>>747
>永田と小畑が決裂したのは、厳密に言っていつ頃?

昭和7年に満州事変が一段落した5月ごろから順次行われた、
いわゆる「荒木人事」の頃から徐々に関係が悪化していったようだ。

まぁ、この時期は永田と小畑が仲違いをしたというよりも、
荒木を主軸とする皇道派勢力の派閥専横っぷりを見てそれに反発した
陸軍の大多数が反感を募らせていったという方が近いが。

完全にこの両者が決裂したのは、昭和8年の6月ごろに省部の主だった
メンバーを集めた会議が行われた際に、対ソ政策や対支政策を巡っての
意見対立が下で完全に喧嘩別れに至った時だろうね。

この時は小畑が対ソ戦争を念頭に置いていたのに対して、永田その反対に
平和を維持して戦争には反対するというもので、ほぼ全面的な対立だった
といっていいようだ。


>>748
>永田は荒木や真崎をもり立てて宇垣系を排除してるが?

荒木や真崎の擁立に動いたのは確かだが、宇垣系の排斥は荒木ら皇道派が
行ったことであって、永田がそれを主導したわけでもなんでもないんだが。

というか、永田はこの皇道派の専横人事を見て愛想を尽かして反皇道派の
立場をとるようになったんだけどね。

>あのまま宇垣の影響力を残して穏健な南・金谷路線を維持するのが正解だった。

まぁ、その通りだろうね。
要するに、満州事変によって下剋上をやらかして南路線を葬り去った石原の暴走と、
その石原らと気脈を通じて十月事件を起こした桜会のクーデター未遂騒動とが
宇垣が主導した軍の近代化と穏健な大陸政策を葬り去ったわけだ。


>>749
>バーデンバーデンで結託したり

3〜4人の中堅どころの陸軍軍人がヨーロッパのどこだかで集まって
気焔をあげてたのがどうかしたのかい?

上原勇作や武藤信義といった連中の家に集まっていた後の皇道派メンバーが
打倒長州閥を誓い合っていたのと比べたってたいした違いはないんだがね。

>二葉会や一夕会の派閥を作って下克上。

荒木や真崎、小畑・山岡・松浦・山下といった連中も派閥を作っているんだが。
2・26事件を起こすことになる尉官クラスの青年将校を含めた皇道派こそが
下剋上の代表例だよ。