【派閥】統制派vs皇道派・条約派vs艦隊派【抗争】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
派閥抗争で優秀な人材を失った陸海軍。結果開戦時の軍首脳部は
とんでもないメンツで挑まざるを得なかった。永田鉄山や堀悌吉がいたら
違った結果になったのでは 組織の存在と、キャリアを傷つけないための戦争。
そして盛り上がる国民…。
こえええ〜(((((((( ;゚Д゚)))))))) 結局国益より自身が属している組織を優先してしまう悲しい性を
もつのが日本人 東條でなくて永田だったら、嶋田じゃなくて堀や山梨だったら
どうなってたかな う〜ん、そういうトップも大事だが、そういう人を支持する人がどれくらいいただろうか?
そこも気になる…。 1940 nen niwa kaigun syoogun wa [taibei sensoo wa sinai] to itte ita yo.
1941 nen ni sensoo zyunbi meirei ga deru to sireikan wa sore ni sitagatta.
kaigun wa kokumin wo damasita. 派閥なんてどこの組織でもあるだろうが
明治の陸海軍でもあったのかな、あんまり聞かないけど 永田じゃなくたって今井や山脇にやってもらえば中々変わってくると思うけどね >22
明治の陸海軍は、派閥という以前に長州閥・薩摩閥があまりに強力だったから… で、そこから漏れた非薩長系が実務ポスト占めて昭和に実権を… 統制派と皇道派って、要は革新派と保守派の戦いだったんだよね 統制派も改革派だよ。統制経済を推進したのは
統制派。 残ったのが陸軍は東條・杉山、海軍は嶋田に及川・永野だもんな
派閥争いのよって有能な人物が軍を追われたのが痛いが
結局の所その後の史実はあんまり変わらなかったのかな でも派閥争いでクビ斬られた有能な人材って一体誰がいるんだろうか。
クビじゃなくて背中斬られた人間なら永田がいるけど。。。
去年中公文庫で復刻された「軍国太平記」は、なかなか面白かった >>30
クビにするのは無理なんで若手や中堅将校なら陸大やら隊付に回されるんじゃないの?
で戦史やら軍内の抗争に直接関与できないから名も残らんから、実際のポテンシャルや考え方なんかも分からないまま。
その辺りは現代の企業内の主導権争いと同じなんじゃないかと思う。 >30
海軍だと山梨勝之進や堀悌吉なんかを予備役にした大角人事が一番ひどかったんじゃない?
山本五十六は「海軍にとって、巡洋艦戦隊と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか」とまでいってたし。 永田が暗殺されたのって陸軍省内じゃなかった?それなのにこんな事件が簡単に起きてさ
226だって、呆気なく終ったって誰か書いてた
優秀な人を生かせないわ、危機管理が足りないわ、組織の問題って今の日本にも通じるよね
明治の軍人は薩摩長州派閥!
昭和の軍人は東北出身者がずらり!
東條、山本に石原や板垣もみな東北出身者。
ここがあの戦争を解く鍵!
東條英機は、父英教が陸軍大学校を主席で卒業したのに賊軍藩出身故に
藩閥人事の犠牲となって中将で退官したことを憤り、父の無念を晴らすべく
藩閥打倒に全力を注いだ。いい話じゃないか。 >>36
省内の執務室だったかな。
色んな規律が当たり前にあって、当たり前に守られると信じられていただけに陸軍内は動揺した。
それは226事件でも同じで、その動揺が陸軍内の疑心暗鬼と派閥抗争を更に進めしょうもない観念ばっかり説いてまともに戦えない軍隊になった。
たらればの話になるけど永田が生きていれば少なくとも陸軍は軍内の粛清はあっても荒木やら宇垣があれほど政治的に大きな存在にはならなかっただろうな。 >>30
実質的にクビみたいな形になったのは小畑かな?
あと皇道派重鎮で唯一残っていた鈴木が東條にクビ切られた
それがショックだったのか鈴木は数ヶ月後に死亡
>>39
永田は政務家としては有能だったかも知れないが軍事戦略家としては大したことない
南進論をぶち上げていた時点で戦略眼がまるでないのがわかる
そして史実は彼と対立していた小畑の言っていた通りに進展して日本は破滅してしまった
よって永田が生きていても歴史は変わらなかったろう
むしろ皇道派が権力を握っていた方が歴史が変わっていた可能性はあったと思う
真崎にしろ小畑にしろ対米戦は絶対反対の立場だったからね
国力も違い補給も続かないのだから勝ち目はないと彼らはわかっていた
何かと評判の悪い真崎だが少なくとも戦略眼では永田よりはるかに上だと思う
永田や東條のような軍人の皮を被った小役人が日本を破滅に導いたんだよ 昭和に名将なし。幅を効かせたのは参謀畑の人間ばかり。 だいたい永田は過大評価されすぎだろ
実戦や作戦立案の経験もない軍政畑の人間だぞ?
要するに東條と同じただの事務屋
その事務屋がちゃんとした軍隊なんか作れるわけがない
実際永田は総力戦がどうの言っていたけど具体的に何かしたか?
陸軍の自動車化を推進したわけでもない航空部隊を育成したわけでもない補給能力を向上させたわけでもない・・・・いったい何したんだ?
結局は実際の戦争が全くわかっていない事務屋に過ぎなかったってことだ 226の時にしろ統帥権干犯の時にしろ事件に便乗してポスト狙った皇道派がまともって… 少なくとも永田東條一派よりはまともってことでしょ
皇道派は荒木にしろ小畑にしろ第一次大戦を自分の目で見てきたからその差だろう
だいたい大戦末期の満州での対ソ作戦なんて昭和の初めに小畑と鈴木が考えたものだしな
当時とは装備も情勢も違っているのにそのまま変更一つしなかったのが信じられん 今から40年前というと1971年
1941年の40年前というと1901年
感覚のズレが大きかった
軍人だけでなく政治家も臣民も
それでも赤紙が来れば「三八式」に銃剣をセットし敵陣に突っ込む
時々、南方戦線へ行った夢を見る
皇道派では小畑が異質だな
荒木、真崎にも臆せずものが言えたようだし(彼らも尊重してた)
226後予備役に退けられたがちょっともったいなかったかも? 戦後にな
降伏調印に出るのを渋っていた梅津を怒鳴り付けたとか >>48
>皇道派では小畑が異質だな
ほかの陸大の秀才が平民出のなか、小幡だけが男爵子息だからな。
無論、小幡男爵は兄が次ぐにしろ、平民エリートとは異なった視点
で行動できただろう。 陸軍と海軍が戦争しながら
陸軍・海軍のそれぞれ内部でも戦争しながら
中国と戦争しながら
その片手間にアメリカとイギリスに戦争を挑む
よくこんな無茶苦茶やったなあ
国が滅ぶと皆分かってたろうに、指摘したらKY呼ばわりされるし 永田は横死したため評価は難しい(坂本龍馬のごとく)
残された遺稿をみると満州国の日本による内部指導は速やかに打ち切るなど
(現在からみると対外的にみれば当然の結論だが、政治家、外務官僚、軍人の一部)
実行出来るかはその時の政治力学で決まる
ただ日中全面戦争を回避出来るだけの影響力は有ったんでは?
小畑と対立したのは行き掛かりとはいえ(目的は一緒でも戦術的な対立)
融和できる余地は有ったと思う Hull Noot wo ronzuru hituyoo ga aru. >>56
そもそも中国をボコしようと言い出したのが永田
だから仮に存命でも戦争になっていただろう
小畑ともその点で決定的に対立することになった
基本的に皇道派は親英米で(荒木や真崎が戦後に自分を親米派と言ってたのは別に間違ってない)ドイツかぶれの統制派とはこの点も違う
>>57
鈴木率道 ヨーロッパでは本来貴族の子弟が行く幼年学校や士官学校に
日本では官費だからと貧乏人が殺到したのが悲劇を生んだんじゃないか?
幕府が残っていて近代化したらヨーロッパ方式になっていたと思う。 真崎が軍司令官からいわば二階級落ちの参謀次長(格は師団長以下、実質的な権限ははるかに強い、格を維持するためか軍事参議官兼任)
に就任して人事に関与し最初にした事
・少将昇任直前の小畑を(今村を追いやって迄)二度目の作戦課長に登用
・小畑、永田を少将昇任と同時にそれぞれ第三、第二部長にした(本当は第一にするつもりだったが小畑が固辞)
・後任作戦課長は中佐の鈴木率道(小畑の教え子で腹心)を抜擢
結果は参謀本部の中枢である作戦関連は主管の第一部長古荘でなく小畑が中心になってしまった
永田も元々は真崎を担いだ方だがこれはと思ったんだろう 適切なリーダーシップが存在しない組織は最悪の結末に終わる >>63
江戸幕府の時代から責任の所在を明らかにしないで
なぁなぁで済ませるのが日本文化だからなぁ >>60
幕末の旗本の体たらくを考えれば、それで良くなったとは思えない 小畑って経済とか国際関係とか全然考えないで
作戦一辺倒でソ連やっつけたる!!!
って感じの人間だと思ってたんだけど違うんかね。
そんなんでソ連とやり合えるのかな? >>67
小畑は伝統的な仮想敵ロシア(当時はソ連だが)論者
それに備えるには総力戦体制が必要で、積極的な北進論を除けば永田と同じ
仲違い状態になったのは両雄並び立たずということだろう >>68
いやそれは違う
小畑の作戦を見ればわかるが彼の考えていたものは少数精鋭の部隊による内線を利用した各個撃破戦術
またソ連との全面戦争は想定していなく一撃を加えて南進の意図を挫くというもの(予防戦争)
総力戦体勢による大動員など全く考えておらずソ連との戦争もあくまで局地戦に止めるという考えだった
ソ連との早期開戦を主張したのも時間経過とともに戦力差が開いて内線作戦が破綻することになるから
小畑と永田の違いは単純で前者は日本の国力で総力戦体制は無理だと思っていたのに対し後者は無理矢理でもそういう体制にしようとしたこと
しかしながら永田がそう思っていても現状では不可能・・・・だいいち金がない
ではどうするか?そうだ支那から分捕ればいいじゃないか!・・・・というわけで日本は泥沼の日中戦争に突入することに
おまけにアメリカが介入してきてどうにもならない状態に陥る
そしてこれらのことは小畑が予想していたこととほぼ同じになってしまったわけだ >>69
資源がないという現実から局地戦か満州・河北確保かの選択肢が出てきただけでどっちも都合の良いステップ組み上げただけの空想だという。
両者ともあまりにも見通しが甘いw >>69
つまりそれって
永田は支那一撃論者で小畑はソ連一撃論者だった。
その意見の食い違いで喧嘩別れしちゃったってこと? >>71
永田も小畑も満州の日本権益を維持することが最重要と考えてた
小畑は戦術的にも最大脅威の対ソ連に予防戦争も辞さずという立場
永田はそこまで強硬でなくむしろ専守に徹し満州国内部の充実が優先と考えてた
(遺稿によれば支那本土と事を構えることになれば欧米列強の干渉が必須だと懸念してた) >>71
永田は対ソ持久戦争論者で支那資源の確保が必須。
小畑は対ソ短期戦争論者で支那には不干渉方針。 小畑はアメリカは必ず通商破壊戦をやってくる(そして日本にとって致命的なものになる)と言い当てたりしたしねえ
門外漢の予備役陸軍将軍の方が専門家であるはずの海軍の連中よりよっぽどわかっていたというのが何とも皮肉 軍人って、基本的に「戦術を研ぎ澄まして敵軍を打ち負かす」ことに全神経を注ぐから、
経済環境をどう整えるかとか、敵対的な相手とどう上手く距離を取っていくかとかの
微妙な駆け引きとか調整が必要な作業はそもそも向いていないんだよな。
そういうのは本来、経済官僚や外務官僚なんかが利害得失を勘案して政策を練って、
それを大臣や首相に働きかけることで国家としての政策が決まっていくものなのに、
軍人達が自分たちが「省益」を拡大するために好き放題していった結果、
軍事力を使って金をドコドコ注ぎ込みながら、経済的利益を得られる環境を
ボコボコに破壊していくという訳が分からんことを営々と行うハメになった。
朝鮮にしろ台湾にしろ満州にしろ中国租借地にしろ、軍事力を背景にして進出していくのに
必要な経費と経済基盤を造るために投下支那家りゃならなかった資本の額とは、
そこから得られる利益と比べものにならないほどでかかった。
結局、軍人の勇ましい自己満足のために国家を傾けたというだけのことだったよな。 第一次世界大戦のドイツでもヒンデンブルク、ルーデンドルフらを中心とした対露派と
ファルケンハイン、ゼークトらを中心とした対英仏派とで激しく対立してたんだよな。 >>35
大角人事は伏見軍令部総長宮の圧力なんだよな
日本の海軍を右傾化させたのは宮様なんだよ >>76
当時の書籍を読んだら分かるけど、軍事費の削減を訴えて軍縮条約
に賛成している人間でも「満蒙の特殊権益の維持は絶対に必要」という
立場が多い。
要するに当時の日本における「大陸権益の維持」は戦後で言えば一時期
の「憲法9条を守れ」と似たようなもんだったのさ。 >80
それはよく分かる。
日清・日露の二つの戦争を経てきているから、これを手放すという行為は「戦争の死者への冒涜」みたいに
見られてしまうものだから、うかつなことを言うと周囲から一斉につるし上げを食いかねなかった。
大東亜戦争という痛い教訓を経て手に入れた「憲法9条」というのは、押しつけという性格に目をつむりさえすれば、
「戦争にはもうコリゴリだ」という気持ちの強かった国民にとっては、9条を守ることは戦死者への慰霊・鎮魂であり、
9条の放棄が「戦死者への冒涜」という感覚で捉えられたのと、似ている。起こった現象としては真逆だけど。
どちらも強烈な「観念論」であって、現実の国家運営の利害得失や損得勘定を超えた処に位置しているという意味でも
欲にてるっちゃよく似てる。
ただ、戦後の日本政府は9条という「錦の御旗」を高々と掲げながら警察予備隊→自衛隊という抜け道をちゃっかり確保して、
なおかつ在日米軍という後ろ盾をしっかりと手元に引き据えながら国家運営を行うだけの賢明さを持ってはいたよな。
国民には「核密約」という重要な取り決めを隠しておき、後世の批判を浴びることを覚悟しながら「平和の維持」という
最重要点な国益を守ることを至高の価値として、国際社会の荒波を乗り切るという難しい国家運営を行った。
その辺は、戦後日本という国家の「凄み」を体現しているし、手痛い教訓をきちんと活かした政権担当者としての
見識や器量をこうした部分に見いだすことが出来る、と思う。 海軍少佐だった石丸藤太はロンドン条約調印時の海軍内部における
条約反対の声を「三百代言」と厳しく非難したり、最終的な軍備全廃
を唱えたりとか、当時の軍人は今の自衛官よりよっぽど自由に意見
が言えたんだな。 >>79
大角人事と荒木人事が省主導を崩して日本を破滅させた?
それだと硬直した人事をした方が正しいってことかな? >83
それまでの人事慣行が硬直していたと判断するかどうかは人によるけど、
仕事をこなせる力量を持っているかどうかで判断するのではなくて、
トップが自分の気に入ったヤツを要職につけてしまうという体制が取られることで、
結果として事務仕事が滞ったり必要な改革が頓挫したりするのはまずいだろ。 大角が条約派の俊英たちを馘首したのは確かだが
彼自身は特別反条約派というわけではない
どちらかというと定見を持たず調整型か?
日本の組織では内部抗争が激化すると応々にしてこういうタイプが浮上する 大角人事は満州事変における内閣の命令に服さなかった条約はを狙い撃ちしたもの。
大角はもともと中間派で派閥抗争を苦々しく思っていた >>35
確かに酷かった。あの時米内・山本・井上も予備役にできていれば海軍は一枚岩で対米戦が戦えたのだ。実に惜しいことである。 伏見宮人事が良い悪いありますけれども、
結局最後はアメリカと戦ってそしてボロ負けする運命なのです。
あぁ悲しきニッポン。 宮様は結局は双方に利用されただけだな(多くは艦隊派だけど)
それと別に嶋田は個人的にもお気に入りみたいだが・・・ なんだかんだいって皇道派は戦上手の作戦家が多い。
対ソ予防戦論者で日中戦争反対対英米戦不可で作戦畑の人間が多かった
真崎・小畑・山下あたりが主導権を握っていたらまた違った歴史になったのでは
なかろうか。
山下・柳川平助などは皇道派として敬遠されつつも実際に太平洋戦争で戦果を立てている。
ただ沿革的には皇道派は薩摩肥前派の末裔にあたる。
陸軍の薩長土肥のうち当初陸軍を牛耳ったのが最大勢力の薩摩閥(西郷・桐野など)
だが、明治六年の政変で西郷・桐野・篠原などが大量辞職して以来、長州の陸軍として
長州閥が跋扈する。土佐は既にたいした勢力をもっていない。のちに長州閥が衰えて
消滅するが、それに対抗して上原率いる薩摩閥は宇都宮率いる肥前佐賀閥(左肩党)に
代わられていた。宇都宮の後を継いだ佐賀閥のドンが真崎で大分を除く九州閥と
土佐系を率いていた(皇道派)。 皇道派に作戦に長けた野戦指揮官として有能な人材がいたというのは事実ではある。
だからといって彼等が主導権を握っていたらという推論には必ずしも頷けない。
好戦的で勢力拡大主義的な考えの持ち主は皇道派にも相応にいたし、
なにより2・26事件で暴発するに到った陸軍内での皇道派の追い詰められっぷりは
彼等と対立した永田らが悪辣だったからと云うよりも、彼等の自業自得によるところが
少なくないように感じるからだ。
永田を暗殺した相沢三郎の行動を「義挙」として肯定的に捉えて、
裁判の場で彼を擁護するような言動を取っていた皇道派のやり方に対して
陸軍の大勢が彼等を批判するようになっていったのだから。 小畑は前にも書いたが派閥を抜きにすれば能力からして使いようは有ったはず
山下は派閥抗争に関係なく順調に出世してきたのだが
永田の後任の軍事課長になってから巻き込まれた
226の時の軍事調査部長(陸軍広報の元締め)の時の行動は右往左往でいただけない
その後は人事面で冷や飯
部内で東條のライバルとみなされたのも大きい
小畑と同じでちょっともったいなかったかも? 小畑の場合は永田との対立が先鋭的だったし、一方の永田がああした形で死んだ以上、
釣り合いを取る意味でも中央復帰は難しかろう。
派閥を抜きにすればというのは一言で云うのはは簡単だけど、
それがそう簡単にできるのならば苦労はない。
もしそれが出来たのならば2・26事件だってそもそも起こらなかったともいえるし。
山下の場合は、2・26事件時の言動からすれば、皇道派の青年将校へのシンパシーが
かなり強烈に感じられるので、あの事件がああした終息を迎えた以上はやむを得ないんじゃないかな。
有能だったろうとは思うけど、対立する一方の側が殺されるというところまで進んだ派閥対立だし
生き残った側(統制派)の方が敵対者に過度の報復を行うのを自制しただけでもめっけもんだったと
言えるんじゃないかな。
永田と渡辺錠太カは殺されたし、片倉衷は実際に撃たれてる。
武藤・東條・辻あたりも、皇道派のクーデターが成功してたら殺されていて可能性があることを考えれば、
真崎や荒木といった首魁が死刑を免れたのだけでもめっけもんだと思う。 総理大臣:荒木貞夫
陸軍省
陸軍大臣:永田鉄山
陸軍次官:前田利為
参謀総長:小畑敏四郎
参謀次長:橋本虎之助
軍務局長:梅津美治郎
教育総監:渡辺錠太郎
航空総監:徳川好敏
兵器局長:原乙未生
海軍省
海軍大臣:堀悌吉
海軍次官:山梨勝之進
軍令部総長:米内光政
軍令部次長:井上成美
軍務局長:山本五十六
艦政本部長:小沢治三郎
航空本部長:塚原二四三
連合艦隊司令長官:高須四郎 関東軍
総司令官:樋口季一郎
総参謀長:岩畔豪雄
参謀副長:秋草俊
北満州方面軍
総司令官:山下奉文
総参謀長:石原莞爾
第1軍司令官:柳川平助
第2軍司令官:岡村寧次
第3軍司令官:本間雅晴
第4軍司令官:今村均
北部方面艦隊
司令長官:山口多聞
参謀長:大西瀧治郎
陸戦隊:安田義達
この面子で対ソ戦やったらどうなる? 山下がマレー、シンガポール攻略司令官の時に
参謀だった辻政信の人事考課では敢闘精神は認めつつも権限逸脱、独断専行に過ぎるとして低い評価
以前から彼の人事考課はほとんど同一なのに重要なポストを歴任続けたのはどうしてなのか?
山本五十六の言として会った後「あんなのをのさらばしてるから陸軍は駄目なんだ」と幕僚に感想を述べてる 首相が荒き貞夫という時点で詰んでます。
対ソ戦を行うとしたら、武力戦という意味合いよりも、政治・外交・宣伝戦の
側面の方が重要性を増すはずなので。
どの国と手を組むのか、戦争開始の大義名分は何か、攻勢終末点をどこに置くのか、
占領地域の統治をどのように行うのか、などの難しい問題の解決が求められるけれども、
高橋是清あたりに「要するに荒木君は何をしたいんだね?」とか言われてしまうような
智恵のない男にはなにも期待することが出来ない。 >>95
二・二六事件が起きてないという前提なら
総理大臣:斎藤実
外務大臣:幣原喜重郎
駐米大使:斎藤博
駐英大使:重光葵
>>98
平時の年功序列を気にしてたら戦争には勝てませんよ。
戦時では無能な先輩方には御下がりいただかないと。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています