幕末の南部藩・米沢藩・仙台藩・会津藩
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遺体埋葬の開始:10月3日
世直し一揆の開始:10月3日ww
新政府が埋葬作業やってる時に、
会津の皆さんの御先祖である農民は、一揆に夢中。
埋葬作業の邪魔しちゃダメでしょうw 被支配農民層は、会津藩の武士共が大嫌いだったんだよ。
ちょっと郷土史を調べれば、そんな記述証拠はボロボロ出て参ります。 新島八重
>生い立ち、生涯より
>「幕末のジャンヌ・ダルク」
>「会津の巴御前」
>「元祖ハンサム・ウーマン」
>「日本のナイチンゲール」などと称されている。
どこでだよwwwwwwwwwwwwww
会津プロパガンダで勝手に言ってるだけだろwwwwww
>当時同志社の学生だった徳富蘇峰は彼女に
>鵺というあだ名をつけ世間からは「悪妻」と評された。
会津プロパガンダで美化されただけで実質は悪妻wwww
新島八重は明治政府から勲七等宝冠章と
勲六等宝冠章を受賞してるんだが
会津プロパガンダ洗脳者はそこスルーすんの?w
会津プロパガンダ洗脳者が嫌いな明治政府からですよ?wwww
しかも民間人の女で初めて勲章を貰っている。
会津プロパガンダ洗脳者によると会津人は差別されてるんだよね?wwww
おかしいねぇwwww差別されてるはずなのに会津人の女がが民間人初の勲章授与ねぇwww
八重が勲章貰った明治29年12月に総理大臣だったのは
鹿児島出身の松方正義。
八重が2回目の勲章貰った明治39年4月の総理大臣は山陰道鎮撫総督の西園寺公望で官軍だった人物。
しかもフランス留学後に伊藤博文の腹心となってる。
おかしいなぁwwwwww会津プロパガンダだと差別されてるはずなのに
旧官軍の総理の時に2回も勲章貰ってるんですかぁ?wwwwww 勲章っていつあげるの決めるか知らないけど松方の前は山口の伊藤博文
西園寺の前は桂太郎で二人とも山口出身だね。
前年度に決まるものなのかな?
まあ何にせよ会津人の新島八重は官軍から勲章貰ってます。 会津地方幼稚園の学芸会。園児に剣舞の真似をさせ、
最後に全員切腹するのには驚いたね。基地外沙汰。 東北地方には「部落はない」といわれてきたが
藩政一覧などで東北各地に部落は存在していた。
しかし、部落を歴史的にも
存在しなかったことにする意識が
部落民に離散を強制して解体させたところもある。
しかし、沈黙のなかにおかれ
劣悪な環境がそのままにされているところもある。
会津坂下町では、部落側だけが側溝が
細くなるという現実がいまだに残されている。
部落の側が低地にあるため、呑みきれない雨水や
雪解け時の水が側溝にあふれて
部落の側に流れ込む現実を見た。
和田委員長が地域の人と地道な
行政交渉を続けた結果、一般対策ではあるが
少しずつ環境改善がすすんでいるようすが見られた。かつて町は、同和対策事業を住民に黙って実施した。
住民側は「同和地区実態調査除外申請」を出すまでの事態になり
それ以降、政府の問い合わせに町は応答していない。
会津若松市でも同様に、同和対策事業の
実績がありながら、真剣にやろうとはしなかった。
部落の隣接する地域の土地整備事業を優先させた。
部落への差別感情に乗っかることで
推進した事業はきわめて不自然な区画を現出させた。
高低差を無視した下水路など実態を放置し続けた行政の姿が見てとれる。
「会津魂」がすばらしく藩主の領民を思う名君がいたのなら
なぜに今日も部落の人たちのみが不当な現実のなかに置かれなければならないのか考えさせられる研修となった。 白虎隊士中二番隊の勘違い切腹話は嘘ですよ。
切腹した人数は6人です。
飯沼貞吉が残した回顧録には勘違い切腹で
20人が切腹したとは記されてません。
飯沼達は隊長達17名とはぐれてしまい
飯盛山まで逃げてこれからどうするか話し合い
飯沼を含む6名が山中で切腹し5名死亡。
残りの隊士は下山してます。
城に戻る途中で戦死したり自害してますが
6名は生きて城に辿り着いてますよ。 『会津人が書けなかった会津戦争』(著)牧野登
(引用)
山川浩・健次郎兄弟の思想を論理的骨格とする会津士族たちの主張は“会津は
朝敵にあらず”の一点に徹底集中した雪冤論であり、その論調は「会津会会報」に
拠る荘田三平や史学者花見朔巳などの論客によって踏襲・展開されたが、昭和3
年の松平勢津子の皇室輿入れによってその目的は実質的に達成され、さらに昭和
12年5月に若松で行われた徳富蘇峰の講演「維新史に於ける会津」によって集約・
完成されたといえよう。
しかしこの気運は、天皇を神格化する軍国主義の風潮と政治構造の力によって結
果的には利用され、会津は沖縄に似た皇民家教育の道を突っ走ることになった。
“会津武士道”が国是として賞揚賛美される昭和前期から戦中にかけての時代風潮
の中で、かつては武士階級や士族の倫理であった会津士魂なるものが、郷土意識
の顕彰気運と合流して一般会津市民の意識をも併呑し、今日の姿を生み出したので
はあるまいか。
(引用終わり)
戊辰戦争後新政府から手厚いフォロー受けといてその恩は知らぬふりw
維新後の弾圧差別話は根拠なしw
美化・虚言・責任転嫁が大好きな今の会津は
『什の掟』
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
についてはどう考えているのかな? かな? 会津が郡山で放火や略奪をした史料です
2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号
これ以前ネットでも見れましたが今も見れるのかな 英国公使館員の維新戦争見聞記
会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。
そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党の残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。
これが会津武士道なのか?(´д`|||) 斗南強制連行は会津プロパガンダによる嘘
会津再興が認められて
新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと
聞かれた時、偽金の不満から一揆が多発する
会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。
もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった
領民達の一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時
新領地は斗南にしようと言い出したのは
山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって
荒らされた故郷の領民たちの
怒りが良く解っていたのだろう。
補足するが、明治新政府が
会津藩を流罪にすべく斗南の土地に
追いやったという事は無い。
会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い
猪苗代の二カ所である。会津藩が自ら
斗南を選んで移住したのだ。 1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
どっかの国にそっくりだな 禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』
当時の会津は嫌われていた。
会津の活躍は会津プロパガンダによる美化。 寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。
会津ろくでもねえな
まるでベトナム戦争の韓国だ! 会津飯盛山で集団自刃した白虎隊。
彼らはなぜ自刃したのか?
唯一の生残り隊士が手記を残していた!
「城が燃えている」という落城説は真っ赤な嘘。
直系の孫(「白虎隊の会」代表飯沼一元氏)が
その真相を明らかにする。
奇跡的にただ一人生き残った隊士飯沼貞吉の生涯を
奇しくも祖父と同じ通信技術者の道を辿った
孫、飯沼一元氏が新たに発掘した資料に基づき、
克明に跡付ける。賊軍・死にそこないの汚名を着せられ
死処を求めてさまよったた貞吉は
偶然敵地長州で療養と勉学の時間を与えられ
やがて日本の電信技術者として大成する。
子孫も会津プロパガンダの嘘を指摘か。 会津は「今に会津が江戸になる」と謳い…
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。 家永三郎《日本の歴史4・明治維新》
>若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、
>いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、
>11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、
>政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。かれらは、『徳政』あるいは、
>『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を
>平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを
>要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、
>村役人を新しく選挙した。」
会津農民や領民は会津藩を見放したのである。領民たちは会津武士の死骸から衣服や金目のものを
剥ぎ取って売り、藩士の死体収容すら拒否したのである。 会津は売国計画を進めていた
会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。 白河似北一山百文と差別されたのは嘘
白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889) 会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史 斗南藩史の作者である葛西冨夫は
「飼い犬に足を噛まれるとはこのこと……
会津戦争に追いうちをかけられたようなこの一揆は
敗戦にうちひしがれた会津藩士にとって
大きなショックであったろう」と記している。
何なの?会津系の奴って。領民を犬くらいにしか見てないのか!
会津が最終的に領民から見放されたのがよく解るわ! 会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。
たとえば、慶応四年八月二十一日
会津直撃を目指して、三千人の征討軍が
殺到した母成峠戦いのことだ。
会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を
構築し、頑強に抵抗した。
勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。
彼らは、道なき深山を迂回し
会津守備隊の側面を奇襲したのだ。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落(郡山市熱海町石筵)の農民たちだった。
その前日、会津藩兵は
敵が隠れる所をなくすために
放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすため
道案内を買って出たのである。
会津盆地から流れ出す阿賀野川の下流
新潟県安田町でも、会津藩兵は六野瀬という
集落を焼き払った。その翌日の八月一日
会津藩兵は、阿賀野川に面した砦を
守っていた二十四人のうち、二十三人が
戦死したのだが、六野瀬集落の人々は
「会津のやつらは……」と言いながら
遺体を阿賀野川に投げ捨てた。 駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書
・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様に聞かれた
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ
・会津藩降伏後、会津の領民は護送さかな態度で見送った 福島原発が作られた当時の東電社長も福島人
東電関係者の解説
渡部氏は東電の“中興の祖”といわれる
故・木川田一隆元会長と駝懇の仲だったのです。
渡部氏が一年生議員のころ、当時社長だった
木川田氏が福島出身だったので
後援会長就任を打診したほどです。
また、福島第一原発を作ったのは
木川田氏が社長の時代でもありました。
正確には原発を福島に誘致したのは
福島が木村王国と呼ばれていた頃
当時県知事の「木村守江」が福島第一
第二の原発を誘致した。
当時の東電社長 木川田一隆と
親交が深く雇用対策として誘致した。 会津世直し一揆
かねてからの重税や物産の専売制度による
搾取に加え、藩主松平容保が
京都守護職として上洛して以来
その経費を賄うために行われてきた
増税に対する不満に一気に火を
つけることになった。
9月22日(1868年11月6日)
会津藩が明治政府に降伏すると
たちまち藩政崩壊による権力の
空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。
会津藩降伏後、明治政府は
民政局を設置して暫定的に行政を行わせ
村々の支配は従来の村役人に
当面任せることとした。
だが、これまで会津藩当局の支配の
末端を担った郷頭・肝煎ら村役人
(彼らは地主として小作料を徴収し
また債務により農民を従属的地位に
追いやる者も多かった)を排斥するように
求める農民たちの動きが領内各地で高まり
会津藩降伏のわずか10日後の
10月3日に会津若松から遠い大沼郡で
まず一揆が勃発し以後、領内各地に波及していった。 会津プロパガンダとは
会津を独善的に正義、薩長を絶対悪に仕立てた
日本史改ざん、WGIP、地域分断工作です。
会津プロパガンダ創作者とは
歴史学者でも郷土家でもない創作作家です。
団塊の世代、それに近い年配者が多いのが特徴。
脳内解決で執筆してるので、史料の提示を
求められるとキレるか、はぐらかして逃げます。
会津プロパガンダ洗脳者とは
会津プロパガンダを鵜呑みにしてる人達です。
ソースは史料ではなく、作家の作品、
会津プロパガンダを指摘する者は長州人
長州ヲタと断定して挑発、罵倒、ループ
相手の文章を改ざん等を行います。
作家の作品がソースなので史料の提示はできません、
会津プロパガンダを肯定できないのに
いつまでも会津プロパガンダを信じてる奇特な人達です。 会津は放火魔
・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村、
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より 明治2年5月11日
旧幕軍(会津含む)が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある 孝明天皇から直で守護職任命されたのは
会津プロパガンダによる嘘
孝明天皇が直で朕を守ってと勅を出したのは
萩の毛利家と水戸の徳川家 会津藩郷医江川元逸『旧記集録』
官軍方密偵(高田藩)が捕えられ
斬首された時、肝臓を切り出して
酒の肴に醤油をつけて
食べたことを書き残している。
日光口でもあったと記録にある。
この様な、内戦における憎悪の
激しい狂気が記述されている。
会津藩兵も退却する時に
民家に放火したりすることが多かったので
越後国内では次第に領民から
疎まれるようになってゆくのが
後藤平太の日記から伝わってくる。
会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の
桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を
取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」
と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。
「いずれに用するや」と聞くと
「食するなり」と言って飲みこんだと
5月9日の日記に書いてある。 会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。 見せしめの為に会津人の死体を野晒しにしたのは嘘だった!
>幕末の戊辰戦争(1868年)で
>戦死した会津藩士が
>埋葬されたとする史料が
>福島県会津若松市で見つかった。
>同市在住の歴史研究家
>野口信一さん(68)が
>2日、市役所で記者会見し発表した。
>これまでは新政府軍が遺体の埋葬を
>許さなかったとされてきたものの
>史料には埋葬の場所や経費などが
>詳細に記されており、野口さんは
>「埋葬を裏付ける貴重な史料だ」
>と話している。
嘘をついたのは誰なのか?
>太平洋戦争の終戦後に書かれた
>『会津史談会誌第33号』の
>『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には
>新政府軍の命令によって遺体の埋葬が
>禁じられたという記述がある。
終戦直後… 白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
会津歴史研究会会長の井上昌威氏の研究により
20人切腹19名死亡の嘘が覆りました。
勘違い切腹も嘘です。飯沼貞吉の回顧録に
勘違い切腹は出てきません。
そうなると疑問視されるのは飯盛山にある
隊士19人の墓ですよねw
皆さん、会津プロパガンダによる嘘
もういい加減気づいてください。
会津プロパガンダに乗っかってるのは
パヨクであることもいい加減気づいてください。
パヨクは反日です。 まともな福島県民のコメント
>私は福島県民ですが
>恨文化反対さんと同様、若松の歴史観は
>どうにかならないものかと思っている者です。
>若松の方に訊きたいのですが
>一部(と信じたいです)の若松人が
>主張する「おのれ薩長」的感覚は
>どうしたら解けるのか?
>薩長が若松人の許しを得るのは
>何が必要なのか? まともな回答を
>聞いた試しがありません。
>むしろ「いくら謝ったって許さね〜!
>とにかく俺たちは正義なんだ!」
>という考え方に凝り固まっている
>ようにすら感じます。そんなことでは
>「反若松」の論調もなかなか
>収まらないのではないでしょうか?
>同じ福島県民としては
>若松の方が一刻も早く未来に希望の持てる
>歴史観、地域感を抱けるようになることを
>希望したいものです。 >明治8年生まれの祖母に
>薩長を許してはならないと
>常に言われて育った。
>この会津人の誇りが
>私の信念に結びついている。
>薩長の中心地に幸楽苑の看板を立ててみせる。
みやぎ會津会での公演で
幸楽苑の社長が言った言葉だよ。
みやぎ會津会のHPからの抜粋です。
ただしこの内容が某掲示板に
晒されるようになると記事は消されました(笑)
ねっ、こうやって恨み節を
子々孫々伝えてるのが会津という地域なわけだよ。 >突いた刀を力づくで抜くと
>まだ突然の突きに放心状態で立ち尽くす
>長州人の背中をやおら左足で蹴り飛ばす!
>「馬鹿め薩長!wwwww」
会津新撰組まつりに参加した
阿吽記というブログから抜粋しました。
この記事は2007年のもののようですが
会津若松市では毎年やってる祭りみたいですね。
ブログは削除したようですw >会津という神話―二つの戦後をめぐる死者の政治学
>田中悟[著]
>神戸大学助教(政治学)
>[掲載]2010年4月25日
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
政治学者である田中教授が
会津で調査した事をまとめた調査書です。
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
会津では会津プロパガンダが蔓延し
会津恨人を生み続けています! 会津プロパガンダQ&A
Q:会津が京都守護職に就く際に天皇直々の指名があったのは本当ですか?
A:嘘です。そのような史料文献はありません。天皇が直々に朕を守って欲しいと指名したのは水戸の徳川家と萩の毛利家です。
Q:会津は天皇を守っていたんですか?
A:会津は京都市中の警備の元締めであり天皇の身兵ではありません。誇大解釈してるだけです。
Q:会津の武士は真面目、勤勉、実直ですか?
A:北越、北関東、東北、道南で蛮行三昧でした。長州の捕虜を虐殺した記録もありますし国土を外国に売却しようと企てた証文もあります。密貿易もしてましたし偽金も造っていました。
Q:会津戦争は恭順を示している会津に薩摩・長州が雪崩れ込んだのですか?
A:まず会津は恭順をしていません。戦争に躍起でした。政府の交渉人を拉致して会津から攻め行ってます。政府の主力軍は薩摩・長州ではなく薩摩・土佐です。長州の木戸や大村は会津攻めに反対していました。
Q:白虎隊は勇敢に戦いましたか?
A:薩摩兵に蹴散らされて逃げました。
Q:白虎隊は少年ですか?
A:元服を終えてるので青年です。
Q:白虎隊は城が落城してると勘違いして自刃したのですか?
A:飯沼貞吉の回顧録にそのような話は出てきません。自刃した人数も20名ではなく6名です。
Q:会津兵の死体を見せしめの為に野晒しにしたのは本当ですか?
A:嘘です。政府の命令はどの死体にも触るなというものです。死体は会津降伏後に埋葬されました。
Q:戦後会津人は差別されましたか?
A:されてません。むしろ政府は会津復興に尽力してます。長州の木戸や伊藤も個人的に義援金を出したりしてます。長州の前原を中心に会津人の救済も行われました。特にこの前原は会津人と仲が良かったようです。白虎隊の飯沼も長州で暮らしていました。 Q:会津の武士は領民から尊敬されてましたか?
A:会津は朱子学の影響が強く上が下を圧迫させるので領民からは嫌われてました。元来会津の武士は会津人ではありません。会津戦争中は農民が政府に協力したり一揆を起こしたりしました。
Q:会津の武士は斗南に強制送還されたのですか?
A:政府からは猪苗代でも良いとされてましたが会津は嫌われていたので猪苗代には住めず会津の山川の判断で斗南行きが決まりました。
会津に残ることや斗南以外の地に行くのも認められてましたので
斗南に行かなかった家もあります。
Q:会津の掟は素晴らしい掟ですか?
A:上が下を圧迫し思考停止にさせる戒めです。
Q:会津の武士は斗南で鳩侍と恐れられてましたか?
A:拾い食いをしてたので鳩侍とバカにされてました。そもそも鳩が恐怖の対象でしょうか?
Q:会津の武士は永久に斗南から出れなかったんですか?
A:2年で解除されました。 松前を襲う会津達旧幕軍
旧幕府軍(会津・新撰組含む)は箱館を攻め
十月二十五日に五稜郭を占領
二十七日には松前攻撃に移ります。
海から十一月一日に軍艦蟠龍が
松前湾から松前城を砲撃しています。
陸からは土方歳三率いる陸戦隊七百名が
知内、福島と占領し
十一月五日松前に入り激戦の末
松前城東方の馬形(まがど)台地にある
法華寺を占領しました。 本当は謎がない「幕末維新史」
幕末から明治にかけての戊辰戦争の影響で
福島県人(会津)と山口県人(長州)の
仲が悪いといわれるが
それは後の創作が影響している。
会津戦争のとき会津の庶民が
あまりにも官軍に協力的だったことは
司令官の板垣退助が驚くほどであった。
新撰組は京都の治安を守って
住民から感謝されていたというのはウソで
警察に雇われたヤクザようなものだった。
池田屋事件はヤクザの出入り同然で
京都市民から大反感をくらっていた。
このように一般的に語られている
幕末維新史には、のちにつくられた
創作が非常に多い。
歴史小説の影響も大きい。
そんな中、歴史分野で私の師匠にあたる
八幡和郎先生が
『本当は謎がない「幕末維新史』という
本を出版された。
小説や大河ドラマで語られるような
つくられた歴史と、本当の歴史を
整理した内容となっており
意外な幕末史の姿が明らかとなり
非常に勉強になる。 会津のまともな歴史家である野口氏が
会津プロパガンダによる嘘を指摘。
>野口さんによると昭和30年代
>郷土史を研究する地元団体の冊子に
>遺体の埋葬を禁じたことが記された。
>昭和50年代になると『戊辰殉難追悼録』に
>会津若松市長が寄せたあいさつ文で
>「埋葬を長期間許さずして
>その屍を辱めた」と書いた。
>埋葬禁止説は半世紀も伝えられ
>「周知の事実」として知られるようになった。
町ぐるみで嘘ついてんじゃねえ!! 会津プロパガンダなどない!
↓
じゃあ何でオマエのような会津プロパガンダ洗脳者がいるんだ?
↓
それは長州の責任だ!
これを日本と韓国に置き換えてみると…
反日プロパガンダなんかない!
↓
じゃあ何でオマエみたいな反日コリアンがいるんだよ?
↓
それは日本の責任だ!
どう?シックリくるだろ?w
会津プロパガンダは反日プロパガンダだから
シックリくるんだよ。 >0853 名無しさん@お腹いっぱい。
>2018/10/24 16:19:04
>南京大虐殺も慰安婦強制連行も
>731も否定する歴史修正主義者が
>会津大虐殺を否定している。
>その背後にいるのが安倍晋三と日本会議。
この書き込み内容からパヨク、チョンが
アンチ長州、明治維新の否定をしてると気づかないか?
会津プロパガンダは反日プロパガンダなんだよ。 ワロタwwwwwwwwwwwwwww
白虎隊の墓は数を増やしていたwwwwww
>飯盛山に墓がある19人の氏名
>明治17年に16人の墓が造られ
>のち23年に19人の墓となる
本当ウケるわwwwwwwwwwwww
んで、飯盛山で自刃した本当の人数は6人なわけだろ?wwwwww
>白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
>会津歴史研究会会長の井上昌威氏の
>研究により20人切腹19名死亡の
>嘘が覆りました。
>勘違い切腹も嘘です。
>飯沼貞吉の回顧録に
>勘違い切腹は出てきません。
>そうなると疑問視されるのは
>飯盛山にある 隊士19人の墓ですよねw
悲劇をでっち上げ観光化に繋げたいの
バレバレじゃんwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 白虎隊の墓は当初妙国寺に埋葬。
明治2年に改葬。
その時作られた墓は拡張され
大正15年に今の形となった。
>その時作られた墓は拡張され
>大正15年に今の形となった。
ここポイントですねw
完全に観光を視野に入れてますよねw 白虎隊の遺体は当初滝沢妙国寺に埋葬された。
『明治7年、滝沢妙国寺から改装。遺骸会葬をする。』
何故?
『明治17年8月25日、容保も参列し飯盛山にて、16士で墓を整備。』
自刃は6人なのに何で16も墓があるの?
『明治23年、23回忌で墓が19士となる。』
何で増えてるの? 石川明夫は会津出身で
会津古城研究会長
会津ユネスコ協会運営委員長
福島県会津若松市東市民センター
会津若松市教育委員会東公民館主幹
を勤めてるバリバリの会津寄りだよ。
その石川明夫が妙国寺から改葬した
当初の墓は16で後に19増やしたと書いてるんだぞw またまたパヨクが会津擁護!wwwwwwwww
>三枝成彰「徴用工に謝らない日本はクズ!
>会津は明治維新から150年経ったけど
>長州を許していないからね。」
会津プロパガンダに洗脳されてる奴は
反日プロパガンダのパヨクだらけです!www 皆さん。『三春狐に騙された』という
戯れ歌をご存知でしょうか。
そしてこれを、どういう風に
ご記憶でしょうか。
これは戊辰戦争の際、三春藩が
奥羽越列藩同盟を裏切ったとされることを
揶揄して言われてきた言葉です。
この言葉に三春の人たちは
どれだけ長い間傷つけられてきたことか。
私も、その中の一人でした。
https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/201411260000/ 会津戊辰戦争・戸ノ口原の戦い
日向内記と白虎隊の真相
富田国衛著
白虎隊は敵の襲撃で散り散りとなり
戦死した者5名。隊長以下17人は
無事に城に帰還した。飯沼氏のグループは
飯盛山にたどり着きその内、飯盛山で
自刃したのは飯沼氏を含めて7人だけ。
他は「城に帰ろう」と山をおりたが 滝沢口で官軍に遭遇して撃たれて戦死した者
「捕らえられるよりは」と他の場所で
自刃した者。無事帰還した者もいた。
飯盛山の「建碑・慰霊祭」の発起人には 白虎隊士の生き残り6人も名を連ねているが
その趣意書には「戸ノ口原に屍をさらし 生き残った者僅かに19名。全員が飯盛山で
自刃した」となっているという。
生存者も全員戦死、自刃になってしまったのだ。
これは、白虎隊の悲劇をことさらに
宣伝するための作為だったと言わざるを得ない。
太平洋戦争の映画で「全員玉砕と本部に
通信したのに、生存者がいてそれは困ると
自決を強要する」ドラマがありました。
白虎隊も「全員自刃でなければ困る」
というのです。全くアホらしい。 今までの史料文献、学者の発信をまとめると
勘違い切腹は会津プロパガンダによる嘘
飯盛山での自刃人数は7名で6名死亡
自刃20名、19名死亡は会津プロパガンダによる嘘
6名は妙国寺に埋葬されたのに掘り起こし
飯盛山に改めて埋葬した
その時墓を16建て数年後19に増やし
観光地として整備したって事だね…
会津は南京大虐殺の嘘にも関わってるし
やり方が日本人じゃないわ… 今もあるかは知らないが、会津は八重の桜記念館で
薩長兵のパネルを銃で撃つコーナー設置してたよな。
会津プロパガンダで会津恨文化。最低の町だわ。 くっそワロタwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
西川勝太郎(白虎隊の生き残り)は
通りかかった農夫に遺体の埋葬を頼みました。
しかし農夫はあろうことか
遺体から金品を盗み出します。
その農夫腕を1人の隊士が掴みました。
飯沼貞吉です。
農夫は驚き飯沼を岩山まで運ぶと
飯沼の刀を奪って逃げるのでした。
会津の武士がどんだけ嫌われてたか
よく分かるエピソードだし
西川が農夫に遺体の埋葬を頼んでる時点で
会津プロパガンダの20人切腹
19人死亡が嘘だとダメ押ししちゃってるよねw
会津は被害者ビジネスで嘘つきすぎだよwww 長州が京都に放火し天皇を奪うという計画はやはり嘘だった!
吉田稔麿や宮部鼎蔵らは
長州藩邸に集まり計画の延期と
古高奪還のために新選組屯所に
襲撃をかける事を決めました。
そして、その事を潜伏浪士達に
伝えるために同日夜に池田屋に
集まり会合を行うことを決めます。
(維新土佐勤王史)
池田屋の集会は新撰組屯所を襲撃する集会だった! 朝鮮のコピーかってぐらい、会津と朝鮮は同じだよな。
怨恨、捏造、狂言、暴力、放火まで、あまりに同じでビビる。 長州の医者山根孝仲は長州兵だけでなく
会津の婦女子も診療していた。
(会津従軍診療簿)
会津家老海老名の子孫は萩移住し
長州人の情愛を感じ
特に唐樋の白虎隊の冥福を祈る地蔵堂に感激。(萩文化昭和十五年十二月号)
(萩史料(五)三好晃太郎)
さあ、どうする?会津プロパガンダ洗脳者よw 山口県には白河踊りがあるらしい。
白河戦の後、長州兵が白河に50日駐屯し
戦没者を慰めるために踊りを覚えて
長州に帰ってからも戦没者を慰めるために
踊りを踊って現代まで伝承してるそうだ。
一方会津は会津プロパガンダで
被害者ビジネスを展開し
毎年長州人を殺す祭りを行っている。 明治3年2月、若松県
(旧会津藩領に設けられた県)
から新政府への報告書によると
「若松県下方数十里の間一円
贋金贋札製造所にて、其の筋に
関係せざるもの殆ど稀なり」
と、旧会津藩士を中心に
贋金づくりが横行していたようです。
寛永通宝のニセ金は
東北地方を中心に大々的に行われていました。
南部や仙台などでは
地域ぐるみでやっていた可能性が強いです。 長州の方がよっぽど武士道あるじゃん。
大村益次郎なんか彰義隊の死体が放置されてると知り
「私一人でも埋葬する」って言って彰義隊の死体が埋葬されてるしな。
会津なんて売国してでも戦争してやる!じゃん。
蛮行三昧だし。全然武士道じゃないよ。 死体は埋葬されていた!
埋葬の邪魔をしていたのは会津の農民だった!
明治元年(1868)9月22日の開城後
10月1日に民政局が設置されるが
2000余の会津藩士の遺体は賊軍という
汚名のもと埋葬することも許されず
腐乱するがままになったと巷間
言われているが、同月4日には
郭外に放置されている遺体を
城中の分から始め、阿弥陀寺(七日町)と
長命寺(西名子屋町)に埋葬するよう命じた
「遺体埋葬令」が出された。
(会津若松史6巻)
だが降雪と12月までに頻発した一揆のため
作業が中断されたとするのが実情で
この間「彼我の戦死者一切に対して
決して何等の処置をも為すべからず
もしそれを敢て為す者あれば厳罰す」との
会津若松での明治新政府通達が出された。
こうして阿弥陀寺1281、長命寺145など
16ヶ所に総数1634の遺体が、2ヶ月にわたり埋葬された。 会津はまだ嘘をつくのか!!
@aizu_tsurugajo
>斗南藩の生き地獄
>元会津藩士たちが追いやられた
>御家復興という名の流刑
自分達で斗南を選んで行ったのに何が流刑だ!
>南部藩の下北地方
>(現青森県下北地方)は
>元からの住民がいて
>長年に渡り居住していました。
>環境は良くなかったかも知れませんが
>「生き地獄」とまでいわれる
>覚えはありません。
>勝手に移住した人にとっては
>そうかも知れませんが
>そこが先祖代々の土地であり
>母なる大地です。
>斗南藩の話しは、斗南藩の移住者の
>視点(旧会津藩視点)で
>語られることが多いが
>移住者を受け入れた側からの視点での
>記録は少ない。あまりにも
>旧会津藩藩びいきの視点からの
>歴史が大きいですね。
下北出身の人も会津プロパガンダを指摘してるぞ!
会津は152年経ってもまだ被害者ビジネスか!! 一水会を鼓舞する会
ネタかと思ったらマジか
北朝鮮とズブズブの会津人・鈴木邦男(反薩長)の一水会にそのメンバーってどーなってるの?いや、そーゆーことか逆に…
コイツラはニヤニヤしながらお前ら駒を煽ってるわけ
第二のオウム事件を起こすなよ
発起人名簿
内外タイムス社社長・恩田貢
朝堂院大覚
有田芳生
創価学会広報室渉外部長・井上聖志
「よど号事件」メンバー・柴田泰弘
頭山興助(頭山満の孫)
宮崎哲弥(オウム事件報道でのし上がる、徳川家広の友人)
宮台真司(オウム事件報道でのし上がる、仙台生まれ) 北海道だけじゃない!新潟も会津によって外国に売られる寸前だった!
ドイツの国立軍事文書館に
会津の売国を示す文書が3通あった。
1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使
フォン・ブラントは「会津から北海道などの
領地売却の打診があった」として
本国に判断を仰ぐ手紙を出した。
会津は当時、北方警備のため、幕府から
根室や留萌などに領地を得ていた。
手紙には「交渉は長引かせることができる。
どの当事者も困窮した状況で
優位な条件を引き出せる」と記されていた。
この「北海道など」の「など」に今の
新潟県東蒲原郡(当時会津藩領)も含まれている。 束松事件
明治2年に起きた会津人による
民生官暗殺事件である。
会津の武士の中には徒党を組んで
強盗をやるような不逞の輩も出た。
なかには偽金を作製し流通させていた者も発生した。
従って時の政府は取締りを強化するところとなった。
鋳造した偽貨幣を取締まる民政官として
会津に派遣されて来た越前福井の久保村文四郎がいた。
彼が任期で交替すべく越前に帰る時
会津の伴百悦、高津中三郎は
束松峠で彼を襲撃惨殺したというのだ。
これが世に言う束松事件である。 会津は領地を青森県東部か猪苗代か
選択することができた。
会津士族の中には猪苗代での再興を
主張する者が多かったが
青森県東部で再興する選択を選んだ。
会津が青森県東部を選んだ理由は
領民に重税を課していたため
領民から恨まれて会津世直し一揆を起こされ
猪苗代での再興は難しいと判断したからだ。
また会津は多額の借金があり
更には偽金を作り、ハイパーインフレを起こして
領内の経済をボロボロにしていたことも
青森県東部に行く理由にもなった。
つまり長州による強制連行、流刑は
会津プロパガンダによる嘘である。 星亮一が河北新報に「検証なし」「会津今も苦悩」って書いてるのを
削除板で暴れてた星が主催する会の岡山おばちゃんがツイートしてんだけどwww
つか、この岡山おばちゃん「私の本名が出てる!」ってファビョってたけど
削除板でもTwitterでも自分からフルネーム晒してるじゃんwwwwwwwww >戊辰戦争で戦った長州藩(山口県)と
>会津藩(福島県会津若松市)の人々。
>今も根深い遺恨があるとされる中
>両地域が未来への建設的な関係を
>築くために何が必要か、考える。
根深いんじゃなくて会津プロパガンダによる被害者ビジネス。
未来への建設的な関係を築くなら会津プロパガンダをやめ山口県に謝罪しろ!
会津プロパガンダの嘘はバレてんだから。 世良の「奥羽皆敵」の手紙は会津による工作だった!!
会津藩より世良修蔵の偽手紙をこしらえて
大山格之助へ遣わす途中、仙台人が
この手紙を見たところ、仙台を滅ぼすとの
文字があった。仙台は藩を挙げて怒り
どうせ滅ぼされるなら、会津に与して滅ぼうと
ついに世良を殺して、奥羽諸藩と連合したのである。
世良の暗殺は、仙台藩が一向に本気で
会津攻めを行おうとしないことに
立腹した世良が、秋田に転戦していた
同役参謀大山格之助にあてた書簡に
「奥羽皆敵と見て」と書いたことを
仙台人が知り、怒って殺害したというのが通説
(『仙台戊辰史』など)である。
だが、この大村書簡によると
明治元年九月の時点で仙台藩は「世良書簡は偽造だった」と認めていた。大村は、仙台藩の
嘘(偽造を会津の手によるものとした)
とみて、憤慨したものらしい。
大村益次郎研究家 山本栄一郎 白虎隊士中二番隊は37人いて
17人は隊長日向内記とともに
城に戻っているのです。
(日向内記と白虎隊の真実)
つまり日向隊長が1人で
食料調達に行ったというのは
会津プロパガンダによる嘘。
会津プロパガンダの嘘によって
日向は叩きまくられ
子孫は名乗ることすらできなかった。
飯沼貞吉の話は逃げ回っていただけで
戦って戦死者が出たことは語られてない。
飯沼貞吉のグループこそ
本隊とはぐれたメンバーの可能がある。
本当会津人はろくでもないわ。 >薩摩・土佐を中心とした新政府軍が
>会津へと迫る中、会津藩家老・西郷頼母は
>どう見ても勝てぬ戦と悟り、松平容保に
>降伏を進言するが、容保は徹底抗戦の構えを
>崩すことはなく、西郷の言葉は
>聞き入れられぬまま新政府軍との戦いが始まった。
>会津は、鳥羽伏見の戦いの後、軍の体制をフランス式に変え
>精神論ではなく戦力を重視するようになる。
あれ?会津プロパガンダではろくな武器も買えない中
武士道、魂で戦ったと発信してなかった?wwwwwwww 会津は悪政を敷き領民から嫌われていた。
他国に派兵し戦域を拡大し徴発行為を行って
恨みを買った。自国の領民に対しても民家を
敵に使わせないとして平気で焼き払い民衆の支持を
失った。
官軍側は、会津の領民が進んで官軍に協力し会津兵を
ゴミ同様に扱うことに驚いている。後の民権運動の
指導者的存在になる板垣退助は、このことがショックで
民権運動に傾倒したと語っているほどだ。
捕虜に対し五寸釘を打ち込んだり虐待行為や鳥羽伏見
で生首を掻き切り持ち歩くなどの蛮風も多い。
敵兵の内蔵を食うなどの猟奇的な行動も報告されている。
大人は安全地帯にいて少年兵を前線に出したり指導者
は温々と米の飯を食らって子供や婦人には水のような
粥を出しておきながらそれがおかしいとは思わなかったと
後に陸軍で大将にまでなった会津出身の軍人が述懐している。 会津の嘘もバレたんだし山口に謝って萩と姉妹都市になれば?
↓
いや、姉妹都市になっても遠いから交流とかできないじゃん。
会津若松市は山口よりはるかに遠い中国・荊州市と友好都市です。
喜多方市は中国・宝鶏市と友好都市で
昭和55年より中国からの農業研修生の受入事業を実施していました。
山口とは遠いからと嘘がバレても謝って友好関係拒むくせに
山口よりはるかに遠い中国の地域とは友好結んでる会津はマジで下痢便。 会津プロパガンダに洗脳されて恨文化の会津
帰宅。帰りのタクシーの運転手さんが会津若松出身のおじいちゃんで
「ホントに山口とか鹿児島と仲悪いんですか」
「あーーだぁめだよぉ、薩長土肥は全部だめだよぉ」
リアルの会話で薩長土肥って初めて聞いた
22:59 - 2019年10月9日 会津松平家は毛利家(本家)を手本にしていた
中村武生(京都女子大非常勤講師)
松平容保の「外国公使館の建設反対」と
「現条約の破棄と新条約の締結」に注目したい。
実はいずれも毛利家の主張と同じなのである。
「現条約の破棄と新条約の締結」
毛利家の要人周布政之助による一書がある。
「攘は排也、排は開也、攘夷して後、国を開くべし」
ここにはっきりと「攘夷し、のち国を開くべきだ」
と述べている。容保の意見と同一といえる。
「外国公使館の建設反対」
文久元年2月27日(1861年4月6日)
公儀の提案を英国公使
ラザフォード・オールコックが受け入れ
品川御殿山に建設が決定した。
これに毛利家家臣は反発した。
容保の建議から3カ月後の
12月12日(1863年1月31日)
高杉晋作や久坂玄瑞らによって
この公使館は焼き討ちされたのである。
どうして容保は毛利家と同一の意見を
持つようになったのであろうか。
実は毛利家から情報を得ていたのである。 つづき
京都守護職に任じられた容保は直から
京都に家臣を送り、情報収集を行わせていた。
その一人である秋月悌次郎が
容保の建議の前月である閏8月に
長州の桂小五郎に書簡を宛てている。
それが複数残されている。
同月4日付には「このたび主人(容保)が
大任を命じられましたが
いまだ修行中の身なので家来に
人材がいないとはいえ
とても当惑しています。お察しください。
つきましては京都の事情をはじめ
良いお考えがあられましたら詳しく
拝聴いたしたいのでどうか心に
思っておられることを包み隠さず
ご教示願いたいです」とある。 つづき
ついで、同16日付の書簡によると
秋月は前日に桂に会えたようで
「親切なご論議を拝聴できました。
感激の至り」と謝している。
桂から、公儀役人が威を張り
大きな害のあることが示されると
秋月は桂にそれを文章にしてほしいと望んだ。
書簡には「そのまま主人(容保)へ示し
きっと説得しますので、どうかお願いします」
とある。桂から学んだ情報を秋月は
そのまま容保に伝えようとしているのである。
その後も2人は何度か面談した。
同月21日付の書簡に、秋月が
「主人(容保)は御殿山について取り払う
(廃止する)ように運ぶ予定ですので
ご相談したいです」と述べているのは注目に値する。
御殿山の各国公使館の建設反対について
桂から学んでいることが知れるのである。 柳澤って会津のおじいさんがモロ会津プロパガンダなんだが…。
会津の嘘はもうバレてんのにまだこんな事言ってんだなw
150年て昔じゃないんだってさ。
会津は一切合切失ったって言うけど会津に住んでるのは侍だけじゃないし
侍は領地変えられただけだし、その領地選んだのは会津人だし
その領地からは2年で解放されたじゃん。
会津若松よりは石高はない土地だけど昔も今も人が住んでるのに
とんでもない所に強制連行されたみたいにアピるよなw
斗南の人に失礼だと思うんだけど。
それに会津は外国に国を売ろうとしたり各地で蛮行三昧だったのに
会津は足を踏まれたとか言ってるよwwwwww
この柳澤ってのはパヨクなの?
山口に対しては会津プロパガンダで恨み節だが
日韓関係は改善したがってるよね。
https://toyokeizai.net/articles/-/356237?page=2&ismmark=a 先の大戦を否定するつもりはないが
軍上層部に東北・北越閥が形成されて敗戦してる。
やっぱ東北人・北越人が牛耳るとダメ。
■陸軍
板垣征四郎(盛岡)陸軍大臣
東條英機(盛岡)総理大臣・陸軍大臣・参謀総長
畑 俊六(会津)陸軍大臣
小磯國昭(新庄)総理大臣
石原莞爾(庄内)陸軍中将
今村均(仙台)陸軍大将
■海軍
米内光政(盛岡)総理大臣・連合艦隊司令長官・海軍大臣
及川古志郎(盛岡)海軍大臣・軍令部総長
山本五十六(長岡)連合艦隊司令長官
南雲忠一(米沢)海軍大将
嶋田繁太郎(江戸)海軍大臣・軍令部総長
井上成美(仙台)海軍大将 都道府県PCA キャプション付き
https://image.prntscr.com/image/VF_Zm8kHRUKPzzikxtjj7Q.png
鹿児島 (沖縄に向かっている)
青森・岩手 (アイヌに向かっている?)
奈良 (韓国に向かっている?)
アイヌ
↑ 沖縄
北東北 ↑
南東北 南九州
北海道
関東
中部 北九州
中国
四国
近畿
↓
韓国 >>789
それは別の市長が決めたものだろ
バカじゃないの? すいません。会津の戊辰戦争後の転封につていですが
「猪苗代または斗南三万石」
の選択は本当だったのでしょうか?ネットを漁りまくりましたが
一次資料が無いとか、言われていて…ただ、会津だからなぁ
それに都合が悪ければ10人に満たない当事者連中は黙るだろうし…
とも考えています。もっとも古そうなのが
官省指令留一ノ二号の中の「元斗南県士卒族御救助之儀ニ付願」
という文章の中の
「乍恐土台移住云々ニ付不得其宜儀ニモ為在候処ヨリ今日之
事情ニ立至リ居候儀ニ付普通ノ理論ヲ以処置難仕情実モ有之候」
が 暗示 らしいですが。それ以降となると故秩父宮殿下が
昭和11年に斗南の跡地を訪れた際に地元の代表が説明した
言葉らしきものが出典らしい…とありました。 そんなことも知らないで日本に住んでんのか?
本当に長州信者は阿保だな >>795
確証バイアスって知ってるか?w
五十六は確かに怪しいが >>803
効いてるね
バイアスって言えばいいと思うなよm9(・ω・)バーカ 慶喜公伝は一級の幕末資料であれまで叩くのは歴史が嫌いな人だろう
膨大な伝記や自伝というけど栄一本人は聞かれて語っただけで本人は出版する気もなくという感じだな
岩波の雨夜譚も昭和59年だからな需要が合って供給されたといったとこ論語と算盤は伝記というよりビジネス書
栄一の伝記書いてるのは弟子や孫だったり商業作家だったり栄一の膨大な資料は孫の敬三が残して近代史の資料になってる
敬三は民俗学やってて日銀総裁の時には田中啓文の古銭コレクションを預かってそれは貨幣博物館にある
幕府が欧米列強のカモじゃなかったとか現実無視もいいとこだな
お前が個人的に嫌うのは自由だが栄一の慶喜公伝が一級の歴史資料なのは事実だからしょうがないね
あれで幕末描いてる作品どれだけあるだろうかというほどだよ
Web上でも見れる栄一の伝記資料は孫の敬三が栄一の伝記を作ろうと思ってたが
これは全部そのまま残すべきものだ彼が判断して残したもので膨大な量なのでそのまま資料館になったとか 会津は糞
東北・北越を巻き込んだうえに足まで引っ張った
負けてからはプロパガンダやってやがる >>809
会津は国土をプロイセンに売り飛ばそうとしたけどね >>812
いつの時代の話しに嘘交えて発信してんだ?って言い返されるぞw >>813
やっぱり会津プロパガンダ側はパヨクかw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています