侠客の歴史
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半五郎のことを書いた「関東綱五郎」という作品があります。
半五郎の姉だか妹からの聞き書きだったと思います。
冒頭に関東綱五郎、大瀬の半五郎、大作(大咲だったかも)半五郎の3つの名前について書かれていましたが、
いまひとつ理解しにくい内容でした。
内容は地元で人を殺して捕縛されたが脱獄。横浜の遊郭で騒動お起こして清水へ。
清水では関東綱五郎と名乗り、のちに故郷へ帰郷、というものでした。
清水時代についてはほんの少し触れているのみです。
聞き書きがもとであって、どこまでが事実かはわかりませんが、
興味深い内容だったと記憶しています。
ただ、内容通りだと年齢的に何人かを率いて勝沼の三蔵の助っ人にでかけた
というのには若干無理があるのと、「駿河遊侠伝」の老後の半五郎とは一致しない
ということがあります。
疑問なのは、「東海遊侠伝」には半五郎、綱五郎としか書いていないのに、
なぜ大瀬あるいは大作や関東が付くようになったか?
上記の著書も「東海遊侠伝」の半五郎が大瀬の半五郎でなければ成り立ちません。 「桶屋の鬼吉」「遠州森の石松」なども。
どちらも「鬼吉」「石松」としてしか登場しません。
桶屋は、棺桶を担いででいりに駆けつける、という話を作るために
講釈師が名づけたものだと思っています。
森の石松は、次郎長が遠州の森町と関わりがあったことからヒントを得て
語呂がいいから「遠州森の石松」という名前が出来上がったのではないかと思っています。
「東海遊侠伝」が必ずしも正しいというわけではありませんが、こちらには三州の産
と書かれています。
三州の産の説をとっている書物でも、森の五郎に預けられたとか、森町に住んでいた期間が長いとか
森町と結びつける記述がありますが、実際はどうだったのか疑問です。
八尾ヶ嶽久六も穂北とか保下田とか帆桁などが付いていますが、
こちらもはやりのちに付けられたものではないでしょうか。
とは言っても、全て私の知識不足による憶測かもしれませんが。 真偽は不明ですが、いくつかの書物に大熊は妹のお蝶とともに
一時期猿屋の勘助に世話になっていた、という話も書かれています。
大熊の子分数人が祐天達に甲州円山前の賭場で殺された、という事件。
「塩山」→「えんざん」→「円山」で、「円山」でも「まるやま」でもなく
「塩山」が正しいと思われます。
「円山」という土地が実在したのならばごめんなさい。
「大豪 清水の次郎長」で著者の小笠原長生は「おちょう」さんは
漢字で書くと「お長」さんだから、ひらがただと「おてふ」ではなく「おちやう」が正しい
と書かれていますが、こちらも真偽不明、というか、間違いだと思います。 >>767
何で読んだかは記憶にありませんが、巳之助について書いた個所で
「『山梨』と書いて『やまな』と読む」と書いてありました。
そのあたりの土地に関しては全く知識がないのでわかりませんが、
袋井市の山名公民館の所在地は袋井市上山梨とあり、ちょっと興味深いです。 >>786--789
久々に面白い情報を書きこんでくれる人がいたので嬉しいですな。
しかも自分にとって未知の情報だったので得るところが多い。
786の円山は塩山でいいと思います。安政3年4月12日、確かにここで駿河の博徒ともう一人が殺害された
という史料が、実はあるのです。つまり伝説通り、甲斐の祐天によって
大熊の子分、または鬼神喜之助の子分が塩山で殺されたという事実があったということになります。
ちなみに4月12日は武田信玄の没日で信玄忌といい、祭礼が開かれました。 >>716
黒駒勝蔵。
「東海遊侠伝」に何度も敵役として名前が登場しますが、
実際には多くがが無関係ではないかと思います。
原田常吉側の史料から、雲風亀吉宅にいた勝蔵に襲撃をかけたのは事実。
でもその後、形原斧八宅に復讐したのは黒駒一家ではなく亀吉の弟達。
証拠がない、他に史料がないから事実ではないというのはおかしいですが、
掛川で暴れて小政達に斬殺されたのが黒駒の残党だというもの怪しいし
書いた時点で違うとわかっていながら斬られた二代目お蝶さんに
「きっと黒駒のしわざだよ」としゃべらせたり。
官軍のいち隊長でありながら、清水一家を恐れてコソコソ駿府を通し過ぎた、
大場の久八を袋叩きにする子分たちを止めずに黙って見ていた、
素行が悪いために主人に追い出され、強盗の咎で処刑された、などなど。
勝蔵を悪く書きすぎているように思います。
なぜ愚庵はここまで勝蔵を悪しざまに書くのか。
「東海遊侠伝」を発刊するにいたった背景から、勧善懲悪的に書く必要もあったのでしょうが
官軍との戦いのさなかに両親と妹を失った愚庵の、
官軍に対する個人的な恨みや怒りが勝蔵にぶつけられているのではないかと思っています。
偉そうにしている官軍でも、所詮はこんな奴らだ、という思いも秘められているように思います。
ただ、愚庵は明治になってから元官軍側の人達とも親しくしていたようなので
ちょっと考えすぎかもしれませんが。 「東海遊侠伝」にはない、安東文吉側の史料にあるという
黒駒一家が清水一家に襲撃をかけた事件。
勝蔵が襲撃されて仕返しをしないのはおかしい、
「東海遊侠伝」は次郎長が敗走したことは書きたくない、
という点を考えると、事実なのではないかと思います。
残念ながら、年代がはっきりしないようです。
もう一点、
以前梅蔭寺の史料館に行った時、勝蔵が次郎長におくった水晶というものが
展示されていた記憶があります。
数年前に行った時はだいぶ改装されており、その水晶は見当たりませんでした。
そのあたりの事情は分かりませんが、勝蔵がおくったというのが事実であれば、
争いばかりではなく、どこかの時点で次郎長と勝蔵は交流があったと思われます。
連投、大変、大変失礼いたしました。 書き忘れました。
「関東綱五郎」は長谷川伸著。
私の記憶が正しければ「長谷川伸全集 十三巻」に載っています。、 >>790
非常に貴重な情報、ありがとうございます。
まさにその高市で起きた事件だったのですね。
以前の巳之助の島抜けに関してもそうですが、
一つの事件に関する事実が、他の史料で立証されるって
感動的ですね。
そして、それを見つけ出す力、他の史料と関連付けて読む力。
とてもうらやましいです。 >>791
「官軍との戦いのさなかに両親と妹を失った愚庵の、
官軍に対する個人的な恨みや怒りが勝蔵にぶつけられているのではないかと思っています。」
↑は極めて慧眼、重要な視点ではないかと思います。
また勝蔵の送った水晶の話は興味深いですね。1873年のウィーン博覧会の際にも甲州では
水晶が出典されたのでそういう機運が出来ていたのかもしれません。非常に貴重な情報ありがとうございました。
是非気軽にまたお書き込みください。 小金井小次郎の話では、
新門と義兄弟になり、武州一帯に勢力を伸ばした小次郎に
伊勢の丹波屋伝兵衛から刺客が送られてきた、という部分がある。
伊勢の大侠を相手に回して生き延びた小次郎天晴れ、という話に仕立てたかったのか、と当初思ったが、
小次郎に刺客が送られてきたことを明確に示す史料が出てきたので、これは事実であることが判明する。
これは確定ではないが、史実は丹波屋の後ろ盾を得た吃安流罪後の竹居一家が小次郎と対立したというのが本当であると思う。
この時竹居一家の頭に立っていたのは、竹居の小市こと市五郎。 584に関して、明確な答えを出せないことが実に残念です。申し訳ない。 子母澤寛の『駿河遊侠伝』には福知山の銀兵衛という親分のことが出てくる。
ここに暫く次郎長一行が世話になっていて、その間に甚太郎という旅人が
福知山一家に入ったり、次郎長が近くの寺の若後家と恋に落ちたりと、色々ある。
が、どうも本書を読む限りでは聞き書きに依拠した実話のように思える。
甚太郎は、実は女性で生来男として育てられ、なんと妻も持った。明治の博徒刈り込みで捕まり
その時「女」と初めて知られた。その後江戸の本所で飯屋をしていたという。
また福知山の銀兵衛という親分も、ネットで調べると「松本屋銀兵衛」の名で実在していたことが伺える。 福知山だったか、京丹波だったか、昔旅した時に
一日中「機織り」の音が絶えない場所があった。こんな地域が日本にはあったのだと
思ったものだ。北陸と言うのか近畿と言うのか。
いずれ関東人にしてみれば不思議な場所だった。 遠州相良の富吉と争った親分に堂山の龍蔵という猛者がいる。
だいぶ早い時期の話で天保も前半くらいの頃ではなかったか。詳しい抗争の様子は
今ちょっと思い出せない。竜蔵は明治も二ケタになって死んだように記憶しているから
だいぶ長生きしたことになる。
菊川から相良へ入る途中に「堂山新田」という地域があり、平野でよく稲の実った地勢だったように
記憶している。ここが龍蔵のいたところか、と思うとそれとなく趣が感ぜられる。
近くに黒田家世襲の代官所がある。思いがけず立ち寄ったが、素晴らしい品々が惜しげなく陳列されている。
穴場と呼ぶにふさわしい史跡だった。(後半全く侠客に関係ないな) これは全く関係ないが、この代官所の管理人さんが80を越えた方で、
「遠州大地震」なるものを体験したとふと漏らしたことが、非常に興味を覚えた。
聞くと、小学校の校舎が壊れ、本人は夢中で外へ逃げたが友達は亡くなったとのこと。
そんな地震の存在を私は聞いたことがなかった。
後で調べると戦中に隠蔽された「幻の地震」であるとのこと。(戦意高揚のため事実を封じられた)
侠客とは関係ないが、貴重な話だったのでつい書いてしまった。すみません >>784
問屋場の大熊と呼ばれた者は、別にいらっしゃるのでしょうか? >>802
熊五郎、熊次郎、熊蔵とか虎五郎とかは多くいますので、誰が江尻の大熊か
わかりかねますね。問屋場の大熊…もちょっとわかりませんです。
墓石でも見つかって、更にそこに縁故ある人の名前でも刻まれていれば
確定できるのでしょうけども。今のところ一寸聞かない。すみません。 >>793
ご紹介頂いたおかげで長谷川伸の「関東綱五郎」を読みました。
後半は尻つぼみですが、前半部分は傑作ですね。特におてるという娘の
心情を描く部分、川辺の土手から半五郎の元へ飛び込むところの、女性の心情の描き方
なんかは、真に迫っていてなんとも胸が痛くなります。また半五郎が親父の心情を察して
堅気の仕事が手に付かなくなる場面、祖父の伊之平が夢に現れる場面など、「上手い」と思わせる。
さすがに一世を風靡した大衆作家という感じです。
…これじゃ読書感想文ですね…そうそう、やっぱりこれを読む限りだと大作半五郎が関東綱五郎でいいんじゃないか
と思いますね。『八潮市史』には、たしかこの時の事件の記録も残っていた気がします。 >>791
やっぱり黒駒勝蔵親分の博奕打ちとしての人生のメインは、次郎長と東海道沿いで
戦うことではなく、甲州で兄貴分の吃安親分を召捕った仇の祐天、三蔵、犬上郡次郎を
討つことにあったのだと思います。平井で大岩・小岩を失っても屈することなく、
甲州に潜入し、犬上の首をあげたということはその証でしょうな。
ちなみに祐天は文久3年、郡次郎は元治元年、三蔵は明治2年に他界しているので、
勝蔵生存時に、仇は全て没したことになります。とすれば、勝蔵親分も心中「まあ、役目は果たせた」
という気持ちで旅立てたのかもしれません。 >>795
ありがとうございます。
水晶に関して、戸田書店刊の「人間 清水次郎長」に
写真付きでちょこっとだけ解説が載っているのを見つけました。
それには「のちに仇敵となった黒駒の勝蔵から贈られたもの」
となっています。
この記述通りであれば、両者の間に抗争が起こる前、
元々は何かしらかの交流があったと想像できます。 >>805
次郎長側の史料で勝蔵を敵役としているほど
勝蔵は次郎長を敵として意識していなかったのでしょうね。
口供書からは、兄貴分の敵討ちのために半生をささげた
という印象をうけます。
自分の手で敵を討てなかった悔しさはあったでしょうが
おっしゃっているように処刑される前に敵の死を知ることができた
という点ではきっと悔いは少なかったですね。
悪役にされる前に勝蔵にスポットライトが当たっていれば、
次郎長の石松の敵討ちよりも、勝蔵の吃安の敵討ちの方が
大衆を惹きつける力があったかもしれません。
生き証人が存命のうちに勝蔵の研究が十分にされなかったのが残念です。 >>804
>>786の聞き書きというのは、姉ではなく妹でした。
本文には書いてないようですが、このことは同じく長谷川伸著の
「素材素話」内の『荒神山喧嘩考』に載っています。
参考までに同書に故松居松翁という人が戯曲「大瀬の半五郎」を書いた、とあり
その材料は自分の「関東綱五郎」とはまるで違う、とあります。
あるいは、それが八王子の関東綱五郎のことなのかもしれません。
「素材素話」は「長谷川伸全集 第十一巻」の収録されています。
読み応えのある内容ですので、ご存じでなければぜひ御一読ください。 同じく長谷川伸著に「殴られた石松」という作品があります。
原田常吉が兄の敵の浪人を討つという話の流れです。
史実は弟の敵討ちですが、物語でありながら敵の名前は史実通りであったり、
長谷川伸はこのあたりの事情を知っていたようで、ちょっと興味深いです。 以前、江尻の大熊の「魚熊」説を書いた者ですが
大熊の戒名が載っている冊子がありました。
こちらには「魚熊」という文字はなく
「江尻の大熊 (俗称不詳) 悟心禅定門 (臨・法雲寺)」とあります。
「魚熊」説については、いずれまた調べてみようと思っています。 >>803
ご回答、ありがとうございます。
二十八人衆自体が創作なのは分かるのですが、
どういういきさつによってこの人選になったのか不思議でなりません。
追分の三五郎を除いて、当時、有名だったのでしょうか?
それとも、東海遊侠伝から選んだだけにすぎないのでしょうか? >>790
大熊が猿屋に世話になっていたという説、
円山=塩山
ともに>>382で既出でしたね。大変失礼いたしました。
全てに目は通しているつもりだったのですが…。
>>811
>>803の方とは別の者ですが、
やはり、清水の次郎長のように地名が付いていればそれが手掛かりとなりますが、
問屋場となると、どこの問屋場かが確定しないと捜索は困難ではないかと思います。
当時は有名であっても調べる人がいなかったり何かの記録に残っていなければ、
関係者の死とともに完全に忘れ去られてしまう、というのはとても残念です。 >>811
「近世侠客有名鏡」はだいたい明治・大正版が有名なんですが、
確認できる限りだと「昭和10年」というのがあります。これには
「増川村仙右衛門」・「清水湊の大政」・「清水湊の小政」がランクインされてますな。
後の人はどういう基準で選んだのか。案外、天田五郎の親しい人順だったりするかも
しれませんね。 清水の28人衆については、
おっしゃっているように、追分三五郎のように架空の人物も含まれていますが、
基本は有名無名関係なく、東海遊侠伝に出てくる名前を当てはめたのではないでしょうか?
東海遊侠伝に問屋場の大熊という名前は出てきませんが、
江尻の大熊がモデルってことも考えられますね。 ・大熊の子分が塩山で祐天に斬られた。(大熊と祐天は元々兄弟分)
・大熊は妹ともども猿屋勘助(三井卯吉)の世話になっていた。
・三井卯吉を斬ったのは甲州市川大門村の小天狗亀吉(鬼神喜之助弟)
↑『東海遊侠伝』・松村梢風の聞き書きを参照にするなら、大熊は案外甲州の者かもしれない。
市川大門隣村に「大塚村」があり、ここに「大塚ノ熊五郎」と言う人がいた。
この人って可能性も有るか知れない。 >>815
すごいですね!
松村梢風は次郎長関連の人物を詳しく調べていますよね。
高萩の万次郎についても創作と思いきやかなり詳しく事実を調べられている、
というようなことが「清水次郎長とその周辺」でも述べられています。
江尻の大熊に関しても事実を調べて書いていると十分考えられますね。
(石松の調査結果に関しては違うような気がしますが…。)
甲州の人だから清水界隈に詳細が伝わっていない。
そして「大塚村の熊五郎」→「大塚の熊」→「大熊」といったところでしょうか?
お調べになったことを簡単に教えてほしい、なんて大変失礼なのは承知ですが、
大塚村の熊五郎について、ほかに情報があればぜひお聞かせ願えないでしょうか。 実は何にも知らん部て居ないのですが、2013年の山梨博物館の勝蔵展で、
大正まで伝わっていた侠客の伝をまとめた書籍があり、そのなかに、津向文吉や
鬼神喜之助と一緒に「大塚の熊五郎」という人の名前が挙がっていたにすぎないのです。
たしか、その書籍にも名前だけで「事績詳らかならず」とただ一行だけあったとのことです。
実地に行ってみて調べてみようとは思うのですが、多分何にもでないでしょうね。 ただ、村松梢風の次郎長伝の中で、大熊が「俺は甲州の者なんだが…」と言ってること。
これに815の情報を足して、
その上で、三井を討った下手人が確実に市川大門松坂屋亀吉であることを鑑みると、
大熊と松坂屋喜之助・亀吉兄弟の間には交流が「なければならない」ことになります。
と、すれば(大暴投であったとしても)大塚ノ熊五郎は候補に挙げてもいいんじゃないかと。 >>808
「素材素話」は十一巻ですね。必ず読んでみます。十三巻では「親分病」というのも
面白かったですね。
全集にも入っていないし、そんな良い作品でもないのかもしれないけど、
黒須大五郎を扱った『八丈つむじ風』が、どっかで手に入らないもんかと思ってます。 810で書かれた大熊の戒名がかかれた冊子は、どこかで入手可能なものでしょうか。
お手数ですが、お時間ある時に御返信いただけると幸いです。 >>812->>814
ご回答、ありがとうございます。
天田五郎の親しい人順は、おもしろいですね。
問屋場の大熊が江尻の大熊かとは思いましたが、
本当だとすると兄貴分の大熊を下に見る創作は残念ですね 静岡の富士市は増川佐次郎、仙右衛門親子を始め、宮島俊蔵、本市場の金七など
有名な人物を輩出している。しかし公に彼らの事実が調べられたことが、残念ながら無い。
加えて、この地域では墓石を新しくすることが流行っているようで
古い墓石が容赦なく廃棄されている。 >>817ー819
ありがとうございます。
私も当時の史料を引っ張り出してみてみましたが、
全く気にも留めたことのない名前でした。
「日本の古本屋」で検索すると2件ヒットしました。
長谷川伸の作品は小説にしても随筆にしても、読み手を惹きつける力がありますね。
大熊と鬼神喜之助、小天狗亀吉兄弟の関係など全く考えたことはなく、目からうろこです。
卯吉殺害時には、亀吉とともに次郎長や大熊の身内もいたかもしれませんね。 大熊の戒名について
清水地方で刊行されている「季刊 清水」というものがあります。
その1993年に刊行された第30号で確認することができます。
自分の周辺の区の図書館にはなく(当然かもしれませんが)、
清水市中央図書館が間違いなくで閲覧可能なところだと思います。
以前書いた「魚熊」説のもととなった本もこの図書館で閲覧したものですが
そこに書かれていた戒名と「季刊 清水」に書かれている戒名が
同じかどうかは確認できていません。
現在私が確認できるものは他に
10号で次郎長の手紙について
18号で和田島の太左衛門を中心に山田房五郎や
次郎長の叔父の太右衛門について
24号で愚庵の手紙や愚庵の清水での交友関係について
があります。
ほかにも何度か次郎長について書かれた回があり
この図書館のホームページから確認できます。 「季刊 清水 第30号」には「東海遊侠伝」に名前が出ている
興津の清之助の戒名も載っています。
しかし、明治39年に48歳で没となっていることから
病気で寝ているところを勝蔵一家に襲われたという
盛之助とは別人のようです。 法印大五郎の没年月日、戒名も載っています。
「東海遊侠伝」では荒神山の喧嘩で死亡したことになっていますが、
実は生存していて故郷の甲州に帰って亡くなっているという話もあります。
「季刊 清水」はこの生存説を採用しているようですが、
生存説が書いてある本を読んでも、今ひとつその根拠が理解できずにいます。
生存説と言えば、尾張の鬼吉にも。
「東海遊侠伝」では宮島の重吉という者の一家に鳴海で斬り殺されたことになっていますが、
次郎長が後見役として東京のとある一家に送り込んだ人が、
「自分が桶屋の鬼吉と言われた人間だ」と語り残したという話もあります。 清水中央図書館には3代目お蝶さんからの聞き書き
「侠客寡婦物語」があります。
そもそもが、これが目的で以前清水まで足を運んだのですが、
ゆっくり閲覧する時間をもてないまま帰ってきてしまいました。
>>821
神田伯山は
次郎長を匿ったのにもかかわらず本沢の為五郎を敵役にし、
清水一家に斬り殺された話を作りその息子に訴訟を起こされそうになったり、
悪く描き過ぎだと、吃安の子孫に訴訟を起こされそうになったり、
ってことがあったそうです。
それに比べたら問屋場の大熊=江尻の大熊であったとしても
名前を変えられた上で格下にされた程度ならばまだいい方かもしれませんね。 まったく、たくさんの貴重な情報をもらえて感激しております。
826の人は上萬一家の仁三郎さんのことですね。真の侠客と呼ばれる人だとか。
私も堀田の親分が「桶屋鬼吉」と呼ばれたという説は聞いたことがありましたが、
ようやくsourceがわかりました。本当にありがとうございます。 ちなみに小天狗亀吉が宇七さんを討つために率いて行った人数は10人(本人入れれば11人)で
7人までは名前と出身地が判明しています。(飯の種なので詳細はすみません。伏します。)
6人は甲州、1人が武州です。もし大熊の党が含まれるとすれば、残る4人の内に入るか。
あるいは既出の七人のいずれかが、子分と言う事になるでしょう。
宇七さんが殺されたことを受けて、甲府から26人の博徒が甲府勤番から許可を得て「捕方」となり、
東海道を遠州まで練り歩きました。次郎長さんが国を売ったのはこれに拠るのですが、
一方で江川太郎左衛門(英敏)は、勤番のこの処置を怒り、「無宿と間違えて皆殺しにするぞ」と脅し、26人を甲斐に返しました。
まるで小説見たいですが、全部実話です。 富士宮に阿幸地の定四郎と言う親分がいるそうで、
新撰組に入った(とされる)結城無二三は、「大宮」(=富士宮)の親分の元に
世話になっていたという話を幕末に残しています。
加川英一氏はこの親分を宮島俊蔵(重吉)と見ていますが、私は阿幸地の定四郎だと思う。 また酔って勝手なことを書きこんだ。暫く離れて頭を冷やします。すみませんでした。 前にも挙げたが、野州佐野宿の十手持ち、京屋元蔵に伝わる流行り唄。
侠客中の里謡では、これが一番良いと私は思う。
野州佐野宿、真っすぐ通れ
曲り嫌いの男が怖い
京屋の元蔵の目が怖い
真っすぐ通る、というのは色々な意味で含蓄のある言葉だ。 唐津拾遺集(22)侠客幡随院長兵衛
http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/386627
佐賀新聞LIVE 2016年12月15日 10時23分 老朽化した次郎長の生家、寄付金で賄い修復へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170106-OYT1T50107.html
> 幕末から明治時代にかけての侠客きょうかくで、
> 晩年には清水港の発展にも貢献したとされる清水次郎長の生家
> (静岡市清水区美濃輪町)が修復されることになった。
> 老朽化で倒壊の危険が指摘されていたが、修復費用を寄付金などで賄えるめどが立った。
> 工事は10日に始まり、6月頃の完成を目指す。
> 修復後、多くの観光客が訪れ、地域活性化につながることを地元は期待している。 さて正月明け最初は、武州田無稲荷の増五郎親分の逸話から始めさせていただきます。
慶応2年の武州一揆の際、暴徒が各地の宿を襲うという報に接して、田無宿の大物名主下田半兵衛も
事態を重く見て念の為、家中の銭を集め、千両箱と小かますに詰めて安全なところへと隠そうと決めた。
小かますは庭の池の中に沈め、千両箱は宿内一の侠客・稲荷様こと増五郎に預けたのである。
幸いにも一揆勢は手前の小川宿北はずれで鎮圧され、田無までには至らなかった。
この報を聞くと、早速増五郎は祝言と共に預かっていた金をそっくり名主の元へ返した。
その際、半兵衛がお礼にと与えようとした金には手をつけず、ただ
「以後、私の取り仕切る博奕場を無礼講としていただきたい」との一言を残して帰って行き、人々その無欲と
正直さを称賛したと言う。 ちなみに、現代に入って今から数十年前、下田家の庭の池からかますに入った小銭が
見つかった。これはまさしく一揆の際に、下田半兵衛が隠した金であろう、
と、前述の楢崎氏は注に書いておられる。
出典は、前にも出したが、「かさもり稲荷雑考―博徒増五郎の背景―」(『田無地方史研究4』、田無地方史研究会、S59年) ちなみに本論の「談話」には、増五郎のひ孫の語り残しが記録されていて面白い。
父正升が若い頃、奉公に出ていた時分、たまたま八王子で「小金井小次郎」の芝居を見る機会があった。
その芝居には、登場人物として「稲荷の増五郎」も出ていたが、増五郎役の役者があんまり痩せて貧層だったので、父は
「うちのじいちゃんはお相撲みたいにでかかったぞ!」とヤジを飛ばした。
すると「小僧、生意気言うな!」と周囲の客が怒鳴ったが、
「ほんとうさ、俺は増五郎の孫だ!」と返したら、皆黙ってしまった。
この話、私はかなり好きである。
書き忘れたが、上の御論文、著者名は楢崎成直氏。 俗に「上州系三親分」という言葉がある。戸羽山瀚先生によれば下の様な規定に拠る。
上州系は大前田栄五郎を主体として大場の久八、伊勢古市の丹波屋伝兵衛の三親分を以て構成し、
関東関西の親分貸元はいずれもこの三親分の内の系統に属す。但し清水の次郎長は半可師より進出したが
為に右の系統に入らず、専ら独自の途を開拓したので、これを振興渡世人という。
戸羽山氏が根拠にした史料は不明であるが、幕末から明治の初め頃に、このような取り決めがされたのかもしれない。 >>808
ご紹介頂いたご書籍の「荒神山喧嘩考」読みました。
正直、このスレッドに書きこまれる方々の知識が広く、何も知らなかったことが恥ずかしいかぎりです。
この本は本当に興味深い内容ばかりですね。特に神戸の長吉が極めて天晴な侠客であることがよくわかりました。
一行長吉が「日柳燕石」と知己である、という部分、もうちょっと知りたかったのですが
長谷川先生、もう故人なので知りようがなく、残念無念です。
それにしても「ご座れ参ろうの喧嘩」のような事実を知るには、長谷川先生のような聞き書きを
持ってしなければ絶対無理なことですね。こうして文章になって残っただけでも
有り難いことです。
勉強になりました。これからもご教示ください。 大瀬の半五郎について
・八王子の鈴木綱五郎
・八潮市の大作半五郎
とこのスレでも出してきたが、大事なことを忘れていた。
伯山の「大瀬の半五郎」である。
これだと半五郎は草加の生まれとされる。(八潮とも近い)兄・又五郎ともども
侠名を知られていたが、兄が計略に落ちて殺され、その恨みで兄の許嫁だった義姉と
目明しの五蔵を殺す。
その後、凶状旅の果てに清水湊へやって来て、次郎長の世話になる。そんな話だった。 以前虎造の「大瀬の半五郎」を面白く聞いていたのだが、不覚にもそんなこと全く忘れていた。
近デジの『世界の救世主日本』(遠藤友四郎著、錦旗会本部、S6)というとんでもないタイトルの本の中に
「侠客賛仰・次郎長の子分」というコラムがあり、思いの他くわしく、ここに半五郎のことが載っていた。
おまけとして、伯山がこれを高座で演ったら、「半五郎の子分だった」という老人が現れ、五蔵殺しの際の
誤ったところを指摘した、という逸話が書かれていたので、
この「草加生まれの半五郎説」無碍にはできない。というより、これが巷で一番説得力のある半五郎=関東綱五郎なのかもしれぬ。 >>839
恥ずかしいなんてことはないのではないでしょうか?
私もここで多くの知らなかった意外な事実を知りましたし、
自分が書き込んだことを「知らなかった」なんて言われると
微力ながら他の方の趣味や研究のお手伝いができたのではないかと、
嬉しく思えます。 黒駒の勝蔵もですが、やはり悪者や卑怯者というイメージが定着してしまった
人物についての調査は相当タイミングを逸してしまっていますね。
日柳燕石と神戸の長吉との関係、長吉をもっと早い段階で詳しく調べたら、
びっくりするような事実が出てきたかもしれません。
でも「荒神山喧嘩考」というものを残してくれただけでも相当ありがたいですから
贅沢を言ってはいけませんね。
ちなみに「荒神山喧嘩考」は平岡正明著「清水次郎長の明治維新」の
参考文献で知りました。
広沢虎造の浪曲を基にとしていますが、次郎長関連の様々な考証がされていて
なかなか面白い内容でした。 だいぶ前の話題になりますが>>275や>>375の集合写真。
清水の壮士の墓に隣り合って小さな建物があります。
中をのぞくと同じ集合写真が飾られていますが、一般的に各人物に付けられている名前とは
全く違う名前がふられていました。
この人物名、間違ってるんじゃないか?とは思わず、
世間に出回っている人物名って実は適当なんだな、って思った記憶があります。
また、各人物名が正しくないという記述はされていませんでしたが、
一般的に「大政」と言われている後列の人物を「○○の半三郎」と
書いている書物を読んだ覚えがあります。
著書で、人物名を信じて没年等を参考に、いつ頃撮影されたものかを考証している
方がいますが、お気の毒です。
この写真についても、適当な人物名がふられていなければ
正しい調査がされて、新たな事実が発見されていたかもしれませんね。 増川の仙右衛門と宮島の俊蔵の手打ち式の写真、との説ですが、
「東海遊侠伝」では鬼吉は宮島の重吉(俊蔵)一家に殺され、
鬼吉の子分はすぐにその仇を討った、となっており
「やくざ学入門」では次郎長が上万一家に送り込んだ堀田仁三郎親分の前身は鬼吉で、
もとは仙右衛門の弟分だった、となっています。
鬼吉は仙右衛門の弟分だったのか、
仙右衛門の弟分であっても、次郎長の子分であれば次郎長と俊蔵が手打ちをするはず、
鬼吉は堀田仁三郎親分と同一人物か、
等、疑問は多いですが、
鬼吉に関する両者の手打ち式の写真、ってことだったら面白いですね。 5〜6年前、勝蔵の碑を探している時に道を尋ねたおばあさんが、
「雪の中を逃げるのに、役人の目をくらますために
草鞋を左右逆にはいて逃げたと聞いていますよ」と教えてくれました。
内容よりも、語り継がれているという事実がうれしいですね。 勝蔵の碑の近くには、勝蔵の生家とその敷地内に立派なお墓、
ほかにまたお墓と言われているお地蔵さんが置かれている神社があります。
お地蔵さんの周りにはいくつかの墓石があり、その一つには「小池嘉兵衛」の文字が見えました。
嘉永の文字も見えたので、勝蔵の父ではなく祖父かもしれません。
父親のものと思われる年を記したお墓も並んでいるかもしれません。
いずれもお墓を建てたというよりも、悪く言えば置きっぱなし、
という状態です。
なぜこのような置かれ方をされたままなのか、とても気になります。 >>844
619で書いた話はかなり高名な研究者が書き残した史料によるので、私自身は信頼しているのですが、
調べてみれば仲裁役に立ったとされる大胡の団平は、慶応年間に島流しのまま亡くなっているので、
この点は辻褄があいません。
しかし、団平の役を二代目大前田の「田島要吉」であるとすれば、無理がない説にも思われます。何故と言うに
要吉清水一家などとも交流が深く、東海道沿いとはよく交流し、写真等も残っているからです。
とは言え、真実は、おっしゃる通りすでに例証できない時期に来てしまっているのでしょう。 >>847
私ごとで恐縮ですが、本家は八ヶ岳山麓の小村にあります。四代ほど前に「上黒駒」から
嫁に来た女性がおり、勝蔵親分の親類筋に当る人で、女性ながらに馬に載って嫁いできて、
それはみごとな短刀を携えて来たとのこと。親族間では「さすが黒駒の親類よ」と内々で話題にしたと言います。
(真偽のほどはわかりませんが)
明治維新はてっとり速く国民の「価値観」を変える手段として、善悪の区別を短時間で極端に定義したのだと思います。
それまで博奕は庶民が嗜む必要悪でした。(中世ではれっきとした職業・あるいは行事でした)
明治3年に、それは完全な「悪」にされたのでしょう。
山梨西部に住む勝蔵の子孫の方の話にも「あんな悪党のモノはみんな捨てちまった」と答えられた経験があります。明治期には
そういう転換があからさまに成されたのだと、私は思います。 709で山梨ノ巳之助親分を、八丈実記の「無宿巳之助」と同一人物だと得意に書きこんだが、
このことは既に藤田五郎氏が『仁侠大百科』書かれておられた。恥ずかしいかぎりだ。 安東文吉の「十哲」
仏の勇蔵(長谷村の勇吉)・柳新田の政蔵・安西五丁目吉五郎(悪吉)・瀬名村権次郎
沼上の石音・信州屋源次郎(長谷の源次)・池谷の松・長谷村安五郎・長谷村徳次郎
足袋屋伊之助(片羽町の伊之助) 同じく安部七騎
鍋屋の宇吉(菖蒲谷)・安部の由・牛妻の茂助・水口の岩下初五郎・新田の梅五郎(梅ヶ島)
足久保宗十・船沢の武右衛門(足久保) 上でも名を出した上州館林藩浪人・犬上郡次郎。
確かに武術・扱心流柔術の達人で、数々の武勇伝を持ち、更には竹居吃安を捕縛した立役者だが、
最期は悲惨なものだった。
すなわち、元治元年10月17日に黒駒勝蔵率いる40人の集団に、潜伏していた勝沼万福寺に襲われ、
まずは柔術家の命である「腕」を斬り落とされ、その後首を持ち去られた。
一緒にいた女房もまた、綱で撒かれて連れさられた。
今日、万福寺の鐘楼の下に大岩があり、ここに郡次郎の首が置かれ、黒駒組によって
実験されたとの話が伝わっている。 長の潜伏。それゆえの皮膚病。公との闘争。あらゆる苦悩を抱えながらも
旅を続けながら、同時にに子分に飯を食わせていた勝蔵が、おそらく唯一
歓喜の声を挙げたのが、この郡次郎殺害の一時だったのだろう。
史料に拠ればこの時、勝蔵一団は「上意!」と叫びながら万福寺の山門を越えた。
「上意」とは普通、殿様の意を果たすことを示すが、この時の勝蔵の「上意」とは、故親分安五郎(吃安)
の妄執に対する一礼・供養に他なるまい。 ヤフオクはつくづく馬鹿にならない。
一点は甲州黒駒一家の乙吉らの人相を記した文書が売りに出てた。
次いで、鬼神喜之助の一族、喜右衛門、定八家で明治元年に殺人が起きた、という史料も売りに出ていた。
どちらも気づいたときには既に落札されており、今後絶対に手に入ることもないだろう。
忘れる他ない。 昔は(明治以前のことか)は自分の居住する村落から一歩も外に出ることなく
一生を追える人生というのもあった。
そうでありながら、同時代に渡世人は、旅をして日本中を廻った。定住民に対する遊行民ということか。
ただ彼らの来訪が、時に村落に刺激を生みだし、変化を起こして行ったことは確かだ。 中世以来の遊行民の末裔たる博奕打ち・侠客・渡世人は、それだけに、剣術や博奕道よりも
歩行法を大事にした。一日50キロは平気で歩いた。
これは大前田栄五郎にも国定忠治にも、黒駒勝蔵や清水次郎長にも伝わる、馬鹿げた逸話だが
彼ら遊侠の徒が歩く時、胸の位置に置いた菅傘が歩行の速さでひっついて下に落ちなかったという。
それくらい健脚・足速だったのだ。 山岳研究科(登山家?)の岩科小一郎先生の著書は渡世人研究の側から読んでも面白い。
なにしろ伝聞をそのまま脚色無く記しておられるので、価値が高い。更に博学、なにしろ柳田國男の
弟子を称する志の高さもすばらしい。
『大菩薩連嶺』では峠を中心に、一度は侠客を志した老人の姿を(勝沼の親分に杯をもらった)、
また『山麓滞在』では郷原で草鞋屋を営んでいた「忠次郎」という親分の話を
何気なく載せている。
なにより歯切れの良い文章の上手さは、この人の魅力の最たるものだ。 これはまた侠客とちょっと関係ないだろうが…
上述の岩科氏の『山麓滞在』。
「山とお母さん」(近デジなら112コマ目)は是非とも読むことをお勧めする。
名著、名文だ。 下田の兼五郎は屋号・小松屋と言ったらしい。
武州の港北区(現川崎)を中心に勢力を張った。最大の火場所は川崎の影向寺で、
この影向寺は関東屈指の古刹であることから、多くの博奕打ちが訪れ、彼らと盟を結んだ。
ある時、三宅島帰りの小金井小次郎が、ここで兼五郎に会い、大歓迎を受けた。しかも、今までもらったことの
無いほどの草鞋銭に、さすがの小次郎も度肝を抜かれ、兼五郎と兄弟分の盃をかわしたという。
兼五郎は跡目を子分に譲り、自らは引退して悠々自適な晩年を過ごす。人々からは老若を問わず愛され、
為に今日墓石は小学校裏手にあると言う。 芥川龍之介の短編に「お富の貞操」というのがある。知ってる人は知ってる作品だが、
この中に「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな」という名文句がある。
この「村上新三郎」、昔は武州入間郡所沢在・南永井の博徒親分・村上新三郎がモデルではないか、とも思ったのだが、
どうやら関係ないようだ。
新三郎以下、三兄弟については高尾善希氏が論文を書いている。 博徒ゆかりの地めぐりと講演会(山梨県立図書館)
「幕末甲州の博徒たち」日帰りバスツアー ※予約受付中
https://www.yamanashi-kankou.jp/y-tabi/learn/bosyuchu/bakutoyukarinochimeguri1day.html
講演会概要
『幕末甲州の博徒たち』
講師:高橋 敏(国立歴史民俗博物館 名誉教授)
「幕末の世相と博徒たち」
高橋 修(東京女子大学 准教授)
「甲州遊侠の世界」
日時:平成29年2月26日(日) 午後2時〜4時30分
会場:山梨県立図書館 多目的ホール
聴講料(資料代):1,000円(舎人倶楽部会員:800円)※ツアー代金には含まれます。
定員:150名(申し込み順) 「幕末甲州の博徒たち」と銘打つからには
正徳寺の多八や塩山藤太郎、上手の八百蔵に井手久や油屋の兄弟なんかも出すんだろうな…
とかイジワル言っちゃダメだな。 先日偶然目にする事が出来ましたが、
「桶屋長兵衛」さんの情報元は稲田郷土史家の「あゆたか」(16号)ですね。
これは知らなかったけど、素晴らしい研究誌です。
ちなみに33号掲載の、近藤勇の姪の話も興味深いです。 >>865
その件は目下調査中ですので、
できればネタバレ無しでお願いします。 しつれいしました。
埼玉県新座市に
平成2年まで活動していた機関紙「にいくらごおり」というのがある。
この21号に「慶応4年、監察見聴誌」というのが非常に面白い。
白子宿の亀屋清吉方に探索方の役人が逗留していた際、土地の親分である「新倉の由五郎」
から「心付け」が届いたと記されている。由五郎なる親分は知らぬが、きっと和光市周辺で幕末に
勢力をもった博徒だったのだろう。 「日本史」に関して、自分の概観を挙げると、
大事なのは1192と1600だけで、
1192、すなわち鎌倉時代より前は「古代」
1192から1600(関ヶ原)までが「中世」
以降が「近世」で良いのではないかと思う。色々異論はあろうが、二つの年号を覚えるだけで
日本史の一番重要な文化変容を窺い知ることができよう。
で、博奕打ちはだいたい1800〜1900の間に置くことができるだろう。
異論は幾らでも受け付ける。 「鎌倉末から戦国時代にかけては、或は山伏しとなり、或は庸兵となつた様な無頼の徒が、非常に多かつたのであつたが、
此等の中、織田・豊臣の時代までにしつかりとした擁護者を得なかつたものは、
最早、徳川の平定と共に、頭を上げることが出来なくなつて了うた。彼等は、止むを得ず、無職渡世などゝいつて、いばつて博徒となつた。
此が侠客の最初である。」
上は柳田國男と双璧を成す民俗学の重鎮、あるいは親・折口信夫(しのぶ)の言であるが、
若干上から目線はあるが、本質的には結構興味深い推論ではないだろうか。 …毎回ながら週末の夜になると、なんて馬鹿なことを書きこむのだろう。本当にすみません。 高萩の万次郎の居宅である鶴屋は「上宿」ではなく「下宿」にある。
よって宿内では「下宿の万次郎」で通っていた。
この点はいつか誰かが間違いを指摘しないといけないのだが… 同じく武州の侠客で
小川幸八から小川幸蔵に代替わりするに際しては、間に恋ヶ窪彦太郎という人が入る。
彦太郎は幸八の妹を内縁の妻に持った。
彦太郎、もともとは幸八兄弟分の「上鈴木の平親王」の子分に当る。明治6年捕縛され
斬首か病死か、いずれ落命した。平親王の家の墓域に、彦太郎の墓が建っている。
本当に真四角の形をしている。 間違い。明治6年ではなく、安政6年。
ちなみに平親王(名は平五郎と伝わる)は明治2年死亡。倅は軍次郎。 三鷹の上連雀に「上連雀の嘉助」という親分がいた。
実在の人で、小金井一家の陣屋三之助の喧嘩には、この人が仲裁に入って事無きを得ている。
それ程の貫禄であり、若い頃は小次郎とも幾度か事を構えた。
生業は博労であったと伝わる。残念ながら家が特定できないが、私はこの地域の旧家に居た
「安太郎」という人だと思う。(姓は伏す、が調べればわかるだろう) 安太郎は幕末期の人で土木をしていたと言う。
この人、台場の工事に駆り出され、手下を連れて参加した所、工事後に
千両箱を褒美としていただいた。しかし、そっくりそのまま何かの間違いだと言って
お上に返したとの逸話が伝わっている。
この逸話、かの大場久八の逸話とそっくりである。そのような訳で、安太郎を伝説の連雀嘉助である、と見たい。
確証はないが、これは当ってると思う。 小金井小次郎は一般的に、出自の小金井から南に勢力を伸ばしたとのイメージが強い。
すなわち、神奈川にかけて縄張りを広げた。戸羽山翰は「神奈川」の博徒として
小次郎を挙げてるくらいだ。
しかし三宅島に流される頃の小次郎が、手紙をせっせと送った先は青梅や飯能など、北に多い。
これは多分、高萩万次郎の勢力圏に関係するのだろう。
これは確証はないが、やはり最初に小次郎が親分と頼んだのは、府中藤屋の和十郎(初代、別名平蔵)だろう。
万吉は兄貴分に当る。次いで、一ノ宮万平を叔父貴分にして親しく交際し、
長じては高萩万次郎に世話になったのではないか。
今川徳三は何かの著作で「侠客を地で行く男」と小次郎を評していたが、これはその通りで、
彼自身も手紙の中で言っているが、「周囲の人の歓びが自分の利益と繋がることを重視」していた。
実に明晰な人物であると思う。 武州入間郡の「黒須大五郎」に関しては、彼を有名にした
高谷為之の新聞小説すら幕末期の大五郎の実情を誤って伝えているので、
今さら修正の仕様がない。
大五郎は明治20年代の「侠客有名鏡」では小結に挙げられるほどの大物だが、
明治元年〜5年までの履歴以外正しくは伝えられていないのだ。元年〜5年までは
雲霧仁左衛門顔負けの怪盗ぶりを確かに示した。 実は幕末期に於いて大五郎は甲州博徒(黒駒一家、若神子一家)と盟を結び、
関東を荒らして廻った。
一般に言われているように「八丈島に籠って生業を営んでいた」のではない。
武州の遊女屋から気に入った遊女を盗み出し、ハーレムを拵え、抜き身・鉄砲で武装して
名主や豪商の財産を狙った。
文久元年、甲府で役人に囲まれ、アクロバティックに逃げ回ったが、御用弁になり、
以降御一新まで8年近く、牢内に収監されていた、というのが実情である。 上でも聞き書きで記したが、最期には狭山丘陵にあった御仕置き場で斬首されたようである。
狭山丘陵というところも、特記すべき場所で、多くの貸元・博奕打ちの巨魁が
存在していたようだ。暗く、神聖な山間部で、商業都市とも近いという点が
関係していたのだろう。 明治元年辰年、幕府瓦解の混乱期に狭山丘陵では博奕打ちたちが集まり、
ちょっとしたデモを起こした。彼らは周辺の農家に炊き出しを要求し、人足までそろえた。
その目的が停滞した経済を循環させてほしい(つまり質店の営業を円滑にしてほしい)という
ことだったというのは恐れ入る。ソースは「里正日誌」。
このことは高尾善希氏や、多摩地域を中心にしてたいへん面白い論考を重ねている漫画描きの
ブログで取り上げられている。
さて、この時中心に立った人物は「北野村の金五郎」という「博徒巨魁」であった。
金五郎はなかなかの人物だったのだろうが、このすぐ後、博徒同士の喧嘩で命を落とす。
資料も逸話も多くは残っていないが、かすかな資料を便りに調べを続けていけば、あるいは意外なことが見えてくるかもしれない。 五代目・神田伯山に「御家人桜」という講談がある。と、こう書く由来はインターネットに
神田松山という方が貴重な五代目の講談を挙げてくれているからなのだが、
この「御家人桜」、非常に興味深い話が要所に盛り込まれている。
例えば藤屋万吉を大前田栄五郎と並べて、「関八州の日月」とまで持ちあげている。
更には
「この藤屋の萬吉という人は、常陸の栄助という侍くずれの旅人に、四十二歳の厄年に、六社明神の、けやきの、並木道で、
殺されたのでございます。もう十年も長く生きてえればこの人は、大前田に負けないようなりっぱな貫禄になれたものでございましょう。」
とも言っている。
小母澤などは、万吉をひどく量見の狭い人として捉えているが、随分違う。
さらには、万吉が人手にかかって惜しくも殺害されたことを明確に物語っている。(上でも記したがこれはほぼ事実である。)
実際、この講談で鐘を鳴らす藤屋万吉の姿は、実に渋く心の行き届いた良い役どころである。
また彼に娘が一人いたことも、これも事実。そして彼女は随分つらい憂き目にあったらしいこと、
史料からは追えぬが、これも事実に基づいているようだ。 新門の頭・辰五郎について
「弱者には強く、強者には従う卑劣漢が、彼の本質である」のような書き方をする
ものをよく目にするが、
この見方自体、田村栄太郎の一見解にすぎない。その後翻刻が刊行された『藤岡屋日記』
や『浅草寺日記』を調べれば、田村の見解も的を得ていないことは一目瞭然である。
それならば子母澤寛や、その後の優れた物書きによって、好意的に解釈された侠客・辰五郎の
姿を受け入れておく方が態度としては望ましいと、私などは思う。 かつて老人介護施設で、
浅草生まれのおばあさん、今生きておれば110歳くらいの方とよくお話したが、
「新門の辰五郎さん、は偉い人よ」とよく言っておられた。あと鼠小僧次郎吉も、
少し、呆けておられたが、私はあの人との会話は非常に楽しかった。
そう言う彼女の語る逸話の中の辰五郎頭は、やはり「侠客」として、話を聴く者の心の中にも残っていく。 豆州下田・本郷の金平は、本名由五郎(由蔵とも)と言う。
文政3年に下田の百姓藤右衛門の次男に生まれた。何の理由か、9歳の時に那賀郡江奈村
の百姓甚右衛門の家に養子に入ったが、20歳の時にぐれて家を飛び出し、実家に戻って来た。
当時既に父は亡くなっていたが、一家を継いだ兄藤右衛門(幼名・竹次郎)が出来人で
由蔵を匿った。「弟が真人間になったら人別帳に加えてやろうと思っていたためで」
と答えたことが、当時の役人の調べにも書かれている。
その後、菩提寺である海善寺の住職に助けられ、僧籍を名乗ったりしたこともあったが、
生来の元気さは押さえられることもなく、
大場久八に見込まれて、遂には東海道筋有数の遊侠の徒となった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています