「民主化」「民主国家化」の定義は?
と思ったが、gdgdになりそうなので、先に疑問に思った事をつらつらと・・・

単純に「君主主権から、人民主権へ変わる事」とするなら、ソ連、支那、北鮮化する事も民主化になる。
社会的弱者をして人民の意志とする東側諸国も、社会的強者をして人民の意志とする西側諸国も、民主主義に分類される。

自然権の保障を以って民主化とするのなら解らなくもない。
しかし、自然権とは、キリスト教的価値観に基づく西洋由来の制限事項の事。日本で謂えば国体がこれに当たる。
当然、自然権の解釈と定義は国家により異なり、また国内に於いても解釈が分かれる曖昧なもの。
民主国家に於いて自然権の解釈と定義は、政党により決定される。東側では共産党が、西側では多数派政党がこれを行う。
そして、主権者を制限事項に基づき制限する事は、民主主義ではなく立憲主義と分類する方が正確。

問題は、「主権者の制限」と云う点に於いては、戦前の日本よりも、戦後の日本の方が劣っていると云う事。
統治者(主権者)が、被統治者(議会)の監視、及び同意を以って権力を行使する体制と
被統治者(主権者)が、被統治者(主権者)に対し権力を行使する体制では、後者の方が立憲的ではない。
主権者たる人民は如何なる制限も受けない、この前提に立ち、ナチスドイツは独裁化した。
現ドイツでは、この教訓から、主権者自身の手によって「民主主義を否定する思想」を制限している。しかし、これは思想統制に他ならない。
支那、北鮮では、主権者自身の手によって「共産主義を否定する思想」を制限している。勿論、これも思想統制に他ならない。
日本、米国などの民主国家も「戦う民主主義」とは行かずとも原理としては同様。「自然権」により「主権者」である国民が制限されている。

制限されている、が。
「社会的強者=与党」により、如何様にも解釈、定義出来る、自然権、憲法、法律。
その制定、改廃もまた、与党によって行われ、他の一切の勢力の制限を受けない。
つまり制度上は、「法律で行使できる権限に憲法による制限がある」が
憲法の解釈、範囲、定義、法律の制定、改廃に一切の制限の掛からない現行憲法よりも
「法律で行使できる権限に制限はない」が、その解釈、範囲、定義、制定、改廃に「議会の制限」が掛かる、帝国憲法の方が、立憲的と云う事になる。
元々は、自然権をそのまま、導入する(西洋人の考えた制限事項を、そのまま憲法に組み込む)事をせず
制限事項を、法に依り「日本人自身の手で」定めようとした事から、この様な仕組みとなっている。
補足するなら、現行憲法の法律に当たる戦前の概念は「勅令」になる。
こちらは、帝国憲法の「法律」と違い、他の勢力の「直接的な」制限は受けない。
間接的な制限は、議会と政府が独立している構造上、勅令のみならず、どの様な事象にも掛かる。
民主化により議会が統治機関と化した事で、「権力を制限、監視する存在としての議会」の権限は弱まっている。

このように、民主的と立憲的は相反する。民主的であればあるほど、それは専制に近くなる。
違憲審査制が、戦前各国にて懐疑的であり、現在の日本や米国ですら「付随的」なものに留まっているのもこれが理由。
戦前、完全な形で機能した貴族院が、参議院となり無意味な代物になってしまったのも同上。

民主化を自由化とした場合も同様。共謀罪、児ポ法、わいせつ物頒布罪、これらは戦前の治安維持法、出版方と変わらない。
これでは、特定の法律の有無で、民主的か否かが決まる事になる。そして、それを決定する「法律の制定の難易」に話は転じ、前述の話に戻る。
「自由の定義を、議会が単独で定義出来るようになったから」としても、やはり最終的には、「法律の制定の難易」に戻る。


と、まぁ「御託」を延々と述べたが
その上で、民主化の定義を聞きたい。