自由は死せず! 板垣退助氏のスレッド
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自由民権運動の主導者として名高い板垣退助氏について語りましょう。 自由っていったいなんだい
どうすりゃ自由になるかい まともな精神してたら「板垣死すとも自由は死せず」なんて
そら恥ずかしいこと言えるわけが無い 自由民権運動全般を語る方がよかったんじゃないか?
若い頃は血の気が多くて喧嘩に明け暮れ兵学書ばかり読んでいたが、
吉田東洋の感化で真面目に勉強に打ち込み、
維新後はプロテスタントに改宗し清貧な暮らしぶりの人物だったそうな。 尾崎豊が在学した青山学院もプロテスタント系らしい。
自由民権運動の人たちは、ミルの『自由論』を読んで勉強したという話だし、
自由っていったい何だ?みたいな意識が共有されているのかも。 板垣退助と後藤象二郎が手の付けられんガキ大将だったらしいな。
戊辰戦争で領民に見捨てられる会津藩士を見て
身分の差で国民同士が乖離してる状態に危機感を抱いたのが
後の自由民権運動へと繋がるんだっけ。 だったらそれ以上に上士と郷士の反目が激しかった高知藩から繋がるだろう
どこソースの話? >>13
板垣が依頼されて書いた「会津戊辰戦争」の序文じゃなかったか。
ちなみに板垣はこの時期すでに勤王派下士達と和解して協力体制。 大山や野津のように軍人であることに
徹していたら、日清戦争と日露戦争の
ヒーローだったのに... 軍人としてなら天才的だと言われていたのに
なんで政治家に転向したのやら。 征韓論に破れて下野したんじゃなかったか?
軍事的天才が在野のまま才能を発揮しようとしたら、不平士族の頭目になるしかない。
内乱に与せず自由民権運動に活路を見いだしたというのだって、軍事的な才覚の一種かも知れない。 >>18
もしかして幸徳秋水以下12名が処刑された日は、日本で自由が死んだ日?
そういえば幸徳秋水も土佐藩出身だった。
板垣退助は幸徳秋水よりも長生きしているけど、何を思ったかな。 幸徳の大逆事件は第一次大戦前夜の欧米の爆弾テロブームを過剰に
警戒してた当局による過剰防衛やね。
国際テロをめざしたアナキストによる爆弾投げは当時のブームだった。 >>17
そういえば土佐は不平士族の反乱起きなかったな。
自由民権運動と関係あるのか? >>13
普通だったら、領民は侵略者に対して協力をあまりしないモノなのに、
会津の場合は、領民が積極的に道案内をしたからな。
だから、板垣は思うとこがあったみたい。 >>22
宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名を除いては
幸徳をはじめとする全国の社会主義者を一網打尽にしたい政府の暗黒裁判とも言われている。
幸徳 秋水
少年時代より自由民権運動に関心を持ち、15歳の時「自由新聞」の読者となる。
その後、中江兆民の書生となり、終生恩師として仰ぎ、思想的にも人格的にも大きな影響を受けた。
新聞記者としての秋水は文筆家としての名声を高めるとともに、種々の社会問題に接して次第に社会主義思想に傾いていった。
明治34年社会民主党を組織し、直ちに解散させられたが、社会主義協会に結集し活動を続けた。
「二十世紀の怪物帝国主義」の論文はこの年出版、レーニンの帝国主義論に先んずること15年、先駆的理論家としての驚異に値する。
日露戦争中、非戦論を唱え活発な反戦活動を唱え活発な反戦活動を続けた。
明治38年平民新聞筆禍事件の編集者として入獄中、エンゲルスやクロポトキンの論文を読んで無政府主義に関心を抱くようになった。
出獄後、アメリカに渡り、オークランド、ロシア革命記念集会で演説を行う等、大いに活躍。ロシア革命に共鳴して、サンディカリズムの傾向を強くしていった。
この間に書かれた論文で日米戦争を予言し、戦争回避を絶叫したのは名高く、洞察力は英才の一面を表したものである。
帰国後、第2回社会党大会で直接行動論を唱え、議会政策論者とのはげしい論争がはじまり、ついに2派に分裂した。
こうして見ると面白い人物だな。 >>19
権力に逆らっては叩き潰されるのが
土佐人の一種の定番なのかも 藩閥政府の非主流派かも。
中江兆民による「一身多頭の怪物」という表現には、インサイダー臭が感じられる。 板垣や幸徳の民権思想は土佐藩の中では主流派だったのだろうか、異端だったのだろうか。 天才軍人、政治も天才的。
ユリウス=カエサル
ナポレオン=ボナパルト
武田信玄
織田信長
天才軍人、政治の才能まるで無し
源義経
グラント大統領
板垣退助 政治も天才?
晩年は民権運動に私財を費やし
拝領物の刀まで手放すほど経済的に困窮していたのに。 >>28
板垣は新おこぜ組。
新おこぜ組の先生が吉田東洋で、
上士、下士の身分を撤廃しようとした人。
家督制の芸家も廃止しようとした。
吉田東洋は開明派だったので、
身分制度撤廃に反対していた藩重役の守旧派を味方に付けた
尊皇攘夷派の土佐勤皇党に暗殺された。
つまり土佐勤皇党にとっては尊皇攘夷>身分差別撤廃だった。
だから板垣は一時期は土佐勤皇党たち下士を憎んだが、
下士に暗殺された東洋の考えを汲んで和解した。
だから土佐の民権運動は東洋に遡ると言えないこともない。
武士ですらないジョン万次郎も藩校の教授だったし。
もちろん征韓論敗北による下野がきっかけだったとは思うが、
下野した人の中で全てが自由民権運動に移行したわけではなく、
板垣と後藤は民権意識が高かったのではないだろうか。 >>29
板垣が軍人だったら日露戦争は、どの位置かな。
満州軍司令官だったかも、しれませんね。 土佐勤王党が壊滅せずに勢力を盛り返したら
長州の正義派が俗論党を弾圧したように板垣、
後藤らも弾圧されて維新史から排除されただろうか? いや、長州も土佐勤皇党に相当する人たちは、
久坂を筆頭にほぼ同時期に死んでるし。 >>35
板垣退助は最初から尊皇攘夷派。
武市の存命時から協力しようという動きはあったよ。
ところで自由民権運動ってあんまり評価してない政治学者もいるみたいね。 弾圧すんのが嫌になってしばらくしたら江戸に留学して逃げましたが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています