今回はナチス・ドイツの迫害下から逃れてきた2万人のユダヤ人を助
け、
しかも「占守島の戦い」でソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与えた帝国陸軍の名将
「樋口季一郎」についてです。
現在の兵庫県南あわじ市阿万上町で、父奥濱久八、母まつの5人兄弟の長男とし
て生まれました。
11歳の時両親が離婚し、母まつの阿萬家に引き取られてお
り、
18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になりまし
た。
大阪陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校に進み、優秀な成績で卒業、陸軍大学校
を経て、
高級軍人となってからは主に満州、ロシア方面部署を転々とします
が、
1938年3月、ドイツからシベリア鉄道経由で約5000人のユダヤ人難民
が、
ソ連と満州の国境の駅、オトポールに集まりまし
た。
国境を挟んで満州側には、満州里の駅があったので、ユダヤ人たち
は、
満州経由で上海へ向かいたかったのでした
が、
満州国外交部は、友好国ドイツへの配慮からユダヤ人の入国を拒否しまし
た。
このため、ユダヤ人避難民達は、満州国境まで来て足止めを食ら
い、
オトポールの駅で野営生活を強いられてしまい、しかも満州国境の3月
は、
寒さが厳しく食料もなく彼らは凍死寸前でした。
そこで、ハルビン在住の極東ユダヤ人協会会長、アブラハム・カウフマン氏の要請
により、
樋口少将が満州国外交部の責任者と会って説得しました。
一方で、樋口少将は、南満州鉄道の松岡洋右総裁に救援列車を要請
し、
12両編成の列車13本が、行き場を失ったユダヤ人救出のため出動したと言われ
ています。 
この救出劇は当然のように、ドイツ外務省より厳重な抗議を受けてしまいまし
た。
そんな中、当時の参謀長、東条英機中将が、樋口少将を参謀本部へ呼びつけまし
た。
そこで樋口少将は、東条参謀長に持論の正当性を熱心に説明したとこ
ろ、
なんとそれは東条参謀長に受け入れられ、樋口少将の行為は不問に付されること
となったそうです。
ちなみに、樋口の奔走で、難民らは、地元商工クラブや学校へと収容され
た。
この最初の救出作戦で受け容れられたユダヤ人の人数は、100から200名程度
の少数だそうですが、
その後1941年半ば頃まで、この「ヒグチ・ルート」は存続し、満洲国外交部は難民
を受け容れ続けたので、
一説では救出された数が2万人という数字が主張されていま
す。
(ただし、早坂氏の調査では、上記のように、恐らく5000名が最大の数字だそう
です。)
この救出作戦だけでもすごいのに、占守島の戦いでは、日本軍人による推定値とし
てですが、
ソ連軍に死傷者、3000名程度の損害をあたえています。