 02:01:48.13
唐書や隋書により、
当時の倭国は東西5月行、南北3月行と明記されているので、
弥生の陸行1月は百数十キロを超えない範囲と考えられるのである。
出雲から吉備を通って大和に至る行程が陸行1月行になるのは平安~鎌倉時代頃で、
そんなルートは弥生の日本には想定する事は不可能。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 02:22:25.58
魏使は末盧国の港(呼子港)に着いたらすぐに下船して歩き回っているから
邪馬台国は北部九州にあった事は確実、もし奈良にあったら魏使は大阪まで
乗船して大阪から奈良まで歩くはず、九州から奈良まで歩くはずが無い
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 02:36:18.26
卑弥呼が魏使と会ったのが伊都国だったのなら畿内説は終了です
0417日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 03:04:08.55
伊都国が糸島なんて思っちゃいない
糸島に行くなら船で行く
日本上陸地点は出雲なんだけど鳥取の長瀬高浜遺跡はどうだろうか?
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 04:05:31.55
>>416
違うので
九州説が終了したのが
もう二十年くらい前のこと
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 04:45:02.83
『日本書紀』は『魏志』を引用しているが、「倭女王」とするだけで卑弥呼の名を書いていない。それだけで、卑弥呼は大和朝廷の女王ではないことが分かる。」

—『天皇の国史[上] (PHP文庫)』竹田 恒泰著
0420日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 04:48:33.35
「文献史学のこれまでの議論の積み重ねにより、邪馬壹国の所在地は九州と結論付けられるとしてよいだろう。」

『天皇の国史[上] (PHP文庫)』
 竹田 恒泰著
0421日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 05:30:39.05
だから九州説終了
0422日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 05:41:22.93
令和書籍の教科書が気になるなあ
0423日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:00:10.81
イデオロギー丸出しの竹田恒泰、邪馬台国九州説を採る理由がスーパー素人と同じ
0424日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:04:51.52
皇室では卑弥呼を先祖として認めていないという事だろ
0425日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:12:36.57
魏使は末盧国の港(呼子港)に着いたらすぐに下船して歩き回っているから
邪馬台国は北部九州にあった事は確実、もし奈良にあったら魏使は大阪まで
乗船して大阪から奈良まで歩くはず、九州から奈良まで歩くはずが無い

なるほど
0426日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:21:22.07
>>424
認めてるけど?
0427日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:25:24.04
邪馬壹国ヤマイとか言ってる時点でスーパー素人丸出しなので、このスレの素人より素人
それが竹田恒泰
「朝日新聞がいうなら分かるが、保守の産経新聞がいうべきじゃない」などと言ってる時点で、学問じゃない
0428日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:28:18.12
日本人からそっぽ向かれた畿内説の愚痴w
0429日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:41:11.86
邪馬壹國

—『魏志倭人伝』陳 寿著
0430日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:44:04.08
>>429
紹興本以外に邪馬壹と書いてる史書がない
この時点で終わり
0431琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/16(木) 06:44:22.99
六合を兼ねてもて都を開き
神武詔勅が八角の理念。
元は六村六部が始まりなのが秦王国。
今は八秦を持って全てを治めると言うこと。
この理念は卑弥呼前方後円墳神仙思想には見られない、後から被せられた物。
箸墓が卑弥呼の墓。
淡海三船には良心がある。
竹田氏が何を言ようが無駄だよ。
興福寺八部像は藤原慶州南山の子供達
0432日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:47:09.48
異を唱える者には人格攻撃をするのが畿内説のやり口
0433日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:50:13.26
>>432
竹田恒泰が九州説を採る理由が完全なスーパー素人と同じであることは事実
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:52:00.34
>>433
竹田恒泰が九州説を採る理由は、「阿波」を知らないど素人だから。   @阿波
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:55:17.56
>>433
畿内説を信じる方がスーパー素人くん。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:56:25.13
>>434
大宜津比売の事はちゃんと触れているぞ
0437日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:58:18.42
>>436
>大宜津比売の事はちゃんと触れているぞ

「大宜都比売命」は「阿波」の神。
ならば、殺した「須佐之男命」も「阿波」の神。
「須佐之男命」の姉神「天照大御神」も阿波」の神。
どう転んでも、記紀神話の神々は「阿波」の神々である。   

と、言いていなかったか?   @阿波
0438日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 06:59:00.03
古墳時代を、やまと時代としたことは一定程度評価できる
竹田恒泰の動画を見たことあるが、卑弥呼は九州にいて、同時代に纒向にヤマト王権がいたと主張していたはず

北部九州に卑弥呼という地方豪族が、纒向にヤマト王権がいたというのは絶滅危惧種の九州説学者ですら1人も唱えていない
それは成立の余地がないからだ

関川も布留0を370年と100年ずらしているので、卑弥呼時代には纒向は存在していなかったという認識だ
0439日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:04:33.16
>>438
>卑弥呼時代には纒向は存在していなかったという認識だ

当然だ。
「卑弥呼」時代に、まだ「前方後円墳」は存在しない。 纏向は「古墳造営前線基地」なんだから。   @阿波
0440日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:07:39.22
>>437
書いていない。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:11:16.51
>>440
ど素人でも分かる理屈なんだがww  だから、竹田恒泰もど素人以下となるな。   @阿波
0442日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:13:15.79
素戔嗚は九州(日向)生まれで確定している
0443日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:15:46.81
>>442
九州から「阿波」からやってきて「大宜都比売命」を殺したのか?   @阿波
0444日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:16:19.03
>>442
九州から「阿波」にやってきて「大宜都比売命」を殺したのか?   @阿波
0445日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:29:44.03
「阿波」を抜きにしては、記紀の理屈が合わないんだよ。   @阿波
0446日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:33:14.37
>>444

中臣祓氣吹抄によると天照大神のいた高天原は豊前の宮處郡と書いているので、そういう事だろう
0447日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:38:53.99
>>446
>中臣祓氣吹抄

知らん。   @阿波
0448日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:39:52.30
公金吸ってるプロが多そうなスレだな
0449日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:43:59.11
>>442
>素戔嗚は九州(日向)生まれで確定している

そもそも、日向が九州だなどと、どこにも書かれていない。 勝手に後付けした地名を九州だと勘違いしているだけ。   @阿波
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 08:20:21.12
「大宜都比売命」は「阿波」の神。
ならば、殺した「須佐之男命」も「阿波」の神。
「須佐之男命」の姉神「天照大御神」も阿波」の神。
どう転んでも、記紀神話の神々は「阿波」の神々となる。 

ど素人でも簡単に分かる理屈なんだがww   @阿波
0451日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 08:21:03.31
>>435
>畿内説を信じる方がスーパー素人くん。

玄人である学者はみんな畿内説なんだが
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 08:27:14.12
魏使は對馬の北端(比田勝)から南端に近い厳原までの約90kmと
壱岐の勝本から郷ノ浦までの約30kmも陸路を歩いているからこれも
陸行1月に含んでいる、邪馬台国(吉野ケ里)からは三瀬峠を越えて
伊都国に戻っているので、帰りは1〜2日もあれば十分すぎる
従って往復陸行2月もかかる訳が無い
0454日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 08:33:31.91
ようするに邪馬台国は九州以外てことですね
0455日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 08:36:16.96
旧石器捏造を見抜けずに持ち上げていた玄人が日本の考古学学者
尚、アレおかしいだろ?捏造じゃね?
と指摘していた玄人は学会から干されて
旧石器捏造が発覚した後の調査委員会にすら選ばれなかった
0456 警備員[Lv.8(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 08:36:48.18
ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ
文献を度外視して古墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の一部の考古学者(主に畿内自生説)もその類と言える
邪馬台国の真実は魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ

まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる
(続く)
0457 警備員[Lv.8(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 08:37:48.41
(続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ

「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
予断を排して魏志倭人伝と記紀と考古学を虚心坦懐に照らし合わせれば、必然的にこの結論に至る
0458 警備員[Lv.8(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 08:40:02.47
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)

しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制・横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう

北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)

しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)

私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える

タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう
欠史八代や纒向築造開始時期などを考慮すればタイミング1の可能性が高いと思われる

初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備・東海・北陸・山陰など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはそれに敵対する勢力)
(続く)
0459 警備員[Lv.8(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 08:41:02.76
(続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった

北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる

翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる

こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 08:42:06.48
『魏志倭人伝に書かれた邪馬台国』の場所を比定するなら
魏志倭人伝の記述を基準に考察するのが当たり前

「邪馬台国は大和のことじゃね?」
「畿内にあったとすれば記紀の記述との整合性が取れる」

いや、そういうのは関係ないから。
邪馬台国は大和かどうかとか記紀の記述とかは
『魏志倭人伝に書かれた邪馬台国』問題とは分けて考えなくてはならない
何故なら邪馬台国が大和かどうかは証明されたファクトじゃなくて単なる考察仮説妄想でしかないから。
0462 警備員[Lv.8(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 08:43:47.56
>>456
以下が漏れた
まずこちらに続く

次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
0463 警備員[Lv.8(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 08:46:12.50
文献を軽視する人間(古い畿内自生説に多い)も、考古学を軽視する人間も邪馬台国の真実には決して辿り着けない

なぜならば文献と考古学が整合するところにのみ邪馬台国の真実は存在するからだ
0464日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 08:49:33.46
つまり考古を無視する九州説には無理
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:00:43.56
>>456
記紀要らないから
0467日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:01:21.13
九州説のひとがウソ以外を言うことはとても珍しい
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:03:27.97
>>462
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
AC600年の號は阿輩雞彌=大王
つまり神武東征はこれ以降のはなし
伊勢神宮の創建年とも合致して辻褄が合う 
0469日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:06:54.54
伊都国に船で行かない理由は無い
方角も違うし
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:07:57.78
>>466
じゃあアマテラスもモモソもトヨウケも要らないな
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:08:18.51
邪馬台国は文献にあったもの。そこが議論の始まり。
それにもかかわらず畿内説は都合が悪いので文献を無視する。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:10:16.58
>>470
アマテラスは阿毎多利思北孤(AC600年)じゃないか?
伊勢神宮がそんなもんだし
0473日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:11:54.99
>>471
無視はしてないが不自然な部分を指摘してるだけ
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:14:27.49
記紀は7世紀の出来事てか作り話だと考えれば辻褄が合う
0475日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:16:09.47
>>473
いや魏志倭人伝の記述の方が基準だろw
記紀が書かれたのは魏志倭人伝の数百年後だぞwww
0476日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:17:17.74
>>465
>当時の対馬島内に歩く道はありません、近年まで島内交通はほぼ舟のみ

「南北市櫂」
その南北とは、その島内の南北のこと。  
船に乗って島内を南北に行き来し、商取引(物々交換)をしている。
だから、「對海國」「一大國」それぞれに「南北市糴」を記している。   @阿波
0477日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:17:27.50
>>475
記紀なんかどうでも良いわ
あんなもん作り話だから
0478日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:17:30.80
魏志倭人伝の記述と記紀の記述に矛盾があるなら
正確なのは魏志倭人伝の方だよ
0479日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:18:31.13
>>478
そうなんだけど小人なんか居ないから
0480日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/16(木) 09:23:30.51
>>479
神津島は小人だったことになる。   @阿波   
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:25:23.57
記紀は間違ってる。だから魏志倭人伝は正しいって事にはならないから
どうもここの連中妙な考え方をするな
0482 ハンター[Lv.51][初]
垢版 |
2024/05/16(木) 09:26:34.74
>>479
広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上につくられた集団墓地である。
昭和32年から34年にかけて遺跡の調査が行われ、合葬を含む90ヵ所の埋葬遺構から158体の人骨が出土した。
埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、身長が成人男性で平均約154p、女性で平均約143pしかなく、
同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163p、女性で平均約152p)と比べても、極めて身長が低い人々であることが分かったという。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:26:35.33
「魏志倭人伝」も「記紀」も「阿波」を書いている。   @阿波
0484日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:28:01.18
>>482
それで侏儒国は種子島なのか?
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:28:50.57
>>482
ならば、神津島が小人の国で、なんら不思議はない。   @阿波
0486日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:28:55.34
>>481
弥生時代の記述に関しての信憑性の議論だよ
人並みの知能があればより近い時期に書かれたものの方が信憑性あると分かる
0487日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/16(木) 09:29:54.86
>>484
侏儒国=神津島(女王国「阿波」から直線距離 約400km 四千余里 ∴一里=100m
裸国=三宅島(またその神津島から東南)
黒歯国=御藤島   
其南とは、女王国「阿波」付近からの黒潮大蛇行による南への流れによるものだろう。   @阿波
0488日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:30:24.58
>>486
まさか記紀と比べてるんじゃないだろうな?
0489日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:31:58.33
>>487
おまえの遊びに付き合ってられない
マジでそれが正しいと思ってるのか?
0490日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:34:17.37
>>472
宗像大社の国家祭祀は4世紀後半からだから違うと思う
0491日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:35:10.97
マジで思っている。

侏儒国=神津島(女王国「阿波」から直線距離 約400km 四千余里 ∴一里=100m
裸国=三宅島(またその神津島から東南)
黒歯国=御藤島   
其南とは、女王国「阿波」付近からの黒潮大蛇行による南への流れによるものだろう。   @阿波 
0492ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/16(木) 09:36:46.78
百田や長浜や竹田宮や渡邉の説を信じている時点であ!とお察しな訳だ
ネトウヨ九州説はそんなのばかりなんだよな
0493日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:37:08.44
短里なんてあり得んよね
常識的に考えばわかる事
どこからこんなもんが出てきたの?
0494日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:38:38.53
>>489
短里で四千余里の島は、神津島しかない。

長里で四千余里の島は、無い!   @阿波
0495日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:38:39.88
>>490
神社の遺跡が何処からも出て無いのに何故そこは違うと言い切れるのか?
0496ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/05/16(木) 09:39:30.61
ネトウヨ九州説って日本保守党やアベ信者が多そうだよな
クルド人にヘイト投げたり反韓活動して珍味売って壺を拝んでいそう
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:39:44.96
>>493
「魏志倭人伝」は、すべて短里で書かれている。   @阿波
0498日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:40:09.18
寺の遺跡はあるのに何故神社の遺跡は無いの?
0499日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:41:02.57
>>497
その短里とやらはどこから編み出したんだよ?
0500日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:41:09.96
>>496
アベガーのほとんどはチョンコだけどな
0501日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:42:37.11
>>488
魏志倭人伝そのもの中で矛盾がある部分に関してその部分の信憑性を疑うのはアリ
魏志倭人伝全てが信用ならないなら
そもそも邪馬台国論争に参加する意味はない
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:44:08.15
>>499
またそれ?

http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf

上によると古代中国の天文測量法「一寸千里法」で測定すると
洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
グーグルマップで距離を測ると300km相当
300km=300000m÷4000里=75m

つまり当時の天文測量の精度があれなせいで
短里が生まれてしまい、
古代中国人はこのことに気付いてなかったらしい

そして実測できない邪馬台国のような外国だから
一寸千里法を使わざるを得ず、
倭人伝だけ短里になったんだ…が短里説らしい
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:44:28.05
>>501
当たり前だ
根本の卑弥呼も邪馬台国も存在した前提で書いてる
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:49:48.19
>>502
対岸が見えてるのにそんな間違いをするのか?
0505日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:52:26.44
>>504
影の長さで測るから近すぎると距離測定出来ない
魏志倭人伝の道里の記述が最小100里なのは多分それが理由
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:56:33.76
そんなもんで測ってない
測ったら洛陽より南でないとバレている
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:58:23.76
>>505
距離が6倍とか違うのに無理がある
隋書ではちゃんと訂正されている
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 09:58:46.17
短里は現代日本人だけの妄想
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:00:58.11
伊都に囚われすぎだわ
あんなの絶対大したことない
自生説に疑問があるならイッチーみたいに
吉備をテコに考えればいい
なぜ伊都
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:03:25.56
>>507
隋書倭国伝は7世紀の書物
日本側の主張(都合)に合わせた可能性が高い
大和朝廷は
ウリ達はあの魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の末裔ニダと自称していからね
0511日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:04:04.04
>>499
奴国2万、投馬国5万、邪馬臺国7万の
戸数の比率は正しいと言い張るやつもいるんだぜ

短里なんて実際の距離から比率がわかるだけなんぼかマシ
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:05:08.13
>>510
大和朝廷ってそれ誰の事よ?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:06:32.23
>>511
ましとかの問題じゃない
短里なんてもんが何処から出てきたのか?
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:07:42.48
>>513
万二千里と実際の距離との比率だろう
戸数なんて実際の数すら不明なのに正しいと言い張るアタオカがいる
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:11:01.60
>>514
比率だろうじゃなくてさ
公式の距離じゃないもん書かれてもわかんねえじゃん
それと俺は戸数は全くの出鱈目と思ってない
ヤマトつまり日本の戸数が7万戸なら妥当
0516日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:13:47.02
遣隋使の記述見るともうその時点で記紀と中国側の記述が矛盾しまくりで笑う

第一回遣隋使は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ。
ここでは中国史に合わせて遣隋使として紹介しているが、『日本書紀』では「隋」ではなく「大唐國」に遣使したとあり、高句麗が隋の捕虜を献上した記事にだけ「隋」「煬帝」の名前が出ている。
『日本書紀』では裴世清、『隋書』では編纂された時期が唐太宗の時期であったので、太宗の諱・世民を避諱して裴清となっている。役職も『日本書紀』では鴻臚寺の掌客、『隋書』は文林郎とする。
小野妹子の返書紛失事件は『日本書紀』にはあるが『隋書』にはない(『隋書』には小野妹子の名前も、中国名とされる蘇因高も出てこない)。
『隋書』では竹斯國と秦王國の国名が出てくるが大和の国に当たる国名は記されていない。しかし、「都於邪靡堆」とあることから、都は「邪靡堆」にあったと推察される。
『日本書紀』では推古天皇の時代であるが、『隋書』では倭王が女性であることを思わせる記述は全く無い。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:14:06.01
アタオカがいたw
おはなしにならんとはこのことだ
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:16:06.00
邪馬臺=ヤマトは他の史書等それなりに根拠はある
でも短里の何処に根拠があるの?
0519日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:20:41.53
中国の史書は検証の余地がある
記紀は論外
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:26:15.44
>>516
都が邪靡堆=邪馬臺はずうっと中国の勘違いなのよ
だから国名が出てこない
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:30:45.03
邪馬臺が漢化したのが大和。
五世紀の後漢書、七世紀の隋書は魏志の邪馬臺が当時の中心国だと言っている。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:31:39.72
日本書紀の時代は唐国で合ってるだろw
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:32:21.83
なんか分かったわ
遣隋使の記録が記紀と隋で違うのは
遣隋使送ったのが推古天皇じゃなくて蘇我氏だったからだろう
天皇家が存在はしていたけど政治の実権は蘇我氏が握り
遣隋使を送った主体は蘇我氏
だから記紀に一回目の記録が無かったり中国側に推古天皇に関する記述が無い
中国目線では日本の統治者は天皇ではなく蘇我氏だった
徳川幕府と天皇ならぬ蘇我幕府と天皇という状態
倭の五王が記紀に書いてないのも同じ理由かもしれない
中国に使いを送ったのは天皇ではなく当時の幕府的な権力者
だから記紀からは無かったことにされてるんじゃないかと。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:33:39.10
大化の改新は古代の明治維新
天皇家が権力を取り戻したクーデター
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:33:56.02
一寸千里法は唐代に測量実験して成立しなかった
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:37:52.53
つまり畿内説は何の証拠も示さず妄言を垂れ流すだけの宗教(病気)
0527 警備員[Lv.9(前4)][新苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 10:48:27.54
記紀の記述はかなりの真実を含むと考えられる

崇神・垂仁・景行の宮が何れも纒向遺跡近辺にあったとするなど、古代の天皇の宮や古墳がかなり考古学的事実と整合するし、神武東征の上陸地点が記紀が編纂された8世紀には既に内陸であった白肩津(枚方あたり)とすることなども伝承の真実性を窺わせる

もちろん伝承が間違っていたり何らかの理由で8世紀の皇室が故意に脚色したり捻じ曲げたり無視した部分もあるだろうから、他の文献や考古学と照らし合わせることは大事だけれども

記紀が全くのデタラメという意見こそ客観的事実と適合しない
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:55:10.74
>>499
陳寿に聞け!   @阿波
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 10:58:28.23
記紀には信憑性がある(キリッ
尚、没年は以下

崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
仲哀天皇53歳
応神天皇111歳
仁徳天皇142歳
履中天皇70歳
反正天皇75歳
允恭天皇78歳
安康天皇56歳
雄略天皇
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:00:59.34
倭王讃の祖父が東西に121国を平定したと上表文にはある
仮にもし倭王讃を応神だとするならその祖父はヤマトタケル
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:12:55.15
倭は倭はで南朝を正統と思ってて
隋唐をナメてかかっている節がある
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:13:45.95
その祖父ヤマトタケルは、「阿波」の石井に眠る。   @阿波
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:19:39.31
魏が滅亡したのは265年
台与がアラサーの時代で、266年の西晋への朝貢を最後に消息不明になった時代

その時代を崇神とすれば
崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、神功、応神で
250〜400年あたりの時代なのかもしれない
またヤマトタケルも天皇だったとする話もあるな
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:20:21.82
>>523
俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:23:53.45
>>534
崇神とするなバカ
0537日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:25:06.08
>>531
倭の五王、
祖父が応神 313年以降半島進出
父は仁徳 370年七支刀
子は、418履中、反正、允恭
孫は、安康、雄略502(480)
たぶん一代有って
503年継体、人物画像鏡

祖父が応神でそれ以前は
漢四郡を神功が征伐してた
魏には秘密だよwww 無理

だから246年に防衛の必然性が出来て
九州一大率を置いたのは
誰だか判らない。

卑弥呼なんだってな?
そんな女王は日本史に無い。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:26:22.46
>>527
纏向になにか残ってた可能性もあるし古墳もあるし話しくらい作れるよ
0539日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:31:10.78
>>532
東朝だからな。北朝対南朝の外で極東の中華が育ってた。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:36:09.17
証拠は記紀ですで話が進まないのよ
証拠は無いんだから頼むわホント
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:37:16.15
>>511
九州説は戸数も日数も全然合わないから都合良く変えるしかないな
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:42:30.06
証拠と言うより記紀には根拠がない
年代もわからんし誰が居たかもわからん
それを無理矢理当てはめて伝承を事実のように語る
0544日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:45:56.77
九州説は投馬国は朝鮮とか、福岡横断に二ヵ月かかった(倭人に騙された)とかマジで言い出すからな
0545日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:48:31.96
>>544
伊勢遺跡説だが俺も投馬国は朝鮮てか対馬な
帯方郡から水行二十日でそんなもんだろう
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:49:36.44
倭人伝の方位は明らかに間違ってるのに、それは認めないバカ九州説
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:54:30.07
>>546
畿内説に都合が悪いから魏志倭人伝の方が間違ってる筈だ
という発想は学問ではなく宗教
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:55:01.22
列島の倭は倭奴国
じゃあ半島の倭は何なんだろう?
狗邪韓國?
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:55:22.61
大鵬郡を出発点とする根拠無し
伊都に到らせている以上通常の軍師の旅はそこで終わり
女王国中枢に向かう者だけが不弥国経由で
関門海峡を迂回し瀬戸内を水行
0550日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:58:36.47
>>547
方位通りに進んだら邪馬台国は太平洋の中だろ馬鹿
0551日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 11:59:32.26
>>549
瀬戸内海は危ないし通らなかったと思う
座礁する
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:01:19.54
>>540
かりに証拠は発掘された遺物ですと言ったって
国産の三角縁神獣鏡は卑弥呼が貰った鏡ではあり得ないし
U字型鉄パイプは黄幢でもない冠帽の芯だし

その解釈はすげえ適当
記紀持ち出すのとあんま変わらん
0553日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:03:03.57
>>551
瀬戸内に出ないなら不弥国を経由する理由がない
日本海に行くなら那津を使えば良い
那津が使えるなら伊都へは末盧ではなく那津に寄港すればよい
とまあ色々不具合が起こる
0554日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/16(木) 12:05:49.82
>>553
>瀬戸内に出ないなら不弥国を経由する理由がない

太平洋に出るために、「不弥国(築上)」を経由する。   @阿波
0557日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:07:11.91
>>552
黒塚古墳で注目すべきは周囲に置かれた三角縁神獣鏡と中央に置かれたたった1枚の画文帯神獣鏡だな
0560日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:08:01.17
>>555
>奴国までは畿内説の学者ですら認めてるよ


だから、どっちも永遠にトンデモのまま。   @阿波
0561日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:08:36.02
>>555
対馬から壱岐へ南(実際は東南)の時点でズレてるけどな
0562日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:09:07.98
>>557
三角縁神獣鏡ってほんと大事にされない鏡だな
大量生産の数打ち
0563日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:10:29.48
>>553
俺は不弥国の事などなんにも言ってないが
帯方郡から水行二十日だと言ってるだろ?
何故里数の行程と日数の行程がつながってると思うんだ?
0564日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:11:21.49
>>554
不弥の関門避けという思想だけは阿波と共有できる
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:11:25.63
>>557
黒塚古墳で注目すべきは、石室に敷き詰められた「阿波」の水銀朱だな。   @阿波
0566日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:12:37.92
>>544
水行30日は九州上陸までの1万里
陸行1月は女王の処都まで2千里

参問倭地21国周旋可5千里7万戸の
女王国は九州北部

倭人伝行程は、247年と240年の
2回有った魏使二人の報告書の引用で
朝鮮投馬国以外では解決しない。

247年は伊都までの万二千里で
倭人船の寄港地間の里程記録
伊都の情勢を報告

240年は金印女王の処都まで
魏船による韓西岸~九州の初行軍で
馬韓、弁韓通過と渡海の日数、地理と
女王所属21国の詳細、
国勢と女王卑弥呼の臺の様子を報告
これが、計万二千里
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:12:46.15
畿内説に立つのなら九州を陸行したのは瀬戸内海ルートだったからとしか考えられないわな
0568日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:13:57.10
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである







.
0569日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:13:57.26
>>563
繋がっていないと思うのも
瀬戸内が危険なのもあんたのお気持ち
瀬戸内と日本海どちらを取るかによって
寄港した港の比定に齟齬が起こるのは分かるだろ
だからこそあんたは帯方郡起点を説いていると
判断したんだがな。違うのか
0570日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:14:12.75
>>564
>不弥の関門避けという

「阿波」の海人族にとって、関門海峡なんてなんの問題もないが、伊都国(直方)に立ち寄らなければいけないから。   @阿波
0574日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:16:57.43
奴国から東に陸を船で進み、さらに南に陸を船で進むのが九州説
0575日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:17:21.46
>>563
質問に答えてなかった
繋がっていると取るのもいないと取るのも
可能性は半々だわな

おれは帯方郡から直接女王国は目指さない
伊都国で「到」の字が使われているからだ
伊都に入るのはまず必須だと判断している
それがあんたとの一番の違いだ
前提が違うから結論が変わっているだけ
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:17:52.35
>>567
でしょでしょ
0577日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:18:04.03
>>570
あ、問題ないすか
0578日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:19:10.59
>>569
里数と日数が別だと考えるなら出発点は帯方郡または楽浪郡でしょう
だって里数なんか関係ねえじゃん
0579 警備員[Lv.12][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 12:19:45.07
>>530
崩御時の年齢が100歳を超えるのは仁徳天皇までで、それより後の天皇は自然な年齢で崩御している
一つの可能性として、古代の日本では二倍暦が採用されていたが、倭の五王の朝貢時に中国のスタンダードな暦が輸入され置き換わったのかも知れない
0580日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:20:50.66
>>575
俺もそれは否定してないよ
入国管理局はあったでしょう
一大率が検察してるんだから
0581日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:21:01.45
>>578
いや根本はそこじゃないでしょ
これで噛み合わないならあんたは伊都国を
軽視しているか伊都国を本州に置いている
これしか無い
0583日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:22:41.67
>>581
伊都国は出雲だよ
だって糸島なら船で行かないのはおかしいでしょ?
0584日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:23:16.96
畿内が現実的。
九州説は神代文字が漢字以前に文字として存在してたと改竄してるナショナリズムの誇大妄想と同レベル。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:23:46.10
>>583
おかしいよそりゃ
0586日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:24:24.04
>>579
2倍歴は
日本書紀の記述が事実であって欲しい
という願望から生まれたこじつけ
まともな学者は相手にしない
0588日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:28:37.43
>>585
俺はあの行程は書いてある通り末盧國から東南陸行五百里で吉野ヶ里に行ったんじゃないかと
0589日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:33:09.75
勿論吉野ヶ里は伊都国じゃないよ
0590日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:34:02.59
里数と日数の行程が別
なのは当たり前。

247年の魏使は、上陸から徒歩500里の
伊都に常駐して難升米黄幢と
激告諭、臺与で帰国した。
計10500里、隣100里に奴国、不彌国

240年の魏使は水行10000里で上陸。
九州北部、1月行、2000里の陸行で
卑弥呼の臺に金印を届けた。
計12000里
0591日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:34:55.91
>>588
方角が90度違うからな
ただ伊都→奴国でまた急に正気に戻る
けど佐賀の伊都国と投馬国の伊都が2つできてしまうな
0592日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:36:06.48
まあ放射読みとかいうアクロバットからして間違いなんだけど
0593日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:36:31.04
>>589
やっぱそこでガチャっちゃうんだよな
だからおれは繋げたほうが楽
0594日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:38:45.23
吉野ヶ里王国が目的地でもおかしくないと思うがなあ
ただ時代は後漢時代じゃないかと
0595 警備員[Lv.13][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 12:41:19.56
>>586
あくまでも可能性としてはあり得るだろう
仁徳以前と履中以後で天皇の寿命に不連続的な断絶があることの一つの説明にはなり得る
0596日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:43:00.53
太平御覧版「魏志倭人伝」
◆東南陸行五百里到伊都国、官曰爾支、副泄謨觚柄渠觚有千余戸、世有王皆統属女王、帯方使往来常止住
◆又東南至奴国百里、置官曰先馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸
◆又東行百里至不彌国、戸千余、置官曰多模、副曰卑奴母離
◆又南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利
◆又南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、其属小国有二十一、皆統之
◆女王之南又有狗奴国、男子為王 其官曰拘右智卑狗者 不属女王也

・文頭に「又」があるため放射読み出来ない
・投馬国が於投馬(イォドゥマ)国と表記(イヅモと読める)
・狗奴国の官名が拘右智卑狗と表記(菊池彦と読めない)
0597日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:44:48.14
>>595
其人壽考或百年或八九十年
これで調子に乗ったんじゃないか?
0598日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:45:40.58
>>595
無い無い
古代の人間馬鹿にしすぎ
春夏と秋冬では一つのサイクルにはならない
春夏秋冬で一つのサイクルだろ
春夏と秋冬で乾期雨季みたいな区別はしていても乾期で一年、雨季で一年なんて数え方にはならない
それは年とは違う概念
0599日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:48:37.95
>>596
少数の異読だからと蔑ろにはできないけど
不弥国経由しての日本海航路はもうしっちゃめっちゃかだな
0600 警備員[Lv.13][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 12:52:52.40
考古学で歴史を説明することには多分に限界がある

例えば江戸城という歴史的建造物があることは誰でも客観的にわかるが、これを誰が建造し、誰が使用していたかは考古学では明確にはわからない

15世紀半ばに扇谷上杉氏の重臣太田道灌が築城し、その後扇谷上杉氏、後北条氏の支配を経て小田原征伐を機に徳川家康が入城し、大幅に改修して代々江戸幕府の将軍の居城になったことは文献によって始めてわかることだ

邪馬台国も考古学だけでは歴史的事実は明確にはわからず、魏志倭人伝の記述があることによって初めて歴史として構築され得る

考古学だけで邪馬台国のことがわかるなどと考えるのは、一部の頭の悪い考古学者の思い上がりでしかない
0601日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:53:37.13
>>599
何が
0602 警備員[Lv.13][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 12:53:53.55
>>598
何の根拠もない個人的思い込みをありがとう
0603日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:55:46.90
五万、七万戸は魏使が数えたとは思えない
倭人が把握していたのなら可で表さない
奴国との面積比から凡そ割り出した、以外に考えようあるかな?
割り出した上で盛っていると思う
奴国二万は多すぎる
0604日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:57:25.54
中傷しかできない九州説は死に体
0605日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:58:43.81
>>600
それが卑弥呼であり帥升であり倭奴国王であり倭の五王でしょ
0606日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 12:58:55.99
>>602
そもそも論だけど
倭人は暦を知らず、春に種を巻き秋に収穫するを以て一年とす
と邪馬台国時代について書かれている
つまり日本書紀に邪馬台国時代が何年なのか記録なんか残ってる筈がないんだよ
暦を知らないんだから
0607日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:13:11.77
荒らしが巡回してやがるな


>>601
だって繋げて読むなら水行の起点は
不弥国で確定やないですか
「不弥国港」使えるなら伊都に詣でるときに
外洋からでもそこに入ればいいのに
まず末盧に入ってそこから五百里も歩いて伊都まで来てる
伊都から不弥国港なら二百里だよ

この不合理は不弥国港が外洋ではなく瀬戸内海に面するなら
関門海峡という現代でも水難事故が起こる難所を
避けるための経路だと把握できるけど
結局そこから日本海へ行くつまり関門海峡問題が
何の関係も無いなら不弥国港て何となる
そして末盧て何となる

それをおれはさっき(多分)伊勢遺跡説の人と話してた
0608日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:13:37.77
>>603
奴国投馬国邪馬台国で三韓ぐらいの面積を想定するのが普通
0609日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:13:46.68
>>603
戸数の可と有の違いは
筆者の筆致の違い。

247年の帳政は有。 
至、到もかき分けた。
240の報告書は可で至だけ。

陳寿は自分の文なら
かき分けないし統一される。

里数、日数の違い同様、
二人の著作から引用したから起きた事。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:14:11.21
卑弥呼は居た← 事実
卑弥呼は天照大神だから宮崎に居た←勘弁してくださいよ  
0611日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:15:42.90
>>607
その時代に関門海峡は陸続きですけど
0612日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:17:36.07
>>611
船で通れないならそれで良し
那津が機能していないのが不審なんだ
どっちにしても
0613日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:19:56.23
古代の奈良は湖
その上をカモメが飛んでた
その時代の遺跡も湖囲むように円状に並んでいる
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:21:13.17
宗像あたりは航海安全を祈願する重要な場所だから
倭人は卜骨祈祷しながら航海してた
0615日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:22:16.86
里数行程と日数行程は無関係なんだから九州の何処にも行ってないよ
水行二十日で投馬国に行って水行十日と陸行ひと月で邪馬台国に行く
これが行程のすべてだ
0616日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:22:34.41
黒塚のU字形鉄パイプが冠帽はないわ

冠帽ならもっと出土例があるはずだし、鉄パイプ製の冠帽の例がない

冠帽のだいたいが金銅製だしパイプなんか使ってないぞ
0617日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:26:15.68
結局、邪馬台国は九州以外てことね
0618日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:26:57.60
U字形の半円は何センチ(インチ)なの
40cm程度なら帽子の可能性もアリだけど
黄幢だとすると小さすぎるよね
0619日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:28:54.11
>>614
卜骨は壱岐からやっていただろうな
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:34:05.30
40cmて西太后かよ
20cmな
0621日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:34:33.70
>>619
あと、有明海沿いの二箇所
それ以外からは出土がない。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:37:27.62
>>530
魏略に邪馬臺国は暦がなく春秋二倍だろ。南朝から元嘉暦が来るまでの追尊天皇はみんな二倍。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:39:07.30
>>622
昼で1日、夜で1日での2倍もありうる
0624日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:39:51.74
魏略はいらん事まで書いてるけど
二倍歴の説明を正面からしてくれてるのが良い
0625日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:42:32.70
>>621
倭人伝の卜骨は案内人の様子を書いている
0626日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:43:11.04
『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭
「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。」
(後)漢の霊帝の光和年間(178~184)

184年には卑弥呼が共立されている
魏の張政が来たときには老婆だからいつ死んでもおかしくない
纏向では間に合わない
0627日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:45:13.30
倭国乱から共立でも長生きしすぎだ
治世は長くても40年だろう。三世紀に入ってからの即位
0628ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/16(木) 13:47:23.75
ネトウヨ九州説は二倍歴好きだよな
地球平面説を信じてるのと同レベル
ワクチンにチップが入っていると主張して日本保守党に万歳する壺ライナ支持者っぽい
0629日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:49:39.09
>>625
限定していませんし案内人は
書いていません
其俗 擧事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶
  先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆
0630日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:49:40.87
アベガーはチョンコ。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:51:39.71
>>629
魏使といつも行動を共にしているのは案内人だよ、君は想像力が無いね
0632日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:54:09.84
>>631
想像だけで限定はできないな。
其俗だからね
0633日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:56:08.99
>>628
アベガーはチョンコ。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:57:10.98
なるほど、想像しかない九州説
0635日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 13:58:15.52
>>632
案内人がいつも卜骨をしていないとその文章にはならないよ
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:01:31.73
>>635
案内人以外でも目撃していたと思われる。
限定はできないな。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:05:08.97
>>636
案内人が卜骨をしていなければその文章にならないのは理解できる?
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:05:37.00
なるほど 邪馬台国は九州以外ですね。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:08:26.94
>>637
案内人のみがト骨したという
限定した文章でない事は理解できるの?
0640日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:12:45.80
>>622
倭人は暦を知らず、春に種を巻き秋に収穫するを以て一年とす
別に秋冬で更に一年と数えるなんていっていない
古代天皇の没年は本当なんだという願望に合わせて理屈こねるのは学問じゃなくて宗教
更に言うなら古代の王の平均在位年数は全世界的に10年程度
存在が確実視されてる天皇の平均在位年数と中国の皇帝と比べると小数点レベルで揃ってくるくらい。
そう考えると
仮に欠史八代が無くて神武天皇から全ての天皇が存在したとしても
神武天皇が即位したのは西暦換算で267年頃
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:12:49.94
>>639
案内人のみが卜骨をしていたとは言っていないが
0642日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:14:50.92
欠史八代無ければ80年新しくなるから
神武天皇即位は西暦346年頃
0643日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:16:30.24
春に種を巻き秋に収穫するを以て一年とす は
暦を充分に理解しているだろ
0644日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:17:21.78
欠史8代が無くなればモモソヒメも無くなる
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:19:10.82
>>643
この場合の暦は干支の十二支十干のこと

干支(かんし、えと、中国語: 干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞[1]。
古代中国にはじまる暦法上の用語[2]。
暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる[1]。
六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:20:33.95
要するに倭人伝を無視したがるのが九州説
0647日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:20:40.97
>>645
なるほどね
春と秋とで一年、は原始的だと言いたいわけね
0648日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:24:47.59
>>647
年の数を記録できない
西暦も元号も無かった
日本書紀や古事記は60年で一周する十二支十干で年を記録したが
邪馬台国時代にはその干支が無かったから
日本書紀古事記が干支で邪馬台国時代まで記録することが出来ない
0649日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:32:34.57
邪馬臺人は寿命100歳。俗正歳四節を知らないが故の年齢。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:36:36.85
当時は1年、2年は農事暦でカウントできたんだろ

だから○○大王の1年、2年・・・という記録(記憶)はあった、と
0651日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:39:00.53
二倍暦とか言ってるやつ、未開サル未満の知性だよな
中国人がいう「春秋」って一年の意味だって知らない無教養

知能も教養もないから九州説なんだな
0652日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:39:30.26
>>650
諦めろ
世界中の王や皇帝の平均在位年数が10年ちょっとなのに
日本の天皇家の平均在位年数だけが突出して長くなる訳がない
初代神武天皇が即位したのはどんなに古くても267年
邪馬台国より後
0653日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:47:11.71
>>641
案内人以外もありえると理解できるてるの?
0654日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:49:30.94
想像しかない事がわかる九州説
0655日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:50:40.85
>>536
纒向なんて命名したやつに言え
0656 警備員[Lv.18(前13)][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 14:52:06.02
>>652
ん?
そんな事を言ってるわけじゃない
記紀上で記事のない年が一杯あるけど、それはそもそも記録されてない造作だからカットしましょう、と言いたいだけ
これを単純にやったのが伊藤説、崇神(神武)元年が301年だになるそうだ
0657日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:52:19.94
>>653
繰り返すが案内人だけが卜骨をしていたとは言っていない
0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 14:58:27.27
>>646
>要するに倭人伝を無視したがるのが九州説

いやーーー君はかしこそうだ
倭人伝に忠実なんだね
では、なんで南が東なの???
纏向で倭人伝記述と合致する遺物を列記してよ、、、
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:01:35.96
卑弥呼は247年には死んだ
自然人だから即位は200年前後
180年くらいだと思ってた倭国大乱の終わりは
3世紀を跨いだが、纏向も古墳もまさに建設最中だった
いや下手したら起工から50年経っていた
(ハッスル岸本説)
纏向型前方後円墳はその間日本全国で絶え間なく作られていた
狗奴国との戦争が終わって初めて巨大な箸墓が出来た
0660日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:04:28.43
>>659
狗奴国との戦争の武器は何か出てる?
0661 警備員[Lv.3(前13)][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 15:05:02.36
勝手に根拠なく結論を決めて、その結論に合う合わないで情報を都合よくピッキングするのが畿内説の特徴

二倍歴についても肯定する根拠も否定する根拠もないので単に可能性の一つとして考えればいいだけなのに、相変わらず合理的根拠なく頭ごなしに否定する

見ていて本当に頭が悪い
0662日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:07:46.67
仁徳以前の年齢は二倍以上。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:11:19.74
天皇の異様な長寿は何なんだろう?
と考えた時に
日本書紀の記述に嘘捏造が加えられたと考えずに
2倍歴みたいなトンデモ説を持ち出す
2倍歴があったことにすればホラ、日本書紀は正しいんだ!

日本書紀が正しいという願望に合わせて理屈をクリエイトするの止めてくれ
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:13:24.84
刺突が主な攻撃手段となる剣に加えて、
斬撃を主体とする刀が加わり、
量産型の銅鏃が導入されることで、
従来の近隣集落への襲撃(ムラ攻め)という戦闘形態から、
より大規模な集団戦闘(会戦・野戦)が生じるようになっていた

>>660
つまり鉄鏃ではなく銅鏃が大量に出る場所を探せばよい
個人的には大井川か天竜川を挟んで睨みあってたと予想
九州説ならこれまで通り、菊池川あたりが防衛ラインになる
0665日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:16:28.53
>>664
銅鏃では倭人伝と整合しない
0666日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:17:12.41
正しい暦や干支を知らないのだから二倍暦のようなトンデモを倭人が採用していても不思議はないw
0667日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:19:47.02
>>661
九州北部を2ヵ月進む方が遙かに頭悪いよ
0668日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:21:17.96
>>魏使といつも行動を共にしているのは案内人だ>>よ、君は想像力が無いね

想像しかない九州説
0669日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:23:04.45
>>665
高地性集落でも出るのは石鏃なのに
おかしいニダね
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:27:08.73
張政は女王国中枢まで行ってるかもしれないが
きわめて南洋的な倭国の描写は
北部九州かすらどうかも怪しいけどな
0671日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/16(木) 15:28:19.58
>>666
2倍歴を採用するならするで
いつからいつまで採用していたのかと
それを裏付けるなんらかの証拠を示すべきだし
仁徳天皇以降は長寿がいないから仁徳天皇以前は2倍歴とか言い出すのは
日本書紀の矛盾点を合理的に説明するためにでっち上げたやっつけの理屈でしかない
0672日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:30:30.25
伊藤雅文の無事績年削除による編年の再構成は良くて出来てると思う
2倍歴よりずっと合理的
0673 警備員[Lv.2(前13)][苗警]
垢版 |
2024/05/16(木) 15:51:59.86
>>667
私は九州説だが北部九州を2ヶ月進んだとは考えていないし、仮説レベルではあるがその合理的理由付けもある

別途投稿する
0674 警備員[Lv.2(前13)][苗警]
垢版 |
2024/05/16(木) 15:53:24.74
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する
0675日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:55:03.78
一人で氷解してて草
0676 警備員[Lv.2(前13)][苗警]
垢版 |
2024/05/16(木) 15:56:59.48
>>675
知的で論理的な反論のみを求む
0677日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 15:57:36.11
すまん
0678日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:02:02.48
卑弥弓呼が孝昭天皇、卑弥呼の次の男王が孝安天皇、台与が孝霊天皇、大物主が孝元天皇じゃないかな?
大物主、孝が和を求めて尽力していたんじゃないのか
0679日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:02:14.26
>>674
目と鼻の先やんけ マラソン選手なら2〜3時間
0680日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:05:23.00
>>678
日本書紀と絡めるの止めようぜ
邪馬台国の場所の比定は魏志倭人伝に書かれてるヒントだけで充分
0681 警備員[Lv.3(前13)][苗警]
垢版 |
2024/05/16(木) 16:06:51.34
>>679
3世紀の道路がマラソン選手が走るような整備されたきれいな道路だと思っている人なのかな?
0682日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:10:13.73
>>681
ほぼ低湿地やん すぐ沈没する
0683日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:12:24.05
>>681
それに近くに投馬国・邪馬台国という巨大帝国があったらそれなりに整備されてるだろ
0684日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:13:34.47
当時は貝の道と言われる沖縄との交易があったが沖縄の商人は伊都国に朝貢していたかもしれない。卑弥呼は沖縄を属国と思っていた可能性があるのではないだろうか
0685日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:14:23.20
短里なんて無いんよ
海渡ったーはい千里ー
また海渡ったーはい千里ーの世界で
いや!釜山から対馬は何㎞で対馬から壱岐は何㎞だから
この里は短里なんだよ!っやるのは賢い馬鹿
0686 警備員[Lv.3(前13)][苗警]
垢版 |
2024/05/16(木) 16:14:44.92
>>683
投馬国や邪馬台国が巨大帝国だとは私は全く思わない
戸数は誇張されているだけで、むしろ伊都国や奴国のような強国ではないから邪馬台国の巫女が女王に共立されたと私は考える
0687日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:15:00.58
公孫氏時代の帯方郡使が古田短里で書いていたら
博多湾付近に来た時に「この里数はおかしいな」となる
そうすると、ホラこき筑後人がホラ日数をこきちらかしても
残り1300里の日数が信用できないから王都まで行ってみようとなる
筑後説程度の頭の悪い魏使じゃないとだまくらかすことはできない
0688日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:16:55.25
>>685
短里じゃなきゃ計算が合わない、畿内説でも郡から伊都国までは短里
0689日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:18:05.02
筑紫平野て博多からちょっと山登ったら肉眼で見えるレベル
0690 警備員[Lv.3(前13)][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 16:19:31.89
>>687
帯方郡では公孫氏時代からの度量衡を魏に接収された後もローカルルールとして使い続けた可能性がある

ローカルルールとしての短里は久住猛雄も可能性として認める

「地方短里は可能性としてはある。
しかしながら「1/10」はさすがに無い。
何言ってんだあー?」
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:19:53.24
>>689
古荘さんの動画では雲仙岳まで見えていた
0692日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:20:15.11
>>688
釜山と対馬、壱岐から末盧で実距離が違う
全部千里なら里の単位は確定不可能よ
0693日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:22:51.77
>>692
釜山から対馬へは行けない。流される。 無理!   @阿波
0694日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:25:12.95
>>690

ローカルルール古田短里じゃ中央の人間がわからない
0695日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:25:54.60
>>693
ソコかい
0696日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:26:49.40
>>695
当然、距離も違ってくる。   @阿波
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:28:11.14
千里眼を以てしても見えない場合は千余里
ちょっと行った所は百里
遠くはないが山などを迂回する場合は五百里
とかそんな感じだろうよ
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:29:54.24
>>697
まさにイズ適当
けど中国史書のなかでは魏志倭人伝が一番まともだ
これは間違いない
0699日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:31:19.96
413年倭王讃、
履中の祖父応神が半島進出だけど
半島進出が可能だったのは
中国史に残らない313年以降。
そして
高句麗戦、高句麗人の移民無しでは
牛馬の輸送移入国内生産は無い。

海北征する95国は350位まで応神で
370年は百済建国七支刀で仁徳。

稲荷山鉄剣で480年雄略の8代前まで
朝廷武人が遡れるなら、
30年8代として240年には大王が居た。

でも、
神功神話は無理だから応神は親無しw
国内の統一期で万世一系にならないから
記紀の歴史が書けなかっただけでは?
一大率の246年が朝廷の始まりだろ?
0700日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:31:48.28
>>690
単里も長里も必要はない
A:帯方郡から狗邪韓国までの7000里
現実の帯方郡から狗邪韓国までの距離を7000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

B:狗邪韓国から対馬までの1000里
現実の狗邪韓国から対馬までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

C:対馬から壱岐島までの1000里
現実の対馬から壱岐島までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

D:壱岐島から末盧国までの1000里
現実の壱岐島から松浦市までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

ABCDで概ね1里75メートルから85メートルの間に収まるから
魏志倭人伝の道里を報告した人にとっては1里75メートルから85メートルくらいだったんだろう。
Aだと1里400メートルBだと100メートルCだと200メートルみたいな数字なら
完全にデタラメと分かるが一貫して75~85メートルなんだから
魏志倭人伝の中ではそれで統一されてると考えて良いと思う
0701 警備員[Lv.3(前13)][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 16:32:04.09
>>694
そもそも古代中国の度量衡は元々地域ごどにバラバラで、秦の始皇帝が初めて統一した
しかし実際の具体的な整備は段階的に行われたようで、魏の時代に必ずしも国土の隅々まで中央の度量衡を使っていた保証はない
特に帯方郡のような辺境には中央からの強制が効かなかった可能性はある

それであれば、中央政府としてはそうしたことを把握して対応していたのだろう
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:32:05.46
>>697
そんなんで、「混一疆理歴代国都之図」は描けない。   @阿波
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:32:24.90
魏の楊逸がスパイを駆使して情報を集め、
遠く隔たった土地のことまでよく知っていたので、
人々が「楊逸は千里眼をもっている」といった

千里は遠く隔たった距離
0704日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:34:55.44
>>703
そんなんで、「混一疆理歴代国都之図」は描けない。   @阿波
0705ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/16(木) 16:42:17.07
記紀は参考にしても良いが、神々の話は純粋な神話なので歴史考証ではこれを無視すべきである
0706日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:42:54.40
>>701

ホラこき筑後人説では
魏が倭の国力を信用したから倭王卑弥呼に高い地位を与えたといいながら
距離が実はローカルルール古田短里で5分の1だったとなると
日数も信用できなくなり、国力がまったく違ってくる
そんなことが通用すると考えるのはホラで押し通そうとする筑後説だけ
0707日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:45:57.68
木器で石材は加工できないだろうから
やっぱトルハルバン筑後は鉄器文化なんだろうなと思う
それが国力や武力とイコールかと言われると
そうでもないなとこのスレで学んでわかってきたよ
0708 警備員[Lv.4(前13)][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 16:49:05.77
>>706
里数の話をしているのか日数の話をしているのか、そしてそれが国力とどう関係しているという考えなのか、ロジックがよくわからない!
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:55:45.10
古墳の盛り土だって木製工具でやってんでしょ
アホとしか言いようがないけどそれでやりきっちゃった
石室の加工だけ鉄器つかったんだろうね
九州人なんてほとんどいなかっただろうけど
見たら不思議な気分になっただろう
0710日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:57:06.42
>>708

だから里数が古田短里の5分の1だと気付いたら
ホラこき筑後人のホラ日数(残り1300里)も信用されない
里も日数も大きく違ったら倭国の領域がはるかに小っちゃくなってしまうので
国力、人口がまったく違ってくる
0711日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 16:58:08.26
>>702

混一疆理歴代国都之図はモンゴル帝国が作成したもの
それゆえに征服出来なかった日本列島は記載されていなかった
現存する混一疆理歴代国都之図は倭人が日本地図を持参して追記してもらったものだ
0712 警備員[Lv.1][新芽]
垢版 |
2024/05/16(木) 17:04:04.74
>>688
纒向説は短里を採用していない
里数は単なる天下観念である
0713日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:05:32.08
奈良(大和国)が7000戸だからかりに畿内説なら10倍に盛ってある
畿内全域とかいう朝鮮投馬国並みのガバガバ主語デカ詐欺はNG
これが畿内の東の倭種の正体
0714 警備員[Lv.1][新芽]
垢版 |
2024/05/16(木) 17:05:42.36
>>700
・遼陽(遼東郡治)→集安(国内城)250km
・遼陽(遼東郡治)→桓仁(卒本)180km
・遼陽(遼東郡治)→平壌(楽浪治)330km
・撫順(玄菟郡治)→吉林(夫餘東団山城)320km
・吉林(夫餘東団山城)→佳木斯(挹婁滾兎嶺土城 )480km
・鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) 220km
・鳳山(帯方郡治)→金海(狗耶韓国) 450km
・狗邪韓国→対馬100Km
・対馬→壱岐60Km
・壱岐→末盧国30Km
・関門海峡渡海、数Km
0715日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:08:58.73
>>713

奈良(大和国)が7000戸だという計算の根拠がない
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:10:04.97
>>715
畿内全域が七万戸という計算の根拠がない
0717日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:13:18.18
>>716

畿内説は畿内第X様式圏が七万戸だということは根拠にしていない
0718 警備員[Lv.4(前13)][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 17:13:29.39
>>710
魏志倭人伝に倭がまるでクシャーナ朝クラスの東夷の大国のように記述されたのは、
①安全保障のために誇張した倭人側の都合
②帯方郡が魏に接収されたばかりのタイミングで東夷の大国からの朝貢という手柄を立てたかった帯方郡使に劉夏の都合
③政敵曹爽の父曹真の手柄であるクシャーナ朝の朝貢に匹敵する手柄を立てたかった公孫氏討伐の実行者司馬懿の都合
④自らが仕える晋朝の実質的創始者司馬懿をヨイショしたい陳寿の都合
が絡み合って増幅した結果だろう

倭がより遠くの大国に見える短里は各人の思惑通りからしても好都合だ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:15:01.57
>>473
桃の種なんかどこにも書いていない。
銅鏡100枚なのに国産量産鏡を卑弥呼がもらった鏡だとぬかす。
不自然すぎてお話にならない畿内説。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:15:04.55
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0721日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:15:57.34
>>718

つまり行程では比定できないので
考古資料で交流関係から倭国を想定する必要がある
0722日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:16:51.05
>>719
桃核12個は纒向が2〜3世紀の遺跡だということを示している
0724日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:22:23.20
>>719
卑弥呼がもらった鏡100枚は三角縁神獣鏡がやはり有力だろう
布留0箸墓に三角縁神獣鏡が副葬されている可能性は極めて高い
第4段階の三角縁神獣鏡である桜井茶臼山や椿井大塚山などの三角縁神獣鏡はコピーだろう
また、画文帯神獣鏡と斜縁神獣鏡も有力である
0725日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:22:51.18
>>663
特亜に洗脳されてる日本を滅ぼそうとしてる大馬鹿左翼なんだろうけど、
異様な長寿は建国を古くするための捏造で天皇が実在しなかったようなことを言い出すほうがおかしい。

わざわざ都合の悪いことまで記述していることからもわかるとおり、
口伝で伝え聞いたことを忠実に記載しているだけで、決史八代の天皇は実在していると見たほうがいい。
じゃあ、異様な長寿なのはなんでとなるが、中国の史書にもある通り、当時の倭人は暦を知らないとされており、1年を2回と数えていると書かれているとおり、
春秋年などで辻褄があうって話なだけ。

トンデモ論でも何でもない。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:29:25.72
春に植えて秋に収穫だから収穫期は一年に一回しか来ない
新嘗祭は年一回
0727日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:31:24.60
>>724
三角縁は国産という結論が出ているから有力なわけがない。
呉の鏡のぱくりデザインであり魏の鏡ではないうえ、2つの中国鏡から着想を得て、外側デザインと内側デザインをぱくったもの。
元号も実在しない景初四年のものがあり、やはり大陸の改元を知らなかった日本の職人が作ったことは明らか。
中国では20世紀中に1枚も出土しなかった。
下賜されたものではないことは明らか。

鉄鏡なので確実ではないが、日田市の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のほうが曹操の墓から出た鏡と同タイプであることが判明しており、
三角縁なんかよりも100万倍可能性が高いといえる。
象嵌、トルコ石などが用いられている贈答用の一級品の鏡であることは明らか。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:34:47.82
一級品でも盗んだものじゃ倭国の王の歴史にはならない
0729日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:35:23.49
>>712
何を短里として否定するのか?

倭人伝里が50歩一里の周里というのは
500里を一服とする周礼九服の制という
周の世界概念の話から。

一歩は二足6尺で概ね120~140cm
で、一里何歩にするかは時の王の制。
都の位置でも変わる。

50歩一里は最小で洛陽~長安が五千里
世界概念が西域に拡大したら200歩一里になった。

300歩一里は始皇帝の制だが五千里は
洛陽~奈良になって九服概念は無理。

倭人伝里が500里基準なのは
一服500里の概念図の座標基準からの
判定だから。 

周代でも里の統一は無い。
倭人伝が何故50歩一里かは結果論。
否定する意味が無い。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:36:29.41
>>727
>三角縁は国産という結論が出て

ませんが?


ニセ情報もたいがいに


 
0732日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:37:12.06
>>727
三角縁神獣鏡が仮に全て国産であったとしても、斜縁二神二獣鏡をその祖型と見ることができるので、畿内説では結論を急ぐ必要がない
0733日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:38:56.86
>>731
中国を代表する考古学者、王仲殊(中国社会科学院の考古研究所の所長であった)

「もはやいわずもがなであるが、広峯十五号墳で出土し、あと一つ辰馬考古資料館の所蔵になる
景初四年銘の三角縁盤龍鏡もまた、陳是(陳氏)が日本で作ったものなのである。
まさに陳是本人は海東の『絶域』にあったので、魏が既に『正始』の年号に改めたことを製作の時点では知らなかった。
そこで先に三角縁神獣鏡を作った際に銘文の中で使った『景初三年』という紀年の後を受けて
三角縁盤龍鏡では『景初四年』の紀年を記してしまった。」

「二十世紀の80年代以降になると、中国本土及び朝鮮半島の地域内に
三角縁神獣鏡の出土例が完全に存在しない事が確認されたのち、
魏鏡説は成立が難しくなりました。
特に1986年10月に二面の景初四年銘の三角縁盤龍鏡が発見され
いわゆる特鋳説もまた立説の余地が無くなりました。
これは鉄のように固い事実です」
0734日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:39:35.45
>>729
>倭人伝が何故50歩一里かは結果論。

そんな結果を出した人もいませんが
0735日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:40:22.97
>>731
紫金山古墳から三角縁神獣鏡は10面出土したが
鏡の紐を通す孔が全て鋳放し(鋳たままで仕上げしていない)であって
中には孔が完全に塞がっているものもあった。
考古学者の森浩一によると
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。紫色の組み紐。紐は腐ってくるからよく鏡だけ発掘品に並べてあるけど
組み紐とセットで、ある意味では組み紐の方が重要だったわけですね。紫綬。
だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば
紫綬を通す所の、紐の孔は綺麗に作り上げて、そこには何色かの組み紐が付けてあってしかるべきなのです。」
橿原考古学研究所の所長だった菅谷文則氏は
画文帯神獣鏡等の中国の鏡は組み紐を通す孔が綺麗に仕上げされていて
紐を通して日常的な使用に耐えられるようになっているが
三角縁神獣鏡の7~8割は仕上げがされていなくてギザギザが残っており
紐を通しても紐がすぐ切れてしまい日常的な使用には耐えないだろうと述べ
三角縁神獣鏡はお墓に入れる為に日本独自に出来上がったジャンルなのではないかと述べている。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:42:26.23
>>733
>これは鉄のように固い事実です

もう昔の説で、今は否定されてますが
0737日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:42:30.44
王仲殊は日本の考古に疎い
いきなり百種類くらいある三角縁神獣鏡を全て国産で作るのは無理
0738日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:43:01.61
王趁意は、洛陽の畑から三角縁神獣鏡が8面出たと発表した
しかし、日本の学者が調べてみると、むしろ斜縁神獣鏡に属する鏡であることが分かった
2015年にも王趁意は三角縁神獣鏡を骨董屋で見つけた
これは紛れもなく三角縁神獣鏡であったが、日本で600面出ている三角縁神獣鏡の中では4番目に小さく、中国に特有の洋式も有していることが分かった
0739日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:43:38.02
>>734
出した人? まぬけなの?

書いたのは陳寿です。
後世の史書も採用している。
何故か? が、謎。
結果は結果。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:44:11.45
>>735
>考古学者の森浩一によると
>「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
>その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから

それ、ウソの説ですよね
根拠ないです
0741日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:44:28.65
つまり2〜3割は仕上げがされている
0742日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:45:21.96
>>738
出土じゃないからいつ作られたか分からない三角縁神獣鏡
ちなみに日本の三角縁神獣鏡の専門家は
中国の土産物屋で買った贋作の三角縁神獣鏡を見ても贋作だと見分けられなかった
0743日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:45:26.58
王仲殊は、広峰15の景初4年「ななめぶち盤龍鏡」をなぜか「さんかくぶち神獣鏡」と呼んでいる
ナナメと三角の区別さえもつかなかったわけである
0744日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:45:28.68
>>711
>混一疆理歴代国都之図はモンゴル帝国が作成したもの

いづれにせよ、なんらかの測量技術があったから描けている。 山勘では絶対描けない。   @阿波
0745日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:46:31.11
>>738
>王趁意は、洛陽の畑から三角縁神獣鏡が8面出たと発表した
>しかし、日本の学者が調べてみると、むしろ斜縁神獣鏡に属する鏡であることが分かった

それもデマでは?
出典ないでしょ
0746日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:47:43.73
>>712
ここの畿内説論者は今だに1里が432メートルだと言い張ってるけどね
0747日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:50:42.70
>>744
不正確な地図がどうした
0748日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:50:43.43
畿内派メディアによる印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」

しかし桃の種が発見された場所は柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
纒向の建物と桃の種が同時期に存在していたわけではないと判明
0749日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:51:08.44
>>739
>出した人? まぬけなの?
>書いたのは陳寿です。
>後世の史書も採用している

倭人伝が50歩一里なんて
陳寿は書いてないし
後世の史書も採用してません

あなたは嘘つきですね?
九州説の人ですか?
九州説の人は嘘ばかりつきますね
異常ではありませんか


 
0751日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:51:44.00
>>746
1里は432mである
本当は428mであろうが
魏志倭人伝ではそもそも実測してないというのが、ここの通説論客の意見である
0752日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:51:44.15
>>747
お前には描けない。 古代人は偉大なり。   @阿波
0753日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:51:44.41
>>742

中国の土産物屋で贋作の三角縁神獣鏡が売ってるのか?
商売になるかなw
0755日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:52:41.28
>>748
>畿内派メディアによる印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」

これも嘘ですね
そんな報道はありません
0756日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:54:59.39
九州説は理論でなく、ただ嘘をついて誤魔化そうとするだけになりました
もう、おしまいですね
0757日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 17:57:57.01
>>751
1里が432メートルだと
郡から九州まで4320キロの行程になる事に疑問を持たないのが畿内説
0759日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:01:18.44
>>757
持つわけないです
1万2千里が事実じゃないと言うのが皆の意見なのだから
0761日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:02:55.96
桃が韓国の遺跡から出ているけど、纏向は半島人の遺跡って事かもしれんね
0762日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:03:00.23
>>758
>しらばっくれるな
>以前記事も貼ってやっただろ

証拠は?
九州説さん、今日もウソまみれ?
0763日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:05:08.95
>>759
距離も方位も違うなら、畿内説は邪馬台国の存在も疑った方がいいぞ
0764日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:05:31.10
>>759
>1万2千里が事実じゃないと言うのが皆の意見なのだから

と、トンデモは言う。   @阿波
0765日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:06:11.66
中国は方万里の天下概念だから1辺4320キロ
0766日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:06:58.55
畿内説も阿波もトンデモだがな
0767日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:07:12.27
>>758
>しらばっくれるな

「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」

なんて報道は実在しませんね
九州説さん毎日ウソまみれ人生
0768日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:07:32.54
>>745
王趁意は、
三角縁神獣鏡8面、三角縁青龍白虎鏡1面、三角縁画像鏡1面、三角縁仏飾蓮華鈕龍虎鏡1面、三角縁端獣鏡1面を山東省魯国の西南、洛陽の畑から発見などという本を出してるな
どれが洛陽の畑から出てきたかは知らんが、1面は三角縁と認められたが、あとは岡村秀典に「斜縁」扱いされてるな
まあ、我々通説は出所不明なものに飛びつく必要がない
0769日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:08:55.30
>>757
これ全て1里

・遼陽(遼東郡治)→集安(国内城)250km
・遼陽(遼東郡治)→桓仁(卒本)180km
・遼陽(遼東郡治)→平壌(楽浪治)330km
・撫順(玄菟郡治)→吉林(夫餘東団山城)320km
・吉林(夫餘東団山城)→佳木斯(挹婁滾兎嶺土城 )480km
・鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) 220km
・鳳山(帯方郡治)→金海(狗耶韓国) 450km
・狗邪韓国→対馬100Km
・対馬→壱岐60Km
・壱岐→末盧国30Km
・関門海峡渡海、数Km
0770日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:10:49.93
奈良の鏡作り神社が平原王墓の内行花文鏡のレプリカを飾っている意味は大きい 
0771日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:13:06.45
>>749
完全なまぬけ。

陳寿が書いた半島~九州
渡海千里3回の里程概念を
後世の史書が否定しない。

韓方可4千里は漢魏の里程が
絶対なら編者が採用はしない。

中国史書の編纂者クラスなら
里程が時代地域で絶対ではない事
を知っている。

300歩一里は始皇帝からで、陳寿の
東夷伝の序文は周礼九服の制の話が
冒頭に有り、魏時二回の使の記録を
記録出来た事を絶賛している。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:13:10.04
九州説は終わったね
0773日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:14:24.95
>>769
訂正
全て1000里
0775日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:15:52.09
つまり畿内説はこのように印象操作を繰り返してきた霊感商法詐欺なのでした
0776日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:17:34.95
夫餘の方が高句麗より大きいのに、高句麗も夫餘も方2000里である
蛮族の土地を計測器持っていって測ってると言い張るのは全くあり得ないと言えよう
0777日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:17:43.67
>>763
つまり畿内説はオレオレ詐欺
0778ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/16(木) 18:18:51.58
纏向に韓半島出身者がいたのは確実
オンドルがあったのが分かっている

卑弥呼の政権には韓人の役人がいて文書を書いていたはずだ
崇神朝より前の時点で既に纏向には渡来人がいた
0779日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:19:07.67
卜骨は纏向からは出てるけど筑後平野は無いよね
0780日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:22:30.06
九州では石棺の人骨でさえ溶けるけどな、吉野ヶ里の石棺には何も残っていなかっただろ
0781日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:22:51.46
>>779
纏向のは卑弥呼の時代から100年ズレてるな
0782日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:23:30.75
>>780
畿内では鉄が跡形もなく溶けるから
0783日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:25:46.55
>>674
それより後漢時代の記録と考えた方が合理的
漢時有朝見者の時の記録
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:26:53.26
畿内自生説とアンチ畿内自生説の戦いこそが、本当の戦い
九州は何にも出てこないし、いつも同じことをコピペしてるだけなのでつまらない
九州説でもハルキー氏は勉強になるが、このスレにいる九州説から学んだことは何もない
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:34:48.32
>>782
蛇行剣は溶けてないね
0787日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:35:15.40
>>699
それに関しては中国がいう倭に半島が含まれるかどうかが先
倭人在帶方東南大海之中だと含まれないが倭と接すると含まれる
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:38:15.14
韓の南は海と接していない、つまり韓の南は倭と接していた
0789日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:43:41.72
>>786
テンプレを読もう
0790日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:44:24.92
>>771
倭人伝が50歩一里なんて
陳寿は書いてないし
後世の史書も採用してません

あなたは嘘つきですね
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:47:28.76
>>788
>韓の南は海と接していない

とは史料に書かれていない
0793日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:49:13.15
>>781
100年ずらしたら、布留0が370年になるのだが、後ろの方の整合性はちゃんと取っているのだろうか?
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:50:58.46
>>781
>纏向のは卑弥呼の時代から100年ズレてるな

九州説さんまたニセ情報
0795日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:52:59.22
奧山並のバカが現れたな

罵声を飛ばすだけで知的投稿無い

畿内説は哀れよのーーーー
0796日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:52:59.58
奧山並のバカが現れたな

罵声を飛ばすだけで知的投稿無い

畿内説は哀れよのーーーー
0797日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 18:53:00.47
奧山並のバカが現れたな

罵声を飛ばすだけで知的投稿無い

畿内説は哀れよのーーーー
0799日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:06:01.66
韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接
韓は東西は海で南は倭と接している
狗邪韓國も倭の北岸
0800 警備員[Lv.8][新苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 19:08:19.53
考察完了です!

都市牛利

↑卑奴母離の対義でしたw

卑奴が「鄙」として → 鄙の対義語は「都」

>対義語・反対語辞典オンライン
鄙(ひ)の対義語・反対語について。鄙(ひ)の対義語・反対語は都(と)です。

つまり、卑奴母離が地方の守衛に対して

都市牛利は「都市を守る、牛みたいに役立つ人物」

字義考察で、ここまで読めますw
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:24:16.03
>>801
どう解釈するとそうなるか書いて
0803日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:24:42.18
狗邪韓國は一般的には半島南端の集落を指してると思われてるんだろうが実際はどうなんだろう?
狗邪が伽耶や加羅なら意味が違ってくると思うんだが
0804日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:28:16.30
>>802
東西以海為限ーー海で終わり、隣国に行けない
南與倭接ーーーー倭国に行ける
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:30:03.05
>>804
それは接してるって事じゃないの?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:33:41.06
韓の東西は海に接していないの意味がわからない
0807日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:40:24.95
福岡市に雇われている某氏は平原王墓を200年頃とする。
楯築墓はそれより古い。
つまり、北部九州はすでに所有していた沢山の鏡を埋納することでしか権威を示せなかったのであろう。
(そもそも一般人は墓の中を見れないので権威を示せるか疑問であるが)
たくさんの労働力を徴発してしか作ることのできない楯築墓や前方後円墳のような墓は作ることができなかった。
環濠を持つ吉野ヶ里のような弥生集落が以前として残り、広域のクニを作ることができなかった北部九州の限界であろう。
また、隈・西小田遺跡にも見えるように、北部九州では集落間の争いも激しく、全くまとまることができなかった。

他方、1世紀には弥生集落を解体・再編し、畿内第V様式圏なる広域のクニが形成された畿内では、早くも沢山の労働力を徴発しての前方後円墳を作り始める。
かつ、銅鐸突線鈕5式で吉備〜東海に至るまでに働きかけをしていた畿内では、多くの地方から王都纒向の建設の為に労働力が集結していた。

これこそ、まさに、邪馬台国7万戸(女王之所都)であろう。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:40:40.94
「壬申の乱」での大海人皇子 吉野挙兵行軍

・奈良吉野の宮→→岐阜県不破関(吉野の険しい山越えで、しかも女人連れ)4日間で170km走破 
・4日間で手勢30人→3万人に急増兵

常識的に考えて、これは不可能である!   @阿波
0809日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:41:57.27
>>728
盗んだものという捏造までする畿内説。
だから畿内説は信用されない。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:42:57.95
>>807
いいねポジティブで
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:47:14.30
>>736
三角縁は国産という結論が出ていて覆せないレベルなので昔の説だからとか関係ないレベルです。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:47:46.00
>>813
結論は出ていない
まだまだ舶載説は根強い
「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」という一文からも、三角縁神獣鏡特鋳説を裏付けると見るべきである
0816日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:49:03.88
>>737
三角縁は日本国産鏡だから疎いのはあたりまえです。
捏造大好きな畿内説の日本の学者には有名な鏡ですけどね。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:50:23.04
>>737
作れます。鏡以外の出土品見ればわかるとおりです。
いずれにしても成分分析の結果からも国産品です。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:52:15.32
>>817
成分分析とはなにか日本特有の成分が混ざってたの?
0819日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:53:04.65
卑弥呼時代の紀年銘鏡を「三角縁」オンリーと見ている素人は多い
が、紀年銘鏡は、
・平らなふち
・ナナメふち
・三角のふち
などレパートリーが豊富であり、
かつ、方格規矩鏡とか盤龍鏡でも出ており、全く一貫性がない。

これを「後のヤマト王権が邪馬台国を偽証する為に作った」というのは全く成立の余地がなく、完全なる妄想というべきであろう
0820日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:53:35.49
>>738
20世紀中に発見されてればよかったですね。
21世紀になってから出回ってるものは現代に作られたニセモンです。
残念でしたね。
そんなのを信用してるとゴッドハンド藤村新一に加担してた連中と同じことになりますよ、いずれ。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:54:38.94
>>815
数スレ前にそのネタやったのにまだ理解できてないのか
0822日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:55:00.36
>>815
三角縁は国産という結論がとっくに出ています。
邪馬台国卑弥呼を畿内と結び付けたい人だけが勝手にそう思ってるだけです。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:55:11.46
>>820
20世紀と21世紀の違いが分からない
何故?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:56:25.70
>>820
通説畿内説では、王趁意は無視しても全く問題がないので、事実上無視してます
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:57:01.75
>>819
青龍三年銘の方格規矩四神鏡があるので、
方格規矩四神鏡は魏鏡

方格規矩四神鏡32面が副葬された平原遺跡女王が卑弥呼

平原遺跡の八咫鏡内行花文鏡5面が卑弥呼の権威鏡

内行花文鏡を頭部に副葬しているのは邪馬台国関係者

畿内説チーン
0826日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:58:54.16
>>821
素人の我々がそのネタをやったのですか?
今の考古学者でも三角縁神獣鏡が銅鏡100枚と考えている学者が多いのに、あなたや私のような素人が考えた説が正しいと言うのですか?
0827日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 19:59:16.74
これは驚いたな。

纏向宮に卑弥呼邪馬台国政権が陣取っていて、
皇室=日本国は存在しなかった、と主張するスレ主は、

国産と決まった三角縁神獣鏡が特鋳なんて妄想をいまだに吐いているのか。

驚き二つでダブルプレー!チェンジだ!
0828日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:00:53.99
>>827
前段と後段の関係がわからない
0829日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:00:58.05
>>825
漢鏡5期を銅鏡100枚に当てて、土器編年並びに銅鏡編年を100年いじる九州説は死んでます
0830日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:01:26.50
>>823
インターネット普及でもいいよ。
中国でも三角縁神獣鏡の情報が一般市民でも理解できるようになって、
いろいろな贋作がどんどん作られるようになってるから。
インターネットが普及するまでは中国でも学者連中しか興味のない鏡だったけど、
インターネットの普及で、日本にお前らのようなアホの畿内説信者がいるってことで、
中国から出土したら価値があがると見込んで贋作を作るようになったので。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:01:48.51
まるで国境問題を語るロシアのように
理由もなく決着済みだーと叫んで
勝手に問題から逃げる九州説
0832日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:02:35.66
>>827
国産と決まってません
いい加減嘘はやめませんか?
冷静な対話を右翼九州説の方に求めたい
0833日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:02:48.83
>>824
畿内説のアホ信者は都合の悪いことは無視しますからそりゃそうでしょうね。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:03:06.76
>>830
遺跡から出土しないとそら信用できないよ
1枚でも出れば話は違う
0835日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:03:51.02
>>826
岡村秀典『鏡が語る古代史』(岩波新書)

 「この原文は『魏』と『漢』、『倭国』と『単于』、『銅鏡』と『犀毘』、『紺文』と『綺袷』が対句になっている。

魏が倭国に贈った『銅鏡』は『魏志』倭人伝にみえる『銅鏡百枚』、『紺文』は『紺地句文錦』ほか各種の絹織物を二字に省略したものであり、漢が匈奴に贈った『犀毘』は『史記』匈奴伝などにみえる黄金の帯金具、『綺袷』は『服繍(ふくしゅう)袷綺衣・長襦(ちょうじゅ)・錦袍(きんぽう)」など各種の絹織物を二字に縮約したものである。

 要するに、魏は倭王に対して銅鏡と絹織物を与え、漢は匈奴単子に対して帯金具と絹織物を贈ったが、万里のかなたにある蛮夷に対して、それ以上の厚遇は前例がない、と王茂元は論じたのである。」
0836日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:04:37.58
>>832
実在しない景初四年銘で三角縁が国産であること、卑弥呼が贈られた鏡ではないことで確定してますよ。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:05:17.53
>>822
>三角縁は国産という結論がとっくに出ています。

誰が勝手に出したの?
0838日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:05:18.20
>>830
中国人が日本とそっくりな三角縁を作っているなら贋作説も理解可能だが、全く違う三角縁を中国人は作っている
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:05:46.61
>>834
そうです。
中国の遺跡から20世紀に1枚も出土していないのだから、三角縁は国産鏡で確定してます。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:07:03.70
>>835
だから特鋳説を裏付ける
0842日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:07:20.44
>>839
21世紀でも遺跡から出れば信用するよ
0843日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:08:09.14
>>838
また、お得意の捏造ですか。
畿内説信者ってだから信用されないんですよ?w
まったく違うならそれは日本に贈られたものでもないってことですw
自分で言ってておかしいことに気づかないのもアホ畿内説信者の特徴ですねw
0845日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:10:13.46
>>842
今まで出なかったのがいきなり出る時点でおかしいよ
旧石器捏造と同じパターン
0846日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:11:25.24
>>839
斜縁二神二獣鏡、三角縁盤龍鏡、斜縁盤龍鏡、などをどう見極めますか?
例えば、久住は「三角縁盤龍鏡」は三角縁神獣鏡と同じで良いと言った

他方、森浩一は三角縁盤龍鏡は、三角縁神獣鏡とカウントするべきじゃないと言った
0847日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:11:32.26
>>845
なんで中国人が日本の為に捏造するのよ?
0848日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:12:11.66
九州は二百年前の捏造
畿内は千二百年前の捏造
九州の負け!
0849日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:12:57.03
今の考古学って地層とかも調べてるでしょ?
0850日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:14:40.91
>>841
> 『銅鏡』と『犀毘』、『紺文』と『綺袷』が対句になっている

>魏が倭国に贈った『銅鏡』は『魏志』倭人伝にみえる『銅鏡百枚』

>『紺文』は『紺地句文錦』ほか各種の絹織物を二字に省略したもの
0851日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:17:00.12
出てもいないものを出たなんて捏造は自国の遺跡への冒涜でしょ
しかも中国人がそんな事しても何の得にもならない
0852日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:18:43.45
>>847
金になるからだろ
日本の学者が大挙して押し掛けてくるし注目もされる
0853日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:20:29.36
>>852
捏造する動機としては小さいな
バレればその人はすべてを失うのに
0854日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:22:31.43
>>844
>西晋鏡を2世紀に分類する畿内説ゴッドハンド

毎日ニセ情報を流すのが九州説の日課かよ
0855日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:26:11.03
藤村の捏造は気持ちはわかるのよ
高揚感とかあると思うわ
でも中国人がたかが日本の為に捏造となるとなあ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:28:00.90
大丈夫
捏造してるのは九州説だけだから
0857日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:42:13.14
>>842
しかし三角縁神獣鏡が中国で1枚も出ていないことだけではなく、
景初四年銘を見ても国産のものだから、中国の遺跡から出てくることもないけどね。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:45:49.59
>>853
そんなこと気にしない国だろ。
AliexpressとかAmazonで中華製品見てみろよ。
ろくなもん売ってないぞ。
超音波洗浄機だってモーターでバイブレーションしてるだけのインチキなもん売ってるしな。
電池やバッテリーも容量偽装だらけだ。
電子部品なんざメーカー名すら日本製を偽造。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:47:49.28
>>855
自説の畿内説の日本のためにとか思っちゃう畿内説信者の思考ってほんとアホだなw
おまえらみたいなアホがいるからそういう贋作作るだけだぞw
いわばおまえらはカモw
0861日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:49:13.07
中国も余裕が出来て文化的な事に予算を割けるようになったから
最近の発見につながってると思うけどね
三角縁神獣鏡だけじゃなく遺跡発掘全般でだけど
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:49:39.98
最近だと中国では曜変天目茶碗とかも作ってるからなwwwww
日本の国宝の贋作作ることにも熱心だよwwww
金のためなら何でもするwww
0863日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:50:54.93
>>857
だから出ない限りは俺も信用しないよ
でも絶対間違いとも言い切れないけど関心が無い
0864日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:51:26.42
>>861
遺跡発掘では成果はあがってる。
しかし残念ながら、三角縁は成果ではない。贋作です。
それを遺跡発掘とごっちゃにしてしまえる畿内説信者の思考回路がアホw
0865日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:52:27.07
>>860
歴史の改ざんは自国への冒涜だからな
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:53:16.55
中国王朝に認知されたのだから大陸からの渡来人が多い地域が邪馬臺国。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:53:52.69
志賀島の金印とか、広開土王石碑は本物。
その時代に捏造をする意味がなかったものだから。
20世紀に三角縁が中国で出土しなかったのもそれが事実だからそりゃそうだ。
最近になって古物商で出回ってるものは出自のはっきりしない金儲けのための贋作。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:54:37.52
>>864
自国の遺跡の破壊行為でしょ
日本の為にそんな事するか?
0869日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:55:36.32
>>865
それ、ぜひ、畿内説信者に言ってやってくださいw
畿内説は歴史書や地質学すら無視してんだからねw
自分たちの発掘成果とそれに基づく妄想の考古学しか信じないんだそうなw
0870日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:56:31.54
>>867
金印は江戸時代邪馬台国論争があった時代だからそうでもない
しかも場所もわからんから検証しようがない
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:57:43.70
>>869
それって後になって自分が間違ってたは無しなの?
0872日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:58:15.66
漢に通じた30カ国の中の倭奴王は九州で間違いない。
邪馬臺は大倭王が住む大倭国だから倭奴王とは違う。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:58:30.67
九州は何も出てこない 永遠のゼロ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 20:59:31.83
>>868
論文を書いたのは河南省在住のコレクターで研究者でもある王趁意さん。
王さんは鏡について「2009年ごろ、当時、洛陽最大の骨董(こっとう)市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けた」と説明する。
正確な出土地点はわからないという。

こういうことですw
時刻の遺跡の破壊?w
なにいってんの?www
0875日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:00:54.93
はっきり言えば桃の種で年代測定をしたのが正しいか間違ってるか俺にはわからない
何故そうしたのかもわからない
0876日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:01:32.94
>>870
あの時代にあれだけの金を使ってあんなものを作るわけがないのだよ。
しかもフォントからも当時のものであることが後に判明してる。
その時代のことを熟知していないと創作できないフォント。
情報網もほとんどないのに金印の贋作作るなんて超絶不可能。
しかもそれを作る意味もない人たちによって発見されてる。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:01:53.67
三角縁神獣鏡が国産でも畿内説は成り立つけど
三角縁神獣鏡が国産でないと九州説は死んじゃうから
必死だね
でも国産だという理由は言えないんだな
0878日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:02:10.70
>>874
だからそんなの信用しない
遺跡から出れば信用すると言ってるんであって
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:04:44.64
>>876
あんな小さいの大した金の量でも無いでしょ
0880日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:05:34.92
>>878
は?
自国の遺跡の破壊行為にもなってないし、歴史の改ざんは自国への冒涜ということにもなっていないだろ?
そもそも遺跡から出ていないような怪しいものだからな。
なんかよくわかんないものを持ってますって発表してるだけなわけでw
まぁ、贋作だから突っ込んだこと言えないのはそりゃそうだろうけどw
0881日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:06:38.86
>>879
農民が発見してますよ。それを創作したというなら大したものです。そこをわからないからお前は馬鹿と言われているw
0882日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:07:19.99
w生やすやつは何を言っても説得力を持たない
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:10:13.71
>>879
志賀島くんだりの過疎地みたいな場所、今でも過疎地みたいなところだけど、そこの百姓がどうやって原料となるあれだけの純度の高い金を手に入れられたのだ?
高度な金印製作工作技術まで持ってるスーパー百姓ですか?
未来になってわかる中国の当時のフォントまでお見通しの千里眼エスパーの百姓だったんですか?w
タイムトラベラー百姓だったんすか?w

ほんと、馬鹿だな、おまえw
0884日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:11:12.20
>>882
論破されると、そういうどうでもいいこと言い出すのが論破されちゃったやつの最大の特徴w(どこのスレでもほとんどそうw)
0885日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:11:24.80
>>880
纏向から水晶の骸骨が出ればすげえけど捏造なら近畿の学者も怒るだろ?
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:13:03.53
>>881
誰の発見とかわかんないから
0887日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:13:13.03
>>882
呆れられて草はやされてることに気づいていないようだねw
畿内説妄信信者の大馬鹿様はw
草はやすのは2ちゃんねる時代からの文化だからそういうのが看過できないなら5ちゃんねるは向いてないから立ち去ったほうがいいぞw
0888日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:14:10.25
wの前に読点と日本語を覚えろ
0889日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:14:59.61
>>885
あんた統合失調症か何かなの?
中国から出土したとされる三角縁神獣鏡の話してんのに、
全然話がかみ合ってないところへぶっとんでいくしさw
0890日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:16:46.88
>>889
中国の遺跡からでも良いよ
水晶の骸骨が出れば凄いけど捏造なら遺跡の冒涜でしょ?
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:21:17.03
>>886
筑前国那珂郡志賀島の百姓甚兵衛さんっすよ。
口上書もあります。
庄屋武
蔵、組頭吉三、勘蔵の名もあります。
どのようにエスカレーションしていき、国宝になったのかまで明らかだし。

これだから畿内説信者はアホだといわれるw
てめぇの自説の畿内説なんて捏造妄想のオンパレードなのに、
他説については、ここまでのエビデンスがあっても信じられないとかいう畿内説信者のアホさと言ったらないねw
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:24:23.37
>>890
だからさぁ・・冒涜になってないだろ?頭大丈夫?やっぱ病気なの?w
そもそも遺跡から出てないんだから。
骨董屋から手に入れたものなんだろ?
だから、金儲けのために贋作作ってんだろ?
国家の冒涜になるようなレベルなら贋作なんて作れるわけないけど、
骨董屋から手に入れたよくわからんもんですと言ってるわけだから冒涜にもなってないし、
贋作作り放題だw
0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:27:23.97
>>888
手帳持ちの人は馬鹿にされるとそういうどうでもいい反応するよねw
こわいこわいw
0894日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:31:04.77
もうさ、このアホ畿内説信者はさ、水晶髑髏とか言ってる時点で明らかにオカルト雑誌ムーの愛読者なんだろうから、どんなに事実を突きつけたところでお話にならんだろw
こういうやつが公金チューチューの福永伸哉みたいなのを養ってるってことだよw
ほんとレベルが低いw
0895日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:32:08.37
ムーといえば九州説だろ
0896日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:33:54.77
水晶髑髏とか言ってるのが畿内説信者なので畿内説がムー
0897日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:34:56.16
三角縁神獣鏡は日本国産鏡ということで結論が出ています
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:37:04.67
>>892
骨董屋から手に入れたもんなんて俺だって信用してないよ
0899琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/16(木) 21:40:56.69
ドングリが常に飛んでくるな。まぁそりゃあそうだわ

志賀島の金印が本物であれば倭奴国は滅んでいる。
志賀島には和白がある
九州には半島の影響以外無い
東遷して畿内に神仙思想前方後円墳を突然造り始めますなぞ片腹痛い。
九州は嘘話がお好き
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:41:27.74
出所不明なものなんて信用しないよ
ただ公式な調査結果まで捏造だと言い出すと信用する物が何もない
0901日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:41:52.96
>>891
そこまでの動かない証跡があるのに、それを否定する畿内説信者って、なんか広開土王碑改ざんを指摘したトンデモ似非学者連中と似てるねw

李進熙だっけ?w
李進熙は江田船山古墳出土大刀の銀象嵌銘の主体者は百済の蓋鹵王と解釈したり、
九州が韓国の領土であったとか主張してたし、まんまあらゆる起源を主張する韓国人の発想なんだよねw

たぶん、ここにいる阿呆な畿内説信者もそっちの国の欠陥DNA持ってて精神病になってるか、もしくは、まんま精神病なのかのどっちかやねw
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:42:23.02
ヤマトは征服した国の神宝を没収しがちだった
奴国王墓は岡本須玖遺跡だろうけど
そこへ奉納すると盗られると思ったのかもしれない
したたかにシラを切り通したんだろうな
0903日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:45:21.61
>>899
畿内説の精神病信者は嘘ばかり申しますなw

「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおういん)は西暦57年、後漢の光武帝が日本の国の使者に授けた印綬。
年号まで史書からはっきりしちゃってる。フォントも当時のフォント。デザインも他国の金印から当時のデザインであることまで判明してる。想像だけで創作捏造しようがない代物。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:46:09.56
>>897
>三角縁神獣鏡は日本国産鏡ということで結論が出ています

いくら連呼してもそんな結論出てないから
0905日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:47:32.12
残念ながら三角縁神獣鏡は日本国産鏡ということで結論が出ています
それを覆す材料が畿内説には想像妄想創作捏造ファンタジー以外に何もない
結論出ちゃってるよね缶全にw
0906日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:49:25.97
志賀島の金印が本物であることは結論出ています。
それに反論しているのは韓国人だけかもね。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:50:58.28
韓国人は倭人を見下してるからね。
でも実際は半島南部に出先機関もあったし、新羅も百済も倭の統治下に置かれていたこともある。
それを認めたくないのだろうけど、事実なんだから仕方ないw
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:51:05.65
桃の種に関してはそれが妥当なのか何が妥当なのかわからない
ただ科学的な調査は進めるべき
たとえそれが現時点で間違いだとしてもどんどん調査して間違いを洗い出せば良い
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:52:24.79
残念ながら畿内の勝ち。歴史は後世が決める。
魏の高皇帝は当時は漢に仕えた宦官、歴史的には魏のルーツなった皇帝。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:52:42.82
韓国人は認めたくないだろうけど、半島南部に前方後円墳もあるしねw
畿内から半島まで5世紀から7世紀で広がっていってることからも明らか。
つまり、邪馬台国の時代は畿内勢力は九州には到達していないことも明らかだけどねw
0912琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/16(木) 21:53:43.87
卑弥呼道教において神器は剣と鏡と印璽であり最期を迎えるときにこそ印璽は必要なのである
金印が落ちている筈はなく宗教的にも違う者である。
九州の信仰は柱にぶら下げる鏡に井戸。光明信仰。
まさに卵生神話まんま。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:55:27.72
>>908
桃の種が出てくること自体は構わない。
それを大きな論理飛躍で卑弥呼と結び付けることは大きな間違い。
調査をして洗い出すまでもなく大きな間違い。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:55:31.77
桃の種はまず吉備
あと桃の木で作った刀を道教道士は持ってるよね
それでキョンシーの動きを止める
0916日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:56:42.51
>>912
はぁ???
魏志倭人伝によると卑弥呼は金印をもらったのよ?
関係ない意味不明な話すんのやめてくんないか?
0917日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:57:14.67
>>913
じゃあ何を調べればよかったんだ?
何故桃の種が選ばれたんだ?
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:58:25.06
>>906
志賀島の金印は、黒田藩が作った本物です。   @阿波
0919日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:58:38.63
>>915
そう。中国に朝貢していた九州の邪馬台国をのっとった形で後継におさまったの。
これは旧唐書、新唐書を読めば明らか。
だから邪馬台国は畿内にはないってこと。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 21:59:14.09
桃の種にかじった跡が無い
つまり食べたんじゃない
0921日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:00:07.43
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0922日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:00:39.12
桃の種なんて硬いから基本的にかじらないけど。
果実の部分だけ食べますけどw
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:01:49.45
草生やすやつと行間空けるやつは大体バカウヨ
0924日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:02:33.49
記紀で桃の種が出てきたのも死者の国だったなあ
0925日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:02:44.79
>>917
はぁ????また病気???
桃の種が卑弥呼と何の関係があるんだ???
何の関係もないだろ?
文献にも出てこないものを勝手に卑弥呼に結びつかれらるなら何でもありだな、畿内説はw
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:03:30.70
>>923
論破されると、そういうどうでもいいこと言い出すのが論破されちゃったやつの最大の特徴w(どこのスレでもほとんどそうw)
0927日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:03:46.56
>>925
年代を調べたんでしょ?
0928日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:05:09.78
>>919
そう。文献にしっかり書いてあるしな。正解だよ。とっくに結論が出てる。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:05:22.19
>>919
違うよ。漢化して変わったんだよ。漢文扱える畿内の方が新漢人とか渡来人多いし。
0930琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/16(木) 22:06:07.16
大和朝廷と卑弥呼邪馬台国とは別理念、別種。
墓は嘘をつけない
八角墳墓の理念は神武詔勅
六部六村が始まりと謳う
卑弥呼は道教
淡海三船は当時の政治は道教を認めないと記す
箸墓の姫のホトを刺しては正体を明かすようなもの
八角墳墓の聖地は慶州羅井
天御中主は朴赫居世。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:06:57.42
>>927
年代を調べて卑弥呼の時代と同じ時代のものだと文献などには出てこなくてもすべて卑弥呼と結び付ける時点で頭がおかしい。
なんでもありだな、畿内説wwww
0932日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:08:47.02
>>931
結果なんてわかんないじゃん
桃の種を見ただけで卑弥呼の時代だと言い当てるのは不可能
0933琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/16(木) 22:08:47.48
最後の二行ほぼ100%
空気がそう伝えてもいたんだな。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:09:25.50
>>929
じゃあさ、畿内が漢文を扱えるようになったのはいつですか?
邪馬台国時代から畿内が漢文を扱えたのなら文献残ってなきゃおかしいわけだがwwww
ほんと馬鹿w
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:10:11.98
旧秦韓系が渡来人の主体
コレが近畿と北陸そして四国に多い
厳密には四国の場合東四国に少し偏るはず
邪馬台国の共立者の墓が鳴門にあるから
ヤマトは地方の人間を取り込むだけでなく
実際に畿内の朝廷で出仕させていた可能性が高い
そして亡くなったら故国で前方後円墳を作らせる
0936日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:12:35.50
畝傍山の北東のふもとには洞部落があった、彼らが神武の墓守をしていたのだろう
いまでは強制移転させられたが
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:13:19.98
日本は4世紀でさえ文字を持たずなのにw
やっとこさいままで口伝されてたものを稗田阿礼に暗唱させて、古事記を太安万侶がまとめたレベルなのにw
0938日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:14:17.31
>>935
前方後円墳と卑弥呼を結びつけるものは何もなし。つまりおまえの言ってることはガセ。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:15:49.58
稗田阿礼などの官職が代々暗記して歴史を記憶してたってことは、それまで文字を扱えなかったってことだからなw
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:15:52.07
>>931
3〜7世紀の中国史勉強しろよ。北方移民や朝鮮は漢人を通じて何百年もかけて漢の文化を吸収しているわけだから。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:16:18.43
>>938
交易とは比較にならない人の流れが
邪馬台国にはあったということだよ
北部九州との一番の違いかもしれないな
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:20:11.40
九州の主張て「鉄鏃と絹がいっぱいあるぞ!」しかないよね
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:21:07.53
もし文章を文献を残すほどに文字を自由自在に扱えたのなら、仮に紙や木簡がなくても石などに刻みまくるだろw
そもそも倭が差別用語ってことすら知らなかったのだから、それまでは自由自在に扱えたとは言えないw
0945日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:22:50.96
物を見ただけでこれは卑弥呼の時代だから検査に回しといて
これは卑弥呼の時代じゃ無いから検査しなくて良いからって
それ検査する必要ねえじゃん
0946日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:22:55.10
>>943
歴史書に出てくる円墳、楼観などもあるし、ほかにも枚挙にいとまがないほどあるけど?w
フシアナなのかな?w
どこに目ぇつけて歩いてんだ?畿内説の馬鹿はw
0947日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:23:10.72
稗田阿礼は歴史を記憶してたんじゃなくて、天武から天皇の日嗣と先代の旧辞を詠み習わせられたんだろ
この天皇の日嗣と先代の旧辞っていうのは誰かが口伝してたの?書物があったの?
稗田阿礼の役割がよく分からん
0949日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:25:47.13
履中紀には、「初めて諸国に国史(書記官)を置かれた。これは事を記し諸国の情報を報告するものである」ってある
0951日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:27:14.22
>>946
>歴史書に出てくる円墳、楼観などもあるし、

どこに?
0952日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:29:47.35
邪馬台国時代に漢文を自由自在になんか扱えてないからね。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:30:53.06
>951
魏志倭人伝読めバーカ。だから馬鹿って言われんだぞ畿内説。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:34:31.72
>>941
北部九州にあった邪馬台国の東の海を渡るとまた倭種がいる。それが神武のたてた畿内ヤマト王権。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:35:44.83
>>954
結局そこに話を戻すのね
神武なんか居ねえ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:37:49.66
>>955
残念でしたーwww
白肩之津、浪速から神武が史実であることは明らか。
当時は河内湖があったことは地質学的にも証明されてしまったしね。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:38:15.53
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
AC600年の號は阿輩雞彌=大王
つまり神武東征はこれ以降のはなし
伊勢神宮の創建年とも合致して辻褄が合う 
0960日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:39:56.86
>>952
漢化を知らないだけ。邪馬臺国時代は唐をつくる騎馬民族も高句麗も漢文扱えないから。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:40:12.20
>>958
出発地点は日向でーす
ちゃんとかいてありまーす
宮をたて、何年かかけて奈良に向かったのよー
これもかいてありまーす
0962日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:42:02.56
>>961
別に出発地点が日向でもどっちでも良いよ
内容に変わりはない
0964日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:44:16.45
邪馬臺国、朝鮮三国、隋唐は三世紀から漢人と絡んで五〜七世紀が国家建設のピーク
九州は漢の奴隷でおわりw
0965日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:47:12.10
>>958
>神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
そのころはまだ天皇とは呼ばないです。
当時は大王(オオキミ)と呼んでました。
七世紀後期になって天皇と呼ぶようになり、かつての祖も天皇の称号をつけました。
嘘つかないように、畿内説のおバカさん。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:50:24.72
>>964
そう。だから北部九州の邪馬台国は親魏倭王の称号をもらったし、生口として奴隷も献上したんですよ。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:51:13.66
>>965
だから神武から天皇と呼ぶようになったんだから居ないんだよ
0970日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:53:41.67
レスもらってたのか東の倭種は伊勢湾だから
お間違えなきよう
関門海峡は危険だが渡海には入らんし
北部九州の地理に詳しい魏志倭人伝の文脈上
あそこで豊予海峡に言及する意味なし
邪馬台国を畿内に置いてこそ生きる記述
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:53:56.93
>>947
古事記に書いてあるのは帝紀とか旧辞だけってわけじゃないでしょ。
それまで文献としてなかった神話の時代からの話も入ってますがな。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:56:46.50
>北部九州の地理に詳しい魏志倭人伝の文脈上
>あそこで豊予海峡に言及する意味なし

意味不明w
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:56:57.93
>>972
意味わかるだろ
7世紀の神武から天皇と呼ぶようになった
0977日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 22:59:25.95
>>966
それ五世紀。高句麗が漢人を起用するのは、中華崩壊後に楽浪郡帯方郡を占領してから知らねーの?
0978日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:00:00.76
>>958
皇紀は記載のある在位年などを単純に積み重ねただけで、神武は2600年前ではないぞw
実際には春秋年などが用いられており、紀元前後ぐらいが妥当。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:00:45.67
九州説は文脈を読む力を養えば良い
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:01:07.96
>>975
7世紀に神武が即位したんですか、へぇ、そうですか。
やっぱバカですね畿内説はw
0982日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:01:21.95
>>978
それ天皇じゃ無いから
天皇と呼び始めたのが神武
0983日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:02:21.01
伊勢遺跡説はおれも擁護しきらんぞ
まあ援護はいらんだろうがw
0986日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:06:19.26
天皇と呼び始めたのは7世紀の神武
それ以前は遺跡が有るんだから何かが居たよ
それ以前の遺跡が有るんだからな
0987日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:06:46.05
>>979
ええ、努力してるんですが、畿内説信者があまりにも妄想が激しく文盲過ぎて支離滅裂なためその文脈理解に苦しんでおります(ぷ
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:09:22.43
>>986
7世紀の神武って誰?
何の文献にのってる?
645年の大化の改新後、初めて「天皇」を自称したのは天武天皇だけど、畿内説的には天武天皇が神武天皇ってことですか??
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:10:20.57
>>988
7世紀に初めて天皇と呼び始めた神武だよ
0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:10:32.68
>>971
現代の我々には神話と認識されているお話も、当時は史実とみなされていたので、帝紀・旧辞の一部です
0992日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:12:17.44
>>991
初めて天皇と呼び始めた神武の事を言ってるんだよ
頭悪いな
0994日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:16:08.92
畿内説が完膚なきまでに論破されてて頭がおかしくなる以外なくなっててワロタw
0995 警備員[Lv.10(前37)][苗]
垢版 |
2024/05/16(木) 23:17:30.98
九州説は徳川埋蔵金なみの妄想
0996日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:18:51.13
畿内説は韓国起源説なみの妄想
なんでもありの畿内説信者に言わせるとビッグバンも畿内から始まったらしい
0997日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:19:32.29
畿内説が完膚なきまでに論破されてて頭がおかしくなる以外なくなっててワロタw
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:19:44.45
九州説は大体幼稚なネトウヨ
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 2日 4時間 28分 8秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はUPLIFT会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《UPLIFT会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
4 USD/mon. から匿名でご購入いただけます。

▼ UPLIFT会員登録はこちら ▼
https://uplift.5ch.net/

▼ UPLIFTログインはこちら ▼
https://uplift.5ch.net/login
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況